無駄なことはない。
「凄くわざとらしいポン……じゃあ、木材の長さを測ってほしいポン! ちゃんと室外機が被るようにお願いポンよ?」
たぬきちは、疑うような視線を向けつつも、無下にすることなかった。
ベランダ用のスリッパを持つと、沙也加の目の前に置き、木材、そして工具箱から巻き尺と鉛筆を取り出し手渡した。
「でーもポン! くれぐれも怪我しないようにポンよ?」
一体、どっちがご主人なのかわからない状況である。
いや、この場合は、弟子と師匠なのかもしれない。
けれど、
「任せて!」
沙也加は、それを受け取ると、すぐさま作業に取りかかった。
室外機のサイズを計測。
取り付けることも考慮して、木材に印をしていく。
簡単なことではあるが、初めてではできない、身体に染みついた滑らかな動き。
(そういえば……私、昔こういうのしてたんだっけ――)
それは、かつて経験したこと。
【住吉電器株式会社】に来る前の話だった。
電気機器を扱う会社ではなく、金属加工がメインの町工場。
親元を離れて、一人前に。
短大を卒業した沙也加は、そんなことを胸に秘めて、油まみれになりながらも働いて、働いた。
だが、慣れない現場。
一人暮らしという環境の変化。
真面目な性格。
全てが重なったことで、一年も経たずに、転職することになった。
不幸中の幸いは、沙也加の中にまだ働きたいという気持ちがあったこと。
けれど、その頃のトラウマからだろう。
住吉電器株式会社でも、歯車がなかなか噛み合わなかった。
頑張ろう。
今度こそは――そう思えば思うほどに。
たぬきちという運命の歯車を得た今、もう思い出すことはないと思っていた。
しかも、沙也加にとって一番、思い出したくない記憶である。
だというのに――。
「なんか嫌じゃないや……」
灰色だった過去は、色鮮やかな想い出に。
独特の胸を圧迫する感覚もなくて、落ち込むこともなくて、それどころか、
「無駄じゃなかったんだ……」
じんわりと胸の内が満たされた気がした。
それは過去との決別――そんな格好の良いものではなくて、同化という感覚に近かった。
ふと、頬をつぅーと涙が一雫伝った。
「あ、あれ――?!」
泣くつもりなんかなかった。
でも、我慢できるものでもなかった。
勝手に出た涙だった。
「ど、どうしたポン?! な、な、なんで泣いているポン?!」
突如として、涙を流す沙也加に慌てるたぬきち。
先程とは打って変わって、しどろもどろ。
第三の手と化した尻尾も慌てている。
(……たぬきちのおかげだね)
そのあべこべな感じが、とてもおかしくって、
「……ふふっ♪ なんでもないよ! ちょっと目にゴミが入っただけ!」
自然と笑顔になっていた。




