鏡の中の戦士
怒りは、
人を前へ進ませる。
けれど、
その感情の奥には、
いつだって、
失いたくなかったものがある。
少年は、
その痛みを抱えたまま、
自分の答えを選ぶ。
煙はまだ完全には晴れていなかった。粉砕されたドアが床に散らばっていた――そこに踏み込んだのは衝動だった。春花がいるはずだと思っていた。なのに、立っていたのは彼女じゃなかった。
――!!
背後でエレノアが息を呑んだ。小さく、でもはっきりと、一つの名を口にした。
「……アザエル」
そしてーー見えた。
奴から数メートルも離れていない場所に、ゴミみたいに床に転がっている人影が。春花だった。血が……血が、どこにでもあった。床を染める暗い赤が、じわじわと広がっていた。
……違う、こんなはずはない。立ち上がるはずだ。声を返してくれるはずだ。
何かが、胸の奥で音を立てて弾け飛んだ。熱い波が胃の底から頭のてっぺんまで一気に駆け上がってくる感覚。
――くそっ。
――あいつだ。
――あいつが、こんなことをしたんだ。
半秒も考えなかった。杖を握る手に力が入りすぎて、関節が白くなるのがわかった。それでも構わずに、魔術の炎を撃ち込んだ。一発、また一発、ひたすら怒りのまま。
「てめえ……!お前が、お前が何をしたんだ!!」
声が割れていた。目が焼けるみたいに熱かった、砂を押しつけられているみたいに。でも炎はどれ一つとして、奴の体には届かなかった。奴の背後に控える女が魔術の障壁を展開して、僕の炎を煙みたいに吸い込んでいた。
そして奴は……笑っていた。
静かに。泰然と。まるで虫でも見るような目で、こっちを見下ろしながら。
その笑顔が、血を沸かした。
背後ではエレノアの声が聞こえていた。嗚咽まじりに、春花の名を呼び続けていた。目を閉じないでって、震えながら懇願していた。でも振り向けなかった。振り向けば、現実を認めることになる。それだけは耐えられなかった。
歯を食いしばって、杖を振りながら魔獣召喚の魔術陣を描き始めた。炎が効かないなら、奴を引き裂く獣を解き放てばいい。でも、最初の一筆を引いた瞬間ーー眩い閃光が正面から飛んでくるのが見えた。速すぎた。避けられない。
「ご主人様!!」
セレスティアが間に割り込んで、魔法の盾を展開してくれた。衝撃波が僕たちを同時に吹き飛ばす。爆風が収まったとき、ホールの向こうから大きな杖を持った長身の影が近づいてくるのが見えた。
誰だか、確認するまでもなかった。
グレイン。
……なぜいつも邪魔をする?なぜ僕の前に立ちはだかる?まるで運命そのものが僕を試しているようだった。
もう十分に頭に血が上っていたのに、こいつの顔を見た瞬間、首の血管が今にもはちきれそうになった。
「なんで邪魔するんだッ!!」
杖を向けて怒鳴った。
「なんで何度も何度も僕の前に現れるんだよ!答えろ、この野郎!!」
……心臓が胸を突き破りそうに暴れた。喉が焼けるように乾いていた。
グレインは何も言わなかった。ただ、静かに立っていた。
熱いものが頬を伝っているのに気づいた。……涙?違う、これは怒りだ、弱さじゃない。後ろを振り向く気にはなれなかった、春花の姿が目に焼き付いてしまう。それを恐れて、ただ前だけを睨んだ。
くそっ。くそっ、くそっ。
……胸の奥で何かが凍りついた。怒りだと自分に言い聞かせたが、それは恐怖の影でもあった。
アザエルがグレインを見て、薄く笑いながら口を開いた。
「まだここにいるとは、驚きだよ……」
その声は詩の一節みたいに流れていた。
グレインは奴を見もしなかった。
「黙れ」と、氷のように言った。
「レオさんがいなくなった今、君もここを去ると思っていたのだがね」
とアザエルは続けた。何も動じていない。その静けさが気持ち悪かった。
グレインの顎に力が入った。
「黙れと言った」
今度は押し殺した怒気が滲んでいた。
アザエルは気にもしなかった。春花とエレノアのいる方向へ歩き始めながら、こちらへ一瞥だけ寄越した。言葉はなかった。それから奴は背を向けて言った。
「君がこれから何をしようと、私には関係のないことだよ、グレイン。どれほど強くても……君は詰んでいる。間もなく、君の時間も尽きるだろう、なのだよ」
何を言っているのか、全然わからなかった。詰んでいる?それはどういう意味だ?
グレインがゆっくりとこちらを向いた。その顔には何も燃えていなかった。
「こうなってしまったことを、心から残念に思う、龍牙」
「黙れ!」
……なぜ謝る?なぜ敵のように立ちはだかりながら、そんな言葉を口にする?理解できない。
一歩踏み出して怒鳴り返した。
「お前には謝る権利なんてない!お前がしたことは許さない!それに、なんでケイルのところに僕を送ったんだよ!なんであんなやり方で、僕を振り回したんだよ!!」
「全てを話してやりたいところだが……我にはまだお前との間に果たすべきことが残っている。受けてもらうぞ」
グレインは大きな杖を両手で構えた。
歯が砕けそうなほど噛み締めた。
「それだけか!戦うことしか頭にないのかよ!どうかしてる!」
グレインは答えない代わりに、杖で地面を一撃した。
怪物じみた魔力の波動が床を走り、正面からまともに受けた。胸に激突して、そのまま吹き飛ばされた。セレスティアが空中で受け止めてくれたが、衝撃で壁が抜けた。
……守られた。だが、それが余計に悔しかった。自分の力で立ち向かいたかったのに。
それでも、彼女の腕の強さに、ほんの一瞬だけ安堵してしまった。
砕けた石と土煙の中で、隣の広間に叩き出された。グレインが後を追ってくる。
着地した床は石畳だった。グレインが数メートル前で止まった。
「ここなら誰も邪魔をしない」
静かな宣告だった。あの目には、何も映っていない。怒りも憎しみもなく、ただ冷たい決意だけがあった。
息が上がっていた。額に汗が浮いて、杖を握る手が震えていた。今ここで、グレインと戦う?準備なんて全然できていない。かすり傷一つつけられる気もしない。どうする?どうすればいい?
グレインが杖を構えて、最初の一撃を放った。純粋な魔力の奔流が空気を引き裂いてくる。セレスティアの盾が前に出てそれを受け止めた。文句を言いかけた、口を出すなと怒鳴りかけた。でも振り返って彼女を見た瞬間、言葉が詰まった。
……待てよ。一人でやらなきゃいけない理由なんて、どこにある?
……ずっと一人で戦うことに固執していた。でも今は違う。彼女を信じるしかない。
セレスティアの状態が万全じゃないのはわかってる。でも、援護があれば……もしかしたら、この化け物と互角に渡り合えるかもしれない。
唾を飲み込んだ。前を見据えて、声を上げた。
「セレスティア!聞け!盾を張り続けろ!それと、もし攻撃を強化できる術式があるなら、今すぐ僕にかけろ!」
「御意に従います、ご主人様」
彼女はすぐに答えた。
次の瞬間、眩い金色の魔法陣が足元に広がった。
胸の奥で何かが爆発したみたいだった。筋肉が、血管が、体中を流れる魔力が……全部、急激に加速し始めた。心臓が耳元で跳ねている。
「な……な、なんてもんを、かけてくれたんだよ!?」
荒い呼吸のまま叫んだ。力が溢れすぎて、体が自分のものじゃないみたいだった。
「魔力増幅と身体機能強化を複合したものでございます」
セレスティアが隣で静かに説明した。
「長続きはしませんが、攻撃力をハンタークラスに引き上げるには十分かと存じます」
言葉を失った。ハンター、だと?!
考える暇はなかった。グレインが迫ってくる。戦闘が始まった。
足が信じられないくらい軽かった。杖を振ったら、普段の三倍は大きい炎柱が先端から噴き出した。グレインが二歩後退して、大杖で炎を払い散らす。効いている。本当に、効いている!攻撃は速くなって、爆発的な着弾は奴を壁際まで追い詰めはじめた。
セレスティアも黙っていない。グレインの反撃をことごとく盾で消しながら、小さな光球を飛ばして奴の視界を歪め、リズムを狂わせていた。
一進一退だった。奴を隅に追い詰めるところまでいった。
でもグレインは伊達じゃなかった。パターンを見切られた瞬間、大杖を床に叩きつけて、反発のフィールドを展開した。次の炎がかき消されて、二人同時によろめいた。滑りながら転倒して、気づいたらセレスティアの上に倒れ込んでいた。というか……顔が、思い切り胸に埋まった。
「あっ……!くそっ!」
転げながら立ち上がった。顔が燃えていた。
「な、なんでそこで止まってる!前を向け、前を!!」
すぐに杖を振って魔術の弾を連射した。失態を埋めるためだけに。
グレインは投射物をかわしたが、そのまま止まった。構えを少し緩めて、長い息を吐いた。攻撃してこない。こちらも構えを保ちながら、息を整えた。
「随分と腕が上がったな、龍牙」
グレインは静かに言った。
「上がってない」
即座に吐き捨てた。
「今お前と渡り合えてるのは、全部セレスティアのおかげさ。勘違いするなよ」
グレインはゆっくりと首を振った。
「それは関係ない……お前はまだ気づいていないのか」
「何がだよ!」
歯を剥いた。
「はっきり言え!」
「それほど信じることができぬとは……いや、見えていないのか」
グレインは低く呟いた。
「ああ、もう!そのいつもの、遠回しで煙に巻く喋り方が昔から大嫌いなんだよ!」
怒鳴った。
「ちゃんと言え!」
グレインはまた息を吐いた。でも今度のそれには、ほんのわずかな、ほとんど見えないくらいの……笑みが伴っていた。
「他者に頼っているのだよ、龍牙。お前にとって、それはとうに前例のないことだ」
固まった。言葉が胸に突き刺さった。魔力の衝撃よりも痛かった。
「……なに?」
……違う、これは追い詰められているからだ。選択肢がないからだ。信じているわけじゃない。
そう言い聞かせた。だが、胸の奥で別の声が囁いていた。
確かにセレスティアに頼ってる。奴は何が言いたい……?
……ずっと一人で戦ってきた。誰にも頼らず、誰にも背を預けず。 それが僕の誇りだったはずなのに。
唐突に、胸に直撃するみたいに、気づいた。
「我がお前と初めて相見えたとき」
グレインは言葉を続けた。
「そこにいたのは傲慢で、自尊心だけが肥大していて、誰も信じようとしない少年だった。だが……今、目の前に立っているのは、違う」
何も言えなかった。自分の心拍音が聞こえた。
本当に、変わったのか?脳裏で最近のことが閃光みたいに走った。ひよりを助けた時。マーカスを信じるしかなかった時。ヴィクターから手渡された杖を、今まさに握っている手。そして今、迷わずセレスティアの力を借りようと動いた自分。
……もし本当に変わってしまったのなら。 それは僕が、もう昔の自分に戻れないということなのか。
知らないうちに……ずっと、誰かに頼ってきていた。
「助けを求めることを恥じる必要はない」
グレインは添えるように言った。
「今更そんなこと言うか!」
喉が詰まった。
「これだけのことをやらかしておいて!」
「我のやり方は、最初から正しいものではなかったのかもしれぬ……生きていた頃でさえも、ね」
口が、開いた。
「……は?生きていた、って……それはどういう、」
グレインは一度だけ目を伏せた。
「レオと手を組んだのは、あることを理解するためだった。我がなぜお前に呼び出されたのか、ということを、ね」
「ちゃんと説明しろ」
「あの男を同志と見ていたわけではない。情報を引き出すために利用しただけだ。我には我の目的があった。その一つが、なぜ我がここにいるのかを知ることだった」
グレインは淡々と話した。
「我はとうに人の世の過去に属するはずの存在だ。死んでいなければならない。なのになぜか、今というこの時代を歩いている」
背筋に冷たいものが走った。死んでいるはずの存在が、目の前で呼吸している。 理屈では説明できない恐怖が、胸を締め付けた。
頭が揺れた。召喚魔術は既存のものを呼び出す術式だ。存在しないはずのものを、引っ張ってくることは……待て。あの時使った術式の構造を、思い出しかけていた。
グレインは待たなかった。
「お前が使った術式は、存在するものを引き寄せるものではなかった。もはや存在しないものを引き寄せる式だ。何か未知のものが、その術式に干渉した。結果として、我がお前のもとへ繋がれた。レオはその理由を知らなかったが、我は解き明かした。あの魔術陣を歪めたものが何だったかを」
……僕の術式が、そんな歪んだものを呼び寄せた? 信じたくなかった。だが、頭の奥でその可能性が膨らんでいく。
「何だったんだよ!早く言え!」
もどかしさで声が上擦った。
「お前自身の感情だよ、龍牙」
グレインはまっすぐに見据えた。
「存在しないものを呼ぶ召喚式は、その瞬間にお前が持っていた、激しすぎるほどの感情と共鳴した。その感情の向かう先が、術式の信号の指向性と重なった。そしてそれが我の魂への呼び声となった。我が呼ばれたのは、お前の感情が我のものと繋がったからだ」
何も考えられなかった。何も言えなかった。口が半開きのまま、固まっていた。
……胸の奥がひっくり返るようだった。 自分の感情が、こんな化け物を呼び寄せた?信じたくなかった。
グレインは黙った。ゆっくりと大杖を下ろして、戦闘の構えを完全に解いた。もう、脅威の気配はどこにもなかった。戦場の匂いが消え、代わりに重苦しい沈黙が広がった。
「なぜ我らの感情が共鳴したか、わかっている」
静かに言った。
「……なんでだよ」
ほとんど囁きだった。
グレインはこちらを見て、それからまっすぐに、答えた。
「我も、お前と全く同じように感じていたからだ」
その顔を見た。もう恐怖も、軽蔑も、そこにはなかった。ただ、どこまでも疲れ切った一人の男の顔があった。
「かつて……幾度も裏切られ、人を信じることをやめた」
グレインは言った。
「気に入らぬものは攻撃した。いつしか周囲から悪人と呼ばれるようになった。それでも構わなかった。誇りを肥大させ、他者を見下し、邪魔なものを取り除いた……命さえも」
胸のど真ん中に、鈍い痛みが走った。他人事じゃなかった。少し前の自分の話を聞かされているみたいで、息が詰まった。
「そう生き続けていたとき」
と彼は続けた。
「ある少年と出会った。ごく普通に見えた。それでも我の力を知りながら、戦いを挑んできた」
「そいつはどうなったんだよ!」
思わず前のめりになった。
「あんたの力を知って、なんでそんな真似を!?」
グレインは苦く笑った。懐かしさの滲む、皮肉な笑いだった。
「……負けた。奴は魔法を使わなかった。別の力で我を、完全に打ち負かした」
「別の力って、何だ!」
グレインは少しの間、沈黙した。それからこちらをまっすぐに見て、静かに答えた。
「それは……もしかすると、お前にはもうわかっているかもしれぬ、ね」
魔法ではない力……それは、信じる心か。仲間を思う意志か。言葉にできない答えが、胸の奥で形になりかけていた。
ゆっくりと歩み寄ってくる。セレスティアが即座に前に出て、防御の構えを取った。
「セレスティア、動くな」
「……御意に」
彼女は静かに引いた。
グレインが目の前に立った。また、向き合った。
「すまなかった、龍牙」
その声には、芝居っ気が一切なかった。
「こうなるつもりは、本当になかった」
「ならなんで敵側に回ったんだよ!」
胸のあたりに何かが引っかかって、声が掠れた。
「なんでそこまでしなきゃいけなかったんだよ!ケイルのところに送ったのも!全部、何のつもりだったんだよ!答えろ!」
グレインは目を伏せた。負けを認めるように。
「お前が道を踏み外さないように……と、思ったからだ」
脳が、止まった。
「お前を見たとき、打ちのめされて、孤立して、怒りに満ちて、誰もを裁いていた。悪に堕ちる寸前の者の姿を、そこに見た。見ていられなかった」
静かで、でも裂けるような声だった。
「だから悪人を演じた。お前自身が動き出す意志を持つように。前に進む覚悟があるかを、試したかった。方法が最悪だったことは、わかっている。アカデミーを攻撃したことも、ケイルのそばへ送ったことも……ただ、お前が悪に染まることなく、立ち上がれるかどうかを確かめたかっただけだ」
息が、詰まった。
……全部、僕のためだった?そんな馬鹿な。信じられない。だが、もし本当にそうなら……僕は、あいつを責め続けてきた。その事実が胸を締め付けた。
何か言いかけた。馬鹿野郎と怒鳴ろうとした。でもその瞬間、グレインの膝がカクンと折れた。大杖に全体重を預けて、辛うじて倒れるのを堪えた。
大杖に縋るその姿は、かつての威圧感とは別物だった。ただの人間のように、弱々しく見えた。
「……っ、何があった!?」
思わず一歩詰めた。
「一つ、話し忘れたことがある。この身がこの世に現れた経緯についてだ」
グレインは息を荒くしながら言った。
「我は過去の存在だ。現代に引き寄せられた我は、魔力の供給源が必要だった。召喚者と召喚物の間の契約が、それを補っていた。だがお前が我を解放した……その瞬間から、供給は断たれた。時間の問題だったのだよ、ね。遅かれ早かれ、我は消え、あるべき場所に戻る」
……消える?
今ようやく理解し始めたばかりなのに。
その言葉が、心臓を氷で締め付けるように響いた。
苦い何かが、胃の底に落ちてきた。
「消えるって……待ってくれ、それって……確かに召喚術はそういう仕組みだけど、あれは魔獣の話であって、お前に当てはまるなんて考えたことも……!」
グレインの輪郭が、滲み始めていた。端から端へ、小さな光の粒子になって解けていく。
「この戦いで、残った力を使い果たした」
かすかな微笑みがあった。
「だが、惜しくはない……お前が自分の足で立って歩いているのを見届けられたのだから。悪道には進ませたくなかった」
「なんで……!なんでお前は、僕みたいな奴のためにそこまでするんだよ!」
声が割れた。
「偶然に呼び出しただけだぞ!そんな義理、どこにもないだろ!!」
グレインは、穏やかに笑った。悲しさの滲む、やわらかい笑いだった。
「他者に何も求めずに手を差し伸べることの意味を、お前はまだ理解していないのだよ、ね」
何も言えなかった。頭の中に、自分を助けてくれた人たちの顔が次々と浮かんだ。傲慢な自分に何も期待せず、それでも手を伸ばしてきた奴らの顔が。そして……気がつけば自分が誰かのために動いていた、あの瞬間たちも。
「お前にそんなことをしてもらう資格なんて……」
声が枯れていた。
「なかったんだよ、僕には」
グレインが、見た。これまで一度も見たことのないような、ごく自然な、人間らしい笑顔で。あの笑顔は、戦場で見せるものではなかった。ただの人間としての、最後の表情だった。
「お前を見て、かつての我自身を思い出したからだよ。同じ道を歩ませたくなかった。それは我の勝手な感情かもしれぬ……それでも、手を差し伸べたかった」
腕を伸ばした。グレインの肩を掴もうとした。でも手は、煙をすり抜けるように、何も掴めなかった。……指先から世界が崩れていくようで、胸の奥が空洞になった。
グレインは一度だけ頭を下げた。
「我のことは気にするな。ただ元あった場所に戻るだけのことだ……これからは、よりよい先を見通せることを、願っている」
「嫌だ!」
腕を自分でつかんで叫んだ。
「消えるな!お前を倒すのは僕だった!お前を……お前を、倒してから……」
もう遅かった。何をどう言っても、届く場所がなかった。情けなかった。こんな最後を迎えるだけの値打ちが、果たして自分にあったのか。
グレインは最後にもう一度、こちらを見た。一瞬だけセレスティアの方に視線が向いて、それからまた目が合った。喉が締まった。
「ふむ……」
グレインはわずかに、揶揄うような口調で言った。
「まさかお前があのような女性を虜にするとは、思いもしなかったかな」
空気が変わった。
「な……っ!何を言って、」
……こんな時に、そんなことを言うな。 顔が熱くなって、言葉が出なかった。顔を逸らした。さっきまでの重さがどこかへ吹き飛んだ。
振り返った時には……もうそこに誰もいなかった。
光が消えた後には、痕跡一つ……音も匂いも残らなかった。ただ、胸の奥に重いものだけが残っていた。
脚が力を失って、石畳の上に崩れ落ちた。肩で息をしながら、そのまま仰向けに倒れた。天井を見上げた。頭の中はぐちゃぐちゃで、どこから整理すればいいかも分からなかった。
そのとき、遠くからの爆発音が静寂を引き裂いた。
……そうだ。向こうにはまだ、アザエルがいる。エレノアが、一人で、あの化け物の前に。
立ち上がろうとして、体が言うことを聞かなかった。ほとんどの魔力が尽きていた。動けない。戦える状態じゃない。セレスティアに向かって命令しかけた、行ってこいと言いかけた。でも、途中で止めた。
それは彼女を危険に投げ込むだけだ。嫌だと言えない彼女を。
頭を切り替えた。
「おい……!何か、回復できる魔法はないか!なんでもいい!」
セレスティアがそっとそばに跪いた。
「お力になれるものがございます。ただ……それも一時のものでございます。使うなら、しかるべき場所で、しかるべき時にとお勧め申し上げます、ご主人様」
「なんでそんなことを言うんだ!?何を使う気だ!?」
「タロットの秘儀に基づく実験的な魔法の知識を、私は持ち合わせております」
彼女は静かに答えた。
……タロット?
目を丸くした。それはマジクス本来の体系じゃない。人間たちが占いに使うカードを基盤にした、未解明の実験的分野だ。召喚魔法でさえ未知の部分が多いというのに、それよりさらに先の話をセレスティアがしている。信じられなかった。彼女の目の中に、消えかけていた何かが戻るのを感じた。
「どういうものか、ちゃんと説明しろ!」
「タロットの全カードを並べた魔法の輪を回すことができます」
と彼女は説明した。
「選ばれたカードによって恩恵が異なり、高度な回復、強運、あるいは魔力を大規模に増幅させ術式を連続行使可能にするものが得られます」
「それはほぼ完全に、賭けじゃないか」
眉が寄った。
「一つ申し上げなければならないことがございます」
セレスティアはつけ加えた。
「タロットは常に吉を示すとは限りません。曖昧で予測不能なものでございます。カードの結果次第では、体に不利な効果をもたらす可能性もございます」
「じゃあなんでそれを使おうとするんだ!もっといいものはないのか!!」
「私は直接攻撃に特化した魔法使いではございません」
彼女は静かに言った。
「攻撃術式もいくつか存じておりますが、今この場でお教えすることはできません。回復の支援魔法は扱えますが、ご主人様の魔力を直接補充できる術式を私は持っておりません。タロットの秘儀が、今の私たちにできる唯一の手段でございます」
……賭けに乗るしかないのか。何もしなければ、エレノアが……。胸の奥で、焦りが焼けつくように広がった。
運命そのものに身を委ねるようなものだ。成功すれば奇跡、失敗すれば破滅。その二つの間に、逃げ道はなかった。
歯を食いしばった。不確実な賭けに乗るリスクと、何もしないまま時間を溶かすリスク。どちらも最悪だ。でも……
――ドン――ッ!!
猛烈な振動が石畳を揺さぶった。普通の衝撃じゃない。大地が声を上げて軋んでいた。向こう側から青白い閃光が差し込んで、瓦礫を突き抜けてきた。セレスティアが即座に障壁を展開する。
天井から巨大な石の塊が、鉄骨が、管が、激しい音を立てて降り注いだ。バリアが受け止めるが……落下が、止まらなかった。いや、おかしい。落ちてくるものが途中から……上に向かっていた。
重力が逆転した。
館の壁と天井が、地面から切り離されるように浮かび上がった。 足元の石畳はそのまま残り、ただ屋敷の構造物だけが夜空へ引き上げられていく。夜空に浮かぶ屋敷を支えていた、ひどく歪んだ巨大な魔法陣が爆散し、館は空中で激しく弾け飛んだ。
一体、何が……!
隔てていた壁が消えて、向こうの広間が視界に入ってきた。エレノアが床に倒れている。隣には、いつの間にいたのかヴィクターがいた。その先では、ハンターの制服を来たマーカスが魔術拳銃を必死に空へ向けていた。
その先を、目で追った。
血が凍った。
宙に浮いていたのは……アザエルじゃなかった。人型の何かだった。肌が白い。真っ白で、青く輝く紋様に覆われている。
顔が……なかった。
顔のないその存在は、こちらを見ているようで、見ていないようだった。最も恐ろしかった。
遠くには、三人の魔法使いの姿が見えた。その傍らには、見知らぬ男子が立っていた。
さらに背後からは、外に集結している魔術師やハンターたちのざわめきが、波のように押し寄せてくるのが聞こえた。
この場を取り巻く人々の気配が、どこまでも広がっていた。
もう迷っていられない。
「セレスティア!!」
声を張り上げた。
「やれ!タロットの術を、今すぐ使え!!」
「承りました、ご主人様」
彼女が優雅に手を動かした。掌に魔法陣が広がり、カードの束が実体化して宙へ飛び出した。落ちることなく浮かんで、円形に整列しながら彼女を囲むように回転し始めた。
セレスティアが声を高くして、詠唱を紡いだ。
「『運命のヴェールよ、開け……永遠に廻る秘儀の輪よ、招集に応えよ。太陽は真実を照らし、月は隠されしものを映し、塔は不可避を告げ、星は希望を導く。カードは偽らない、その紋様は魂の鏡。過去は影として立ちのぼり、現在は炎として燃え上がり、未来は流れ定まらぬ川として広がる。タロットの力によって、その道が明かされよ。秘儀よ語れ、そして真実が、いかに痛くとも、目の前に現れよ』!」
カードが、眩い神秘の光の中で爆ぜた。
「カードを指示してください、ご主人様」
とセレスティアが言った。
「それが、お求めのものへの答えとなります」
ここでうずくまっている気はない。皆が命を懸けている中で、弱いまま終わる気はなかった。グレインが全てを使い果たしてくれた。そこに何も返せないまま倒れている気には、なれなかった。
遠くで、春花の姿が目に入った。動かない体。広がる暗い赤。
どうにもならない、やりきれない痛みが、胸の奥をえぐった。
間に合わなかった。でも……他の誰かの犠牲を、これ以上無駄にはしない。
……この一枚が、未来を決める。逃げ場はない。選ばなければならない。その覚悟が、指先に宿った。
「あぁぁぁぁッ――――!!!!」
絶望と怒りと、それでもまだ消えない何かを全部乗せて叫びながら、宙に浮かぶ一枚のカードを指さした。
選ばれたカードが輝き、まっすぐ手の中へ飛んできた。
「お返しになりましたら、ご主人様の行く先が示されます」セレスティアは告げた。
心臓が暴れていた。カードを持つ手が震えていた。
何が出ても、受け入れる。
ゆっくりと……裏返した。
――全てが、明かされた。
――愛する人を失った。
それでも、
立ち上がるしかない。
目の前にいるのは、
すべてを操っていた者。
そして、
人ならざる姿へと変貌した怪物。
次回――
神を名乗る者
奪われた光を、
取り戻すために。




