瓦礫の上で咲く決意
希望が、
消えかけたとき。
人は、
それでも戦うのか。
それとも、
空を見上げるのか。
誰も気づかない場所で、
何かが、
こちらを見ていた。
マーカスの背中が、数メートル先でぴたりと止まった。
通路の奥に、完全に蝶番ごと吹き飛ばされた金属製の扉が転がっている。その向こうから、断続的な閃光と、戦闘の鈍い残響が漏れてくる……やれやれ。正直、「戦場」とかいう単語が頭を掠めるだけで、もう胃が裏返りそうになる。実験室でフラスコの中の反応を眺めてるのが俺の仕事だ。最前線でなんかいる場合じゃない。
でも、そのうちに全ての爆発音がぴたりと止まった。
重い。空気が、鉛でも流し込まれたみたいに重くなって、廊下いっぱいに張り詰める。静寂の底の方に、何か遠い嗚咽みたいなものが混じっているような気がしたが……それを処理しきれないまま、マーカスが吼えた。
「全員下がれ!」
迷う間もない。奴は特殊な魔術手榴弾を壁面に張り付けた。次の瞬間、白い閃光と爆音で視界が飛んだ。壁が、綺麗に向こう側まで吹き飛ぶ。
……正面に入り口があるのに、なんでわざわざ五体満足な壁を壊すんだ。まったく理解できんが……まぁ。ハンターの突入訓練とやらの論理はよく分からん。そういうもんらしい、と自分に言い聞かせながら、俺はマーカスの背中にぴったりついて室内に踏み込んだ。
視界の端で、アキラとリディアが別方向へ逸れるのが見えた。頼む、身を隠してくれ、と本心から思う。
煙が晴れた。
そして――視界に飛び込んできたものは、単なる混乱じゃなかった。これは、惨劇だ。
床に倒れているのは……春花だ。血だらけで、動かない。少し離れた場所にも、もう一つ倒れている影がある。ファウスティーヌ、か?マーカスはもう銃口を上げている。部屋の中央に、眼鏡をかけた長身の男が立っている。ファイルで見た顔だ。廊下でもすれ違ったことがある、アカデミーで。
アザエル。
でも、俺の胸を本当に締め付けたのはそこじゃない。
エレノアが、春花の傍で崩れるようにうずくまって、泣いていた。
気づいたら走っていた。頭が理由を理解する前に、足が動いていた。
近くで見た瞬間、喉の奥が詰まる感覚がした。あそこまで何もかも剥ぎ取られた顔を、俺は知ってる。あの、どこを見ているのかも分からなくなった目の感覚を、俺は知っている。絶望の底で、もう何も届かないと確信してしまった人間の顔だ。
……自分の、昔の顔だ。
あの頃の俺がそうだった。奇跡でも何でもいいから、この痛みを止めてくれと思っていた。それを誰かに止めてもらった。だから俺は今、ここに立ってる。
彼女でさえ……あのカプセルの中で眠る海も、同じ顔をしていた。純粋な精霊と融合したまま、誰の声も届かない場所に沈んでいた。
蓮次郎も、最初はただの人間だった。俺だけがその姿を知っていたはずなのに……救えなかった。
俺はあの時、何もできなかった。だから今度は、立ち止まらない。
俺は奇跡を待つだけの人間じゃない。作り出す側に回る。だから、ここで止まらない。
だから、放っておけない。
そう分かった瞬間、アザエルが何かを操作し始めた。魔術装置――変身装置か?マーカスが即応して魔術弾を撃ったが、静的な防御フィールドが弾いた。
その後は……正直、夢でも見ているみたいだった。嫌な夢だ。
アザエルの皮膚が、白くなっていく。真っ白な、汚れ一つない白だ。でも、その表面を暗い亀裂が走っていて、そこから青みがかった光が滲み出てくる。深淵でも体の内側に詰め込んだみたいな、息が詰まるような光だ。そして……顔が、消えた。頭部が、滑らかな白磁の球体になった。目もない、鼻もない、口もない。
あれは魔術の進化じゃない。技術の暴走だ。俺が恐れていた未来そのものだ。
本物の意味で悪夢だ。
それが纏う気配だけで、本能的な恐怖が這い上がってくる。首の後ろから、脊髄を伝って、全身に広がるやつだ。
でも、エレノアを見た。その人形を見た。マーカスを見た。床の女の子たちを見た。
俺は海をまだ救えていない。蓮次郎も救えなかった。だから今度は、立ち止まらない。
……文脈は全部は知らない。でも計算式は単純だ。アザエルが悪役だ。俺は、人を殺したり他人の苦しみを楽しんだりする存在への同情とか、そういうものを持ち合わせていない。
アザエルが片手を上げると、地下の壁が震えた。天井が、ミシミシと鳴る。
「気をつけろ!」
マーカスの声だ。俺は一ミリも迷わなかった。
杖を引き抜いて、防護フィールドを展開する。春花とフォスティーヌの二人の身体が、ぎりぎり半径に収まるように広げる。
次の瞬間、屋敷の構造だけが空へと引き剥がされた。足下の床はそのまま残り、俺たちは地に留まった。建物の骨組みが夜空の下へと持ち上げられ、そして爆散した。
魔力の爆圧が瓦礫を散らす轟音の中で、冷たい汗が首筋を流れていく。
あれは……魔法使いなんかじゃない。化け物だ。
でも今一番大事なのは、エレノアだ。
瓦礫の上に膝をついて、俺は手を差し出した。
「まだ諦めるな、エレノア。まだ戦える」
声に、力を込めようとした。でも奴の背中は、何もかもが削れた人間の形をしていた。床に視線を落として、自分ごと縮こまろうとしている。
「最後の一振りくらいなら出せるだろ」
正しいことをしているのか、俺には分からなかった。春花の死の状況を知らない。それでも、ここで放っておいたら本当に終わる。
ポケットを漁って、高濃度の魔力回復薬を出した。エレノアの手に押し込む。奴はゆっくりと、それを握り締めた。目は霞んでいる。それでも……握った。
もう一方のポケットから、手製のプロトタイプ杖を出した。最後の一本だ。エレノアの手を取って、握らせる。使い方を簡単に説明したが……正直、説明は不完全でも、彼女なら使いこなす。俺の道具は、人を信じるために作ったんだ。
……屋敷が消えた。だが、俺たちはまだ地に立っている。なら、戦うしかない。立ち上がって、マーカスの方へ走る。あとはエレノアが自分でどうするか、だ。
マーカスはもう戦闘態勢だった。でも、その動きと呼吸を見た瞬間、分かった。
消耗している。
奴は例外的なハンターだ。でも無限に魔力を持つ化け物じゃない。アザエルへの直接対処はマーカスしか出来ない火力がある。そのマーカスが、三人の部下相手に全力を削って倒れたら……終わりだ。
背中を守る。それが俺の仕事だ。今ここでの。
マーカスが連続して弾を撃ち込み、魔術手榴弾をアザエルの障壁に叩き込んでいる。分かった、飽和攻撃で防壁を削る気だ。
……いい機会だ。
「システム展開!」
その一言で、杖が応えた。軽合金のプレートが展開し、内部のギアが噛み合う。グリップが伸び、杖が戦術スタッフへと変形する。先端の焦点結晶が電磁的に回転を始めた。
「システム起動。魔術補助モード、オン」
合成音声が結晶から響く。AI補助システムだ。俺がずっと夢見てきた技術が、ついに実戦で動いている。
……やっとだ。思わず顔がほころびそうになって、マーカスの方を向いた。こんな状況なのに、少し自慢したくなった。俺の夢だった技術が、今ここで動いているんだぞ、と。
マーカスの顔は、深い困惑そのものだった。……まぁ、ハンターに解析的反応を求めるのが間違いだ。
マーカスとタイミングを合わせて攻撃を重ねる。二人の出力が合わさると、アザエルの防壁の構造がゆっくりとほつれ始めた。
「爆発モード起動!!」
「爆発モード。起動。」
ゼロ距離から、結晶を通じて高濃度魔力の衝撃波を解放した。直撃した。アザエルに、確実に当たった。
……無意味だった。衝撃波の伝達が遮断されている。防壁じゃない、存在そのものが衝撃を拒絶している。
衝撃の移行が、ない。アザエルは空中に浮いたまま、ちょっとした風を浴びたみたいな顔で俺の一撃を眺めている。自分の手を見下ろして、なんとなく確認している。驚いてすらいない。そのままするすると高く上がっていく。
マーカスが追おうとした瞬間、アザエルが指を動かした。
後方に控えていた三人の魔法使いを呼んだ。ケイル、セレネ、ミレイア。三人がマーカスの進路に降りてくる。
……まずい。
処理速度が上がる。マーカスの残りの魔力で三人相手は無理だ。ここで道を空けなければ、アザエルに届く前に潰れる。道を空けないといけない。どんな手を使っても。
俺はケイルとマーカスの間に踏み出た。
マーカスがこちらを見た。止めるつもりだ、という顔だった。
でも俺は、マーカスに信じてもらいたかった。俺がマーカスを信じているのと同じように。技術で道を開ける。それが俺の役割だ。
「波動展開!!」
「波動展開。起動。」
全方位への魔力パルスが走った。瞬間的な干渉波で三人の防御反応を強制的に引き出す。一瞬の隙だ。マーカスはその隙を逃さなかった。風の魔術をブーツに宿らせて、一気に高度を取る。上だ、アザエルの方へ飛んでいった。
「俺の足に風の魔術」
「飛行モード。起動。」
地面を蹴って、浮く。
三人の魔法使いが三角形の陣形で俺を囲んだ。
「……戦士じゃないのは、一目で分かるわね、汝は」
セレネが静かに言った。澄んだ声だ。でも目が、違う光を帯びている。
……確かに、俺は戦士じゃない。だが、技術で補う。それが俺のやり方だ。
「ねぇねぇ、どんな反応を見せてくれるの? 君のこと、実験したくなっちゃうな」
ミレイアがくすくすと笑いながら言う。意味が分からない方向に底が知れない笑い方だ。
「君はここで終わりだ」
ケイルが短く言った。無駄が一切ない声だった。
氷の棘の連射がセレネの手から走った。俺は……いや、杖の防御モードが俺の位置を自動補正して、数メートル上に引き上げた。棘が虚空を切る。
「あら。反射神経がいいのかしら」
セレネが目を細めた。
……違う。俺の反射神経なんて大したことない。AIが空間の魔力の揺らぎをスキャンして、体ごと動かしてくれてるだけだ。俺はただ握っているだけだ。
単純な一撃なら問題ない。三人同時の飽和攻撃を処理し続けるには、演算リソースが足りない。AIの限界は、俺の限界でもある。
ケイルが火の砲撃を組んだ。杖が再び俺を傾けて躱す。ミレイアの風の斬撃が来た。今度はギリギリで、服が引っ張られる感覚がした。
……地形を使え。システムは空間を計算する。なら、環境を変数に組み込めばいい。
下に見えるのは、屋敷が引き剥がされた跡の瓦礫と、ぽっかりと残った深い空洞だ。その周囲には密な樹林が広がり、夜の闇に包まれている。
遠くには、ハンターと魔術師たちが張った結界の光がちらついていた。
……この地形は俺の味方じゃない。だが、奴らの味方でもない。開けた空での飽和攻撃は長続きしない。森の密度が、互いの動きを制限する。
「ステルスモード起動」
勝つ必要はない。生き延びて、時間を稼げばいい。それが今の俺の役割だ。
杖が魔力の流れを絞って、俺の魔力反応を隠しながら樹林へ向けて急降下する。密生した枝を縫うように、岩を避けながら飛んだ。葉が顔を叩く。大きな樫の幹の陰に滑り込んで、止まった。
「逃げても意味ないわよ、汝のことは絶対に見つけてあげるから」
……セレネの声が、静かな声だ。それが余計に気味が悪い。枝の間から降ってくる。どこにいるのか分からないのに、確実に俺を狙っている。
「出てこいよ。隠れごっこの時間は惜しいんだ」
ケイルが重い声で言った。
「見つけたら……ふふ、記憶変容の新しい式、試させてもらおうかな。どんな顔になるか楽しみ」
ミレイアの笑い声が葉の間を縫ってくる。鳥肌が立った。
……作戦は機能している。三人の意識は完全に俺に集中している。マーカスの進路は空いている。
奇襲の機会があれば、取る。
杖を手放した。バックルの魔力循環で、独立飛行させる。
「自律攻撃モード、静粛実行」
結晶がぱちりと瞬いた。杖が独立飛行し、枝の間を音もなく移動する。AIが射線を計算し、ケイルの肩を掠める一撃を放った。
「そこだ!」
セレネが茂みに向けて火の連射を叩き込む。杖は既に別の場所にいる。別の角度から一射。また別の茂みへ。三人の怒声が上がって、セレネが叫んだ。
「区画ごと燃やすわよ!」
三人が巨大な火球を組み始めた。熱気が上がる。……これは駄目だ。本当に燃える。森全体が炎に包まれる。
手を伸ばした。杖が掌に戻ってくる。魔力循環が再起動し、浮力が走る。俺の体は再び空へと持ち上げられた。
「いたわ!」
追撃が来た。炎の弾が背後で連続して弾ける。熱波が足を撫でる。……本当に、パンツが燃えるかと思った。冗談じゃない。
……隊形を崩す必要がある。三人バラバラに動かせれば、個別に対処できる。
崩れた石柱が見えた。セレネが直線で追ってきている。
九十度の急旋回を石柱の陰で切った。セレネの速度が合わず、肩がぶつかった。反射的に伸ばした左手が、彼女の腰に触れた瞬間――布地が裂ける音がした。
「っ、なに、汝……!」
セレネが虚を突かれた顔になった。スカートの布地が裂けて、空中で体勢を崩す。集中が完全に乱れて、組んでいた火の術式が霧散した。
俺はその横を抜けて、右へ方向転換する。次の標的は――ミレイアだ。
左の肘が、ミレイアの……いや、その、お尻に当たってしまった。
「ひゃっ――!!」
ミレイアが叫んで飛び退いた。それはもう、全力で距離を取った。
「気持ち悪い!!離れて、君!!この変態!!」
……意図したわけじゃない。ただの反射と衝撃の余波だ。だが、結果は同じ。二人の集中が乱れた。
ミレイアは完全に距離を取り、怒りと羞恥で術式の集中を失っていた。戦線から外れたも同然だ。
セレネは体勢を崩し、ミレイアは後退している。残ったのは、ケイル一人。
……隊形が崩れれば、演算は単純になる。個別処理なら、俺のシステムでも対抗できる。
動揺している。陣形が崩れた。ケイルが中心軸を失って一人になっている。
今だ、と頭が判断した。
「電磁パルス過負荷」
高周波の魔力干渉波を広域に展開する。防壁の構造が自己フィードバックで崩壊する。……計算通りだ。
ケイルが僅かによろけた。その瞬間に、スタッフの金属端を全力で振り込んだ。
側頭部に、確かな手応えがあった。
ケイルの体から力が抜けた。防壁の残滓と一緒に崩れるように瓦礫の上に落ちた。意識はない。
……計算通りだった。
小さく、息を吐く。瞬間的な達成感があった。
それが次の瞬間、空の轟音で吹き飛んだ。
高度を上げた。
空を見た。
マーカスが、落ちていた。
地面に叩き込まれた衝撃で、銃が手から離れた。上空では、アザエルが浮いている。変身の形を何一つ崩さないまま。
マーカスは……負けた。
唯一、アザエルに届く火力を持っていた男が。
胸の奥が冷たくなる。俺の計算には、こんな結末はなかった。
胸の中で何かが冷えた。力が抜ける。……もう、終わりなのか。
誰もいない。あの化け物に、今ここで立てる者が。
首に手が触れた。首飾りだ。変身のやつ。狼男の変身。
……でも。あの相手に対して、物理ダメージが通るのか。データがない。持つのは、分単位だろう。
計算できない。
セレネとミレイアが、怒りを顔に乗せて突っ込んでくる。
……理由は明白だ。ケイルのことだけじゃない。俺との接触、偶発的な失態。それが彼女たちにとっては屈辱であり、今の怒りの主因だ。
その瞬間――
空気が変わった。
遠くから、何かがこちらに向かってくる。大量の。速い。
顔を上げた。
地平線の向こうから、何十もの影が飛んでくる。その光景は、絶望の闇を一瞬で切り裂いた。魔術師の大部隊だ。次々と高位の魔術の砲撃がアザエルに叩き込まれていく。先陣の中に、見覚えのある顔が見えた。
楓がいる。カイト先生もいる。そして――大魔導師のストロン。
来た。
突っ込んでいたセレネとミレイアが、動きを止めた。怒りの表情のまま、しかし視線は俺ではなく空へと向かう。精鋭の魔術師たちの陣容に、言葉を失っている。
希望がある、と思った。
でも。
なぜか、上を見た。
アザエルより、さらに高い場所を。
誰かいる。
……いる。
成層圏の縁、その高さに。動かない。何もしない。ただ、全てを見下ろしている。
アザエルすら気付いていない。気付いているのは俺だけだ。
杖を握る手が震える。
あれは何だ。
恐怖は、理屈を超えていた。根源的な何か。言葉にしようとすれば、言葉が逃げる。
分析できない。カテゴライズできない。
あれは、いったい何なんだ。
――もう、
誰にも従わない。
父親の言葉にも、
一族の決めた道にも。
自分の意志で、
ここまで来た。
そして戦場で、
少女が放った一撃が、
すべてを変える。
次回――
反撃の一撃
その拳は、
誰のために振るわれたのか。




