氷の涙と灰の約束
失ったものは、
もう戻らない。
それでも、
残された者には、
戦う理由がある。
悲しみを抱えたまま、
少女は立ち上がる。
煙がゆっくりと晴れていく中で――その姿を見た瞬間、血が凍りついた。
アザエルがそこに立っていた。でも……目が、どうしても彼の上に留まってくれなかった。
下に……冷たい石の上に……春花が倒れていた。
座っていない。跪いてもいない。まるで誰かに無造作に放り捨てられた壊れた人形のように、ただそこに横たわっていた。水色のドレスは、暗く湿った赤色に染まっていて、その色が不格好に床の上へと広がっていた。いつも完璧な波打ち方をしていた髪は乱れ、埃と血と混じり合っていた。
――動けなかった。
心が、目の前の現実を受け入れることを、真正面から拒絶していた。
……心臓が潰れるようだった。目の前の光景を、どうしても「嘘だ」としか思えなかった。
「……は、春花」
声が喉の奥で溺れていくような感覚がして、それだけしか言えなかった。
現実であるはずがない。そんなこと、あっていいはずがないのよ……!
あの笑顔に触れられるはずだった。その未来を、たった数歩で掴めるはずだった。なのに今、目の前にあるのは……血に染まった現実だけ。
なのに今……彼女は石の上に倒れて、瞳を薄く開いたまま、遠い遠いどこか、私には絶対に届かない場所を見つめていた。
龍牙の怒声も、魔術の音も、遠い世界の出来事のように聞こえた。――もうそんなことは、頭の中に入ってこなかった。私の世界は、春花の倒れた姿だけで埋め尽くされていた。
僅かに残っていた理性の糸を手繰り寄せて、気づいたら走っていた。何も考えずに彼女の元へ向かって、氷のように冷たい石の上へ膝をついて崩れ落ちた。手が、止めどなく震えていた。それでも彼女の手を探して、その指に触れた瞬間――
血が、全部凍りついていくような感覚がした。
春花の手が冷たかった。
冷たすぎた。
……この冷たさは、私の心をも凍らせていく。触れているのに、もう遠い。その矛盾が、耐えられなかった。
すぐに体の傷へ目を向けて、世界がそのまま崩れ落ちていくような気がした。致命的な傷だった。どれほど高度な治癒の魔術を使ったとしても、これを塞ぐことは……できない。
「春花! 春花、お願い!」
声を限りに呼びかけた。でも、返事はなかった。瞳は虚空に向けられたまま動かず、胸はかろうじて、ほとんど分からないくらい微かな呼吸でだけ上下していた。
「嫌……嫌よ、お願い……」
彼女の手を自分の胸に強く引き寄せながら、涙が溢れて止まらなくなった。
「置いていかないで! 頑張って、春花、どうかもう少し耐えて! まだ言えていないことがあるの……まだあなたに伝えていないことが……!」
声が途中で完全に折れた。
愛していると叫びたかった。けれど、その言葉は死の淵ではあまりにも残酷すぎて……口にできなかった。
彼女が消えていくのを感じながら、そんな言葉を投げかけることなんて、できなかった。
「……そばにいて」
冷え切った彼女の手を自分の頰に当てながら、囁いた。
私のせいだ……全部、私のせい。守れなかった。彼女にとって、私は結局ずっと足りなかった。この惨事の責任は、全部私にある……
ごめんなさい、春花……どうか、許して……
ぎゅっと、もっと強く、彼女の手を握った。自分でも分かるくらい、体が震え始めていた。
この掌から彼女へ命を送り込みたかった。温もりを、魔力を、なんでもいい、失いたくないなら全部渡してしまいたかった。
どうして彼女なの?
春花が、一体何をしたというの?
どうしてこんな残酷な運命が許されるの?
どうして世界は……こんなことを許すの?!
私の祈りは、ただ虚空に溶けていった。
頭を垂れた。無力感が、全身を完全に押し潰した。
その時だった。
微かな動きに、はっと顔を上げた。
残り僅かな力を振り絞るように、春花の手がぎこちなく持ち上がって、私の頰にそっと触れた。
その感触で、視線が絡み合った。
彼女の唇が、ほんの少しだけ開いた。最後の一言を紡ごうとするように……でも、音は何も出てこなかった。ただ、かすかな吐息だけが、まるで風に運ばれる羽根のように、静かに空気の中へ溶けていった。
その唇が紡ごうとした言葉は、永遠に謎のまま残った。
けれど、私には分かった。
彼女が伝えたかったものは、言葉ではなく、その微笑みだった。
穏やかな、小さな微笑みを浮かべたまま……春花は、目を閉じた。
「――――!!春花ッ!!」
胸の底から、存在の全てから、押し潰されるような号泣が迸った。動かなくなった手を頰に押し付けたまま、どうしても離すことができなくて、涙が石床を濡らし続けた。
遠くで激しい爆発音がしていた。龍牙が隣の間へ勢いよく叩き飛ばされたようだった。でも、振り返らなかった。振り返ることなんて、できなかった。
世界の全てが、今この瞬間、春花だけになっていた。
――その時、重くて冷たい気配が、すぐ隣に立った。
顔を上げると、そこにいたのはアザエルだった。
彼は何も乱れていなかった。穏やかな微笑みを浮かべたまま、まるで春花の死などというものが、何でもない出来事であるかのような顔をしていた。
この男が、全ての痛みの責任者だった。
ゆっくりと彼女の手を下ろして、胸の奥で制御不能な怒りが、燃えるように熱く、貪欲に芽吹き始めるのを感じた。
「……どうして」
涙で濡れた頬の奥で、燃えるような熱が芽吹いていくのを感じた。 悲しみは怒りへと姿を変え、私を立ち上がらせた。
「どうして彼女にこんなことをしたの、アザエル!!」
アザエルは、平静を崩さなかった。
私の世界が崩れ落ちているのに、彼の世界は微動だにしない。 その静かな微笑みが、怒りをさらに煽った。
怒りをさらに煽る、あの静かな声のまま答えた。
「春花さんの犠牲は、変身装置を完成させるための最も価値あるものだったんだよ。膨大な感情の塊を宿した器が必要だったんだ。それがあって初めて、全てが意味を成すんだからね」
息が、乱暴に乱れていくのを感じた。
彼の後ろに、ファウスティーヌの姿が見えた。悲しみの欠片も、後悔の影すらも、そこにはなかった。
「ファウスティーヌ!」
憎しみを込めて叫んだ。
「どうして彼女を裏切ったの?! 友達だったんじゃないの?! 師匠と弟子だったんじゃないの?!」
ファウスティーヌは黙ったまま、目を合わせようともしなかった。
それが、残っていた僅かな理性を、完全に砕いた。
どうして……どうしてあなたまで。
春花を裏切るなんて、信じられない。
師弟の絆は、そんなに軽いものだったの?
「大嫌い!!」
咆哮に近い声が、喉から飛び出ていた。
「絶対に許さないわ! 春花の仇を取ってみせる!!」
アザエルがちらりとこちらを一瞥して、軽い調子で牽制した。
「よく考えて言葉を選んだ方が賢明だよ、エレノアさん。君に私たちに勝てる見込みがないことは、自分でも分かっているはずだからね」
「そんなこと知らないわよ!!」
涙が尽きた場所に、燃えるような怒りが芽吹いた。それは理性を焼き尽くし、ただ復讐だけを残した。
目が涙と怒りで燃え上がっていた。もう論理が入り込む隙間なんてなかった。ただ、目の前のこの男を滅茶苦茶にしなければならないという衝動だけがあった。
「これはより大きな善のためにやっていることだよ」
アザエルは、まるで講義でもしているかのように静かに続けた。 私の怒りを、ただ観察しているだけのように。
「マジクスたちは――純粋とテラ問わず――真の目的を見つける必要があったんだ。これまで一度も持ったことのない目的をね――――」
「黙って!!」
涙と怒りで声が震えた。
火炎の魔術を叩き込んだ。でも、透明な盾がその衝撃を何事もなかったように吸い込んだ。
アザエルは、攻撃を完全に無視して続けた。
「長い年月をかけて人類を観察してきた私が気づいたことがある。マジクス・テラは人間の習慣を取り込み、隠れて生きる者たちでさえ人間社会に同化し始める。だが本当に驚いたのはね、マジクスの世界においても、接触なしに、人間とまったく同じ文化や制度が独自に発展していたことだよ。文明というのはね、知り合わなくとも、同じ方向へと進化していくんだ」
「黙れって言ってるのよ! 黙れ! あなたが何を言っても春花にしたことは正当化されない! 絶対に殺してやる!!」
喉が焼けるように熱かった。
初めて、アザエルの微笑みが消えた。眼鏡の奥の目が冷たくなった。眉一本動かさないまま。
「この件には、十分な正当化がある」
「黙って!! 黙って!! 黙って!!」
理性の残りかすが完全に砕け散った。
氷の礫を連続で叩き込んだ。 魔力は指先から砂のように零れ落ち、底が見え始めていた。 それでも止められなかった。止める理由なんて、もうなかった。 障壁は微動だにしなかった。
アザエルはまた、あの上から見下ろすような笑みを取り戻した。
「人間社会が最初の文明を築いた時から持ち続けてきたものがある。マジクスたちが一度も持ったことのないものがね」
歯を食いしばりながら、周囲を必死に見回した。何か使えるものを、隙を突ける何かを探した。でも何もなかった。
「人間には信仰があった。宗教があった。だがマジクスたちには、一度も神がいなかった。論理と誇りと力だけで歩んできた――それが限界なんだよ」
アザエルが断言した。
横目で春花の体を見て、ひどい眩暈がした。
死後の世界……?
「何が言いたいのか全然分からないわ、そんな戯言!!」
アザエルが一歩前に出た。恐ろしいほど静かに。
「マジクスたちには神が必要なんだ。そして私がその神になる」
足元が崩れ落ちるように揺れた。 胃の奥から、吐き気がせり上がってきた。 頭が回るのに、視界だけは異様に鮮明だった。
――神に……?!
この惨状が、この血が、全部……自分が神になりたいという、一人の男の妄想のためだというの……?!
「春花はあなたの妄想と関係ない!!」
叩きつけるように言った。
「春花はただ人を救いたかった。その優しさが、どうして利用されなければならないの?どうして彼女の魂が、あなたの妄想の燃料にされるの?」
「だからこそ、その役割を果たすことになるんだよ」
アザエルは淡々と返した。
「春花さんの犠牲は無駄ではない。その本質、その愛、その魂……全ては新たな秩序の触媒となる。変身装置は彼女の核を用いて新たな存在を生み出す。マジクスたちを未来へと導く神を、ね」
世界が、完全に崩れ落ちた気がした。
これは夢だと信じたかった。 でも、血の匂いも、冷たい石の感触も、あまりにも現実だった。 世界は、完全に崩れ落ちていた。
その瞬間、広間の奥に三つの人影が現れた。ケイル、セレネ、そしてミレイア。
ケイルがアザエルへと近づいて、輝く石を手渡した。
見覚えがあった。アキラが持っているはずだった石だった。
「アキラに何をしたの?!」
絶叫した。
「どうしてその石を持っているの?! 答えて!!」
誰も振り向かなかった。私の痛みなど、ただの雑音として扱われていた。
アザエルが再びこちらを向いて、石を掌の上に掲げた。
悪い予感が、胸を強く締め付けた。
石が、強い蒼い輝きを放ち始めた……と同時に、春花の胸が、まったく同じ光で輝き始めた。
「何をしているの?! 彼女にこれ以上触れないで!!」
春花の方へ向かって走った。傍らに再び膝をついて、手を精一杯伸ばした。
春花の胸から光が剥がれ始め、アザエルの持つ石へと磁石のように引き寄せられていった。
死んでからも……まだ彼女を冒涜しようというの?!
「嫌! やめて!!」
青い光を両手で掴もうとした。最後に残ったものを奪われないように、全力で阻もうとした。光を掴もうとした指先は、ただ空を切るばかりだった。 その虚しさが、胸をさらに締め付けた。
体ごと彼女の上に覆い被さるように飛び込んだ。でも光は石の中へと融合していって、私はただ石床に叩きつけられただけだった。
そのまま床の上で泣き崩れた。
私が床で泣き崩れているのに、彼は満足そうに石を眺めていた。その落差が、憎しみをさらに燃え上がらせた。
馬鹿にされていた。無に帰されていた。
アザエルはゆっくりと手を下ろして、石を満足そうに眺めた。その顔が、心底憎らしかった。
変身装置を取り出して、それをもう片方の手で持ちながら、宣言した。
「ようやく……全ての準備が整ったよ」
全てが計画だった。春花の死さえ、ただの一手に過ぎなかった。世界は、悪夢の中で音を立てて崩れていった。
「いつから……」
床の上から、しゃがれた声が漏れた。
「いつから計画していたの? 何人犠牲にしたの?」
アザエルはあの不気味なほど落ち着いた声のまま答えた。
「長い年月をかけてだよ。ファウスティーヌさんがこのプロジェクトを始めた時、私はすぐに興味を持った。彼女が追放された時、地球のマジクスたちが重大な誤りを犯していると確信してね」
その言葉に胸がざわめいた。
春花の死だけじゃない。もっとずっと前から、この男は全てを見ていたというの……?
「科学者としての地位を捨てて魔法政治に入り、こちらへの派遣を手に入れた。それから全てを仕組んでいったんだよ」
冷たい声が、石の壁に反響していた。
彼は動かない。微笑みも揺らがない。
まるで、私の絶望を観察するだけの存在のように。
「蓮次郎さん、ヴィクターさん、春花さんの優れた頭脳を利用して装置を磨き上げた。レオさんとモニカさんという真の天才たちとも出会えた」
――全部……利用していたの?
誰もが信じていた絆や努力が、ただ彼の計画の部品だったなんて。
「黒木さんの変異体が現れた時は、煙幕として利用した。レオさんを通じて蓮次郎さんを黒木さんの手で死なせ、無限魔力機械の設計図を手に入れた」
吐き気が込み上げた。
どこまで腐っているの、この男は……!
そして、彼はさらに続けた。
「それから――七賢者の評議会を消した。彼らは魔術師社会の最高法だったが、もう存在しない。誰も気づいていない。気づけるはずがない。私は痕跡を残さなかったからね」
「……七賢者……?!」
頭が真っ白になった。
社会の根幹を支えていた存在が、いつの間にか消えていたなんて……。
いつから? どうして誰も知らないの?
世界が、音を立てて崩れていくのを感じた。
何もかもが、跡形もなく崩れ落ちていくように感じた。
奴の操作の一覧を聞きながら、唾を飲み込んだ。
「病院で君を初めて見かけた時のことだよ、エレノアさん」
――初めて……?
あの時は言葉を交わさなかった。ただ視線が交差しただけ。
でも彼は、もうその瞬間から私を計算に入れていたというの……?
「春花さんの成長を阻む脅威になりうると判断して、ベアトリクスさんを差し向けた」
胸が締め付けられた。
春花の未来を奪うために、あの戦いが仕組まれていたなんて……!
「地球での準備が整った時、大魔導師ストロンの呼びかけを利用して、ケイルさん、セレネさん、ミレイアさんをこちらの世界に招き入れた」
――全部……計算だった。
偶然なんて一つもなかった。
私たちが信じていた出会いさえ、この男の冷酷な計画の一部だった。
「全ては精密に計算されていたんだよ」
その声は揺らがない。
全てを操られていた。ここ数ヶ月の出来事の、どの悲劇も、全てこの男の手によって冷酷に誘導されていた。
それでも力を振り絞って、立ち上がった。
「殺してやる……」
「よく考えなさい」
アザエルが再び忠告した。
「私の背後には三人の魔法使いがいる。ファウスティーヌさんは防御魔術の使い手だ。そして私自身も、決して弱くはないよ」
「どうでもいいわよ!!」
咆哮した。
「あなたみたいな屑がこの星を踏み続けることを、許せない! あなたの存在そのものを消し去ってやる!!」
アザエルがわずかに笑い声を漏らした。
その瞬間、内側の何かが、完全に限界を超えた。
涙も怒りも、もう魔力に変えるしかなかった。
失うものは何もない。
だから、全てをこの一撃に込める。
残っている全ての魔力を一点に集中させた。白熱する魔術陣が広がっていった。杖を掲げて、魂の砕けた場所から詠唱を始めた。
「『眠りから覚めよ、凍てついた大地。嘆きに応えよ、銀の嵐。痛みは氷となり、涙は雪となれ。絶望の闇を突き抜けて、希望の光を輝かせよ。冬よ、戦場を冷たき腕で包め! 命の炎さえも凍らせて、運命を書き換えよ』!!」
怪物のような規模の吹雪が広間全体を包み込んだ。風が荒れ狂い、雪が全てを覆い始めた。ファウスティーヌがアザエルの周囲に巨大な力場を展開した。
胸の奥で何かが引き裂かれていく感覚がした。
杖を手放した。杖を捨てた瞬間、吹雪そのものが私の手足になった。指先の動きに合わせて、氷と風が刃となり、嵐が意志を持つように暴れ狂った。
止まらなかった。
素手のまま両手をアザエルへと向けて、吹雪を直接バリアへと叩きつけた。
「――――ッ!! あああああッ!!」
叫びながら両手を動かして、剣のように鋭い氷と風の連撃を放ち続けた。
魔力が骨を軋ませ、血管を焼き尽くしていくようだった。それでも止められなかった。止める理由なんて、もうなかった。
ファウスティーヌの防御障壁に亀裂が入り始めた。
アザエルはただ観察していた。
「ほう、なかなかどうして」
と、さも興味深そうに呟いた。
小さな磁器のような手が肩に触れた。
「エレノア、やめて! 魔力が完全に消耗しているわ、体が壊れてしまうのよ!」
「リリウム、下がっていて!!」
命令するように返した。
「倒れるまで止まらないから!!」
拳を握りしめるあまり、爪が掌に食い込んで、細い血の糸が滲んだ。
最後の力を振り絞って、氷の大爆発を叩き込んだ。魔法の障壁が粉々に砕け散った。ファウスティーヌが圧力に耐えられなくなって、後ろへ倒れ込んだ。
――今だ!
両手を横一文字に薙いで、アザエルを真っ二つにしようとした。衝撃が正面からヒットした。アザエルがよろめいて、片手を傷口へ持っていくのが見えて……
でも、また微笑んだ。
本能的に氷の障壁を展開した。反撃に備えて。でも何も来なかった。
一瞬、現実が歪んだ。
一瞬、視界が揺らいだ。氷の刃が確かにアザエルを裂いたはずなのに――目の前にいたのは、胸を押さえるファウスティーヌだった。
自分の胸の傷を震える手で押さえながら、彼女はアザエルを見た。その瞳に恐怖が宿っていた。
「……ど……どうして……」
かすれた声でファウスティーヌが呟いた。
「君はいつも私の盾だったよ」
アザエルが冷淡に返した。
「そのために使っていたんだからね」
ファウスティーヌが、顔から石床へと倒れた。血溜まりが広がっていった。
「何をしたの!!」
声が震えていた。怒りと恐怖が混ざり合い、喉を裂くように響いた。
「私が得意とする魔法の一つだよ……幻術さ」
アザエルは動かない。ただ冷淡に、幻術だと告げるだけだった。その静けさが、私をさらに絶望へと突き落とした。
アザエルは何事もなかったように、セレネたちの方へと歩き始めた。
「君の怒りで目が曇っていたから、彼女の位置を入れ替えた瞬間に気づけなかったんだよ。これ以上は教えてあげない。優れた幻術師は、全ての秘密を明かしたりしないものだからね」
誰でも平気で切り捨てる男だった。ファウスティーヌは、何が起きたかも理解できないまま死んだ。
リリウムの小さな手が、肩にそっと触れた。
「エレノア……お願い、現実に戻ってきて……」
声が、遠く聞こえた。
理性の端っこが、アザエルに向かって物理的に飛びかかって、氷の破片で喉を掻き切りたいという衝動を抑えていた。残っている全ての魔力を風と氷に変換して、一点へと叩き込んだ。今度こそ当たると思った……
でもアザエルはただ、無造作に片手を上げてそれを受け止めた。
素手で。魔力の塊が、瞬時に霧散した。
「時間切れだよ」
アザエルが言った。
魔法の波動が広がって、呼び起こしていた全ての冬が、跡形もなく消えた。現実が戻ってきて、自分が、彼の前でどれほど小さな存在かを思い知らされた。
膝をついた。
空っぽだった。
春花の仇を、取れなかった。傷一つつけられなかった。
魔力も怒りも涙も、すべてが尽き果てた。残ったのは、役立たずという言葉だけだった。
――私は役立たずだ。
地面に崩れながら、泣いた。遠くでアザエルが装置の起動を命じる声がした。
誰も来ない。誰も助けてくれない。 世界に取り残されたのは、私ひとりだけだった――完全な孤独。
「エレノア!!」
リリウムの叫び声に、目が開いた。
――泣いていたのは私だけじゃなかった。
リリウムが、私のために涙を流していた。
独りじゃない。ずっと隣にいてくれていた。
リリウムが目の前に立っていた。
心配そうで、悲しそうで……私のために泣いていた。
独りじゃない……
ずっと隣にいてくれていた。
「ごめんなさい、リリウム……」
掠れた声で呟いた。
その瞬間、激しい爆発が隣の壁を吹き飛ばし、煙の中から二つの影が飛び込んできた。
マーカスとヴィクター――希望の名を持つ者たちが、戦場に戻ってきた。
床に倒れている私を見てヴィクターが走り寄ってきた。
「エレノア! 無事か……?」
そう言いながら周囲を見回した彼の表情が、春花とファウスティーヌの体を視界に入れた瞬間に固まった。
「……何が、あった」
「守れなかった……」
嗚咽が滲んだ。
「春花を守れなかったの……私には、何も……」
マーカスが魔術拳銃をアザエルへ向けて怒鳴り声を上げた。でもアザエルは眉一つ動かさなかった。
「邪魔が多すぎるね」
アザエルが呟いた。
輝く石が変身装置の中へと差し込まれた。石からその特徴的な蒼い輝きが全て装置へと流れ込み、石は色を失った。アザエルが変身装置を自分の胸へと押し当てると、それがそのまま肉体へと融合していった。
マーカスが発砲したが、力場がそれを呑み込んだ。
数秒もしないうちに、アザエルの体が醜悪に変身し始めた。皮膚が白墨のように白くなり、蒼い亀裂が走って強烈な光を放った。顔が消えた。目も、鼻も、口も――人外の怪異へと成り果てた。
それでも声は、全ての壁に響き渡った。
「素晴らしい……魔力の流れが、無限の奔流のように感じられるよ……」
片手を上げると、屋敷全体が震動した。
ヴィクターが素早く反応して、私と、春花の体と、ファウスティーヌの体の上に防護障壁を張った。
巨大な石の塊が、鉄骨が、パイプが降り注いだ。でも崩落するのではなく……天井も、壁も、夜空へと浮かび上がっていった。
私たちの足元はそのまま地面に残っていた。浮かび上がったのは屋敷の構造だけ――壁も天井も、根こそぎ夜空へと引き抜かれていった。
アザエルがただ一振りのジェスチャーで、屋敷を夜空の高みへと舞い上げた後、それを粉砕した。
塵が晴れると、星の瞬く夜の森が広がっていた。
遠くに、アキラが見えた。その背後にリディアがいた。さらに遠くから、大勢のハンターと魔術師たちの声がざわめいていた。
でも視線は、また春花の体へと戻っていった。
胸が痛かった。ただひたすらに、痛かった。
ヴィクターが隣に屈んで、手を差し伸べてきた。
「まだ諦めるな、エレノア。まだ戦える」
「……もう何も残っていないわ」
俯きながら囁いた。
「最後の一振りくらいなら出せるだろ」
ヴィクターがポケットを探って、小さな瓶を差し出した。
「……魔力急速回復ポーションだ。百パーセントには戻らないが、最大火力の術式を一発撃てる程度にはなる」
震える手で瓶を受け取った。この小さなガラスの瓶の中に、最後の光があった。
ヴィクターがもう片方のポケットから、細身の何かを取り出して、私の手の中に握らせた。
「それから、これも持っておけ。試作品の魔導杖だ。使用者に同期して魔力の流れを安定させる……説明するのが面倒だが、まあ使えば分かる」
それだけ言って、ヴィクターはすぐに立ち上がって、マーカスと並んで変身したアザエルへと向かっていった。
床の上で、ポーションと新しい杖を握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。
よろけながらも、足を踏ん張った。
もう何も残っていないと思っていた。でも、まだここにいる。
凍えた決意が、壊れ切った胸の中で、静かに再び灯り始めた。
待っていて、春花。
必ず仇を取る。
あなたを安らかに眠らせる。
約束するわ。
――仲間を救い、
地下へ。
そして、
辿り着いた先で待っていたのは、
想像を超えた怪物だった。
二つの戦いが、
同時に始まる。
次回――
絶望の戦場
果たして、
この怪物を止められるのか。




