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ヴェラは壁一面を覆う書棚の一角から迷いなく一冊選びとる。
読む本は何でもいいので、この頃はおなかの同居人に合わせて子供向けの教本を広げることが多い。
「読んだって分かるわけないんでしょうけどね。いたた、そっち側はやめて欲しいわ」
胃の腑の下辺りに衝撃を感じて、ヴェラは眉根を寄せる。
臨月に近づいている腹部は重たく、胎児は元気に動き回っている。内臓を押されるのは困りものだが、狭くて何も見えないなら仕方ないことである。
「狐の三兄弟と神の楽士のお話。懐かしいわね」
兄弟仲よくという有りきたりの教訓と妖精を従えるという楽士の話を合わせた、子供なら誰でも知っている寓話だ。
文字を読み始めた子供向けなので字は少ない。
「あなたには、お兄様とあとは妹か弟かがいるのよ。要は真ん中だけど下の子とは半年ぐらいしか違わなさそうね」
なんとも複雑な兄弟関係になりそうだと、決まりが悪そうに皇后懐妊の話をしに来たエドゥアルトを思い出してため息をつく。
(もっと開き直ればいいのに)
皇帝が複数妻を持つのはよくあることで、その上自分は側室である。
あんなに後ろめたそうにされたらかえって困る。
自分がここへ来た理由はなくなって、エドゥアルトの助けになりたいという気持ちは宙ぶらりんになってしまったけれど誰に非があるわけではないのだ。
「後はなるようにしかならないわね。あなたのお兄様は優しい良い子だったわね」
オリガがつわりで動けなくなり、乳母や教育係の選定もできなくなったというのをイーゴルが彼女の名代としてやってきた。
皇后から側室への牽制ともとれる人選なのだが、オリガの人柄からして約束事を反故にするにあたって最大の誠意なのだろう。
そしてイーゴルはエドゥアルトが言っていた通り母親似だった。
(エドが欲しくても手に入らなかったものを全部持ってた)
恵まれた体格、武芸の才能、そうして誰にでも愛されるし愛せる素直なこころ。
ほんの少し接しただけでも善良という言葉を形にしたらきっとこんな子供なのだろうと思えた。そして、エドゥアルトの危惧をやっと実感した。
(あの子が帝位につくのは危ういわ)
あの様子で政がわからないのは、先行きが不安すぎる。
「あなた思った以上に大役を任されるみたいね」
最善の策が有象無象の貴族でなく、後ろ盾のない兄弟が支えることだったとはいえその能力があるか未知数だ。
しかしアドロフ公家の血を引く二人目の直系が産まれるとなるとまた事情が複雑化してしまう。
「兄弟仲良くしておくことに変わりはないわね。あなたへ他に何か残す言葉はあるかしら」
お産で自分の身に何かあった時に家のことや仕事のことなど後始末については書き記した。我が子に向けても何か残すべきかと考えているものの、思いつかない。
まだ産月まで少しあるので、思いついたらでいいかと本を読み始めた時だった。
「何かしら。……大丈夫?」
廊下で茶器をひっくり返したような大きな音がして、ヴェラは扉を開けて部屋の外を覗き見る。
二つ隣の部屋の前でナタリアと床に座り込んだ給仕係がいて、床には案の定陶器の破片が散乱していた。
「あ、申し訳ありません私がぶつかってしまって。すぐに新しいものをお持ちしますね」
ナタリアがそう申し訳なさそうに言う傍らで、給仕係は遠目から分かるほど血の気の引いた顔で固く両の拳を握りしめている。
「……ええ。お願い。片付けは手伝いたいのだけど、このおなかだから無理そうだわ」
「そちらはご心配なく。すぐに綺麗にさせますのでヴェラ様は私が戻るまでお部屋でお待ちください。さあ、早く後始末をしないといけませんわね」
ナタリアが笑顔で答えながら、一言も発さず震える給仕係を立たせる。
ヴェラは静かに扉を閉めながら、施錠できるならした方がいいのだろうかとドアノブに目を落とす。あいにく鍵はなかった。
「そこまでしてとはナタリアさんも言ってなかったし、かまわないかしら」
お茶の中身がなんだったのかは、エドゥアルトに説明してもらわねばなるまい。
扉から少し離れた長椅子にゆっくり腰を下ろすと、急に背筋が冷たくなる。
落ち着かないけれどある程度住み慣れたと思ったこの場所は、絶対的な安全圏ではない。
「大丈夫よ、あなたのお父様はちゃんと守ってくれるわ」
半ば自分に言い聞かせるようにヴェラは呟いて、胎動を繰り返す腹部を撫でた。
***
エドゥアルトはオリガの居室の前に立つと、一呼吸して険しくなっていた表情を穏やかな夫の顔で覆って扉を開く。
「オリガ、調子はどうだ?」
寝台に横になっているオリガの顔色はあまりよくなく、頬が少しこけている。
このところつわりが重く落ち着くまでは絶対安静ということで部屋の隅には侍女の他に産婆もいた。
「昨日より、食事の量は増えましたわ。この子のためにもっと食べないといけないのですけれど」
「少しずつよくなっているのならいい。焦りすぎもよくない」
はい、とうなずくオリガは体調は芳しくなくとも幸せに微睡んでいるような穏やかさがあった。
何度となく、第二子を授からずに落胆しているオリガを見てきた。数年前からはもう半ば諦めているようであったが、時折臣下達が幼子を連れて謁見にくると慈しみと羨望が混じった視線を向けていたのを知っている。
だけれど、自分はオリガと同じように喜べない。
予想外の妊娠に驚きと同時に、間が悪いと思ってしまった。
オリガがまだ芽生えたばかりの命を慈しみながら自分に微笑みかけてくるのを見ると、罪悪感が先立つ。
ヴェラを側室に迎えてから、オリガと床を共にしていなかったことは自分自身でまったく気付いていなかった。
自分が良き夫を演じていただけで彼女の望んでいる愛情とは違うと気付いているだろうに、どうしてあんなにも無垢な笑顔を浮かべられるのだろう。
「ライサに相談事がある。少し、借りていいか?」
エドゥアルトはオリガと向き合うことから目を逸らし、本来の目的を口にする。
「ええ。ライサ、エドゥアルト様が御用があるそうよ」
オリガは少し不思議そうな顔をしながらも、彼女の一番近くに控えている侍女のライサへ声をかける。
「…………承知しました」
落ち着いた様子でライサが立ち上がるのを、見やって先にエドゥアルトが部屋を出る。
外にはすでに近衛が控えていた。
続いて部屋から出てきたライサは視線を一瞬近衛に向けたものの平静を保っている。
「独断か、アドロフ公の指示、どちらだ」
近衛を従え別室に移るとすぐにエドゥアルトはライサを問い正す。
「失敗したということは、早々に目をつけられておりましたか」
「聞いたことに答えろ」
この状況においても落ち着き払ったライサに、エドゥアルトは静かに畳みかける。
「独断でございます。私はどこで失敗しましたか?」
「俺はただの小娘を侍女には置かない。まず、そこからだな」
「……デミドフ伯のお孫様でしたね。可愛らしいご令嬢だったと思ったのですが見た目にはよりませんね」
「ヴェラに飲ませるはずだったはずの茶を実行役に飲ませるのを見ながら、自分も新しい茶を入れて飲んでいたというから悪趣味な娘だ。まあ、飲ませて中身を確かめろと指示しておいたのは俺だが」
ナタリアと共に実行役を捕らえていた衛兵の報告を教えると、わずかにライサが顔をしかめる。
実行役は少なかった。茶を用意した使用人ふたりと給仕係の三人。
給仕係は最後まで判断がつきかねたので、ヴェラの元へ運ぶ途中に中身をナタリアが問い正したところで給仕係は茶器を割った。ただしティーポットの中身はナタリアがすでにすり替えており、証拠は確保していた。
「誰も今の所死んではいないようだが、指示役のお前なら後がどうなるかわかるだろう」
「妊婦でないならそうでしょう。ですが死んだ方がましやもしれませんね。私もそれを飲むべきでしょうか。それともすぐに縛り首でしょうか」
恐れではなく探るような目でライサがエドゥアルトを見上げる。
「すぐさま縛り首にしたいが、オリガがあの状態だ。出産後三月以内に侍女の役目を辞してアドロフ公領に戻れ、後の処遇はアドロフ公に委ねる」
オリガの侍女の中でもライサは最古参だ。誰よりも近しい侍女が急にいなくなってはオリガに余計な不安を与える。
「お申し付けの通りいたします」
瞳を伏せて心底安心した様子でライサが返答する。
「……俺を試すなら、もう少しましなやり方を取るべきだったな」
ヴェラを腹の子供ごと始末するのが一番の目的ではあるものの、自分がオリガに対してどれだけの配慮を見せるかも重要だったのだろう。
今のオリガが無事に出産できるか、子供が無事でも彼女自身が堪えられるかの不安がある。
侍女の失態も加わり皇后を廃するなら都合のいい状況が整っている。だが、そうすればアドロフ公家との対立は必須である。
そこまでして側室を実質的に皇后とするという意志があるのか確認するにしても、危険な賭にでたものである。
「オリガの元に戻れ。二度目はないぞ」
これ以上何も答える気がなさそうなライサを部屋から出し、近衛も下がらせる。
「信用ならん自覚はあるがな」
嘘を吐くのは慣れきっているというのに、オリガに愛しているとは言えなかった。
ヴェラへの想いすら嘘になってしまうようで怖かったのかもしれない。
「報告は必要か」
ナタリアはよくやってくれたが、唯一の失態はヴェラに勘づかれたことだ。できれば隠しておきたかったのだがこうなれば彼女には中途半端な誤魔化しはきかない。
話す内容は気が重かったが無事なヴェラの顔を見るべくエドゥアルトは小宮へ向かうのだった。




