浴衣ッ!?
無事チェックインを終えた沙也加とたぬきちは、女将に館内を案内してもらっていた。
「お土産コーナーは一階のドッグランの隣に、大浴場はこちらの階段を上って左手にあります。ご利用時間は朝の7時から夜12時までとなっております」
「お土産コーナーに、ドッグラン。そして、大浴場……至れり尽くせりですね!」
「館内で、飼い主さんが愛犬たちとくつろぐ空間を提供する。こちらが私どもの信条ですので♪」
「心意気も素敵です! いやー! サイトを見ていてもいい場所だなーって思っていましたけれど、実際に見た方が凄いですよね!」
なんてことのない案内に、大きく口を開けたり、大きく首を縦に振ったり、都度都度オーバーな反応を見せる沙也加。
対して、女将はそれが微笑ましいのか、はしゃいでいる子供を見るかのような視線を向けていた。
「ふふ♪ 気に入って頂けて良かったです」
そんな二人のやり取りに、リードに繋がれたたぬきちは、なんだか全身の毛が逆立つのを感じた。
(なんというか、こっちが恥ずかしいポン……)
それは共感性羞恥。
旅行という非日常をもってしても、消化できないほどのものであった。
だが、そんなたぬきちのインテリジェンス溢れる思考を、一瞬で吹き飛ばす出来事が起きた。
「――こちらが浴衣になります」
「ええ〜! 浴衣があるんですね!」
「はい! 若草色と碧色、薄紅色の3種類となっています。旅館内でしたら、こちらを着て過ごして頂いて大丈夫ですよ」
女将が【浴衣】という言葉を言い終えた瞬間。
たぬきちの体に電流が駆け巡った。
そして――
「浴衣ポンっ!?」
気が付いたら、二足歩行モードになって、日本語で叫んでいた。
「えっ?!」
目をまんまるにする女将。
「へっ?!」
固まって手から浴衣を落とす沙也加。
(やばいポン〜! ミイラ取りがミイラになった気分ポン〜!)
ただのたぬきに擬態して、この特別な時間を満喫するはずだったのに、思わず声を漏らしてしまった。
その避けようもない事実に、ただでさえ逆立っていた毛がさらに膨れ上がり、一同の間に変な空気が流れる。
まるで時間が止まったような感覚。
誰も次の言葉を発しようとしない。
もう終わりである。
しかし、お忘れではないだろうか。
彼は、たぬきちは。
ただのたぬきではないのだ。
――スタッ。
素早く二足歩行モードから四足歩行モードに。
――シュバッ!
もう一度、二足歩行モードに。
そして――
「クキュ♪」
驚いている女将に向けて、純度100%の全力スマイルを浴びせてからの、
(ご主人! この意図に気付いてポン!)
沙也加に向けて念を飛ばして、
――スタッ。
四足歩行モードに切り替えた。
思いが通じたのか、沙也加はひとりでにポン! と手を叩くと、
「あはは〜! もう、たぬきちったら♪ きっと浴衣を見てレッサー君のこと思い出したんだね〜!」
腰を落としてたぬきちの頭を撫でた。
(さすがご主人! ボクのことをよくわかっているポン!)
鳴き声どころか、動きでたぬきちの考えを察するという、とんでもない熟年夫婦のような特殊能力に感心するたぬきちである。
そうとなれば、乗らない手はない。
「クキュ♪」
たぬきちは、撫でてくる沙也加に対して、上目遣いで甘え声を上げた。
そして第三の手と化していたもふもふの尻尾を犬のようにフリフリと振って、
「クキュ―ン」
すり寄った。
「えへへ〜! たぬきちったら可愛いんだからもう〜」
「クキュ♪」
(これでどこからどう見ても、普通の飼い主とペットポン!)
そう確信して、女将の方に視線を向けた。
だが――
「えっ? レッサー君……ですか?」
女将は腑に落ちるどころか、口元に手を当てたり、首を傾げたり、余計怪しんでいるような仕草を見せていた。
(こ、これはマズイポン! )
あからさまなシミュレーション不足。
旅館という非日常空間がたぬきちの思考を鈍らせてしまったのだ。
しかし、言い訳する暇はない。
事件は目の前で起きているのだから。
今はすぐに対処しないと後手に回ってしまう。
たぬきちは、推しであるレッサー君の言葉を思い出して、自分を奮い立たせた。
けれど、タイミングを同じくして、三年という月日を経て、ダメダメの頂点with頼りない飼い主から、そこそこ……いや、時と場合によっては、普通にだらしのないwith少し頼りになる飼い主と生まれ変わった沙也加が声を上げた。
「驚かせてすみません! この子、浴衣とか鎧とか、見ちゃうと二足歩行で歩くレッサー君のモノマネをしちゃうんですよ〜! まさか旅館の中でもしちゃうなんて! 私もびっくりしちゃいました〜」
立ち上がり、素早くお辞儀を2回。
そして異論反論を挟み込めないような、流れる言葉。
一見、完璧であった。
だが、沙也加は一番、説明しないといけない部分に気がついていなかったようで、女将へ伝え終えるとたぬきちに向けて小さくガッツポーズをした。
「ギャッギャッ!」
(ご主人! 相手はもしかしたら、ボク以上のシゴデキポンよ! それだと詰めが甘いポン! 大事なのはそこじゃないポン!)
鳴き声で注意、内心で指摘。
だが、間に合うことはなくて、
「なるほど……ですけど、いま『浴衣』って……?」
「あ、それは――」
「それは?」
「え、えーっと――」
沙也加は女将に核心を突かれて、先ほどまでの自信たっぷりな姿は何処へ、わずかに視線を落とし、すぐさまたぬきちに助け船を求めた。




