狂気の微笑
真実へ辿り着くためには、
時に、一歩を踏み出す勇気が求められる。
積み重ねられた手掛かり。
交差する思惑。
そして、ようやく見えてきた一つの答え。
だが、真実の扉は決して容易には開かない。
その先で待ち受けるものは希望か、
それとも、誰も望まなかった現実なのか。
ハンドルを握る手には力を込めている。ただそれだけで、頭の中は嵐のようにぐるぐると回り続けていた。
道は朝を切り裂くナイフのように真っ直ぐ伸びていて、街の残骸を背後に吐き出しながら、どこでもない土地へと俺たちを運んでいく。蓮次郎の屋敷へと続くこの道には、生きているものの気配がない。ハンドルを握る手は動かない、揺るがない。だが頭の中は別だ――思考が嵐のように渦巻いて、まとまる気配すら見せない。車内の緊張は空気そのものを変質させていた。触れば手に引っかかるんじゃないかってくらい、重くて、固くて、息苦しい。
隣でダミラが窓の外を見ていた。
怖がっているわけじゃない。あれは……もっと別の何かだ。嵐の前の凪みたいな、抑えられた予感。奴の指がアームレストを押し付ける力、その呼吸のリズム、肩の張り方。全部が、俺の胸の中で燃えているのと同じ焦りを伝えてくる。声には出ていない。聞こえるわけもない。それでも、まるで見えない糸で繋がれているみたいに、お前が感じていることが俺に流れ込んでくる。その糸は今にも切れそうなほど張り詰めていて、どちらかが一歩踏み外せば、全部崩れる。
外科医がメスを入れる直前のあの息詰まる静寂。剣士が最初の一撃を繰り出す前の、あの張り詰めた一瞬。
そこに俺たちはいた。
もう後戻りはない。
屋敷が地平線に現れた――夜明けの空を背景に、一塊の闇が輪郭を持ったような圧迫感だ。安全な距離にまで車を止める。近づきすぎず、されど走れば数分で到達できる場所だ。エンジンを切って、一秒、目を閉じる。
――息を整えろ。
意識を広げた。見えない網のように感覚を屋敷の周囲に張り巡らせ、何かを、魔術の罠でも警戒の術式でも、何でもいいから探す。
……何もない。
術式の気配がない。結界の痕跡もない。警報の封印すら、一つも。
まるで屋敷が素っ裸のまま、こちらに差し出されているようだった。
「……おかしい」
声に出していた。これは安心していい状況じゃない。何も仕掛けていないということは、蓮次郎が信じられないほど間抜けか――あるいは、そんな防御すら必要ないと確信しているか。その二択なら、後者の方がずっと怖い。
正門の両脇には苔むした石像が立っていた。そして車道の奥に、暗い車の輪郭が見える。蓮次郎の車だ。間違いなく、あの中にいる。
「基地と連絡を取る」
ジャケットの内ポケットからスマホを引き抜いたが、画面には電波が一本もない。
「……圏外だ。何かが通信を妨害している」
「魔術じゃないわよね」
ダミラの言い方は問いかけというより確認だった。静かで冷たい声。俺は無言で頷いた。テクノロジーだけを狙った干渉。蓮次郎が少なくともその程度は仕掛けているということだ。
ダミラはわずかに眉をひそめて、指をアームレストの上でたたいた。
「では外に出て調査しましょう。こうして何もしないでいるなんて、わたくしには耐えられませんわ」
「危険だ。二人だけで入ったら――」
「今動かなければ機会を逃してしまいます。次に姿を見せるのはいつかしら?また一週間後?また二週間後?――その間に、あのような亡骸が増えていくとしたら、貴方にはそれが許せますの?」
奥歯が軋むほど噛みしめた。
……わかってる。わかってんだよ。でも。
正しい。くそっ、正しいのはわかってる。だからって決断が楽になるわけじゃない。
そのとき、思い出した。
そこで思い出した。前回の潜入で屋敷の中に仕掛けておいた監視の術式。魔術の「カメラ」だ。拳銃を抜き、顔の横に構えて、隠しておいた紙片との接続を開く言葉を静かに唱えた。
「『開け、真実を示せ』」
空気が揺らいだ。震える光のスクリーンが目の前に開き、別の場所への窓のように映像を映し出す。廊下、廊下、廊下。埃をかぶった部屋。ほっといた家具。全部同じだ、前回と何も変わらない。
――そして、あの扉。
死体があった部屋への扉。
――!!
蓮次郎が扉を必死に開けて、中に飛び込んだ。一瞬で視界から消えた。
他の映像も素早く確認する。屋敷全体を走査した結果、断言できる。中にいるのは蓮次郎、一人だけだ。
「中にいるわ」
ダミラが言った。目が光っている。
「しかも一人。今しかありませんわ」
「罠かもしれない」
「そうかもしれませんわね。それで?わたくしたちは戦える、二人とも。動きを合わせれば道は開けるはずですわ。この機会を逃すおつもり?マーカス、何度待てばいいのかしら。あと何人犠牲になれば、行動できますの?」
俺はダミラを見た。その目の中に、今まで見たことのない火があった。義務感じゃない。ルールに従ってるわけでもない。自分の目で惨劇を見て、それを二度と繰り返させないという、もっと根っこの部分からくる意志だった。
「……俺は」
声が思ったより低くなった。
「お前に何かあったら嫌だ。それだけだ」
ダミラは一瞬じっとこちらを見た。
それから、無言で手を伸ばし、ジャケットの襟を掴んで引き寄せた。
唇が塞がれる。
抗議の言葉は生まれる前に消えた。短い、ほとんど乱暴なくらいのキスだった。でもその激しさの奥に込められた何かが、胸のど真ん中を直撃した。全然考えたことがなかった場所に踏み込まれたような、完全に未知の感触。思考が一瞬きれいに空白になって、その代わりに温かさが広がった。指先まで届くような、ゆっくりとした熱。
唇が離れた。ダミラの頬には少し赤みがあったが、眼差しは一ミリも揺れていない。
「わたくしを信じなさい」
彼女は言った。反論を許さない声で。
「一緒なら止められますわ。この陰謀に終止符を打って……それから、あの黒木という裏切り者の件も調べましょう」
黒木。
その名前が胸に食い込んだ。刃みたいに。陰陽師側についた、かつての知人。魔術師全員を消そうとしているあの男。それもまた、片付けなければならない悪だ。
「……わかった。行くぞ」
呼吸を整えて、ドアを開けた。
裏庭に面した窓が少し開いていた。それで十分だった。
拳銃を構えて壁に張り付き、先に入る。ダミラが後に続く。杖を前方に向けて、唇はいつでも詠唱できる形に。
足がタイル張りの床に触れた瞬間――
魔力の波動が、床下から跳ね上がった。
「罠だ!!」
後方に飛んだと同時に引き金を引く。光の弾が間一髪で発動しかけていた術式に命中し、完全に展開される前に打ち砕いた。衝撃が壁を揺らす。何年分かの埃が天井から降ってきて、灰色のカーテンになった。
焼けた紙の残骸を調べる。
これは現代の魔術師が使う術式じゃない。もっと原始的で粗削りだ。紙に刷られた封印、床にベタ貼り、踏まれるまで完全に静止している。だから外から感知できなかった。これは活性状態の魔力じゃない――起動されるまで死んでいるタイプの罠だ。
「蓮次郎は前回の侵入を知っている」
と俺は言いながら、焦げた紙を調べた。
「だから罠を仕掛け直したんだ。前は何もなかったのに」
「一層慎重に進まなければなりませんわね」
一歩ずつ、もどかしいほどゆっくりと廊下を進んでいく。曲がり角のたびに緊張が跳ね上がる。角の向こうに、次の封印が、次の罠が、次の何かが待ってるかもしれない。
そのとき、空気が変わった。
密度が増した。自然じゃない電気のような張り。ダミラも気づいた――杖を握る指が固まったのがわかった。
廊下の奥から、形が生まれた。蓮次郎じゃない。
もっと大きい。もっと荒々しい。もっと――
獣だ。
現実に縫い付けられたみたいに、別の次元から滑り出てきたような巨体。猪に似ているが、肉と骨でできていない――暗い金属製の体に、青白い光の筋が血管みたいに脈打っている。裂け目から内部が見えた。そこでは何かが、明らかに生きているように、鼓動していた。純粋な魔力だ。文字通り、固まった魔力でできている。
「クラスBの召喚体です!!」
ダミラが叫んだと同時に、それが突進してきた。大きさを裏切るスピードだ。
マジクスの世界からの召喚体――わかってる。こういう奴の相手は初めてじゃない。魔力で構成された体は、外からの打撃を吸収する。まともに表面を撃っても意味がない。弱点は内部、凝固した魔力のコアだ。亀裂から直接叩き込む。それしかない。
「ダミラ、左に回れ!俺が引きつける!!」
右に走りながら引き金を連射する。光弾が金属の背中に弾かれていく。傷にもならない。でも目的はそれじゃない。注意を割かせる、それだけでいい。
ダミラが死角の獣に滑り込んだ。杖の先を亀裂に押しつける。短い詠唱が走る。
「『アペリ・エト・デレ――スピラティオ・エクスティングエ』!!」
青い光の爆発が亀裂から噴き出した。猪が悲鳴を上げた。金属のすり合わさるような、機械が壊れるような音。体の光の筋が暴れ出す、爆発直前みたいに。
「今だ、マーカス!!」
引き金を引いた。弾は亀裂の奥深くに飛び込み、内部で炸裂した。
獣は一瞬固まって、震えて――青い粒子の雨になって消えた。地面に届く前に霧散した。
静寂が戻った。俺たちの荒い息だけが残った。
「……うるさすぎた」
と言いながらリロードする。
「蓮次郎にはもう気づかれてるぞ」
「構いませんわ。参りましょう」
あの部屋の扉は、覚えていた通りの場所にあった。
そっと押し開けて、中を確認する。
死体はない。
何もない。
剥き出しの壁、埃をかぶった床。そして、奥に――前回はなかった金属の扉が、一枚立っていた。
「隠し入口ですわね」
ダミラが顎でしゃくった。
「蓮次郎があの部屋を仮の倉庫として使っていたとしたら、本当の研究室はあの下にあるはずですわ」
頷いて、金属扉に近づく。取っ手をつかんで引いた。
その瞬間、足元が消えた。
「マーカス!!」
奈落が俺を吸い込んだ。重力が敵になった。ダミラの声が遠ざかる。手が伸びてきた、指先が触れた、かすかに温度を感じた――
そして暗闇が全部塗り潰した。
「『風よ、掴め、落下を和らげろ』!!」
集中する間もなかった。それでも呪文は拳銃から飛び出した。上昇気流が生まれ、落下速度が鈍る。それで十分だった。
地面が来た。
両膝をついた。胸が燃えるように痛い。耳が鳴っている。
上を見た。落ちてきた穴は遠い光の点だ。ダミラはいない。声もしない。
……一人か。
立ち上がる。土を固めた床、苔と根がびっしりついた石の壁、天井からぶら下がる触手みたいな根。そして、空気の中に漂っている、小さな蛍のようなもの。
封印の紙だ。
いくつも、いくつも。浮かんでいる。
蓮次郎はここを、侵入者を狩るための場所として作り込んでいた。
前進する。壁に背を向けず、銃口を左右に振りながら。封印が反応するより先に感知して、弾を叩き込む。紙が炭になって落ちる。一枚、また一枚。
全部が紙の罠じゃなかった。
壁の亀裂から、影が滲み出た。
狼の形をしていた。皮膚は半透明で、内側で青い光を持つ臓器が脈打っているのが透けて見えた。鳴き声を上げた――音じゃなくて振動で。衝撃波が壁を震わせて、俺は耳を押さえた。
「『多重射撃』!!」
三発、光の三角を描いて飛び込む。狼が歪み、砕け、煙のように消えた。
息をつく間もなく、今度は天井から来た。
猫科の何かだ。爪は刃物で、跳躍は音より速い。
転がった、ギリギリで。仰向けのまま引き金を引く、腹に直撃。着地する前に消えた。
「……次は?」
独り言だった。答える奴はいない。
それでもトンネルは答えるように、新しい形を闇から絞り出し続けた。金属の蛇、火の目を持つもの。石の鳥、腐食性の泥を吐くもの。黒曜石の甲羅を持つ巨大な虫。
撃つ。躱す。撃つ。躱す。
ユニフォームが裂けた。猫のような奴の爪が腕を開いた。血が流れているのはわかる。止める時間はない。
止まれない。
止まったら終わる。
全部倒した。
ようやくトンネルが広がった。金属の梯子が壁に張り付いている。出口だ。
慎重に登って、天井の扉を押した。
サービス通路のような場所だった。空気が乾いていて冷たい、人工的に調整されている感じがする。窓がない。絵もない。ただ真っ白な壁と、黒いゴムのタイル。
廊下の先に、一枚の扉。
拳銃を構えて歩く。心臓が速い。
近づく。心拍が上がっていく。扉を押し開けて、中を覗き込む。
実験室だった。巨大だった。工場に近い規模だ。機械がうなり、明滅している。金属のパイプが壁を縦横に走っている。ガラスのタンクに不可能な色の液体が満ちている。中央に球状の装置がそびえていて、データを映し出す画面がそれを取り囲んでいる。俺には意味が読めない数値が並んでいる。
そして部屋の奥に、深くて強烈な緑の光が輝いていた。
距離があって正体はわからない。でもその密度は肌に触れる、低い電流みたいに神経を侵食してくる感覚だ。
右側で音がした。
銃を向けた。
蓮次郎が、光の中に歩み出た。
思っていたより小柄だった。細身で、白髪を後ろに撫でつけて、丸い眼鏡のレンズが機械の光を反射して二つの小さな月のようだ。白衣の下にダークスーツ。そして唇に笑み。歓迎の笑みじゃない。もっとおかしい、もっとゾッとする種類だ。罠に落ちた獲物を見る捕食者の、喜びのような何か。
「ようこそ、ハンター」
声は大きくない。威圧感もない。でもその確信の重さが言葉に乗っていた。
「待っていたよ、貴方のことを」
「蓮次郎・アッシュフォード」
銃口を胸に向ける。
「ワイルドソウル一族の命により貴様を拘束する。違法な実験、魔力の強奪、管理下での魔術師の死亡……容疑はそれだけじゃない」
「……手続き。形式。貴方は本当にそれが意味を持つと思っているのかね?」
乾いた笑いが響いた。不快な音だ。
「大人しく来るか、力尽くか。選べ」
「選択は、ずっと前に終わっているよ。このマジクス・テラが変わらなければならないと決めたときに。魔術師たちが暗闇の中に這いつくばるのをやめなければならないと決めたときに」
奥歯を噛んだ。
「だからって死体の山を正当化できるか。この屋敷で死んだ者たちを。盗まれた魔力を。実験台にされた一般人を……それがお前の言う"変化"か」
「良心?」
表情に、初めて何かが滲んだ。でもそれは罪悪感じゃない。もう一度笑った。今度は苦さが混じっていた。
「奪ったひとつひとつの命が、ひとつひとつの魔力が……より大きな善に捧げられた。理解できないのだろうがね、貴方には。規則に、伝統に、上の者たちの臆病さに目を眩まされているから――」
警告射撃を放った。弾が頬をかすめて、後ろの機械に刺さった。火花が散った。蓮次郎は微動だにしなかった。
「次は外さない。話せ。ここで何をしている」
蓮次郎は白衣を汚した自分の頬に触れた。指の血を眺めた。子供みたいな、純粋な関心で。
「私たちの種族『マジクス・テラ』の問題が何かわかるかね……魔力だよ。魔力がなければ何もできない。呪文も使えない。身を守れない。極端な欠乏状態では、生命すら維持できない。マジクスの世界ではそれは問題ではない。大気にも、地にも、あらゆる実体に魔力が溢れているから。しかし、ここでは……ここでは違う。わたしたちは制限されている。弱い」
「それはどの魔術師も知っている基礎知識だ」
「そう、基礎知識だ。新しくはない。しかしそれが克服できると知っている者は少ない。魔力を人工的に生成することを学べば、任意の生命体に注入できれば……人間も、魔術師も、区別なく」
胃が縮んだ。
中央の装置に目を向けた。
「……あの機械が」
「人工魔力生成機だよ。私の傑作。これでマジクス・テラはもう魔力を必要としない。生成して、保存して、分配できる。それだけじゃない、人間を魔術師に変換できる。我々の人口を増やせる。恐れることなく拡大できる。この星に新たな魔術師の時代をもたらせる。その意味がわかるか?」
「……あの遺体は? 殺した魔術師たちは?」
蓮次郎の顔に苛立ちの影がよぎった。
「生成機には大量の魔力が必要だった。捕まえた連中は……ビジョンを理解しなかったたまえ。ヴィクターと同じで臆病だった。伝統に縛られて、規則に縋って、協力を拒んだ。未来に参加したくないなら、未来を作るための材料になればいいじゃないかじゃないか」
「お前は狂ってる」
「正気ではないのは誰かね?」
蓮次郎が両腕を広げた。まるで研究室全体を抱きしめるように。
「自分の民を解放したいと思うことが狂気かい? 進化を求めることが、進化を、進化を求めることが――!?ヴィクターもそう言った。今、貴方もそう言う。……誰も理解しない、理解しない、誰も理解しない……!」
言葉が繰り返された。崩れるように。
「ヴィクターが離れた。危険だと言った。自然の理に反すると言った。私たちの種族は準備ができていないと言った。だから一人で続けた。別の魔力源を探した。……工夫したんだよ、私」
「陰陽師は関係あるか?」
名前を出した。反応を見た。
「陰陽師?」
蓮次郎は眉を持ち上げた。
「……なんの話かね、貴方は。そんな連中は存在しないじゃないかじゃないか。馬鹿馬鹿しい。馬鹿げている! くだらない!」
……確信できた。
蓮次郎は本当に知らない。陰陽師とこの件は、完全に別の話だ。
つまり俺たちが追うべき悪は、最低でも二つある。
頭が痛い。でも後でいい、今は――
もっと聞きたかったが、蓮次郎は時間を与えなかった。白衣の下から杖を抜き上げた。部屋の奥の緑の光が急激に強まった。
「もう十分に話したよ」
蓮次郎の笑みが今度は純粋な狂気だった。
「楽しかったよ、ハンター。しかし貴方の時間は終わりだ」
床が震えた。機械が唸り始めた。赤いエネルギーがパイプから溢れ出して、壁を這う、感染するように。球状の装置が耳をつんざく轟音を上げる。研究室全体が長い眠りから目覚めたみたいに、原始的な怒りで暴れ始めた。
蓮次郎は待たなかった。横の扉に向かって走り出した。
「待て!!」
追おうとした。蒸気の爆発が行く手を塞いだ。腕で顔を覆う。熱い。目が痛い。
蒸気が晴れた時、あいつはいなかった。
「……くそっ!!」
扉を蹴り開けた。屋敷の中に戻っていた。知っている場所じゃない。長い廊下、牧歌的な風景の絵画、磁器の花瓶。蓮次郎の痕跡はどこにもない。
足音もない、気配もない、魔力の残滓もない。
静寂だけがある。
でもこれは普通の静寂じゃない。重くて、粘っこくて、まるで何かが息を止めて待っているような静寂だ。見られている。そんな確信が首筋の毛を逆立てる。心拍が状況に合わない速度で打ち続けている。
何かがずれている。
光の差し方。カーテン越しの朝の光。家具の配置。全部が微妙に、おかしい。現実に似ているけど現実じゃない、夢の中の建物みたいな違和感。
「……ダミラ」
声を抑えて壁に反射させた。
誰も返事をしない。
どこにいる。無事か。
わからない。
それでも足を止めるわけにはいかない。銃を構え、感覚を尖らせて、前に進む。見えない罠が収縮してくる気がする。出口がどこかも、奴がどこに逃げたかも、お前が生きているかどうかも、今日がここで終わりかどうかも。
何もわからない。
でも、止まれない。
正義は待たない。
――終わりは、新たな始まりとは限らない。
真実が明らかになったその瞬間、
すべてが終わるわけではない。
残された者。
託された想い。
そして、過去から続く因縁が再び牙を剥く。
次回――
喪失。
守りたかったものは、
いつも手を伸ばした先にあるとは限らない。




