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自由という罰と従属という安らぎ

人を支配することは、


その心まで奪うことなのだろうか。


自由とは、


誰かに与えられるものなのか。


それとも、


自分自身の手で取り戻すものなのか。

杖が手から落ちそうになった。それほど、両手が震えていた。


屋敷の裏口――その扉の前に立ちながら、息を殺していた。心臓が胸の内側を叩き続けている。まるで檻の中で暴れる獣みたいに、止まらない。恐怖が喉を引っ搔いてくる。……罠だったら? 扉の取っ手に触れた瞬間、魔術の爆風に吹き飛ばされたら? エンディミオンで読んだ探知術式を、必死に記憶の底から掘り起こそうとした。でも、頭の中は真っ白だった。恐怖に塗り潰されて、何も残っていない。


――考えろ、考えろ……っ。


半ば自棄になりながら、ヴィクターのことを思い出した。もらった杖を使おうと、震える指でリュックを開けて、彼が渡してくれた長い杖を取り出した。先端の水晶が、鈍い光を帯びている。息を止めるようにして、水晶をゆっくりとドアノブに近づけた。魔力の揺らぎか、隠された術式があれば、この水晶は反応するはずだ。


一秒、待った。永遠みたいな一秒だった。


……何も起きない。水晶は微動だにしなかった。


唾を飲み込んで、目を閉じた。奥歯を噛み締めて、反対の手でノブを掴んで、押した。


扉は、何の抵抗もなく開いた。鍵すら、かかっていなかった。


――!?


固まった。どういうことだ……。あの魔法使いは世界一無警戒な人間か、それとも、裏口を無防備のままにしていても全く気にしない理由があるのか。屋敷の正面から、距離に遮られた爆発音と怒声が聞こえてくる。それから――戦闘の音? 魔術師たちとハンターたちがもう動き出しているんだ。時間がない。


素早く入って、音を立てないように扉を閉めた。


広い台所だった。静寂が満ちている。コンロの上には料理の乗った皿が幾つか残っていた。まるで、宴が中断されたみたいに。壁に張り付くようにして、少しずつ前へ進んだ。気を抜いたら終わりだ。壁を伝って、台所とメインホールを繋ぐ入口の柱まで辿り着いた。ほんの少しだけ、顔を出して中を確認した。


広い。想像以上に広いホールだった。


奥には食べかけの料理が並ぶ長いテーブル。その横に、七脚の椅子に囲まれた別のテーブルがある。一脚は床に倒れていて、残りはばらばらに乱れていた。急いで立ち上がった人たちが残していった跡、みたいな。それと――壁中に貼られた色とりどりの風船。何の脈絡もなく、センスの欠片もない飾り付け。まるで廃墟の誕生日パーティーみたいで、ただただ不気味だった。段ボール箱があちこちに積まれ、美的感覚のかけらもない。


体を低くして、猫みたいな足音でホールに踏み込んだ。手掛かりが欲しい。継承者たちはどこへ連れていかれた? リディアは……どこにいる?


七脚のテーブルに近づいたとき、床に暗い染みがあるのに気づいた。背中を冷たいものが走った。血、か? 近づいてよく見ると、そうじゃなさそうだ。でも、その一瞬の想像だけで体が竦んだ。左手には二階へ続く階段がある。魔法使いと正面から戦うのは自殺行為だとわかってる。でも、この不確かさが、頭をじわじわと蝕んでくる。


突然、リュックが揺れた。何かが中で動いている。急いで開けると――持ってきた石の欠片二つが、激しく振動していた。それだけじゃない。青みがかった光が、脈打つようなリズムで瞬いている。リュックを右へ傾けると光が強くなった。左へ傾けると弱まった。


偶然じゃない。


石が、何かに反応している。道を、示している。


不安が喉の奥まで込み上がってきて、心臓が胸を突き破りそうで――でも、リディアの顔が頭に浮かんだ。あの人を助けるために来たんだ。賭けるしかない。


そのとき、遠くの窓から紫色の閃光が射し込んだ。あまりに眩しくて思わず目を覆った。次の瞬間、周りの空間が歪み始めた。床が捩れる。巨大な石の壁がどこからともなく生えてきて、出口を塞ぎ、物理法則を無視した通路を作り上げていく。あっという間に、屋敷の内部は支離滅裂な迷宮へと変貌していた。


手の中の石が、焼けるように振動している。まるで鼓動みたいなリズムで、光り続けている。


恐怖と焦りで半分頭がどうにかなりながら、石に向かって囁いた。


「……案内してくれてる? 本当に、助けてくれてる? お願い……何か、合図をくれ」


石の欠片が、二度強く瞬いた。心臓をぎゅっと掴まれたみたいな感覚がした。……頭がおかしくなりそうだった。でも、返事があった。


「リディアさんのところへ連れて行ってくれ。頼む」


石が、深い青に輝いた。「はい」と言うみたいに。


全部を委ねた。


ありえない角度に折れ曲がった廊下を歩き、暗い部屋を抜けて、扉を開けて、また廊下へ。左、扉を越えて、暗い部屋、右、廊下。どこまで続くんだろうという感覚が来始めた頃、石が目が眩むような白い光を放った。警告みたいに。


足を止めた。


この廊下の奥に、扉はない。左に開口部がある。石の壁に張り付いて、ゆっくりと中を覗いた。


――いた。


魔法使いが、そこにいた。


外の喧騒など、まるで存在しないかのような顔をして。磁器のカップを持ち、優雅に紅茶を啜っている。あの落ち着き払った様子を見た瞬間、胃の底から怒りが込み上げてきた。石の欠片をリュックに戻して、深く息を吸った。震える両手を、どうにか落ち着かせる。以前の対峙を思い出した。小春に会いたかったあのとき――あのときは、どうやったのか自分でも分からなかった。でも今は、ヴィクターの杖がある。それが、今の僕の全てだ。


息を吐いて、杖を両手で握り込んだ。指の節が白くなるまで。


踏み出した。


「動くな!」


声に力を込めて叫んだ。


魔法使いは本当に驚いた様子だった。こちらを振り向いた瞬間、その目が大きく見開かれた。動きが止まる。紅茶のカップを宙に持ったまま、口が半開きになっていた。でも、その動揺はすぐに消えた。信じられないような速さで、表情が戻ってくる。カップを優雅にテーブルへ置いて、微笑んだ。


「これはこれは……実に予想外だ。誰かがここまで辿り着くとは思っていなかった。まして、アカデミーの生徒とはな」


「動くなと言った!」


杖を向け直した。


「外はもう動いている。素直に投降しろ。それが最善だ」


魔法使いは言葉を無視して、小さく笑った。


「紅茶でも飲みながら、その援軍とやらを待てばいいんじゃないか」


………こいつは今、面と向かって僕を馬鹿にしている。杖を脅すように動かした。


「まったく、水を差す客だな……」


魔法使いは溜息をついた。


「せっかくだから、挨拶くらいしよう。私の名はケイル・ヴェイルだ」


答えなかった。名前を教えるつもりはない。


「礼儀がないな。人間というのは、もっとちゃんとした作法を持っていると思っていたんだが、エンディミオンの者ならなおのこと」


「礼儀を持つ義理はない。お前みたいな奴にはな」


「狂人?狂人とは、誰の目に映るか次第だ」


ケイルは静かに首を傾げた。


「なぜそう言う。君は私のことを何も知らない。なぜそんなことをしているか、理由も知らないはずだ」


「理由があっても正当化できない!」


声が震えた。自分でも驚くほどに。怒りを吐き出したはずなのに、胸の奥では恐怖が膨らんでいた。彼の落ち着きが、逆にこちらの心を乱していく。


「継承者たちを誘拐して――それが悪じゃないって言うのか?!」


「視野が狭い。だからそう思う」


「お前のような存在に、人間の倫理はわからない。わかるはずがない。お前はこちらの世界の生き物じゃないんだから」


ケイルは小さく、笑った。それがひどく不気味だった。冷たさではなく、確信に満ちた笑み。


「……そうかもしれない。ずっと人間を近くで見てきたが、理解しきれたためしがない、というのは確かだな」


そしてその目が、こちらを真っ直ぐに捉えた。まるで問いかけるように。


「だが、君は本当に理解しているのか? 人間の倫理とは何だ? 誰が決めた? 君が信じる正義も、結局は誰かに植え付けられたものではないのか?」


――ぞわっ


魂を全部読まれる感覚がした。ケイルの表情が、何か確信したような笑みに変わっていく。


「君はなぜここへ来た?」


「お前には関係ない」


「推測しよう……」


ケイルは顎に指を当て、楽しげに目を細めた。


「名声のためか? 魔術師の社会で英雄になりたいのか?」


胸が詰まった。声が震える。


「違う!」


「ならば、七つの一族から報酬を期待しているとか?」


心臓が跳ねる。彼の言葉は刃のように突き刺さる。


「そんなんじゃない!」


「権力か? 地位か? 禁じられた術式か?」


喉が乾いて、息が詰まる。否定の言葉を吐き出すしかなかった。


「――違う! 違う! 正しいことをしているだけだ!」


両腕が杖ごと震えていた。心臓の鼓動が耳に響く。ケイルはわずかに失望した顔をした。でも、次の瞬間、その笑みが広がっていった。人の悪い、醜いほど大きな笑みに。


「……なるほど。わかった。ここに、気にかけている人間がいるんだな」


空気が肺から全部消えたみたいだった。指が杖に食い込んで、足が震えた。否定の言葉が、出てこなかった。


ケイルは声を低くした。


「七つの継承者に、このような立場の外の人間に友人がいるとは。……ミドリ・ワイルドソウルか? いや、違う。君の目はハンターを探す目ではない」


その名が出た瞬間、胸が締め付けられた。違う、と言いたいのに声が出ない。


「ユキナ・ウィンターフォールか? 傷つきやすい者を守りたいという目では、ある。でも、君の反応は浅い。心の奥に届いていない」


歯の根が合わなくなってきた。ケイルは遊んでいる。いや、解剖している。心を一枚ずつ剥がしていくように。


「ソラ・グリムストーンか? 冷たすぎる。カイ・ドラゴンズベインか? 敵対的すぎる。ショウ・アッシュフォードか? 目に十分な苦悩がない」


名前が並ぶたびに、胸が締め付けられる。否定しようとするたびに、喉が塞がる。彼は本当に読んでいる。心の奥底まで。


ケイルが、間を置いた。その目がゆっくりとこちらに向いて、奥底まで見通すように細くなった。


「なら……あの子だ」


静かな声で言った。


「いつも制御している。弱みを見せない。策略家。ナイトシェイドの継承者……」


杖を持つ手から力が抜けた。


「リディアに会いに来た、のか」


その名前を聞いた瞬間、怒りが全身に戻ってきた。奥歯を噛んで、魔力を練り始めた。属性攻撃を叩き込んでやる――でも、ケイルの声が氷みたいに割り込んできた。


「考え直した方がいい。後悔することになる」


体が止まった。直接的な警告だ。直接ぶつかれば、リディアに何をするかわからない。攻撃は使えない。


「……彼女のような女性に、命を賭けてここまで来る人間がいるとは。本当に意外だ」


「……どこにいる」


声が裂けた。喉の奥から無理やり絞り出したような声だった。自分でも驚くほど荒く、震えていた。


「リディアは、どこだ」


言葉を吐き出した瞬間、胸の奥が焼けるように痛み、全身の血が逆流するような感覚が走った。杖を握る手は汗で滑りそうになり、指先が白くなるほど力を込めていた。


「落ち着け。身体的な危害は加えていない」


ケイルは椅子に背を預け、わざとゆっくりと息を吐いた。


「そんなに会いたいなら、見せてやろう。リディア、来なさい」


空中に手のひらを叩く音が響いた。背後の木の扉が、軋むように、内側から開いていく。冷たい空気が流れ込み、心臓が一瞬止まった。


そして―― 世界が、止まった。


信じたくなかった。信じられなかった。


いつだって、圧倒的な威圧感と絶対的な自制心を纏っていた人。冷静なる策略家。一度たりとも鎧に亀裂を見せたことのなかった人。命令を出すことを当然としていた、あの人が―― 白のメイドエプロンを、黒いレースのビキニの上から身に着けて、その胸に赤いリボンを結んでいた。白いメイド頭飾りが、丁寧に整えられた髪を留めている。肩は剥き出しで、長い足には白いニーソックスが絡んでいる。両手には銀のトレイと、湯気の立つ紅茶のカップ。


一度、瞬きをした。もう一度、した。脳が、拒否していた。


……これは幻術か?ケイルの汚い罠か?視覚への干渉か?


でも――彼女だった。その顔は、紛れもなく彼女のものだった。ただ、あの琥珀色の目が。いつもなら鋭い知性で光っていた目が、今は完全に消えていた。死んでいた。魂の欠片もなかった。


胸が収縮して、呼吸ができなくなった。


こんな姿を見たくなかった。彼女をこんな形で見たくなかった。あれほど尊敬していた人が、あれほど深い感情を向けていた人が、こんなふうに貶められて。それが、刃物で胃を刺されて、ゆっくりと捩られるような痛みを起こしていた。そして最悪なことは―― それだけ惨くて、それだけ屈辱的な状況なのに、彼女は、どこか美しかった。そのことが、刃のように腹に突き刺さって、ゆっくりと回転した。


リディアは、トレイを持ったまま、虚空を見ていた。こちらを見ない。ケイルも見ない。ただ、何もない場所を。


ケイルの声が、静かに重なった。


「見ろ。これが支配だ。意志を奪えば、人はどんな姿でも受け入れる。美も尊厳も、ただの器に過ぎない」


その言葉が胸を抉った瞬間、体が勝手に動きそうになった。足が床を蹴り、彼女へ駆け寄ろうとする衝動が全身を支配する。腕が震え、杖を握る手が汗で滑りそうになる。喉の奥から叫びがこみ上げ、理性を押し潰しそうだった。


――助けたい。触れて、揺さぶって、目を覚まさせたい。


だが、ほんの一歩でも踏み出せば、ケイルが何をするかわからない。彼の支配の中で、リディアは糸で吊られた人形にすぎない。自分の動き一つで、その糸が切られ、彼女が壊されるかもしれない。


全身が引き裂かれるような葛藤だった。動けない。動いてはいけない。理性が必死に鎖をかけて、衝動を押し止める。


唇が乾き、声が勝手に漏れた。


「……リディア」


声が、割れた。砕けたガラスのように。


「僕だ。アキラだ。聞こえるか」


返事はなかった。彼女は微動だにしなかった。


「紅茶を注いでくれ」


とケイルが言った。


リディアは機械のように歩き、トレイをテーブルに置いた。ティーポットを持ち上げ、液体を注ぐ。その動作は、まるで儀式のようだった。


紅茶がカップに落ちる音は、静寂の中で鐘のように響いた。彼女の手の動きは滑らかで、完璧で、まるで聖職者が祭壇で捧げ物を整えているかのように見えた。だがそこには祈りも、信仰もなかった。あるのは命令だけ。


見ていられなかった。あの人が、誰かに茶を注ぐなんて。あの人が、こんなふうに従うなんて。尊厳が剥ぎ取られ、儀式の形だけが残っている。


その姿は、信仰を失った神殿の儀式のようだった。空虚で、意味を失い、ただ形だけが繰り返される。彼女の動きは美しく整っているのに、その美しさが逆に残酷だった。


「座れ」


ケイルがちらりとこちらを見た。目は冷たく、しかし楽しんでいるように。


「従わなければ、リディアに攻撃を命じる」


その言葉が刃のように突き刺さった。両手から力が抜け、杖が体の横に落ちた。心臓が跳ね、呼吸が止まる。動けば彼女が傷つく。動けない。


何もできなかった。一発も撃てなかった。全部、終わった気がした。


足が勝手に動いて、椅子まで辿り着いて、崩れ落ちた。


「正しい判断だ」


ケイルの声が、勝者の余裕を帯びて響いた。


顔が上げられない。でも、確認しなければならなかった。ゆっくりと顔を上げて、ケイルの隣に立つリディアを見た。涙が、目の裏に滲んでくる。


「……何を、した。彼女に何をした」


声は震え、喉が焼けるように痛んだ。


「悪いことは何もしていない。相応の罰を与えただけだ。誘拐した継承者の中で、楓を除けば、彼女が最も激しく抵抗した。だから、罰した」


――ドン


頭に血が上った。テーブルを思い切り叩き飛ばした。立ち上がって、両手を握り締める。爪が手のひらに食い込んで、痛みが走った。荒い息の中に、一つだけ鮮明な衝動があった。今すぐ、ケイルを殺したい。


ケイルは微動だにしなかった。倒れたテーブルを一瞥して、溜息をついた。


「紅茶が無駄になった……。落ち着け。リディア、テーブルを戻しなさい」


リディアは即座に動いた。床に落ちたテーブルを持ち上げて、元の場所に戻す。唸り声一つなかった。不満の欠片も見えなかった。ただ、命令通りに。


その光景が、心を粉々に砕いた。彼女が命令に従うたびに、自分の中の何かが死んでいく。涙が、頬を伝い落ちた。


「座れ」


ケイルが手で示した。


負けて、また椅子に落ちた。自分の両手を見た。爪の跡が、赤く残っている。血が滲みそうなほど深く。――それでも、何もできなかった。


「随分と動揺しているな。感傷的だ」


ケイルはこちらを分析するように見ていた。瞳は冷たく、だが愉快そうに光っていた。


「利用価値がある」


「……何が言いたい」


頭を上げずに言った。声は低く、喉が焼けるように痛んだ。


「継承者たちを観察してきた。人間も観察してきた。その中で、リディアが最も脆い。最も強く見えながら、最も脆い。その二つは、同時に成立する」


その言葉が胸を抉った。強さと脆さ――それは彼女の本質を突いていた。否定したかった。だが、心臓が跳ね、呼吸が乱れる。


「何が言いたいんだ」


「君が彼女に向ける感情が、何なのかを知りたい。何が君をここに連れてきたの?」


「関係ない」


言葉は吐き出したが、震えていた。沈黙が、逆に答えを示してしまう。


ケイルは首を傾げ、笑みを深めた。


「一番の親友だからか」


胸が締め付けられた。声を出せない。否定すれば嘘になる。肯定すれば弱みになる。


ケイルは首を傾げ、笑みを深めた。


「一番の親友だからか」


胸が締め付けられた。声を出せない。否定すれば嘘になる。肯定すれば弱みになる。


「友情とは面白いものだ。人はそれを自由な絆だと思っている。しかし実際には、互いに期待を押し付け、役割を演じさせ、従わせる。『親友』という言葉は、最も柔らかい形の支配だ。人はその名の下に、相手を縛り、相手に縛られる。君もそうだろう? 彼女を守る義務を背負い、彼女は君に信頼を預ける。その構造は、命令と従属に何が違う?」


言葉が胸を抉った。確かに、リディアを守ることは自分の義務だと思っていた。だが、それを「支配」と呼ばれると、心がざわめいた。


ケイルはさらに笑みを深め、声を低くした。


「それとも、愛しているからか」


その瞬間、怒りが体の中を走り抜けた。血が沸騰するような感覚。だが沈黙が、全てを答えていた。声を出せないことが、何より雄弁だった。


ケイルはゆっくりと手を叩き始めた。乾いた音が部屋に響く。片目から、わざとらしい涙が流れた。


「美しいな。人間はいつも、愛に縛られる。愛は最も強力な支配だ。友情よりも深く、義務よりも重い。人は愛する者のために自分を犠牲にし、理性を捨て、未来さえ投げ出す。自由を求めながら、結局は誰かに心を捧げる。君はその典型だ。英雄ではなく、ただの男だ。愛に操られる人間だ」


――胸が焼けるように痛んだ。言葉の一つ一つが、心臓を握り潰すように響いた。否定したい。違うと叫びたい。だが、声が出ない。自分がここまで来た理由を思い返すたびに、彼の言葉が真実に近づいていくのを感じてしまう。愛が支配だと? そんなはずはない。けれど、リディアのためなら何もかも捨てる覚悟を持っていた。それを突きつけられると、理性が揺らぎ、呼吸が乱れた。


拳を握り、爪が掌に食い込む。痛みで意識を繋ぎ止めるしかなかった。


「大当たりだ。感動した。死の迷宮を、愛だけで踏破した人間を見たのは初めてだ。実に……美しい」


その声には、嘲りではなく、本当に感動している響きがあった。だが、それが逆に恐ろしかった。敵が心を動かされている――その事実が、理性を揺さぶった。テーブルの下で爪が肉に食い込み、痛みが走る。


ケイルはゆっくりと息を吐き、こちらを見た。


「人間は不思議だ。愛や友情を誇りにするが、それらは最も強固な支配の形だ。なぜなら、人は自由を恐れている。自由は決断を強いる。決断は失敗を生む。失敗は痛みを残す。だから人は、誰かに決めてもらいたいのだ。安心を得るために、膝を折る。従属は強制ではなく、選択の仮面をかぶる。だからこそ美しい。だからこそ脆い」


その言葉が胸を抉った。確かに、自分はリディアのためにここまで来た。彼女のためなら何でも捨てる覚悟を持っていた。それを「支配」と呼ばれると、心がざわめいた。


ケイルはさらに続けた。


「人は必ず『中心』を求める。神でも、国でも、家族でも、愛でも。中心を見つけた瞬間、人は自分を問わなくなる。『誰であるか』ではなく、『誰に従うか』で存在を定義する。君にとって、その中心はリディアだ。だから君はここにいる。だから君は彼女のために全てを捨てる」


ケイルの瞳が細くなった。


「人は自由を欲していると口にする。だが本当は違う。自由は決断を強いる。決断は失敗を生む。失敗は痛みを残す。だから人は、自由を恐れている。恐怖から逃れるために、誰かに従うのだ」


胸が締め付けられた。確かに、自分もリディアのために選び続けてきた。その選択が正しいかどうか、常に恐れていた。


「人は自分を知っていると思い込む。だが、より大きな存在に出会った瞬間、古い自分を捨てる。アイデンティティとは空虚だ。誰かに支えられて初めて形を持つ。従属は弱さではない。従うことで責任を失い、恐怖から解放される。兵士は将軍を、信者は神を、子は親を、恋人は運命を――誰も自分を責めたくはない」


喉が焼けるように痛んだ。彼の言葉は残酷だが、どこか真実を含んでいるように思えてしまう。


「自由は贈り物ではない。自由は罰だ。思考し、選び、間違えるという罰だ。だが従属は安らぎだ。従う者は眠れる。従う者は苦しまない。だから人は必ず、誰かに膝を折る」


――胸が抉られるように痛んだ。言葉の一つ一つが、理性を削り取っていく。否定したいのに、心の奥で認めてしまう。リディアが自分の中心であることを。


ケイルは視線をリディアに移した。


「では、見せてやろう。支配の形を」


指先を組み、静かに言葉を重ねた。


「跪け」


――っ。


足の力が消えた。


リディアは、一秒の迷いもなく膝をついた。冷たい石の床に、両手を太腿の上に揃えて、頭を下げた。完璧な臣従の形で。


「……やめろ」


声が出なかった。喉が塞がり、息が詰まる。


「リディア……立て。お願いだ、立ってくれ」


彼女はこちらを見なかった。瞬きすら、しなかった。


「人間の意志は非常に脆弱だ」


ケイルは父親みたいな声で言った。


「方向性を与え、形を変え、好きなように曲げられる。リディアは抵抗しようとした。しかし、最終的に全ての防衛が崩れた。今は私のものだ。命令には従う」


「お前は悪魔だ。人間のことを何もわかっていない。支配できると思っているから、上位の存在だと思っているから、好き勝手やっていいと思っているのか!」


ケイルはこちらから目を離さずに、両肘をテーブルの上に乗せて指を組んだ。


「支配が、力の行使だと思っているのか。催眠をかけることで服従させる、それだけだと? 違う。真の支配は、見える鎖を必要としない。人間は毎日自分で自分を形作っている、自覚もないまま命令の下で。生まれた瞬間から、どう話すべきか、どう着るべきか、何を望むべきかを言い聞かされる。そしてそれを受け入れる。教育と呼ぶ。伝統と呼ぶ。文化と呼ぶ。だが本質は服従だ、アイデンティティに偽装されただけの」


答えたくなかった。言い返す価値もない。ケイルは構わず続けた。


「君が救おうとしている継承者たちを見ろ。彼らはもう一族の奴隷ではないのか。疑問を持たずに服従することを学んだ、自分では選ばなかったルールに従うことを。私は何もしていない、ただその真実を剥き出しにしただけだ。人間は可塑的なのだと。正しい感情の糸を引けば、望む方向へと傾く。これは魔法ではない。理解の問題だ。意志とは、幻想だということを」


「そんなことはない! お前は間違っている!」


ケイルは無視して続けた。


「最も興味深いのは、彼らが選んでいると信じていることだ。自分の行動は自由だと思っている。しかし実際には、全ての選択が他者によって植え付けられたものに条件付けられている。親、教師、指導者……全員が痕跡を残している。私はただそのプロセスを洗練させているだけだ。私は、彼らが決して自由ではなかったことを映す鏡だ」


テーブルを叩いた。ケイルは止まらなかった。


「憎しみからやっているのではない。むしろ愛している。人間が脆弱だから。導かれる必要があるから。その脆弱さが、美しさだ。自分自身の不確かさの中で迷子にならないよう方向を与えること、より大きなものにすること――それが愛というものではないのか」


「それは愛じゃない! お前は独裁者だ!」


「独裁と呼ぶのは君だ。私は真実と呼ぶ。自由は人間を破滅させる神話だ、支配が人間を支える構造だ。そして、リディアを取り戻そうとしている間、君に問いたい。私の支配と、彼女の一族がすでに及ぼしていた支配の何が違う? 私たちは全員、誰かが糸を引く操り人形だ。変わるのはただ、誰が糸を持つかだ」


「誰もお前のものじゃない!」


喉が焼けるように叫んだ。


「リディアも、誰のものでもない!」


「そうか? では、誰のものだ?」


ケイルは笑みを深め、声を落ち着けた。


「従属の本質は、命令に従うことではない。自らの反抗を否定し、罪と呼び、赦しを乞うことだ。人間はそうして安心を得る。自分の意思を放棄し、上位の存在に委ねることで、責任から解放される。これこそが、真の支配だ」


――胸が抉られるように痛んだ。反抗を罪と呼ぶ? それを謝罪させる? そんなものは支配ではなく、人格の破壊だ。だが、彼の言葉は冷たく理路整然としていて、否定すればするほど自分の声が震えた。


ケイルはリディアに目を向け、指先を軽く動かした。


「自らの反抗を詫びろ」


リディアは既に石の床に膝をついていた。白いニーソックスが冷たさを吸い込み、黒いレースの布地が不自然に光を反射していた。その姿だけでも耐え難かったのに――彼女はさらに、ゆっくりと首を傾けていった。


髪に飾られた白いメイド頭飾りが揺れ、整えられた髪が重力に従って垂れ落ちる。やがて、額が石に近づき、完全に地へと伏した。


その動作は、儀式のように整っていた。抵抗も、逡巡も、一切なかった。完璧な臣従の形。


「私の反抗について、心よりお詫び申し上げます、ケイル様」


その声は、空洞だった。感情の欠片もなく、ただ命令をなぞるだけの音。


――刃が胸を貫いた。尊厳を誇りにしていた彼女が、床に頭を擦りつけ、謝罪の言葉を吐いている。信じられなかった。信じたくなかった。


「やめろ! やめてくれ!」


叫びながら立ち上がって、またテーブルを揺らした。


リディアは動じなかった。跪いたまま、こちらを見なかった。


ケイルは昆虫でも観察するような目でこちらを見ていた。


「終わったか?」


退屈そうに言った。


「まだ続けるなら、いくらでも命令できる。可能性は無限だ、知っているか」


息を荒く吐きながら、気がついた。挑発されている。平静を失わせて、隙を作るつもりだ。それが狙いだ。


深く、息を吸った。座り直した。


「……何が目的だ」


かろうじて視線を保った。


「何のためにやっている」


ケイルはこちらを静かに観察した。


「知恵。制御。力。全員が探し求めるものだ。だが私が欲しいのは力ではない。君の注意だ。逃げ場などないことを理解させたかった。そして……提案をしたかった」


「お前からは何もいらない」


「彼女も要らないか?」


ケイルはリディアを指した。


「君に仕えるよう命じることができる。君の前に跪かせることができる。君を"ご主人様"と呼ばせることができる。彼女を君のものにする。それが私の提案だ。本当に愛しているなら、彼女が自分だけのものになることを望むべきだろう?」


沈黙が、重くなった。


床に跪くリディアを見た。その言葉が頭の中で響いた。


「君のものにできる」。


それは、彼女の存在への冒涜だった。完全な、絶対的な冒涜だった。リディアは物じゃない。慰めの賞品でも、誰かの玩具でもない。人間だ。所有したいわけじゃない。彼女に、自由を返したい。


静かになった。自分の中に、知らなかった芯があるのを感じた。


「リディアは、お前が与えたり奪ったりできる物じゃない」


声は、これまでで一番穏やかだった。


「賞品でも報酬でもない。人間だ。解放する。持ちたいからじゃなく、彼女が自由になるべきだから」


ケイルは指を組み、声を落ち着けた。


「人は所有されることで安心する。誰かのものになることで、迷いを失う。愛とは、結局その欲望の別名だ。君が拒むなら、それは美しい理想だ。だが理想は脆い。現実は、誰もが誰かのものになりたがっている」


「自由は罰じゃない。罰は、自由を奪われて自分で選べなくなることだ」


ケイルが、瞬きをした。


本当に、驚いた顔だった。初めてだと思った。その目が開いて、こちらを見る表情に、何か本物の温度が混じっていた。


「面白い……。君は他の魔術師たちとは、違うんだな」


答えなかった。拳を握った瞬間、背中が激しく熱くなった。リュックが青い光を放っていた。あまりに強くて、布地を透過している。


ケイルが弾かれたように立ち上がって、防衛の姿勢を取った。


「それは何だ」


神経質な声で言った。


立ち上がって、数歩後ろに下がった。光は眩しくなるばかりだ。ケイルが自分で結論に至ったようだった。


「魔法の武器だ! 仕掛ける機会を待っていたのか!」


震える指でリディアを指した。


「リディア、立て。攻撃しろ!」


リディアが即座に立ち上がった。杖を抜いて、まっすぐにこちらへ向けた。電撃の奔流が、彼女の杖から迸る。反射で動いた。長い杖を掲げて、氷の魔術障壁を張った。電気が凍てついた壁にぶつかって、亀裂を走らせながら甲高い音を立てた。


「リディア、止まれ! 僕だ、アキラだ!」


反応はなかった。空虚な目のまま、さらにエネルギーを込め直していた。


「なぜ攻撃しない」


ケイルが距離を取りながら言った。


「傷つけられない!」


ケイルに向かって叫んだ。


「止めてくれ! 傷つけたくない!」


「傷つける?」


ケイルが嘲笑した。


「君が彼女を? 彼女は一族の戦士だ。君はエンディミオンの生徒に過ぎない。どちらかというと、彼女が君を殺す。リュックにあるものを出せ!」


正しかった。氷の障壁が完全に砕け始めていた。魔力の消耗が速い。でも背中の振動が限界を超えていた。


「石が反応している!」


張り上げた声が裏返った。


「爆発するかもしれない、わかるか!」


どうにかケイルの命令を止めさせる言葉を探した。ケイルがリュックを透過する青い光を凝視して、眉を顰めた。


「石……だと?」


呟きが漏れた。


「まさか……」


リュックの布が、ぱりっという音とともに裂けた。二つの欠片が飛び出して、リディアと僕の間の空中に浮かんだ。目を灼く光が部屋全体を満たした。


「そんな……!」


ケイルが叫んだ。平静が崩れた。目の中に、剥き出しの欲望が光った。


「その石! 探していた石だ! なぜ君が持っているんだ!」


欠片が互いの周りを回り始めた。回転が速くなる。融合するエネルギーの渦の中で、眩い白い閃光とともに、二つが一つになった。石は、完全になった。


ケイルが貪欲な足取りで近づいてきた。


「それだ! 装置のために必要なものだ! 寄越せ!」


盲目的な怒りが来た。渡さない。絶対に。リディアにあれほどのことをした後で、渡せるものか。考えより先に手が動いた。空中に指で線を引いた。線が銀色に輝いて、古の言語マジクスの文字を形作りながら絡み合い、完全な石の周りに守護の円を描いた。


ケイルが後退した。目に、はっきりと恐怖があった。


「どうして……。触媒なしで古の言語を使えるのか。君は一体、何だ」


「お前に勝ちを譲らない人間だ」


吐き出すように言った。


でも、ケイルは諦めなかった。リディアに向かって指を突きつけた。


「リディア! 飛びかかれ! 動かすな!」


リディアが信じられない速さで跳んだ。反応できなかった。体に直撃して、石の床に叩きつけられた。彼女の体が上から覆い被さって、完全に動きを封じた。


「リディア、目を覚ませ! お前はこんな人間じゃない!」


懇願したが、腕が動かなかった。彼女の重さは、意識のない者のものだった。


ケイルが浮かんでいる石に近づいて、手を伸ばした。指が触れた瞬間、光が消えた。部屋が暗くなった。


「ようやく……」


ケイルが囁いた。


「ようやく手に入れた。ホストは喜ぶだろう。こんなに長い間探し続けていたものが、エンディミオンの生徒のリュックにあったとは。しかし、偶然というものは実在するらしい」


背を向けて、後ろの扉へ歩き出した。


「待て!」


床から叫んだ。リディアの体の下から動けない。


「その"ホスト"とは誰だ? 石を何に使う?!」


ケイルは扉のところで振り返って、最後に微笑んだ。


「ホストか。長い間これを待っていた者だ。魔術師の社会の糸を最初から動かしていた者だ。もうすぐ、君も会う。全員が会うことになる」


それだけ言って、扉を通り抜けた。扉が、重い音を立てて閉まった。


静寂が戻ってきた。


冷たい石の床に仰向けで転がったまま、リディアの硬い体が上に重く乗っていた。その空ろな目は、どこか遠くを向いていた。世界が、崩れ落ちていく感覚がした。失敗した。守るために来たのに、守れなかった。石も持っていかれた。リディアは、まだあの暗い檻の中にいる。


勝てなかった。また、あの頃に戻った気がした。誰も守れない、弱いあの子に。


「リディア……」


声が、嗚咽に溺れた。


「リディア、聞こえるか……」


答えはなかった。


涙が、止まらなかった。頬を伝って、冷えた石に吸い込まれていく。敗北の重さが、文字通り胸の上にのしかかっていた。全部、振り出しに戻ったんだ。そう思った。


そのとき。


胸の上で、かすかな痙攣があった。


リディアの指が、小さく動いた。服の上を、そっと。ほとんど気づけないほど小さな動きだった。でも、確かにあった。その硬い体から、少しだけ張り詰めたものが抜けた気がした。


「……リディア?」


一筋の声だった。


「聞こえるか」


言葉は返ってこなかった。でも、指の感触が、何かを言っていた。意識の最奥の、奴隷にされたその場所で、彼女はまだ戦っていた。


腕で涙を拭いて、彼女をしっかりと抱きしめた。


「大丈夫だ……」


囁いた。新しい火が、胸の中で灯るのを感じた。


「大丈夫だ、リディア。ここにいる。一人にしない。絶対に、しない」


石は奪われた。敵は逃げた。でも、リディアはまだここで息をしている。


彼女が息をしている限り、諦める理由はない。

――守りたいもののために、


少女は再び立ち上がる。


けれど、


その前に立ちはだかるのは、


思いもよらない敵だった。


次回――


扉の向こう側


その先に、


待っているものとは。

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