愛は数式を超えて
守りたいものがあるから、
人は、
傷つくことを恐れながらも、
前へ進む。
たとえ、
その先に待つものが、
残酷な真実だったとしても。
肺が燃えていた。
息を吸うたびに、喉の奥から熱い痛みが這い上がってくる。腕は鉛のように重く、杖を握り続けるだけで、全身の力を振り絞らなければならなかった。レオとの戦いは苛烈だった――どちらも一切の容赦を見せない、純粋な魔術のぶつかり合い。それでも……あちらも決して無傷ではなかった。
レオは目に見えて息を切らしていた。額に浮かんだ汗が、蛍光灯の白い光を反射してぎらりと輝いている。しばらく前から、攻撃のための魔力を流そうとする素振りすら見せていない。杖に体重を預けながら、途切れ途切れの呼吸の合間に、彼は口を開いた。
「驚きましたよぉ……」
レオの声には、いつもの芝居がかった抑揚があった。ただし今は、その台詞の端々に本物の疲弊が滲んでいた。
「お前さんがこれほど私の攻撃を耐え凌ぐとはねぇ。直接対決で私と真っ向から渡り合えるのは、本当に稀有なことじゃないですかぁ」
「まだ立っていられるのは……」
呼吸を整えながら、私は彼から目を離さなかった。視線を逸らすだけで、全てが終わる気がした。
「リリウムのおかげよ」
レオの視線が、私の傍らに浮かぶリリウムへと流れた。形の良い眉が、軽蔑と――本物の驚きが入り混じった形で――弧を描く。
「やれやれ……人工的な生命というものが実在するとは、いまだに驚きを禁じ得ませんなぁかしら」
「人工なんかじゃない!」
言葉が唇から飛び出すよりも先に、胸の奥で何かが弾けた。腹の底から込み上げてくる憤りを、抑えることなんてできなかった。
「リリウムは、ただの魔術仕掛けの機械じゃないわ。彼女には、ちゃんと魂があるのよ!」
レオは低い笑い声を漏らした。それはすぐに乾いた咳へと変わり、彼は片手を胸に当てた。
「それはお前さんがそう信じたいだけじゃないですかぁ……ねぇ、まあ、ある意味では認めましょうよぉ」
苦しそうに息を吸い込みながら、レオは続けた。
「私はもともと、生命人工という魔術の分野にはさほど興味がありませんでしたがねぇ。しかし、あらゆる魔術師が知っている普遍の真理というものがある。感情は魔力に直接影響を与える、ということですよぉ。魔法であれ魔術であれ、意志と感情の在り方が、魔力の流れを変えるのです」
私は黙って彼を見つめた。
……どういうことだろう。今さらこんな話をする意味が、私には分からなかった。でも、頭を振って思考を切り捨てた。こんな場で彼と議論をするつもりはない。リリウムが私にとって何であるかは、もうとっくに決めていた――愛情から生まれた、私の娘。魔術師の社会が何を言おうと、法律が何を定めようと、そんなことは関係なかった。
レオは杖の先端を床に打ち付け、それを支柱にして崩れ落ちないよう体を支えた。
「もう歳には勝てませんなぁ……」
長い溜め息と共に、彼はそう言った。
私は油断せず彼を観察し続けた。しかし……様子がおかしかった。張り詰めていた肩の力が、本当に抜けていく。周囲に漂っていた魔力の緊張感が、まるで潮が引くように消えていく。これは……自ら戦意を手放しているのだろうか。
「どうしたの?疲れただけ?それとも魔力が尽きたの?」
油断せず杖を構えたまま、私は問いかけた。
「まぁ、その両方かしら、といったところですよ」
レオは苦笑した。その声音は、奇妙なほど穏やかだった。
「体が以前のように動かなくなってしまいましてねぇ」
「……何歳なの?」
「四十五ですよぉ」
「そんなに老いてもいないでしょう」
眉をひそめながら言うと、レオはまた低く笑った。
「そうかもしれませんなぁ。ただ、生涯を魔術の研究に捧げ、運動というものを一切してこなかった者の末路がこれです。私の負けですよぉ、エレノア。もうこれ以上は続けられない。これほど若く、才能に溢れたお前さんには、敵わない」
私は彼をじっと見つめ、欺瞞の欠片がないかを探した。声は、本物の疲労を帯びているように聞こえた。
「嘘じゃないの?本当に降参するの?」
「完全にですよぉ。もう限界です」
レオは杖を手放し、壁に立て掛けた。その動作はひどく億劫そうだった。
「対話を始めたい。全てのことについて、改めて考えていましてねぇ……近くへおいでなさい。お前さんが知りたいことを、話し合いましょうよぉ」
私は思わず一歩踏み出した。でも、その瞬間、リリウムの声が私を引き留めた。
「エレノア、気をつけて。なんだか、嫌な予感がするわ」
リリウムは私の眼前に滑り込み、心配そうな瞳で私を見つめた。
「大丈夫よ、リリウム。見ていたでしょう?降参したのよ。心配しなくていいわ」
囁くように彼女をなだめると、リリウムは不信感を滲ませた低い音を漏らした。でも、それ以上は反論しなかった。ただ私の傍らに浮かんだまま、警戒の目をレオに向けながら、私はゆっくりと歩みを再開した。
「まず、エレノア……お前さん自身のことを、いくつか聞かせてもらえますかねぇ」
距離が縮まっていく中で、レオは穏やかに言った。
「ええ、何でも答えるわ」
できるだけ穏やかな声を保ちながら、答えた。それでも、言わなければならなかった。
「でも、あなたがここでしてきたことを、忘れているわけじゃないわ。これが最後の会話になるかもしれない――きっと、全てが終わったあとは、魔術師たちの機関があなたを連行することになるから」
レオの唇に、微かな笑みが浮かんだ。その笑みが、私の胸の奥に突然、鋭い不快感を刺し込んだ。
「そうですねぇ……これが最後の会話になる」
その声のトーンを、処理する間もなかった。十分に近づいたその瞬間、レオは人間離れした速さで片手を持ち上げ――一言の詠唱もなく、直接的で、容赦のない術式を放った。完全な無防備だった。
もし、リリウムが引き裂かれるような反射で割り込み、緊急の植物障壁を展開していなかったなら、直撃していた。それでも、盾は爆発の威力を半減させるのが精一杯だった。衝撃の力は凄まじく、私は宙を舞い、数メートル飛んで、背中から硬い床に叩きつけられた。
痛みが視界を黒く染めた。
息を吸おうとしたが、出てきたのは咳だけだった。胸が潰れたようだった。まるで石板を載せられているみたいに、どんな空気も入ってこない。
「エレノア!エレノア、お願い!」
リリウムの声が、絶望で滲んでいた。彼女が私の上に浮かぶ気配を感じた。傷を確認しようとしているのが分かった。かすんだ視界の中で、レオの輪郭がゆっくりとこちらへ近づいてくるのが見えた。その口元には、清々しいほどに嘲笑が咲いていた。
「油断するからですよぉ、お嬢さん方」
見下ろす彼の目には、完璧な侮蔑があった。
「最も基本的なことを忘れていたのですかぁ?本物の魔術師は、常に切り札を隠しているものじゃないですか」
「治してあげるから、じっとして……」
リリウムが小さな声でそう言い続けていた。残り少ない魔力を必死にかき集めながら。
でも、何もできなかった。
レオが私たちの傍まで来ると、ひどく冷酷な動作で、リリウムを蹴り飛ばした。彼女は床を転がった――私の傷の手当てに必死になるあまり、自分を守ることを忘れていたのだ。その光景が、私の中で灼けるような怒りに変わった。でも体が重すぎた。痛みが全ての筋肉を縛り上げ、私はただそこに横たわったまま、レオが私の上に立つ影を見上げることしかできなかった。
彼は杖の先端を、私の顔に向けた。
「これが、甘さの代償ですよぉ、エレノア。同情は、私たちの世界では欠陥でしかない」
怒りが内側で燃えた。息ができないほどの絶望と、混じり合って。
こんなところで終わるわけにはいかない。立ち上がらなければ。春花に会いに行かなければ。それだけが私の全てだった。この場所に踏み込んだ唯一の理由だった。ここで倒れることを、自分に許すわけにはいかない。
その時、レオの表情が一瞬で変わった。
彼の目が、私の背後で何かを見てとり、恐怖に見開かれた。レオは激しく後方へ跳び退いた。
眩い光が部屋を満たし始めた。あまりにも強烈で、目を細めなければ何も見えない。レオは完全に取り乱していた。普段の余裕など微塵もなかった。
「なんだこれは……!?こんなものがここに存在するとは、どういうことですかぁ!?」
彼は光に向かって闇雲に炎の魔術を放った。しかし、何の音も返ってこなかった。レオの術式は、ただ霧散した。
次の瞬間、巨大な何かが私の視界を横切った。
植物の蔦が幾重にも絡み合い、生きた力に満ちた、太く巨大な触手――それがレオへ向かって凄まじい速度で迸った。
直撃。レオの体が奥の壁に激突した。その瞬間、彼が血を吐くのが、はっきりと見えた。しかし触手は止まらなかった。腕を封じ込めるように絡み付き、彼を壁に何度も、二度、三度と叩きつけた。石造りの構造が、打撃のたびに崩れていく。
同時に、温かな何かが私を包んだ。
こんな回復魔術を感じたことは、かつて一度もなかった。純粋で、圧倒的な治癒の魔力。肺が広がった。背中の激痛が消えた。力が一気に戻ってきた。
私はすぐに身を起こし、自分の手を見つめた。何が起きているのか、全く理解できなかった。
背後で、息を呑む音がした。
振り返ると――リリウムがいた。
浮いてはいたが、その胸が信じられないほどの強さで輝いていた。まるで磁器の肌の真下に、灼熱の宝石が宿っているかのように、光の鼓動を放ちながら。
「リリウム……何が起きたの?」
心臓が速く打ちながら、私は問いかけた。
「私にも、よく分からないわ、エレノア……」
リリウムは震える声で答え、自分自身を見下ろした。
「胸がひどく熱くなって……触れて止めようとしたら……こうなってしまったの」
困惑は深かったが、考えている時間はなかった。鈍い轟音とともに、植物の触手が無数の輝く粒子となって霧散した。同時に、リリウムの胸の光も静かに消えた。
レオが床に倒れた。まるで力が抜けた人形のように。
打撃は彼を完膚なきまでに叩き潰していた。出血し、指一本動かせない状態で、彼は横たわっていた。私はゆっくりと近づいた。レオは目を向けてきた――打撲で腫れ上がった目で、顔中が青痣に覆われていた。
「た、助けて……」
数分前の傲慢さは、完全に消えていた。
「治してくれ、エレノア……頼む。治してくれたら、知ってることを全部話す。情報をやろう」
ただ、哀れみと軽蔑が混ざり合った感情で彼を見た。追い詰められた途端に哀願する。あれほど卑劣に裏切った相手に、自分の魔力を使うつもりなど、微塵もなかった。受けるべき代償を全て受けただけだ。
「春花がいる部屋を教えてやろう。どの部屋に閉じ込めているか、正確に知っている」
春花――その名を聞いた瞬間、全身が震えた。
……迷った。この怪物の命を救いたいわけがなかった。でも、春花が関わっている。彼女の居場所を知りたいという焦りが、一瞬だけ判断を揺さぶった。
「やめて、エレノア!信じちゃだめよ!」
リリウムが激しく叫んだ。
「治して……くれ……お前さんを、彼女のところへ連れていける……のは私だけだ……」
レオが喘ぎながら懇願する声が続く中、術式を構えながらも、私は内側で激しく揺れていた。
その時、すぐ傍で光が激しく瞬いた。
アドレナリンに研ぎ澄まされた本能が、私に横跳びをさせた。時間にして、ほんの数千分の一秒の差だった。跳び退いたその瞬間、途方もない規模の純粋な魔力の奔流が空気を裂き、床に横たわるレオへ直撃した。
私は息を呑んで立ちすくんだ。目を見開いたまま。
奔流は来た時と同じ速さで消えた。後に残ったのは、床に深く抉れた、煙を纏うクレーターだけだった。レオは――何も残っていなかった。血の一滴も、衣服の一切れも。ただの粒子へと還元されていた。
私は勢いよく扉の方向へ振り返った。
そこに立っていたのは、二人の女だった。
廊下の光を背に受けて、その輪郭が浮かぶ。一瞬で分かった。胃が一気に縮み上がった。
セレネ・ヴァールコルと、ミレイア・ノクティス。
これで最悪の確信に変わった。昨日会ったあの魔法使いたちが、春花の誘拐に深く関与していることが。しかし――彼女たちはレオを殺した。なぜ?それは味方を意味するのだろうか?
セレネは軽やかな笑みを浮かべたまま、部屋の中へ進んできた。まるで虫を踏み潰したかのような、穏やかさで。
「レオを治療させるわけにはいかなかったもの、エレノア」
髪の一筋を整えながら、セレネは言った。
「彼はこの計画に割り当てられた役割を果たした。我らにとって、もはや有用ではなかった」
その言葉を聞いた瞬間、血が沸騰した。レオが彼女たちを仲間と信じ、庇護者と信じていた姿を思い出した。
「なんで殺したの!?」
私は怒鳴った。声が震えた。
「彼はあなたたちの仲間でしょう!一緒に動いていたでしょう!?」
セレネとミレイアは、短い沈黙の後に顔を見合わせ、小さな笑い声を漏らした。
「勘違いをしているようね、お嬢さん」
セレネは腕を組んで答えた。
「我らはレオの仲間ではなかった。少なくとも、汝が思うような意味では。レオはホストの信条に盲目的に従っていた。我らが協力していたのは、同じ者に仕えていたからに過ぎない。それだけのことよ」
奥歯を噛み締めた。怒りと……なぜかやりきれない気持ちが入り混じった。なぜ、あれほど自分を傷つけようとした相手の死に、胸が痛むのか。自分でも分からなかった。でも、廃棄物のように扱われたその末路が、腸の奥を不快にかき混ぜた。
「レオには独自の誇大妄想があった」
セレネは静かに続けた。
「我らのグループの目標とは全くかみ合っていなかった。だから、汝の小さな子がレオを弱らせた好機に、我らが仕留め、障害を取り除いた。これで余計な綻びもなくなったし、いよいよ大きな幕が上がる準備が整ったわ」
私は即座に杖を上げ、二人の胸元に狙いを定めた。
「ここで何もさせない。どいて」
セレネは微動だにしなかった。構えすら取らない。むしろその体からは、完全な脱力が漂っていた。
「落ち着いて、エレノア。汝と戦う気は全くないわよ」
「一言も信用できないわ!」
「本当のことよ。戦いたくない、ちゃんとした理由があるのだから」
セレネは声を少し和らげた。
「その理由って何?」
「春花よ」
その一言が、雷のように私を貫いた。杖を握る手に力が込もった。心臓が大きく跳ねた。
「春花がどうしたの!?どこにいるの!?今すぐ教えて!」
「杖をしまって協力してくれるなら、すぐに彼女のところへ連れて行ってあげるわ」
セレネは笑顔を崩さないまま提案した。だが次の瞬間、彼女の視線が私の全身を舐めるように動いた。分析するような、試験管を覗き込むような、そのまなざしが肌を粟立てた。
「受け入れた方がいい、エレノア」
セレネはゆっくりと付け加えた。
「春花以外にも、汝に特別な関心を持った、個人的な理由があるのだから」
「……何の話?」
「我の研究には、非常に明確な目的があるの」
セレネは一歩前に出ながら説明し始めた。
「マジクス純粋とマジクス・テラの、種族としての関係と差異を理解することよ」
場違いな科学的な話に、私は頭が付いていかなかった。
「人間とマジクス純粋の混血が、初めて起きた時、それは前例のない出来事だったわ」
セレネは瞳を輝かせながら続けた。その輝きには、ほとんど正気ではない熱量があった。
「ただの生物学の基礎よ」
私は遮るように言った。
「人間の生理機能がマジクス純粋のそれと一致していただけ。だから混血が生まれた。謎なんて何もない」
セレネはゆっくりと首を振り、指を鳴らした。
「表面的な科学的見地は理解しているわ。でも、それでは答えが出ない。数式を超えて、理解したいのよ。魔力を一滴も持たない普通の人間が、マジクス純粋と結ばれることで、魔力を扱える子を産めるのは、なぜなのか。汝がここにいるということ自体、エレノア、そのひとつの奇跡の証明なのよ。春花も、かつてのレオも。みんな、祖先がこの星に残ることを選んだから生まれた。汝たちの血の中には、余りある可能性が眠っている」
セレネは瞳を細め、ゆっくりと歩みを止めた。指先で自分の袖を整えながら、まるで余計な感情を払い落とすかのように動いた。
「母性や感情は関係ない。重要なのは、血と魔力の構造がどのように交わり、新しい可能性を生むかということだけ」
――その言葉に、胸が冷たくなった。彼女は「母性は関係ない」と言い切った。だが、私たちがここにいるのは、誰かが命を賭けて産み、育て、守ったからだ。血の構造だけではない。そこには痛みも、喜びも、祈りもある。
「あなたは数式で説明できると思っている。でも、子を産むということは、ただの交配じゃない。母は命を削って子を抱き、父は未来を託す。そこにあるのは可能性じゃなく、責任よ。あなたが見ているのは標本。でも、私が見ているのは人間。違いがわかる?」
私は彼女の話を切り上げようとした。
でも――言葉を吐き出した後、胸の奥にまだ熱が残っていた。だが、感情だけでは彼女を止められない。理屈で切り返す必要がある。
「エンディミオンの魔術的知識と人間の科学が、とっくにその疑問に答えを出しているわ。魔力の遺伝に関する論文だって、ちゃんと文献として残っているでしょう」
セレネは人差し指を立て、小さく笑った。まるで講義を始める教師のように。
「何も分かっていないのね、お嬢さん。別の言い方をしましょうか。マジクス純粋は、生きた化石になりつつある。混じらない血は、澱む。でも人間と交わった時、新しい何かが生まれる――マジクス・テラよ。それは偶然ではなく、魔力が適応し、拡張し、増殖する姿そのものなの。彼らは欠陥品ではなく、魔力が特権の鎖から解き放たれようとしている証よ」
「その"進化"とやらは、マジクス・テラ全員にとって、ずっと問題の種になってきた」
言い返した。胸の奥でくすぶっているものが、声に出た。
「種族間に存在する隔たりが、どれほどのものか、あなただって知っているはずよ」
「ええ、理解しているわ。でも、それは我の研究の核心ではないのよ」
「もう、くだらないことはやめて!」
私は堪えられなくなった。
「あなたの理論にも科学にも、人間とマジクスの生物学にも、興味はないわ!私が欲しいのは答えじゃない。春花を守ることよ。今すぐ、春花のところへ連れて行って!」
「焦らなくていいの。今この瞬間も、時間はあるわ」
セレネはひどく落ち着いた様子で言った。
「この屋敷の外では今、誰も予想していなかった変数が現れたせいで、大騒ぎになっているから」
「変数って、何のこと?」
セレネは悪意ある笑みを浮かべた。
「我が仲間のケイルが、上層の階で一族の後継者たちに催眠魔術を使ったの。七人のうち六人は捕らえられた……でも、一人だけ逃げ出したわ。楓・エンバーストロムという子が」
その名前を聞いた瞬間、私はリリウムをちらりと見た。彼女も静かに目を合わせ、小さく頷いた。楓は無事だった。きっと、私たちが彼女に施した高位の防護魔術が、精神攻撃から守り抜いたのだろう。
「だから、今は少し落ち着いて」
セレネが続けた。
「本当に、汝と戦うつもりはない。春花のところへ連れて行くという申し出も、嘘じゃないわよ」
セレネを深く疑いながら見た。こんな状況で、理由もなく親切にする者がいるわけがない。
「なぜそんなことをするの?何が目的なの?」
セレネは目を細め、満足そうに笑った。賢い問いだとでも言うように。
「簡単な取引よ。春花のところへ連れて行く代わりに、汝には我の混血研究への協力と、観察対象として参加してもらいたいの」
――胸の奥で、嫌な予感が膨らんだ。彼女の言葉は親切に聞こえるが、裏に必ず罠がある。春花の名を出すことで、私を揺さぶろうとしている。
「断る」
――即答だった。言葉を吐き出した瞬間、空気が張り詰めた。セレネの瞳がわずかに揺れたのを見逃さなかった。
「そう急がないで。まだ何も説明していないわよ」
セレネはゆっくりと私の周りを歩き始め、手振りを交えながら話し出した。
「生物学は冷たい科学ではないの。それはひとつのキャンバスよ。全ての交配、全ての混血の誕生は、隠されたパターンを映す一筆なの。我は種を支配したいわけではない。完成した作品を眺めたいだけよ」
――その比喩に、背筋が寒くなった。彼女にとって命の誕生は絵筆の一振りに過ぎないのか。私にとっては重みそのものなのに。
「あなたの見方は理解できないし、理解したくもないわ」
杖を構えたまま、私は繰り返した。
「理解しなくてもいい。魔力が人間に伝わる仕組みの本質を、我が直接説明してあげるわ。魔力を持たない人間が、マジクスと結ばれて、魔力を持つ子を産める理由――それは、魔力が所有物ではなく、共鳴だから。人間の血は、その種族に元々眠っていたものを呼び醒ます触媒なの」
「それはただの自然の偶然かもしれない」
論点を探しながら言った。話を早く終わらせたかった。
「生理機能がたまたま互換性を持っていて、だから生命が生まれた、それだけよ」
セレネは足を止め、私を真っ直ぐに見た。
「大きな違いがあるの。そして、その核心には、我自身の種族が持つ大問題が横たわっているの」
セレネは少し距離を詰めながら言った。両手を広げ、まるで葬儀を語るかのように淡々と告げた。
「マジクス純粋は、混じらないことで自らの偉大さを保っていると信じている。実際は、萎んでいるだけよ。純粋さとは棺桶。交わることこそ、生き残る唯一の道なの」
私は彼女を上から下まで見た。
「……あなた自身がマジクス純粋でしょう、セレネ。本当に、そういう意味で言っているの?」
「もちろんよ。だからこそ、我が種族が衰退していると知っている」
――その言葉は、氷のように冷たく響いた。彼女自身がその血を持つ者なのに、衰退を口にするなんて。誇りを捨てたのか、それとも真実を見すぎてしまったのか。
「衰退なんてあり得ない」
私は信じられなかった。
「あれだけ強大な魔法使いの社会が、衰退なんて」
「政治的、軍事的な意味での衰退ではないわ」
セレネは辛抱強く続けた。
「別の言葉で言いましょうか。マジクス・テラは不完全なコピーではない。魔力が、適応し、広がり、増えていける証明なの。一部の者の特権ではなく、全ての者の遺産となる未来への、種よ」
「もう、余計な話はいい!」
私は言い放った。
「あなたの理論に、興味はないわ!春花を連れて行ってと言っているの!」
杖を構えたまま、私は繰り返した。
「ただ、汝には見せたいものがある」
セレネは指をゆっくりと伸ばし、まるで標本を示す学者のようにリリウムを指差した。
「汝自身が、その完璧な例を傍に置いているじゃないの。汝は無から、あるいはほぼ無から、新しい命を生み出した……」
「リリウムを、あなたの実験に巻き込まないで!」
私は彼女の前に一歩踏み出し、リリウムを遮るように立った。
「例えとして使っただけよ」
――胸が焼けるように痛んだ。彼女を「例え」と呼ぶこと自体が、耐えられなかった。リリウムは命だ、誰かの理論の道具じゃない。
セレネは動じなかった。
「時に、命とは私たちが学校で教わるより、ずっと複雑なものだと示したかっただけ。そして汝の小さな友のことは、我はその正体を既に知っているわよ」
「何を言おうと関係ないわ」
私はきっぱりと言った。
「リリウムは、私の愛情から生まれた。それだけ。それが私の答えで、それ以上でも以下でもない。あなたの科学的な説明なんて、必要ないわ」
セレネは顎に手を当て、当惑の色を浮かべた。
「それほど非論理的な結論に、汝が自力でたどり着いたことの方が……特に、我が真実を告げられるというのに。興味深いわ」
「聞きたくないと言ったでしょう!」
「それでも、汝の思考の筋道を理解したいの」
セレネは私の苛立ちを無視して続けた。
「愛情から生まれた、何もないところから生まれた、と言う。それは、汝の感情が術式の魔力を触発し、形を与えたと?」
「……そうよ。そう思っているわ」
セレネは深く溜め息をついた。それは諦めでも同情でもなく、むき出しの現実を突きつける息吹のようだった。
「非常に感情的な結論ね、エレノア。でも現実を言うと、術式は魔力を流す数学的な公式よ。感情は実行や強度に影響することはあれど、方程式の最終結果を変えることは、通常ない」
セレネは肩をすくめ、まるで退屈な講義を終える教師のように淡々と告げた。
――彼女の言葉は刃のように突き刺さった。理屈で切り刻まれるのが耐えられなかった。だから、耳を塞ぐしかなかった。
「聞かないわ!何を言っても変わらない!リリウムは私の娘。それだけが真実よ!」
「そんな子供みたいな真似はやめなさい」
セレネの声が鋭くなり、私は思わず手を下ろした。
「聞いて。例外というものは存在する。魔力は魂を作れない……でも、魂を引き寄せることはできる。魔力は意識を作れない……でも、既に存在する意識に、形を与えることはできる」
その言葉が、胸の奥のある部分に触れた。でも、怒りがそれを塗り潰した。私はセレネの目をまっすぐに睨み付けた。その敵意を察したのか、セレネはゆっくりと両手を上げた。
「……分かった、続けないわ。今は。でも、汝に協力者になってほしいという話は変わらない」
「実験の対象にはならないわ!」
「誰も侵襲的な実験とは言っていないわよ」
セレネはゆっくりと私へ近づき始めた。距離が縮まるのを感じ、私は即座に杖を上げた。しかし彼女は止まらなかった。ゆっくりと、確実に、杖の先端が彼女の胸に当たるまで歩み寄ってきて、そこで静止した。至近距離で、完全な余裕を持って、私の目を見た。
「エレノアを実験の部品として見ているのではない」
セレネの声は、ひどく静かになった。
「エレノアを……母として、見ているの。エンディミオンにいる人々の中から、汝に相応しい相手を既に観察している。男性に絞って。生物学的に理想的な混血の子を産む条件を満たす者を」
セレネはわずかに微笑み、まるで祝福を告げるかのように言った。
……。
その言葉が、私の中に落ちた瞬間、吐き気がした。
怒りよりも先に、全身の皮膚が粟立った。私の意志も、私の感情も、私の人生も、全て無視して――自分の欲しいデータを得るために、私の体と、私の母性を、まるで道具として扱っている。この女は、愛を数値に換算しようとしている。命の誕生を、実験室の産物にしようとしている。
「……あなたに、そんな権利があると思っているの!?」
声が震えた。その言葉は、私の存在そのものを否定する刃だった。母であることを、数値に変換しようとする冷たさに、心臓が握り潰されるように痛んだ。
「愛が生物学的なパラメータで決まると思っているの?母であることは、実験室の工程じゃない!命を産むことは、愛そのものよ!あなたには、永遠に理解できない!」
セレネは初めて、本物の困惑の色を見せた。
「愛の話はしていないわ、エレノア。科学の話をしているの」
なんとか論じてくる彼女の顔を見て、私はふと、怒りとは全く違う感情が胸に広がるのを感じた。
哀れみ、だった。
この人たちはセレネも、ミレイアも、ケイルも――天才だとか、強大な魔法使いだとか、そういう話を聞かされていた。でも実際に話してみると分かる。壊れている。人としての何かが、根本から欠けている。
――怒りは消え、代わりに胸に広がったのは深い哀しみだった。彼女は天才かもしれない。でも、人間としての何かを失っている。その欠落が、何よりも痛ましかった。
「実験の目盛りで計れるものじゃない」
私は静かに言った。
「そのやり方でずっと測り続けても、あなたが求めている答えには、一生たどり着かないわよ、セレネ」
セレネの表情がわずかに陰った。その目に、微かな苛立ちの光が宿った。
「汝には何が分かるというの、子供が」
「愛したことがある?」
唐突に、私は問いかけた。
「誰かを、命を懸けてもいいと思えるほど、大切に思ったことがある?それとも、ずっと物陰から観察して、ノートに記録してきただけ?」
セレネは腕を組み、視線を逸らすことなく言い切った。
「そういう……時間の無駄な感情には、私は向いていない。感情に流されていては、真の発見には辿り着けない」
杖を下ろした。重い虚脱感が胸に広がった。母であることを、父であることを、愛する人を持つことを、命を世界に送り出すことを――こんなふうに矮小化できる人間が存在するということが、ただ、悲しかった。
だから、あなたは答えに辿り着けない。人を知らない限り、命の意味は理解できない。
静かに、セレネの目を見た。彼女も、私を見た。沈黙が落ちた。
「……どうしたの。なぜそんな目で見るの?」
セレネが眉を上げた。
「ねえ、セレネ」
ゆっくりと言った。
「混血について、本当に何を知っているの?混血の子を腕の中で抱いた時の感触を知っている?自分とは違う誰かを愛するということを、知っている?」
セレネは、目に見えて体が固まった。
「……知る必要はない。観察者である我には、体験することが必須ではない」
「必要よ」
揺るがなかった。
「なぜなら、あなたは生物学に心酔しているけれど、生命が何なのかを理解していない。生命は完璧な方程式じゃない。痛みで、愛で、不確かさで、出来ている。あなたはずっと数字を眺めてきた。でも私は、それを生きているわ」
言葉が、何かに当たったのが分かった。セレネが苛立ちを見せた。あるいは、自分でも気づかなかった何かを、突かれたのかもしれない。
「道徳の授業をしに来たわけではないわよ、エレノア」
セレネは低く言った。
「我の仕事を理解するために来たわけでもないわ」
「なら、もし本当に混血を理解したいなら」
言い返した。
「観察するだけでなく、自分で生きてみなさい。あなたがそれほど混血に興味があるなら、自分が混血の子を持ってみたら?それとも、自分が人間と交わる可能性が恐ろしくて、だから他人の話を聞いているの?」
セレネの顔から、血の気が引いた。
初めて見た。あの完璧な余裕の仮面が、ひびを入れた。
その瞬間、胸に奇妙な感覚が広がった。勝利ではない。ただ、彼女が人間である証を垣間見た気がした。
「……それは……違う話よ」
セレネは声が乱れた。視線が逸れた。
「私は観察者だから……当事者になる意味がない……」
「距離を置いて眺め続けても、見えるのは影だけよ」
ゆっくりと言った。
「あなたはそのせいで、ずっと無知なままよ、セレネ」
セレネは両手を上げ、諦めの形を作った。
「……分かった。今はそれ以上求めない。観察への協力要請は、一時保留にするわ。これ以上の議論は不毛ね」
――議論の熱は消え、部屋に重い沈黙が落ちた。
彼女はミレイアの方へ振り返った。ミレイアはずっと傍で全てを見ていた。二人は無言で何かを確認し合った。それから、セレネが再び私を見た。
「春花のところへ連れて行くわ。約束通りに」
短く、不満の音を漏らした。でも何も言えなかった。セレネが部屋の出口へ向かって歩き始めた。扉の枠まで来ると、肩越しに振り返った。
「来ないの?友人に急ぎたいのでしょう」
選択肢はなかった。春花のところへたどり着くためなら、この二人の後をついていくほかなかった。好むと好まざるとに関わらず。
リリウムが私と同じ高さに浮かんで、静かに目を合わせた。
「エレノアが選ぶ道なら、私は命を懸けてもついていく」
足が重かった。従うしかないと分かっていても、心は抵抗していた。だが、春花に会うためなら、進むしかない。
長く息を吐き出して、私は歩き始めた。セレネとミレイアの数歩後ろを、一定の距離を保ちながら。
白い蛍光灯が冷たく照らす長い廊下へ、私たちは踏み出した。
進みながら、視界の端で何かが動いた。
反射的に顔を向けると、廊下が折れる角の向こうに、素早く消える人影があった。誰かが、私たちをひどく近くで見ていた。ほんの一瞬こちらを振り返ったように見えた。
……味方か、敵か。隠れ方の素早さが、どちらの答えも与えてくれなかった。今は考える余裕がない。春花が先だ。
――セレネが前を歩いていた。その背中を見つめながら、胸の奥で何かがずっとざわついていた。
「結局、私たちの努力がようやく実を結ぼうとしているのは喜ばしいことよ」
あの声は穏やかで、冷たくて、まるで自分の感情が一切ない人間みたいだった。思わず口が動いてしまった。
「……どういう意味かしら?」
止めたかったのに、言葉が先に出てしまったのよ。
「ミレイアも、ケイルも、そして我も、これを成し遂げるために並々ならぬ努力をしてきたのよ。いよいよホストが本来の目的を達成する時が来たわ」
ホスト、という言葉が頭の中で引っかかった。ゆっくりと息を吸い、歩みを速めながら声を上げた。
「ホストって……誰のこと? 何のこと?」
セレネはしばらく黙った。まるで私の問いなど聞こえていないかのように、何も答えないまま別の話を始めた。
「これを成し遂げることで、我たち三人のうち誰が人間という存在に対して真の洞察を持っているかが、ようやく決まるのよ。ケイルか、ミレイアか……それとも我か」
「質問を無視しないで!」
思わず語気を荒げてしまった。それでも彼女の歩みは止まらなかった。
「ケイルのことは、常に愚か者だと思っていたわ。ただ人間を支配したいだけの子供よ」
……廊下に私しかいないみたいに喋っているわ。まるで独り言。こちらのことなど最初から視野に入っていないかのように。
「自分の仲間のことをどうしてそんな風に言えるの?」
「汝は我を彼がどう見ているか知りたいかしら?」
小さく笑った。その笑い方が妙に気味悪くて、肌がざわりとした。
「ケイルは我のことを、好奇心が過ぎる狂人だと思っているわよ。道を踏み外した科学者、とでも言えばいいかしら」
……もう限界だった。背中に向かって大きく一歩踏み出し、精一杯の声を出した。
「いい加減にして! 無視するのはやめてって言ったでしょ! ちゃんと答えなさいよ!」
セレネがようやく立ち止まって、横目でこちらを見た。その視線は静かで、感情が読めなかった。
「無視するつもりはなかったわ、エレノア。少し……吐き出す必要があっただけよ」
そう言ってから、隣のミレイアに向き直った。
「ねぇミレイア、我の言っていること、間違っていないでしょ?」
ミレイアが立ち止まって頷いた。肩をすくめ、まるで事実を述べるだけのように淡々と答えた。
「そうねぇ。あたしの見方では、セレネは実験から新しい命を生み出したい。あたしは存在している命を理解して、守りたいんだよ。セレネはいつもあたしのことを過去に縛られてるって言うし、あたしはセレネのことを先祖も歴史も尊重しないって思ってる。それだけよ」
……唖然とした。どうしてこの二人は、自分たちの対立をこんなに淡々と話せるの? まるで天気の話をするみたいに。
セレネを見つめ、今度は違う問いが口を突いて出た。
「……どうして、そんなに開けっぴろげに話せるの? 聞いていると、まるでお互いを憎んでいるみたいだけれど。お友達なんじゃないの?」
セレネが完全にこちらを向いた。その瞳が、奇妙なほど虚ろに見えた。
「友人? 我たちのことを友人だと……汝はどこからそんな発想を?」
「……昨日初めて会った時、そう感じたから」
少し気まずくなりながら答えた。
「お互いのことをよく知っているグループみたいに見えたもの」
セレネは声を上げて笑った。廊下に響く、からんとした笑い声。
「ケイルのことも、ミレイアのことも、友人だと思ったことは一度もないわ。断じて」
「あたしも全く同じよ」
ミレイアが隣で付け加えた。
「セレネもケイルも、そういうふうに見たことはないかな」
「我たちの関係は純粋な競争よ」
とセレネは説明した。
「長い時間を共に過ごして、世界に対する見方も全く違う。でも、人間という存在への底知れない好奇心という一点だけが一致した。だから協力している。欺きもなく、取り繕いもなく。目的のための、真の協力関係よ」
……同盟という言葉が耳に残った瞬間、胸の奥で別の顔が浮かんだ。あの大きな帽子の少女。どうして彼女の名前が一度も出てこないの?
「……セレスティアはどうなの?」
思わず聞いていた。三人の話の中で、一度も名前が出てこなかったから。
「昨日、あなたたちと一緒にいたじゃない?」
セレネはしばらく黙った。まるで誰のことを言っているのか思い出すのに時間がかかっているみたいに。
「ああ……あの子ね」
吐き捨てるような言い方だった。
「彼女は誰でもないわ。関係ない」
セレネは肩をすくめ、まるで埃を払うように言った。
――カッとなった。
「関係ない?でも一緒にいたでしょう!彼女はあなたたちと友達でいたかっただけ、グループの一員になりたかっただけ!」
「セレスティアは邪魔者だったわ」
セレネは冷ややかに断言した。その声は、本当に凍りつくような冷たさだった。
「我たちが追っている本来の目的とは一切関係のない、ただの障害よ」
「……彼女は今、どこにいるの? 何があったの?」
「ケイルがすでに処理したわ」
短く、何の感情もなく答えた。
胸に重いものが落ちてきた。
処理した……。
最悪の想像しかできなかった。ただ仲良くなりたかっただけの子が、邪魔だという理由だけで……消された。あの子は誰かの戦争に巻き込まれたわけでもなかった。ただ、憧れを持って近づいただけ。それだけで、いなくなった……。
こみ上げてくるものをこらえながら、もう言葉にしようとしたとき、セレネがまた口を開いた。
「でも、汝と春花の間に生まれた繋がりは……我には非常に奇妙に映るわ。理解の範疇を超えているのよ、正直なところ」
「……どういう意味?」
低く、絞り出すように聞いた。
「春花はずっと汝のことを気にしていたわよ」
セレネは淡々と話を続けた。
「どこにいるのか、どうしてまだ来ないのか……ずっとそれを聞いていた。ケイルから汝がこの屋敷に入ったと知らせが来て、レオを通じて我たちにも連絡が来た。汝の存在は我たちの計画の外にあったけれど、春花を落ち着かせるために迎えに行くしか選択肢がなかったのよ」
――その瞬間、胸の中に広がったものを、うまく言葉にはできない。
春花が、私のことを心配していた……。
あんな状況の中でも、頭にあったのは私のことで……。
気づけば目線が床に落ちていた。顔が熱くなるのがわかった。隠しようがなかった。
セレネがこちらを横目で見た。そして、ゆっくりと振り返った。その目が細くなって、まるで顕微鏡で覗くみたいな視線になった。
「……興味深いわね。今の汝の反応と、春花が汝の話をする時の表情を重ねると……非常に面白い結論に辿り着くわ」
「……何の結論?」
睨み返しながら聞いた。
「汝の春花への関心は、友情の域を超えているわ」
セレネはわずかに口角を上げ、観察者の目で私を射抜いた。
……廊下が、しんと静まり返ったように感じた。蛍光灯の音だけが妙に大きく聞こえた。
奥歯を噛んで、できるだけ平静を装いながら答えた。
「……関係のないことよ。語る必要はない」
セレネは満足そうに微笑んだ。まるでパズルの最後のピースが嵌まったかのように。
「魅力的です……女性が女性を愛するのね。しかも魔術師同士、同じ種族が同じ種族を。その結合に種の混合はあり得ないけれど……魂の融合としては完全なものになるわ」
――また、カッとなった。
「やめて!」
声が震えた。
「私たちのことをあなたの理論の材料にしないで! 春花は実験じゃない! データじゃない! 生きている人間よ! そんなふうに扱うことは絶対に許さないわ!」
セレネが本当に驚いたように見えた。初めてその顔に、計算以外の感情が映ったように感じた。
「……傷つけるつもりはなかったわ、エレノア。ただ行動原理を理解しようとしていただけよ」
「聞いてちょうだい」
前に一歩踏み出して、真っ直ぐに目を見て言った。
「愛は生物学的なパラメータに還元されるものじゃないのよ。遺伝子でも、魔力の型でも、種族の相性でも測れない。ここで感じるものなの」
胸に手を当てた。
「もしあなたが生きてきた中で、一度もそれを感じたことがないなら……私たちのことは、永遠にわからないわ」
セレネは目を細めて、長い息を吐いた。諦めにも、疲れにも似た、冷たい息だった。
「……生物としての設計が繁殖という目的に基づいているとするなら、同性の相手に充足感を見出す個体の存在は、我にはどうしても"異常"にしか映らないわ。種の継続性とは相反する選択をする生命体が、我の研究では最も理解しにくい存在なのよ」
……怒りが、するりと消えた。
代わりに、静かな何かが胸に落ちてきた。哀れみ、とでも言うのかしら。
……怒りは消え、胸に残ったのは静かな決意だった。彼女に理解されなくてもいい。私が守るものは、私自身が知っている。
「あなたは愛を知らないだけじゃない。痛みも、喜びも、失敗も、誰かと分かち合う瞬間も――全部知らないのよ、セレネ」
穏やかに、でもはっきりと言った。
「永遠にわからない。そしてそれが、あなたが研究で探し求めている答えに、一生たどり着けない理由よ」
セレネの顔が曇った。その目の奥に、初めて本物の感情の火が灯ったように見えた。怒りだった。
「我が何を経てきたか……語るつもりはない。でも、観察だけが我に残された術だったのよ」
「知らないわ。でも、あなたが経験してこなかったことは、わかる。あなたは誰かを守るために傷つくことを選んだことがない。誰かのために立ち上がる勇気を知らない。だから、あなたの人生はただの記録帳なの」
「……汝が生を語る資格があると、本気で思っているの?」
セレネの声が僅かに鋭くなった。
「あるわ。リリウムを抱きしめる度に、生きていると感じる。春花を思う度に心臓が速くなる。私は舞台に立っている。あなたはただの観客よ」
セレネの目が大きく見開かれた。
長い沈黙があった。
やがて、苦い笑みが口元に浮かんだ。
「……面白い。汝が我に自問させることに成功したわ。それは並大抵のことではないのよ、エレノア」
「自問させたいわけじゃない。ただ、この世界には距離を置いて観察するだけでは決して学べないものがあると、それだけを伝えたかったの」
「……一理あるかもしれないわね」
セレネはそう言って背を向けた。
「でも、我はこれからも観察し続けるわ。それ以外に知っていることがないから」
セレネは歩き出した。
セレネの背中が遠ざかる。蛍光灯の光が彼女の影を長く伸ばし、私の胸に残ったのは、冷たい余韻だけだった。
誰も何も言わなかった。廊下を幾つも曲がって、やがて、その突き当たりに辿り着いた。
廊下の突き当たりに、頑丈そうな鉄の扉。
「この扉の向こうに春花がいるわ」
セレネが立ち止まって、静かに言った。
心臓が跳ね上がった。思わず一歩踏み出した。早く開けてほしくて、でもセレネはそこで動かなかった。
「……なぜ開けないの?」
「静かにしなさい」
セレネが手を耳に近づけて目を閉じた。
「今、繋いでいるわ」
繋いでいる?
「セレネは今、術式でケイルの魔力の流れと接続しているのよ」
ミレイアが静かに耳元で囁いた。
――その瞬間、セレネが息を呑んだ。
「――なんですって!?」
目を見開いて、ミレイアを振り返った。その顔に、今まで一度も見せたことのない動揺が広がっていた。
「ケイルが石を見つけたわ!」
ミレイアが絶句した。
私の胸も、ひやりと冷えた。
石、と言った。まさか……アキラが持っているという、あのかけら?
アキラ。一体なぜ、あの子がこんな場所に来ているの? ただの生徒が、こんな危険な場所に。
「エレノア」
セレネが私を見た。その顔に焦りが滲んでいた。
「予期せぬ事態が起きた。申し訳ないけれど、今すぐ春花に会うのは難しいわ」
「そんな……!」
思わず踏み出した。
「約束したじゃない! 今すぐ中に入れてちょうだい!」
「断るわ!」
セレネが強く私の肩を押した。足がよろめいた。
「ここで待ちなさい。ミレイア、行くわよ!」
二人は走り出した。廊下を駆け抜けて、角を曲がって、あっという間に消えた。
……残されたのは私一人。
肩で息をしながら、廊下を見つめた。
「エレノア……追いかけないの?」
リリウムが心配そうに浮かんでいた。
「追いかけなくていいわ」
振り返って、金属の扉をまっすぐに見据えた。
「春花が本当にこの扉の向こうにいるなら……壊すだけよ」
角から二つの人影が現れた。蛍光灯の光に照らされ、先頭の男子生徒の制服が目に飛び込んできた
――エンディミオンの制服だ。
素早く振り向いて、身構えた。
角から現れた二つの人影が、蛍光灯の光の中に踏み込んできた。
――エンディミオンの制服だった。
若い男子生徒が、こちらを見た瞬間に顔を真っ青にして壁際に張り付いた。両手を上げた。
「動かないで!」
杖を真っ直ぐ向けた。
「あなたは誰!?」
「ま、待ってくれ! 危害を加えるつもりはない! 春花を助けに来たんだ!」
……春花、と言った。
なぜこの子が春花の名前を?
どこで知り合ったの? 確認しようとした瞬間、彼の制服に目を奪われ、思わずその顔と仕草ばかりを追っていた。だから、後ろにいたもう一つの影には気づくのが遅れた。
視線を上げた。
……固まった。
セレスティア。
でも……おかしい。何かが、深くおかしい。視線が虚ろで、体が人形みたいに固まっていて、まるで魂が抜けたみたいに見えた。
セレネは「ケイルが処理した」と言った。殺された、と私は受け取った。でも、目の前にいる。生きている。では、ケイルはいったい彼女に何をしたのか。
これが……「処理」の意味?
喉の奥に何かが詰まった。
「その子に……何をしたの!?」
杖の先がその男子生徒に向いた。声が震えていた。
「あなたが、セレスティアにこんなことをしたの!?」
「違う! 本当に違うんだ! 見つけた時にはもうこうなっていた!」
男の子は完全に取り乱しながら、セレスティアを見て、また私を見た。その手は震えていた。
……見つけた時には、すでに。
何も整理できなかった。この男の子は何者で、なぜここにいて、セレスティアに何が起きたのか、何一つわからなかった。
――離ればなれになった少年は、
ただ一人、
暗い地下へと足を踏み入れる。
そこで出会う、
操られた魔法使い。
閉ざされた扉。
そして――
扉の向こう側で、
待っていた人物は、
すべてを覆す。
次回――
開かれた扉。
物語は、
新たな真実へと向かい始める。




