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四話

 王都の朝は、いつもと変わらず始まっていた。


 石畳を叩く馬車の音。焼きたてのパンの匂い。露店の呼び声と、子供たちの笑い声。人の流れは途切れることなく、街はゆっくりと動き出していく。


 平和な朝だった。


 少なくとも、見える範囲では。


 レインは安宿の一階へ降りた。



 女将が椅子を整えている。


「あら、レインさん。今日も早いね」


「おはようございます。朝に勝ったので」


「毎日戦ってるねえ」


「強敵ですから」


 女将は笑い、黒パンをひとつ包んで差し出した。


「一昨日の南門の事故、知ってるかい?」


「少しだけ」


「子供が助かったんだってね。いい話だよ」


 レインは頷く。


「はい。誰も死ななかったなら、それで十分です」


 女将の手が一瞬止まる。


 それから、ゆっくり笑った。


「あんたは変わってるねえ」


「よく言われます」


 レインは銅貨を置く。


「昨日はご馳走になったので」


「別にいいのに」


「バランスが崩れるので」


「何のだい」


「気分です」


 女将は苦笑した。



 王都ギルド。


 扉を開けると、いつもの喧騒が流れ込む。


 ミアが顔を上げる。


「おはようございます、レインさん」


「おはようございます」


 カウンターの奥には、いつものようにミアがいる。


 その少し離れた壁際に、エリシアの姿があった。


 腕を組み、静かに周囲を見ている。


 明らかに“待っている側”の立ち位置だった。


 レインは少しだけ目を細める。


「……よく会いますね」


 軽い口調。


 エリシアは視線を逸らさない。


「観察対象の行動に合わせているだけだ」


 短く、事務的な返答。


 レインは一瞬だけ考える。


「では、普段はここまで顔を出さないと」


「必要がなければな」


 それだけ。


 余計な説明はない。


 レインは小さく頷いた。


「納得しました」


 それ以上は聞かない。


「では、今日は草でお願いします」


「まだ聞いてません」


「先手です」


「ずるいですね」


「安定を求めているので」


「一昨日も昨日も、安定とは言い難い日でしたよ」


「不思議ですね」


 本気で不思議そうに言う。


 その時――


「おい」


 後ろから声がした。


 ガレスだった。


 軽く肩で息をしている。


「今来たところだ」


 レインは振り返る。


「おはようございます」


「おう」


 短い返事。


「昨日の飯、足りたか?」


 レインは少し考えてから答える。


「はい。あれは豪華でした」


「安い煮込みだぞ」


「具が三種類ありました」


 一瞬の沈黙。


 そして、笑いが弾ける。


「そこかよ!」


「評価そこ!?」


 ガレスも吹き出す。


「お前な……普通そこじゃねえだろ」


「大事なので」


 レインは真顔で頷く。


 ガレスは頭を掻いた。


「……まあいい」



 その時――


 ギルドの扉が開いた。


 風が、止まった。


 酒場の笑い声が、わずかに遅れる。


 椅子の軋みが、やけに大きく聞こえる。


 誰かが落としたコップの音が、妙に遠い。


 理由を言葉にできる者はいない。


 だが、その場にいた全員が、同時に“何か”を察した。


 ――強い。


 黒い外套の三人。


 装飾はない。


 だが、隠しきれていない。


 近くにいた冒険者が、無意識に一歩退いた。


 別の者は、笑いを途中で止めた。


 視線を向けた瞬間、逸らした。


 本能が告げている。


 ――関わるな、と。


 ガレスの肩が、わずかに固まる。


 エリシアは動かない。


 ミアの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


 黒い外套の男――ヴァルドは、何も言わない。


 ただ、視線だけが動く。


 そして――


 レインで止まる。


 一瞬。


 だが、それだけで十分だった。


 レインは軽く会釈した。


 ヴァルドは何も言わず、奥へ向かう。


 だが、その場に残った空気だけが、遅れて動き出す。



「……見られてるな」


 エリシアが低く言う。


「気のせいでは?」


「違う」


「ですよね」


 レインは笑う。


「では、僕は草に」


「逃げるのか」


「はい」


「正直だな」


「大事なので」



 東の森は静かだった。


 風が葉を揺らし、鳥が鳴く。


 レインはしゃがみ、薬草を摘む。


 指先で葉を確かめる。


 根を傷つけないように。


 丁寧に。


 穏やかな時間だった。


「……いい葉だ」


 その時。


 枝が鳴る。


 レインは振り向かない。


「尾行は、あまり上手くないですね」


 数秒遅れて、男が姿を現す。


 ヴァルドの部下。


「……気づいていたか」


「森では音がよく聞こえるので」


 レインはしゃがんだまま答える。


「質問に答えろ」


「草の途中なんですが」


「重要だ」


「草も重要です」


 男の眉がひそまる。


「お前、自分の立場が分かっているのか?」


「Fランクです」


「違う」


 一歩、距離を詰める。


「監察対象だ」


 レインは少しだけ手を止める。


「困りますね」


「困るのはこちらだ」


「そうですか?」


「南門、西水路――偶然にしては出来すぎている」


「運が悪いんですかね」


「あるいは、お前が原因か」


 沈黙。


 レインは再び薬草を摘む。


「原因になるほど、何もしていませんよ」


「嘘をつくな」


「よく言われます」


 男の指が短剣の柄にかかる。


「……最後に聞く」


 低い声。


「何をした」


 レインは答えない。


 風が止まる。


 森が静まる。


「答えないなら――」


 短剣が抜かれる。


「実力で聞く」


 踏み込み。


 速い。


 鋭い。


 そして――


 レインは、動かなかった。


 避けない。防がない。


 ただ、そこに立っている。


 刃が迫る。


 あと一歩。


 その瞬間――


「やめろ」


 低い声。


 ヴァルドが現れる。


 刃は、レインの目の前で止まる。


 ほんの数センチ。


 部下は歯を食いしばる。


「監察官……!」


「下がれ」


 短く、断定的に。


 部下は舌打ちを押し殺し、短剣を収める。


 レインは少しだけ首を傾げた。


「危なかったですね」


 軽い声だった。


 まるで実感がない。


 ヴァルドは、その様子を見ていた。


 呼吸。視線。筋肉の動き。


 ――反応がない。


 それなのに、“当たる気がしなかった”。


 わずかな沈黙。


「君は何者だ」


「Fランク冒険者です」


「それは聞いた」


「では、草を採る者です」


 沈黙。


「我々は君を監視する」


「でしょうね」


「拒否しないのか」


「やめませんよね?」


「やめない」


「なら、疲れるだけです」


「……」


「また来る」


「草のない時にお願いします」



 夕方のギルドは、朝よりも騒がしかった。


 酒と笑い声。


 レインはいつも通り受付へ向かう。


「ただいまです」


「おかえりなさい。……無事でしたか?」


「はい。平和でした」


「本当に?」


「薬草が少し減ったくらいです」


 ミアは少しだけ間を置いた。


「……監察官が外に出ています」


 レインの手が一瞬止まる。


「偶然ですね」


「そう思いますか?」


「人生は偶然の連続なので」


 短い沈黙。


 エリシアが言う。


「接触したな」


「はい」


「何を言われた」


「草の話を少し」


「嘘だな」


「流行ってますね、それ」


 ガレスが言う。


「……無事だったのか」


「はい」


「そうか」


 それ以上は聞かない。


 ミアがぽつりと漏らす。


「……普通じゃないですよ、もう」


 レインは少しだけ笑った。


「それでも、そうしたいんです」



 夜。


 王都の外れ。


 黒い馬車の中。


 ランプの光が揺れている。


 ヴァルドは静かに報告書を書いていた。


「対象:レイン」


 筆が止まる。


「能力不明。確証なし」


 わずかな間。


「だが――」


 ゆっくりと書く。


「強い違和感あり」


 封をする。


「送れ」


「はっ」


 部下が受け取る。


 ヴァルドは目を閉じた。


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