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 初夏の爽やかな風がそよぐバルコニーに、一組の若い男女が並んでいる。

 微かな笑い声がまろび出るのに合わせるかのように、レースのカーテンが揺らめいてシャンデリアの水晶が陽光に瞬く。

 王宮の三階の一角にある貴賓室でオリガはエドゥアルトと共に、その光景を少し離れた長椅子から目を細めて眺めていた。

「おふたりとも楽しそうですわね」

「いい関係が築けるなら何よりだ」

 今日は九公家の一角であるドミトリエフ公の孫娘のユーリヤと友好国の王太子との縁談がまとまり、皇帝皇后が後見として同席する両者の顔合わせとなる日だった。

「帝国と我が国はますます強固なものとなりましょうな」

 付添人である王太子の伯父がそうにこやかに言って、隣の夫人もうなずく。

「ええ。帝国のご令嬢は皆様、聡明でいらっしゃいますわね。賢さが美徳というのはわたくしたちの国ももっと見習わねばなりませんわね。読み書きを早くに始めるのでしょう」

「ええ。ふたつの時には読むことを、みっつから書くことを始めますの。それからある程度読み書きができるようになれば、簡単な算術も。成長に合わせて歴史や地理、と学ぶことが増えていきますのよ」

 オリガは読み書きと簡単な算術は人並み程度になったものの、後はまるで駄目だった自分の子供の頃へ話が向かないことを祈りながら作り笑顔で答える。

「ユーリヤ嬢は特に経済に強いのですよ。だから交易を発展させたい王太子殿下と気が合うのでしょうね」

 エドゥアルトがそう話題を持っていってオリガはほっとする。

 実際、十五になるユーリヤが第二子であるが故に家督を継げないのを、ドミトリエフ公が密かに惜しんでいたとドミトリエフ公夫人から聞いたことがある。

(同じ九公家に生まれたわたくしとは全然違うわ)

 婚約した二人が難しい話で意気投合していた内容はよく分からなかった。今日はエドゥアルトが横にいるので、難解な話題を躱す努力は最小限ですんでいるのだけれど、彼に頼ったままでいると思うと気が塞ぐ。

 それでも笑顔を絶やさず、落ち着いて言葉を交わすのが自分にできるせめてものことだ。

 それから顔合わせが終わると、晩餐会に向けての準備が慌ただしく始まる。

「オリガ様、お髪は結い上げずに流しましょうか」

 侍女のライサがオリガの顔色から疲れ具合をみて、確認する。

「結い上げて、その代わり髪飾りは軽いものがいいわ」

 きつく髪を結われるのは疲れるが、少しでも大人びて見せるには仕方ない。

「今年の外交予定はこれとあともう一件でございますから、もう少しでございますよ。二十日後の通商会談はオリガ様にがお出になるのは昼食会だけですし、皇帝陛下と外事官達が取り仕切るのでそうお気を張らずともよいでしょう」

「ええ。そうね。晩餐会もそれほどたくさんお喋りするわけではないものね」

 諸外国からの来訪者を迎える社交の場は苦手だ。

 使う言葉がほとんど同じでも、些細な言い回しや発音の違いで戸惑うことが多い。その上、外交を司る外事大臣と産業を司る産事大臣から、話題に上げて欲しいという事柄や特定の話題の受け答えと色々と覚えなければならない。

 外事の女性官吏が侍女としてついてくれるものの、主催が皇后の時は頼り切ることはできない。とはいえ、いつも横から助けを出してもらっているのが常である。

 人と話すのは好きだけれど、頭をたくさん使うことになると会話を楽しむ余裕が持てない。

「……何をお悩みかはしれませんが、皇帝陛下の隣に並び立てるのはオリガ様だけなのですからもっと自信をお持ちください」

 ライサが宝飾品を選びながらそう言うのだけれど、無理な話だ。

 同じ年頃の九公家の令嬢の中で有能な人が多くいながら、皇后に選ばれたのは父が九公家の中でもとても影響力が強い人だからでしかない。

(わたくしに何があるのかしら)

 初めて側室の話を聞いた後に抱いた疑問は、数日前にヴェラと話してからことさら胸に重くのしかかっている。

 難しいことはわからなくとも、皇后としての務めは自分のできることを必死にやってきた。

 すべてはエドゥアルトのためだ。自分の能力が十分でないことも、よくわかっている。

(もっと賢い女性がいいわけではないんだわ)

 ヴェラは賢い。ただそれ以上に、ひとりで立っていられる人だ。かといって他人を寄せつけないわけでもなく、情が薄いわけでもない。

 自分で自分を支える確かなものを持っている。

 その揺るぎなさにエドゥアルトは安堵するのだろう。

(わたくしには、何もない)

 オリガは、不安げな鏡の中の自分と目が合ってしまって口を引き結ぶ。

「さあ、オリガ様。これはいかがです。重たければ、そうですわね。これを外してもよろしいかしら」

 髪が仕上がり、ライサがそう問うてくるのにこれで大丈夫と小声で返事をする。

 五つの頃から一緒にいるライサは、落ち込んでいるのを見透かしているのだろうけど何も言わない。

 オリガは深呼吸をして、晩餐会へと向かう。

「母上!」

 会場の少し手前で、緊張した面持ちのイーゴルと合流する。

 今年に入ってから、イーゴルが外交の場に顔を出す機会が増えた。顔見せのための挨拶程度で何をするというわけでもないが、事前に相手国のことも一通り学んでおかねばならず頭を悩ませている。

 ひとつのことを覚えきれない内に次から次へと学ぶことが増えて苦労しているイーゴルは、自分を見ているようで胸が苦しくなる。

「今日はご挨拶ができればいいだけだから、大変なことはないわよ」

 自分自身に言い聞かせている言葉をそっくりそのままイーゴルに返すが表情は硬いままだ。

「はい。あ、父上がいらっしゃいました」

 イーゴルがオリガの後ろにエドゥアルトを見つけ、オリガも振り向く。エドゥアルトはオリガ達を目に留めると、一緒に話していた官吏達を下がらせる。

「そう固くなるな。俺も母上もいるのだから、そう怖がることはない」

 エドゥアルトに優しく頭を二度叩かれたイーゴルが両親の顔を交互に見やって、幾分か体の力を抜く。

 体が大きい分年齢を知る者にさえ実年齢より上に見られやすいイーゴルは、中身はまだまだ年相応の子供である。

(エドゥアルト様と同じようにとはいかないわよね)

 これから重圧が増していくことを考えると気が重くなるけれど、イーゴルが落ち込まぬように穏やかに見守るしかない。

 先のことへの悩みは多いけれど、晩餐会はつつがなく進んでいった。無事婚約となったふたりを祝い、賑やかな雰囲気の中イーゴルの緊張も解け終わる頃にはいつも明るい笑顔があった。

 晩餐会が終わってもまだ公務があるというエドゥアルトは、平服に着替えてすぐに執務室へと行ってしまった。

 疲れていたオリガも、エドゥアルトを待つこともなく何を考えることもせずに眠る。

 翌日は午前中に王太子一行を見送り、ユーリヤと一緒に気軽なお茶会をして過ごして日に渡る公務が終わるとどっと疲労が押し寄せてくる。

 編みこんでいた髪をすべて下ろしてもらい、締め付けの緩いドレスに着替えると長椅子にぼんやりと座り込む。

 まだ夕刻まで時間があるので少し眠ってはとライサの提案もあったが、疲れているのにまだ眠気はなかった。

 イーゴルは午前中に見送りにも顔を出した後、座学を短時間して今頃は馬術訓練を楽しんでいるだろう。

 夕餉の頃にはまた着替えなければならないが、それすら億劫だ。

 オリガは交流のある貴族達から届いた手紙を読み始めるものの、頭が回らず目を閉じて休息に専念することになった。その内に少しだけ眠ってしまっていた。

「オリガ様、今日はこちらでゆっくりお食事をなさりますか?」

 うたた寝から目覚めると、エドゥアルトは急な政務で夕餉は執務室で済ますということだった。イーゴルも馬術訓練のついでに狩もして、兵舎で食事の準備から皆と共にするらしい。

「そうするわ。みんなで一緒にいただきましょう」

 ひとりきりの食事は寂しいので侍女達に声をかける。

 皆、嫁ぐ前から仕えてくれている気心の知れた間柄で、たわいのないお喋りをしていると子供の頃を思い出して、ようやく心身が安らぐ。

「よかった。ご政務はもう片付きましたのね」

 ゆったりした時間の後に湯浴みをすませて身繕いを終え、寝所に入るとすぐにエドゥアルトも夜着で現れた。

 昨日も遅くまで政務をしていて今日もでは落ち着く暇もないのではと、心配だった。

「ああ。大した事ではないが急ぎだったからな。オリガも昨日今日と疲れただろう。しばらくはあまり予定が詰まっていないが、これから暑くなるからな。無理はしないようにな」

 暑すぎても寒すぎてもすぐに体調を崩してしまうので、いつも公務は体を気づかわれながら予定の調整をしてもらっている。

「ええ。だけれど、わたくしに、できることはきちんとこなしたいですわ」

 寝台に上がって、オリガはそう弱々しく告げる。

「……イーゴルは兵舎で泊まることにしたんだな」

「ええ。兵舎の演習場で野営の練習をするのですって。あの子は兵舎が好きですわね」

 イーゴルが自分と違うところは武芸が得意ということだ。居心地のいい場所があるのは安心する。

(エドゥアルト様も、ヴェラ様の所の方がゆっくりお休みになれるのではないかしら)

 ふとそんなことを思ってしまい、蝋燭の薄明かりに照らされたエドゥアルトの横顔を見やる。

 エドゥアルトは側室を迎えてからも、自分を蔑ろにすることはない。

 以前と同じようにこうして公務をねぎらってくれたり、イーゴルのことを話したりする時間をもってくれる。

(あなたがわたくしに最後に触れたのはいつだったかしら)

 ただ、違うのは同じ寝台にいても指先すら触れ合わないことだ。

 エドゥアルトにとって、情交を結ぶことは跡継ぎのための義務でしかなかったのだろうか。

「オリガ、どうした?」

 気がつけば止めどなく涙が溢れていて、エドゥアルトが薄暗い中でも気付いた。

「ご、ごめんなさい。なんでもありませ……」

 間近から顔を見られたくなくて距離を取ろうとすると抱き寄せられる。

「言いたいことがあるなら言っていい。いつも無理をさせてすまないな」

 エドゥアルトは優しい。だけれど彼の本心はその優しさにくるまれて何も見えない。

「わたくしは、エドゥアルト様に必要ですか? お父様の娘でなく、イーゴルの母でもなく、わたくし自身はあなたのお役に立てていますか?」

「……大丈夫だ。オリガは、よくやってくれている。何も引け目に感じることはない」

 抱きしめてくれる腕の強さの安心感と、顔が見えない不安がないまぜになってオリガはエドゥアルトの背へ縋り付くように手を回す。

「わたくしは、あなたを好きでいてかまいませんか」

 ふっと抱きしめる腕が緩んで、言葉の代わりに口づけが降りてくる。

 そっと寝台に横たえられてオリガは、少しだけ頭を上げて自分から口づけを求める。

 やさしく、いたわるように肌に触れるエドゥアルトの掌に大切にされていると感じる。

(あなたにとって唯一のひとになりたかった)

 それと同時にその願いは永遠に叶わない気がした。


***


 短い夏が盛りを迎える頃、乳母の選定を考えていたオリガは来客が予定より早くついたとの報せを受けて立ち上がろうとする。

「オリガ様!?」

 その瞬間、目の前が真っ暗になって体が傾いで倒れそうになる。幸い机に手をついて難を逃れたものの、まだ少し頭がぐらついて侍女に支えられながら長椅子に座る。

「……ご予定の変更をいたしましょうか」

「少し、休んだら大丈夫だと思うわ。……お水をちょうだい」

 そうは言うものの弱い頭痛がしていて、これからの侯爵夫人との茶会を最後まで終えられる自信がなかった。

「最後の月のものからふたつき半にはなりますわね」

 ライサが扇でオリガに風を送りながら険しい表情になる。

「もう、そんなになるかしら。だけれど、まだ来ていないと思うのだけれど」

 始まればまず腹部に鈍痛がくるはずだ。暑くなってから胸がつかえて食欲もなく、いつもの暑気あたりではないだろうか。

「ご予定はお断りしましょう。神官様と産婆をお呼びしますね」

 ライサがそう言って、いそいそと人を呼びに行かせる。

(産婆はいらないのではないのかしら)

 月の触りがふたつき以上ないことは珍しくもなく、何度もそれでがっかりした覚えがある。そもそもエドゥアルトと共寝をしたのも、あの夜一度きりである。

 まだ立ち上がることもままならないオリガは、茶会を取りやめて大人しく居室で診察を待つことにした。

 先に産婆がやってきて体を見た後に、帝国において医療を担当する神官もやってきて脈を取り舌や下瞼の裏を見てこの頃の体調を聞き取っていく。

 そしてふたりがお互いの見解を話し合い始める。

「皇后陛下は月のものが不定期でありますので、確実なことはあと半月は様子を見てからになりますがご懐妊の可能性が高いかと」

 産婆がそう告げるのに、喜びよりも信じられないという思いの方が強かった。

「血の巡りがよろしくないのと、体が冷えておりますのでこちらをご処方しておきます。十日ほどしたら、またお呼び下さい」

 神官が荷からいくつか薬を出して侍女達に処方の仕方を教えるのを、オリガは他人事のように見ていた。

(わたくしの、赤ちゃん)

 腹部に手をやってもまだ何も分からない。

 信じ切れないまま数日が過ぎる内に、つわりが始まり苦しいながらもじわじわと望んでいた新しい命への喜びがわいてくる。

(どうして、今、なのかしら)

 オリガは頭の片隅でそんなことを一瞬だけ思うものの、すぐに重たい気持ちを振り払い芽生えたばかりの我が子を慈しむことだけに意識を注ぐのだった。

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