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望まざる客たちの午後

戦いが終わった。


世界は救われた。


けれど――


少年の部屋に、


平穏が戻ることはなかった。


一人だったはずの日常に、


いつの間にか増えていく人々。


求められること。


頼られること。


そして、


誰かを守ること。


それもまた、


新しい戦いなのかもしれない。

午後の光が、アカデミーの石壁を橙色に染めていた。


窓から差し込む斜陽が、机の上に積み上げられた本の背表紙を溶かすように照らしている。肘をつく木の感触は、もうずっと前から慣れてしまったはずなのに、今日はやけに重く感じた。開いたままの頁は、召喚陣の構造論と次元連結の理論について書かれていて――まあ、ちゃんと見てはいたさ。最初の十分間は。


羽根ペンを持ってはいる。でも、もう何分も何も書いていない。


壁に長い影が伸びている。石の静寂を破るのは、木材の軋む音と、廊下を行き来する他の学生たちの、くぐもった足音だけだった。


……ため息をついた。


肺の中にあるものを全部吐き出すような、そういう息だった。眉根が自然と寄る。諦め、みたいなもの。それから、もう一週間もずっと胸の奥をかじり続けている、あの感覚。


一週間。


目を閉じれば、はっきりと見える。


アザエルとの戦い。魔術師たち、ハンターたち、全員が全力を出した。それでも足りなかった。どのような攻撃も、どんな策も、どんな希望も、あの深淵には届かなかった。アザエルの力は圧倒的で、すべてを飲み込んでいた。


それでも皆、必死に抗っていた。マーカスも、ヴィクターも、誰も諦めなかった。その姿を見ていたからこそ、余計に胸が痛む。


そして――


ペンを、強く握り直した。


そして、あの男子が現れた。


眩い甲冑を纏い、炎のように青い瞳を持つ騎士に変貌した、謎の男子。アザエルを倒した。誰も成し遂げられなかったことを、やってのけた。


僕はただ、遠くから見ていた。両手は空だった。何も、できなかった。


馬鹿みたいだ。いや、馬鹿なのはわかってる。だけど、それでも戦いたかったんだ。


戦いたかった。春花の分、グレインの分、ちゃんと力になれることを証明したかった。いつも問題ばかり起こしている自分でも、何かができると示したかった。


昔なら、この無力さを隠すために強がっていただろう。でも今は、ただ事実として受け止めるしかないと思えた。


でも本当に欲しかったのは、証明じゃない。誰かを守れる力だった。あの場で、誰かの盾になれたなら、それで十分だったのに。


でも結局、できなかった。その理由は――


――ドンドンドン。


扉を叩く音が、思考を断ち切った。


眉をひそめた。体は動かさない。無視すれば、向こうが諦めるかもしれない。


――ドンドンドン!


もっと強くなった。


「いない」


と言ってやった。振り向きもせずに。


――ドンドンドン!!


「……忙しい」


声を少し上げてみた。


相手は「いない」という概念を理解していないらしかった。ノックは続く。リズミカルで、頑固で、まるでこっちが確実に中にいることを知っていて、それでも気にしていないような叩き方だった。


ペンを置いた。


苛立ちが背筋を這い上がって、顎を固くする。椅子を引いて立ち上がり、四歩で扉まで行って、取っ手を掴んで――勢いよく開けた。


「うるさい、静かにしてくれ、こっちは――!」


叫んでいる最中に、相手が飛び込んできた。


二本の腕が首に巻き付いて、体がぶつかってくる。花と、甘いものが混ざったような香りが鼻をつく。暗い髪が肩の上に流れ落ちてきた。


「龍牙く〜ん!!」


くぐもった声が首元に当たって、あたたかかった。


「会いたかったよ」


空気が抜けていく感覚があった。でも、抱擁のせいじゃない。


目を閉じて、三つ数えた。開いたとき、視線は天井に固定されていた。


……これで何度目だ。


「ミレイア」


平坦な声で言った。


「離せ」


「やだ〜」


「離せ」


「やだも〜ん」


「一週間ずっとこれだぞ」


「これからもするよ」


……そう言われても、もう驚きはしない。彼女には僕しかいないのだと、嫌でもわかってしまったから。


息を吐いた。でも、押しはしなかった。


昔の僕なら、力ずくで振りほどいていたはずだ。けれど今は、それをする気になれない。彼女を傷つけるより、少し重い腕を受け止める方がずっとましだと思えた。


この一週間で学んだことがある。押すと、もっと強くしがみついてくる。まるでタコみたいに。記憶を失って、なぜか僕に懐いてしまった魔法使いの形をしたタコ。


不思議なことに、そのしがみつきが、僕に居場所を与えているようにも感じた。守られるべき存在がいるなら、僕はまだここに立っていられる。


全部、少し優しくしてしまったせいだ。


それと……あのタロットのカードのせいかもしれない。


その記憶が、警告もなく戻ってくる。最近はいつもそうだ。気を抜いた瞬間に、あの夜の映像が割り込んでくる。周りの景色が滲んで、あのとき見たものに置き換わっていく。


♢ ♢ ♢


戦場は、地獄だった。


グレインと戦い終えた後、セレスティアと合流して距離を取った場所から眺めていた。魔術の衝突が夜空を花火みたいに染め上げている。ただし、普通の花火よりずっと歪んだ色で。叫び声。爆発音。暗闇の中で何か巨大なものが動く気配。


そして、何もできない僕。


手の中には、カードがあった。セレスティアの実験的なタロット魔法で呼び出されたカード。表向けたとき、一瞬、息が止まった。


恋人たちのカード。


恋人たち――皮肉だと思った。誰かと結ばれるはずの象徴が、僕の手の中ではただ消えていくだけだった。


「これ、何を意味するんだ?」


セレスティアに見せながら尋ねた。


彼女は難しい顔をして、曖昧なカードだと言った。自分にも読めない、と。


カードを見た。セレスティアを見た。夜空を見上げた。


「……まあ、やってみるしかないな」


夜空へ向けて、カードを高く掲げた。星はほとんど見えなかった。戦場の光に食われていた。それでも、ただ掲げた。何かを感じるはずだ、と思って。力が流れ込んでくる感覚とか。何かが起きるとか。


カードは、光の粒になって散った。


そして、何も起きなかった。


空の手を見つめた。失望の重さが肩にのしかかってきた。


弱い。弱いという事実は、ただの自己評価じゃない。隣に立っていたはずの仲間を裏切っているように感じた。


自分は弱い、という事実が、粒子になって全身に染み込んでくるようだった。あのカードで力を得られるはずだった。アザエルと戦える何かを得られるはずだった。なのに、何も起きなかった。


遠くで、戦いは続いている。


ヴィクターが、魔法使い三人を同時に相手にしているのが見えた。大胆で、容赦ない戦い方。マーカスはアザエルと一対一で、地面を揺らすほどの打ち合いをしていた。一瞬だけ、勝てるかもしれないと思った。


彼らは立っていた。命を削ってでも抗っていた。僕はただ、遠くから見ているだけだった。


ヴィクターが一人を弾き飛ばした。岩に叩きつけられる魔法使いの体が見えた。


でも、マーカスが倒れた。


見ていた。


アザエルがマーカスの防御を紙のように引き裂くのを。


その瞬間、胸の奥で何かが折れた。戦場の音よりも、自分の心の音の方が大きく響いた。


マーカスの体が地面に叩きつけられるのを。希望が崩れていくのを。


すべてが終わろうとしていた。


そのとき、地平線から何かが現れた。空飛ぶ影たち。増援。目を細めて見ようとした。あちこちから術式を打ち込んでいるが、アザエルは再生し続ける。何もきかない。本物の怪物だった。


そこに、ある少女が飛び込んだ。


炎のような赤い髪。風を切って動いて、アザエルを素手で殴り続けていた。同等に渡り合っていた。


拳で抗うその姿に、胸が熱くなった。けれど同時に、僕は何もしていないという事実が、鋭く突き刺さった。


胸の中で何かが光った。希望か、感嘆か、わからない。でも彼女も落ちた。アザエルに掴まれて、地面に叩き付けられて、起き上がらなかった。


そして――頭から離れないのは、この場面だ。


影の中に、一人の男子がいた。気づかなかった。光り始めるまでは。青白い輝き。最初は弱く、次第に強くなって、男子の全身が星のように発光し始めた。青い炎が周りに生まれて、彼を包んで、人の形を変えていった。


炎が収まったとき――


「……何だ、あれは」


声が出ていた。かすかに。驚きだけじゃない。羨望と、悔しさと、どうしようもない憧れが混ざっていた。


セレスティアは、催眠にかかっていながらも、僕と同じくらい呆然としていた。


「騎士マジクスの伝説に似ているわね」


と彼女は言った。たぶん、僕の言葉に答えて。


「でも確かじゃない。こんなもの、見たことがない」


騎士は、別の時代から切り抜いてきたような姿だった。なびく外套。月明かりを反射する甲冑。奇妙な兜は顔を隠していたが、青い瞳だけが超自然的な強さで輝いていた。


あれは希望の象徴だった。けれど僕にとっては、残酷な鏡でもあった。僕がなりたかったものを、彼が体現していた。


そいつがアザエルへ向かったとき、地面が揺れた。


打ち合いは凄まじかった。空気を引き裂くような一撃。ぶつかり合って消えていく術式たち。騎士は速く、正確で、容赦なかった。それでもアザエルは退かなかった。


アザエルが残りの魔法使いたちに命令を下したのは、その頃だった。一人目はすぐ落ちた。騎士の一撃が、意識を刈り取った。


二人目は――


なんだ、あれは。


最初、理解できなかった。鏡のようなものが、その魔法使いの前に展開した。騎士の頭を掴んでいた彼女の前で。そして彼女は落ちた。


空から、真っ逆さまに。


僕のいる方向へ。


地面が揺れた。衝撃は近かった。思わず後ろへ下がった。


女が横たわっている。地面の上で、苦悶している。乱れた黒い髪。歪んだ表情。何箇所かから布が破れている。


見ていて、胸が痛んだ。


……なんで。


敵の魔法使いだ。さっきまで全員殺そうとしていた側だ。なのに、地面に倒れて苦しんでいる姿を見たら、何かが締め付けられた。憐れみ。共感に近い何か。無視できない、その何か。


敵を憐れむなんて、昔の僕なら絶対に考えなかった。けれど今は、その苦しむ姿を見ていると、ただ放っておけなかった。


「セレスティア」


声が、思ったより落ち着いていた。


「回復魔法をかけてくれ」


この言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。戦場で敵を助けるなんて、愚かに見えるかもしれない。けれど、守るということは、選んだ相手だけじゃなく、目の前の命そのものを意味するのだと思った。


セレスティアは従った。両手が光り始めて、女の体に広がっていく。


でも、女はまだ苦しんでいた。


「軽傷しか治せなかった」


とセレスティアは手を引いて言った。


「落下で何が起きたのか、よくわからない。まだ傷がある」


頷いて、女の隣に膝をついた。待った。


そのとき、はっきりとわかった。僕が欲しかったのは勝利じゃない。居場所を作る力だ。敵であろうと、倒れている者を見捨てない。それが、僕にできる唯一の答えだった。


まつ毛が動いた。まばたきした。開いた。


灰色の瞳が空を見上げていた。戸惑っていた。迷子のように。彼女はゆっくり体を起こして、自分の手を見つめた。周りを見た。空を見た。


何も言わなかった。


「大丈夫か?」


声を保った。


「傷つけない。戦うつもりもない」


女は僕を見た。見続けた。


その視線に、何かがあった。攻撃的じゃない。計算もない。空虚だ。何かを見ているのに、理解できていないような目。目を覚ましたのに、どこにいるかわからない人の目。


「あなたは、誰?」


声が、頼りなかった。


「龍牙だ」


と答えた。


「龍牙・ドラゴンズベイン」


彼女はゆっくり頷いた。また周りを見た。また自分の手を見た。開いて、閉じて。まるで、それが何かを確かめているみたいに。


「……わたしは、誰?」


罠かとも思った。一瞬。でも、それを言いながらも、内側では迷っていた。


「誤魔化しには引っかからない」


と言ったが、自分でもその言葉が弱く聞こえた。


彼女の目が潤んだ。その瞬間、彼女の瞳が揺れた。灰色の光がにじんで、形を保てなくなった。唇が震えて、声になる前に崩れていくのが見えた。僕は、目の前で人が壊れていく様子を、ただ見ていた。


「何も……覚えてない」


声が割れた。


「自分が誰かわからない。ここがどこかわからない。混乱してる。何があったの。何をしてたの。何も、何も思い出せない」


彼女の指先は、頭から胸、腹部へと迷うように動いた。痛みを確かめるように押さえ、震える手が太腿に触れたとき、彼女は小さく息を呑んだ。何かを感じて、さらに混乱したように目を見開いた。


「どうして体中が痛いの?頭が痛いのはなぜ?そしてこれは何、この湿ったもの?」


喉の奥が、締まった。


涙が彼女の頬を落ちていく。呼吸が速くなっている。手が震えている。


見ていて、知っているものを感じた。


痛みだ。喪失だ。それを、知っている。


僕も同じだった。居場所を失い、何者でもないと感じていた時期があった。だからこそ、彼女の混乱は他人事じゃなかった。


演技じゃない。本能が言っていた。いつも何かがおかしいときに動く、あの内側の感覚が――今は黙っていた。ただ、すべてを失った人間が目の前にいる、それだけを言っていた。


手を差し出した。


「一人じゃない」


と言った。その言葉は、彼女のためだけじゃなかった。僕自身に向けた宣言でもあった。もう一人で背負わない、と。


「ここにいる。僕と一緒に。何も覚えていなくても、道が無いわけじゃない」


女は、その手を見た。それから顔を上げて、目を見た。


表情が、変わった。何かが。名前のわからない何かが。


彼女は飛びついてきた。


肩の上で泣いていた。しがみついていた。まるで、僕が崩れていく世界の中で唯一固いものであるかのように。腕は緊張していた。体は震えていた。どうすればいいかわからなかった。


だから、何もしなかった。


泣かせておいた。


肩に伝わる震えが、僕を縛る鎖じゃなく、僕を立たせる支えになっていた。守るべき存在がいる。それだけで、立ち続ける理由になった。


「セレスティア」


声を低くした。


「この人を知っているか。そうだよね?名前は?」


「ミレイア・ノクティス」


頷いた。彼女自身が覚えていないその名を、僕だけが受け止めることになった。奇妙な責任感が、胸に沈んだ。


ミレイアをそっと引き離そうとした。でも、もっと強くしがみついてきた。


「ミレイア」


と呼んだ。


「セレスティアのことを覚えているか?」


顔を上げた。赤い目でセレスティアを見た。首を横に振った。


「……覚えてない」


思ったより深刻だと悟った。


上では、戦いが続いている。騎士が優位を取り始めていた。一度、風が異常なほど強くなって、流されそうになったが、セレスティアが防護術式を張った。


ミレイアは離さなかった。胸に顔を埋めて、腕を腰に絡めて、まるで離したら消えてしまうかのように。


「ミレイア」


不快感を抑えながら言った。


「離してくれ」


「いやだ」


声が幼かった。その必死さに、僕は逆らえなかった。重さよりも、消えてしまう恐怖の方が彼女を動かしているのだとわかった。


「あなたと一緒にいたい」


何かが冷えた。自分の中で。


こういうことだ。余計に助けてしまったのだ。衝動で、思いやりで。馬鹿みたいに。


ミレイアは、今から僕の問題になった。


そう悟った。その場で。


戦いの終わりは、見たことのない形だった。騎士の一手で、何かが空に現れた。一瞬、二つ目の太陽が夜空に生まれた。夜明けが急に来たのかと思った。でも違う、あれが騎士の攻撃だった。アザエルが粒子に還っていくのを見たとき、本当の夜明けが地平線から出始めていた。


光の中で戦場が終わっていくのを見ながら、僕は影の中で一人の魔法使いを抱えていた。英雄にはなれない。けれど、この影の役割も確かに必要だった。


魔術師たちが負傷者の回収を始めるのを眺めていた。あの男子が空から降りてくるのを、見ていた。騎士の姿は消えていて、代わりに平凡な外見の少年が、自分の両手を信じられないように見つめていた。


ミレイアは離さなかった。


戦いたかった。春花の分を。グレインの分を。もう負け犬じゃないことを証明したかった。


でも結局、得たのは――腕に絡みついた、自分の名前も覚えていない魔法使いだった。


あの騎士のようにはなれない。けれど、誰かが立ち上がるときに支えられる存在にはなれる。そう思ったのは、この瞬間だった。


戦場の勝者にはなれなかった。けれど、失われた者を支える者にはなれた。その違いを受け入れたのは、この夜明けだった。


♢ ♢ ♢


扉のところで立ったまま、ミレイアがまたくっついている。


「ミレイア」


疲れた声で言った。


「離せ。お前の体が全部伝わってくる」


その温もりは煩わしいはずなのに、同時に、彼女がここにいる証拠でもあった。


「いいじゃない」


と彼女は言った。


「あたしのこと、感じてよ」


言われた途端、意識が勝手に体へ向かった。肩に流れる髪の感触。胸元に押し付けられる柔らかさ。呼吸の熱が首筋に触れる。男である以上、否定できない感覚が、確かにそこにあった。


「それは――」


顔が熱くなった。文字通り。頬から耳にかけて、熱がのぼってくる。


「そんなことを当然みたいに言うな」


「なんで?」


ミレイアが顔を上げて、ただ真っ直ぐに見てきた。灰色の目が、純粋すぎるほど純粋だった。


「本当のことだもん。あなたに感じてほしい。ここにいるって、知ってほしい」


顎を固くした。十まで数えた。


全部、助けてしまったせいだ。全部、憐れみを持ってしまったせいだ。


ミレイアは何かが憑いてしまったように僕に執着していた。記憶がない、過去がない。大魔導師のストロンの判定で、基礎から学ぶためにアカデミーに入学させられることになってから、ずっとそうだ。どこでも探しに来る。どこでも後をついてくる。どこでも物理的にくっついてくる。


迷惑だ。そう思う。


でも、ミレイアはかつて魔法使いだった。膨大な知識を持っていたと聞く。記憶と一緒に、その知識も消えた。偉大な知識が失われた、と年長の魔術師たちが話しているのを聞いた。


かつては恐れられる存在だったのに、今は僕の影に隠れるように笑っている。その落差が、余計に胸を締め付けた。


腕の中で笑っている。ここが自分の居場所だと決めたように。


……かつては、どれほど重要な存在だったんだろう。どれほど強かったんだろう。どれほど恐れられていたんだろう。


ミレイアが急に後ろを見た。目が輝いた。


「あっ!」


やっと腕が解けた。


すり抜けて中へ走っていくのを、振り返って見たら――僕のベッドへ飛び乗っていた。


勝手に横になった。


「龍牙くんのベッドー!」


嬉しそうだった。


「やったー!」


目の端が、ぴくりとした。


「起きろ」


と言った。


「いやだ!」


「ミレイア、それは僕のベッドだ。お前のところへ戻れ」


「いやだもん。あなたの匂いがするから好き」


僕の居場所を勝手に自分のものにしている。けれど、その必死さを見ていると、拒絶する言葉が喉で止まった。


拳を握った。


息を吐いた。


もう戦っても無駄だと、体が知っていた。彼女は執着している。剥がれない。


彼女を救った瞬間から、これは決まっていた。僕が背負うべきものは、戦場の勝利じゃなく、この執着そのものだった。


椅子に戻って腰を落とした。そこから眺めた。


ミレイアは横になったまま、笑って僕を見ていた。腕を広げて、まるで昼寝でも楽しんでいるような顔をしている。アカデミーの制服を着ていて――目に入ったものを、視線でそっと捉えた。


黒いレース。横たわった姿勢のせいで、スカートがめくれて見えてしまった。


すぐに目を逸らした。


「ミレイア」


声が固くなった。


「ちゃんと座れ。全部見えてる」


軽い笑い声が返ってきた。透き通った、遊ぶような笑い。


「いや〜だ」


振り向いて、目を細めて見た。


……いや、隠せよ。こっちは修行僧じゃないんだ。視界に入ったら反応するに決まってるだろ。


全部助けたせいで、今度は僕の理性まで試されているらしい。ありがたい試練だな。


「なんでそういう奴なんだ?」


苛立ちが声に滲んだ。


「なんでそんなに懐いてくる?僕は何もしてやってないぞ」


ミレイアは起き上がった。ベッドの端に腰かけて、足をぶらぶらさせながら、こちらを見た。


笑顔が消えた。


穏やかで、真っ直ぐな顔になった。


「優しいから」


と言った。


何かが、崩れた。内側で。優しさなんて、自分には縁がないと思っていた。けれど彼女の目には、それが見えているらしい。その事実が、胸を強く揺らした。


反論できなかった。何も言えなかった。彼女があまりにも確信を持って言うから、どんな否定も嘘に聞こえてしまう。


苛立ちを脇に置いた。苦々しさも置いた。より重い表情を選んだ。


「魔法医たちには何と言われた」


と聞いた。


ミレイアは視線を下げた。スカートの端を指で弄んだ。


「一度失った記憶は、戻らないって……消えたら、それで終わりって。昔のあたしなら、知識が全部あれば取り戻す方法を見つけられたかもしれないって。でも昔のあたしも、もういない。だから今はただのミレイアで、あの昔のミレイアとは別の人間なんだって」


見ていた。


声に悲しみがあった。でも諦めもあった。


「昔のミレイアのことは知らない」


と言った。かつて恐れられた存在が、今はただ記憶を失った少女として僕の前にいる。その落差が、言葉以上に重かった。


顔が上がった。まじまじと見てきた。


「よかった」


と言った。


「あなたが知らなくてよかった」


眉が寄った。彼女の声には安堵があった。過去を知られないことが、彼女にとって救いになっている。けれど僕には、それが同時に痛みでもあった。


「なんで?」


ミレイアは少し迷った。視線を外した。


「セレスティアと話したの」


と言った。


「昔どんな人だったか、教えてくれた。聞いたとき、怖かった。あれが自分だったとは信じたくなかった」


好奇心が動いた。抑えるべき好奇心だと知りながら、止まらなかった。


「昔のお前は、どんな奴だったんだ」


ミレイアが緊張した。顔を完全に逸らした。


「言ったら……嫌いになる?」


「たぶんならない。色んなものを見てきた。何を聞いてもそう衝撃を受けないと思う」


ミレイアは深く息を吸った。


そして、話した。


「昔のあたしは、セレスティアによると……記憶に取り憑かれていたって。過去に取り憑かれて、人間に取り憑かれていたって。人の記憶の中に、変わらないものを守る秘密があるんじゃないかって信じていたって。失われないように。消えないように。ずっとそのままでいられるように」


頷いた。そこまでは、まだわかる話だった。


「悪くは聞こえないな」


ミレイアは首を横に振った。


「信じてたのはその部分だけ。でも、やったことは別の話。昔のあたしは実験をしていた。人を使って実験していた。結果なんか気にしなかった。目的のためなら、何でもよかった」


冷えた。


今度は本当に。体の中で何かが固まる感覚があった。


……なるほど。そういうことか。


背筋が冷えた。けれど彼女の顔を見れば、過去を憎んでいるのは彼女自身だとわかった。


彼女は悲しそうな顔をしていた。その過去が自分のものであることを、否定したいような顔。


何かを、感じた。


父を求め続けた過去のことを思った。


僕も同じだ。存在しないものに縋って、現実を見失っていた。彼女の言葉は、昔の自分を突きつける鏡だった。


取り戻したかった。戻ってきてほしかった。必死で別の何かであってほしいと願っていた。でも今は違う。グレインが消えたあと、色々が起きたあと、わかった。父は何年も前に死んでいる。それが事実だ。魔術は死んだ者を連れ戻せない。過去は変えられない。消えない。


ミレイアを見た。


自分がかつていたところにいる人を、見た。


「僕も同じところにいた」


声が、思ったよりも柔らかく出た。


「過去を変えたかった。失ったものを取り戻したかった。必死で、違っていてほしかった。でも、存在しないものに縛られていたら、自分が消えていくと知った。あったことに飲み込まれていたら、あるものが見えなくなると知った」


ミレイアが見てきた。灰色の目が光っていた。


「過去がお前を決めるんじゃない」


言葉を探しながら続けた。どれも、口に出すのが昔より難しい言葉だった。


皮肉で隠すこともできた。でも、それでは彼女を救えないと思った。だから、不器用でも正直に言葉を選んだ。


「以前何をしたかは関係ない。今何をするかが関係ある。今、過去のしがらみなしに、よくなりたいと思える自分でいるなら――それがチャンスだ。無駄にするな」


ミレイアは黙っていた。


ただ、見ていた。


心臓が少し速くなった。自分の正直さが不快だった。こういうことを言うのは、得意じゃない。


彼女が笑った。あたたかい、本物の笑いだった。


立ち上がった。歩いてきた。


反応する前に、頬に柔らかいものが当たった。


――ッ


頬に残る温もりが、頭の中を真っ白にした。戦場の衝撃よりも、ずっと近くて、ずっと危険だった。


「な、なんで――!」


椅子から飛び上がった。


「なんでそういうことをする!」


「好きだから」


ミレイアは笑って言った。


脳が、止まった。


背中を向けた。椅子に座ったまま、彼女の方を見ることを拒否した。


背後から腕が伸びてきて、首に回った。体が背中に押し付けられる。耳のすぐそばに、息がある。


「うっとうしい」


声が固くなった。


「あたしはそう思わないよ」


と言った。


「……これからどうするつもりだ」


降参しながら聞いた。


ミレイアが耳元に近づいた。


「まずはね……」


声が低くなった。


「魔法の基礎を一から学び直す。それから、あなたの行くところについていく」


震えた。文字通り。背筋を走り抜ける何かがあって、首の後ろに居座った。


素早く離れた。腕を解いて、数歩後ろへ退いた。


「好きにしろ。でも、ついてくるな」


「それがあたしの望み」


と言った。全く動じていない。


「一緒にいること」


「わかってないな。理由は何だ」


「優しいから」


「それじゃ足りない。自分だけの望みはないのか。自分のためにしたいことは」


「あるよ」


声が真剣になった。


「あなたの隣にいること」


顎を噛んだ。ひとつ向けるたびに、全部こちらへ跳ね返ってくる。


「今、記憶がないなら。新しい人生を試すべきだ。自分を再発見するべきだ。できることはたくさんある」


ミレイアが見てきた。悪戯っぽく笑った。


近づいてきた。まるで踊るように足を運びながら。


聞いていないとわかった。


でも、彼女が止まったとき――表情が変わった。真剣になった。まっすぐになった。刃のように。


「聞いてたよ。でも、あなたこそあたしのことを聞いてない」


見た。信じられなかった。


「そんなことは言っていない」


「たくさん、やりたいことはある」


彼女は続けた。声に揺れがなかった。


「世界を再発見してる気がする。でも、あなたと一緒にやりたい。一人でいたくない。孤独に潰されたくない。昔みたいに。だから知りたい、見たい、生きたい。でも、一人じゃなく。あなたと」


言葉がなかった。その言葉は、昔の僕の叫びでもあった。だからこそ、彼女を否定できなかった。


見ていた。


初めて、何を言えばいいかわからなかった。


……告白、か。


わかっていた。でも信じられなかった。これは恋なのか、それとも救われたことへの執着なのか。答えを出すには、僕自身がまだ足りない。


馬鹿じゃないから。でも、本当には信じられなかった。恋に落ちたのか。戦場で助けてもらったからというだけで。


なんで。


理解できない。でも、拒絶もできない。答えはまだ出せない。ただ、彼女の灰色の瞳から目を逸らせなかった。


ミレイアは顔の混乱を読んでいた。


「執着じゃない。あなたをよく見た。他の人と比べた。だから、本当に優しい人を選んだってわかってる」


自分が優しいとは思えない。馬鹿にされている気もした。でも、記憶を取り戻している途中の誰かと話しているんだと気づいたとき、その考えは消えた。悪意がない。これが、彼女の純粋な真実だ。


唸った。諦めと嘆きが混ざったような音だった。


受け入れるしかないのかもしれない。じゃあ何になればいい。恋人か。相棒か。何になることを求められている。


見た。笑っていた。やさしい笑い。灰色の目が綺麗すぎた。体型も、目をそらしたくなるくらいだった。魔法使いだ。マジクス純粋。


……そういえば。


「お前、何歳だ」


唐突に聞いた。


「二十六だって、人から聞いたの……」


見つめた。


年上だ。八つ上。


まあ、大きな差じゃない。八つだけだ。


頭が、勝手に動き始めた。


彼女と付き合っている自分を、想像してしまった。ミレイアがずっとくっついてくる。勉強しようとしたら邪魔される。彼女が料理しようとして厨房を燃やす。助けに行く。龍牙くん、と明るい声で呼ばれる。居心地が悪い。でも、完全には嫌じゃない。


二人で食事に行く場面が浮かんだ。高そうな店。ミレイアが綺麗な服を着ている。こっちは一番マシな服を引っ張り出す。彼女がテーブルにワインをこぼす。ため息をつく。彼女が笑う。自分も、なんとなく、笑う。


頭を振った。映像を追い出した。


「……いいよ」


と言った。嫌な未来ばかり浮かんだはずなのに、最後には笑っていた。なら、拒絶する理由はもうないのかもしれない。


「隣にいたいなら、いろ。お前が本当にそう望むなら」


ミレイアの目が輝いた。


「本当に!?」


「ああ」


両手を掴まれた。上下に激しく振られた。


「ありがとう、ありがとう、ありがとう、龍牙くん!」


「落ち着け」


「すごく嬉しいよ。やっと認めてくれた」


目が光り始めていた。泣きそうになっていた。見ていて、ふと思った。こいつが隣にいるのも、悪くないかもしれない。嬉しいと思える瞬間を持つ誰かを隣に置くのは、案外悪くないんじゃないか、と。


ミレイアはまだ手を振っていた。腕が痛くなってきた。


「待って……痛い」


「ごめんなさい」


椅子に戻ろうとして、一歩踏み出したとき――足がもつれた。彼女のか、自分のかわからない。でもとにかく躓いた。


二人同時に、ベッドへ倒れ込んだ。


ミレイアが先にマットレスに落ちて、その上に覆いかぶさる形になった。腕で支えたから体重は逃げたが、距離は近かった。


視線が合った。


近すぎる。髪の匂いが鼻を刺す。胸の鼓動が、彼女のものか自分のものか、もう区別できなかった。


逃げるべきだと思った。でも、腕は動かなかった。離れたら、何か大事なものまで落としてしまう気がした。


……いや、なんで毎回こうなるんだ。物理的にくっつく才能でもあるのか、この女は。


視線を外せなかった。彼女の灰色の瞳に映っていたのは、執着じゃなく、ただの居場所を求める気持ちだった。


近い。


息が、肌に当たる。胸が静かに上下しているのが見える。唇が、少し開いている。


「したいなら、していいよ」


回路が、焼き切れた。


どういう意味だったの。どういう意味だ。何を言っている、正確に。


頭の中で警報が鳴った。『接触禁止区域に侵入しました』って。いや、僕の人生にそんな警報システムはないはずだろ。


彼女が目を閉じた。


汗が出た。頭が割れそうだった。思考が多すぎて、少なすぎた。違う。そういう意味じゃない。そうだ、そういう意味じゃないはずだ。


――ドンドンドン。


電気が走ったように体が反応した。


跳ね退いた。ベッドから落ちそうになりながら立った。


「今行く!」


声が裏返った。


ミレイアが起き上がった。彼女がどんな顔をしているか見なかった。もう扉へ向かっていた。息を整えた。心臓に落ち着けと言い聞かせた。取っ手を掴んだ。


開けた。


固まった。


腕を組んで、面倒ごとを予告する目で立っていた。セレスティアだった。


「なんでここに?」


驚きが声に出た。


答えなかった。腕を脇へ押しのけて、部屋へ入ってきた。自分の部屋みたいな顔で。


扉を閉めながら、後を追った。


セレスティアは、戦いの後、催眠を解除してもらったと聞いていた。治癒師たちに任せてから何があったかは知らなかった。無事なはずだと思っていた。


「セレスティア。どうした。なんで来た」


腕を組み直した。こちらを見た。目が細い。怒っていた。


「あなたに会いに来たのよ」


声は平坦で、氷のようだった。


「戦いであたしに『ご主人様』と呼ばせた男の子に」


血が冷えた。あの言葉は刃だった。必要だったはずの選択が、今は罪のように突きつけられている。


「仕方なかった」


すぐに言った。


「催眠状態のお前を一人にしておけなかった。死んでほしくなかった」


セレスティアは鼻を鳴らした。


「言い訳はいらないわ。催眠が解けたとき、体が痛くて、混乱してた。魔術師たちに何があったか聞いたら、みんな、龍牙というドラゴンズベインのクランの男の子なら知ってるって言うから。それからずっと、あなたを見ていた」


言葉がなかった。


彼女の視線は正しいのかもしれない。けれど、僕の中ではただの必死な選択だった。命を守るための。


一週間。ずっと見ていた、ということか。


「あたしが見つけた」


ベッドからミレイアが手を上げた。授業中みたいに。


「一日、木の陰に隠れてるの発見して、話したんだもん」


「黙って、ミレイア」


セレスティアは見もしなかった。


ミレイアが唇を尖らせたが、口を閉じた。


場違いな無邪気さに、余計に胸が重くなった。今は遊びじゃない。裁きの場に立たされているようだった。


「見ていた」


とセレスティアは続けた。こちらへ向き直った。


「そして気づいた。あなたみたいな人に命令される立場は、受け入れられない。一週間見て、あの戦いで何があったか、まだわからない。あなたの口から直接聞きたい。全部、あったままに」


殺気が、彼女を薄く包んでいた。


ため息をついた。椅子へ歩いて、腰を下ろした。


逃げ場はない。彼女の目を正面から受け止めるしかない。あの戦いの記憶を、言葉に変えるしかない。


「全部言う。あったままに」


話した。どうやって見つけたか。グレインと戦うために力を引き出したこと。自分自身が呼び出した存在と戦ったこと。セレスティアが実験的なタロット魔法を使ったこと。


外見は保った。声は平らかに。動きは静かに。


でも内側は、乱れていた。


セレスティアと一緒にいたとき、いくつか出来事があった。言えないことが。絶対に。催眠状態の彼女が僕に寄り添ってきたとき、体が触れ合ったこともあった。視線が、布の奥まで届いてしまったことも。もしそれを話したら、間違いなく殺されると思った。だから、口を閉ざした。


セレスティアは全部聞いた。怒った顔が、少しずつ溶けていった。氷が解けるように。


「誤解していた」


と言った。話が終わったとき。


「謝る」


罪悪感が喉に残った。全部を話したと言いながら、実際には隠している。けれど、あれを告げる勇気はなかった。正直さよりも、生存本能が勝った。彼女の怒りを想像するだけで、背筋が凍った。


「どうでもいい」


と返した。肩をすくめた。


「勝手に判断されるのは慣れてる」


セレスティアが見た。


その視線に、何かがあった。評価だけじゃない。冷たさでもない。説明できない違和感が混じっていた。肩がわずかに動いた。呼吸が乱れたように見えた。彼女は両手を膝の上に置き、指先をもじもじと動かした。まるで自分の腿の間を隠そうとするみたいに。落ち着いているはずなのに、どこか不自然だった。


……まあ、わからない。


彼女は目を逸らした。けれど、その仕草もぎこちなかった。何かを隠しているように見えた。


胸にざらついた感覚が残った。怒りでも敵意でもない。けれど、理解できない。僕には読めない種類の反応だった。だから、深く考えるのをやめた。考えれば考えるほど、余計に混乱するだけだと思った。


「もっと近くにいる必要がある。観察するために」


瞬きした。


「何?」


「近くで観察する。あの戦いで何があったかを理解するために。またあなたが同じことをしないことを確認するために」


「ここには――」


首を振った。


「ミレイアだけでも手一杯だ。また誰かについてこられる必要はない」


「交渉しない」


セレスティアは腕を組んだ。


「責任をとって。あなたがわたしを一時的にでも使用人にしたことへの。その責任が、あなたにある」


「理由は説明した」


声が固くなった。


「お前を辱める意図はなかった。生き残るためだった」


「それでも」


と言った。


見た。


何かが、言葉の奥にあると思った。観察なんて言葉は、ただの仮面だ。本当の理由は別にある。それを認めたくないだけだ。彼女が言っていない本当の何かが。言い訳は力が入っていなかった。ここにいたい理由を探しているが、それを認めたくないように聞こえた。


「これ以上問題を増やしたくない。もう充分――」


「邪魔にならない約束をする」


セレスティアが割り込んだ。


「ただ観察する。それだけ」


息を吐いた。手で髪を撫でた。


「わかった。いろ。観察するだけでいい。でも、余計なことに首を突っ込むな」


セレスティアの口元が動いた。笑いと呼ぶにはほんの少し小さかったが、確かにあった。


「しない」


それから、ベッドへ歩いてミレイアの隣に座った。二人の魔法使いが並んでいた。普通に話し始めた。まるで昔からの知り合いみたいに。


片方は無邪気にしがみつき、片方は冷静に見張る。どちらも僕を離さない。居心地が悪いのに、なぜか完全には嫌じゃなかった。


「暑いわね、ここ」

とセレスティア。


「ちょっとね。窓、開けようか?」

とミレイア。


「いい。これくらいで充分」


「龍牙くんの部屋、好き?」


「……狭い、かしら」


「あたしは好きだよ。彼の匂いがするから」


「ミレイア、変なことを言うのをやめて」


「変じゃないもん!本当のことだよ!」


椅子から二人を見た。


僕の部屋なのに、僕の居場所がどんどん狭くなっていく気がした。


二人の魔法使い。僕のベッドの端に座って、会話している。


なぜか、二人とも隣にいたがっている。


「これは現実じゃない」こめかみを押さえながら呟いた。


――ドンドンドン


またか。今日は誰かに『訪問者増加の呪い』でもかけられているのか。


「何だよ」


と唸りながら立ち上がった。


扉へ歩いた。開けた。


三度目の金縛り。


今夕で三度目。


ひよりが立っていた。


「ひより?」


声に驚きが出た。


「なんで来た」


彼女は視線を逃がした。口をもごもごさせた。


「あ、あの……龍牙先輩と、お話ししたくて」


「僕の部屋をどうやって知った」


後ろから、杖の音が近づいてきた。一歩ごとに、コツン、コツン、と。


頭を出して見たら、セシリアがいた。楽しそうに歩いてくる。


「私が教えた」


と言いながら止まった。ひよりの後ろで。


「庭園でひよりを見つけた。震えてた。体も思うように動けてなかった。助けようとしたら、あなたに会いに来たかったみたいで」


顎に力が入った。


「勝手に部屋の場所を教えるな」


「ごめんなさいね」


全然悪そうじゃない声だった。


「でも、あなたの知り合いみたいだったから。友達の友達を助けたかっただけよ」


セシリアを見た。ひよりを見た。


「何の用だ」


とひよりに聞いた。


「……入っても、いいですか?」


声が小さかった。


部屋の中をちらりと見た。セレスティアとミレイアが、こちらを覗いていた。好奇心旺盛な顔で。


「もう客がいる。気にしないか」


ひよりは首を横に振った。


「気になりません……」


小さな声と震える肩が、逆に重く感じた。強い魔法使い二人の間に、彼女を置くのは場違いに見えた。


「入れ」


ひよりがゆっくり入ってきた。セシリアもついてきた。杖を床に当てながら。


ひよりに自分の椅子を差し出した。それから、セシリアを見た。


「ごめん。もう座れる場所はないよ」


「気にしないで」


とセシリアは言いながら、ベッドへ歩いた。ミレイアとセレスティアの間に割り込んで座った。杖をマットレスに立てかけた。


三人並んで座っている。僕のベッドはいつの間にか観客席になったらしい。主役は僕じゃなく、勝手に集まってきた女性たちたちだ。


振り向いてひよりを見た。椅子に座っている。膝の上に手を重ねて、おとなしく、迷子みたいに。


「話したいことは何だ」


ひよりが深く息を吸った。


「アザエルとの戦いのあとで……お母さんが、私の恐怖と向き合うための新しい方法を見つけたって言って……。だから私は、これからアカデミーに入学することになって。ずっと家で勉強してたから、アカデミーのことも、誰かのことも知らなくて……。だから、龍牙先輩に助けてもらいたくて……。先輩は先輩ですし」


見ていた。何か、負債のようなものを感じていた。なぜかはわからない。ただ、助けてやりたいと思った。見ているだけで、そう思ってしまった。道に迷った小羊みたいで。認めたくないが。


息を吐いた。


諦めの息だった。


「わかった。助ける」


ひよりの目が光った。椅子の上で少し弾んだ。


「ありがとうございます!」


セシリアがベッドから笑った。


「あ〜ら、あ〜ら」


軽い声だった。


「龍牙、女の子に囲まれてる。すごいわね、モテモテね」


「うるさい」


と言った。声は平らだった。


「本当のことでしょ。ミレイアに、セレスティア、ひより、それに私。四人の女がいる部屋。立派なものじゃないの。ハーレムのように」


「そういうんじゃない」


「そう見えるわよ」


「そうじゃない」


「そうに見えるわよ」


堪えた。


堪えきれなかった。


「ハーレムを作ろうとしたわけじゃない!」


飛び出した。声が出すぎた。


「これは望んでいたことじゃない! 勉強したかっただけだ! 勉強! それだけを求めていただけだ! ミレイアが懐くことも! セレスティアが見張りに来ることも! ひよりが助けを求めてくることも! 頼んでない! ただひとりでいたかった!」


沈黙。


四人が見ていた。


……なんでこうなる。勉強机に向かうはずが、気づけば舞台の真ん中に立たされている。観客は四人の女。拍手じゃなく、好奇心の視線。


セシリアが笑った。


「そうよね〜、そうよね〜」


と言いながら。


「ハーレムね〜」


「ハーレムじゃない!」


「龍牙くん、怒るとかわいいね」


とミレイアが言った。


「怒ってない」


「怒ってるよ」


拳を握った。


静けさを求めただけなのに。結果はこれだ。騒がしい部屋、笑う声、からかわれる僕。孤独よりはましなのかもしれないが、認めたくはなかった。


天井を見た。


爆発しそうな何かを、一秒ずつ潰していった。


勉強するはずだった。なのに、今の僕の課題は『ハーレムじゃない』と証明すること。……どうしてこうなった。


見回した。


ミレイア、笑って僕を見ている。セレスティア、微かな変化が読み取れない目でこちらを見ている。ひより、おずおずと、でも少し期待を込めて見ている。セシリア、ベッドの端で意地悪そうに笑っている。


僕は龍牙・ドラゴンズベイン。記憶を失った女性の中心に、自ら進んで立ったわけじゃない。見張りにくる魔術師の理由も聞いていない。頼りにする後輩の話も承諾しただけだ。からかいを止める力もない。


でもここにいる。囲まれている。捕まっている。


そして、完全には――嫌じゃない。


それが一番の罠だ。嫌じゃないからこそ、抗えない。


そのことが、一番厄介だった。


「望んでいたものじゃない」


最後にもう一度だけ呟いた。


「知ってる」


とセシリアが言った。


「でも、人生ってそういうものでしょ。欲しいものじゃなく、必要なものをくれるのよ」


見た。


息を吐いた。


「静かな図書館を望めばよかった」


と言った。


「それは退屈ね」


とミレイアが言った。


目を閉じた。


十まで数えた。


開けたとき、四人はまだいた。


かつての孤独な砦が、今夕、声と笑いと視線で満ちていた。その中心に僕がいた。


僕は……


自分がいつからこんな状況に慣れ始めているのか、まだわからなかった。


でも、この戦いには勝てない。


それだけは、はっきりとわかった。

失われた命。


残された者たち。


そして、


まだ眠っている少女。


青い石の力によって、


閉ざされていた扉が開かれる。


少女が目を覚ましたとき、


ヴィクターの世界もまた、


新しく変わり始める。


次回――


蘇る少女


長い眠りから目覚めた少女が、


新たな物語を紡ぎ始める。

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