二話
翌朝、冒険者ギルドの空気は少しだけ変わっていた。
酒臭い笑い声もある。依頼票を奪い合う声もある。受付嬢のミアが書類を捌く音も、訓練場から響く剣戟も、昨日までと何も変わらない。
けれど、ひとつだけ違うものがあった。
Dランク冒険者のガレスが、妙に静かだった。
「おいガレス、どうした? 昨日から大人しいじゃねえか」
「角兎に負けたショックか?」
「やめろよ、泣くだろ」
仲間たちの笑い声が飛ぶ。
ガレスはいつもなら怒鳴り返す。机を叩く。相手の胸ぐらを掴む。そういう男だった。
だが今日は違った。
「……うるせえよ」
短く返しただけで、酒にも手を伸ばさない。
彼の腕には包帯が巻かれていた。
昨日の傷だ。
ギルドの連中は、それを角兎にやられた傷だと思っている。
実際は違う。
グレイホーンウルフ。
本来ならDランク三人など、十秒も持たずに食い殺される相手。
そして、それを片手で止めたFランクの男。
レイン。
ガレスは無意識に、ギルドの入口を見た。
来る。
なぜか、そう思った。
そして本当に、扉が開いた。
「おはようございます」
くたびれた外套。
安物の短剣。
気の抜けたような顔。
昨日、空を黙らせた男とは思えない。
レインはいつものように、少し猫背気味にギルドへ入ってきた。
「レインさん、おはようございます」
ミアが顔を上げる。
「おはようございます。今日も無事に起きられました」
「そこも奇跡扱いなんですか?」
「朝は強敵ですから」
「低血圧なんですか?」
「生きる気力の問題です」
「重いんだか軽いんだか分かりませんね……」
レインは軽く笑った。
ギルド内の何人かが、いつものように彼を見て、すぐに興味を失う。
Fランク。
薬草採取。
草食冒険者。
いつものレインだ。
だが、ガレスだけは違った。
昨日から、彼の目にはもうそう見えない。
歩くたびに床が軋まないことが不気味だった。
あれほどの力を持つ者が、なぜこんなに軽く歩ける。
あれほどの何かを断ち切った者が、なぜ銅貨十五枚で嬉しそうにできる。
意味が分からない。
それが怖かった。
「今日はどの依頼にしますか?」
「草があれば草で」
「ありますけど……昨日も薬草でしたよね?」
「毎日食べても飽きないものってあるじゃないですか」
「薬草は食べません」
「そうでした」
レインは真面目な顔で頷いた。
ミアは依頼票を差し出そうとして、少しだけ手を止めた。
「……レインさん」
「はい」
「昨日、東の森で本当に何もありませんでしたか?」
「平和でしたよ」
「ガレスさんたち、かなり怪我をしていました」
「角兎は強いですから」
「角兎でああはなりません」
「鍛えた角兎だったのかもしれません」
「鍛えた角兎って何ですか」
「向上心のある角兎です」
ミアは黙った。
レインはいつも通り笑っている。
逃げている。
そう感じた。
嘘が下手なのではない。
むしろ、うまいのかもしれない。
大事なところだけ、ふわりと避ける。
触れようとすると、何もない場所を掴まされる。
「……では、今日は別の依頼にしませんか?」
「草以外ですか」
「はい」
ミアは一枚の依頼票を取り出した。
「倉庫整理です」
「倉庫整理」
「討伐ではありません。ギルド裏の備品倉庫です。壊れた木箱や古い武具を仕分けて、棚を組み直すだけです」
「いいですね。すごく平和そうです」
「報酬は銅貨二十枚です」
「五枚も増えるんですか」
「はい」
「スープに具を足せますね」
「そこ基準なんですね……」
ミアは依頼票を渡した。
正直なところ、これは観察だった。
東の森で何があったのか、レインは話さない。
ならば、近くで見ればいい。
戦闘ではなく、ただの雑務。
そこで何か分かるかもしれない。
「では、裏の倉庫へお願いします。私も後で確認に行きます」
「分かりました」
レインは依頼票を持って、ギルド裏へ向かう。
その背中を、ガレスが見ていた。
「……おい、ガレス」
仲間のひとりが小声で言う。
「あいつ、本当に何なんだ?」
「知らねえよ」
「昨日のこと、やっぱ言った方がいいんじゃねえか?」
「誰にだよ」
「ギルド長とか」
「言えるか? Fランクがグレイホーンを片手で止めました。空に向かって何か言ったら世界が止まりましたって」
仲間は黙った。
ガレスは拳を握る。
「それに……言うなって言われた」
「怖いのか?」
「怖いに決まってんだろ」
ガレスは低く言った。
そして、少し間を置いて続ける。
「でも、そうじゃねえ」
「じゃあ何だよ」
「……命の恩人を売るみてえで、嫌なんだよ」
仲間は驚いたように目を見開いた。
ガレスは顔をそむける。
「笑うなよ」
「笑わねえよ」
沈黙。
その頃、レインはギルド裏の倉庫にいた。
倉庫の中は、想像以上に荒れていた。
壊れた盾、錆びた剣、割れた木箱、古いロープ、用途不明の金具。壁際には棚が傾き、奥には大きな荷車が半分壊れた状態で置かれている。
「これは……やりがいがありますね」
レインは外套の袖をまくった。
ただし、まくり方が妙にゆるい。
本気を出す気はまるでない。
「壊れたものは右。使えるものは左。よく分からないものは……真ん中」
独り言を言いながら、ひとつずつ仕分けていく。
壊れた盾を持ち上げる。
普通なら両手で抱える重さ。
レインは片手で軽く持った。
そして一瞬、考える。
「あ、重そうにした方がいいか」
わざと両手に持ち替え、腰を曲げる。
「よいしょ」
誰も見ていない。
だが、癖だった。
普通に見えるようにする。
力を隠す。
目立たない。
期待されない。
それが一番いい。
けれど、すぐ近くに誰かがいた。
ミアだ。
扉の陰から、彼女はその様子を見ていた。
今、片手で持った。
明らかに重い盾を。
しかもその後、わざわざ重そうに持ち直した。
ミアは口元を押さえる。
やはり、おかしい。
レインは壊れた棚の前に立つ。
「これは倒れますね」
棚は大きく傾いていた。
普通なら二、三人で支えながら直す必要がある。
レインは片手で棚を押さえた。
それだけで、ぎしりと音を立てて棚がまっすぐになる。
「釘が緩いのか」
落ちていた釘を拾う。
金槌を探す。
見当たらない。
「まあ、いいか」
指先で釘の頭を押した。
す、と釘が木材に沈む。
まるで柔らかい土に棒を差すように。
ミアは息を止めた。
レインは気づかないふりをしている。
いや、気づいているのかもしれない。
どちらか分からない。
その時、倉庫の奥から小さな音がした。
かたり。
次いで、低い唸り声。
「……ん?」
レインが顔を向ける。
奥の積み荷の陰。
そこに、小さな魔物がいた。
黒い毛並みの鼠型魔物。
シャドウラット。
本来は弱い魔物だ。
だが厄介なのは、物陰に潜み、毒を持つ牙で噛みつくこと。
倉庫に紛れ込むことも珍しくない。
ミアが思わず声を上げる。
「レインさん、危ない!」
シャドウラットが飛びかかった。
レインは振り返った。
遅い。
普通なら噛まれる。
ミアはそう思った。
だが、次の瞬間。
シャドウラットは空中で止まった。
いや、正確には、レインが首根っこを摘まんでいた。
「おっと」
レインは目を丸くする。
「元気ですね」
シャドウラットは必死に暴れる。
レインは困った顔をした。
「噛むのは困るなあ。毒ありますよね、君」
「レ、レインさん……」
「あ、ミアさん。見てました?」
「見てました」
「今のは、たまたまです」
「何がですか」
「鼠の方から手に入ってきたというか」
「そんなことあります?」
「珍しいこともあるものですね」
ミアはもう突っ込む気力を失いかけていた。
レインはシャドウラットを見つめる。
「外に出しますね」
「討伐対象ですよ?」
「でも、倉庫に入っただけですし」
「毒持ちです」
「噛まれなければ大丈夫です」
「それはそうですが……」
レインは倉庫の外へ出て、裏庭の隅にシャドウラットを置いた。
「次は森に行きなさい。倉庫は食べ物が少ないので」
シャドウラットは一瞬だけレインを見上げた。
そして、全力で逃げた。
ミアはその背中を見送ってから、レインを見る。
「……レインさん」
「はい」
「今、普通なら討伐します」
「そうなんですか?」
「はい」
「じゃあ、普通って難しいですね」
レインは本気でそう言った。
ミアは返す言葉を失った。
普通。
彼は何度も、その言葉を使う。
だが彼にとっての普通は、どこかズレている。
誰かに馬鹿にされても笑う。
危険な魔物を逃がす。
重い盾を片手で持ち、重そうに持ち直す。
釘を指で押し込む。
そして、それを隠しきれていると思っている。
「レインさんは……普通に生きたいんですか?」
気づけば、ミアはそう尋ねていた。
レインの手が止まる。
ほんの一瞬。
空気が薄くなったような気がした。
「……そうですね」
レインは笑った。
いつもの軽い笑み。
「できれば」
「できれば?」
「普通に生きるのって、思ったより難しいので」
その言葉は、冗談のようで。
けれど、冗談ではなかった。
ミアはそれ以上聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
その日の昼過ぎ。
倉庫整理は予定よりずっと早く終わった。
あれほど荒れていた倉庫が、見違えるほど綺麗になっている。
棚はまっすぐに直り、壊れた武具は分類され、使える備品は綺麗に積み直されていた。
ミアは台帳を確認しながら言う。
「……早いですね」
「頑張りました」
「一人で半日かからない量ではないんですが」
「整理整頓は得意なので」
「そういう問題でしょうか」
レインは銅貨二十枚を受け取り、満足そうに頷く。
「今日は具入りスープです」
「幸せの基準が低いですね」
「低い方が、拾いやすいですから」
ミアはまた、言葉に詰まった。
軽い。
でも深い。
この人は、本当に何を見てきたのだろう。
その時、ギルドの入口が乱暴に開いた。
「ミア!」
駆け込んできたのは、若い冒険者だった。
顔が青い。
「南門近くの馬車道で事故だ! 荷車が倒れて、子供が下敷きになってる!」
ギルド内がざわつく。
「衛兵は?」
「呼びに行ってる! でも、荷車が重すぎて動かねえ!」
「冒険者を何人か出せ!」
ギルド内の男たちが立ち上がる。
ガレスも立った。
腕の傷が痛むが、そんなことを言っている場合ではない。
「俺も行く」
その声を聞いたレインは、銅貨を袋にしまう途中で止まった。
子供。
下敷き。
間に合わないかもしれない。
「……」
レインは少しだけ天井を見た。
目立ちたくない。
関わりたくない。
けれど。
「向いてないなあ」
小さく呟く。
誰にも聞こえないくらいの声で。
レインは外へ出た。
南門近くの馬車道には、すでに人だかりができていた。
倒れた荷車。
散らばる木箱。
その下から、小さな手が見えている。
母親らしき女性が泣き叫んでいた。
「お願い! 誰か! 誰か助けて!」
冒険者たちが荷車に手をかける。
「せーの!」
動かない。
荷車は積み荷ごと横倒しになり、さらに車輪が壊れて地面に食い込んでいる。
「もっと人数を!」
「下手に動かすと崩れるぞ!」
「子供が潰れる!」
混乱。
焦り。
恐怖。
レインはその輪の外に立っていた。
ガレスが彼に気づく。
「レイン……」
レインは人混みを見た。
ここで力を使えば、目立つ。
間違いなく。
昨日より多くの人間が見る。
噂になる。
ギルドに届く。
いずれ、もっと大きなものが動く。
分かっている。
でも、母親の声が耳に刺さる。
「助けて……! お願い……!」
レインは息を吐いた。
「すみません、少し通ります」
人混みを抜ける。
「おい、何してる! 危ねえぞ!」
「Fランクが出てくるな!」
誰かが叫ぶ。
レインは荷車の前でしゃがんだ。
下敷きになっている子供と目が合う。
まだ意識がある。
だが、呼吸が浅い。
「怖いですか?」
子供は小さく頷いた。
「大丈夫です」
レインは笑う。
「すぐ終わります」
荷車に手を添える。
力を入れない。
入れすぎない。
ただ、必要な分だけ。
木がきしむ。
重みがずれる。
荷車が、ほんの少し浮いた。
「今です」
ガレスが叫ぶ。
「引っ張れ!」
冒険者たちが子供を引き出す。
母親が泣きながら抱きしめる。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
周囲から歓声が上がる。
だが、誰も気づいていない。
荷車を浮かせたのが誰か。
なぜなら、ガレスが前に出ていたからだ。
「早く離れろ! 崩れるぞ!」
彼が叫び、人々の視線を集めた。
その隙に、レインは静かに後ろへ下がる。
ガレスだけが、それを見ていた。
レインは軽く指を立てる。
内緒で。
そんな顔。
ガレスは苦い顔をした。
「……借りが増えたじゃねえか」
レインは聞こえないふりをした。
夕方。
ギルドには、南門の事故の話が広がっていた。
「ガレスが子供を助けたらしいぞ」
「昨日は角兎に負けたのに今日は英雄かよ」
「振れ幅すげえな」
からかい混じりの声。
だが、悪意は薄い。
ガレスは不機嫌そうに座っていた。
「俺じゃねえよ」
「何だよ照れるなって」
「本当に俺じゃねえ」
そう言って、ちらりとレインを見る。
レインはカウンターで報酬の銅貨を数えていた。
「二十枚……具入り……」
「そんなに嬉しいですか?」
「はい。今日はかなり勝ちました」
「何と戦ってるんですか」
「生活です」
ミアは苦笑しながらも、視線を落とした。
南門の件。
誰がやったのか。
彼女には分かっていた。
証拠はない。
けれど、今日一日で確信に変わった。
レインは弱くない。
ただ、弱く見せている。
それも、必死に。
「レインさん」
「はい」
「あなたは……」
言いかけて、ミアは止まった。
聞いてはいけない。
今はまだ。
「いえ。お疲れさまでした」
「はい。平和な一日でした」
「平和……でしたか?」
「はい」
レインは笑った。
「誰も死にませんでしたから」
その一言に、ミアは何も言えなくなった。
その夜。
王城地下の封印記録室では、砕けた水晶の破片が回収されていた。
老人の管理官は、震える手で報告書を書いている。
その前に、黒い軍服の男が立っていた。
「間違いないのか」
「はい……反応は一瞬でしたが、記録は確かです」
「神殺し」
「百年前に消息を絶った、あの男です」
軍服の男は沈黙した。
そして、低く言う。
「連合国同盟に報告する」
「よろしいのですか? 下手に刺激すれば……」
「放置すれば、もっと悪い」
管理官は青ざめる。
軍服の男は、砕けた水晶を見下ろした。
「世界は、あれを許してはならない」
同じ頃。
安宿の小さな部屋で、レインは具入りスープを飲んでいた。
「……具がある」
心底嬉しそうに呟く。
そして、少しだけ笑った。
「今日は、いい日だったな」
窓の外では、王都の夜が静かに更けていく。
その静けさの裏側で、彼を探す歯車が、ひとつ音を立てて回り始めていた。




