その16 再会の匂いの中で
(16)
思いがけない再会からロダンが再び蜥蜴堂の格子戸を開ける。僅かにカレーの匂いがする。そのカレーは志穂との再会の匂いだ。その匂いを纏いながら、ロダンは店内へ足を入れた。
再会の二人がどんな会話をしたかというと、他愛もないことばかり。現在の志穂の大学生活の事、なんでも今は美術史を勉強しているとか、そして今後の事。それと志穂達と別れた後のロダンの九州失恋旅行の話等、それはごくありふれた話ばかりだった。しかし、このごく僅かなささやかな再会が、ロダンをどれ程元気づけたかは知れない。故に、彼の足取りは軽い。
二人は再び新年に会う約束をした。
それがロダンの新しい未来への希望の様に輝き、それがカレーの匂いとなっている。ロダンは奥へ進む。そこに座っている轆轤はロダンへ視線を向けると、ニヤニヤしながらロダンが傍へ来るのを待った。
ロダンがにやつく轆轤へ切り出す。
「変な事思わんといてくださいよ。僕と彼女は轆轤さんが思うような仲じゃないですからね」
言われて轆轤が答える。
「恋の道というのは色々あるもんや。――恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか。――壬生忠見の和歌よ」
「意味は?」
ロダンが問う。
「秘めた恋心が人に知られてしまったときの恥じらいと戸惑いを詠んでいるのよ。まぁ秘めたる恋、若い恋よな」
「何を!」
言いながらロダンはにっと眼鏡奥で笑う蜥蜴のような店主の相貌へ、自分の内心をこれ以上勘ぐられぬように背を向けつつ、腕を組んだ。
「背を向けても分かるもんじゃぞ」
くくくと笑う店主。だがロダンはその笑い声には乗らずに、髪をぼりぼりと掻くと、ぴしゃりと音を立てて首を叩いた。
「轆轤さん」
ロダンの物事へ誘う声に店主の笑い声が消える。
「ほら、教えてもらったあの件…」
轆轤が反応する。
「ああ、あれな?それでどうやった」
「うん。実はね、あの十三の卍楼にありましたよ。『薔薇』――ならぬ『桔梗』が」
少し間が合ってロダンの背に「ほぅ」と言う感嘆の声が飛ぶ。
「在ったか?」
「ええ、ありました」
答えてロダンが轆轤へ向き直ると言った。
「それも…釣鐘塔の中…、正確には釣鐘…いやベルかな…」
「釣鐘?ベル?」
轆轤が意外なというような顔つきで腕を組んだ。
「それで…ここに来たのはなんで十三の卍楼に釣鐘塔なのかなと思って。だってあそこは元々、仏家の大本、言わば西願寺の別院跡地でその根っこでしてね。そんなところに仏像建築らしい楼閣なら分かるのですが、煉瓦造りの釣鐘塔、まるで和洋折衷みたいな塔ですからね、不思議です」
轆轤はうんと頷くと、ロダンを眼鏡奥からじろりと見る。それはロダンの知りえた知識の卵を丸呑みした蜥蜴が、何かを吐き出そうする目つきだった。
轆轤は僅かに目を細めて、呑み込んだ卵を味わうように話し出す。
「ふぇふぇふぇ、そりゃ面白い。この大阪にもまだまだ人識未踏の地があるんやな。…ロダン、それはいい発見や、依然渡したあの高山右近に関することを調べている郷土史家等に言うたら、大変な興味を持つやろう。然し今はまだ秘匿の事として儂とお前との卵として温めていいものや。やがて孵化させる時がくるまでな」
幾分、独り言のように聞こえる轆轤の口調が、今度ははっきりとした口調になった。
「――ロダン。宗教を誤解してはならん。普通の人は日本における宗教は排他的で多宗派を受け入れていないような誤解があるかもしれぬが、そんなことは無い。神道、修験道、仏教、その他東北アイヌらの精霊信仰等含め、日本の宗教と言うのユーラシア大陸のあらゆるものをはごちゃごちゃに、まるであらゆる絵具を混ぜ込んだ作られた…いや違うな…ある意味、混沌の中から絞り出した一滴の水滴のような、瑞々しい宗論を立て直してできた上がっている――、戦国頃なんぞは、ある仏教寺院が丸ごとキリスト教へ改宗することなんぞは文献にもあるし、ある意味日本人にとっての宗教論と言うのは、そうした粘着性と自由を持っていたと言える」
(ほう…)
ロダンは轆轤の話に傾聴している。轆轤は続ける。
「つまりだ。仏家とは言えどもその宗論の中にキリスト教の『真』を抱え込んでいても別段おかしくもない。勿論、少ないかもしれぬが…しかし西洋における知性と言うのは宗教をかけ離れたところにあり、そうした宗教を度外視した知識探求の団体――多くの秘密団体があるのも事実だ。そしてフリーメイソン然り、多くの友愛団体がある。そして…」
言うと轆轤は背後を振り返り、一冊の古書を取り出してロダンへ差し出した。ロダンは不思議そうにその本を受け取る。受け取ると表紙を見た。
(…これは?)
問いかけるような眼差しをロダンは轆轤へ向けた。轆轤はふぇふぇふぇと笑う。
「きっといつかお前さんが来るやろうと思うてな。仕事の合間の暇ついでに『薔薇』に関する書籍を調べたら格好のもんを見つけたんや。それがその本――そして日本以外に『薔薇』に関するものとすれば、それが一番やな」
ロダンはもう一度、書籍の表紙を見た。そんなロダンへ轆轤が言う。
「明日から正月や。少し休みがあるやろう。財前さんの娘さんに浮かれるのもいいが、その書籍を読んで『薔薇』について研究をして――儂が話をした地下墓地に高山右近等の話を纏めて推論を立ててみぃ。ミステリーは何も小説だけの特権やない。歴史にもあるんや。ふぇふぇふぇ」
轆轤の笑い声が響く中、僅かに匂うカレーのスパスの中で、ロダンが表紙を食い入るように見る。その古く乾いた書籍の表紙には、こう書かれていた。
――『薔薇十字騎士団』と。




