黎明の騎士と最後の太陽
伝説が目覚める。
少年の中に眠っていた力が、
今、
その姿を現す。
目の前にいるのは、
すべてを奪った敵。
ならば、
もう迷う必要はない。
この戦いを終わらせる。
体が重い。動くたびに、僕じゃない誰かの筋肉が軋むような感覚があった。けれど、その誰かは確かに僕と繋がっている。
それだけはわかった。自分の体じゃない何かが、この器の中で確かに息をしている――けれど僕は、ここからずっと見ている。感じている。聞いている。考えている。自分の一番奥深くから。
……これが、変身というものかな。
心の中で、騎士マジクスの声が静かに、でも揺るぎなく響いた。
「我が力を授けるは、我が呼び声に応じた者のみ。そなたに誓おう――我は弱き者たちの剣となり、守りを必要とする魔術師たちの盾となる」
なんだか……すごい話だと思った。と同時に、どうしても気になることがあった。
「あの……僕の体は大丈夫なのかな」
と、心の中で問いかけた。声に出したわけじゃない。でも騎士には届いていた。
「案ずることなかれ。恐れる必要はない――我がそなたの鎧であるなり」
少し、安心した。
「……君は強いの?」
「そなたが信じる限り、我は強い」
一歩、踏み出した。
――ズゥゥゥン。
たった一歩。それだけなのに、周囲の空気が押しつぶされるように動いた。目に見えるほどの風圧が波になって広がっていった。アザエルが、その変化を察して即座に構えを取るのが見えた。
「そなた、準備はよいかなり。倒すべき敵は――」
心の中で頷いた。そして視線で示した。あの白くてのっぺりとした、おぞましい外見の男を。
騎士は頷き、僕の正面から姿を消した。
でも、いなくなったわけじゃない。外側では僕たちは二つで一つ――ほとんど同じ体を共有しながら、二つの意識が動いている。そういうことなんだと思う。
……それにしても、この力を与えたのは、あの石だったよね。
あの石って、一体なんだったんだろう。わからない。もしかしたら永遠にわからないかもしれない。でも、この力が誰かを守るために使えるなら――迷う気持ちはなかった。今すぐアザエルを倒さないといけない。
外側で、騎士が手を伸ばした。
ゆっくりと、一本の剣が形を成しはじめる。まるで古代のマジクス語の文字が空中に浮かびながら刃の形を描いていくみたいに、光の筋が集まって、束になって、刃になっていった。
僕はまだ一年しか魔術を知らない子供だ。それでも、今この場で立っている。守りたい人たちの前で。だから、逃げる理由はもうない。
アザエルが緊張を帯びながら、こちらをじっと見ている。
「……君は何をしたんだ?」
「僕にもよくわからない。でも、これが僕の呼び声への答えだよ」
「そんなことは――!」
アザエルの声が、初めて揺らいだ。
「体が完全に変わって、見知らぬ存在が現れるだと……! 君は一体何者だ!?」
「僕はアキラ。でも同時に、騎士でもある」
二つの声が重なって、ひとつの体を動かしている。不思議で、少し怖い。でも……心地よくもあった。
沈黙。
アザエルが固まった。
「……そんなことは不可能だ!」
また叫んでいた。首を横に振りながら。
「騎士マジクスは神話に過ぎない! 誰も証明できない伝説だ!」
……でも、そんなふうに言うということは、君は何か知っているんだね。
「騎士マジクスって、何者なの?」と聞いた。
アザエルの両手がゆっくりと握り締められていくのが見えた。それでも声は、不思議なほど落ち着いていた。
「……もともとはマジクスの故郷の星に伝わる伝説なのだよ」
アザエルは静かに言った。
「星が滅ぼされる前、一人の騎士が魔法使いの限界を超えたという。杖を必要とせず戦った、歴史上初の近距離戦士。その他にもいくつかの偉業が伝えられているね」
……僕は心の中で息を呑んだ。
「……それって、本当のことだったの?」
「在ることは在った」
と騎士は僕の中で答えた。
「しかしそなたたちの知る語り口は、あまりにも曖昧すぎる。長い年月の中で、伝説はずいぶんと歪んだのであろうな」
伝説だとか、神話だとか……僕には難しすぎる。でも、理解できなくてもいい。守りたい気持ちだけは、本物だから。
……なんだか、嬉しかった。
戦士。騎士。誰かを守るために戦った、本物の人間。そんな力が今、僕と一緒にいてくれているというのが、素直に、心から嬉しかった。
ずっと一人だと思っていた。弱い僕には、背中を預けられる存在なんていないと思っていた。でも今、騎士が隣にいる。それだけで胸が熱くなった。
「たとえ君が何をしたのかわからなくても――私は止まらない!」
アザエルの声で、現実に引き戻された。
「私はまだ上位の存在だ。それを証明してみせよう!」
剣を構えた。剣身に刻まれた古代マジクス語の文字がかすかに輝いている。宙を蹴って踏み込み、一閃。
アザエルの体が真っ二つに分かれた——けれど次の瞬間には元に戻っていた。
「ふふ、上位なのだよ。君に勝機はない!」
もう一太刀。また一太刀。また、一太刀。
剣を振るたびに、僕の体じゃない何かが加速していく。呼吸が追いつかない。けれど止まれない。止まったら、全部が崩れる。
アザエルの声に、少しずつ焦りが混じってきた。属性の盾を次々と展開して時間を稼ぎながら再生している。
見えてきた。パターンが見えた。
強い一撃には耐えて再生する。でも、連撃を重ねると再生が追いつかなくなる——だから盾を展開して稼ごうとする。
つまり、連続して攻め続ければいい。
「もっと速く!」
と心の中で叫んだ。
「心得たなり」
剣撃が嵐のように変わった。畳みかけるように、一瞬も止まらずに。アザエルが苦しそうにうめき声を漏らし始めた。防御だけで精一杯になっている――
その瞬間、足元に魔法陣が展開され、アザエルが瞬時に位置を変えた。わずか一秒の空白で、完全に回復してしまった。
すぐに詰め寄る。
「……称えよう」
とアザエルは息を整えながら言った。
「その力は確かに驚異的だよ。でも私はまだ上位の存在だ――それをこれから見せてあげよう」
アザエルが高く手を掲げた。その指先が空の彼方を指す。彼の背後に、いくつもの魔法陣が展開された。
手が振り下ろされる。
一斉射撃。空気そのものが裂けていく。戦場は嵐のように包まれていた。
雷、火、氷、水、風、土、草、光、闇――全てが混ざり合って一つの大きな奔流となって、こちらへ殺到した。
八つの属性が一斉に襲いかかる。世界そのものが敵になったようだった。逃げ場はない。受け止めるしかない。
剣を前に構えた。
魔法の鎧が輝く。着弾のたびに、光が弾ける。
「……これ、耐えられるかな」
心の中で聞いた。
「問題ない」
と騎士は答えた。
剣の柄を、もっと強く握り締めた。刻まれた文字が激しく瞬き、周囲にフィールドが展開される――
――ドォォォン!!
着弾していた攻撃が、全て弾き返された。アザエルの魔法陣がその反動で次々と干渉し合い、空中で崩れ散っていく。
「そんな馬鹿な!! 複数の魔法陣を一撃で再構成させるなど――いかにして!?」
答えず、踏み込んだ。アザエルを斬り、今度は空中で体を回転させながら――剣を体ごと、その胸に叩き込んだ。
飛び退いた。距離を取る。
手をかざして剣に向ける。拳を握り込む。
剣が輝き――バァァン!!
遠隔の斬撃が炸裂した。剣が弾き飛んで、手に戻ってきた。
剣が光を放つたびに、僕の中で何かが震えていた。これは本当に僕の力なのか、それとも騎士の力なのか。境界が曖昧になっていく。
爆発の中にアザエルはいる。ボロボロだ。でも、落ちない。
「……!!」
アザエルが、目に見えて激しく感情を乱していた。
「私にダメージを与えられる存在がいるなど……!! さらなる力が必要だ……!! 変身をさらに変身させる!!」
アザエルの胸が強烈な蒼い光を放ち始めた。
攻撃を仕掛けようとした――でも、突然アザエルを覆う異質なバリアが展開された。剣で叩いても、通らない。
アザエルが胸に手を当てる。蒼い光が溢れるほど輝く。
彼の体が、変わっていく。
頭部に亀裂が入り、まるで殻を割るように砕けた。その中から現れたアザエルの顔は――同じようで、違った。深淵のような黒い眼。伸びた髪。背中に蝶に似た、大きく、恐ろしい翅が広がっていった。
殻を割るように姿を変えていくその光景は、悪夢のようだった。人間じゃない。魔法使いでもない。何か別の存在に変わろうとしている。
「これが、次なる変身の形だよ」
とアザエルは言った。声に深みが増している。
「これで私はより上位の存在となった。変身の限界を超える!!」
変身の限界を超える……そんな言葉の意味すら、僕には分からない。ただ、目の前で起きていることが恐ろしくて、息が詰まった。
構え直した途端――アザエルが瞬いた。背後に現れ、一撃。
――ドゴォォン!!
吹き飛んだ。でも、空中で体勢を立て直す。
突きを放つ。また突く。また。
……通らない。さっきまでのようには通らない。
突きが通らない。さっきまで斬れていたのに、今はただ弾かれるだけだ。心臓が冷たくなった。
「どうして攻撃が届かないんだろう」
と心の中で問いかけた。
「敵の魔力が格段に増大した。だから我らの攻撃が届かぬのだ」
と騎士が答えた。
「……他に何かできることはある?」
「そなたの意志次第でできることが、一つある」
ふと下を見た。
リディアが、驚いた顔でこちらを見ている。楓が、目を見開いて固まっている。マーカスは目を閉じたまま、辛そうに呼吸している。ヴィクターは遠くから動けずにいる。他の魔術師たちも、皆、ただ見上げている。
アリズを探した。でも、森の中には見えなかった。どこにいるんだろう。
……でも、迷う気持ちはなかった。
剣が届かなくても、意志は届く。そう信じるしかなかった。
意志が力になるなら――使う。たとえアザエルが千回変身しても、僕は立ち続ける。
剣の柄を、両手で握り締めた。
「……剣を離さないでほしい」
と騎士に頼んだ。
「決して離しはしない。そなたの剣を、常に握り続けることを誓おう」
その言葉を聞いて、もう片方の手を刃に沿わせた。
剣が輝く。刻まれた文字が光の粒子のように浮かび上がる。
青い炎が、刃を包んだ。
空気を蹴って、一閃。
アザエルの体ごと、空気を裂いた。
アザエルがうめく。でも再生している。激昂しながら複数の呪文を展開してくる。強烈な炎の魔法陣が迫る――でも、鎧がそれを飲み込んだ。
次の太刀を避けるアザエル。
「読めているぞ!」
と彼は言った。
「慣れは時間の問題だ。すぐに適応して超えてみせる!」
何も言わなかった。ただ、剣を振り続けた。
――その瞬間、アザエルの腕が弾き、剣が吹き飛んだ。遠くの地面に突き刺さる。
「そうだとも!」
とアザエルが嗤った。
でも――見た。
剣を失った瞬間、逆に自由になった気がした。武器なんてなくても、守りたい気持ちがあれば拳だって武器になる。
アザエルが完全に無防備になっている。
間髪を入れずに飛び込んだ。
剣なんていらない。
素手で、アザエルの顔を掴んだ。
――ズガァァァン!!
空気が爆ぜるほどの速度で突っ込み、そのまま地面へと叩きつけた。衝撃が地面を割り、土煙と砕けた岩が舞い上がり、戦場全体が揺れた。
「……!! これは……!!?」
とアザエルが叫んだ。
「いかにして!?」
心の中で、騎士のことを思った。
彼は完全な戦士だ。剣がなくても戦える。全身が武器なんだ。
「アザエルを止める方法――わかる?」
と聞いた。
「既に分析は終わった。確かにこれほどの者は初めて見るなり。真なる怪物と呼ぶに値する。しかし――倒せぬほどではない」
騎士は冷静に分析している。でも僕はただ、目の前の苦しみを止めたいだけだ。二つの意識が同じ体にあるのに、考え方はまるで違う。
「……なら、信じる。君に任せる」
騎士が頷いた。
「もう一度言うよ、アザエル。僕には、止める方法がわかった。騎士マジクスが教えてくれた」
アザエルは落ち着きを取り戻しながら、不信感を滲ませた。
「……その力の源は君ではない、だよ」
と彼は言った。
「肉体として顕現したあれは、何かの物質化だ。だが構造が理解できなかった。かつて科学者であった私は魔力の扱いを知っている。解放の仕方も、攻撃の仕方も。どれほど強くても、あれがここにいるマジクスと同様の存在であるなら――分析する時間さえあれば止めてみせる、なのだよ」
科学とか魔力の構造とか……僕には難しすぎる。けれど、そんな理屈よりも大事なことがある。誰を守るか、誰を止めるか。それだけだ。
「……正直、言っていることの半分もわからないよ」
と僕は答えた。
「魔法師の世界の技術的な話は、僕にはまだついていけない。でも、わかることが一つある。君は、ここにいるみんなを苦しめた側だということ。それだけは、見過ごせなかった」
「理解される必要などない」
とアザエルは言った。
「崇められれば十分だよ。長年の研究と知識は叡智を生む――だから私は全てのマジクスより上位に立たなければならない」
革命だとか叡智だとか……言葉は立派だけど、結局は誰かに認められたいだけじゃないのか。そう思うと、胸が痛んだ。
「……本当にそう思ってる?」
と聞いた。
「それって、ただ誰かに認められたいという誇りじゃないかな」
「誇りではない」
とアザエルは答えた。
「これはマジクスたちのためにしていることだよ。君にとっても利になることだ。私を止めることは過ちだ――私がしていることは、疑いなく魔法の世界の革命だ。もう少しだけ分析させてくれさえすれば……」
時間を与えれば、必ず何かを仕掛けてくる。だから止めなきゃいけない。今、この瞬間に。
その瞬間、アザエルが指を鳴らした。
ヴィクターのそばにいた二人の魔法使いが呼ばれた。アザエルが口にした名――セレネとミレイア。
「アキラ相手に全力で戦え」
とアザエルは命じた。
「情報収集が必要だ。手を抜くな。最強の呪文を使え」
セレネが少しだけ躊躇したように見えた。こちらの姿――実際には騎士の体なのだけれど――を見て、どこか怯えているようにも見えた。ミレイアは表情もなく、ただじっとこちらを見ている。
「やるわ……でも、ちゃんと後ろを守ってよね、汝に頼むぞ」
とセレネがアザエルに言った。
「わかった」
とアザエルが微笑んで答えた。
セレネが飛び込んできた。炎の呪文を連続して放ちながら、空中を舞う。かわしながら高度を上げると、セレネは空高くに巨大な魔法陣を展開した。
まるで街灯のように、光が僕を中心に取り囲んだ。
次の瞬間――太陽みたいな炎の奔流が、全身を包んだ。
炎に包まれても痛みはなかった。でも、心の中で騎士が膝をついているのが見えた。僕を守るために、彼が全部受け止めているんだ。
「……大丈夫?」
と聞いた。
「問題ない。炎ならば、もっと耐えられる」
と騎士は答えた。
騎士が立ち上がり――外側で、その腕が魔法陣へと波動を放った。魔法陣が一瞬で打ち消された。
セレネへ飛び込む。斬り込む――バリアを通り抜けた。だが、刃は彼女に届かず、結界は無傷のまま残っている。
「……ねぇ、汝の剣は確かに鋭い。けれど、我が結界はただの壁ではないのよ。触れられても、傷つかぬ。面白いでしょう?」
と、セレネが静かに囁いた。声は落ち着いていたが、その瞳には危うい好奇心が揺れていた。
安堵の笑みを浮かべ、次の呪文を展開しようとした、その瞬間。
「『ライトニング』」
と声に出した。体の奥から奔流のような力が走り抜ける。言葉が力になる――それが騎士の魔法なのだと、初めて実感した。
蒼い光がセレネの体を走った。
彼女の衣の裂け目から、青い線が亀裂のように広がっていく。血ではなく、光が滲み出す。まるで傷口から青い炎が溢れ出すように。
「……これは……?」
と、セレネが呟いた。声はまだ静かだったが、震えが混じっていた。
次の瞬間――バチィィィン!!
光の亀裂が全身を覆い、爆発が起きた。衣が裂け、青い閃光が彼女を包み込む。抵抗する暇もなく、セレネの体は弾き飛ばされ、地面へと叩きつけられた。
土煙が舞い、彼女の指先がわずかに痙攣する。だが立ち上がることはできなかった。
爆発の余韻がまだ空に残っていた。焦げた風が渦を巻き、戦場全体が震えていた。次は――ミレイアだ。
ミレイアがこちらを見ている。視線を向けたまま、何かしてくるかもしれない。気を抜かなかった。
「倒し方はわかってるよ、君のことも」
とミレイアは平板な声で言った。
「そんなこと聞き飽きたよ」
と答えた。
「人間は脆い、あたしはそれを知ってるから。君も例外じゃないかしら」
ミレイアの足元に魔法陣が展開された。白灰色のオーラが体を包み――白灰色のオーラが彼女を包んだ瞬間、輪郭が煙のように揺らぎ、次の一歩で完全に消えた。空気だけがわずかに震えていた。
どこにもいない。気配もない。
どこだ。
「……確かに倒し方はわかってるぞ、わかってるから。それをやったら、君は空っぽな抜け殻になるかしら」
声だけが聞こえる。でも方向がわからない。
「どんなものにも負けないよ!」
と叫んだ。
「あたしは記憶魔法を専門とする魔法使いよ」
……ひやりとした。
ある人物が頭を過ぎった。でも今は考えている場合じゃない。
「君のアイデンティティを消してあげるかしら。『君』であることの全てを、消してみせるよ」
……まずい。
記憶を消す……その言葉だけで背筋が凍った。僕が僕でなくなる。存在そのものが消える。そんな恐怖は、剣よりも鋭かった。
四方を見渡す。気配を探す。声は聞こえるが、姿は見えない。笑い声が聞こえてきた――
その時、背後から気配が近づいた。
もう遅かった。
ミレイアの手が、頭の両側に置かれていた。
負けた――そう思った。記憶が消える。全部終わる。そう思った……
「諦めるでない!!」
騎士の声が轟いた。
「そなたの記憶は無傷であるなり。あの女が触れているのは――そなたではなく、我なり」
外側でミレイアが呪文を発動させた。
振り向いた。
……何も、起きない。
ミレイアが固まっている。目を大きく開いたまま、騎士の頭を両手で押さえながら。
「……そんな、ことが……我の術が届かぬなんて……」
と彼女が囁いた。
突然、鏡のような光面が彼女の前に浮かび、反射するように突き刺さった。青白い稲妻が全身を走り、衣が裂け、体が痙攣する。
その瞬間、彼女の瞳がぐるりと裏返り、真っ白に染まった。生気のない眼差しが空を向いたまま、全身が制御を失って震えていた。
さらに、体の制御を失った彼女は、空中でわずかに液体を零した。血ではなく、魔力に焼かれた身体が放つ無意識の反応――尊厳すら奪われる象徴のように見えた。
抵抗する間もなく、彼女は空へと弾かれ、地面へと叩きつけられた。
衝撃で地面が裂け、砂煙が渦を巻いた。ミレイアの体は痙攣を残したまま、動かなかった。
見知らぬ黒髪の男の近くに落ちたのが見えた。
……何が起きたのか、僕には分からなかった。鏡のようなものが現れて、次の瞬間には彼女が倒れていた。理解できない。でも、確かに分かることが一つある――僕の記憶は守られている。消されるはずだったものが、まだここにある。それだけで胸が熱くなった。
けれど同時に、恐ろしくもあった。僕は本当に、ここまでやらなきゃいけないのか。守られたことが嬉しいのに、心の奥では迷いが残っていた。
でも今は立ち止まれない。
ミレイアは倒れた。
あとはアザエルだけだ。
……あの二人を自分の守りに使うと言っておきながら、何もしなかった。それを見ていて、腹が立った。あんな澄ました顔で笑いながら観察しているのが、許せない。
「早く終わらせたい」
と心の中で言った。
「あんな人を、もう見ていられない」
「我が必ず倒す。疑うことなかれ」
と騎士は答えた。
アザエルが拍手をしていた。
「驚いたよ、本当にね。記憶消去を防ぎ、太陽に比肩する炎を受け切るとは。君には感心したよ、なのだよ。真の戦士だ」
もう話す気になれなかった。剣を構えて飛び込もうとした――その瞬間、アザエルの腕が剣を払った。明らかに以前より硬く、重い。剣が吹き飛んだ。
手を上げて剣を呼び戻そうとした。
でも、アザエルが魔力の波動を放ち――騎士の腕が、肩から切り飛んだ。
腕が切り飛ばされた瞬間、息が止まった。痛みは僕には届かない。でも、騎士の体が削られていくのを見て、胸が締め付けられた。これ以上、奪われたくないと思った
「……大丈夫?」
と聞いた。
「腕一本など、何でもない。むしろ――これで換装を起動できるなり」
アザエルが詰め寄ってくる。後退しながら木々の上を滑空した。
「剣へ向かうのだ」
と騎士が言った。
「呼ぶのではなく――剣のそばへ行くのだ」
剣へ向かって飛んだ。
「逃がすものか!!」
とアザエルが叫んだ。召喚呪文を展開し、魔獣たちを放つ。牙を向けて飛びかかってくる――でも、鎧が魔獣の顎を砕いた。魔力の塵が舞い散る。
地面に突き刺さった剣が、青く輝き始めていた。腕を失った部分も、同じ色で輝いている。
近づいた瞬間――剣が、腕の断面と融合した。
青い光が断面から溢れ、剣と肉体が一つに溶け合った。金属が血管のように広がり、刀身が新しい腕となって形を成す。人ではない、武器そのものが僕の一部になった。
アザエルが足を止めた。
「……ほう、腕を失ってなお進化するか。やはり君はただの人間ではないな。だが、それでも私を超えることはできぬぞ」
もう迷っている暇はない。恐ろしくても、悲しくても、立ち止まれば全部終わる。僕は剣と一緒に進む。騎士と一緒に、最後まで。
構え直す。新しい腕で。
宙を蹴って一直線に飛んだ。腕が青く輝く。
アザエルは受けようとした――でも、
衝撃で空気が爆ぜ、腹部に穴が穿たれた。
「これしき!!」
とアザエルが叫ぶ。再生が始まる。
腹に穴が空いても、再生していく。どれほど斬っても、倒れない。こんな存在を、本当に止められるのか――心が揺らいだ。
「『ラスト・デューティ』!!」
と騎士が叫んだ。
青白い爆発が星の粒を混じえてアザエルを飲み込んだ。悲鳴が轟く。
光が消えた。
アザエルはズタズタだった。それでも再生している。
「……!! 許さない!!」
とアザエルが叫んだ。
「誰にも私を超えさせない!! 私はマジクスの神、全ての上に立つ最高の存在!! たかが一介の戦士に、止められてたまるものか!!」
「君は神ではない」
と騎士が外側で言った。
「神と呼ぶにはほど遠いなり」
「それはそなたの意見に過ぎない!!」
「だとすれば――君が正しいと言うのは、誰が決めることなのだろうね?」
アザエルは黙った。
「……消してやる」
と彼は呟いた。
アザエルが瞬いた。鎧に傷が入った――でも大したことはない。後退しながら間合いを取る。次の攻撃に備えて構え直した。
でも、アザエルはもう前に出ていた。連続した爆発を伴う拳。一撃ごとに魔法陣が展開されて威力が上乗せされる。
でも騎士が魔力の奔流を爆発させた。アザエルが弾き飛ばされ、目を見開いていた。
「『トラジック・フレイム』!!」
空の高みに巨大な魔法陣が現れた。空から降りてきた弓は、炎の翼を持つように輝いていた。握った瞬間、手が焼けるほどの熱を感じた。でも、それは痛みではなく、力だった。
アザエルが驚愕して、即座に防御の魔法陣を幾重にも展開した。
弓に矢をつがえる。矢先が青い炎を帯びて輝く――引き絞る。
放つ。
空気を切り裂く音がした。
第一の防壁を貫いた。第二の防壁を貫いた。炎がさらに燃え上がり、第三も、第四も――
――ズドォォォォン!!
最後の防壁が砕け、矢がアザエルの胸を貫いた。
胸を貫かれた瞬間、アザエルの瞳が大きく揺れた。怒りでも恐怖でもない、理解できないという色だった。
これで終わったと思った。でも、騎士の声が『まだだ』と告げた。勝利は近いのに、手を伸ばせば消えてしまう幻のように感じた。
アザエルはまだそこにいた。
荒い息をつきながら、手で顔を覆い、こすり始めた。
「……あり得ない……なぜ、単なる召喚物に遅れを取るんだ……」
と彼は呟いた。
「……違う。あれは召喚ではない。変身だ。だから私と同等に近い……理解した、なのだよ」
目を細めながら、アザエルが言った。
「全力を尽くす。あれを倒すために全てを使う」
「どれほど強くても、私は止まらない」
とアザエルは言った。
「不死の私を誰も止められない!!」
騎士は答えなかった。
僕も、答えなかった。
心の中で、二人で向き合った。
「最後の一撃を放つ時が来た」
と騎士が言った。
「わかった。全ての意志を、ここに込める」
外側で、騎士が空に向かって一本指を立て、朗々と唱えた。
「『オース。ジャスティス。ライト。ライオン。 サン。クラウン。エターナル。』!」
その詠唱は、僕には意味の半分も分からなかった。でも、胸に響いた。光に誓うという言葉が、ただの戦いを超えて、何か大きなものに繋がっているように感じた。
アザエルの顔が激しく歪んだ。胸に手を当てる。蒼い光が溢れ出し――そして絶叫した。
「誰にも私を超えさせない!! 誰も私の上に立つことを許さない!! 私こそがマジクスの神!! 誰も、誰も私を超えられない!!!」
額に奇妙な眼が浮かび上がってきた。胸の蒼い光が、見ていられないほどの輝きを放っている。
額に浮かんだ眼は、血管のような線を広げながら開いた。見ているだけで心を抉られるような、不気味な輝きだった。
アザエルが指を向け――何かを放った。
振り向いた瞬間に気づいた。楓たちのいる方向だ。
でも騎士の方が速かった。
ただ手を動かすだけで――幻影のような騎士の姿が複数、下にいる楓たちの前に展開された。
幻影の騎士たちが次々と現れ、壁のように楓たちの前に並んだ。アザエルの攻撃が直撃した瞬間、光の盾が砕け散り、火花が夜空に舞った。
アザエルの攻撃がそこに直撃した。
木々が根こそぎ吹き飛んだ。爆発は空中で起きたのに、風圧で地面が抉れた。
「今こそ全てが見える!! 今こそ終わらせられる!!」
とアザエルが叫んでいた。
「そう、私は真の神だ!! 邪魔をする者は全て消してやる!!」
アザエルが一瞬で距離を詰め――首を掴まれた。
首を掴まれても、恐怖よりも不思議な静けさがあった。ここで終わるのかもしれない――でも、騎士が隣にいる限り、まだ立てると思えた。
「お前の中に毒を流し込んで爆発させる!!」
と彼は叫んだ。
僕は動かなかった。
アザエルの体のあちこちに、亀裂が走り始めているのが見えた。
「敵は限界に近い。そなたの出番だ」
と騎士が心の中で言った。
頷いた。
「アザエル……」
と言った。首を掴まれたまま、真っ直ぐに顔を見た。
「君を憎んでいるわけじゃない。あの時、君が助けてくれたことは本当のことだったと思う。君の見ている世界が、僕にはわからない」
「……勘違いするな。あれは助けたのではない。お前に見せたいものを見せただけだ。私の本当の姿を、決して見せはしなかった」
その言葉に、胸が痛んだ。信じていたものが、ただの幻だったのかもしれない。けれど――もし本当のアザエルが残酷であるなら、なおさら止めなければならない。
「君は誰よりも強いのに――誰からも認められていない」
アザエルは何も言わなかった。
「……もしそうなら、本当のアザエルがこんなに残酷な人だったなら。ただ見ていることは、できなかった。動かなきゃいけないと思った。だから――」
青い炎が、全身を包んだ。僕だけでなく、アザエルの腕にも絡みついた。彼の皮膚を焼き、苦痛を映し出す。炎は境界を越え、二人を同じ熱に包んでいた。
熱さを感じた――アザエルが感じているのだ。彼は僕を手放し、距離を取った。炎の純粋な熱だけが、そこに残っている。
「『サンズ・オース』!!」
と騎士が叫んだ。
詠唱が響くたびに、アザエルの顔が歪んでいった。胸の光は暴走し、額の眼は血走り、彼自身が崩壊していくように見えた。
地平線に、光が差し始めた。
ここから空を見ると――夜明けが来ていた。本来よりもずっと速く、太陽が顔を出していた。
アザエルが騎士と、あの太陽とを、交互に見ている。何が起きているのか、わかっていない顔をしていた。
「いかなる者にも超えさせるものか!! 人間との混血ごときに!!」
とアザエルが叫んで飛び込もうとした。
でも、騎士の手が――そして僕の手が、同時に動いた。
銀と金に輝く剣が現れた。帝国の紋様が刻まれた、美しい剣だった。
太陽の光が全てを染め上げた。白く、純粋な輝きが世界を包んだ。
その光の中で、アザエルの動きが遅くなっていく。
騎士の最後の言葉が聞こえた。
「『ワンス・アンド・フューチャー』」
――全ての音が、消えた。
いや、消えたのか止まったのかわからない。でも、静かだった。
アザエルが二つに分かれた。
アザエルの瞳が、最後まで理解を拒んでいた。
次の瞬間、粒子になっていった。形が溶けて、消えていく。何も残らなかった。
ただ一つ、小さな蒼い光だけが残って、その場で瞬いていた。
……その光から、声が聞こえた気がした。
アザエルの声じゃなかった。女性の声。
どこかで聞いたことのある声――でも、思い出せない。
ただ一言だけ言った。
「ありがとう」
光が消えた。
誰だったのかは分からない。でも、その「ありがとう」は、戦いの意味をすべて肯定してくれるように思えた。
空が、また変わり始めた。
地平線から、本物の朝日が昇ってきた。今度こそ本物の夜明けだ。戦いが、終わった。
「そなたの意志の強さ――見事であった」
と騎士が静かに言った。
「決して手放すことなかれ。その意志を持って、いつか訪れる未来へと進むのだ」
体が、急に軽くなった。
ゆっくりと下降していく。力が抜けていく。足が地面に近づいていく。
その時、体が少しずつ戻っていくのを感じた。騎士の力に包まれていた感覚が薄れ、僕自身の体に戻っていく。重かった剣も、腕も、すべてが僕のものではなくなっていく。
ものすごく、疲れた。
今だけは……
……眠りたい、かな。
戦いは終わった。
けれど、
失われた命は戻らない。
残された者たちは、
それぞれの痛みを抱えながら、
未来へ歩き始める。
そして――
少年は一人の少女と向き合う。
次回――
戦いの後に残ったもの。
少年は、
新しい未来へ進んでいく。




