十三話
ミアが襲われた翌日。王都は何事もなかったかのように動いていた。通りには人が行き交い、屋台はいつも通りの匂いを漂わせ、冒険者たちは依頼の話で笑っている。だが、その平穏は薄い膜の上に乗っているだけだった。少し押せば破れる。そんな予感が、ギルドの中にだけ沈んでいた。
それは白い紙だった。王都ギルドの受付台。さっきまでそこには何もなかった。誰も近づいていない。なのに、ミアが視線を落とした瞬間、そこに“あった”。
「……なんだ、これ」
ガレスが眉をひそめる。ミアの手が止まり、紙の上でわずかに震える。
レインが席を立ち、ゆっくり歩いて紙を手に取る。軽い。どこにでもある紙。だが、触れた指先に妙な冷たさが残る。
「来ましたね」
エリシアが横から覗き込む。書かれているのは短い文だった。
本日、子の刻。王都ギルド。観測、第二段階。拒否は自由。結果は変わらない。
読み終えた瞬間、空気がひとつ沈む。
「……舐めてるな」
「違います。通知です」
「何が違う」
「来るって言ってるだけです」
ミアが小さく息を呑む。
「避けられないんですか……?」
「たぶん」
「たぶんって……」
「場所を指定しているので、逃げても意味がないと思います」
ガレスが舌打ちする。
「じゃあどうすんだ」
「騎士団に通達する」
エリシアが即答する。
「来ると思うか?」
「来させる」
短い言葉だったが、迷いはなかった。
だが、その日の夕刻。戻ってきたエリシアの顔は硬かった。
「……断られた」
「理由は?」
「“動けない”とだけ」
「はぁ!?」
「詳細は出ない。だが、断っているわけじゃない」
一拍置いて、低く言う。
「断らされている」
ミアの顔色がさらに落ちる。ガレスが拳を握る。
「やっぱり、上ですね」
レインが紙を見たまま言う。
「何がだ」
「白塔の方が、王都の表より上にあります」
軽い声。だが、その内容は重かった。
「最悪だな」
「はい。最悪です」
その言い方がいつも通りだからこそ、余計に現実味があった。
夜。子の刻が近づくにつれ、ギルドの空気はわずかに変わっていく。誰も知らないはずなのに、どこか落ち着かない。椅子を引く音が少し大きく聞こえ、笑い声が一拍遅れる。見えないものに、全員の本能が反応しているようだった。
レインはいつも通り黒パンを齧っていた。硬い。味も薄い。だが、こういう時ほど口を動かすのは悪くない。
「……来ます」
その一言で、場の空気が切り替わる。
次の瞬間、音が途切れた。笑い声が遠くなる。グラスの触れ合う音が消える。外を歩く人影は見えているのに、まるで水の向こう側にいるようにぼやける。
「またかよ」
「昨日より強いです」
灯りが落ちる。ランプの火が一斉に消え、ギルドは闇に沈む。
暗闇の中で、白が浮かぶ。
一人、二人、三人。止まらず増える。影ではない。輪郭があり、床を踏む音がある。そこに“いる”。
圧が来る。立っているだけで肺が重くなる。
「多すぎだろ」
「前と違います。“ちゃんといます”」
奥に一人。白い外套。顔は覆われている。だが、そこに立つだけで分かる。違う。
頭領が一歩出る。床板が軋む。いや、違う。空気が押し下げられている。
「……昨日はどうも」
静かな声。余裕がある。観測者の声だ。
レインは首を傾ける。
「また来たんですね」
「観測の続きだ」
頭領の指がわずかに動く。
「対象レイン。排除許可」
その瞬間、空気が裂けた。
白い影が同時に消える。
「ガレスさん、左」
「おう!」
反射で動く。だが遅い。刃が頬を掠める。冷たい感触のあと、焼けるような痛み。血が一筋、流れる。
「速っ……!」
ガレスが踏み込み返す。剣を叩き込む。
「入った!」
軽い。手応えがない。
「は!?」
「ズレてます」
「意味分かんねえ!」
エリシアが横から斬り込む。完璧な軌道。だが刃は数センチ手前で止まる。
「……届かない?」
「届く場所が違います」
足元がわずかに滑る。自分で動いたわけじゃない。立っている“場所”がずらされる。
「位置を……!」
別の影がミアへ向かう。
「ミアさん、右へ半歩」
「は、はい!」
針のような刃が空を切る。ミアの肩すれすれを通り抜ける。
連携が異常に正確だ。前後左右、逃げ場がない。ガレスが受ける。火花が散る。重い。腕がしびれる。
「くっ……!」
押される。明らかに押されている。
エリシアも後退する。踏み込みきれない。白塔が、押している。
頭領はそれを見ている。静かに。冷静に。
「……なるほど」
低く呟く。
「この程度か」
空気がさらに重くなる。
次の瞬間、頭領が動いた。視界から消える。気づいた時にはレインの目の前。刃が振り下ろされる。
速い。反応できない速度。
だが、止まる。額の数センチ手前。
押せない。進まない。
頭領の眉が、わずかに動く。
「……止めているのか」
初めての違和感。
レインは静かに言う。
「あなた達のためにも言っています。静かにした方がいい」
空気が沈む。押していたはずの流れが、鈍る。
そして。
レインが一歩前に出る。
世界が止まる。
音が消える。光が固まる。ガレスもエリシアもミアも、白塔の精鋭も、その場で固定される。
だが。
頭領だけが、動いた。ほんのわずかに。目だけが動く。
「……何だ、これは」
声が揺れる。
レインが歩く。ゆっくりと。一人目に触れる。二人目。三人目。触れた箇所から、何かが剥がれていく感覚だけが残る。
頭領は見ている。理解しようとしている。だが追いつかない。
最後に、目の前。
距離が近い。
レインが目を細める。
「おや……認識しているんですね。凄いです。ただ、相手は選んだ方がいい」
言葉がそのまま叩き込まれる。
逃げろ、と本能が叫ぶ。だが動けない。
「……せっかく忠告したのに」
胸に触れられる。
その瞬間、理解する。これは戦いではない。触れてはいけないものだ。
世界が戻る。
音が戻る。光が動く。
次の瞬間、白塔の精鋭が同時に崩れた。膝から落ちる者、壁に叩きつけられる者、武器を取り落とす者。
「なっ……!?」
ガレスが叫ぶ。
「何が起きた!?」
エリシアも固まる。
頭領だけが一歩下がる。呼吸が乱れている。初めて感じる差。理解できない力。恐怖。
「……理解不能」
声が震える。
「……優先度、変更。撤退」
白い影が崩れる。煙のように消えていく。
最後に、頭領がレインを見る。視線が外せない。だが近づけない。
「……また来る」
それだけ言って消えた。
音が戻る。日常が戻る。
ミアが崩れる。
「……こわい……」
ガレスが息を吐く。
「……なんなんだよ、お前」
エリシアがレインを見る。
レインは黒パンを見る。
「冷めましたね」
「そこかよ!!」
誰も笑えなかった。
白塔は異常だ。だが、それ以上に。
レインは異常だった。




