引き際と始まり
どれだけ強くても、
どれだけ多くのものを守っても、
心の中に残る孤独までは、
消すことができない。
過去は変えられない。
失ったものも、
戻ってこない。
それでも――
差し伸べられた手を、
拒む必要はない。
狼は今、
一人ではないことを知る。
机の上に積まれた報告書は煉瓦一枚分の厚みがあって、その重さはまるで墓石みたいだった。最後のページをめくり、茶色い表紙の上に「捜査終了」の公式印を押し付ける。アザエルの件は正式に終わった。
……なのに、腹の奥にあるのは勝利の感覚じゃない。あるのは、お見事すぎる手品を食らったあとだけが持つ、あのくすぶった焼け感だ。椅子の背もたれに体を預ける。革が沈み、木がギィっと鳴く。天井を眺めた。
……信じらんねえ。
ダミラの死も、黒木との決着も、全部ここに繋がっていた気がする。俺が背負ってきたものは、ようやく形になった。
長い息が、自分でも気づかないうちに口から漏れた。
魔術師の社会丸ごと、まんまとあいつの手のひらの上で転がされてたんだ。アザエルは軍隊なんか要らなかった。必要だったのはただ一つ、俺たちの「見たくないものを見ない」という集団的な盲目さだけだ。魔法使いを「世界の均衡を守る無謬の賢者」として崇め奉るのが当たり前になりすぎて、その存在を疑うことが冒涜に等しかった。誰も絨毯の下を見なかった。救済者が刑執行人を兼ねるはずがない、という傲慢さが俺たちの目を塞ぎ続けたんだ。その盲目な信頼こそが、アザエルが自分の屠殺場を建てた粘土だった。
でも、終わった。案件は閉じた。
理屈の上では、危険は去って勲章をもらう理由だって十分ある。継承者たちの救出、全てが崩壊する直前でのアザエルへの強引な制圧、他の連中が見落とした糸を繋ぎ続けた不眠の捜査週間……そのどれもが、公式の階梯の上で結実した。もう現場命令を受けて拳を割るだけのハンターじゃない。今は一等大尉だ。複数の小隊を預かる立場で、そして――この部屋がある。
辺りを見回す。薄暗い。
暗い木製の四枚の壁。どっしりしたデスク。大きな窓。高位司令部の執務室特有の、死んだみたいな静けさ。……好きじゃないな、執務室ってやつは。
でも、ここに座るってことは、もう逃げないってことだ。俺は戦場だけじゃなく、未来にも責任を持つ。
どぶ臭い路地か、砂埃の立つ訓練場の方がずっとしっくりくる。書類仕事は体を鈍らせるし、デスクは反射神経を殺す。けど、挑戦は挑戦だ。親父もお袋も、より多くの人間を守れるなら責任の重さなんか恐れなかった。俺がそれより下に出るわけにはいかない。
俺はもう過去に縛られてない。ダミラを忘れるんじゃない。彼女が望んだように、生き続けるだけだ。
ただ、騒音が消えて四枚の壁だけが残ると、幽霊どもは勝手に入り込んでくる。
目を閉じる。黒木の顔が浮かんだ。ある意味では、あの最後の戦いがひとつの循環を閉じてくれた。憎悪、壊れた絆、裏切り……全部、瓦礫の下に埋まった。あいつの記憶との間に、にがい和解みたいなものに辿り着いた。
黒木とは和解できた。だが、ダミラとは永遠にできない。それが一番の地獄だ。
もう一本の棘がある。もっとずっと深い棘が。胸の中心に、ずっと刺さったままの棘が。
ダミラ。
黒木に殺されたダミラ。最期の瞬間がどんなだったのか、俺には分からない。怖かったのか?何かを考えたのか?寒かったのか?
だけど本当に喉の奥を焼くのは、アキラの言葉のこだまだ。
『彼女は君のことが好きだったんです。恋愛的な意味で、君に興味があったんです』
喉の奥で、熱くて硬い何かがきつく縛られた。
ダミラのことを考えるのは、とびきり性質の悪い痛みだ。家を出て何キロも離れたところで、蛇口を全開にしたまま出てきたことを急に思い出す感覚に、ぴったり似ている。もうどうにもできない距離に立ったまま、水が全部を浸水させていくのを分かってる。帰った頃には床も腐って、壁も滅茶苦茶になっているのが分かってる。ダミラを思い出すのはそれだ。取り返しのつかない惨事になってしまった瞬間に、頭の中でだけ引き返す行為。そして、あの蛇口を閉めに戻ることは永遠にできないという苦い確信。
人生で初めて……本当の意味で後悔してる。
戦場で負けても後悔はしなかった。仲間を失っても、前に進むしかなかった。だが、ダミラだけは違う。俺の心臓に、永久に残る敗北だ。
見えていなかった自分を後悔してる。あいつが黙って持ち続けていたものを読み取る繊細さがなかった自分を後悔してる。任務、ミッション、戦闘、それだけに焦点を絞り続けた、あの救いようのない鈍感さと一面性を後悔してる。
希望があれば何でも治ると信じて育った。絶対に諦めるなと教わって育った。親父もお袋も、その体現だった。二人ともハンターで、馬鹿みたいに優しくて、馬鹿みたいに慈悲深かった。二人のおかげで、本物の正義を探すこと、弱い者を守ること、どんなに夜が暗くても腕を下ろさないことを学んだ。二人は最後の任務でも諦めなかった。
親父とお袋なら、ダミラの心を見抜けたかもしれない。俺はまだ半人前だった。だが、彼らの教えがあるからこそ、今こうして立っていられる。
そして天井の蛍光灯を見上げたとき、氷のような真実が落ちてきて、一瞬、息ができなくなった。
……俺の人生は、喪失だらけだ。
勝利も昇進も、全部空っぽに見える。残ったのは、失った顔ばかりだ。
黒木を失った。兄弟と呼んでいた男を。ダミラを失った。気づいてやれず、守れず、応えてやれなかった。五年前、ハンター新人になったばかりで、親父とお袋を失った。
呪われてるのか、俺は?真剣にそう自問した。
どれだけ善を尽くしても。世界にどれだけの優しさを渡しても。運命が俺に支払ってくれる唯一の通貨は、悲劇だけのようだった。
目の奥が熱い。瞼の裏がじりじりと焼ける。
どうして……と、部屋に溶けていくほどの声でつぶやく。
これだけの痛みを受けるような何をした?大切な人間をみんな失うほど、俺はどこで誤ったんだ?
答えてくれるものは何もない。執務室の空気は死んでいた。
春花に間に合わなかった。ファウスティーヌが死んだ。支えきれなかった命の重さが全部、怒りと無力感の化け物に変わって俺の腸を食い破ってく。
――バン!
拳が執務机のマホガニー天板に叩きつけられ、死んだような静寂の中で部屋が震えた。
木の震えよりも、俺の中の空洞の方が大きく響いた。
顎を食いしばる。歯が軋む。
まがいものだ……と、自分に向けて思う。大尉の階級章をつけた詐欺師。
俺は英雄じゃない。死者の上に立ってるだけの、ただの生き残りだ。
この椅子に座る資格なんかない。称賛も昇進も、「武勲」への賛辞も、何一つ相応しくない。失敗しすぎた。前進し続ける俺の背後には、死者たちの列があった。俺はここにいる。息をして、清潔な服を着て、祝福を受けて。
「泣くな、進み続けろ」
自分に言い聞かせる、あの自動的なフレーズ。自分を立たせ続けてきたやつ。
でも今日、自分の頭が俺の顔に向かって笑った。
机に広げた両手を見る。震えていた。制御できないくらい、震えていた。
それから、意志の亀裂から黒い毒みたいに、あの思考が滲み込んでくる。
……全部、やめてしまったら?
その誘惑は甘い。眠るように、全部を置いていけるなら。だが、甘さの裏には、また誰かを裏切る苦さがある。
バッジを返して、今日付で辞職すれば……楽になれるかもしれない。他人の命の責任を背負うのをやめられる。次の運命の一撃を待ち続けなくてよくなる。罪悪感が喉を閉めていた。
辞めるのは簡単だ。だが、簡単な道はいつも裏切りに繋がる。俺はそれを知っている。
リーン、リーン。
固定電話の鋭い呼び出し音が、螺旋から俺を引き摺り出した。銃声よりも鋭く響いた。生きろ、と命令された気がした。
素早く瞬きして、喉の奥のものを飲み込む。深く息を吸う。声を整えて、受話器を取った。
「マーカス大尉」
「マーカス、上層部からだ」
と、上官の声が響く。
「ハンター総司令官、アイリスが至急君の執務室への出頭を求めている」
「了解。今向かう」
切った。
数秒、受話器を見つめ続ける。司令官のアイリスが、この時間に何の用だ?
立ち上がり、制服の襟を直して廊下に出た。中央棟最上階、上級幹部執務室が並ぶフロアへ向かうエレベーターに乗り込む。無音の移動だった。頭の中はまだ嵐だったが、軍の規律が姿勢を保たせた。
規律は鎧だ。心が崩れても、姿勢だけは崩さない。それが俺の生き残り方だ。
廊下の突き当たり、重厚な両開きの扉の前に立つ。二度、硬くノックした。
「入って」
中から、静かで、緩やかで、ほとんど音楽みたいな声が響いた。
扉を押して、入る。すぐに背筋を伸ばし、右手を側頭部に持っていく。
「一等大尉マーカス、司令官閣下に報告します!」
アイリスは巨大なデスクの向こうから、静かにこちらを見た。
「楽にして、マーカス。今日は形式は要らないよ」
姿勢を解いて腕を下ろす。それでも背筋は真っ直ぐに保った。
彼女がいくつかの書類を整える間、自分でも気づかないうちに分析を始めていた。たぶん、胸の内の嵐から目を逸らすための逃げ場を探してたんだろう。アイリスはいつも特異な存在感を持っている。その髪は異様なほど長く、薄暗い執務室の光の下でさえ、磁力みたいな銀色の輝きを放っている。でも視線を止めるのは目だ。表面で止まらない目。眼前にあるものの歴史を全部読み取ってしまう目。ぞっとするほど明瞭で、同時に圧倒的に慈悲深い目。
その目に見られると、俺の傷も全部読まれている気がする。怖いのに、なぜか安心する。
確か俺より五つ上だったはずだ。だが、車椅子に座るその細い姿は、鋼よりも強く見えた。
アイリスが車椅子の操作桿を動かして、デスクの向こうからゆっくりと部屋の中心へ進んでくる。俺から数メートルのところで止まり、訪問者スペースのソファを指す。
「座って」
ソファに向かって腰を下ろす。アイリスが車椅子を向け直して真正面に来た。数秒、永遠みたいに感じる時間、じっと俺を見た。
「疲れてる、マーカス?」
直球だった。その一言が、鎧の中心に真っ直ぐ飛んできた。
……ちくしょう。
戦場の刃よりも鋭い。疲れてるか、と問われるだけで、俺の鎧は粉々になる。
不快な閃光が走る。疲れてる、確かに。この一年で起きたことは、認めたくなかったやり方で内側から俺をぐちゃぐちゃにしてた。自動的に笑みを作った。部下や記者向けに磨き上げてきた、あの仮面の笑みを。
笑みは盾だ。だが、彼女の前では紙切れみたいに破れる。
「急にそんな質問ですか、総司令官?全く問題ありません。ただ新しい役職の業務を整理しているところで――」
「誤魔化さないで」
と、彼女は語気を荒げることなく、でも一切の逃げ場を塞いだ。
「その仮面をつけて笑わないで。答えて」
視線を逸らした。一秒で化けの皮が剥がれた。
彼女に嘘をつきたくなかった。でも弱さを言葉にすることも、今の俺にはできなかった。
沈黙が続いた。
「……ああ」
と、最終的に床を見ながら言った。
「疲れてる。身体的にじゃない……でも、頭の中で何トンもの鉛を引き摺ってる気がしてる」
アイリスが車椅子をソファに近づけてきた。手を伸ばして、俺が膝の上でこわばらせていた手の甲に、そっと乗せた。温かかった。
その温もりは、俺が忘れていた人間らしさを思い出させた。戦場じゃ触れ合いは武器か傷しか生まない。これは違った。
「聞くよ、マーカス」
……見られた。驚いた。
ハンターは上官に亀裂を見せない。それはプロとして当然のことだ。
「なぜそんなことを?総司令官」
と、眉をわずかに寄せて訊いた。
「公式の心理評価ですか?上層部からの指令ですか?」
「聞きたいから聞く」
と、まっすぐ目を合わせながら言った。
「ただそれだけ。個人的な望みだよ」
「ご親切に感謝します。でも必要ありません」
と言って、丁寧に手を引こうとした。
「俺の愚痴で時間を無駄にするのは忍びない。俺は大丈夫だ。処理できる」
「大丈夫じゃない」
と彼女は言い切った。手を放さなかった。
防衛的な苛立ちが、ちくりと走った。
俺の弱さを見抜かれるのは、敵に斬られるよりも怖い。だが、逃げる場所はもうなかった。
「総司令官、この会話が個人的なものであって公務でないなら、執務室に戻るのが最善かと判断します」
立ち上がろうとした。
でも、アイリスが腕を掴んだ。その力が、予想外に強かった。
褒め言葉なのに、刃物みたいに突き刺さった。俺が忘れていた自分を、彼女は覚えていた。
「放してください」と、声に緊張を滲ませて言った。
「放さない」と彼女は言った。
見下ろした。アイリスの表情は固く、ほとんど怒りに近い何かがそこにあった。あの、彼女らしくない何かが。鉄みたいな決意が瞳の中にあって、奇妙なほど俺を戸惑わせた。そんな彼女を前にして、どう反応すればいいか分からなかった。
その力は緩まなかった。
ゆっくりと、腰を下ろした。
視線を逸らした。彼女の目を真正面から受け止めることができなかった。
「助けたいんだ」
と、握りを緩めながらも手を近くに置いたまま言った。
「君がただの新兵としてハンターの列に加わった初日から、ずっと見てきたから」
見返した。驚いた。
「下から必死になるのを見てた」
と、アイリスは続けた。声がわずかに柔らかくなって、懐かしむような色が差した。
「太陽みたいに燃えてたよ、マーカス。周りを照らして。他の新兵たちは自然とお前について行った。揺らぎがなかったから。一歩も引かなかったから。嵐がどれだけ激しくても、常に前へ。ああいう人間のことを、俺は深く尊敬する」
……喉が締まった。総司令官にそう言われて、返す言葉が出なかった。
「今回の件がどれだけ過酷だったかは分かってる」
と彼女は続けた。
「魔術師の社会がこれだけの規模の損失を被ったのは史上初めてだ。そして、君の頭がどう動くかも分かってる、マーカス。あれだけ慈悲深くて優しい人間は、他人の痛みを全部自分の背中に積み込む。外に向けては笑顔で希望を振りまいて、内側では全部を抱えながら壊れかけてる。誰にも見えないところで、本当は限界寸前なのが分かってる」
拳が固まった。
アイリスの言葉は、何年もかけて築いてきた俺の全ての層を貫いた。剥ぎ取られた感じがした。ぴたりと、ありのままの俺を読まれていた。
鎧も仮面も、全部剥がされた。裸の心臓を掴まれたみたいだった。
敵の剣は防げる。だが、こういう言葉には盾がない。俺はただ受けるしかなかった。
「……痛い」
と、ほとんど聞こえない声でつぶやき、頭を落とした。声にした瞬間、胸の奥で何かが砕けた。言葉は刃よりも痛かった。
「ダミラを失ったのが。彼女がそういう感情を持ってたと知って……俺は何も見えてなかった。見えない馬鹿だった。最後に一言も言葉を渡せなかった。守れなかった。俺が失敗した」
一息置いた。喉の奥が燃えた。
「あいつだけじゃない。アザエルの計画で倒れた魔術師たちのことを考える。罪のない者たちのことを考える。できることなら時間を遡って、物理の法則を破ってでも、誰かが死ぬ前に全部を止めたかった」
声が割れる。目が……滲む。
「最終的に気づく。俺は一人だ。愛してくれた親がいた。仲間がいた。一度も諦めなかった……なのに今、周りを見渡したら誰もいない。この孤独は俺の自業自得だ。みんなに言われる「炎」とやらは……本当は誰も温めてない。近づいた者を燃やして、滅ぼすだけだ」
アイリスが両手で俺の手を、しっかりと包んだ。
顔を上げた。彼女の表情には深い悲しみと、同時に圧倒的なほどの心配があった。
「一人じゃない」
と、揺るぎなく言った。
「ここにいる、マーカス」
首を振って、手を放そうとした。
「悪く取らないでくれ、アイリス……近くにいたら、他の連中と同じ目に遭わせる。俺に触れるものは全部壊れる。今日付でバッジを返して辞職した方がいい。人間社会に引っ込んで、誰にも害をかけなくて済む場所に消える。それが一番だ」
消えることは救いに見えた。だが、それは臆病者の選択だと分かっていた。
「くだらないこと言うな!」
アイリスの声が上がった。わずかに飛び上がった。怒鳴られたのに、不思議と温かかった。誰かが俺をまだ必要としていると、初めて感じた。
「君にはその価値がある!この社会とハンターのために、十数人分を合わせた以上のことをしてきた。無数の命を救ってきた」
「何の意味があった?」
と、苦さを噛みながら言い返した。
「死者が出た。犠牲者が出た。結局、俺には誰もいなくなった!」
「それは君のせいじゃない!」
と彼女は言って、まっすぐ目を見た。
「誰にも予測できなかったことに、全部の責任を被ろうとしてる」
「もっと頭が切れていたら!」
と、今日初めて怒鳴った。
「最初から分析力があれば、アザエルが全部を組み上げる前に暴けたはずだ!」
「ハンターの歴史で最優秀の人間でも、この事件は初手では解けなかった」
と、迷いなく返した。
「罰する口実を探して、拾えない細部を鞭にして自分を打ちつけてる」
「違う……」
と、肩を落としながらつぶやいた。
「起きたことは受け入れた、でも……重さに押しつぶされてる」
「自分のものじゃない重みを抱えすぎてる、マーカス」
「俺のものだ!俺の責任だった!」
そう叫ぶことでしか、自分を立たせられなかった。責任を握りしめていないと、俺は崩れる。
アイリスは数秒、無言で俺を見た。それから顔が解けて、目の中に何かが固まった。
「分かった。信じてもらえないなら……証明してみせる」
瞬いた。どういう意味だ?
「明日は休日を取るように」
と、司令官のトーンに戻ったが、それとは違う何かが混ざっていた。
「午前十時に市内中央公園に来て。そこで待つ」
「中央公園に?何をするんですか?何のつもりですか?」
アイリスは答えなかった。車椅子をデスクの方へ回し、背を向けた。
「今は説明を求めるな。ただ来い。俺に欠席するな、マーカス。自分がずっと変わらぬ確固たる人間だと証明してみせろ」
「総司令官、でも俺は――」
「直接指示だ、大尉」
と、書類を手に取りながら遮った。
「欠席するな。必ず来い」
部屋の真ん中に立ったまま、完全に当惑していた。
命令には従う。それが俺の習性だ。だが、これは戦場の命令じゃない。何を証明させようとしてるんだ?
「……了解。必ず行く」
執務室を出て、混乱を噛みながら廊下を歩いた。
その夜は眠れたもんじゃなかった。疑問が蜂の群れみたいに頭を飛び回った。
眠れない夜は慣れてる。だが、今回は敵の影じゃなく、一人の人間の声が俺を起こし続けた。
なぜ中央公園なんだ?アイリスは何をしようとしてる?これだけ頭をかき乱す人間のことを、なぜそこまで気にかけるんだ?
翌朝、クローゼットの前で馬鹿みたいな問題にぶつかった。何を着るか。
ハンターの戦術制服を二十四時間態勢で着ることに慣れすぎて、私服を着ることはほとんど全裸で出歩く感覚に近かった。
制服は鎧だ。脱ぐと、ただの人間になる。俺はその感覚を忘れていた。
暗い色のスラックスと、何ヶ月……いや、何年もハンガーにかかったままのボタンシャツを引っ張り出した。皺だらけだったが、他に選択肢がない。手で髪を撫でつけ、一息ついて家を出た。
戦場に向かう時よりも緊張していた。銃じゃなく、皺だらけのシャツを武器にして。
中央公園は金色の朝の光に浸されていた。
戦場の灰色とは違う。光が柔らかすぎて、俺には場違いに思えた。
午前十時ちょうどに、栗の木の日陰の中にアイリスの姿を見つけた。一人ではなかった。隣に、漆黒のスーツに身を包んだ従者が車椅子の把手に手を添えて立っていた。
足早に近づいた。
「約束通り来た、総司令官」
アイリスがこちらに顔を向けた。顔が輝いた。温かく、広く、不意をつかれた。
アイリスの顔にそんな表情を見るのは初めてだった。命令じゃなく、人間としての笑みだった
「約束を守ってくれてよかった、マーカス。ほら……それが今日の最初の行動だよ。揺らがずにいる、いつもの君のまま」
眉をわずかに寄せた。どこへ向かおうとしてるのか、まだ見えなかった。
アイリスが隣の従者に目を向けた。
「下がっていいよ、ケンジ。ここからはマーカスが面倒を見てくれる」
男が深々と頭を下げた。
「承知しました、アイリス様」
向き直り、音もなく遠ざかっていく。木々の梢の下、二人きりになった。
「この公園を散歩したい」
と、肩越しに言った。
「付き合ってもらえる?」
車椅子の後ろに回って、ゴムのグリップを握る。ゆっくり押し始めた。砂利の小道を進む。タイヤと靴の軋みが、最初のうちの唯一の音だった。
沈黙は拷問みたいだった。だが、同時に奇妙な安らぎもあった。
「いい日だと思わない?」
と、遠くの池と、集まりはじめた家族連れを眺めながら言った。
「……ああ」
と答えた。まだどこか張っていた。
しばらく無言のまま歩き続けて、公園の高い位置へ出た。木製の展望デッキが小さな内湖を見下ろしていた。茂った植物が湖を縁取り、周りには誰もいない。
孤独はいつも俺を苦しめた。だが、今は彼女と二人きりでいることが、なぜか救いに近かった。
バルコニードの手すり沿いで止めた。アイリスが水面を見つめた。薄い風が吹くたびに、雲の映り込みが揺れて歪んだ。
「マーカス」
と、静かに言った。
「昨日、触れるものを全部燃やすって言ったね」
手すりに手を置いて、黙っていた。
「間違ってる」
と続けた。
「問題は燃やすことじゃない。問題は、自分の痛みを感じることを自分に許さないことだよ。何年もかけて、"希望"と"無敵"の砦を建てた。それがいいハンターに、親にとっていい息子になるための唯一の方法だと思ったから。自分が悲しんでいいことを禁じた。死んだ者を泣いていいことを禁じた。悲劇が来るたびに、傷に蓋をして、さらに仕事と義務を重ねた」
言葉は静かだった。でも、ハンマーの重さで落ちてきた。
静かな声なのに、胸骨を砕く衝撃だった。俺が何年も拒んできた真実を、彼女は一言で突きつけた。
「黒木のこと、ダミラのこと、頭では受け入れた。でもそれに対する感情は受け入れてない」
と、車椅子を回して真正面から見上げながら言った。
「ダミラを愛することが間に合わなかった自分を責めてる。でも現実は、君自身の戦いを抱えた若者だったってことだ。全知の神じゃなかった。痛みを受け入れなきゃいけない。否定するのをやめなきゃいけない。悲しんでる、怒ってる、無力を感じてる。それで……いい。それが人間ということだから」
水を見た。目の奥がまた熱くなってきた。でも今回は、押し込もうとしなかった。
一滴が頬を伝い、虚空へ落ちた。
泣くことを禁じてきた俺が、ようやく許した涙だった。重さが少しだけ軽くなった気がした。
「……最悪だ、アイリス」
と、割れた声で言った。壊れるのが怖かった。だが、壊れないままでは、もう立っていられなかった。
「あいつを思い出すたびに……内側から壊れていく気がする」
「壊れさせればいい」
と、無限の温かさで返した。
「壊れるべきものを壊れさせろ。そうしてはじめて、嘘の鋼鉄じゃなくて本物の土台の上に、新しいものを建てられる」
長い間、そこにいた。安っぽい慰めの言葉は来なかった。沈黙と公園の風だけが、何年もの押し殺した悲しみを、一滴ずつ解放する場所を作ってくれた。
戦場の沈黙は恐怖だった。だが、この沈黙は救いだった。俺が人間に戻るための場所だった。
しばらくして、アイリスが移動を促した。中央公園を後にして、歴史地区の歩行者街へ向かった。ハンター本部の喧騒から遠い場所だ。小さな喫茶店と骨董屋の間を通り抜けた。ある瞬間、石造りの噴水がある小広場の前で止まった。アイリスがテラス席のある喫茶店を指さした。
「あそこに行こう。茶が飲みたい」
断れる雰囲気じゃなかった。
隅のテーブルに落ち着いた。アイリスのお茶と、自分のコーヒーを頼む。給仕が両方を置いて離れると、コーヒーカップの取っ手に指をかけながら彼女の目を見た。
ずっとひっかかっていたことがあった。
「アイリス……」
と切り出す。
「昨日、言ってたこと。俺が新兵だった頃からずっと見てきたって」
お茶を一口飲みながら、静かに目を向ける。
「そうだよ」
「何年もずっと……お前の俺への関心は完全に職業上のものだと思ってた」
と正直に言った。首の後ろに奇妙な熱が上がってくる。
「有望な駒、戦力として使える素材、そう見てるんだと。でも昨日のことも、今日ここに連れてきたことも……これは任務じゃない。ハンターとは何の関係もない」
アイリスがお茶を受け皿に戻した。微かな金属音がした。
まっすぐ見た。その銀色の目に、生まれて初めてはっきりと悪戯っぽい光が見えた。同時に、剥き出しの脆弱さも。
「五年と、階級の改編を経て、ようやく気づいたか、大尉」
と、俺を丸腰にする笑みを浮かべて言った。
……何も言えなかった。
脳の論理回路が完全にショートした。
戦場では即座に答えを出せるのに、今は何も出せない。俺の武器は全部役に立たなかった。
「マーカス……」
と続けた。少し前に傾きながら。
「誰もが英雄扱いする君を見てきた。継承者たちを救い、化け物と向き合い、機関全体の問題を背負い込む君を見てきた。でも、自分のために何かを求める君を見たことは一度もなかった。自分が幸かどうかを考えることを許す君を見たことがなかった」
喉を鳴らして飲み込んだ。
アイリスの目にそんな脆さを見るとは思わなかった。俺を丸裸にしたのは、彼女の強さじゃなく、その弱さだった。
心臓が、戦場とは全く違うリズムで打ち始めていた。
敵の刃を前にしても乱れない鼓動が、今は制御できなかった。恐怖じゃない。だが、名前のない感情だった。
俺はずっと「守る」ために生きてきた。だが、今は初めて「求められている」ことを感じた。
「優秀なハンターだからじゃない」
と、机の上で俺の手に触れながら言った。
「君を知ってるから。過ちしか見えないときでも、その魂の純粋さを見てきたから。そして大事なのは、マーカス、お前のことだから。英雄じゃなくて。大尉じゃなくて。お前のことが」
続いた沈黙は、不快じゃなかった。意味で重かった。
沈黙の中で、俺の人生が別の方向に動き始めた気がした。
机の上のアイリスの手を見た。何年も、人生は終わりのない義務と喪失と罪悪感の連鎖だった。他人のために燃え尽きることが運命だと思い込んで生きてきた。個人的な幸せを求めることは、もういない者たちへの裏切りだと感じてきた。使命からの無責任な逃避だと。
でも今、アイリスを見て……その言葉の圧倒的な誠実さを受け止めて……根本的な何かが分かった。
人を救うことが、自分が痛みの永遠の生け贄になることを意味するわけじゃない。親父もお袋も、俺が苦い殉教者になるために死んだんじゃない。ダミラも、俺が罪悪感の独房に閉じ込もって生きることを望まなかったはずだ。二人の記憶を称えることは永遠に苦しむことじゃない。本当に生きることを学ぶことだ。
義務の外に、目的が要る。戦いが終わったときに帰れる場所が要る。
「どうすればいいか分からない、アイリス」
と、繋がった手を見ながら低く言った。
「義務から切り離す方法が。一秒一秒、常に警戒し続けなくていいと感じる方法が」
「一日で覚えなくていい」
と、握りを緩めながら返した。
「ただ、ドアを閉め続けるのをやめて。ハンターの先に何があるか、発見する機会を自分に与えて」
顔を見た。
その銀色の目は、もう俺を怖がらせも遠ざかりもしなかった。
避難所だった。
初めて長い年月ぶりに、胸の上で罪悪感が俺を溺れさせていなかった。ダミラの棘はある。黒木の記憶も親父もお袋も残ってる。でも痛みはもう、俺を支配してなかった。
痛みは消えない。だが、痛みと共に歩ける。そう思えたのは初めてだった。
傷跡を受け入れた。
気の利いたことは言わなかった。大袈裟な誓いも要らなかった。小説の台本みたいな台詞は必要ない。ただ、指をそっと彼女の指に絡ませた。優しく握り返した。
その小さな動作が、五年分の戦いよりも大きな勝利に感じられた。
誠実に。五年ぶりの静けさで目を合わせた。
「ありがとう、アイリス」とつぶやいた。
彼女は笑った。小さく、温かく、確かな笑みを。
昼の日差しの中、喫茶店のテラスに座ったまま、人の波が行き交うのを眺めていた。
次の脅威のことを考えていなかった。サインすべき報告書のことも。過去の過ちのことも。
ただそこにいた。これからの道が険しくても、もう一人で歩かなくていいことを受け入れながら。
癒やされる余地がある。
そして初めて……それを試すことを自分に許した。
俺の物語は終わらない。だが、ようやく始め直せる。義務のためじゃなく、自分のために。
自由になった少女。
初めて見る世界。
そして、
魔術師ではない少年との出会い。
人間にも、
力を持つ者がいる。
その事実は、
彼女の常識を大きく揺さぶる。
そして夜空の下、
少女は初めて、
空を飛ぶ。
次回――
空を翔ける少女
新しい世界への扉が、
今、開かれる。




