天敵中の天敵
天井や壁など、動物が直接触れることはない部分は、白を基調としており、対して、動物が直接触れる床は緑色の塩ビシートが敷かれ、動物が粗相を起こしても、すぐ拭き取れるようになっている。
部屋の中央には、診察台と一体型になった大型の体重計が、その横の壁にはモニターが掛けられており、後ろには、診察する為の聴診器や体温計・パソコンなどが置かれている診察室。
そこで、一匹のたぬき――たぬきちは、とうとうその時を迎えようとしていた。
(つ、ついにきてしまったポン……)
ペットカート中、マズルの奥にツンとくる診察室特有の匂いにガクガクと体を震わせるたぬきち。
だが、ここまで来てはどうしようもない。
注射はもとより、天敵中の天敵。
山田犬猫動物病院の院長が待ち受けているのだから。
(健康の為とはいっても、院長先生って容赦ないポンからね……)
初めて病院に連れてこられた時。
その恐怖から、力の限り暴れた。
牙を剥き出し、爪を立てて、威嚇もした。
なんだったら、噛みつこうとした。
けれど、その全ての攻撃を純粋な力でねじ伏せた。
しかも平然とした態度でだ。
山に入ってきた猟師ですら、野生のたぬきと居合わせれば、緊張と恐怖を滲ませていたというのに。
(あんな冷静な人間見たことないポン)
施術中の院長を思い出して、たぬきちはより一層体を震わせた。
そして――その時はついに来た。
「江ノ上さん、こんにちは。たぬきち君どう?」
「こんにちは、院長先生! おかげさまで、夏バテとかもなくて、ちゃんとご飯も食べてくれています」
「そうかそうか。なら良かった。最近暑いからね、水分補給とか気をつけてあげてね。あ、でも、飲み過ぎも注意しないとだからね。1キロあたりの100ミリリットル超えると腎臓に負担かかってよくないから」
「はい! わかりました!」
「うんうん。じゃあ、たぬきち君、ここに出してくれる?」
「は、はい」
沙也加は院長の言葉に頷くと、カートの日よけを畳んで、たぬきちを抱きかかえた。
「クキュ……」
対して、たぬきちは、甘え声を響かせた。
諦めようにも諦めたくない。
できることなら回避したい。
でも、どうにもならない。
理解しているからこその、ただの甘え鳴きだった。
そんな心の叫びが、普段見せない(一年に一回)ギャップが刺さったらしく、沙也加は瞳をうるうるさせていた。
「たぬきちぃ……」
なんとも単純で扱いやすいご主人である。
けれど、ここは二人の、一人と一匹の住まうマンションではないのだ。
「江ノ上さん、体重と体温見たいから、乗せてくれる?」
淡々と聞きたいことだけを話して、すぐさま診察に取りかかる……山田犬猫病院の院長がいた。
空気の読めない言動に加えて、間髪入れずに後ろに控えていた看護師に指示を出す。
「あ、体温は測っておくから、ワクチン用意してくれる? 混合のやつと狂犬病の」
そこには無駄も遊びもなにもなくて、どの看護師も慣れている様子だ。
院長の後ろで苦笑いを浮かべると、沙也加に向け軽く会釈して、準備を進めていく。
(も、もうどうにでもなれポン!)
推しであるレッサー君から学んだことも、通じない天敵に半ば投げやりなって、両腕を挙げて万歳のポーズを取り、沙也加に身を任せた。
「あはは〜……どうしようもないもんね」
覚悟を決めた万歳に苦笑しつつ、沙也加は診察台にたぬきちを乗せた。
「うんうん。5.5キロだね。ちょっと増えたけど、肋骨は出ているし、大丈夫だね。じゃあ、体温はっと――」
「ギャギャッ!?」
「ははっ、体温測るのはやっぱり苦手みたいだね。でも、すぐ終わるからね」
(なんとも情けない状況ポン……なんで体温測るのに、わざわざお尻から温度計を入れる必要があるポン!)
自分で測る時は、人間と沙也加と同じように脇の下に体温計を挟んで測っているからこその疑問である。
けれど、それはたぬきちがイレギュラーであって、別段院長がなにか変わっているとかではない。
そうはいっても――。
「クキュ……」
異を唱えたくて仕方がない。
だが、流れるように進む診察に、たぬきちは思わず目を奪われていた。
「うん、体温も39℃で平熱っと。あとは……歯か、ちょっとじっとしててよ――」
たぬきちをヒョイっと持ち上げて、なんの躊躇もなく口元に手を近づけて、ライトで照らしながら、歯や歯茎の状態を見ていく。
(人間ぽくないけど、やっぱり凄い人ポン)
嫌なことをするけれど、客観的に見て、その段取りや手捌き、指示は的確で……これも一種のシゴデキかもしれない。
進化し続けるたぬきちの脳内CPUにそうインプットされたのであった。




