灰になるまえに
自分の人生を、
誰かに決められる必要なんてない。
恐怖に支配されても、
過去に縛られても、
それでも――
自分の意志で、
前へ進むことはできる。
アカデミーの医務室で、私はまだ天井を見つめていた。
魔術師たちと治癒師たちが傷の手当てをしてくれて……肉体的には、もう問題ないはずだった。包帯の下には痛みの痕跡しか残っていないし、動かすたびに軋んでいた節々もだいぶ楽になっている。なのに、心がどうしても落ち着かなかった。ベッドの白いシーツを見つめながら、ただそれだけを感じていた。胸の奥から湧き上がってくる、形のない焦燥感。
――行かなくちゃ。
――助けに、行かなくちゃ。
他の一族の継承者たちのことを考えると、自然とそう思わずにはいられなかった。会ってからまだほんのわずかな時間しか経っていないのに……不思議なくらい、彼女たちのことがわかる気がした。ユキナ、ミドリ、カイ、ソラ、ショウ、リディア……みんながみんな、どこかに重いものを背負っていて、そのくせそれを当たり前のことのように受け入れているように見えた。家への期待。継承者であることの責任。その見えない重みが、彼女たちの背中をほんの少しだけ丸くしていた。
……私には、わかるのね。それがどれほど苦しいか。
私自身が、ずっとそうだったから。
もう、誰かに決められた継承者じゃない。私自身が選んで、歩くんだ。
かしら……私なんかに、何ができるのかしら。私は戦闘向きの魔術師ではないし、戦場のような空気に晒されると、手が震えてしまう。それはもう、自分でもよくわかっていた。だからといって、このまま寝ていることなんて……できるはずがなかった。
そのとき、外の廊下から慌ただしい足音と声が聞こえてきた。ひとりやふたりじゃない――複数の、それも明らかに練度の高い魔術師たちが動いている気配。それだけで十分だった。
――まだ、エリートの魔術師たちが残っているのね。
少し考えた。そして、ひとつの可能性が頭の中に浮かんだ。
私ひとりでは足りない。だからこそ、アカデミーの力を集めなきゃ。
もし彼らが継承者たちを救出しに向かうなら……私の知識も、私の存在も、何かの役に立てるかもしれない。それに――何かが引っかかっていた。ハンターたちとほんの数人の魔術師だけで対処できるような話じゃない気がして……もっと深いところで、もっと暗い何かが動いているような予感が、胸の奥から消えてくれなかった。
視線を下ろした。
手が、震えていた。
……そうね。わかってた。
ゆっくりと、両手を握りしめた。爪が手のひらに食い込むくらい、強く。恐怖を押しつぶすように。もう怖さなんてどうでもいい――動かなきゃいけないのだから。
ベッドから立ち上がり、扉へと歩み寄ったその瞬間。
――バンッ!
扉が、外から勢いよく開いた。
現れた人物を見た瞬間――血の気が引く感覚がした。全身の温度が、すうっと下がっていく。
……お父様だった。
思わず、一歩退いていた。
「……お、お父様……? どうしてここに……」
自分でも声が掠れているのがわかった。呼吸を整えようとしながら、それでも目が離せなかった。
お父様は私を一瞥し、その瞳には何の感情も宿っていなかった。氷のように、静かで、冷たい眼差し。
「言うまでもないだろう。情報は早い。七つの一族の長たちは皆、継承者たち誘拐の報を受けてここに集まった。私も例外ではない」
「お父様、お願いです!」
思わず一歩踏み出していた。胸が締め付けられるように熱くなって、声が前に出た。
「最高の魔術師たちを動かして、継承者たちを救出しなければなりません。あの屋敷で……とても恐ろしいことが起きているんです。一緒に――」
「それは今どうでもいい」
お父様の声が、静かに私の言葉を断ち切った。
感情の起伏など一切ない、低い声。でも、その一言が持つ重さは十分すぎるくらいわかった。
「聞きたいのはひとつだけだ。……なぜ、失敗した」
……またその言葉。もう、聞き飽きた。私は失敗のために生きているんじゃない。
またこの顔。またこの流れ――私への期待を語るための、ただの前置き。私を測るための、ただの尺度。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれるように痛んだ。
この人の言葉に縛られるのは、もう終わりにしたい。
じわじわと、苛立ちが湧き上がってきた。
「今はそんな話をしている場合ではないかしら……! すぐに動かなければ――」
「役立たずめ」
静かに、でも確かに、お父様はそう言った。
「エンバーストロム一族の恥だ、楓。どれだけの機会を与えても、お前はことごとく私の期待を裏切り続ける」
その言葉が、ゆっくりと胸の中心に刺さっていくのがわかった。慣れているはずなのに。何度も聞かされてきたはずなのに。
それでも……直接言葉にされると、やっぱり痛かった。
「仕方がなかったんです……!」
気がついたら、声が大きくなっていた。
「そもそも、あの人たちは悪い人たちなんです……! お父様に言われた通りにできなかったのは――」
「善悪など聞いていない」
低く、遮るように。
「聞いているのは、なぜ任務を完遂しなかったか――ただそれだけだ」
「目を覚ましてください……!!」
拳を握りながら、涙が出そうになるのをこらえながら、叫んだ。
「私は道具じゃないんです……! 言われたことを何でも、目を閉じて、ただやり続けるような存在じゃない……!」
お父様は動かなかった。ただ私を見ていた。石像のように、表情を一切変えずに。その眼差しの中にあったのは――軽蔑だった。
「お前は、私の失望だ」
その一言が、胸の奥を殴られたように響いた。
「どれほど情けない娘だ。あれだけ環境を整えてやったというのに、それでもこれか」
涙が滲んでも、もう下を向くつもりはなかった。
「失望させたくなんてないんです……!」
声が震えていた。でも、止まれなかった。
「でも……でも、もうお父様の道具にはなりません……!!」
お父様がゆっくりと、私の方へ歩み寄ってきた。一歩、また一歩。その口から出てくる言葉は、まるで刃物のようだった。
「道具? それがお前の価値だ。弱い娘に存在意義はない。迷う後継者など必要ない。考える暇があるなら従え――従う機械の方が、お前よりずっとましだ」
言葉が、一つひとつ肌に刺さった。
……わかってる。お父様が間違ってる。
……それでも。痛い。
「私は行きます」
できる限り、落ち着いた声で言った。
「他の一族の継承者たちを助けに。彼女たちは私と同じ痛みを抱えている……だから、一人にしたくないの」
お父様の前を横切ろうとした瞬間――腕を掴まれた。
「ぐっ……!」
強い。強すぎる。指が食い込んで、骨まで軋むような痛みが走った。
「放してください……!」
「ならん」
「放してッ……!!」
必死にもがいても、びくともしなかった。涙が滲むほどの痛みに耐えながら、反射的に杖を構えた。杖の先を、お父様の顔へまっすぐに向ける。
「……これ以上は、させません」
お父様は瞬きひとつしなかった。その目は私を見ていなかった。まるで壊れかけた機械を眺めるような眼差しで――懐から、金属製の奇妙な装置を取り出した。
「……従順さ。それが私の必要とするものだ。息子たちも言うことを聞かなかった……しかし楓、お前だけは逃がさない」
ひゅっと、息が止まった。
装置が低く唸り始める。震える魔力の波動が空気を揺らし、床に魔法陣の輪が浮かび上がった。じわじわと、私の足元を囲むように閉じていく。
――もしここで負けたら、私はもう私じゃなくなる。
「……嫌……!!」
動こうとしたが、お父様の手が離れない。腕の痛みが増す。追い詰められた恐怖が喉元まで這い上がってきた――でも、その瞬間。
頭の中で、何かが弾けた。
魔力を杖に叩き込んで、一気に解放した。
氷の炸裂が、お父様の手を直撃した。
「ぐあっ……!」
初めて、お父様が声を上げた。手が離れる。装置が床に落ちて、金属音が響く。その反動で私の体も揺れて――勢いのまま、後ろへ倒れた。背中が床を打つ音がした。
痛い。でも、起き上がった。すぐに。
「……っ……!」
杖を握り直して、立つ。呼吸が荒い。膝が震えてる。でも、目はまっすぐお父様を見据えた。
お父様は氷に覆われた手を胸元で押さえ、私を見ていた。
「……私に、そんな口答えをするのか」
「……ええ」
かすれていたけれど、声は前に出た。
「私は楓です。あなたの道具じゃない。もしあなたが私を娘として見られないなら……もう二度と、お父様の顔を見ることはないわ」
ゆっくりと扉へ向かいながら、覚悟を足の裏に感じていた。一歩が、宣言のようだった。
扉を開いた。
そこに――人影があった。
「……っ!?」
ドキリと心臓が跳ねた。でも次の瞬間、その顔を見て――胸の奥から、ふっと何かが緩んでいく感覚がした。
カイトお兄様だった。
扉の枠に肩を預けたまま、やや驚いた表情で、でもすぐに困ったような微笑みを浮かべて。
「……ごめんね、楓。全部、聞こえてた。止められなくて」
その言葉と、その顔を見た瞬間――息が出た。長く、静かに。
お兄様は困ったように笑っていたけれど、私にはその笑みが救いに見えた。
「……かまわないわ」
小さく、でも本心から言った。
「誰かに聞こえていてくれて……よかった、かしら。少なくとも、お兄様には届いていたのね。私が自分で選んだということが」
誰かに届いた。それだけで、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった気がした。
聞いてくれたなら、次は動いてくれるはず。そう思うだけで、足が前へ進みそうになった。
お父様の視線が、お兄様へ移った。
「……カイト。お前も来たか」
声の底に、毒が滲んでいた。
「義務から逃げ、一族を捨て、後継者の座を放り投げたお前が――今さら何の顔をして、ここにいる」
カイトお兄様は、ゆっくりと顔を上げた。
「人として生きることを選んだ人間の顔だよ、お父さん」
「ふざけるな……!」
お父様の声が、初めて僅かに揺れた。
「お前のせいで後継者が消えた! お前の逃走のせいで、私は楓にすべての重荷を押し付けることになったんだぞ……!!」
「それは違う……!!」
気がついたら、私が声を上げていた。
「お兄様の選択は、逃げじゃない……! 私には今なら、わかります。なぜお兄様がそうしたか。だってお父様は、一度だって私たちを「子供」として見てくれなかったから。駒としか、見てくれなかったから……!!」
お兄様が隣に立っているだけで、背中に温かい力が宿る気がした。
「駒……?」
お父様の眉がわずかに動いた。鋭い眼差しが、刃のように私たちを切り裂こうとしていた。
「お前たちは私の血だ。エンバーストロム一族はこの私が支えている。それを維持するための絶対の忠誠を、子供が親に尽くすことの何がおかしい……!!」
カイトお兄様が、一歩前に出て私の隣に並んだ。
「おかしいよ」
静かに、でも確かに言った。
「忠誠を求めるなら、先に愛情を示すべきだったね。全部が義務で固められた家に、心は育たない。残るのは……そう、お父さんが言うとおり、灰だけだよ」
「灰……」
その響きが胸の奥でざらついた。
「私は灰になりたくない。燃え尽きるためじゃなく、楓でいたい。それだけなの」
お父様は、あの装置を拾い上げた。何事もなかったかのように、静かに。そして――今度は完全に、私だけを見た。
「……後継者として動けないなら、せめて道具として使うだけだ。それがお前の存在意義だ、楓」
「道具としてのあなたに用はない」
と言うように、その言葉は聞こえた。
胸が刺さった。
……憎い。
……憎いのに。
……それでも、私のお父様なの。
その一点だけが、どうしても完全な憎しみを許してくれなかった。その矛盾が、今この瞬間も胸の奥でちくちくと疼いていた。
杖を胸に当てて、小さく息を吸った。
「お父様の目に映る私が、道具だとしても」
声は震えていたが、折れなかった。
「私は行きます。他の継承者たちを助けに。彼女たちは同じ重さを知っている……だから、放っておけない。それは誰かに言われたからじゃなく――私が、そうしたいから」
装置が再び唸り始め、床に魔法陣の光が滲み出てきた――その瞬間。
カイトお兄様が、片手を静かに上げた。
人差し指と親指で、拳銃の形を作って。
詠唱も、術式の構築すら見えない。
――ドンッ!!!!
純粋な魔力の弾丸がお父様の胸を直撃し、吹き飛んだ。
壁へ激突する鈍い音。窓ガラスが数枚、蜘蛛の巣状に割れる。床に落ちた装置が震えながら静止した。そして――お父様は、動かなくなった。
私は呆然と立ち尽くしていた。
魔力の余韻が空気を震わせ、しばし誰も声を出せなかった。
「……お兄様……あなた、今……」
カイトお兄様は、ゆっくりと手を下ろした。
「三年間、調べてたんだよ。ずっと、引っかかってたから」
声が、普段とは全然違った。低く、乾いて、一切の遊びがない。こんな声を、お兄様から聞いたのは初めてだった。
「お父さんの行動が妙だった。楓への執着、隠密な動き、陰謀組織との接触の痕跡……全部繋がってた。そして――あの装置だ」
装置を拾い上げ、私に見せた。
「これは陰陽師が使っていた魔力無限供給の技術を改造したもの。魔力の流れを操作して、術式のサークルを通じて催眠を叩き込む仕組みだよ。楓を操り人形にするために作られた」
安堵と恐怖が同時に胸を締め付け、足が動かなかった。
……お父様は、私を娘としてではなく、ただの人形に変えようとしていたんだ。
「……じゃあ、最初から……」
「うん」
カイトお兄様が頷いた。
「娘として見ていたんじゃない。魔法使いに近づくための、鍵として見ていた」
その瞬間、扉が開いて数人の魔術師が室内に飛び込んできた。お兄様の合図を待っていたかのように、素早く移動して――お父様を魔法の鎖で拘束し、取り囲んだ。
そして、その後ろから――ゆっくりと、大きな杖を携えたひとりの老人が入ってきた。
部屋の空気が、一瞬で変わった。
大魔導師のストロン。
その存在感は、言葉にならなかった。ただそこにいるだけで、場の重力が変わるような――そんな人だった。
魔術師たちが一斉に背筋を伸ばし、空気が張り詰めた。
「……やはり、そういうことだったか」
低く、でも穏やかに、大魔導師のストロンはそう言った。
「エンバーストロム一族の長が内部に繋がっていたとはのう。よくやったぞ、カイト先生。そなたの調査が、ここへ繋がるとはわしも思わなんだが」
私はカイトお兄様を見た。彼は苦笑いを浮かべながら、軽く頭を掻いた。
「さーて、どこから聞いてたんでしょうかねえ……まあまあ、結果的によかったよ、かな」
……普段のお兄様が戻ってきてた。
でも、私の心の中には、まだ様々な言葉が渦巻いていた。
「……大魔導師のストロン」
一歩前に出た。
「いったい何が起きているのか、教えていただけるかしら。今ここで何が動いて、何が私たちの知らないところで進んでいるのか……」
大魔導師のストロンが、ゆっくりと私の方を向いた。
「カイト先生の調査が緩んだ糸を引いての。お前の父は、あの陰謀の輪に完全に食い込めてはいなかった……しかし、陰陽師たちの技術だけは手に入れておったようじゃ。その動機については、わしにもまだわからぬことがある。じゃが――あの装置が示すものは明白じゃろう。人を意のままに操る、新たな支配の形を研究しておったということじゃ」
拘束されたお父様を、視界の端で捉えた。
「人を操る術は、古来より禁忌とされてきた。だが……お前の父は、その禁忌を越えようとしていたのじゃ」
拘束されたお父様を、視界の端で捉えた。
胸の奥に、まだ痛みは残っている。憎しみだけでは塗りつぶせない感情が、確かにそこにあった。
……でも、わかった。その矛盾を抱えたままでも、私は進める。
親子の絆が消えなくても、道具にはならない。
……私は、操られる側にはならない。自分で選んで、歩いていく。
深く息を吸い込んだ。
カイトお兄様と、ストロン先生を見た。
「……決めました」
静かに、でも揺るがない声で言った。
「他の一族の継承者たちを助けに行きます。彼女たちは、私と同じ痛みを知っている……だから、放っておけない」
カイトお兄様の目が、ふっと和らいだ。そこに浮かんでいたのは――誇りのような、何かだった。
「今の楓は自由だよ」
静かに言った。
「その気持ちは楓だけのものだ、ね。行きたいなら、僕も一緒に行くよ」
大魔導師のストロンが、重く、でも真剣な眼差しで私を見た。
「志は見事じゃ、楓よ。じゃが――最高の魔術師たちを動かすことは、容易な決断ではないのう。全員を送れば、アカデミー・エンディミオンの守りが薄くなる」
そのまま、目を逸らさなかった。
「わかっています」
はっきりと答えた。
「全員とは言いません。ただ――差を作れる人数だけで十分です。継承者たちが倒れたなら、守るべき未来が消えてしまうわ。だから今、行かなければ意味がないの」
大魔導師のストロンは沈黙した。杖を握る手が、わずかに動いた。
「……継承者の言葉とは思えぬ重さがあるのう」
その声に、静かな温かさが混じっていた。
カイトお兄様が隣で口を開いた。
「逃げてるわけでも、命令に従ってるわけでもないよ、大魔導師のストロン。楓は自分で選んで、他の人を助けようとしてる。そこが――あの人たちとの違いだよ、ね」
大魔導師のストロンはしばらくの間、私たちを交互に見ていた。
やがて――深く、一度頷いた。
「よかろう。精鋭の一団を編成する。全軍ではない。じゃが――十分な力を持った者たちをのう」
そして、私を真っすぐ見た。その眼差しには、まだ言葉にされていない決意が宿っているように見えた。
「楓よ。そなたが先頭に立つことで、この戦いは意味を持つのじゃ」
胸が、ぎゅっと締まった。胸の奥で、恐れと誇りが同時に膨らんだ。
でも――今は、怖さよりも確かさの方が大きかった。
「……はい」
杖を胸に当てながら、頷いた。
お父様の身柄は魔術師たちが引き受けて、カイトお兄様と大魔導師のストロンと私は医務室を後にした。廊下に出た瞬間、空気が一気に動いた。伝令が走り、教師たちが集まり始め、エリートの魔術師たちが次々に呼び集められていく。
「急がなければなりませんわ」
早足で歩きながら言った。
「継承者たちは粘り強い方たちだとは思うけれど……一人で長く保てるほど、状況は甘くないはずだから」
「その通りだよ」
カイトお兄様が隣で頷いた。
「行こう、楓」
大広間に到着したとき、そこにはすでに精鋭たちが顔を揃えていた。戦いの場数を踏んできた顔つきの人たちが、静かに、でも緊張感をみなぎらせながら集まっていた。
私は決意を込めて、皆に向かって声を出した。
「全員を送ることはできません。でも――その場を変えられるだけの力は必要です。少数精鋭で突破口を作り、継承者たちを救い出す。それが今の最優先です」
私はそこで、集まった精鋭たちに向けて計画を語った。どの部隊を動かし、どの経路を使い、どの役割を担うのか――すべてを簡潔に示した。
静かなざわめきが広間に広がった。魔術師たちは互いに視線を交わし、やがて全員の目が――大魔導師のストロンへと向かった。
皆の視線が大魔導師のストロンに集まった。
大魔導師のストロンはゆっくりと前に出た。杖を握りしめ、低く、重く、でも揺るぎない声で言った。
「よかろう……精鋭部隊を動かす。じゃが……それだけでは足りぬかもしれぬのう」
広間が、しんと静まり返った。
誰も次の言葉を遮ろうとしなかった。
カイトお兄様も、私も――じっとストロン先生を見た。
大魔導師のストロンは杖が床を打つ音は、広間全体に響き渡り、宣言のように重かった。それから――ふっと、老人には似合わない皮肉めいた笑みを浮かべた。
「……わし自身が前線に立つ、の」
一瞬の沈黙の後、広間全体が揺れた。
魔術師たちのざわめき。教師たちの驚いた表情。私は目を大きく開けたまま、瞬きを忘れていた。
「え……せ、大魔導師のストロンがご自身で……?」
「まあまあ、大魔導師のストロン……!?」
カイトお兄様が笑いをこらえながら、半分引きつった顔で言った。
大魔導師のストロンは涼しい顔で頷いた。
「継承者たちを救い、正体不明の敵に当たる。それにはわしほどの者が前に立たねば――のう。それに」
そのまま、私に目を向けた。その表情が、いたずらっぽく、でも温かく緩んだ。
「そなた一人に手柄を持っていかれてはたまらぬからの」
老人らしからぬ笑みだったが、その裏に揺るぎない覚悟が見えた。
……思わず、笑ってしまった。胸の奥の緊張がほどけて、思わず笑みがこぼれた。
こんな瞬間に笑えるとは思っていなかったけれど。
準備の指示はカイトお兄様が出してくれた――魔力の回復薬と治癒薬を最低一本ずつ持参すること、移動は風の魔法で飛翔することで最速を目指すこと。広間は一気に動き出した。準備する者、走る者、呪文を確認する者――一瞬で戦場の前線基地みたいになっていた。
そのとき、ひとりの魔術師が大魔導師のストロンの傍に近づき、耳元で何かを告げた。
表情が、微妙に変わった。驚き……と、何か別の感情が混じったような顔。
「……全員に聞かせよ」
そう言った。
全員の視線が集まったところで、大魔導師のストロンはゆっくりと言葉を発した。
「たった今、重要な情報が入った。詳細はまだ伏せるが――核心だけ伝える。状況は変化した。継承者たちは……どうやら、すでにマーカス・ワイルドソウルによって救出されたようじゃ。じゃが、まだ何かが起きておる。詳細は不明――だからこそ、今すぐ向かう……!!」
一瞬――言葉を処理するのに時間がかかった。
……マーカスが、もう助けた……?
心臓が一拍、止まったように感じた。
精鋭たちが一斉に動き出した。大魔導師のストロンが杖の先を大地に打つと、合図のように全員が大広間を後にした。扉を抜け、夜風の吹き込む庭園中央へと出る。
そこで、大魔導師のストロンの体がゆっくりと宙に浮いた。私も魔力を足元に集め、風を纏って空へ昇る。
カイトお兄様が隣で昇っていく――何の術式も、詠唱も見えないのに。
……お兄様って、どうやって飛んでるのかしら……。
あとで絶対に聞こう、と心の中でメモした。
屋敷へ向けて、全速力で飛んだ。夜風が頬を切る。魔術師たちが一団となって空を突き進む。無数の魔力の光が夜空に散り、隊列は流星の群れのように走った。
……正直に言えば、少しだけ悔しかった。マーカスがもう助けてしまったという事実が、胸のどこかに小さな棘を刺した。せめて私が――そう思う自分がいた。
でも、すぐに自分を叱った。
そんな感情は今いらない。自分のためじゃなく、彼女たちのために行くって決めたじゃない。
それに――まだ何かが起きている。
そちらに集中しなければ。
――道のりは、長いようで短かった。
遠くに、光が見えた。
爆発のような閃光と、高い空を何かが動く影。
「……あれは!」
目を細めた。
空中に、白い――人型の何かが浮いていた。人間の形をしているのに、どこか明らかに違う。不定形とも言えるような、でも確かに意思を持っているような……あれは一体、何?
カイトお兄様が声を上げた。
「見ろよ! 白くて変な奴が空に浮いてるよ! あれは……何だ!?」
大魔導師のストロンは一秒も迷わなかった。
「あれが目標じゃ……!! 攻撃せよ!!」
でも――一瞬、躊躇した。
何も確認せずに攻撃する……?
でも、次の瞬間――大魔導師のストロンの横顔を見た。いつも穏やかな目が、珍しいほど険しくなっていた。
「あの者の魔力の流れが見えるのう。あれは――よいものではない。断じて」
その言葉が、答えだった。
唾を飲み込んで、杖を構えた。
魔術師たちが一斉に魔力を放った。複合攻撃が白い人型へ殺到した。
近づきながら、眼下を見た――屋敷があったはずの場所には、瓦礫しかなかった。巨大な穴が地面に口を開けて、地下の構造が剥き出しになっている。人影が何人かいたが、誰なのかまでは判別できなかった。
視線を横に向けると――木々の間に浮かぶヴィクターの姿が見えた。女性の魔法使い二人と交戦している。
どこを見ても、混沌だった。
その状況の中で、精鋭たちの攻撃が白い人型に当たり続けた。かなりの規模の連撃。あれだけの力を受けて……でも、あの白い影は揺れるだけで、どこにも傷を負っていなかった。
やがて――白い人型が、こちらに顔を向けた。
顔のない顔が、こちらを捉えた。
腕を左右に広げ――声が、空気を通じて響いてきた。口がないのに、声がある。その不自然さが余計に鳥肌を立たせた。
「……それで、全力かい?」
呆れているような、でも一切の感情が乗っていないような――そんな声だった。
魔術師たちが力を束ねた。光の塊が一本の巨大な閃光となって、白い人型を横断するように叩き込まれた――文字通り、真っ二つに斬り裂くような一撃。
夜が、一瞬だけ昼に変わった。
……でも。
白い影は、ゆっくりと、また一つに戻った。
「これが――神の力というものだよ」
声は静かなまま、どこまでも澄んでいた。
「すべてのマジクスたちを超越すべき存在に、今こそ相応しい時が来た。この地に縛られる時間は終わった。別れを告げよう、魔術師たちよ――この星よ。私は今、神になる」
全身の毛が逆立った。
でも――その瞬間。
空気が、また動いた。
どこからともなく、人影が現れた。
宙に――少女の姿。
見覚えのある、赤い髪。ふたつの括りが風に流れている。あの……アリズ……?いつもアキラの傍にいる――あの子だ……!
赤い髪が夜空に揺れるだけで、周囲の空気が震えた。
なぜここに? なぜあんな奇妙な外套を? そして――
――ガアンッ!!!!
アリズの蹴りが、白い人型の胴体を真正面から直撃した。
その一撃で――あれほど揺るぎなかった白い影が、ぐらりと空間ごと揺れた。
…………え?
思わず、口が開いたまま止まった。
カイトお兄様の方を見た。
同じ顔をしていた。
大魔導師のストロンを見た。
難しい顔をしていたが――眉間の皺が、信じられないものを目撃した人のそれになっていた。
私たちの連撃でまともなダメージを与えられなかったあれに――あの子が、一撃で揺らした?
……いったい。
いったい今、何が起きているの……?
世界が、ひとつの謎に飲み込まれていくようだった。
――失ったもの。
背負ってきた罪。
逃げ続けてきた自分。
そのすべてと向き合った少年は、
ついに、
過去を手放す。
そして、
新たな力に目覚める。
次回――
騎士マジクス
少年は、
自らの意志で立ち上がる。




