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探し人の声と届かぬ想い

誰かを救いたいという想いは、


時に、


自分でも知らなかった感情を


暴き出す。


扉の向こうにいたのは、


待ち望んでいた人ではなく――


すべてを知る者だった。

マーカスとヴィクターの一歩後ろを歩いていた。


屋敷の壁から滲み出る冷気が、じわじわと皮膚の奥まで入り込んでくる。目的ははっきりしていた――各一族の後継者たちを救い出すこと。


くだらない術式だ。ふざけてる。部屋も廊下も、勝手に歪んで、僕たちを笑ってるみたいだ。進めば進むほど、出口なんてない。


進めば進むほど、意味のない迷路が広がる。先が見えない。出口がわからない。そんな場所を、僕たちは黙って歩き続けていた。


せめてマーカスがいてよかった、と思う。奴には魔力の気配を探知する能力がある。その力がなければ、とっくに堂々巡りの廊下の中に溶けていただろう。でも僕は……僕には何もない。


決意はある……そう思いたいだけだ。胸を張ってここに来た。でも現実は、拳で何度も殴ってくる。僕には何もない。武器も、力も、誇りも。


グレインに会ったら……どうする?この杖一本で勝てるわけない。笑われるだけだ。僕自身が、笑いものだ。


自分の手を見た。震えていた。


見なくても、わかっていた。


「――止まれ」


マーカスが無言のまま手で合図した。振り返ったその顔には、見たことのないほど深い憂慮の色が刻まれていた。眉根が寄って、視線が宙の一点に固定されている。何かを、壁の向こうに見ているような目。


「……なんで止まるんだ?」


できるだけ平静を装ってそう言ったけど、声が手と同じように震えているのが自分でもよくわかった。


「新しい気配を感知した」


マーカスは視線を動かさないまま言った。


「ここに、別の存在がいる」


「誰だ?」


「わからねぇ。でも確実に動いてる……ケイルのいる方向に向かいながら」


胃の底が、重くなった。


僕たちとは無関係の、別の誰か。この屋敷の中に。


マーカスはしばらく黙ったまま、口の中で何かを呟いていた。独り言のように、でも計算しているように。


「……もしかしたら、僕たちが入ってきた扉を開けたのも、その存在かもしれねぇな」


「今それを考えても意味ないさ」


言葉が、焦りに押し出されるように口をついて出た。マーカスが振り返る。


「進むべきだろ。今は」


奴は少し間を置いて、顎を引き締めながら頷いた。


「……急ぐぞ。周囲を分析し続けてるが、魔術的な罠は一切ない」


そしてヴィクターの方を横目で一瞥。


「走る」


ヴィクターが重い息を一つ落とした。言葉はなかった。


マーカスが地面を蹴った。


僕もすぐ後に続いた。足を無理やり動かして、廊下を駆けた。


背後で、ヴィクターの足音が遠ざかっていくのを聞いた。背後でヴィクターの息が荒くなるのが聞こえた。


「!?もうそんなに速くか!?」


叫んだのは半分本音だ。信じられない速さで、ヴィクターが後方に溶けていく。前を見れば、マーカスはどんどん距離を離している。先頭が消えそうで、後ろが消えそうで、中間にいる僕は、どちらの背中も追いかけながら――それでも、ふと薄暗がりの先に、何かを見た。


マーカスは気づかなかった。


足が止まった。完全に、意志とは関係なく。マーカスは気づかないまま角を曲がって視界から消えた。ヴィクターが荒い息を吐きながら脇を通り過ぎた。こちらを見向きもせず、そのまま走り続けた。


高い。動いていない。ただそこに立っているだけなのに――


脈が、一瞬停止した。


グレインだ。


距離があっても、わかった。見間違えるはずがない。


足が、地面に縫い付けられたみたいに動かなくなった。


……何が起きている?なぜマーカスはグレインを感知しなかった?なぜヴィクターは僕が止まったことすら気づかなかった?


理解が追いつかないまま、怒りと恐怖が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。


「――お前、何をしている!?何をした!?!」


全力で怒鳴った。


でも、グレインは答えない。何も言わない。まるで石のように、そこにいるだけで。


そして次の瞬間――足元に、光が広がった。


魔法陣だ。鮮やかに輝く円形のそれが、地面に焼き付いて僕の両足を絡め取る。引っ張っても、動かない。蹴っても、びくともしない。完全に固定されていた。


「!?何をする!?」


――僕の声なんて届かない。まるで存在すら認められていないみたいだ。


奴は、ただ一つの動作だけをした。人差し指を、ゆっくりと天へ突き立てた。まるで何かを告げる儀式のように


……上?


意味がわからない。何を指している?何を伝えたい?


理解する間もなく――


世界が、切り替わった。視界が裂け、足元の現実が崩れ落ちた。僕はただ、落ちていく。


……


……


……気づいたとき、別の場所にいた。


きょろきょろと周囲を確認する。まったく見覚えのない廊下。屋敷の全然別の区画だ。グレインが、転移させた。


なぜ?何のために?


苛立ちと疑問が頭の中を埋め尽くす中、左手の壁の向こうから声が聞こえた。


誰かが、話している。


慎重に、足音を消しながら近づいた。壁に背中を当てて、わずかに顔だけをのぞかせる。


そして、息をのんだ。


向こうに立っていたのは、魔法使いのケイルだった。そして彼の前には……六人の後継者たちが並んでいた。楓が言っていた通り、全員が催眠術にかかっている。瞳に何も宿っていない。虚ろな人形みたいに立ち尽くしているだけだ。


ただ、一点だけ、どうしても引っかかった。


六人の中に、一人だけ様子がおかしい女の子がいた。


服装が異常だ。舞台衣装か?見世物か?いや、ただの悪趣味だ。


――ふざけてるのか。後継者を人形みたいに並べて、しかも一人にはあんな格好をさせて……。怒りよりも、吐き気がした。


ケイルはそういう趣味の持ち主なのか……?なぜ後継者の一人にあんな服を着せている……?


この世界のことがまだよくわかっていない。一族の長たちのことは知っていても、後継者の顔と名前まではわからない。当然、あの子が誰かも知らない。だから余計に、胸が締め付けられた。


ケイルが声を上げた。手には何も持っていないのに、指先を耳元に当てている。


魔法の通信装置か?それとも術式?


どちらにせよ――聞き逃すわけにはいかない。


「すべての準備は整っている」


ケイルは言った。


「あとは少し待つだけだ」


……何の準備だ?


「地下に降りる前に、乗り込んでくる魔術師とハンターたちを片付ける」


――地下……そこに本当の地獄があるってことか。降りなきゃ。でも、僕一人で?


ケイル。この上階を守る役割を持っている。そして「地下」。ここより下に、別の階層がある。おそらくそこに、ケイルの仲間がいる。


……降りなければ。


踵を返そうとした、その瞬間。


「――春花は」


――その名前が出た瞬間、心臓が跳ねた。耳が勝手に熱くなる。聞き逃すわけにはいかない。


壁に張り付いたまま、耳だけを研ぎ澄ませた。


「春花はすでに地下にいる。変身魔術装置の準備が整い次第、プロセスを始める」


……春花。


その名前だけで、頭が真っ白になる。ここにいる。危険の中に。僕は何をしている?


春花が、ここにいる。


喉が、乾いた。胸の奥に何かが詰まって、呼吸がうまくいかない。


何のことかはわからない。でも、確実に春花のことを言っている。そして、ただでさえ怖かった状況が、もう一段階、冷たく重くなった。


「な……!?」


ケイルが突然怒鳴った。間があって、苛立ちを隠しもせず続ける。


「春花が友人に会わせろと言い続けている?……レオが対処するはずだったが」


レオ。


レオの名前を聞いた瞬間、背中に氷を押し当てられたみたいだった。状況の全体像はまだわからない。でも、春花が確実に危険な状況にいることだけは理解できた。


「今すぐ春花の友人を連れてこい」


ケイルは命令を下して、通信を切った。それから後継者たちの方を向いて言った。


「奥の部屋に行け」


六人が、操り人形のように歩き始めた。後ろの扉へ向かって。


視線がその扉に吸い寄せられた。


……あそこが、地下への入口だ。証拠はない。でも、そんな気がした。


ケイルは反対方向へ歩いていく。窓の外を眺めながら、お茶が飲みたいとか何とか、のんびりとした独り言を呟いている。


今しかない。


ドアノブに手をかけた。指の力を最小限に絞って、ゆっくりと、ゆっくりと回す。


音はしなかった。


するりと滑り込み、静かに扉を閉めた。


振り返った先には、催眠状態の後継者たちが、彫刻みたいに立ち尽くしていた。誰一人動かない。あの哀れな服を着たあの子のことが、どうしても目に入ってしまう。心の底からケイルに怒りを覚えた。


怒りというより、吐き気だ。人間を人形にして、しかも悪趣味な服まで着せて……。笑ってるのはケイルだけだ。


……本当に、ケイルという奴は。


外からケイルの声が聞こえた。リディアと呼ぶ誰かに、紅茶を持ってくるよう言っている。


そして、あの服の子がふらりと歩き始め、部屋を出ていった。


呪ってやりたい気持ちを飲み込んで、部屋の奥を確認した。


エレベーターがあった。


やっぱりそうだ。


ボタンを押すと、扉が開いた。乗り込み、一番下を選んだ。


恐怖が、波のように押し寄せてくる。完全に一人だ。敵の領域の中に、丸腰同然で飛び込んでいる。使える武器はヴィクターから借りたこの杖一本だけ。それでも動くしかない。春花がここにいる。


……こんな状況でエレベーターに乗ってる僕、まるで遊園地の客だな。


エレベーターが止まった。


扉が開いた。


蛍光灯の白い光が、冷たい廊下を照らし出していた。一歩踏み出して、左右を確認する。ヴィクターからもらった杖を前に向けた。


どこへ向かえばいい?わからない。でも、春花はどこかにいる。


そう思った瞬間、自然と足が前に進んでいた。


歩きながら、春花のことを考えた。


いつも、春花のことは「完璧な人」だと思っていた。完璧だと思っていた。でも、それは僕が勝手に作り上げた像かもしれない。僕のことを理解してくれる。僕が何を目指しているのか、ちゃんと見てくれる。魔法の召喚式について話したとき、春花は本当に聞いてくれた。笑ったり、流したりしない。それだけで、十分すぎるほどの理由になる。常に正確で、美しくて、それでいて揺るぎない。そういう人間に、僕はなりたかった。あの人を見ていると、自分が目指すべき場所が見えた気がした。


だから彼女は大切なんだ。


そして今、ここに春花がいるとわかった瞬間、別の理由が一つ加わった。


グレインと向き合うためだけじゃない。


春花を、見つけなければ。


彼女を見つける。それが僕の戦いの理由だ。


――マーカスに言われた言葉が、頭の中でまた鳴り響く。


『お前が描いてるのは愛じゃない、 最悪な意味での執着だ』


……ふざけるな。


杖を握る手に、力が入った。


何もわかっていないくせに。勝手なことを。


この感情が執着なら、本物の愛ってなんだ?証明してやる。絶対に。春花を見つけて、助けて、そしてちゃんと伝える。今まで言えなかった言葉を。「愛している」と。


お前が間違っていると、マーカスに証明してやる。


以前は、春花の隣に立つ資格が自分にはないと思っていた。でもマーカスのあの言葉が、奇妙な形で僕を変えた。傷ついた。深く。だからこそ、やり方を変えようとした。


今ここで、それを示す。


「……?」


扉が一つ、半開きになっていた。


中に入り、目が暗闇に慣れてくると――人影があった。


心臓が跳ね上がって、咄嗟に後退した。


でも、動かない。


恐る恐る目を凝らす。廊下の光を頼りに、輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。


……女性だ。大きな魔女帽子、暗い紫のドレス、鍵を吊るしたネックレス。直立不動で、視線を床に落としたまま、まるで死体を無理やり立たせたみたいに、動かない。


「……大丈夫か?お前、誰だ」


返事はなかった。


近づいた。数歩。声をかけた。それでも反応はない。


止まった。何者かはわからない。でも、この様子は……


……魔法使いか?


手を伸ばし、肩に触れた。


――その瞬間、彼女が顔を上げた。


虚ろな目が、真っすぐに向いてきた。


「……貴方が、私のご主人様ですか?」


……え。


頭が、一瞬、真っ白になった。


気づいたときには、後ずさりしていた。


「い……今……何て言った?」


声が裏返った。


「貴方が私のご主人様ですか?」


同じ声音で、同じ言葉が繰り返された。


幻聴じゃなかった。


この女性は確かに「ご主人様」と言っている。こちらを見ながら、微動だにしないまま。


――僕が“ご主人様”?冗談だろ。こんな状況で、そんな肩書きが欲しい奴がいるか。


……ため息を、飲み込んだ。


いや。頭を働かせろ。この状態を引き起こしたのは間違いなくケイルだ。後継者たちのあの状態を見た後では、それ以外に考えられない。それにしても、魔法使いが同じ魔法使いにこんな術式をかけられるものなのか……あいつらは人間よりも上位の存在だと思っていたのに、そんな幻想は綺麗さっぱり消えた。


「名前は?」と聞いた。


「セレスティア・ヴェイン」と答えた。


「ここで何があった?なぜこんな状態に?」


今度は、黙った。……それは答えられないらしい。暗示が始まった時点の記憶は、引き出せないのかもしれない。


別の角度で聞いた。


「……じゃあ、催眠される前に最後にしたことは?」


「ケイル、セレネ、ミレイアを止めに来た。前例のないことを企てているから」


「それはどんなことだ?」


「魔術装置を使って、何かを作り出そうとしている。何を作るかは分からないけど、魔術師の世界だけでなく、人間の世界にも影響を与えるものだと思う」


……それを聞いて、春花のことが頭を過った。「魔術装置」という言葉が、もう一度浮かんだ。


「お前はあの三人とは別の立場なのか?」


「……ずっと、仲間に入れてほしかった」


セレスティアの声に、ほんの一瞬だけ、何か翳るものがあった。


「でも、あの人たちはいつも私を遠ざける……」


胸に、妙な感覚が走った。


ケイルたちは、接触しようとした女性をこんな状態にした。ただ近づこうとしただけで。それが……どこか他人事に思えない。


追い払われることの、その感覚を、僕は知っている。仲間に入れてほしいのに、拒まれる。僕も同じだ。何度も、何度も。だからこそ、この子の言葉が胸に刺さる。


胸が痛む。でも今は立ち止まれない。感傷は後だ。今は、進むしかない。


でも、催眠状態の人間の覚まし方なんて知るわけがない。


肩を掴み、強く揺さぶった。


「起きろ!目を覚ませ!」


――肩を揺さぶったら、首がガクガクと人形みたいに揺れるだけ。余計に怖い。


変化なし。


冷静に考えた。どうすれば。


……ため息をついた。これしか思いつかない。しかも、やりたくない。


「ごめん」と言い、平手打ちをした。


何も変わらなかった。


自己嫌悪が、一瞬で頭を満たした。何もしていない人に手を上げるなんて。しかもまったく効果がない。自分が最悪に思えた。


何か方法が。


「……」


肩を掴んで揺さぶっても反応なし。平手打ちもダメ。

――なら、魔力を直接流し込めばいいんじゃないか。


杖を構え、先端に魔力を集中させた。


「目を覚ませ!」


叫びながら、彼女の顔に杖を押しつける。


……結果。


ただの棒で顔をゴリゴリ擦っているだけだった。


クリスタルの先端が何度も口元に当たり、唇をかすめる。


――ぬるり。


見下ろすと、杖の先が彼女の唾液で濡れていた。


「……うわ」


思わず杖を引っ込めた。


――僕、何やってんだ。魔術師の杖を、女の子の顔に擦りつけて、唾でベタベタにして……。


完全にバカだ。いや、バカ以上だ。


ふと、馬鹿げた考えが浮かんだ。


童話みたいに、キスをしたら……?


――唇を見た瞬間、頭の中で童話の王子様がよぎった。でも現実は僕だ。しかも相手は虚ろな目の魔女。


すぐに消した。アホか。それは呪いの眠りにかかった相手に、愛する人間が、という話だ。催眠術にかかった初対面の人間に応用できるわけがない。却下。即座に却下。


……額に指を当てた。深呼吸した。


「目覚めろ!」


指を押しつけながら、全力で叫んだら、逆に自分の声が反響して耳が痛い。沈黙どころか、僕がダメージを受けた。


……沈黙。


何かあるはずだ。どこかで見た、ああ……


ひよりのことを思い出した。あの日、ひよりの母が……


――って、待って。


それって、さっきと同じことじゃないか。


却下だ。絶対却下だ。


セレスティアは相変わらず虚ろな目でこちらを見ていた。


もう打つ手がない。でも、ここに放置するのは論外だ。


「お前の主人は誰だ?」と聞いた。


「貴方です」


即答だった。揺るぎのない声で、少しだけ頭を下げながら。そのあまりの洗練された仕草に、一瞬言葉を失った。


「……本当に僕の言うことを聞くのか?」


試しに、口が勝手に動いた。


「じゃあ……僕に頭を下げてみろ」


セレスティアは一瞬も迷わず、すっと首を垂れた。

その仕草は妙に優雅で、まるで儀式のようだった。


「……おい、マジか」


思わず後ずさった。


胸の奥が冷たくなる。


――僕、何やってんだ。こんな状況で、女の子に頭を下げさせて……。


ただの確認のつもりだった。でも、現実に目の前で従われると、笑えない。


「やめろ。そんなことはしなくていい」


慌てて言葉を重ねた。


セレスティアは顔を上げ、虚ろな瞳でこちらを見つめる。

その視線に、自分の愚かさが突き刺さった。


――最悪だ。いや、最悪以上だ。僕が“ご主人様”なんて肩書きを背負う日が来るとはな。


ただ、彼女を助けたいだけなのに。


……こういうことか、ね。


全身を、気持ちの悪い感覚が走った。でも現実として受け入れるしかない。


こうなったらもう、連れていくしかない。暗示の状態でも、少なくとも僕の言うことは聞く。それなら動かせる。彼女をここに置いていくのは、もっと最悪だ。


それに、もう一度よく考えた――ここは敵地だ。セレスティアは魔法使いとして、確実に戦力になる。危険に晒してしまうのは申し訳ないが、彼女が傍にいれば最低限の安全は確保できる。


彼女をここに放置することに、罪悪感を感じているのも確かだ。


……最悪だ。本当に最悪の状況だ。でも、選択肢がない。


苦渋の決断だった。これは仮の話だ。春花を見つけるまでの、あくまで仮の。後で考える。今は動くしかない。


廊下に出ようとした時、遠くから足音が聞こえた。


「ついてこい」


と小声で言うと、セレスティアはすぐに動いた。


廊下の奥に、二つの人影が見えた。別の方向へ歩いている。そっと追いかけ、角から覗いた。


二人の女魔法使いだ。しばらく追いかけて、二人は廊下の突き当たりに立ち止まって。


セレスティアを振り返り、小声で聞いた。


「あそこにいる二人、誰だかわかるか?」


セレスティアがちらりと覗き、すぐに引いた。


「優雅なドレスがセレネ・ヴァールコル。暗い服がミレイア・ノクティスです」


……ケイルの仲間たちだ。


二人は廊下の突き当たりに立ち止まって、一枚の扉を見つめていた。何か術式を展開しているらしい。


「あの二人は今、何をしている?」


「扉の向こうを観察するための術式を展開しています。中で何かが起きていて、それを監視している」


「お前も同じようなことができるか?」


「できます。ただし直接ではなく、人間の言う"ハッキング"に近い手法になります」


――ハッキング?僕は魔法使いの世界に来たはずなのに、結局パソコン用語かよ。


「彼女たちに気づかれるか?」


「理論上、問題ありません」


「やれ。でも、あまり音を立てるな」


セレスティアが手を動かすと、空中に術式の円が浮かんだ。指先だけで淀みなく描いていく。それが消えた直後、半透明のスクリーンが現れた。


映像が、流れ始めた。


目を見開いた。


そこには、激しい戦闘が映っていた。一人の女性が――レオ・アシュフォードと戦っていた。誰だあの女性は。なぜレオと戦っている?何も理解できない。


――レオが戦ってる?意味がわからない。僕の頭だけが置いてけぼりだ。


理解が追いつく前に、映像が消えた。


「通信を遮断しました。感知されかけていました」


「隠れるぞ!」


咄嗟に辺りを見回した。この廊下、隠れられる場所が何もない。詰んだかと思った瞬間、セレスティアが腕を掴んだ。


腕を掴まれた瞬間、まるで荷物みたいに引きずり込まれた。僕の尊厳?そんなものは扉の外に置いてきた。


近くの扉が、一瞬で術式によって開かれた。引き込まれ、扉が閉まる。廊下を走る足音が外を通り過ぎていった。


……助かった。


しかし、今の状況を整理するのは後でいい。なぜなら……


部屋に入った瞬間から、セレスティアは僕を抱き締めたままだった。


全身で。


体温が、布越しに伝わってくる。


「お前……なぜこんなに……」


「ご主人様の気配を隠すためです」


と耳元に声が落ちた。


「離れると感知される可能性があります」


……わかった。わかった、さ。


だが外から声が聞こえた。


「誰もいないわね」


ぎりぎりだった。本当にぎりぎりで助かった。


「ご主人様、ご無事ですか?」


と耳元で囁かれた。


「……大丈夫だ、離れ——」


「もしそれを放すと、私たちは感知されます。もう少しだけ」


選択肢がなかった。文字通り、選択肢がなかった。


時間が経つほど、彼女の存在が鮮明になっていく。


その圧力が胸に広がっていく。柔らかい感触が、僕の胸板に押しつけられている。呼吸をするたびに、わずかに形が変わるのがわかる。


肩越しに、髪が頬に触れた。さらりとした感触が、妙に鮮明に伝わってくる。鼻先に、微かな香りが漂った。甘いわけでも、強いわけでもない。ただ、確かに「誰かの匂い」だった。


背中に回された腕は、思った以上に強く、逃げ場を与えない。指先が布越しに食い込んで、支えているのか、縛っているのか分からない。


太腿がかすかに触れた。立ち位置のせいだろう。けれど、その接触がやけに意識に残った。普段なら気にもしないはずなのに、今は全てが異様に鮮明だ。


――こんなにも、体って他人を感じるものなのか。


体温の次に気づいたのは、規則正しい音だった。胸から胸へ、確かに響いてくる。


……魔法使いにも、鼓動があるのか。


馬鹿みたいな思考だとわかっていた。心臓があるに決まっている。ただ、こんなにはっきりと聞こえると、なぜか妙な感じがした。


……こんな抱擁、いつ以来だろう。思い出そうとした瞬間、記憶が勝手に家族へと引き戻した。


母親には抱かれた。でも、いつも義務のような冷たさがあった。感じていた、少なくとも僕は。


父さんは違った。父さんはいつも、帰ってきた時に抱きしめてくれた。大きくて、温かかった。安心した。次の日の朝、何をすべきかが見えた気がした。寝る前に、決まって声をかけてくれた。「大丈夫だ」と言ってくれた。


気がついたら、涙が頬を伝っていた。


……何をしているんだ、僕は。


セレスティアは何も言わなかった。泣いているのに気づいているのか、気づいていないのかもわからなかった。ただ、抱き締めたまま動かなかった。


気がついたら、こちらも腕を回していた。


本当に、最高に馬鹿みたいだ。敵地のど真ん中で、さっき会ったばかりの人間に抱きついて、死んだ父さんのことを思い出して泣いている。この状況を説明できる言葉が見つからない。でも、体が勝手に、あの感覚を求めていた。


……この距離で抱かれていると、彼女のことを何も知らないのが急に不安になった。


「……家族はいるか、セレスティア」


と、絞り出すように聞いた。


「父と母がいます」


「……恋人は?」


「いません」


「なぜ」


「研究に集中してきたため、そのような時間を作ろうとしてきませんでした」


……なるほど。なんとなく、わかる気がする。


「年は?」


「三十です」


「……三十!?」


思わず声が出た。外に聞こえていないか焦った。


「……若く見える、さ」


「マジクス純粋と人間では、老い方が違います」


「寿命は?」


「マジクス純粋は百二十年以上生きることができます」


……百二十年。


途方もない話だが、これが僕の知らなかった世界だ。マジクス純粋については、まだほとんど何も知らない。知るべきことが多すぎる。


「お前たちの世界は、ここと比べてどんな場所だ」


「似ていますが、高層建築物はありません。自然が広がっていますが、魔法生物が各地に生息しています」


地球に似た世界に、魔法の獣が跋扈する。想像しようとしたが、頭の中で上手く像を結ばなかった。


……正直、限界だった。抱き締められたままの姿勢は、息苦しくて、腕の位置も妙に落ち着かない。


「……そろそろ動けるか」


「まだ扉の外に気配があります」


「……どうしてわかる?」


「魔力の気配を探知できます」


「……僕の知り合いにも、そういう奴がいる」


マーカスを思いながら、心の中で言った。彼女には関係のない話だったが。


体が限界に近かった。姿勢を変えてほしくて呟いたら、セレスティアがすっと動いた。流れるような動作で、そのまま床に身を預けた。気づいたとき、僕は彼女の上に倒れ込んでいた。


顔に血が集まった。全部。


完全に彼女を寝台にしていた。腕の中に完全に収まっていた。セレスティアの顔が、目の前にある。視界が真っ赤になりそうだった。


……やばい。ここまで密着すると、男として反応するなって方が無理だ。敵地で何をしてるんだ僕は。


「!?ほ、ほかの体勢はないのか!?それか立ったままじゃダメか!?」


セレスティアはわずかに周囲を確認してから、一つの動きでスッと立ち上がった。僕を抱えたまま、壁に背中を預けた。


「――これでいいですか、ご主人様」


と、まっすぐ目を見ながら聞いた。


その瞳は空虚なのに、どこか本当のことを聞いているみたいな雰囲気があった。


「……あ、ああ、これで」


と言って、視線を逸らした。


……助かった。いや、助かってない。心臓はまだ暴走してる。


セレスティアがふっと顔を上げた。


「動き始めました」


「もう出れるか?」


「はい」


ようやく解放された。息が、まともにできる気がした。


廊下に滑り出て、角から覗いた。セレネとミレイアが遠ざかっていく。


でも、もう一人。


扉から、さっき映像で見た女性が出てきた。


こちらを向こうとしている――。


瞬時に壁に張り付いた。心臓が耳の中で鳴っている。


見られたか?見られていないか?


数秒後、そっと顔を出した。


女性は、二人の後を追って歩き始めていた。脇に何かが浮いている。でも今は気にしない。


セレスティアに振り返り、声を落として言った。


「追う。カバーしろ」


「承知しました」


セレスティアが辺りを見回した。何かを確かめるような仕草。無視して振り返り、踏み出そうとした瞬間。


視界が、真っ暗になった。


……えっ?


何かが、頭を包んでいる。


恐る恐る振り返ると。


…………。


振り向いたとき、目の前に紫の下着と太ももが見えた。


紫の布地が視界を埋め尽くした。太ももの白さが近すぎて、呼吸が止まった。頭が真っ白になり、心臓だけが暴走していた。


顔に、スカートが当たっていた。


……これはもう限界だ。男として、これ以上は耐えられない。敵地で死ぬ前に、別の意味で死ぬ。


そのまま。何も言えないまま後ろに倒れた。


「な、何!?」


「ご主人様はカバーするようお申し付けでした。手近なものが私の衣服でしたので」


「……」


壁を見つめた。しばらく視線を向けられなかった。


手の甲を鼻に当てると、確かに湿っていた。


落ち着け。落ち着け、さ……。


立ち上がり。


「……シルエットは消しておけ。ついてこい」


と絞り出した。


極限まで慎重に三人の後を追った。足音を消し、息を殺して。


……さっきまでの混乱を振り払うように、呼吸を整えた。今は敵地だ。余計な感情は切り捨てろ。


三人が話し合っている内容は、距離があって聞き取れなかった。でも、確かにあの女性の声の中に「春花」という言葉が混じった。


その名前が聞こえた瞬間、足が止まった。


やはりついてきて正解だった。


何度かの角を経て、三人が立ち止まった。前方には、巨大な金属の扉があった。


何かについて、議論しているらしい。


と思ったら、セレネが動き始めた。こちらへ向かって戻ってくる!


「隠れるぞ!!」


廊下を見渡した。扉がない。壁しかない。


セレスティアが即座に手を上げ、見覚えのある輝く粒子が二人を包んだ。近づいてきたセレスティアが腕を引き、体に引き寄せた。


セレスティアが腕を引き寄せた瞬間、粒子の膜が肌を撫でた。冷たいのに安心する、不思議な感覚だった。


「声を出さないでください、ご主人様」


目の前を、セレネとミレイアが走り抜けた。


素通りだった。完全に、感知されていなかった。


……なるほど。


「……なあ、さっきからずっと思ってたんだが」


と言いながら、怒りが滲み出てきた。


「なんでさっきからこれを使わなかった」


「このカムフラージュは効果が短時間で、魔力の痕跡は隠せません。ただし私の特殊な衣服と組み合わせることで、魔力感知からも遮蔽できます。先ほどは近距離対応の組み合わせが最適でした」


……いや、今さら便利機能を出すなよ。心臓が何回止まりかけたと思ってるんだ。


僕の体が透明から戻っていくのを眺めながら、少しだけ納得した。……まあ、いい。


「……まあ、わかった」


前方を見た。あの女性だけが、金属扉の前に残っていた。


これが機会だ。敵か、味方か、確かめる。


「――あの女の後を追う。何かあれば攻撃しろ」


「承知しました」


走った。角を曲がった。


女性は、すでにこちらを向いていた。杖を真っすぐに突きつけ、鋭い目でこちらを見ていた。


「動かないで!」


すぐに両手を上げた。


敵意を見せないためだ。攻撃するつもりはないが、どこまで信用できるかもわからない。様子を見る。


「ま、待ってくれ! 危害を加えるつもりはない! 春花を助けに来たんだ!」


……必死だった。声が震えていた。信じてもらえるかどうか、それだけに賭けていた。


名前を出した瞬間、女性の表情がかすかに変わった。


でもすぐに視線がこちらを通り過ぎ、背後のセレスティアへ向いた。


「……!」


目が、大きく開かれた。


「その子に……何をしたの!?あなたが、セレスティアにこんなことをしたの!?」


知り合いか。


「違う! 本当に違うんだ! 見つけた時にはもうこうなっていた!」


女性は眉をひそめたが、その横で何かが喋った。


小さい声。人形みたいな何かが、浮いている。


「立ち止まって、エレノア。その子敵意はないわよ」


「……リリウム?」


人形が……喋っている。


小さな声。人形の口が動いた瞬間、背筋が冷えた。……人形が喋る?この世界では当然なのかもしれないが、僕には異様すぎた。


「彼は敵ではないわ」とリリウムは言った。


……見抜かれた。様子を伺っている段階だったのに、一瞬で判断された。


女性が杖を下ろした。


「近づいていいか?説明したい」と聞いた。


彼女は小さく頷いた。


頷いて、ゆっくり歩み寄った。長く息を吐いてから、名乗った。


彼女はエレノア・ウィンターフォールと名乗った。そして傍の人形はリリウム。


「なぜセレスティアがあなたのそばにいるの?」


エレノアの目が、鋭く問いかけてきた。


「ケイルのせいだろ、暗示の術を使う奴だ。後継者たちも同じ状態だった。セレスティアをそのまま置いていけなくて、連れてきた。それだけさ」


エレノアが腕を組んで、こちらをじっと見た。


「セレスティアの状態を利用しているんじゃないでしょうね?」


「っ!?してない!なんでそういう結論になる!?」


……図星を突かれたようで、心臓が跳ねた。違う、違うんだ。けれど、あの抱擁や接触を思い出すと、言い訳が苦しくなる。


「あなたくらいの年齢の男の子は、衝動に流される傾向があるから」


……怒りが頂点に達した。けれど同時に、彼女の言葉が怖かった。僕自身も、衝動に流されかけているのを知っていたから。


「他の連中と一緒にするな!僕の想いは春花への一点だ!」


エレノアが、一瞬だけ眉を上げた。それから、呆れたような困ったような顔になった。


「……はあ?春花はあなたみたいな子供には興味を示さないわよ。私の方がずっと——」


「今は興味がなくても、変えられる」


「夢を見ているの。私は春花の一番の友人よ。そして、あなたのことなんて一度も聞いたことがない」


その言葉が、胸の真ん中に突き刺さった。


一度、顔を背けた。


胸の奥が焼けるように痛んだ。呼吸が浅くなる。言葉が出ない。


……春花が、一度も。


エレノアの言葉は正しいのかもしれない。


「現実を見なさい。春花はそんなに単純な人じゃない。私は彼女のことを知っている。あなたが思っている以上に」


「……」


黙り込んでいたら、拳が、じわりと握られていた。


急にエレノアが息を吐いた。


「……ごめんなさい。言いすぎたわ」


意外すぎて、反応が遅れた。……謝るのか。敵意だけじゃない。彼女も同じくらい必死なんだ。


「春花のことになると、どうしても……今、すごく心配だから」


「……僕も心配してる、さ」


と絞り出した。


「最初に会った時、あの人は聞いてくれた。召喚の術式について話したら、ちゃんと理解してくれた。完璧だと思った。何でもできる人間だと。だから……そんな人になりたかった。隣に立てる人間に」


エレノアが、小さく笑った。


「……笑うな」


「ごめんなさい」


また謝った。


「でも、春花は全然完璧じゃないの。たくさん傷ついてきた。一人でできないことだって山ほどある。……最初に会った瞬間から思ったわ。この子は一人だ、って。だから傍にいたかった。そのうちに……彼女に引き寄せられていた。もっと知りたい、傍にいたい、そう思うようになっていた」


そこまで語ったエレノアの目に、僕には答えが見えた。


エレノアも、春花が好きなんだ。


同じ気持ちを持っている人間が、ここにいた。


……同じだ。僕と同じだ。だからこそ、余計に苦しい。


確信した。それ以上は何も言わなかった。


気まずさを断ち切るように、視線を金属の扉へ向けた。そこにしか、答えはない気がした。


「あの向こうに春花がいるのか?」


「ええ」


とエレノアは答えた。


「今すぐ開けるわ。でも、あなたがここまで来た経緯も聞きたかった」


「ハンターのマーカスと、少し変わったエンジニアのヴィクターと一緒に来た」


エレノアの目が、わずかに大きくなった。


「……その二人を知っているわ。こんな偶然があるの……?」


彼女は一つ息を吸った。


「では、外にはハンターや魔術師たちも待機しているということ?」


「来ているはずだ。上がどうなっているかは、今はわからないけど」


「ともかく、春花が最優先よ」


同意した。


エレノアが杖を構え、火のエイシが扉に直撃した。力が扉に吸い込まれていくようで、傷一つ残らなかった。爆音と煙。


だが、扉には傷一つない。


「……魔力が足りないかもしれない」


エレノアが顔をしかめた。


「じゃあ、僕が」


出た。ヴィクターから借りた杖に魔力を込め、知っている中で一番強い火のエイシを打った。炎は広がったが、表面を焦がすことすらできなかった。


……エレノアより、明らかに弱かった。


魔力が足りないと言った彼女の攻撃より、まだ弱い。


それが事実として、そこにあった。


リリウムが前に出た。


「私がやってみるわ」


「!?人形が魔法を使えるのか!?」


誰も答えなかった。リリウムは試した。魔力の波動は感じたのに、扉は沈黙したままだった。やっぱり何も起きなかった。


……誰にも開けられない。でも。


振り返り、セレスティアを見た。


「セレスティア。扉を壊せ」


セレスティアは迷わなかった。


一歩踏み出し、魔力を凝縮し、放った。


轟音と共に、金属の巨扉が内側へ崩れ落ちた。


……やっぱり彼女だけが異常だ。助かったはずなのに、背筋が冷えた。


煙が濃く、視界が奪われる。咳をこらえながら踏み込むと、影がゆっくりと浮かび上がった。


煙が薄れていく。


奥に、人影があった。


春花ではなかった。


眼鏡をかけた、背の高い男。魔法使いの雰囲気をまとい、こちらを見て、笑っていた。


エレノアの息が、詰まった。


「……アザエル……」


その名前を、知らなかった。でも、エレノアのその声の色だけで十分だった。


ここから先は、また別の戦いになる。

――ずっと、


会いたかった。


たった一人に、


会うためだけに。


少女は、


その場所へ向かった。


信じていたもの。


待ち望んでいた人。


そして、


未来そのものが――


崩れ落ちる。


次回――


届かなかった想い


これは、


ある少女の最後の願い。

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