灰の日々と君の温度
戦いが終わっても、
すべてが元に戻るわけじゃない。
失った命。
残された痛み。
そして、
胸に残った想い。
それでも――
人はまた、
誰かと笑うことができる。
少年は今、
新しい日々を歩き始める。
部屋のノートを眺めながら、宿題をぼんやりと見直していた。アザエルとの戦いから、もう一週間が経った。
……一週間。そう思うと、どこからともなくため息が漏れてくる。あの戦いの後に起きたことを思い返すたびに、胸の奥に何か重いものが引っかかる感じがして、それが消えないまま毎日過ぎていく。
アザエルを倒した瞬間、その後のことはほとんど覚えていない。気がついたら倒れていて、目を開けたら魔術師の病院のベッドに横たわっていた。それからというもの、たくさんの人が見舞いに来た。次々と質問を浴びせられて、できる限り答えたつもりだけど……僕自身がこの騒動の全体をどれほど理解できているか、正直自信はない。
また一つため息をついて、窓の外に目を向けた。夕暮れが静かに夜へと変わっていく、その移り変わりをぼんやりと見つめながら、いろんなことを頭の中で整理しようとする。でも、まとまらない。
アザエルの失墜の後、魔術師の社会では様々な真実が明らかになった。たとえば、七賢者。あの七人が実は死霊操作の呪いで操られていたということが判明した。アザエルはとっくの昔に七人を殺していて、ベアトリクス・クロスを使って遺体を動かしていたらしい。……いつからそうだったのかは、誰にもわからない。ベアトリクス自身も何も話していない。
アカデミーに来た最初のあの日、僕を裁いていた七賢者は……あの時すでに、ただの骸だったのだろうか。それとも、まだ本人たちだったのだろうか。……考えても意味はない。今さらわかることでもないし、わかったとして何が変わるわけでもない。
あの戦いで失われたものの中で、一番重く胸に残るのは、春花とファウスティーヌの死だ。
春花……彼女のことを思う。深いところでは人の役に立ちたかったのに、自分自身のコンプレックスに押しつぶされて、間違った方向へと歩いていってしまった人。少なくとも、僕にはそう見えた。実際にはあまり話せなかったから、それ以上のことはわからないけれど。アリズがずっと、春花こそが探すべき「名前のない人」だと信じていたことも覚えている。後で会った時にリディアが話してくれた。春花はナイトシェイド一族でも屈指の天才だったと。
春花の瞳には、いつも何かを隠している影があった。もっと話せていたら、その影の正体を知れたのだろうか。
変身プロジェクトは、もともとはファウスティーヌが構想したもので、アザエルが糸を引いていた。でも、それを実際に形にしたのは春花だった。あの装置を作り上げるという偉業を、彼女は一人でやり遂げた。ナイトシェイドの中でも深く敬われていたからこそ、リディアはあの場で涙を流したんだと思う。自分の一族の人間を、守れなかったという無念と一緒に。
混乱が続く中、大きな権威を一気に失った魔術師社会では、暫定評議会が組織された。新たな「裁判官」を一人決めるという話になったとき、候補に上がる名前はほぼ一択だったと思う。誰もが知っていて、誰もが認めている。そして誰もが認めているからこそ、引き受けたくないだろうとも思っていた。案の定、大魔導師のストロンが魔術師の裁判官に選ばれた。本人は渋々受け入れたようで、見るからに「またか」という顔をしていたらしい。……正直、気の毒に思う。
ストロン先生の背中を見ていると、強さとは戦うことではなく、耐えることなのだと思わされる。
楓の父親、つまり一族の長が陰謀への加担で拘束・収監されたという話も耳に入っていた。ストロン先生が下した判決だったが、今朝になって釈放されるという通知が届いた。ストロン先生が直接話し合い、「本人はすでに学んだ」という判断を下したらしい。……本当にそうなのか、それとも何かもっと別のことがあったのか、僕には知る由もない。でも、信じるとしたら前者がいい。ストロン先生ならば、人を本当に変える言葉を持っていると思うから。
アザエルの手下たちの処分も決まった。
ケイルはまず、後継者たちにかけていた催眠術を解くよう命じられ、その後ストロン先生によって収監の判決を受けた――ただし、マジクスの世界への送還という形で、元々いた場所へと戻された。
セレネは魔法的な研究をすべて中止させられ、人間界で厳しい監視下に置かれることになった。……あの裁判で僕がアカデミーに留め置かれた時と、少し似ているかもしれない。
そしてミレイア……。これは、どう言えばいいのかな。公式の発表では「記憶を失った」ということになっている。アザエルに関すること、自分の魔法に関すること――そういった重要な記憶が根こそぎ消えていて、認知機能に問題はないけれど、魔法の使い方すら忘れてしまったらしい。まるで初学者のように。ストロン先生は彼女にアカデミーで基礎から学び直すよう命じた。記憶を失ったことで、彼女が培ってきた術式もろとも知識が霧散してしまったと言われている。書き記したものは何もなかったから。
……ただ、廊下ではもう一つ別の噂が広まっている。ミレイアが龍牙という男子と仲良くなって、以前とはまるで別人のようになったと。それを聞いた時、変な感覚がした。哀れみと、恐怖の間みたいな、うまく言葉にできないもの。自分の全てを失うというのは、きっと耐えられないくらい怖いことだと思う。あの戦いの余波だということはわかってる――彼女は僕の記憶を消そうとして、自分の記憶を失った。その因果関係を考えると、どこかで申し訳なさを感じてしまう。でも、もし噂通りに今の彼女が変わったとしたら……前より幸せになれているといい、と思う。それだけだ。
重いため息と一緒にノートを閉じた。あれこれ考えようとするたびに、頭が痛くなりそうだ。
……アリズ。
ふと彼女の名前が浮かんだ瞬間、まるでその名前を口に出したかのように——部屋のドアがいきなり勢いよく開いた。いつもの真剣な顔で入ってきた彼女は、でも以前より少しだけ表情が柔らかくなっていた。ツインテールが肩の上でぱさりと揺れる。アリズは部屋に入るなりドアを乱暴に閉め、断りもなく僕のベッドにどかっと座った。
「退院したわよ。今日、ようやくね。それよりあんた、なんでお見舞いに来なかったの!?」
「……勉強してたから」
と僕は素直に答えながら、両手を上げた。
「アリズ、アカデミーから抜け出してホイホイ病院に行けるわけないじゃないか」
アリズは腕を組み、むすっとした顔で僕を見た。
「そんな言い訳、聞きたくないわ。来るべきだったのよ、絶対に」
「……ごめん」
苦笑いで謝りながら、彼女の顔をまじまじと見る。
「でも、本当に大丈夫なのかな。体は……あの日のこと、何か覚えてる?」
アリズの肩から少し力が抜けた。
「……何も。何も覚えていないわ」
彼女が何も覚えていないと言った瞬間、僕の中で何かが空白になった。共有していたはずの痛みが、片方だけに残っているようで。
黙って彼女を見つめた。あの日のことは、僕ははっきりと覚えている。廊下での口論。あの時、彼女は明らかにどこかおかしかった。自分の中の何かが、正しくないと感じていた――確かそう言っていた気がする。
ノートを閉じても、頭の中では戦いの残響が消えない。日常は戻ってきたはずなのに、心だけはまだ帰っていない。
「他には……何か覚えていることはある?」
と静かに聞いた。
「あんたと言い合いをして、部屋に戻ったところまでは覚えてる。でも、そこから急に気分が悪くなって……気がついたら誰かの影が目の前に立っていた。それ以降は、全部真っ暗よ」
考え込んだ。魔術師たちも、アリズ自身も、あの時何が起きたのか把握できていない。あの戦場に突然現れた彼女が、どうしてアザエルと互角近くに渡り合えたのか――誰にも説明がつかない。
彼女が忘れてしまった瞬間、僕だけが過去を背負っているように思えた。その重さが、余計に孤独を感じさせた。
「目が覚めた時は?」
「魔術師の病院だった。怪我を負ったまま自分で歩いて戻ってきたって聞かされたわ……でも、歩いた記憶なんてない」
胸の中で何かが静かに引っかかった。これは……あの石と関係があるのかな。アリズにも、あの時、僕と似たような何かが目覚めかけていたのだろうか――
「で!」アリズがため息交じりに口を挟んだ。
「あんたがアザエルを倒した瞬間を見られなかったことが、本当に悔しいし悲しいわ」
「……見なくてよかったと思う」
と正直に言った。
「ただ、目の前にある苦しみを止めたかった。それだけで戦ってたから」
アリズは一瞬だけ僕を見て、小さく微笑んだ。
「……騎士マジクスへの変身、聞いたわよ。どんな感じだったの?」
自分の手のひらを見下ろしながら、あの感覚を思い出した。
「すごく奇妙だった……。体は騎士のものなのに、内側では僕自身の目で見て、彼と話すこともできて。一体なのか二体なのか、わからないような感覚だった」
アリズはじっと僕を見ている。その視線が真剣になってきたのを感じて、僕の奥にあるものまで見透かしているようで、逃げ場がない気がした。少し居心地が悪くなった。
「……なんでそんなに見てるの?」
「あの変身って、石と関係してると思う?」
「わからない。尋問されたとき、全部話したよ。祖父のことも含めて。ストロン先生は、祖父をアリズで実験しようとしたことを「罰する」と言ってたけど、それ以来何の連絡もない。どれだけ立派な魔術師に聞いても、あの石が何なのか、あの変身が何だったのか、誰も説明できないでいる。一番的を射ていたのは……ルシールの言葉だった」
アリズの眉がぴくりと動いた。
「……ルシール?」
「ああ。吸血鬼の――」
「はあ!? あんたまさか、吸血鬼と普通に喋ってたの!?」
「本当のことを言ってる!」
少し焦りながら続けた。
「彼女が言ったのは、石の中に霊的なエネルギーがあって、それが僕の中に移動したかもしれないって。だからあの騎士が目覚めた可能性があるって。……ただ、彼女自身も石の正体を断言はできなかったけど」
もし石が騎士を目覚めさせただけじゃなく、僕自身の何かを変えてしまったのだとしたら……その答えを知るのが怖かった。
アリズは深くため息をついて、ベッドに背中を倒した。
「おかしなことが重なりすぎて、もう何が何だかわからないわね」
「……本当に」
と笑った。
ちょっとの間、二人とも黙った。目が合う。そして、どちらからともなく笑い出した。緊張が、するりと解けていく感じがした。
「全部をわかろうとしなくてもいいと思う」
と言った。
「大事なのは、今こうしてまた話せてるってことかな」
アリズは頷いて、珍しく素直な笑顔を向けてくれた。
「……そうね。私も、それは嬉しいわ」
でもすぐに彼女の目がいたずらっぽく細くなった。
「ところで。リディアとの関係、進展したの?」
顔に熱が集まった。
「……アリズ、人の話に首を突っ込まないでくれる」
「従兄弟の幸せを願って何が悪いのよ!」
と両手を広げてみせる。
「そういう心配はいらない……」
「あやしいわねえ。お姉さんタイプに惚れちゃったわけ?」
「そういう言い方はやめてくれ!」
顔がさらに熱くなる。
「冗談よ、冗談。怒らないの」
ケラケラと笑いながら、アリズが立ち上がった。その視線がふと、ベッドの横のサイドテーブルに向く。
一枚の封筒が置いてあった。
無断でそれを取り上げ、読み始める。
「ちょっと! 人の手紙を――」
「黙ってて、読んでるから」
と片手で制止される。
「……僕の手紙なんだけど」
読み終えたアリズが、真剣な目で振り返った。
「アキラ……これって、もしかして」
ため息をついた。
「そう。エレノアさんからの手紙だよ。春花の墓の前で話したいって。あの戦いで一緒に戦ったから、話したいことがあるって書いてある。後で話すつもりだったけど、もう読んだんなら……一緒に来る?」
アリズは封筒をじっと見た。それから僕を見た。そして静かに元の場所へ封筒を戻し、首を横に振った。
「今回は遠慮しておくわ。あなたが行ってきなさい」
彼女が首を横に振ったのは、きっと自分の中で整理できていないものがあるからだろう。僕に任せることで、彼女自身も距離を保とうとしているのかもしれない。
ドアへ向かいながら、踏み出す寸前に足を止めた。振り返って、いつもより少しだけ柔らかい目で。
「おやすみ、アキラ」
「おやすみ、アリズ」
ただの挨拶なのに、妙に温かく感じた。戦いの後に戻ってきた日常の証のようで。
ドアが、静かに閉まった。
* * *
エレノアと待ち合わせた日が来た。
深呼吸をして、特別な外出許可証を受け取り、手紙に書かれた場所へ向かった。辿り着いたのは、世界から切り離されたような静かな墓地だった。すぐそばに一本の車道があるが、車はほとんど通らない。鉄の門をくぐって中へ入ると、墓石の間にエレノアの輪郭が見えた。
今日の空は不思議なくらいどんよりしている。歩きながら空を見上げると、一面の雲が重たく垂れ込めていた。……これは偶然なのかな。それとも、今日という日のために空が喪に服しているのか。
足音に気づいたエレノアが振り返った。
「来てくれてありがとう、アキラ」
「いえ……」
前置きなく、エレノアは目の前の墓石へと視線を戻した。
「春花が作ったあの変身装置……あなたがアザエルを倒した時に、消えてしまったはずよ。春花の人生がかけた意味が、全部」
その言葉が、胸の奥のどこかに刺さった。思わず頭を下げた。
「……ごめんなさい、エレノアさん。本当に」
謝っても意味がないとわかっているのに、言葉が勝手に口から漏れた。僕の中では、まだ彼女を救えなかった罪が消えていない。
「謝らないで」
と彼女は言った。声に、責めるような色はなかった。
「あなたに他の選択肢はなかった。……私も、後悔している。せっかく再起できる手段を与えてもらったのに、あの瞬間は何もできなかった。春花の死を晴らせなかったことが、今も心に刺さっている。でも……それをしてくれたのが、あなたのような人でよかったと思ってる」
エレノアは一度も墓から目を離さなかった。僕も、墓石のそばに近づいて、彫られた文字を読んだ。
春花・ナイトシェイド(2072年—2100年)。
石に刻まれた文字は冷たく、動かない。そこに春花の温もりはなく、ただ事実だけが残っている。その冷たさが、胸を締めつけた。
こみ上げてくるものがあった。直接話したのは数えるほどしかない。本当の意味での彼女を知ることはできなかった。でも、彼女について話す人たちの言葉の中に、春花という人間の輪郭がある。多くの人の人生に影響を与えながら、本人はきっとそれに気づいていなかったんじゃないかと思う。
「変身装置が失われたとしても」
とエレノアが続けた。
「ナイトシェイドの人たちはいずれ、春花の残した記録を元に再現を試みるでしょうね。きっと」
「……止めないんですか?」
「魔術師を止めようとするのは、素手で走っている列車を止めようとするのと変わらないわ。死ぬだけで、馬鹿を見るだけ。魔術師の社会は進み続ける。今回のアザエルに関わる出来事は多くのことを変えたけれど、それでも前へ進むことを止めはしない。魔術師はいつまでも増え続け、広がり続ける――人類が消えるその日まで。それが、私の見ている景色」
何も言えなかった。反論するための言葉も見つからず、肯定するだけの確信もない。
重い沈黙が降りた。重かったけれど、不思議と孤独ではなかった。エレノアと同じ場所に立っていることが、少しだけ救いになった。
その時、遠くに人影が見えた。異様なほど長身の男性が、ゆっくりと墓石の間を歩いている。全身黒ずくめだ――長いガバルディナ、シルクハット、濃い色のサングラス。乱れもせずに肩まで垂れた金色の長い髪。距離があっても、その存在感が体の芯に来る。二メートル近くはあるだろう。ただ歩いているだけで、何かが違う。
じっと見ていると、エレノアが口を開いた。
「彼は魔術師――いえ、ひょっとしたら魔法使いかもしれないわ」
驚いて彼女を見た。
「知ってるんですか?」
「この墓地に足しげく通う人たちの間では、知られた存在よ。「魔術師の埋葬人」なんて呼ばれているわ。魔術師なのか魔法使いなのか、どの一族に属するのかも、誰も確かめられていない。全てが謎に包まれている」
「……名前は?」
背筋がかすかに冷えた。
「本名は誰も知らないわ。でも、皆が勝手にそう呼んでいる」
エレノアは静かに言った。「ゴーストと」
その名を聞いた瞬間、背筋を走った震えはただの恐怖ではなかった。魔術師の世界に漂う死の影そのものを見せられた気がした。意識して、そちらへの視線を外した。これ以上見続けるのは、よくない気がした。
墓の前に、死を象徴するような存在が現れる――それは、どんな天才でも同じ場所に辿り着くのだと告げているようだった。
「エレノアさんは……これからどうするつもりですか?」
「まだわからないわ」
と彼女は空を見上げた。灰色の、重たい空。
「春花の死を受け止めるのには、まだ時間がかかる。でも、立ち止まるわけにはいかない。進み続けなければ。……それが、春花の望みだったはずだから」
彼女はそれきり、何も言わなかった。僕もそれ以上言葉を探さず、ただ隣に立って、同じ墓石を見つめた。言葉はもう必要なかった。沈黙の中で、僕たちは同じ痛みを分かち合っていた。
二人のまま、しばらく、どちらも黙って。
* * *
その後も日々は過ぎて、今日はようやく休みだった――そのつもりだったけど、リディアからお茶部の部室に呼び出しがかかった。
少し緊張しながらドアを開けると、彼女は一人でいつもの場所に座って、上品にお茶を飲んでいた。向かいに腰を下ろして、小さく会釈する。
「また会えてよかったですわ、アキラさん」
リディアは優しく微笑んだ。
「これほど慌ただしい日が続いて……ようやくゆっくりできますわね」
「……そうですね」
と苦笑いした。
「やることが多すぎて、頭がずっと追いついていない感じがします」
「まあ、かわいそうに。わたくしのヒーロー」
リディアが少し悪戯っぽい目をした。
「そういう呼び方はやめてください……!」
「あら、それでは何とお呼びすればよいかしら? アキラさん? それとも……ただのアキラ?」
「……どちらでも」
「ではヒーロー・アキラと呼びますわ」
涼しい顔で言う。
「リディアさん!」
その瞬間、彼女は声を上げて笑った。普段はほとんど人前で見せない、あの笑い方だ。
「冗談ですわよ。ほら」
リディアは茶器でカモミールティーを注いで、僕の前に静かに滑らせた。受け取って一口飲む。温かい。熱すぎず、ぬるすぎない――ちょうどいい温度が、手のひらに馴染む。
「アキラ」
リディアが目を合わせて言った。
「あなたは魔術師の社会のために、たくさんのことをしてくれた。だから、お礼をしなくてはなりませんわ……約束通りに」
「もう何もいらないって言いましたよ、リディアさん」
彼女はそっと、テーブルの上で僕の手に触れた。
「……わたくしのことを要らないかしら?」
顔が燃えた。
「っ――リディア、さん、その――!」
リディアはまた笑った。でも今度は少しだけ、優しい笑い方だった。
落ち着こうとして、深呼吸した。……そうだ。自分でも、わかっている。今の状況から逃げようとするのは、ただの怠惰だ。本音を言えば――リディアのことが好きだ。その立ち振る舞い、考え方、存在そのものが眩しくて、敬わずにはいられない。でも、それが本物の気持ちなのか、ただ彼女を高いところに置きすぎているだけなのか、自分でも確信が持てないでいた。
「……正直に言うと」
と言葉を選んだ。
「好きだという気持ちはあります。でも、本当に好きなのか、ただ理想化しているだけなのか……自分でも判断できていないんです」
もしこれがただの憧れだったら、彼女を傷つけてしまう。それが一番怖かった。
リディアが目を丸くした。珍しい表情だ。頬にほんのり赤みが差して、少しだけ慌てた様子になる。
「……そんなことを言われるとは思っていなかったですわ。あなたは正直すぎますのね、アキラ」
「……もし迷惑でなければ、確かめてみたいとは思ってますが」
リディアは僕の手を少し強く握った。
彼女の手の温もりが、理屈よりも先に答えを教えてくれた。
「わたくしは……もうとっくに、確かですわ」
顔が爆発しそうなほど熱い。
「……あ、いや、確かめなくてもいいかもしれない」
「どうして?」
「……今の顔を見ただけで、わかった気がするから」
と言って、覚悟を決めて目を合わせた。
「理想化じゃない。本当に好きです、リディア」
小さな笑いが漏れた。
「結論を出すのが早すぎますわよ」
「本気で言ってます」
「わたくしも本気ですわ。ただ……あなたがずいぶんと迷っていたように見えただけ」
「迷ってません」
「迷ってましたわよ」
「……迷ってなかった」
結局、彼女の前では強がりも通用しない。それが、心地よかった。
「では」
とリディアが言った。
「確かめる遊びをしましょうか。簡単なゲームですわ。『離れずにいるゲーム』。わたくしがすることを、あなたもそのまま真似するだけ。もし離れたら負けですわよ」
遊びだと言われても、心臓が妙に早く打っていた。何を試されるのか、わからないまま。
意図がよくわからないまま、それでも頷いた。
「……わかりました」
「では立って」
立つ。ルールを頭に繰り返しながら――ただ、彼女のすることを真似る。
リディアが右腕をゆっくり上げた。同じように右腕を上げる。彼女が笑った。一歩前へ。僕も一歩前へ。手を降ろして、前へ伸ばす。同じように。彼女が手を取った――一瞬だけ迷って、取った。
彼女が近づく。近づく。
気がつけば、ほぼ真正面にいた。
何も考える間もなく、温かい柔らかさが唇に触れた。
世界が、止まった気がした。
一秒が、永遠のように伸びた。
頭の中の迷いが一気に消えた。理屈も、恐れも、ただ彼女の存在だけが残った。
離れながら、リディアが微笑んだ。
「これが最初から、このゲームの目的でしたわ」
言葉が出てこなかった。
「あなたがわたくしを好きかどうかを証明したかったわけでは、ありません」
続けた彼女の声は、いつもより少し低くて、温かかった。
「……それはもうわかっていましたから。証明したかったのは――あなた自身が、それをわかっているということ。ただ自分に対して正直になるのを、ずっと先延ばしにしていただけですわ」
何かが、胸の中でほどけた。
間を置いて、思わず笑いが出た。バカみたいに単純だ。ただ正直になればよかっただけで。そんなことに、ずっと時間をかけていたのか――。
リディアに近づいて、今度は自分から唇を合わせた。ほんの一瞬、不格好で、たぶん全然うまくなかったけど。
不格好でも、自分から近づいたその一瞬が、何よりも確かな答えだった。
「……ゲームに勝ちました」
リディアは少しだけ目を見開いて、それから声を上げて笑った。
「もう、馬鹿なことを言わないでくださいな」
二人で笑った。
笑い声が重なった瞬間、ようやく肩の力が抜けた。これが本物だと、心から思えた。
おかしい。おかしいのに、この感覚が全部本物だと分かる。
好きだ。疑いようがない。
リディアの手を両手で包んで、目を合わせた。
「絶対に、また嫌な思いはさせません。いつでも、そこにいます」
「私もよ。あなたのそばにいますわ。なぜなら――愛していますから」
「できる限り、ついていきます。何でも助けてみせます」
「無理しなくていいですわよ、馬鹿ね」
と笑いながら、でも優しい声で言った。
「そもそも、後輩より先輩のわたくしが助けて差し上げる立場でしょう?」
「だったらなおさら! ついていきながら、助けてもらいながら、逆に助けさせてください」
リディアの表情が、少しだけ和らいだ。でもその後、ふっと少し寂しそうな影が差した。
「……でも、長くは続けられませんわよ。わたくしは来年、卒業してしまいますから。アキラはまだ、アカデミーに長くいることになる」
その言葉が、胸をじんわりと刺した。そうだ……卒業したら、毎日会えなくなる。たった一言で気持ちがどんと沈んだ。
卒業という言葉は、未来の影のように胸に落ちた。今の幸せが、期限付きであることを突きつけられた気がした。
「落ち込まないで」
と彼女が腕を軽く叩いた。
「アカデミーには何かと用事を作って来ますわ。すぐに何かしなければならないことが山積みになるわけでもありませんし」
その言葉が、底まで沈みかけた気持ちを引き上げてくれた。
リディアが腕時計に目を落とした。それから少し真剣な顔で僕を見た。
「……今から少し時間がありまして? よろしければ、屋敷にご招待したいのですけれど」
驚いて、でも即座に頷いた。
リディアが少しだけ緊張した様子でカバンを持ち、立ち上がった。先を歩く彼女の少し後ろについて廊下へ出た。でも途中で、リディアが足を止め、振り返らずに手を差し伸べてきた。
微笑んで、その手を取った。
振り返らずに差し出されたその手は、言葉以上に強い招待状だった。
二人で並んで、出口へと向かう。外には、屋敷まで直接向かう車が待っていた。
車の中で、ふと頭に浮かんだ。一族の屋敷は、プライベートな空間がほとんどない。個人の部屋だけが、唯一の例外だ――つまり、これから向かう先は。
チラリと横を見ると、リディアも同じタイミングで目を合わせてきた。二人同時に、顔が真っ赤になった。手のひらが、じっとり汗ばんでいる。
間違いなく、話す場所は彼女の自室だ。
沈黙の中で、互いに同じことを考えているのがわかった。その沈黙が、言葉よりも雄弁だった。
屋敷に着いた。無言のまま、リディアに案内されて彼女の部屋へ向かった。
この部屋に入った瞬間、彼女の生活そのものに触れている気がした。外で見せる姿よりも、ずっと近い距離にいるようで。
静かで上品だった。深い茶色の花柄のカーテン。中央に敷かれた柔らかい絨毯。一人にしては大きすぎる白い家具。丁寧に整えられた空間が、彼女そのものを映しているようだった。
「座る椅子がなくて……申し訳ありませんわ」
リディアが小さなローテーブルを指して言った。
「でも、タペットは清潔にしていますわ」
「大丈夫です。むしろ、一人部屋に椅子がある方が珍しいから」
リディアがほっとした様子で隣に座った。肩が、かすかに触れた。
「見せたいものがありますわ」
彼女がカバンから本を取り出した。
「ずっと読んでいたのですが……主人公があなたに少し似ていて、ぜひ読んでほしくて」
受け取って、表紙を見た。そこには『レイヴン姫と無名騎士』と刻まれていた。
物語の主人公に似ていると言われて、少し照れくさかった。でも、彼女がそう思ってくれたことが嬉しかった。
「……読みます。約束します」
カバンにそっとしまいながら、どこかで時間を作らないと、と頭の隅で考える。
そのまま、思わず大きなあくびが出た。眠気のことを考えたら、急に体が思い出したみたいだ。
「……ちゃんと眠れていますか?」
リディアが心配そうに言った。
「えっと……たぶん」
と頭をかいた。
「"たぶん"は答えになりませんわよ。睡眠は大切にしないと」
「……気をつけてはいるんですが」
「何時間、眠っていますか?」
沈黙した。考えてみると、数えたことがない。課題が終わったら寝る、眠くなったら寝る――それだけで、時計を気にしたことがなかった。
リディアは即座に察した。
「……やはり。もっと計画的に生活してください。わたくしは夜の十時には就寝して、六時半に起きていますわ。その方がアカデミーまでの時間も余裕を持って確保できますし、朝の準備も滞りなく進みますから」
素直に驚いた。僕の生活はいつも行き当たりばったりなのに、彼女は時間を支配しているようだった。その差が、逆に安心をくれた。
「……徹底してますね」
「幼い頃からの習慣ですわ。時間を自分で管理することが、何よりも大切ですので」
リディアが何かとノートを取り出した。
「さて、魔術の学習が遅れているでしょう。今日から補習を始めますわ。きちんとした魔術師になっていただかないと困りますもの」
ため息が出た。でも、笑いながら出た。仕方ない、勉強だ。
ため息をつきながらも、心のどこかで嬉しかった。彼女が僕を諦めていない証だから。
魔術陣の方程式、術式の構造、様々な数式を二人で書き込んでいく。リディアが丁寧に説明してくれる中、ある瞬間――気づくと彼女が頭を肩に預けながら、紙を指差して「そこを直して」と言っていた。
いつもの上品な姿ではなく、肩に頭を預ける彼女は、ただの少女のように見えた。
「リディア」
「……んー?」
「何もしないで頭だけ預けて、指示してるだけになってますよね?」
「休憩しながら指導していますわ。何か問題でも?」
「……ないです」
静かに彼女を横目で見た。そうしているリディアは、とても自然だった。ここに居ていいと、体がそう言っているみたいに。
「心臓の音が聞こえますわよ」
と、突然リディアが言った。
「……え?」
「速いですわね」
耳まで熱くなった。こんなに近くにいないのに、聞こえてしまうのか――それとも、耳が良すぎるのか。
鼓動まで聞かれてしまうと、隠せるものは何もない気がした。
部屋には、彼女の匂いがある。香水でも線香でもない。もっとずっと近くにある、清潔で、でも確かにリディアだとわかる匂い。扉を開けるたびに感じてきた、あの匂い。
「このテーブル、小さいですね」
とぽつりと言った。これで何度目かわからない。
「大きければ、あなたがもっと遠くにいますわ」
短く笑った。返す言葉が思い浮かばなくて、いつもの癖で別の方向へ逃げようとした。
「まあ、小さい方が茶器を倒さずに済むかもしれない」
リディアが頭を上げた。少し首を傾けて、面白そうに見てくる。
「動かなければ倒しませんわよ。彫像みたいにじっとしていてくださいな」
「彫像は退屈では?」
「安全ですわ」
肩を軽く押してきた。ほんの少しだけ体が傾いた。半秒だけ、腕の温度が感じられて、消えた。その半秒を、体は律儀に記憶していた。頭がそれに追いつくより先に、感覚の方が記録してしまう。
窓の外で、日が傾いていた。光はもうオレンジで、木の床の上に一本の筋を引くように差し込んでいる。
窓から差し込む橙色の光は、ただの夕暮れではなく、僕たちの時間が新しい色に染まっていく合図のように思えた。
「あのさ、ふと思ったんですが」
と気づけば口にしていた。考えてから言ったわけではなく、ただ思わず出てしまった言葉だった。
「リディアから見て、僕はどう見えますか?」
「どういう意味?」
「その……僕を見る時、何が見えているのかなって」
リディアは少し首を傾けた。いつものあの角度。唇がわずかに開いて、目がこちらに固定される。まるで顔に文字が書いてあって、それを読んでいるみたいな目だ。
「考えすぎる人が見えますわ」
と彼女は言った。
頷いた。それは知っていた。
「他には?」
「……居続ける人」
居続ける人――その言葉は、僕が自分でも気づかないでいた核心を突いていた。逃げないこと、それが僕の唯一の強さなのかもしれない。
少し間を置いて、彼女は続けた。
「いなくなっても誰も責めないのに、いなくならない。それは珍しいことですわよ、アキラ。多くの人は、いなくなってしまいますから」
喉のあたりに何かがつかえた。痛みでも喜びでもなくて、でも痛みに近い何か。彼女の言葉が、自分の中にある気づいていなかった場所を押した。
「……他に行くところがないだけかもしれない」
乾いたジョークを作ったつもりだったが、声が想定より低かった。
「違いますわ」
リディアは揺るがなかった。
「そしてあなたも、それを知っていますわよ」
知っていた。だから困った。
目を逸らして、窓を見た。空の端が紫に滲んでいた。遠くで犬が二回吠えて、また静かになった。部屋の中に、さっきより重く意識できるものがある――彼女との距離、膝がかすかに当たる感触、その感触が消えたり現れたりするリズム。
「リディア」
「ん?」
「なぜ、ここにいるかわかりますか」
おかしな質問だった。自分でもそう思った。でも、一番重要な問いがこれだった気がする。
彼女はすぐには答えなかった。しばらくして、テーブルに両腕をついて――あの、呪われたほど小さいテーブルに――全部の意識でこちらを見た。
「理由はあなたはここにいたいの、そして私はあなたにここにいてほしいのです」
装飾のない言葉だった。飾りようもなかった。だからこそ、論理ではなく、ただの願い。それだけで十分だと思えた。
「あまり論理的ではないですね」
と言ってみた。声が普段より小さかった。
「全てが論理的である必要はありませんわ、アキラ」
リディアが両方の空いた茶器を持ち上げて、立ち上がった。流れるような動作で、ためらいがなかった。何千回もそうしてきたような自然さで。
「お茶を入れ直してきますわ」
戻ってきた彼女が茶器を置く時、指がテーブルの縁で少しだけ止まってから離れた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人で自分のカップを少し冷ますように吹いてから、窓の外を見た。夕暮れの一番きれいな時間だった。夜に折れる直前の、全部が金色に柔らかく見える時間。
「こういう時間が好きですわ」
とリディアが言った。
「急がなくていい。何も期待されていない。ただ、ここにいるだけ」
すぐには言葉が出なかった。彼女の言葉が、二つのカップの間に浮かんで、湯気と一緒に漂っていた。
「それで十分ですか?」
と聞いた。
「何が?」
「ただここにいる、ということが。何か特別なことをしなくても」
リディアが微笑んだ。今度のは小さくて、内側にある笑い方だった。まるで、僕がまだ知らない何かを、もう知っているみたいな。
「わからないですわ、アキラ」
と静かに言った。
「一年後にまた聞いてくださいな」
その答えが、逃げているんじゃないとわかった。彼女は時間を作ろうとしていた。答えが自分で見つかるだけの時間を。
窓の向こうで鳥が一羽、オレンジの空を横切った。カップの中のお茶が少しずつ冷えていく。
「一年……」
と繰り返した。自分のために言った言葉だった。
一年後に。未来を拒むのではなく、未来を迎えるための余白を作っていた。
「十年でも構いませんわよ」
リディアが肩をすくめた。
「急いでいませんもの」
言いながら、ベッドのへりに背中を預けて、目を閉じた。静かに呼吸している。手が膝の上でゆるく開いている。
しばらく彼女を見ていた。
胸の中に、形の決まっていないものがあった。言葉にならない。でも温かくて、静かで、お茶と似ていた。
湯気が薄れていくのを見ながら、気持ちも同じように落ち着いていくのを感じた。
だから何もしなかった。ただそこにいた。あの小さすぎるテーブルの前に座って、夕暮れがゆっくりと夜に変わっていくのを眺めながら、隣で彼女が静かに息をしていた。
言葉はもう必要なかった。沈黙の中で、互いにいることだけが答えになっていた。
それで、十分だった。たぶん。
戦いから一週間。
静かになったはずの日常は、
むしろ以前より騒がしくなっていた。
一人でいた少年のもとへ、
次々と集まってくる少女たち。
彼女たちが求めているものは、
一体何なのか。
次回――
竜の騎士、その後
戦いの英雄に、
平穏な日常は訪れない。




