第86話 シゴデキたぬき、注射に敗れる。
シゴデキたぬきは何処へ――ワクチン接種証明を得るため、叫んでは暴れ、最後は泣き出す――まるで人間の子供の診察を繰り広げて、三十分後の待合室。
ペットカートの中で、使い古したタワシのようにボサボサヘアになっているたぬきちを労りながら、沙也加は会計を待っていた。
「たぬきち、お疲れさま」
「クキュ―……」
沙也加が撫でても尻尾を揺らして返事をするので精一杯である。
「あはは〜……まぁ、誰だって疲れちゃうよね」
浮かぶは、診察室での立ち合い。
確かにたぬきちが見せたのは、人間の子供のような反応であった。
けれど、院長の処置が忍、暗殺者のように的確に素早く、お尻に二撃入れ、たぬきちが叫び、どうにか逃げようとジタバタしようとも、ビクともしない。
それどころか、涼しい顔をして血を止めたり、注意点を説明したり、いつも通りであった。
あれを前にして、ショックを受けない方がおかしい。
「って、そういえば……」
沙也加は、たぬきちの毛並みを整えながら、ふと思い出した。
(……真由美ちゃんも由紀ちゃんもいない)
二人の明るい声色も、落ち着いた声色も聞こえないし、姿も見えなかった。
(あ、お会計終わって帰ったんだ! 真由美ちゃんと由紀ちゃんには、悪いかもだけど、ナイスタイミングだよ〜!)
絶体絶命、四面楚歌から逃れた沙也加は、胸の内で小さくガッツポーズしていた。
まぁ、正確には逃れたではなく、目標達成できなかった仕事のように、ただ問題が棚上げされたというだけなのだが、それはそれとして――。
(バレてはいない……よね?)
まるで波紋――落ち着きを取り戻したことで、その波紋は大きくなり、無数の波となって、ザバーンザッバーンと、激しい水飛沫を飛ばしながら、沙也加の心の内にある、堤防に打ち寄せていた。
実に愉快なOLである。
――が。
《江ノ上さん、江ノ上さん会計の準備が整いましたので、受付までお願いします》
タイミングよく、案内のアナウンスが響いた。
このOL、タイミングと運だけは神がかっているのだ。
全てはたぬきちのおかげかもしれない。
(今考えても仕方ないよね)
沙也加の脳内では、後光を背にしたエプロン姿のたぬきちが、ありがたそうなポーズを取って、
「ふふっ、たぬきちが神様って――」
笑いを堪えながら受付へと向かった。
☆☆☆
「――こちら保険証とワクチン接種証明と、ノミ・ダニのお薬になります。いつも通り半年分ご用意しています」
「ありがとうございます」
「クキュ―……」
「うふふ、たぬきちくんもお疲れさまでした! 今日はお母さんに美味しいご飯用意してもらってね」
「ギャギャッ!」
「あら? なにか不服なのかな?」
「あは――あはは〜! き、きっと、お腹減り過ぎているんです! お昼まだですし」
差し障りのない看護師の言葉と、たぬきちの抗議の鳴き声に、苦笑いを浮かべるしかない沙也加である。
とはいえ、ここでご飯を用意してるのは、このたぬきなんですとも言えないわけで――。
「なるほど。それはそれは! ヘソを曲げちゃいますね」
「あはは〜! そうなんですよ〜! こ、困っちゃいますよね〜! この子、結構食欲旺盛で!」
どこか既視感を覚えるやり取りではあるが、嘘に嘘を重ねるしかなくて、
「グッ、ギャ――」
「で、では、ありがとうございましたぁぁーーーー!」
たぬきちの堪忍袋の緒が切れる前に、脱兎の如し素早さで病院をあとにするのであった。




