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過去を手放す時

失ったもの。


届かなかった想い。


守れなかった人たち。


それでも、


少年はもう一度、


立ち上がる。


過去を変えることはできない。


けれど――


これからを、


変えることはできる。

―― 床が冷たかった。


背中から伝わってくるその冷気が、言葉よりも正直に、今の僕がどれほど無力かを教えてくれていた。リディアが僕の上に倒れたまま動かない。体の重みが、肺に残った空気を少しずつ押しつぶしていくようで……でも本当に息苦しかったのは、それのせいじゃなかった。


僕はどうなってもいい。でも、リディアが息をしているか、それだけが怖かった。


筋肉が痺れている。力が入らない。体が重い。いや、重いのは体だけじゃない。アカデミーに初めて来たあの日よりも、ずっと、ずっと惨めだった。何もできない。何も守れなかった。石は失った。リディアを護れなかった。全部、全部うまくいかなかった。


僕なんかにできることなんて、最初からなかったのかもしれない。強くないし、賢くもない。ただ、守りたかっただけなのに……。


……希望の欠片すら、どこにも見当たらない。


気づいたら、涙が溢れていた。止めようとしても止まらなかった。胸が痛い。魂が痛い。思考が暗い泥の中に沈んでいくたびに、痛みはもっと深くなっていって――


ふと、気づいた。


痛みが……妙にリアルだ。


胸の奥の痛みじゃない。もっと具体的な、物理的な痛みが、左手から走ってくる。床についたままの左手に意識を向けようと、なんとか首を回した。視界に映ったものが、思考を白く塗りつぶした。


左手が、光っていた。


青い光だった。皮膚の上で揺らめいて、ねじれて、炎のような形を作っている。ただの炎じゃない――早い。それでいて静かで、絶えず燃え続けていた。


「っ、なに、これ……!?」


思わず叫んで、手を振った。消そうとした。必死に振り払おうとしたが、炎は飛び散らなかった。皮膚の外に広がることも、燃え移ることもない。ただ手の上で、静かに燃え続けている。熱かった。でも……数秒ごとに、その熱さに慣れていく自分がいた。


……なにが起きてる?


頭の中で答えを組み立てようとしても、うまくいかない。混乱しているのか、疲れているのか、それとも恐怖が先に立っているのか。だれかに魔法をかけられたのか。でもこの炎は僕の皮膚を侵食しない。どこかから飛んできた感じもなかった。


「……なんだ、これ……」


そのとき、聞こえた。


笑い声だった。


子供の笑い声だった。


静寂をやさしく割るような、小さな、くすくすとした笑い声。でもその柔らかさとは裏腹に、背中の毛が全部逆立つほど、何かが違う気がした。恐怖で首が鈍く動いた。右側に目を向ける。


薄暗がりの中に、人影があった。


小さい。子供の人型だった。でもその小ささに似合わない、重くて奇妙な気配が漂っていた。のしかかってくるような存在感だった。


「……だ、だれ?君は……まさか、魔法使い……かな?」


僕なんかに、こんな存在が近づいてくるなんて……どうして? ただ怖いだけなのに。


影がゆっくりと動いた。部屋の薄い光の中に、ゆっくりと歩み出てくる。見えてきた姿に、一瞬、混乱した。女の子だった。ただ、その服が……時代錯誤というか、何かから抜け出してきたようで。ゴシックと呼ぶのが正しいのかはわからないけど、とにかく現代じゃない。現実じゃない気がした。


「ふふ……なんと奇妙な光景を見つけてしまったのじゃ」


女の子は僕を見下ろして、口元に手を当て、わらわらと笑った。


「女子に押し倒されたまま身動きもとれぬとは……これはなかなかの珍品じゃの」


「っ……やめてくれ……僕は強くない。笑われるのは、もう十分だ」


恥ずかしかった。恥ずかしいし、腹も立った。もがいてみたけど、やっぱり体が動かない。みっともなかった。


「その者の纏う衣、なかなかに舞台の衣装めいておるのじゃ。これでは"戦いの結果"というより、劇場のひとこまに見えてしまうのぅ……ふふ」


「……っ、それは関係ない」


関係ないって言ったけど……本当は、全部関係あるんだ。僕が弱いから、こんな姿になってしまった。


顔が熱くなった。羞恥と怒りが一緒に押し寄せてくる感覚だった。なんとか声を絞り出したけど、言葉は情けなく掠れた。


女の子は笑いを収め、改めて僕を上から下まで眺めた。


「まぁ……これほど多くの魔術師たちの中に、貴様のような者を見つけるとは思うておらなんだの」


僕には難しすぎる……頭が回らない。ただ、怖いだけだ。"貴様のような者"?どういうことだ。頭が疲れすぎていて、意味をうまく掴めない。


女の子がゆっくりとしゃがみ込んだ。目線が合う。その瞬間、胃の底に氷を落とされたような感覚がした。


その目が、赤かった。


普通の赤じゃない。血よりも深い、重い赤。じっと見つめていられなかった。一秒も保たずに視線を逸らした。


見ちゃいけない……でも、見てしまった。僕なんかが、こんな存在に耐えられるはずがない。


「……な、なんで……」


女の子はリディアの背中に、人差し指をつん、とついた。まるで置き物でも試すように。


「やっ……やめろ!」


体を動かそうともがいたが、やっぱりうまくいかない。情けない声が出た。


「……わらわ、本来こういった事へ関わるつもりはなかったのじゃ」


と彼女は言った。僕の抗議など耳に届いていないように。


「じゃが……まぁ、状況が状況じゃからのぅ。仕方なしじゃ」


しばらく黙って見ていた後、女の子はすっと立ち上がった。スカートの裾を、指先でそっとつまんで。そしてやけに優雅に、小さくお辞儀をした。


「名を申すのじゃ。わらわはルシール。ただのルシールじゃ……そして、吸血鬼なのよ」


……えっ。


「……吸血鬼?」


「そうじゃ」


そう答えながら、彼女はそっと唇を開いた。光を受けて、牙が光った。細くて鋭い、紛れもない牙だった。


頭が、完全に停止した。


吸血鬼。吸血鬼って、存在するのか。いやそれよりも、今ここにいる。なぜ。どういう状況だ。もう死んでいるのか、僕は。夢でも見ているのか。いや……いや、でも左手の熱は消えていない。これは現実のはずだ。多分。


ルシールは特に説明を増やすでもなく、あっさりと続けた。


「その手の光が目に入ったのじゃ。それで、わらわは介入することにした。あれは……放置できるものではなかったのでのう」


「……君が、知ってるの?これのこと?」


と、なんとか左手を持ち上げて聞いた。僕には何もわからない……ただ、誰かに教えてほしいだけだ。


「正確に何かは知らぬ」


とルシールは言った。眉をわずかに上げながら。


「じゃが、その構造は理解できるのじゃ」


黙った。何を聞けばいいかも、もうわからなかった。ただ聞くしかなかった。


「その手にあるのは……霊的エネルギーなのよ」


とルシールは静かに言った。


「貴様は長い間、膨大な霊的エネルギーを秘めた何かと接触しておった。それが少しずつ、貴様と混じり合っていったのじゃ」


……石だ。


頭の中で、すぐに繋がった。あの青い光。石を分析していたときに見た、あの光と同じだ。まさか……石のエネルギーが、僕の中に?


「その霊的エネルギーは、並の力ではないのよ」


とルシールは続けた。


「非常に強く、非常に古い何かに属するものじゃ。じゃがそれが、今や貴様と混じり合い……貴様が新たな"器"になってしもうたのじゃ」


冷たい何かが背骨を伝った。


「……器って、どういうこと?」


「そのエネルギーが、以前の容れ物を離れ……貴様を選んだということじゃ。以上の意味はないのよ」


天井が回り始めた気がした。


石が僕を選んだ。石の中にあった何かが、今は僕の中にある。今この瞬間、僕の体の中に……何かがいる。


叫びたかった。恐怖が喉まで上がってきた。意識を乗っ取られるのか。体を奪われるのか。自分が消えてしまうのか。想像するほど恐怖は膨らんでいった。


僕が消えてしまったら……リディアを守る人はいなくなる。それだけは、嫌だ。


「心配せずともよいのじゃ」


とルシールが割り込んだ。淡々と、でも迷いなく。


「あのエネルギーは、器を蝕まないのよ。器に"適合"するものなのじゃ」


「でも……でも、あの石に入ってたものは!みんながずっと言ってた、危ない、触れてはいけないって……!」


と気づけば声が大きくなっていた。


ルシールはため息をついた。どこか呆れたような。


「皆、知識が足りぬだけじゃ。貴様に危険だと告げた者たちも含めて、のぅ」


……何を信じればいい。先生も、本も、魔術師たちも、全部ちがうのか。


「わらわが貴様の前に立つ、最も具体的な理由を話すのじゃ」


とルシールは僕をじっと見た。


「貴様が、その霊的エネルギーを制御できるかどうかを見たいのよ」


「……えっ……いや、嫌だ」


半ば反射的に、そう言っていた。僕には無理だ。強くないし、賢くもない。これ以上背負うなんて、できない……。


「嫌?」


「嫌だよ。これ以上ややこしいことには関わりたくない。もう十分だ……」


ルシールはくすりと笑った。子供っぽく、でも少し意地悪に。


「……じゃがの。そうしなければ、そこの娘を解放できぬかもしれぬのじゃ」


言葉が、胸に刺さった。


…………。


リディアを助けられるなら……僕がどうなってもいい。怖くても、やらなきゃ。


見た。僕の上で動かないリディアを、見た。燃える左手を見た。ルシールを見た。


……そうだ。リディアを助けたい。それだけだ。


「……わかった。説明してくれ」


と言った。


「……そして、このエネルギーについて、君はほかに何を知ってる?」


「正確な出自は、わらわにも分からぬのじゃ」


とルシールは答えた。


「どこから来たものかも、貴様の中に今あるものが何かも、断言はできぬのよ。じゃが……三つだけは確かなのじゃ」


指を一本ずつ立てながら、言った。


「ひとつ。貴様を害することはない。ふたつ。制御できる。みっつ。このエネルギーは、適合し、補完し合うもの……"共鳴"するのじゃ。何が引き金になるかはまだわからぬが……恐らく、貴様の感情が鍵になると思うのよ。感情が爆発せぬよう、気をつけるのじゃ」


感情が、鍵。感情なんて、いつも弱くて、すぐ揺れるのに……本当に制御できるのかな。


「……共鳴って、具体的には何をすればいい?」


「そのエネルギーを、彼女に流し込むのじゃ。うまくいけば、眠りから目覚めるかもしれぬのよ」


深く息を吸った。ゆっくりと、左手をリディアの背に置いた。手のひらが、彼女の体の固さを感じた。トランス状態の、硬直した体の温度。そして左手に広がる青い炎の熱が、少しずつ、彼女へと向かおうとしていた。


この力を、君に渡したい。


「それだけでは足りぬのじゃ」


とルシールが言った。


「呼ぶのじゃ。貴様の気持ちが本物かどうか、わらわは見たいのよ。……本当に、目覚めさせたいのかえ?」


胸に、何かが押し寄せた。


当たり前だ。帰ってきてほしかった。あの声が聞きたかった。分析的で、的確で、時々鋭くて……そういうリディアを、もう一度見たかった。


左手の光が、急激に強くなった。部屋全体が青く染まるほどの光だった。


「呼べ!」


とルシールが叫んだ。


「その娘を呼ぶのじゃ!」


リディアを両腕で抱きしめた。光が二人を包んでいく。


「リディア!聞こえるか!戻ってきてくれ!」


目を閉じたまま、叫び続けた。僕の声なんて届かないかもしれない……でも、それでも呼び続ける。僕にはそれしかできないから。


「……もう一度、君の声が聞きたい!お願いだ、リディア……戻ってきてくれ!!」


そのとき、胸の中で何かが動いた。


リディアの指が、僕のシャツを掴んでいた。


「……っ……生きてる。まだここにいる。僕の手を離さないで……お願いだ」


体の硬直が、溶けていく。そっと体を起こして、床に座ったまま彼女を腕に収めた。呼び続けた。ただ、名前を呼び続けた。


「手を握るのじゃ!!今すぐ!!」


ルシールの声に、反射的にリディアの手を握った。


その瞬間、光が弾けた。


目が開けられないほどの、まぶしい青。リディアの体が、大きく弓なりに反った。頭が仰け反って――そのまま、動かなくなった。


光が、消えた。


もし僕のせいで傷つけてしまったなら……僕はもう立ち直れない。守るために呼んだのに、壊してしまったら……。


「リディア……」


声が、震えていた。


一瞬、最悪のことを考えた、彼女を傷つけてしまったのではないかと。涙が出そうになった。


「泣き虫じゃの、まったく」


とルシールが横から言った。


「何も起きておらぬのじゃ」


「でも動かないじゃないか……!」


「少し待てばよいのじゃ。よく見るのよ」


……見た。


ゆっくりと、リディアの頭が揺れていた。夢から目覚める人のように、ふらふらと。


「……リディア?大丈夫か?ねぇ、返事してくれ……!」


リディアはゆっくりと目を開けた。ぼんやりと周囲を見回して、額に手を当てた。


「……何が……起きましたの?」


とか細い声で言った。


「……アキラさん……、なのかしら」


「そうだ、僕だ。……他には何か覚えてる?」


「……わたくしが最後に覚えておりますのは……ほかの継承者の方々と、テーブルを囲んでいたこと……ケイルが何か話していて……それ以降は、何も」


とリディアは眉を寄せながら言った。


「……まるで、白紙ですわ」


「無理に思い出さなくていい。まだ気分が悪いだろ?」


「……アキラさん、説明してくださいませ」


と彼女は額を押さえたまま言った。


「今、何が起きているのかしら……」


短くまとめた。ケイルが術式で全員を眠らせたこと。カエデが一人で逃げて、僕たちに知らせてくれたこと。約束通り、迎えに来たこと。


リディアはしばらく僕を見つめていた。目を細めて、何かを処理しているように。それからゆっくりと、瞬きした。


「……ありがとう。わたくしを助けに来てくださって」


とリディアは静かに言った。


僕なんかじゃ、助けられたかどうかもわからない。でも……その言葉だけで、救われた気がする。


「あの子の力がなければ無理だったよ」


言いながら、ぎこちなくルシールの方を指さした。ルシールが軽く手を振った。リディアはルシールを見て、首を傾けた。


「……あの方は、どなたかしら?」


「……説明が難しいんだけど」


と言いながら、首の後ろを掻いた。僕もよくわかってない。ただ、流されるままに必死で動いているだけだ。


「とにかく今は動かないと。ここにいたらまずい」


「状況を手短にお聞かせくださいませ」


とリディアは、反射的に立ち上がろうとしながら言った。ただ体が勝手に動いたように見えた。


説明した。石がケイルに持っていかれたこと。今はどこにあるのかわからないこと。


リディアは数秒、考えた。ふらついていても、目は既に動いていた。


「……あの者と対峙しに行かなければなりませんわ。悪しき者たちを止めなければ」


「ちょっと待ってくれ」


と思わず声が出た。


「君も僕も、戦闘系の魔術師じゃないんだぞ。前線に飛び込むのは……」


「存じておりますわ」


とリディアはきっぱりと言った。


「ですが……頭がございますの」


それ以上は言えなかった。


リディアはそういう人だ。どんな状況でも、自分が役立てる方法を探す。たとえ体がふらついていても、頭が先に動く。彼女にとって、止まることは敗北と同じなのだろう。


「……わかった。一緒に行く」


僕にできることなんて少ない。でも……彼女が進むなら、僕も隣に立つしかない。


リディアが微笑んだ。


その瞬間、沈黙が落ちた。


少しして、お互いがどんな体勢でいるのかを、二人同時に理解した。


距離が、近かった。ほぼ抱き合ったまま、床に座っていた。リディアが視線を落とした瞬間、自分の身なりに気づいた。まともな服装とは言えない姿――その事実が一気に彼女の頬を赤く染めた。驚きに目を見開き、慌てて両手で胸元や腰回りを押さえ、少しでも隠そうとする仕草が、余計に彼女の羞恥を際立たせていた。


「っ」


こんな姿を見せられて……彼女はどれほど恥ずかしいだろう。僕には、ただ隠してあげることしかできない。


すぐに上着を脱いで、彼女の肩に掛けた。前を向いたまま。


「これで少し隠れると思う。アカデミーの制服は丈があるから……大丈夫なはずだ」


僕にできるのは、せめて彼女の恥ずかしさを少しでも隠すこと。それだけでも役に立ちたい。


「……あ、ありがとう、ございます……」


声が、普段と全然違った。


二人とも、立ち上がった。目は合わせなかった。顔が熱い。これほど顔が熱くなったことは、たぶんここ最近でなかった。


「なぜそのように恥じておるのじゃ?」


とルシールが言った。どこか楽しそうに。


「二人は恋人同士ではないのかえ?」


「そ、そういうことじゃない!」

「あ……そ、そのようなことは……今は……っ」


二人の声が、見事に重なった。


「……ルシール」


となんとか声を立て直して言った。


「……君はこれからどうするんだ?」


「そなたに聞き返すのじゃ」


とルシールは笑った。


「これからどうするつもりなのじゃ?」


少し、考えた。でもあまり迷わなかった。


「……リディアが助けたいと言うなら、僕はそれに従う。正しいと思うことをする。それだけかな」


僕には判断する力なんてない。ただ、彼女が信じるなら……僕も信じるしかない。


ルシールはくすりと笑った。


「ならば幸運を祈るのじゃ。わらわはこれ以上、物事の流れに関わりすぎるのも好まぬのよ。少し遠くから、眺めるとするのじゃ」


そう言うが早いか、彼女は闇の中に溶けるように消えた。まるで最初からそこに存在していなかったかのように。


リディアが、そっと肩に触れた。ルシールがいた場所を見つめながら、声を落として言った。


「……あの子、本当に何者でしたの……見ているだけで鳥肌が立ちましたわ……」


「……信じてもらえないかもしれないけど」


とため息をついた。


「本人が言うには……吸血鬼らしい」


リディアが固まった。


何度も瞬きした。ルシールがいた空間を見た。ドアを見た。そっとため息をついた。


「……今は考えないことにしますわ。参りましょう」


「……うん」


自然に、手が繋がっていた。この手を離さなければ……少しは強くなれる気がする。僕一人じゃ無理でも、二人なら。どちらが先にそうしたのかは、わからなかった。お互い何も言わず、指を絡めて、力を込めた。


リディアがそっとドアを開けた。


廊下に出た瞬間、目の前の光景が、胃を直接掴んできた。


継承者たちが全員、廊下に立っていた。立ったまま、動かない。まるで石像のように、ただそこに存在していた。


「……アキラさん、わたくしに試みたのと同じことを、彼らにも試してみてくださいませ」


と低く言った。


一番近くにいる男子の肩に手を置いて、集中した。


何も起きなかった。


左手の光は消えていた。あの青い炎の温かさも、体の中を流れる感覚も、もうどこにもなかった。


「……だめだ」


と呟いた。


やっぱり僕の力は特別なんかじゃない。リディアを救えたのは偶然で……他の人には届かない。僕はまだ、無力だ。


「リディアのときとは、条件が違う。そもそも僕の力は……術式を破るものじゃない。何か別のものだ。これは効かない」


リディアはすぐに頷いた。それ以上は追求せず、部屋の奥に目を向けた。


「……あちらにエレベーターがありますわ。おそらく、あれで移動するのかしら」


「下に行くの?」


「当然ですわ」


とリディアは歩きながら答えた。


「上は論外、広い空間は必要なもの。何か大きなことを企んでいるなら、地下が最も合理的ですの。……それに」


とエレベーターのボタンを一瞥した。


「下以外のボタンが、すべて封鎖されていますわ。このエレベーターは下にしか動かない」


……彼女は一秒で全部見ていた。


エレベーターが開いた。中に入ると、静かに下へ降り始めた。


扉が開いて、長い廊下が現れた。正面にまっすぐ伸びる道と、左右に分かれる二つの道――三方向へ続いていた。


二人で出て、どちらかを見た。


「……どっちに行く?」


「右ですわ」


とリディアはすでに歩き始めていた。


「なんで右なんだ?」


「ヒューリスティクスに基づく意思決定を適用しておりますわ」


……聞かなければよかった。難しい言葉を並べられると、僕はただ頷くしかない。


何も言わずについていった。聞いても理解できる自信が、今の頭にはなかった。


廊下は静かだった。不自然なくらい静かだった。折れ曲がって、また別の廊下に出た。蛍光灯の白い光が、ちかちかと瞬いていた。廊下の端には放置された車いす、途中に置き去りにされたストレッチャー。壁には一定間隔で消火器。閉まったままのドア。緑の鉢植え。


全部が、ひどく不似合いな組み合わせだった。


リディアの手を握ったまま歩いた。それだけが、今ここにいることを確認させてくれる感覚だった。


この手を離したら、きっと僕は迷ってしまう。彼女が隣にいるから、まだ歩ける。


ふと、大事なことを思い出した。歩みを止め、声を落として言った。


「……リディア、今の君はかなり無防備だ」


急いで背負っていたポケットを探り、ヴィクターから渡された杖を取り出した。


「これ……ヴィクターさんがくれた杖だ。魔術師の間では有名な人だろ? 君が使ってくれ。僕にはまだ自分の杖があるから」


リディアは受け取って、興味深そうに眺めた。


「……ありがとうございます、アキラさん」


僕は少し恥ずかしくなりながら続けた。


「ただ……正直、使い方はよくわからない。試作品らしくて、魔力を通して安定させるとか……そんな説明を受けたけど、詳しくは理解できなかった」


リディアが小さく笑った。その笑いは、確かに彼女のものだった。胸の奥がじわっと緩んでいくのを感じた。


彼女の笑いを聞けるだけで……救われる気がした。僕にはそれで十分だ。


廊下を進み、角を曲がったその瞬間――人影が目の前に現れた。


反射的にリディアを後ろへ引き寄せ、僕は前に出た。


ただ体が勝手に動いただけで、杖を構えることすら思いつかなかった。


だが、視線が止まった。


……マーカスだった。


ヴィクターも、一緒にいた。


マーカスも、僕たちを見て少し驚いた顔をした。ハンターの彼がここにいるのは当然だろう。継承者たちを助けるためにここまで来たはずだ。


短く、小さな声で情報を交換した。何が起きているか。どこに向かえばいいか。


結論は出た。経験のあるマーカスに従うのが最善だった。


僕には判断する余地なんてない。経験のある人に任せるしかない。僕はただ、リディアの手を離さないようにするだけだ。


マーカスが先を歩く廊下は、ひどく静かだった。リディアの手を握り直した。彼女が同じ力で返してくれた。


……それだけで、少し楽だった。


彼女が隣にいるだけで、怖さが半分になる。僕一人なら、とっくに足が止まっていた。


気づいたら、天井が揺れていた。


何かが共鳴している。振動が壁を伝って、埃を落としている。耳を澄ますと、遠くから爆発音が聞こえた。角を曲がるたびに、音が大きくなっていった。


マーカスが、突然止まった。


何を見ているのか、角から覗けない。でも次の瞬間、マーカスが叫んだ。


「全員下がれ!」


咄嗟にリディアを引いて後ろへ下がった。爆音が響いた。壁が消し飛んだ。煙と粉塵が廊下を満たした。


マーカスが煙の中へ飛び込んだ。ヴィクターが続いた。リディアが素早く手で示した。


逆側だ。


二人で反対方向へ走り、隣の部屋に転がり込んだ。倒れたソファの影に身を潜めた。


視界が開けた。


ヴィクターが奥へ走った。そちらには……エレノアがいた。なぜここに。


リディアが小さく息を詰めた。


視線を辿った。右側の床。


血だまりがあった。遠くてはっきり見えないが……リディアはすぐに顔色を変えた。


「……春花様……」


と、声が揺れた。


血を見た瞬間、喉が詰まった。助けられなかったらどうしよう……また誰かを失うのか。


喉の奥が、固くなった。


目を中央に戻した。マーカスと向き合っている人影が見えた。アザエル、だった。


アザエルの後ろには……ケイルと、二人の女。近くにいるだけで、その魔力の重さが皮膚を圧迫してくる。魔法使いだ。一瞬で分かった。


近づくだけで皮膚が痛いほどの圧力……僕には到底太刀打ちできない。なのに、ここに立っている。


リディアは必死に周囲を見回していた。何か動ける方法を、何か役立つものを――でも、見つからない。奥歯を噛み締める音が、僕の胸に突き刺さった。


……何も見つからないのが、見ていてわかった。


「無理をするな……」


と囁いた。


リディアは目を離せなかった。そのまま、目からゆっくりと涙が流れ落ちた。うつむいた。繋いだ手の力が、どこかへ消えていった。


……見ていられなかった。


腕を回して、抱きしめた。リディアは僕のシャツをつかんで、肩に顔を埋めた。


「……思いつきませぬ……何も……わたくし、間に合いませんでしたの……あの方々が傷ついているのに……もし、もう少し気を配っておれば、催眠術などにかかりませぬでしたの……わたくしのせいで……わたくしが不注意でなければ……」


「君のせいじゃない」


と耳元で言った。


「わたくしのせいですわ……!」


「リディア、前にも言っただろ……完璧じゃなくていい。全部一人で背負おうとするな」


僕の腕の中で、リディアの体が小さく震えていた。


「……全部背負わなくていい。重すぎるなら、僕に分けてくれ。守りたいんだ。……君は一人じゃない」


腕の中で、リディアの体が小さく震えていた。


外に目を向けた瞬間、空気が変わった。アザエルの体が、白い陶器のような殻に覆われていく。顔が消えたのに、声だけが響いた。静かで、冷たく、恐ろしい声が空気を震わせた。


……不思議なことに、恐怖はなかった。リディアがここにいるから。守りたいと思う気持ちだけが、僕の中にあった。


アザエルが手を上げた。建物全体が軋んだ。


マーカスが叫んだ。


「気をつけろ!」


杖を出した。炎の防護術式を、リディアと自分の周りに張った。


屋敷の構造だけが、宙に浮かび上がった。


次の瞬間、構造全体が爆散した。


いきなり夜空の下にいた。木々が下に広がっている。風が唸った。破片が飛び散っていく。


……世界が一瞬で裏返ったようだ。屋根も壁もなく、ただ夜空と風だけが広がっている。僕には、立っていることすら場違いに思えた。


マーカスとヴィクターが空中で動き始めた。光と爆発が夜空に弾けた。色とりどりの炎が飛び交う。マーカスがアザエルへ。ヴィクターが魔法使いたちへ向かった。


リディアを見た。


虚ろな目で、空を見ていた。


彼女の目が空に吸い込まれていく。僕は何をしている? ただ隣で立ち尽くしているだけだ。守りたいのに、何もできない。


何もできない。その思いが、喉の奥に詰まっていた。


石は。石はどこにあるの?


見下ろすと、瓦礫の中に見えた。あの光が、消えていた。アザエルが何かをしたのか。何が起きたのかは、わからない。


空に目を戻した。マーカスは限界近い動きだった。それでもアザエルに傷一つ入らない。


リディアが震えていた。こんなふうに、大切な人たちが傷ついていくのを、見ていることしかできないのか。


気づいたら、胸の奥に何かが流れていた。温かくて、速くて、抑えられないものが血管を走っていた。


……なんで、こんなに無力なんだ。


ずっとそうだった。いつも後ろにいた。いつも守られる側だった。リディアが泣いているのに何もできない。マーカスが命を削っているのに足元で蹲っている。


嫌だ。嫌だ。嫌だ。


こんな自分が、嫌だ。


――ドガァァン!!


地面が大きく揺れた。衝撃がどこかから来た。


マーカスが地面に叩きつけられていた。巨大なクレーターの底に、動けないまま横たわっていた。


……体が、冷えていくようだった。


マーカスが落ちたなら……だれが、あれを止める。


僕じゃない。僕にはできない。そう思った瞬間、体の奥が冷えていった。


リディアが引いた。


空を指していた。


遠くの夜空から、いくつかの影が高速でこちらへ向かってきていた。


「……増援ですわ……」


とリディアが掠れた声で言った。


魔術師たちが現れた。アザエルへ一斉に攻撃を始めた。組み合わさった攻撃が、アザエルの体を削っているように見えた。でも……再生していた。何もなかったかのように。


胃の底が冷えた。


増援ですら歯が立たないなら……僕に何ができる? 答えはわかっている。何もできない。胃の底が凍りついていく。


アザエルはゆっくりと、支配するように空高く上がっていった。


そのとき。


一瞬で空気が裂けた。誰かが現れた。僕には理解できない速さだ。ただ……ほんの少しだけ、希望の火が胸に灯った。


あまりにも速かった。その影がアザエルに膝蹴りを叩き込み、高度を一気に下げさせた。追いながら急降下した。


近づいてくる。


見えた。


女の子だった。変わった外套を纏った、一人の女の子。アザエルと互角で打ち合っていた。


声が、出なくなった。


「……アリズ……?」


「アキラさん……あの方はまさか……」


とリディアが横で声を失っていた。でも僕の顔を見て、黙った。


アリズだった。


胸が跳ねた。どうして彼女がここに……? 僕の知っているアリズは、こんな戦いの中にいるはずがない。頭が混乱して、息が詰まった。


彼女は僕の始まりだった。支えてくれた人。僕がここに立っているのは、全部アリズのおかげだ。だからこそ……こんな場所にいてほしくなかった。


外套を使って空中を機動して、拳と蹴りでアザエルの障壁を砕いていた。アザエルも障壁を張り直すが、次の一撃でまた割られていく。


意味がわからなかった。なぜここにいる。なぜアザエルと戦っている。


でもそれよりも先に。


彼女に、何も起きてほしくなかった。


立ち上がっていた。気づいたら、リディアの手を離していた。彼女を守りたい気持ちは変わらない。けれど――目の前にいるのは、僕を支えてくれたアリズだ。家族であり、僕の始まりそのものだ。失うわけにはいかない。二人とも守りたいのに、体は勝手に前へ出ていた。


「アキラ、待って――!!」


リディアの声が背後から飛んできた。振り向かなかった。


「――アリズ!!」


空に向かって、全力で叫んだ。


「何をしてるんだ!!なんでここにいる!!」


返事はなかった。見向きもしなかった。ただ戦い続けていた。


彼女はもう、僕の知らない場所にいる。強くなりすぎて、遠くなってしまった。だから余計に怖い。失うのが怖い。


……動きが、遅くなってきていた。


アザエルのカウンターが増えた。かすり始めていた。体のどこかを、確実に削られていた。


「離れてくれ……!!」


喉が焼けた。


「やめてくれ、アリズ!!止まってくれ――!!」


返事はない。


体が、燃えていた。筋肉が引き攣るような感覚が波のように来た。飛びたかった。上に行きたかった。あそこからアリズを引き離したかった。この悪夢を全部止めたかった。


失いたくない。


誰も、失いたくない。


リディアの声が遠い。エコーみたいに、何度も何度も鼓膜を通り過ぎていった。


アザエルが奇妙に体を引き伸ばした。弾性のある動きで、アリズの軌道に入り込んだ。


直撃した。


アリズの体が、森の方へ飛んでいった。木々の中に消えた。轟音が上がった。土煙が空に舞った。


……息ができなかった。


胸が裂けた。あの日からずっと支えてくれた人が、目の前で消えていく。僕は何もできない。何も返せない。こんな結末、認められるはずがない。


目の前が歪んだ。眩暈だった。全部がぐるぐる回り始めた。


足元が、青く光り始めていた。


光の中に、引き込まれていくようだった。


もしこの光が何かを変えられるなら……アリズを、リディアを、みんなを守れるなら……どうか、僕を連れていってくれ。


目を閉じた。


……。


……。


……目を開けたとき、そこは森でも廃墟でもなかった。


がらんとした車道だった。見覚えのない家が両側に並んでいた。古い作りの、どこか時代がずれた街並みだった。


「……なに、が……」


手を見た。何も変わっていない。でもあの轟音も風も、全部なかった。


前に、影が現れた。


二人。


「……お父さん……お母さん……?」


っと心の奥に閉じ込めていた光景だ。助けられなかった記憶。僕の始まりは、いつもこの痛みから逃げられないでいる。


近寄ろうとして、視界がぶれた。


テレビが映像を切り替えるように、一瞬で変わった。


二人が、地面に倒れていた。血に塗れていた。


「――!!」


「誰か……助けてくれ……!!だれか!!」


辺りを見回した。誰もいなかった。体が動かなかった。


……でも、拳を握った。全身に力を込めた。動かない足を、一歩だけ前に出した。


近づいて、見た。


ちがう。これは幻だ。これは本物の二人じゃない。


幻だと分かっている。けれど、心は震えていた。もし本物だったら……もしまた失うのだとしたら……その恐怖は消えない。


そう自分に言い聞かせて、歩き続けた。


歩くごとに、知っている人たちの姿が現れた。エレノア。リリウム。カイト先生。春花。マーカス。ヴィクター。楓。ダミラ。源次。


みんなが現れる。僕を導いてくれた人たち。支えてくれた人たち。なのに、半透明で、僕を見ていない。僕はまだ、彼らに届いていないのだ。


目を逸らしながら歩いた。


これは試練だ。痛みを直視しなければならない。逃げ続けてきた記憶と、繋がりを確かめなければならない。そうでなければ、前へ進めない。


通りの突き当たりに、二人いた。


リディアと、アリズだった。


幽霊じゃなかった。確かにそこにいた。


走り出そうとしたとき、手を掴まれた。


振り向いた。


……小春だった。


息が止まった。


小春……。僕の唯一の友達。僕をそのまま受け入れてくれた人。なのに、守れなかった。あの日からずっと、心の奥で彼女の名前を呼び続けていた。


どれだけ時間が経っただろう。最後に会ってから、ずっと。


小春は僕を見て、微笑んだ。後ろを指さした。一緒に戻ろう、と言うように。あの頃に戻ろう、と言うように。


戻りたい。あの頃に。笑い合っていた日々に。でも、それは幻だ。過去に縋れば、今を失う。リディアも、アリズも、みんなを失ってしまう。


……ずっと守りたかった。失って、悔しくて、ずっと自分を責めていた。


でも。


そっと、手を離した。


手を離すことは、過去を断ち切ることだった。小春だけでなく、あの日から続いていた自分の弱さを手放すことでもあった。


小春が、目を丸くした。


正面から見た。目を逸らさなかった。


「……ごめん、小春。戻れない。過去は変えられない。……君を失ったことは、もう受け入れた。記憶は取り戻せない。だから……前に進まないといけないんだ。今、待っていてくれる人たちがいる。そっちに向かわなきゃいけない。……本当に、ごめん」


言葉にするのが苦しかった。小春を置いていくことは、心を二度裂くことだった。でも、前に進むと決めなければ、僕は永遠に囚われてしまう。


小春は、少しの間だけ僕を見ていた。


それから、笑った。


温かい笑顔だった。


小春は背を向けて、暗がりの中へ歩いていった。周囲の景色が、少しずつ消えていった。消しゴムで世界を消しているように、静かに。


彼女の笑顔は、赦しだった。僕を責めるのではなく、送り出してくれる笑顔だった。だからこそ、涙が溢れそうになった。


彼女は影へと消えていった。まるで僕の心の奥に眠る記憶が、静かに閉じられていくようだった。赦しと共に、過去は眠りについた。」


前を向く。そこにいるのは、今の僕を待ってくれている人たち。小春を失った痛みを抱えたままでも、進むべき場所はここだ


リディアとアリズがいた。


そこだ。


そこに向かう。あそこが、今の僕の場所だ。


走った。


「リディア!アリズ!!」


返事がなかった。足元が割れた。世界が歪んだ。


二人の姿が遠ざかっていく。上に離れていく。


僕は落ちていく。


暗闇が深まっていく。


――どこかに、叩きつけられた。


痛くなかった。


立ち上がった。真っ黒な空間だった。


足音がした。


影が現れた。


……僕だった。


もう一人の僕。でも目が、青く燃えていた。


燃える青い瞳は、僕がずっと隠してきたものだった。恐怖も、弱さも、全部見透かされている。これは僕自身の影だ。逃げ場はない。


「それだけの意志しか持てぬのか?」


と、そいつが言った。冷たく。


「そんな脆い意志で、何かを手に入れようとしているのか?」


何も言わなかった。


正しい。全部正しい。僕は臆病で、何度も目を逸らしてきた。でも――それでも立ちたい。守りたい。弱さを抱えたままでも。


そいつは僕の周りを歩き始めた。静かに、測るように。


「……お前は臆病者か?」


と言いながら、指を向けてきた。


「これほど多くのものを前にして、それでも目を背けようとするのか?」


歯を噛んだ。


……正しかった。全部、正しかった。


でも。


「……戦う」


と答えた。


完璧じゃなくていい。強くなくてもいい。僕にあるものは、繋がりと愛だ。それが武器になるなら、僕はそれで戦う。


「その弱い意志でか?」


「そうだ」


そいつが僕を見た。


「……持っているもので戦う。どこまでいけるかわからなくても、行けるところまで行く。守りたいものがある。愛している人たちがいる。……そこが僕の居場所だ。失いたくない」


もう一人の僕が、静止した。


それから、笑った。


体が、青い炎に包まれ始めた。光が広がった。


背後から、眩い光が射した。


振り返った。


騎士がいた。


甲冑を纏っていた。中世の鎧に似ていたが、全体に魔法の紋様が刻まれていた。その紋様が、低く発光していた。圧倒的な力が、そこにあった。


「……だれだ?」


騎士は一歩前へ出た。重厚な声が響いた。


「我は……騎士マジクスである」


青い炎が広がった。視界が白くなった。


「そなたの戦いへの意志、受け取った。我は応えよう、そなたの呼び声に。我らの心は今より一つとなる。……静かにせよ。戦いは我が指揮する。そなたの意志を、我は見届けよう」


その姿は、未来の自分の象徴のようだった。鎧は力の証であり、紋様は心の絆の証だった。僕が歩んできた痛みと愛が、形を取っていた。


心が震えた。これは選ばれた力ではない。僕自身が選んだ意志の結晶だ。臆病な僕が、それでも進もうとした証だ。


……。


……。


目を開けた。


感覚が、違った。


重い。でも確かに、足が地面を踏んでいた。


手を見た。黒い篭手があった。青い装飾が入った、騎士の鎧の篭手だった。


これは僕じゃない。僕の体に見えるけれど、そこに立っているのは騎士マジクスだ。僕はただ、その内側から見ているだけだ。


リディアを見た。


口を開けたまま、こちらを凝視していた。驚きと、恐怖と、何か別の感情が入り混じった顔で。


周囲を見た。


世界が止まった。誰もが僕を見ている。いや、僕ではない――この青い光を見ている。理解できなくても、その視線の重さだけは感じた。


空にいた魔術師たちが、全員止まっていた。


楓が目を見開いていた。カイト先生が固まっていた。大魔導師のストロンまでも、じっとこちらを見ていた。


……なぜ、あそこまで見える?


視界が、あり得ないほど鮮明だった。普通じゃない遠さが、普通に見えていた。


あの騎士の鎧を、着ていた。体全体が変わっていた。篭手を握った。力が流れているのを感じた。


ルシールの言葉が頭をよぎった。『力が適合する』――これがそうなのか。けれど意味は分からない。ただ、今は受け入れるしかない。


……わからなくても、いい。


まだ子供みたいだ。魔術の世界を知って一年も経っていない。何も分からない。でも――


今、これが僕にある力なら。これで、戦う。

目覚めた力。


蘇る伝説。


そして、


神になろうとした男との最後の戦い。


すべての因縁が、


ここで交わる。


次回――


終わりの騎士


少年と伝説が一つになり、


最後の敵へ挑む。

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