暗殺者は診察室に
「うん、歯磨きも大丈夫そうだね。歯石も付いてないし、歯茎もかなり綺麗だしね」
「あ、ありがとうございます!」
「いやいや。僕らは何もしていないよ。飼い主さんがちゃんと面倒見ていたからだと思うよ? たぬきって賢い分、懐きにくいからね」
「あはは〜……そ、そうなんですね! ひ、日頃のコミュケーションのお、おかげかなー?」
院長の言葉に一瞬、肩をビクつかせながらも、沙也加は苦笑いでどうにか誤魔化そうとしている様子だ。
(ボクは自分で歯を磨いているポン!)
歯どころか、飲み会のあと、玄関先で息絶えた(倒れた)沙也加を介抱し、風呂に入れては、頭も体もそれ専用のブラシでゴシゴシ洗っている。
お世話している方は、どう考えてもたぬきちの方である。
が、そんなところで引っかかっていては、人間社会で、もとい、沙也加の世話は焼けないし、シゴデキたぬきは務まらない。
「ギャギャッ!」
沙也加にだけわかるように鳴き声で指摘して矛を収めた。さすがはシゴデキたぬき、たぬきちといったところである。
これが沙也加であったら、こうはいかない。
頬を膨らませて、自分がやったことを事細かに並べていくことだろう。
なんというか実に人間らしいご主人である。
しかしながら、待合室でのやり取りに加えて、事実と異なる認識が広がるのもやるせないわけで、
(いっそのこと、全部言ってしまうのもありかもポン……)
そんなことがたぬきちの頭を過っていた。
「もうそんなに怒らないでよぉ〜」
その気持ちが通じたのか、沙也加は気まずそうにたぬきちの頭を優しく撫でた。
「ギャッ!」
と、キツめの鳴き声で返したたぬきちであったが、
(一応、申し訳ないと思っているポンね……なら、許すしかないポン)
沙也加の立ち振る舞いから、本当に反省していることを察した。
言葉を話せずとも、沙也加のことなら、表情や動きなんとなくわかる。
要するに、キッチンとリビングで繰り返されてきた、二人のいつものやり取りである。
だが、院長は、そのアイトゥアイズな、ハートトゥハートなやり取りが少し引っかかったらしく、口元を抑えながら、
「ふっ、江ノ上さんはなかなかに面白いね! まるで会話しているみたいだ」
そういうと疑うような視線を一人と一匹に向けた。
「えっ?!」
「クキュ!?」
診察台でバンザイ状態のまま固まるたぬきちと、その頭に手を置いたまま、口をあんぐり微動だにしないご主人沙也加である。
(じ、自分から、言うならともかく、意図せずバレるとか、怖すぎるポン!)
やはり只者ではない。
院長の前では、ただのたぬきを演じるために全力を尽くすしかない。
そう考えたたぬきちがとった行動は――。
「クゥーン」
犬っぽくすることであった。
(たぬきっぽいとか、もう忘れたポン)
野生のたぬきの習性。
沙也加を世話するうちに、一体どれがたぬきの習性なのか、忘れてしまった。
ただし、それはあくまでもたぬきちからしてだ。
傍から見て、しっかりとたぬきらしい習性は残っている。昼より夜の方が頭は冴えるし、擬死とまではいかないが、三年経った今だって車のクラクションなど、大きな音を聞いてしまうと体が硬直してしまう。
だが、たぬきち的には、たぬきってどうだったっけ? 状態なのである。
シゴデキたぬきの唯一の弊害である。
診察室に響く、犬の鳴き声を真似たたぬきの鳴き声。
対して、ご主人である沙也加はその意図を全く理解していないようで、
「えっ?! 犬の真似?!」
などと、思ったことを口にする始末であった。
けれど、そのおかしな状況が功を奏したらしく、山田院長は、腹を抱えて笑った。
「はははっ、冗談だよ。冗談! まぁ、たぬきも犬の仲間だし、割とコミュケーションできるのかもね。なんだか二人とも息ぴったりだしね」
「クキュ?」
「あ、ありがとうござい……ます?」
「ふふっ、本当に面白いな君たちは――」
院長は、クスリと笑み浮かべると、後ろに控えていた看護師に声を掛けた。
「そうだ、ワクチン準備できた?」
「はい、こちらに」
「うん、ありがとう」
頭の上、ちょうどたぬきちから見えないところから聞こえてくる嫌なやり取りと、注射器を取り出す音。
「ギャ――ッ」
声を上げて、抗議するたぬきち。
犬の真似なんてしている場合じゃない。
これが、この流れこそが、ある意味シゴデキである山田院長の手法。
本題を隠す為に、敢えて違う話題を口にして、本人たちが気付かない間に、全てを終わらせてしまう。
暗殺者――まるで忍びのようなやり口であった。
こうなってしまってはもう遅い。
「ギャッギャ――」
たぬきちの声が診察室に響いた瞬間。
クルリと仰向けから、うつ伏せに体勢を強制的に変えられて――プスリ。
「ギャ――」
――プスリ。
背中に二撃、痛みが走った。




