届かぬ愛と消えゆく灯
人は、
未来を信じるからこそ、
その先に進もうとする。
けれど、
信じていた未来が、
目の前で崩れ落ちたとき――
残された想いは、
どこへ向かうのだろう。
声が、暗がりの中にそっと降りてきた。
「春花……」
まるで夢の糸を静かに断ち切るように。重たいまぶたをゆっくりと持ち上げると、目の前にファウスティーヌがいた。いつもの、あの穏やかな眼差しで私を見ている。
……夢と現実の境目が曖昧で、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
「準備をしなさい、春花」
彼女の声は低く、静かで、急かすような色がまったくなかった。
「ほぼ丸一日眠っていたわよ。時間はもうあまりないわ」
「……す、すぐ行きます」
声が掠れた。体を起こしながら両手で顔を覆い、残った眠気を擦り落とすようにした。それから、頭の隅に引っかかっていた疑問を口に出す。
「ファウスティーヌさん……今日は、正装の方がよいでしょうか?」
彼女は小さく首を振り、ほんのわずかに口角を上げた。
「必要ないわ。あなたが一番楽に感じられるものを着なさい」
それだけ言って、ファウスティーヌは扉を半開きにしたまま部屋を出て行った。
ゆっくりと立ち上がる。裸足の裏に、床の冷たさが這い上がってくる。ワードローブの前まで歩いて、扉を開いた。並んだ衣類を無言で眺めた。
今日は――今日は、普通の日ではない。
エレノアが、客席にいる。
大勢の中の一人として、舞台を見ている――私を、見ている。
できる限り、整った姿でいたかった。彼女の目に映る自分が、きちんとして見えるように。清潔に。完璧に。
……けれど、ファウスティーヌの言葉に従って、簡素な服を選ぶべきだろうか。それとも、この場にふさわしい装いをすべきか。
鏡に映る自分を見ながら思った。これは衣服の選択じゃない。エレノアにどう見られたいか、その答えだった。
鏡の前で、しばらく迷った。
結局、勝ったのはエレノアに美しく見られたいという気持ちだった。
細い肩紐の、水色のロングドレスを選ぶ。シンプルだけれど、品がある。
ドレスの布地を指でなぞった瞬間、なぜか胸の奥に冷たい予感が走った。理由は分からない。ただ、今日が普通の日ではないことだけは確かだった。
髪を丁寧にとかし、低い位置でまとめて、背中に流れるポニーテールにした。
車での移動は、音のない時間だった。
エンジンの単調な振動と、窓の外を流れていく午後の景色。ファウスティーヌはずっと窓の外を見ていた。完全な沈黙。緊張していたのだろうか。確かめる言葉は出てこなかった。
――私自身は、緊張していた。胸が詰まるように苦しく、指先まで冷えていた。
大丈夫。すべてうまくいく……うまくいくはずです。
何度も、何度もそれを繰り返した。お守りのように。
でも、屋敷に到着した瞬間——何かが、ずれていた。
屋敷は、異様な静けさの中に立っていた。これほど重大な発表の場だというのに。魔術師の社会の流れを変えるような、歴史的な展示の場だというのに。車も、警備員も、招待客のざわめきも、何もない。
早く着きすぎただけだろうか。
車を降りる前に、ファウスティーヌが私を見た。
「緊張している? 春花」
「……はい」
認めるのに、一瞬もかからなかった。
「緊張しない方法など、ありません」
ファウスティーヌは私に手を伸ばした。いつもと違う、判読しにくい表情をしていた。
「なら、手を繋ぎましょう。一緒に歩きましょう」
――一瞬、固まった。
ファウスティーヌが、こういう形の親密さを見せることは、ほとんどない。
……この人が手を差し伸べるなんて。優しさなのか、それとも別の意味があるのか。
戸惑いと、微かな緊張が同時に来た。
「……え、ええ」
「本当に?」
「はい」
彼女の手を取る。冷たかった。
石段を上り始める。正面玄関へと続く段を、二人で並んで踏んでいく。扉に手をかけようとした、その瞬間――扉が軋む音もなく、静かに内側へと開いた。まるで誰かに招かれているように。
そこに、一人の魔法使いが立っていた。
「ようこそ。私はケイル・ヴェイルだ」
表情は笑顔だった。過剰なほど、くっきりとした笑みだった。それなのに、その存在から放たれる何かが――本能的な、細い恐怖の針を刺してくる。彼は丁寧な態度を取ろうとしていた。それはわかった。けれどどこか、演じているように見えた。
深くお辞儀をしてから、ついてくるよう示された。
案内されながら、大広間を横切った。
……おかしかった。
壁の高いところに風船が貼りつけられている。奥には、まるで宴会か立食パーティーのような食卓。長テーブルには、きっかり七脚の椅子。そしてそれ以外の空間には――段ボール箱、木製のコンテナ、脈絡のない物体たちが積み上げられていた。まるで放棄された倉庫だ。
長テーブルの上には食器が並んでいるのに、埃が積もっていた。誰も触れていないのに、宴の準備だけが置き去りにされているようだった。
悪寒が走った。何もかもが、常識から外れている。でも考える時間はなかった。
ケイルに続いて、奥の廊下へ。突き当たりにエレベーターがあった。
「発表は地下の研究室で行う予定だ。展示に必要なものはすでに運び込んである」
彼は振り返らずに言った。
エレベーターに乗り込む。扉が閉まる音は、まるで外の世界との最後の繋がりを断ち切る合図のようだった。手のひらに汗が滲む。
ファウスティーヌが、そっと肩に触れた。
「大丈夫よ、春花」
その言葉を、信じたかった。全力で、信じたかった。なぜなら――もし何かが狂えば、何年もかけた研究が、変身装置の発表が、一瞬で崩れ去る。
金属音とともに扉が開いた。
蛍光灯の白い光が、地下廊下全体を照らしていた。冷たく、無機質な光だった。廊下は三方向に枝分かれしていた。左、右、そして正面。
踏み出そうとした、その前に――二つの人影が暗がりから現れた。
魔法使いが、もう二人。
思わず目を瞬かせた。いったい何人来ているのか。
「私はセレネ・ヴァールコル」
「あたしはミレイア・ノクティス」
二人は、名乗る声は冷たく、まるで人間ではなく機械が発した音のように響いた。そのままガイドとして先立ち、廊下の網目を通って私たちを導いていく。
靴底が合成樹脂の床を打つたびに、神経の端が張り詰める。パニックに飲み込まれないために、脳裏にエレノアの顔を浮かべた。強い眼差し、揺るがない声――彼女のことを思うだけが、唯一のよりどころだった。
やがて、広い部屋に出た。
天井は高かった。けれど、内部は奇妙なほど何もなかった。
……広すぎる空間に、音が吸い込まれていく。冷たさだけが支配していた。
部屋の中心に――強化ガラスの縦長カプセルが鎮座していた。
その中に、変身装置があった。
研究の集大成。文字通り、宝石のような輝きを持つ、私たちの宝。世界の魔術師たちに初めて披露される、歴史を書き換えるための一点。
ガラスの中で輝く装置は、まるで孤独な星のようだった。触れられない光が、逆に不安を煽った。
「準備が整う前に、いくつか確認してきます」
不意にファウスティーヌがそう言って、私の返事を待たずに部屋の反対側へ歩いて行った。セレネとミレイアは入り口の傍に立ったまま、石像のように動かなかった。
カプセルに近づいた。
ガラス越しに装置を見つめていると、自然と記憶が浮かんできた。
子どもの頃——世界は、本と魔術の公式だけだった。人と繋がることなく、完全な孤立の中で生きていた。……あの頃の孤独は、胸の奥を氷で満たすような感覚だった。アカデミー・エンディミオンでも、同じだった。人々に囲まれながら、誰とも本当の意味で繋がれなかった。そしてファウスティーヌが追放された日――あの虚無の感覚。唯一の支柱が崩れ落ちる音。
でも今は違う。
だから、今ここに立っている。私を大切にしてくれる人たちがいる。もう、独りではない。
――エレノアのことを、また考えていた。
最初は、怖かった。彼女の存在そのものが持つ圧力に、どうしても身が縮んだ。けれど、救ってくれたのは彼女だった。この壊れた世界でも、善意ある行動が可能だということを、エレノアは証明して見せた。気がついたら、深く――想っていた。
病院に見舞いに来てくれた時の、あの胸が一杯になる感覚。
お互いのことを、まだ何も語り合えていない。感じていることも、生きてきた道のりも。発表が終わったら、話そう。たくさん。もっともっと。それだけが、今一番欲しいことだった。
大きな部屋をゆっくりと歩いた。天井の梁を見上げ、灰色の床を見つめ、また天井を見た。
時間が、重く感じ始めた。
することが何もない。それより――まだ誰も来ていない。
エレノアも、来ていない。
胸の中に、鋭い圧迫感が生まれた。心臓が喉までせり上がって、声を抑えきれなかった。
大丈夫だろうか。途中で何かあったのだろうか。なぜ遅いのか。
……来ないのかもしれない。そんな考えが、頭の隅で冷たく囁いた。
冷たい空気を一度深く吸い込んで、落ち着こうとした。けれど、彼女に会いたいという焦りが、平静さに勝った。
セレネとミレイアのところへ、早足で向かった。
「招待客はいつ頃到着しますか?」
乱れを見せないよう、声を整えた。
セレネが上から見下ろした。表情は平坦だった。
「……もうすぐ来るわよ」
その答えは、確信ではなく、計算された言葉かわしに聞こえた。
我慢できなくなった。平静を装っていたのに、次の瞬間には感情が堰を切ったように溢れ出した。
「エレノアに会いたいんです! 彼女は私の親友で――今すぐ会いたい!」
セレネは冷たい目で私を見た。
「エレノアが誰なのか、我には分からないわ」
「招待状を渡しました! もうこちらへ向かっているはずです!」
「招待状」という言葉を聞いた瞬間――セレネの目に、一瞬だけ動揺の色が走った。彼女はミレイアと素早く視線を交わした。緊張した、短い交換だった。
「どこでその招待状を手に入れたの?」
「ファウスティーヌさんに頼みました」
セレネは顎を引き、苛立ちを飲み込むように口を閉じた。すぐに無表情に戻る。
「来ていないのかもしれないわよ」
「そんなはずがありません!」
声が大きくなった。頬が熱い。
「エレノアは来ます。必ず来る。絶対に来ます!」
セレネは重たいため息をついた。
「……少し待って。確認してくるわ」
踵を返して部屋を出て行った。残ったミレイアは、一言も発さなかった。ただ私を見ていた。動かずに、瞬きも少なく、じっと。その目が――背筋をひんやりとさせた。その瞳は、まるで獲物を観察する捕食者のようだった。
沈黙を埋めようと、彼女のことを観察した。目の周りに、濃い黒のライナーが入っている。そのせいで瞳が際立って、どこか人間離れした印象を与えていた。
「あなたも何か確認しに行かなくていいんですか?」
「行かないよ」
それだけ言って、また沈黙。視線は私から外れない。
「……専門は何ですか? 魔法使いとして」
「記憶よ、君。思い出を編み替えるの。あたしの知識は、そこに宿ってる」
ミレイアは単調な声で答えた。
「思い出ってやつ。あたしの知識は、そこに宿ってるの」
記憶に直接作用する魔法――聞いたことがなかった。何も返せずにいると、廊下からセレネの足音が戻ってきた。
作り物めいた笑顔を浮かべて、両腕を軽く広げながら入ってきた。
「いい知らせがあるわよ」
「……本当に来ますか? エレノアは」
「ええ。もう少し時間がかかるけど、来るわ。ケイルから聞いたの。今向かっているところよ」
心臓が跳んだ。
「本当に?」
「本当よ」
思わず息が出た。安堵が全身を流れた。……ただ、何かが引っかかった。セレネの態度の端々に、ちぐはぐな部分がある。でも今はそれより、確認できたことの方が大きかった。
「あの子がそんなに大切なの?」
セレネが、少し首を傾けながら聞いた。
「……ええ」
正直に答えた。
「言葉にするのが難しいのですが……とても大切な存在です。今の私にとって、彼女はすべてと言っても過言ではない」
言葉を吐き出すたびに、胸が締め付けられるように痛んだ。
セレネは目を細め、私の中を精査するように見た。居心地が悪くて、体がそわそわした。
「何ですか?」
「なんでもないわよ」
と彼女は視線を落とした。
「少しだけ、がっかりしていただけ」
その声は、氷のように冷たかった。
「何にがっかりしているんですか?」
「気にしないで」
と、冷たく遮った。
「エレノアが来た時の顔を見たいから、自分で連れてくるわ」
そう言って、ミレイアと共に部屋を出て行った。
「がっかり」という言葉の意味は、最後までわからなかった。でもその言葉より、最後の一言が頭の中を全部塗り替えた。
エレノアを連れてきてくれる。
――純粋な、幸福だった。
胸が熱くなり、頬まで紅潮していた。
もうすぐ会える。数分後には、彼女がここにいる。その事実が胸の中で膨らんで、どうにも抑えられなかった。気づけば、スカートの裾を翻しながら、子どものようにその場で回っていた。抑えきれない喜びが、体を勝手に動かしていた。
ファウスティーヌが戻ってきた。急いで近づいた。
「春花! もう始められますよ」
と彼女は言った。けれど私は思わず眉を怪訝そうに上げた。
「え? でもまだ誰も……」
「心配しないで、すぐわかるから!」
――けれど、その言葉を口にしながら、ファウスティーヌの顔をよく見た。
笑顔が、止まった。
彼女は……憔悴していた。何か耐えられないものを肩に背負っているような、そういう顔をしていた。今まで見たことがない種類の疲れだった。
笑顔の裏に、深い影が落ちていた。まるで何年分もの疲労を一瞬で背負ったような顔だった。
「……ファウスティーヌさん、何かありましたか?」
彼女は、私の目を避けた。
「何でもないわ……終わった後のことを考えていただけ」
「私も同じことを考えていました」
一度、息を吸った。
「でも今は、発表が終わったらやりたいことがはっきりわかっています。エレノアの傍にいたい。彼女ともっとたくさん話したい」
ファウスティーヌは、顔を伏せた。
深い悲しみの色が、一瞬で彼女の表情を覆った。
「……待ってくれる人がいるのね」
ほとんど聞こえないような声で、そう言った。
「ファウスティーヌさん? どうしたんですか?」
彼女は顔を上げて、苦い笑みを向けた。
「……少し羨ましいわ。あなたに誰かがいることが。でも――その幸せが、永遠であることを願っている」
その言葉の正直さが、胸に刺さった。
「……そんなにずっと、私のことを?」
「ええ」
と、ファウスティーヌは即座に答えた。
「あなたは私の生徒で、友人で……」
言葉を飲み込んだファウスティーヌの横顔には、説明できない影が落ちていた。宙に残ったまま、続きが来なかった。
「何を言おうとしていましたか?」
「何でもないわ」
聞き返そうとした――その時、廊下に足音が響いた。
一人の人物が、こちらへ歩いてくる。
振り返った。
アザエルだった。
いつものように、ゆっくりとした落ち着いた歩調で。穏やかな笑みを口元に浮かべて。眼鏡のレンズ越しに、静謐な光を帯びた目が私を見ていた。
「準備はできているかい、春花さん?」
私の前で立ち止まりながら、そう言った。
「……はい。でも、アザエルさん、どうして今始めると言うんですか? まだ誰も来ていないのに」
私は腕を組んだ。胸の奥に渦巻く不安を押し込めるように、指先に力を込めた。 それは反論の姿勢ではなく、心を支えるための小さな防壁だった。
「これは魔術師の社会を変えるための発表ですよ。聴衆なしに、いったい何を変えるつもりですか?」
「聴衆はいるよ、春花さん」
アザエルは穏やかに答えた。
……言葉は穏やかだったのに、意味はどこか空虚で、現実感がなかった。
「ただ、この部屋の中にいないだけなのだよ」
眉を上げた。説明を求めた。
「予想より多くの招待客が集まってくれているのだよ」
と彼は続けた。
「だから発表は、外にいる彼ら全員に向けて中継される形になる。招待客は外から見届け、私たちはここでやるべきことをやる」
奇妙な説明だった。空虚に聞こえた。でも口を挟む前に、アザエルはカプセルに向かい、変身装置を静かに見つめた。カプセルを見つめるその目は、慈愛ではなく所有の光を帯びていた。
「……近くで見ると、本当に美しいねぇ」
遠い目になっていた。
「前例のないことを、成し遂げた。魔術と魔法の理解を根本から書き換える一品を」
「急に授業みたいな話し方になりましたね」
軽く目を回した。アザエルは振り返り、まっすぐに私を見た。
「実は、君に告白しなければならないことがあるのだよ、春花さん」
脊髄に沿って、冷たい何かが流れた。
「……告白?」
「君にはまだ、変身装置について知らないことがある」
研究者としての自尊心が、即座に反発した。
「それはありえません! すべての記録を確認しました。知らないことなど――」
「誰がそのファイルを届けたのか、思い出してごらん」
――止まった。
言葉が、喉に詰まった。
……そうだ。あのUSBを渡したのは。あの研究データを手渡したのは――アザエル自身だった。
……背筋が凍りついた。指先まで血が引いていくのを感じた。
「なぜ情報を隠したんですか!」
怒りが、混乱を追い越した。
「今これを起動して何か問題が生じたら――」
「心配しないでほしいのだよ」
アザエルは動じなかった。
「完全な機能は持っている。なぜなら、隠したのは私自身だからなのだよ」
「理由を言ってください!」
「必要があったのだよ」
彼の声は、完全に静かだった。
「君に、ある変数を知らせるわけにはいかなかった。装置が目的を果たすために必要な、最後の詳細を」
その声は穏やかだったが、まるで冷たい刃を胸に押し当てられているように感じられた。
「何が隠されているんですか! 何を隠したんですか!」
「大したことではないよ」
とアザエルは言った。
……その視線は研究を讃えるものではなく、所有者が獲物を見定める目だった。
「でも、説明しよう。まず、変身装置の根本目的を改めて確認しよう。魔力の従来の媒介プロセスを代替し、使用者とその魔力回路の間に絶対的な同期を達成する人工物を開発すること――そうだったね」
彼はゆっくりとカプセルの周りを歩き始めた。空の教室で講義する教師のように。
「根本原理として、あらゆる生命体は四つの独立したエネルギー構造を持つのだよ。肉体、魔力回路、魂――そして感情核。この最後のものだけが、君に伏せられていた。従来の魔法が繋ぐのは、肉体と魔力回路だけだ。変身計画が目指したのは、四つすべてを同時に同期させることなのだよ」
……説明を聞くたびに、胸の奥が冷たく締め付けられていく。
一本、指を立てた。
「同期には五つの段階がある」
アザエルの声は落ち着いていた。私は息を呑んだ。
「第一段階は使用者登録だ。人工物が人に触れた瞬間、その者の魔力紋、魔力パターン、魂周波数を記録し、他者による使用を不可能にする」
……契約のように縛る仕組み。背筋が冷えた。
「第二段階は同期だ。人工物が魔力周波数を霊的周波数に合わせ、両者が共鳴した時、閉じた奥義回路が形成され、エネルギーロスが劇的に減少する」
説明を聞くたびに、胸の奥が締め付けられていく。
「第三段階は再構成だ。魔力が再配分され、力、速度、反射、魔術的知覚が最適化される」
夢のような強化――けれど恐ろしい。人間を超える存在に変えるのだ。
「第四段階は物質化だ。結晶化した余剰魔力が魔法衣装と個人装備を生成する」
衣装まで……。私は思わず指先に力を込めた。
アザエルは一度間を置き、私を見た。
「そして最後――第五段階は感情共鳴だ。この段階だけが、君に渡した書類には存在しなかった」
心臓が跳ねた。感情……?
「人工物には追加のエネルギー源が必要だ。そのエネルギーは魔力ではない。感情共鳴だ。感情は魂の周波数に微小な変化をもたらす。その感情が一定の強度に達した時、人工物はその共鳴を吸収し、安定化エネルギーへと変換する。この力を介してのみ、絶対的な同期が完成するのだよ」
「そんなことはありえません……!」
私は首を振った。感情が魔法に作用するなんて――。
アザエルは穏やかに反論した。
「影響を与えることは知られている。ただ、どの程度まで影響するかが未解明だっただけだ。哲学的に言うなら――魔力が魔法を動かす。魂が形を与える。しかし心だけが、存在を与えるのだよ」
言葉が、空気の中で重くなった。
「これを理解した瞬間から、すべての研究者が誤った部分を探していたと確信したのだよ。必要なのは、さらなる魔力でも、魔法陣でも、ルーンでもない。本物の感情共鳴だ、と」
……その言葉は、祝福ではなく呪いの宣告のように響いた。
「……なぜ隠す必要があったんですか?」
……足元が揺らいだように感じた。
「なぜ、そこまで――」
アザエルは沈黙した。完全にこちらへ向き直った。蛍光灯の白い光が眼鏡のレンズに反射し、目が見えなくなった。
「ある人物が、その感情を蓄積させる必要があったからなのだよ、春花さん」
「……え?」
……胸が締め付けられ、呼吸が浅くなった。
「装置は、現状のままでは起動できない。感情の共鳴体が必要だ。その感情には、すべてが含まれていなければならない――痛みも、喜びも、絶望も、愛も。だからこそ、誰でも反応させられるわけではなかった。そして、運が微笑んでくれたのだよ」
氷のような震えが、背骨を走った。
「魔術師の探索者ザイルが発見した謎の石の話を聞いた時、深く興味を引かれたのだよ……」
石?――その名を聞いた瞬間、心臓が冷たく跳ねた。なぜ今、その言葉が出てくるのか。
「調査を命じたのだよ」
アザエルは続けた。
「そしてそこに、必要なものを見つけた。完全には理解できないが、その石こそが感情を変身装置と反応させる媒介だった。アカデミーの最古の記録には、人間の感情と共鳴できるエネルギーの記述がある。初めて目にした瞬間、それがまさにそれだと確信したのだよ」
「……正気ですか?」
抑えていたものが、一気に出た。
「意味がない! それに――その石は陰陽師たちと共に失われたはずです!」
アザエルは、短く乾いた笑いを漏らした。喜びの色は一切なかった。
「誰もがそう信じているよ」
と言った。その笑みは、もはや安心を与えるものではなく、不気味な影を帯びていた。
「確かに石は陰陽師たちの手にあった。でも必要な感情は……もう手の届くところにあるのだよ」
……石と感情を結びつけるなんて、考えたこともなかった。けれど、彼の言葉はそう示しているように聞こえた。
「……石を直接使うんですか? 感情を装置に与えるために?」
アザエルはすぐには答えなかった。ゆっくりと私の方へ歩き始めた。距離が縮まるたびに、足が後ろへ逃げそうになるのを必死で抑えた。数十センチの場所で止まった。
「……どうしたんですか?」
声は震えていた。答えを聞きたくないのに、聞かずにはいられなかった。
思わず半歩、引いた。
「なぜそんなに近づくんですか?」
「石を直接使うわけではないよ」
アザエルは言った。
「触媒として考えてくれ。石が感情を吸収し、変身装置に届ける」
完全には理解できなかった。彼はいつからずっと石を追っていたのか。いつ、どの段階で――
その疑問を抱いたまま、彼の声色がふと柔らかくなった。
「嬉しいのだよ、春花さん。多くの者の努力と、幾人かの犠牲が積み重なって、この傑作が生まれた。でも、誰よりも感謝しなければならないのは――君なのだよ」
顔を上げた。
……胸の奥で警鐘が鳴っていた。
その瞬間、アザエルの腕が私を包んだ。
温かく、力強い抱擁だった。胸に引き寄せられる。
「知らせなかったことを、許してほしいのだよ」
耳元近くで、静かな声が言った。
……体の緊張が、ほんの少しだけ溶けた。わからないことは山ほどある。けれど、彼はいつも私を支えてくれた。絶望の底にいた時、手を差し伸べてくれたのはアザエルだった。悪意など感じたことは一度もない。――だから、信じたい。父親のような存在を、疑いたくはなかった。
「……わかりました」
肩口に声を埋めながら言った。
「これほど確信があるなら……信じます。許します」
「君がいなければ、成し遂げられなかったのだよ」
アザエルの声は、深く静かだった。
「ファウスティーヌさんの生徒でいてくれたことに感謝している。その繋がりがあったから、常に誰かがこの計画を続けることができたのだよ」
「……次は先に教えてください、アザエルさん」
彼の胸に額を当てながら、小さく笑みを作った。
「まだ一つ、理解できていないことがあります」
「何かな、春花さん?」
「感情をどこから調達するのか――ずっと話してくれていますが、具体的に、その感情はどこから来るのですか? 誰のものを使うんですか?」
アザエルが、黙った。
一秒。
彼の心臓の鼓動が、頬に伝わった。
「ありがとう、春花さん……」
声が、遠くなった。
「さようなら」
――耳に届いたその言葉の意味を理解する前に、腹部に激痛が走った。
乾いた、灼熱の衝撃だった。段階的に来るものではなかった。体の内側で炎が爆発したような、内臓を焼き尽くすような痛みが、一瞬で全身を貫いた。
息が止まった。
視線を下げた。
アザエルの手が、腹部に押し当てられていた。指の間に、小さく輝く魔法陣が回転していた。自分の肉を、喰っている。
「ど……して……」
呻き声が漏れた。
後ろによろめいた。抱擁が解けた。手を傷口に当てた。離した時――指先にまとわりつく赤は、私自身の命そのものだった。
血だった。
大量の血が、水色のドレスの生地に落ちていく。暗い赤が、布を汚していく。
アザエルは上から私を見ていた。
笑みは、まだそこにあった。変わらずに、穏やかに。
「君こそが変身装置の"燃料"なのだよ、春花さん」
「えっ……」
……心臓が胸を突き破りそうに暴れた。
「君の魂、魔力、意志……すべてが変身装置に捧げられる。君の存在が、この計画の最終形態なのだよ」
――頭が、拒否した。
空気が肺に入らない。視界の端が、霞み始めた。
必死に、ファウスティーヌを探した。
いた。アザエルの後ろに立っていた。
「ファウスティーヌ……助けて……助けてください……」
声は震え、言葉にならないほど掠れていた。
震える手を伸ばした。
ファウスティーヌは、動かなかった。
一歩も。
ただそこに立って、眉をひそめた、冷たい目で――私を見ていた。
……どうして動かないのか?
なぜ、そんな目をしているのか?
私を見捨てるはずがない。ずっと支えてくれたのに。
……本当に、私を選んで裏切ったの?
「春花……ごめんなさい」
彼女の声は遠かった。
「でもこれが、正しい道なのよ」
膝が折れた。体が傾いた。床が、硬く冷たく、冷たい床の感触が、最後の現実として頬に突き刺さった。
頭上でアザエルの声が響いた。けれど、その意味はもう霧の中に溶けていった。
「……ファウスティーヌさんを責めないでほしいのだよ。彼女は、ずっと前から知っていた。君を選んだのは、彼女なのだよ」
聞こえなくなった。
声が全部、自分の心臓の音に飲み込まれた。一回一回、遅くなっていく。
エレノア……
彼女の顔が、鮮明に浮かんだ。鮮烈なほどに。
彼女の笑顔を思い出すだけで、胸が痛みよりも強く震えた。
腹部の傷よりも深く、魂を締め付けるような悲しみが押し寄せた。
死にたくない……
喉に、塊が詰まった。
死にたくない――!
……耳鳴りが広がり、世界の音が遠ざかっていく。
指先が冷たく、もう自分のものではないように感じた。
ようやく、人の温もりというものを知り始めたばかりだった。自分の好みを発見し始めて、誰かと過ごすことを望み始めて、いろんな食べ物を試したいと思って、初めて自分の時間を楽しいと感じ始めて――
こんな生き方もあったのだと、生まれて初めて、わかり始めたばかりだった。
痛みは止まらない。血が体の熱を奪っていく。助かる方法はないとわかっていた。魔術師として、自分の傷の深さが何を意味するかはわかっていた。
でもエレノアの顔が、消えない。
見たい……
お願いだから……神様がいるなら……最後にもう一度だけ、会わせてください……
涙が出ていた。冷たい汗と混ざって、頬を伝っていく。
エレノアに会いたい……
会わないまま死ねない。
もし神というものが本当に存在して、私に悪いことへの償いを求めるなら――します。します、だから。
人を数式として見ていた。道具として扱っていた。感情を持つ存在だとわかっていながら、効率のために切り捨てていた。
でも、変わった。それを教えてくれたのは彼女だった。
……会いたい。声を聞きたい。触れたい。せめて最後に、名前を呼びたい。
だから――お願いします。お願いです。どうか、もう一度だけ――
――ドォン
遠くで、何かが炸裂した。
床が揺れた。
頭を持ち上げることができなかった。まぶたが鉛のように重かった。
でも、霞んだ視界の端に――影が見えた。
黒い髪の、男の子。
叫びながら、目を血走らせながら、アザエルに向かって術式を叩きつけていた。
知っている顔だったかもしれない。でも思い出せなかった。記憶が水のように指の間から落ちていく。
思い出そうとするほど、頭の奥が空白に沈んでいった。
そして――その後ろに。
心臓が、最後の力で跳ね上がった。
涙が、熱く溢れた。
エレノア……
本当に来た……。いる……ここに、いる……!
黒髪の男の子はアザエルへと走っていった。エレノアは――私の傍に、膝をついた。震える手が、私の手を探した。
彼女の顔は、ぐしゃぐしゃだった。涙に濡れていた。こんな顔、見たことがなかった。
「春花! 頑張って、お願い!」
叫んでいた。
でも――傷口を見た瞬間。
彼女の目の光が、落ちた。
魔術師として、わかってしまったのだろう。この傷は、どんな魔術でも塞ぐことができないと。
「大丈夫……私がいるから」
それでも彼女は言った。私の手を、強く握りながら。
……やっと。
やっと、手を繋げた。
ずっと望んでいた通りに。
笑いたかった。でも、顔の筋肉が動かなかった。ただ、見ることしかできなかった。
「目を閉じないで! お願い、春花、目を閉じないで!」
エレノア、私に無理なことを頼まないで――
「春花を失いたくない!」
エレノアが叫んだ。
「遅くなってごめんなさい! ごめんなさい!」
遅くても、来てくれた。
それだけで十分だった。
遅くてもいい。来てくれたことだけが、全部だった。見ることができた。
ただ……
……最後に見る顔が、こんなに苦しそうなのは耐えられなかった。
笑っていてほしかった。幸せそうでいてほしかった。
初めて笑いかけてくれた日のことが、胸に蘇った。
あなたの傍にいて、あなたを理解して、あなたのことをもっと好きになって――あなたに笑いかけたかった。
でも、もうできない……
「私のせいよ!」
エレノアは顔を伏せた。髪が落ちて、私の胸に触れた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
泣かないでほしい……
心の中だけで言えた。
声は出なかった。
深い、深い悲しみが来た。痛みとは別の、もっと根本的な場所からの悲しみ。
伝えたい言葉があった。
全部、伝えたかった。
あなたと未来を作りたかった。
あなたに――愛していると、言いたかった。
なぜ。
なぜ、やっと平和が見えてきたこの瞬間に。
なぜ、こんな終わり方をするのか。
エレノアの泣き声が、遠ざかっていく。
残っている時間が、あとわずかだとわかった。
絞り出せるだけの力を集めた。
震える指先を動かして――彼女の頬に触れた。
顔を上げてもらった。
目が、合った。
彼女の唇が震えていた。
口を開いた。声は出なかった。でも、最後の息で言葉の形を作った。
届いたかどうか、わからない。
でも――精一杯、笑みを作った。
エレノアが、また泣き崩れた。私の動かなくなった手を、自分の濡れた頬に当てながら。
まぶたが落ちた。
エレノアの声が、遠くなった。
もっと遠く。もっと遠く。
黒い中に沈んでいく。
暗闇の中で、光を探すように――ただ一つ、彼女の名を心で呼び続けた。
その暗闇の中で――かつてある老いた神父が言っていた言葉を思い出した。
神というものが、本当に存在するなら。
最後の、一つだけ、ずうずうしいお願いがある。
生まれ変わることができるなら――
どうか、もう一度、エレノアに会いたい。
――怒りは、
新たな力を生み出す。
けれど、
その感情さえも、
誰かに呼ばれたものだったとしたら。
敵だった男が語る、
最後の真実。
そして、
すべてを見つめる、
顔のない存在。
次回――
選択
少年は、
自らの未来を選ぶ。




