初めての接触
規則正しい呼吸が聞こえる。畳の匂いと、温かい布団にくるまって。新品の毛布がふわふわと肌をくすぐる。
ぬくもりと安心感から、幸人はいつぶりか分からないぐらいぐっすりと深い眠りについていた。
する……
何かの違和感を覚え、突然目が開いた。障子越しの朝の光が目に優しく沁みる。
(もう朝か)
寝返りを打とうとしたその時。
する……
一瞬、夢だと思おうとする。
する……
不可解な音がやまない。まるでそれは何かが畳を這うような音。
する……する……
少しずつそれは近くなってきている。手足の感覚が遠くなって、聴覚だけが鋭くなっている。
(い、やだ)
体が強張り、呼吸が浅くなる。
する……する……
音が足元のすぐ傍まで来る。見たくない。でも、見ないといけない気がする。ゆっくりと視線を動かすと、布団の端…その向こう。
見覚えのある黒い髪が、あった。
細く、長く、ゆらゆらと揺れている。
昨日風呂場で見たあれだ。
(うそ、)
目に映った瞬間、大きく心臓が跳ねる。
する……
床を撫でるように這ってくる。ぞわ、と背中が粟立つ。
逃げないと、逃げないと。本能的にそう思うのに体が動かない。とっくに感覚の無くなった指先がガタガタと震える。静かに迫ってきていたその髪は止まった。すぐ、目の前で。
「……っ」
息が詰まる、次の瞬間。
指先に冷たいそれが触れた。
「……ぁ、」
思うように声が出ない。髪は震える指に絡みつく。逃げたいのにどこにも力が入らない。撫でるように、なぞるように、まるで生きているみたいに這い回る。
「やめ、やめて、」
恐怖から涙が一筋流れ、ようやく絞り出したかすれた声が響く。その瞬間ぴたりと、動きが止まる。そのまま空気が凍る。
(…聞いて、る)
理解した途端、ぞっとする。
見られている。触られているだけじゃない、この髪はこっちを認識してる。その事実に遅れて恐怖が更に膨らんでいく。
「……っ、やめろ」
今度は少しだけ強く言う。その声に応えるようにゆっくりと髪が離れていった。床を擦る音が遠ざかっていく。
(……なんなんだよ、これ)
息が荒い。心臓がうるさい。指先がまだ震えている。
「うるせぇな」
すぐ近くで声がしたと同時に、反射的に跳ね起きる。
声の方を見るとすぐ隣で蓮美がダルそうにこちらを見ていた。最初から起きていたみたいに。
「なに騒いでんだ」
寝起きの不機嫌そうな静かな声。咄嗟に「なんでもないです」と、ほとんど反射的に否定した。言った瞬間自分でも意味が分からなくなる。なんでもないはずがないのだ。でも言える筈がない。言ったらここにいられなくなるかもしれないから。
蓮美は暫く頭を掻きながら不機嫌そうに幸人を見つめていたが、煙草を手に取り火をつけ、深く吸って吐いた。部屋には特有の苦い匂いが広がる。
障子の向こうで朝が完全に明るくなり、さっきまでの事はまるで夢だったのではないかと思うほどに遠い出来事に思えた。
震えていた指は落ち着きを取り戻し、鼓動も安定している。そうしてぼんやりする幸人に蓮美はふぅーっと煙を吹きかける。
「うっゲホッゲホッ」
煙を吸い込んでしまい咽せる幸人に蓮美は静かに笑う。涙目になりながら恨めしく見る幸人に「あ?」と威圧的に不適な笑みを溢す。
幸人は反論しようかと一瞬迷ったが、言葉を飲み込んだ。逆らってはいけないと身体がわずかに震えたからだ。
「お前、俺の影響受けてるな」
「影響、ですか?」
その言葉にキョトンとしながら聞き返す。蓮美はまた白い息をふぅーっと吐き出し、幸人に返事もせずに立ち上がって部屋を出て行く。
「布団畳んでから飯」
短くそう言い残して。
「…はい」
もう届かない返事をして、少し時間をおく。ため息を吐いてから幸人は立ち上がった。布団を畳むと蓮美の煙草の香りがする。
幸人にとって初めて怪異と触れ合った朝だった。




