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三話

翌朝の冒険者ギルドは、いつも通り騒がしかった。


 酒場側の席では、夜明け前から飲んでいた冒険者たちが安い酒を片手に笑っている。掲示板の前では、まだ貼り出されたばかりの依頼票を巡って若い冒険者たちが言い争い、訓練場の方からは木剣同士がぶつかる乾いた音が響いていた。


 受付のカウンターでは、ミアが慣れた手つきで台帳をめくっている。


 いつもの朝。


 いつもの喧騒。


 けれど、その中にひとつだけ、明らかに昨日までと違うものがあった。


 ガレスが、静かだった。


「おいガレス、今日も水かよ」


「角兎に負けて酒も弱くなったか?」


「お前、昨日から妙に大人しいぞ。熱でもあんのか?」


「うるせえ」


 短く返すだけ。


 いつものガレスなら、机を叩いて怒鳴り返していた。相手の襟を掴み、くだらない悪口を三倍にして返し、周囲の笑いをさらに大きくする。そういう男だった。


 だが今日は違う。


 酒にも手を伸ばさず、包帯の巻かれた腕を庇うようにして座っている。


 周囲の冒険者たちは、その傷を“角兎にやられたもの”だと思っていた。


 実際は違う。


 グレイホーンウルフ。


 本来なら、Dランク冒険者三人が相手をしていい魔物ではない。


 思い出すだけで、ガレスの喉が乾く。


 血の匂い。


 砕ける骨の音。


 目の前に迫る牙。


 そして――その牙を、片手で止めた男。


 Fランク冒険者、レイン。


 ガレスは無意識にギルドの入口を見た。


 来る。


 なぜか、そう思った。


 理由は分からない。だが、この数日で彼は理解し始めていた。


 あの男は、こちらの常識の外側にいる。


 そして常識の外側にいるくせに、毎朝当然のようにギルドへ来て、銅貨何枚かの依頼で嬉しそうに笑う。


 扉が開いた。


「おはようございます」


 くたびれた外套。


 安物の短剣。


 少し眠そうな顔。


 レインだった。


 昨日、南門で倒れた荷車を浮かせた男。


 一昨日、空に向かって一言だけ呟き、何かを断ち切った男。


 それが今日も、何も起きていないような顔で、受付へ向かう。


「レインさん、おはようございます」


 ミアが顔を上げる。


「おはようございます。今日も朝に勝ちました」


「おめでとうございます」


「かなりの激戦でした」


「布団ですか?」


「はい。あれは強いです」


「分かりますけど、冒険者としてはどうなんでしょうね」


「布団から出られる者だけが、今日を生きられるんです」


「やたら壮大ですね……」


 ミアが小さく笑う。


 周囲の冒険者も何人かが笑った。


 いつもの軽いやり取り。


 Fランクの冴えない男が、受付嬢に妙なことを言っているだけ。


 それだけの光景。


 だが、ガレスにはもうそう見えない。


 レインの歩き方が気になる。


 床板が軋まない。


 人混みを抜ける時、誰にもぶつからない。


 避けているようにも見えないのに、自然と人の隙間を通っている。


 力がある者の歩き方ではない。


 鍛えた者の歩き方でもない。


 そこにいるのに、どこか存在が薄い。


 いや、違う。


 薄く見せている。


 そんな気がした。


「今日はどの依頼にしますか?」


「草があれば草で」


「草から離れませんね」


「草は裏切らないので」


「草に何を求めてるんですか……」


「安定です」


「冒険者が一番求めちゃいけないものでは?」


「だからFランクなんでしょうね」


 レインは自分で言って、少し笑った。


 ミアは依頼票の束に手を伸ばす。


 その時だった。


「少し、いいか」


 静かだが、よく通る声が割り込んだ。


 ギルド内の空気が、わずかに変わる。


 騒いでいた冒険者たちの何人かが口を閉じ、掲示板の前にいた若者たちも視線を向けた。


 銀灰色の髪をした女が立っていた。


 年齢は二十代半ばほど。


 軽装ではあるが、その装備に無駄はない。腰には細身の剣。背筋はまっすぐで、ただ立っているだけなのに、周囲の空気を引き締めるような存在感がある。


 美しい女だった。


 だが、その美しさは花のようなものではない。


 磨かれた刃のような美しさだった。


「エリシアだ……」


「銀剣のエリシア」


「Bランクだろ? なんでこんな朝から」


 エリシア。


 王都ギルド所属のBランク冒険者。


 討伐、護衛、調査のいずれも高い成功率を誇る実力者。特に観察眼に優れ、魔物の異常発生や罠の兆候を見抜くことで知られている。


 そのエリシアが、まっすぐレインを見ていた。


「あなたがレインか」


「はい。たぶん」


「たぶん?」


「寝起きなので、少し自信がありません」


 エリシアの眉がわずかに動く。


 笑ったわけではない。


 ただ、反応した。


「昨日、南門の事故現場にいたな」


「いましたね」


「荷車を動かしたのは、あなたか」


 ギルド内が静かになる。


 ガレスが、水を飲む手を止めた。


 ミアも表情を変えないまま、視線だけをレインへ向ける。


 レインは少し考えてから答えた。


「みんなで頑張りました」


「私は“あなたが”と聞いた」


「では、少しだけ手伝いました」


「少しだけ?」


「荷車が気分を変えるきっかけくらいには」


「荷車に気分はない」


「たしかに」


 レインは納得したように頷いた。


 その仕草があまりにも自然で、周囲の数人が吹き出しかける。


 だがエリシアは笑わなかった。


 彼女は一歩、レインへ近づく。


「あなたはFランクだな」


「はい」


「なぜFランクが、あの重さの荷車を動かせる」


「事故場の馬鹿力ですかね」


「そんな言葉はない」


「今できました」


「ふざけているのか」


「いえ」


 レインは軽く首を傾げる。


「割と真面目に逃げています」


「逃げている?」


「あ、今のは言葉の綾です」


 レインは笑った。


 軽い笑み。


 だが、ミアにはその笑いが少しだけ悲しく見えた。


 エリシアは彼を観察している。


 表情、視線、手の位置、呼吸の間。


 そして、おそらく気づいている。


 レインの言葉が、冗談の形をしているだけだと。


「西水路の異臭調査を受ける」


 エリシアは受付台に一枚の依頼票を置いた。


 ミアが確認する。


「西水路の異臭調査……推奨ランクはD以上ですね。単独受注も可能ですが」


「同行者にレインを指名する」


「え?」


 ミアが思わず声を漏らした。


 ギルド内もざわつく。


「Fランクを連れていくのか?」


「荷物持ちか?」


「いや、エリシアがわざわざ指名するって……」


 レインは自分を指差した。


「僕ですか?」


「そうだ」


「草の予定が」


「草は逃げない」


「油断していると枯れますよ」


「水路の異臭は、魔物の巣の兆候かもしれない」


「それは危ないですね」


「だから来てほしい」


「危ないなら、僕は向いていないのでは?」


「危ない場所で、あなたがどうするのか見たい」


 隠す気のない言葉だった。


 探っている。


 しかも、それを隠していない。


 レインは困ったように頭を掻いた。


「観察対象ですか」


「そうだ」


「正直ですね」


「回りくどいのは苦手だ」


「僕は回りくどい方が得意なんですが」


「見れば分かる」


 その瞬間、レインの目がほんの少しだけ細くなった。


 空気が、薄くなる。


 ギルドの喧騒が遠くなるような一瞬。


 ガレスの背筋に冷たいものが走った。


 だが、すぐに戻る。


「……分かりました」


 レインはいつもの顔で頷いた。


「受けるのか」


「はい。危ないかもしれないなら、誰かが行った方がいいですし」


「あなたは危ないことが嫌いだろう」


「嫌いですよ」


 レインは自然に答えた。


「でも、もっと嫌いなこともあります」


「何だ」


「後で知って、寝つきが悪くなることです」


 エリシアの呼吸が、わずかに止まる。


 軽い口調だった。


 だが、その奥にあるものは軽くなかった。


 ミアは台帳に記入する。


「では、レインさんは同行者として登録します。報酬は調査完了で銀貨一枚。危険が確認された場合は追加報酬です」


「銀貨」


 レインの顔が真剣になる。


「スープ何杯分ですか?」


「そこですか」


「重要です」


 エリシアが初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 西水路は、王都外縁にある古い排水路だった。


 生活排水と雨水を逃がすために作られた場所だが、近年は使われなくなった区画も多い。そうした場所には、小型魔物や野犬、時には盗人まがいの者が住み着くこともある。


 石造りの通路は湿っていた。


 壁には苔が張りつき、古い鉄格子は赤く錆びている。水路の底を流れる水は黒く濁り、腐った木材と泥の匂いが混ざって鼻を刺した。


 昼前だというのに、薄暗い。


 外の明るさが嘘のようだった。


 レインは鼻を押さえる。


「これはなかなか」


「異臭調査だからな」


「依頼内容に偽りなしですね」


「緊張感がないな」


「緊張すると疲れるので」


「魔物が出るかもしれない」


「出ない方に期待しています」


「冒険者らしくない」


「よく言われます」


 二人は並んで歩く。


 エリシアは横目でレインを観察していた。


 歩き方がおかしい。


 いや、おかしいほど自然だった。


 濡れた石畳の上でも足が滑らない。ぬかるみに足を置いても、靴底に泥がほとんど付かない。狭い通路を歩いているのに、外套の裾が壁に触れない。


 意識している様子はない。


 少なくとも、そう見える。


 だが、ありえない。


 訓練された剣士なら、足運びで分かる。狩人なら、呼吸で分かる。暗殺者なら、気配の消し方で分かる。


 だがレインは、そのどれでもなかった。


 もっと根本的に、世界との接し方が違う。


「あなたは、どこで戦い方を学んだ」


「戦い方ですか」


「そうだ」


「できれば、学びたくなかったですね」


 即答だった。


 エリシアは言葉に詰まる。


 その声には、冗談がなかった。


 軽さもなかった。


 一瞬だけ、レインの背中が遠く見えた。


「……すまない」


「いえ。よくある話です」


「よくある話には聞こえない」


「人によります」


 それきり、しばらく二人は黙って歩いた。


 水音だけが響く。


 奥へ進むほど、臭いは濃くなる。


 水路の壁には黒ずんだ染みが増え、空気は湿り気を帯びて重くなっていく。


 やがて、エリシアが足を止めた。


「止まれ」


 前方の暗がり。


 壁に黒い粘液のようなものが付着していた。


「魔物の痕跡だ」


「詳しいですね」


「仕事だからな」


 エリシアは膝をつき、粘液を指先で確認する。直接触れず、小さな金属片で掬い取って匂いを嗅ぐ。


「おそらくマッドスライム。数は多くない。だが、奥に巣がある可能性が高い」


「引き返しますか?」


「調査依頼だ。巣の有無を確認する」


「真面目ですね」


「あなたは不真面目すぎる」


「普通を目指しています」


「それは普通ではない」


 レインは少し笑った。


「それ、昨日も似たようなことを言われました」


「ミアか?」


「はい」


「彼女は人を見る目がある」


「そうなんですか?」


「少なくとも、あなたがおかしいことには気づいている」


「おかしいですか」


「おかしい」


「困りましたね。普通にしているだけなんですが」


 エリシアは立ち上がり、まっすぐレインを見た。


「それが普通じゃない」


 水音だけが響いた。


 レインは少し黙る。


 そして、困ったように笑った。


「難しいなあ」


 その時、水面が膨れた。


 黒い泥の塊が、音もなく起き上がる。


 マッドスライム。


 一体ではない。


 二体、三体、五体。


 水路の奥から、ぬるりと這い出すように現れる。


 エリシアは即座に剣を抜いた。


「下がれ」


「はい」


 レインは素直に下がった。


 本当に素直に、壁際まで下がる。


 エリシアは一瞬だけ拍子抜けしそうになったが、すぐに意識を切り替えた。


 マッドスライムは、決して油断していい相手ではない。


 斬撃は通りづらい。酸性の体液で武器を傷める。核を正確に破壊しなければ、何度でも形を戻す。数で囲まれれば、Bランクであっても厄介な魔物だ。


「火属性の道具は?」


「持ってないです」


「なら無理に動くな」


「分かりました」


 レインは壁際に立ち、真面目に頷いた。


 エリシアは踏み込む。


 細身の剣が、暗い水路の中で銀の線を描いた。


 一体目。


 核を斬る。


 二体目。


 跳ねた泥をかわし、横薙ぎに核だけを裂く。


 三体目が横から迫る。


 エリシアは半歩下がり、剣の腹で軌道をずらす。すぐに切り返し、中心部を突いた。


 鮮やかだった。


 無駄がない。


 だが、数が多い。


 奥からさらに三体。


 そのうち一体が、壁際のレインへ向かった。


「レイン!」


 エリシアが叫ぶ。


 マッドスライムが跳ねる。


 酸を含んだ泥が、レインの顔面へ飛んだ。


 間に合わない。


 そう思った。


 だが、泥はレインの手前で落ちた。


 べちゃり、と石畳に落ちる。


 不自然に。


 まるで、見えない壁に阻まれたわけではない。


 弾かれたわけでもない。


 ただ、そこから先へ進むことを、泥自身がやめたように。


「……あ」


 レインは目を瞬かせた。


「避けた方が自然でしたね」


 エリシアの手が一瞬止まりかける。


 だが、すぐに最後の一体へ向き直る。


 剣が閃く。


 核が砕け、マッドスライムの体が崩れた。


 静寂。


 濁った水音だけが戻る。


 エリシアは肩で息をしながら、レインを見る。


 レインは外套についた小さな泥を払っていた。


「服が汚れるところでした」


「そこか」


「洗濯は手間なので」


 エリシアは剣を下ろさない。


 数秒、黙ったままレインを見つめた。


 そして低く言う。


「……今、何をした」


「たまたまです」


「違う」


 即答だった。


「魔法じゃない。詠唱も、魔力の流れもなかった」


 レインは何も言わない。


 エリシアは一歩近づく。


「それに――」


 視線が鋭くなる。


「泥は“落ちた”んじゃない」


 わずかな間。


「“届くのをやめた”」


 水音がやけに大きく響いた。


 レインの表情が、ほんの一瞬だけ消える。


 だが、すぐに戻った。


「表現が詩的ですね」


「誤魔化すな」


 怒っているのではない。


 恐れているのでもない。


 ただ、逃がさないという意思がある。


「あなた……昨日、空を見ていたな」


 レインの動きが止まった。


 ほんのわずか。


 だが確かに。


「南門の事故の時だ」


 エリシアは続ける。


「荷車を動かした直後、あなたは上を見た」


 レインは黙っている。


「そして、何かを言った」


 静寂。


「その瞬間、空気が変わった」


 レインは、ゆっくりと息を吐いた。


 そして困ったように笑う。


「気のせいでは?」


「私は、そういう仕事をしている」


 エリシアの視線は逸れない。


「気のせいかどうかは、分かる」


 レインは少しだけ目を細めた。


 ほんの一瞬。


 あの時と同じ“薄さ”が空気に混じる。


 だが、すぐに消えた。


「……困りましたね」


 軽い声。


 だが、その奥にわずかな諦めが混じっている。


「何がだ」


「見られると、面倒なんです」


「それだけか?」


「それだけです」


「嘘だ」


 レインは少し笑った。


「よく言われます」


 エリシアはさらに一歩、踏み込んだ。


「あなたは、自分が何をしているか分かっている」


「そうですね」


「そして、それを隠している」


「はい」


「なぜだ」


 レインは答えない。


 水路の底を流れる濁った水を見る。


 揺れる水面に、自分の顔が歪んで映っている。


 しばらくして、ぽつりと言葉が落ちた。


「……期待されると」


 エリシアは黙って聞いた。


「壊してしまうので」


 彼女の呼吸が、わずかに止まる。


 レインはすぐに、いつもの顔へ戻った。


「なので、ほどほどがいいんです」


 笑う。


 いつも通りに。


 だが、その笑みの奥にあるものを、エリシアは見てしまった気がした。


 それは後悔ではない。


 罪悪感でもない。


 もっと深く、長く、乾いたもの。


 長い時間をかけて、自分自身に言い聞かせ続けてきた諦め。


「あなたは、逃げている」


 エリシアは言った。


「はい」


 レインはあっさり頷く。


「かなり全力で」


 エリシアは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「正直だな」


「回りくどいのは苦手なので」


「さっきは得意だと言っていた」


「状況によります」


 短い沈黙。


 その沈黙は、不思議と重くはなかった。


 エリシアは剣を鞘に収めた。


「私は、あなたを詮索する」


「宣言するんですね」


「隠れて探るよりはいい」


「それは助かります」


「なぜだ」


「準備ができるので」


「何の準備だ」


「普通に見える準備です」


 レインは笑った。


「それが一番難しいので」


 エリシアは何も返せなかった。


 西水路の調査は、マッドスライムの小規模な巣を確認したことで終了となった。


 後日、討伐隊が組まれることになる。


 帰り道、二人は並んで歩いた。


 外へ出ると、昼の光が眩しかった。


 水路の暗さに慣れた目には、王都の街並みが少しだけ現実味を失って見える。


「レイン」


「はい」


「私はあなたの敵になるつもりはない」


 レインは横目で見る。


「なぜですか?」


「あなたは子供を助けた。魔物も無闇に殺さなかった。今日も私が怪我をしないように、何かをした」


「たまたまです」


「たまたまが多すぎる」


「人生は偶然の連続なので」


「ごまかすな」


「努力します」


 エリシアは小さく息を吐いた。


「あなたが何者でも、今のところ悪人には見えない」


「今のところ」


「そこは重要だ」


「厳しいですね」


「人を見る仕事をしている」


 レインは笑った。


「じゃあ、ほどほどにお願いします」


「何をだ」


「見るのを」


 エリシアの足が、ほんの一瞬止まる。


 その言葉は軽かった。


 だが、軽いだけではなかった。


 エリシアは知らない。


 昨日、彼が空に向かって何と言ったのか。


 知らないからこそ、正面から受け止めた。


「なら、見られて困らないようにすればいい」


「それが難しいんです」


「普通に生きたいなら、なおさらだ」


「耳が痛いですね」


 レインは苦笑した。


 王都ギルドへ戻ると、ミアが二人を出迎えた。


「おかえりなさい。ご無事で何よりです」


「マッドスライムの巣があった。小規模だが、放置すれば増える」


 エリシアが簡潔に報告する。


 ミアはすぐに記録を取った。


「討伐隊を手配します。レインさんは大丈夫でしたか?」


「はい。平和でした」


「マッドスライムの巣があって平和ですか」


「誰も死にませんでしたから」


 ミアの手が止まる。


 昨日と同じ言葉。


 エリシアも、その言葉に反応した。


「……あなたの平和は、基準が低いな」


「低い方が、拾いやすいので」


 レインは報酬の銀貨を受け取る。


 掌の上で、銀貨が一枚光る。


「これは……すごいですね」


「銀貨一枚でそこまで感動しますか」


「今日は大勝利です」


「何と戦ってるんですか」


 ミアが問う。


 レインはいつものように答えた。


「生活です」


 その瞬間、酒場側からガレスの声が飛んだ。


「おい、レイン」


「はい?」


 ガレスは気まずそうに顔をしかめる。


「……飯、奢ってやる」


 周囲がざわつく。


「おいおい、角兎英雄様がFランクに飯かよ」


「何だその組み合わせ」


「気まぐれだよ、うるせえ!」


 ガレスが怒鳴る。


 レインは不思議そうに首を傾げた。


「なぜですか?」


「理由がねえと飯も食えねえのか」


「食べられます」


「なら来い」


 レインは少し考える。


「でも、今日は銀貨があるので」


「いいから来い!」


「分かりました。では、遠慮なく安いものを」


「高いもの食えよ!」


「高いものは緊張するので」


 ギルド内で笑いが起きた。


 ミアも少し笑う。


 エリシアは、その様子を静かに見ていた。


 恐れられている男ではない。


 軽んじられているだけの男でもない。


 奇妙な距離で、人の中にいる。


 だが、その中心には底の見えない穴がある。


 誰かが深く覗けば、戻れなくなるような穴が。


 その夜。


 王都の外れに、一台の黒い馬車が入った。


 紋章はない。


 だが、馬車を護衛する者たちの装備は明らかに軍のものだった。


 中に座る男は、黒い軍服に身を包んでいる。


 封蝋の押された報告書を開き、低く呟いた。


「王都ギルド所属。登録名、レイン。Fランク冒険者」


 向かいに座る部下が言う。


「本当に、その男が?」


「まだ断定はできない」


 軍服の男は報告書を閉じた。


「だが、反応は二件。南門事故と、西水路」


「では……」


「百年前に消息を絶った“神殺し”が、王都にいる可能性がある」


 部下の顔が強張る。


「接触しますか」


「不用意な接触は死を招く」


「では?」


「まず観察する」


 軍服の男は、馬車の小窓から王都の灯りを見た。


「連合国同盟第七監察官、ヴァルド・レグナスの名において、対象の存在を確認する」


 夜風が吹く。


 王都は何も知らず、穏やかに眠っている。


 ヴァルドは静かに呟いた。


「――見つけた」


 その頃。


 王都ギルドの酒場で、レインはガレスに奢られた安い煮込みを食べていた。


「熱いですね」


「冷まして食え」


「それは盲点でした」


「お前、時々本当に馬鹿なのか分かんねえな」


「よく言われます」


「誰にだよ」


「いろんな人に」


 ガレスは呆れたように笑った。


 少し離れた席で、ミアが帳簿を閉じる。


 そのさらに向こうで、エリシアが静かにレインを見ていた。


 レインはそれに気づいている。


 気づいた上で、煮込みの芋を口に運ぶ。


「……今日は、豪華だな」


 心から満足そうに、そう呟いた。


 その小さな平穏を壊すために、世界の方が近づいてきているとも知らないふりをして。

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