三年の壁……?!
ワクチン接種から、一ヶ月後の金曜日。
沙也加とたぬきちの住まう都内のマンションから、私鉄を乗り継ぐこと二十分。
夕暮れ時の住吉電器株式会社のオフィスにて。
沙也加は、いつも通り仕事をこなしていた。
「ふぅ……」
(なんだろう……夏休み前だからか、お願いごとが多いな〜)
他部署からのお願いごと。
トラックの手配や、出荷日の調整。
担当者が連休取得する為の仕事の引き継ぎであったり、それに伴う打ち合わせのブッキングなど。
朝からひっきりなしに対応してきた。
(ふふっ♪ でも、そうだよね! 夏休みなんだもん! 誰だって、キリのいいところまで仕事を終わらせたいもんね! あーーー! 早く帰ってたぬきちの手料理とビールをクイッといきたい! そのために私も仕事をさっさと片付けないと!)
少し疲れてはいるが、この通り、生活改善サポートにより、内心ニコニコしていた。
なんとも幸せなOLである。
「江ノ上さん、この部品の納期なんですけど、少し遅れそうで――」
「あ、はい! 先週言ってたやつですね。今月中となると……」
沙也加は、そういうと卓上カレンダーを捲って、日付を確認して、
「うーん……夏休み前ですしね、先方の出荷するタイミングとうちのリードタイムを踏まえてどうするか、考えましょうか!」
「そうですね。それでいきます! 助かりました。またグループチャットに進捗入れてきます」
「はい、よろしくお願いします♪」
アドバイスを求めてきた、同僚にこちらの都合だけではなく、取引先の事情を把握するといったなんともシゴデキな助け舟を出した。
(夏だし、さっぱり系のおつまみかなー? 酢の物とか? いやー、でもたぬきちだし、そこは変化球の揚げ物とか? しかもそこにキンキンに冷えたビール……絶対美味しいじゃん! 早く食べたーい!)
と、沙也加本人は、己の欲にまみれ放題なわけだが、表面的に見て、たぬきちの生活改善サポートは、仕事にまでしっかり反映されるのだ。
される……のだ?
「沙也加先輩、今日も大活躍でしたね!」
明るい声色に沙也加が振り返ると、そこにいたのは――。
「あ、由紀ちゃん! お疲れさま〜! いや〜、あはは……大活躍というか、ただ生きてるって一日だったけどね〜」
倉下姉妹の姉、サラサラボブヘアが特徴の由紀であった。
(由紀ちゃん、今日も元気だな〜! でもな……あの日から、なんか変なんだよね……)
由紀は、あの日以来犬のことを口にしなくなったし、沙也加、由紀、同期の藤咲彩音とのお昼休憩でも、特におかしなところは見られない。
けれど、なにか変なのである。
(うん、おかしいよね……あんなことを急に話すなんて)
沙也加が思い出したのは、帰り際に何気なく話した話題であった。
『知り合いから聞いた話なんですけど……たぬきって二足歩行で歩くんですかね?』
由紀は、沙也加のパソコンの待機画面(雑種犬が微笑んでいる写真)を見ながら、そんなことを急にぶっ込んできたのだ。
(もしかして疑われてる? いや、そこまでって感じでもなかったか〜)
今だって何食わぬ顔で話しかけてくるし、その話題を振られた時、否定も肯定もせず、『多芸の動物っているしね! 案外居てもおかしくないかも! もしくは着ぐるみとか?』実際に広まっているたぬきちの噂話を利用してから、話題を振ってくることはなくなった。
でも、相手はアルジン弁当で働く妹を持つ由紀なのだ。二人の間でどういう話なっているか、わからない。
(不安ではあるよね……)
だが、
「――そういえば、先輩! 夏休みの予定とか決めました? って、先輩ならもう決めちゃっていますよねー!」
悩みのタネであった後輩、由紀の言葉を受けたことによって、全てを放り投げた。
それはもう延縄漁船に乗る船乗りのように、豪快に全身を使って。
「なっ、夏休みの予定?!」
おおよそ一週間。
ぐーたら生活の限りを尽くそうと目論んでいた。
というか、沙也加の頭にはそれしか浮かんでいなかった。
つまり、全くの無計画である。
「は、はい。夏休みのですけど……どうかしましたか?」
「あー、ちょっと忙しくて、考えていなかったなーって」
ちょっと忙しくて――意訳:ダラダラ生活を妄想するのである。
しかし、そんな本音を言えるわけもなく、由紀に何か言われる前にズイっと近づいて、
「……たぬきちも行けるところ探してみる」
耳元でそう呟いた。
周囲にたぬきち=たぬきだとバレていないというのに、実に沙也加らしい面白い行動である。
黄色いエプロン姿のたぬきが、ツッコミを入れそうな場面ではあるが、ここは職場、ツッコミたぬきはいない。
よって沙也加の思考はぐんぐん加速していく。
(確か……なんだったっけ? 三年の壁とかそういうやつだったような……研修で聞いたんだっけ?)
三年の壁――入社三年目頃に、多くの人が仕事や将来に悩み始めると言われる、あの"三年の壁"だ。
入社時の新人教育のことを思い出しそうになったが、ここで急旋回。
沙也加は会社で得た知識ではなく、炊事洗濯家事を終えた、たぬきちが観ていた配信ドラマを思い出した。
(三年の壁――そういえば、たぬきちが観ていた恋愛ドラマでもそんな話をしていたっけ!)
ドラマで語っていた三年の壁――交際して三年も経つと、パートナーと本音で会話ができる反面、衝突や飽きがくるリスクも増えるというもので、生活を共にする恋人同士が、いつか乗り越えなければならない壁という話だった。
って、恋人同士というか、飼い主とペット。
いや、もはやその立場が逆転して、種族も性別も越えた親と子になりつつあるのだが――。
由紀がそんな名前をつけられない関係や考えなんて知る由もなくて、
「おお、いいと思います!」
ただただ嬉しそうに頷いた。
「だよね! じゃあ、さっそく計画してみる!」
犬一代に狸一匹。
ツッコミ不在で暴走しまくる沙也加は、めったにない大きなチャンスと捉えて、俄然やる気を出したのであった。




