一話
冒険者ギルドの朝は、だいたい騒がしい。
酒と金と命の話が、同じ温度で転がっている場所だ。
ここにいる連中は、自分が死ぬ未来を深く考えない。
――考えても、意味はないけど。
レインは扉を押し開けた。
視線がいくつか向く。
そして、すぐに逸れる。
興味がないからだ。
それでいい。
「おはようございます」
受付カウンターの向こうで、ミアが顔を上げた。
「あ、レインさん。おはようございます」
「今日も無事に生きてます」
「報告そこですか……?」
「一応、奇跡なので」
肩をすくめる。
ミアは小さくため息をついた。
「今日はどの依頼にします?」
「草があれば草で」
「ありますけど……そろそろ上の依頼も受けませんか?」
「背伸びすると、だいたい転ぶので」
レインは軽く笑う。
その言葉の奥に、ほんの一瞬だけ重さが混じる。
ミアはそれを感じ取ったが、何も言わなかった。
「東の森の薬草採取。銅貨十五枚です」
「いいですね。今日はスープをつけられる」
「普段つけてないんですか……」
後ろから笑い声が上がる。
「出たよ、草食冒険者」
「三ヶ月でFランク据え置きって逆に才能だな」
「おいレイン、今日は石拾いか?」
「今日は草です。進化しました」
「どこがだよ!」
笑いが広がる。
レインも少し笑う。
こういう距離は、安心する。
誰も期待しない。
誰も見ない。
それがいい。
踵を返した瞬間、肩を掴まれた。
「おい、待てよ」
Dランクの男。
「荷物持ちやれよ。暇だろ」
「今日は草の予定がありまして」
「後でやれ」
「草にも都合が」
「適当言ってんじゃねえ」
力が込められる。
レインは少しだけ体重をずらした。
それだけで、男の力が逃げる。
「……あれ?」
「その角度、力が入りにくいですよ」
「は?」
「こうすると――」
軽く触れる。
手首が外へ流れる。
「いっ!? てめ……!」
「すみません。癖で」
ぱっと離す。
レインはにこりと笑った。
「お互い、ほどほどに」
男は一瞬だけ言葉を失う。
何かがおかしい。
だが、分からない。
「……チッ」
手を引く。
レインは軽く会釈して外へ出た。
――いい距離だ。
誰も踏み込まない。
東の森は静かだった。
しゃがみ込み、薬草を摘む。
風の匂い。土の湿り気。葉の音。
壊れないもの。
触れなければ。
「これはいい」
指が止まる。
音が消える。
風が止まり、森が息を潜める。
「……来たか」
悲鳴。
もう一度。
骨の砕ける音。
――景色が重なる。
炎。
崩壊。
誰かの声。
――「やめろ、レイン!」
――「逃げろ……まだ……!」
手を伸ばす。
届かない。
何も残らない。
「……関係ない」
目を開ける。
進む。
開けた場所。
朝の男たち。
そして、グレイホーンウルフ。
本来ここにいるはずのない存在。
「……くそ」
男が歯を食いしばる。
視線の先には、動けない仲間。
逃げれば助かる。
分かっている。
それでも――
「……下がるな!」
声が震える。
足も震えている。
それでも一歩、前に出た。
「来いよ……!」
剣を構える。
握る手は、白くなるほど力が入っていた。
怖い。
逃げたい。
でも、逃げられない。
その一歩だった。
狼が跳ぶ。
――その瞬間。
音が消えた。
完全な無音。
時間が、ほんの一瞬だけズレる。
牙が止まる。
「おっと」
レインがそこにいた。
片手で顎を受け止める。
男の目が見開かれる。
理解が追いつかない。
「元気だな」
軽く言う。
手首を返す。
巨体が浮く。
叩きつける。
音が遅れて来る。
地面に亀裂。
色が一瞬ズレる。
影が遅れて追いつく。
「……は?」
喉が鳴る。
「な、何が起きた……?」
息が荒くなる。
「見えなかった……」
視線が震える。
「今、何をした……?」
理解できない。
考えたくない。
ただ、怖い。
それだけが残る。
男は、無意識に一歩後ずさった。
あれは、強さじゃない。
別の何かだ。
レインは小さく息を吐いた。
「……少し派手だったか」
狼は震えている。
敵ではない。
それ以上の何かだと理解している。
「帰りなさい」
額に触れる。
「ここは違うから」
狼は逃げた。
沈黙。
男はレインを見る。
さっきまで馬鹿にしていた相手。
今は、全く別の存在に見えた。
喉が動く。
「……なんでだよ」
思わず、言葉が漏れる。
「なんで……助けた」
声は掠れていた。
レインは少しだけ困ったように笑う。
「放っておくと、寝覚めが悪いので」
「……それだけかよ」
「それだけですよ」
軽い声だった。
男は目を伏せる。
拳が震える。
悔しさか、恐怖か、それとも――
「……今のは、内緒で」
レインが言う。
「無理だろ……!」
「難しいですか?」
「当たり前だ……!」
その時。
空が歪んだ。
色が反転する。
音が逆に流れる。
見られている。
探られている。
レインの表情が消える。
ゆっくりと、空を見上げる。
「見るな」
――断たれた。
音も、気配も、存在そのものが。
一瞬、世界が止まる。
そして戻る。
「……本当に、しつこいな」
三人は地面に崩れていた。
理由は分からない。
ただ、本能が理解していた。
触れてはいけないものだと。
レインはいつもの顔に戻る。
「今の、気のせいで」
「気のせいで済むか……!」
「よくあることですよ」
「ねえよ……!」
少し間。
男はゆっくり顔を上げた。
「……言わねえよ」
「助かります」
「言っても信じられねえ」
「それも助かります」
少しだけ、間が空く。
男は視線を逸らしながら言った。
「……朝は、悪かった」
レインは少しだけ笑う。
「いえ、ああいうの嫌いじゃないです」
「変なやつだな」
「よく言われます」
男は、わずかに笑った。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
ギルドへ戻る。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
「薬草は?」
「豊作でした」
銅貨十五枚。
満足そうにしまう。
三人が入る。
「どうしたその怪我!?」
「魔物か!?」
一瞬、視線。
男はレインを見る。
レインは肩をすくめる。
「……角兎」
爆笑。
ミアだけが笑わない。
彼女は見ていた。
あの一瞬。
空気が“止まった”。
確かに。
「レインさん」
「はい」
「本当に何も?」
「平和でしたよ」
笑う。
ミアは静かに言った。
「……そういうことにしておきます」
夜。
王城地下。
封印水晶が砕ける。
表示。
――神殺し、活動再開。
世界が動く。
レインは安宿で呟く。
「明日はスープをつけよう」
満足そうに目を閉じる。
世界は、もう見逃さない。




