圧倒的な力
あれから一週間が過ぎていた、雪はもう降っていない。代わりに冷たい空気だけが残っている。
幸人は掃除機をかけながら息を吐いた。
「……ふぅ」
この家にも少しずつ慣れてきた。蓮美の店の手伝い、家事、あたたかい食事、寝床。
そして時々出る長い髪。
思い出しただけで、肩に力が入る。
最初の朝、指に触れたあの感触。まるで生き物みたいに動く黒く長い髪。あれ以来も何度か見ている。
視界の端で揺れ、壁の隙間から覗く毛先。気づけば床を這っていることもあった。
(いつか慣れるのかな)
ふとそんな事を思う。けれど怖いものは怖いままでいないといけない、どこかでそう思った。
「お昼できましたよ」
二階から一階の店に向かって声をかける。暫くすると店から戻ってきた蓮美が何も言わずにソファに座りテレビをつける。相変わらず無愛想ではあるが、最初の頃よりは分かる。これは蓮美にとっては至って普通、機嫌が悪いわけではないのだという事。
食事をお盆に乗せて運ぶ。今日の献立は塩おにぎりと卵焼き、そしてワカメの味噌汁。不恰好であるが今できる精一杯の幸人なりの食事だった。蓮美の目の前に湯気が上がる。
幸人もソファに座り、「いただきます」と一言。そして2人で静かに食事を始める。
(あの髪の事、相談してみようかな)
おにぎりを取ろうとした手が止まる。
「あの、」
声をかけてみたが蓮美は顔も向けず食べ続ける。幸人はダメか、と思いおにぎりを頬張った。すると「なんだ」と短い返事が時間差で返ってきた。驚いて少しだけ言葉が詰まるが、米を飲み込んでから急いで絞り出す。
「……髪が、出るんです」
一瞬の沈黙。箸の音だけが響く。
「知ってる」
返事はそれだけだった。顔も向ける事なく、驚きも否定もない。さも当然と言ったような顔で。
(知ってる?って、どういうこと…)
思考が追いつかない。しかし、言いかけた言葉に被せるように「ほっとけ」と一蹴された。それで終わり。あとは何も言わず食事を続け、知らん顔。結局あの髪について詳しくは分からないままに昼食は終わってしまった。
そして午後。幸人の鼻歌と掃除機の音が部屋に響く。ぶぅんという単調な音。それに紛れて、する…っとまたあの音がした。
びくりと大袈裟なほどに鼓動が跳ね上がり、ゆっくりと振り向く。視線の先には壁。そしてコンセントから黒い髪が数本、ぬるりと伸びていた。
「……っう、」
思わず一歩、後ずさる。
する…っと髪が少しだけ揺れ、全体的に長くなった気がした。まるでその髪には目があるのかと思うほどに強い視線を感じる。
「……っ」
ある筈もない視線に耐えかねて踵を返し、走る。そして勢いよく階段を駆け降りた。
「蓮美さん!」
苦い煙草の匂いと、少し見慣れてきた光景。
「髪が、!!」
幸人の息が荒い。蓮美はちらりとだけ視線を寄越すと、一言。
「抜け」
「…え?」
「引き抜け」
それだけ。思考がごちゃごちゃになっている幸人はなんとか蓮美に助けてもらおうと身振り手振りを加えて必死になんとかしてほしいと頼むが…
「無理です!あれ、なんかっ」
「うるせぇな」
遮られる。
「その程度で呼ぶな」
冷静な一言で済まされ、言葉を失う。蓮美は助けてくれないのだと悟った。どこかで分かってはいたはずなのに、期待していた。
「……」
戻るしかない。自分でなんとかするしかないのだ。どうしよう?と頭で考えるが激しく脈打つ鼓動の音が邪魔で何もまとまらない。重い体を引きずって恐る恐る部屋に戻ると、まだその髪はそこにあった。
(やるしか、ない)
蓮美の言葉を思い出し、ゆっくりと手を伸ばす。指先が震える。一度深く息をして、触れてみる。
とても冷たかった。
ぞわ、と鳥肌が立つ。
「……っ」
掴む。細いのに妙にしっかりしている。気持ち悪さと恐怖に震える手に力を込めて、覚悟を決め、ぐっと引く。ぶち、と。
その瞬間、まるで頭皮から引き剥がしたみたいな感触に思わず声が出た。
「……っ、ぁ……!」
咄嗟に手を離す。息が乱れる、気持ちが悪い。
(なにこれ)
次の瞬間。
するするするするするっ
コンセントの奥から髪が溢れてきた。
「いっ!?」
一瞬で量が増える。床を覆い、壁を這う。明らかに様子がおかしい。
「やば、」
言い終わる前に髪が絡みついてきた。足に、腕に、顔に。
「っ、やめ、やめて!!」
引っ張られ、締まり、視界も遮られ、このまま殺されてしまうんじゃないかという恐怖が幸人を支配して行く。
「やだっ離して!!」
暴れて逃げ出そうとはするものの、なす術もなく髪に覆われて身動きが取れなくなる。もうすぐ口も塞がれ声が出せなくなるか、首が締まり死んでしまうか…恐ろしい未来が見えて、叫んだ。
「蓮美さ、」
首にかかった髪の力が強くなる。
「助けて!!」
息が詰まったその瞬間、怒声が落ちた。
「うるせぇっ!!」
覆われていた視界が開かれた。幾分身体が動くようになり、声の方に視線をやると鬼の形相の蓮美。
「騒ぐなっつってんだろ」
苛立った声、そのまま髪を素手で掴み一気に引き千切った。
「ぎゃああああああああああああ!!」
大きな悲鳴は女性のものだった。唖然とする幸人の身体から髪が離れていく。
「うるっせぇな」
悲鳴の合間にぶちっぶちっと引き千切られる気味の悪い音がする。蓮美は一切容赦なく根元にも手を伸ばし、勢いよく引き抜いた。その瞬間、赤が飛ぶ。
「……っ」
血。
コンセントの奥から噴き出すように。
「ぎゃああああああああああ!!」
髪が大きく暴れる。でも蓮美は止めない、淡々と引き抜いていく。それこそ根こそぎすべて。
やがて悲鳴も聞こえなくなり、静寂が訪れた。
床には髪の塊が散乱している。
それをひっ掴んで蓮美はそのままキッチンへ向かい、なぜかフライパンを取り出す。
その中にあろうことか全て放り込む。
油をぶち込み、ライターで迷わず火をつけた。
ぼっと燃え上がる。
「……っ」
嫌な臭いが広がる、焦げた髪の臭い。それに混じるどこか生臭い匂い。幸人はその場に立ち尽くして何も言えないでいた。
ただ見ていた、派手に燃えていくさっきまで動いていた髪の毛の塊を。
「もう騒ぐなよ」
蓮美が言う。
(…あのフライパン、絶対捨てよう)
そして、
(……この人には)
逆らわないでおこう。
心の底から、そう思った。




