深淵の入り口で
大切な人を、
失いたくない。
その想いだけが、
少年を動かしていた。
怖くても。
迷っても。
それでも、
彼は暗闇へ進む。
夜が、信じられないほど遅く、重く、進んでいた。
眠れない。寮室の天井をずっと見つめたまま、身体だけが何度も寝返りを打つ。シーツが肌に張り付いて、まるで熱を持っているみたいに感じる。それが体温なのか、それとも胸の中でくすぶり続けている何かのせいなのか、もう自分でも分からなかった。
リディア……
一日中、頭の中にその名前が焼き付いて離れない。今ごろ彼女は、あの忌まわしい会合の中にいる。一族たちの集う重要な頂上会議。胸の奥で、鈍い痛みが締め付けてくる。大丈夫だろうか。何かされていないだろうか。行って確かめたい気持ちは山々だけれど、もし何も起きていなかったら――すべてを危険に晒して、何もないアカデミーの外に飛び出したということになる。
でも、約束したんだ。
何があってもそこにいると、たとえ無理矢理にでも駆けつけると、そう言った。幸い、ベッドの下にはまだA.S.が置いていってくれたあの転移の紙が隠してある。その気になれば、いつでも気づかれることなくアカデミーを抜け出せる。
――そのとき、夜の静寂を遠くの音が裂いた。
最初はただのくぐもった響き。でもそれはすぐに、焦りに駆られた足音と、切迫した怒声の入り混じった叫びへと変わっていった。ベッドから飛び起きて窓へ駆け寄り、冷たいガラスに額を押しつける。外の様子を必死に目で追う。本棟とつながる外廊下に、異様な光景が広がっていた。何十人もの魔術師たちが杖を抜き放ったまま四方に向け、まるで敵がもうすでに壁の内側にいるかのように走り回っている。ハンターたちの戦術コートが、街灯の光の中で翻るのも見えた。言葉は距離に飲み込まれて、輪郭のない悲鳴と断片的な怒号しか届かない。
――何か、起きている。
唾を飲み込む。神経が総毛立って、脈が喉のあたりまで上がってくる感覚がある。視線を追いかけると、本棟からさらに大勢の魔術師たちが雪崩れるように出てきて、アカデミーの出口へと向かっていく。窓の外を見ているだけでは済まなかった。動かなければ。
部屋のドアを押し開けて、廊下へ飛び出した。
計画は単純だ。あの混乱の中に飛び込んで、誰かに何が起きているのかを聞く。それだけでいい。本棟の主廊下に踏み込んだ瞬間、空気そのものが違った。パニックが漂っている。魔術師たちが次々とすれ違いながら、互いに叫んでいる。
「エリート魔術師たちを今すぐ呼べ!」
「テロプロトコルを起動しろ!レッド・プライオリティだ!」
「大魔導師のストロンに確認した、バリアを閉じろ!」
誰も僕を見ない。存在すらしていないみたいだった。それでよかった。目の前を走り抜けるハンターの肩を掴もうとする。
「おい、何が起きてる?」
そう叫んでも、彼は僕の手を叩き払って前へ進んだ。別の魔術師に近づいても、青ざめた顔のまま何かを呟きながら避けられた。
仕方ない。正面の庭へ向かった。
エンディミオン正門前の広場は、もはや戦場の前哨基地だった。何百人もの魔術師とハンターが、街灯の光の下で緊急戦術陣形を組んでいる。石の演台の上に立った上位ハンターが、魔力で増幅した声を夜空に響かせた。
「全員に告げる!マーカス・ワイルドソウルの権限署名のもと、テロプロトコルが正式に発動された!」
その名を聞いた瞬間、血が凍った。
マーカス……。彼がこの警報を出したなら、これは本物の大惨事だ。
「即時突入特殊部隊の展開を開始する」
と演台の上の人物は続けた。
「対象は魔法使いケイル・ヴェイル。七つの一族の後継者たちへの直接攻撃、および高度な反逆罪の容疑による拘束作戦だ」
胸に、何かが突き刺さった。
背筋を純粋な恐怖が走り抜ける。リディアはそこにいた。あいつの標的の、真っ只中に。今すぐ出なければならない――でもすぐに、冷たい現実が顔に叩きつけられた。会合が行われていた屋敷の場所を、知らない。正確な場所を、知らない。
奥歯を噛んだ。焦りが胸の中で燃えて、行き場をなくしていく。
「静粛に!」
演台からの怒号が広場を圧した。
「公式報告によると、現場から自力で脱出した後継者は一名のみ。この警報を発したのも彼女だ。楓・エンバーストロムさんだ」
――拳を握った。
どうして楓なんだ。どうして彼女が、という感情が、頭の中で声にならないまま渦巻く。リディアの方がずっと頭がいい。もっと強い。もっと冷静に状況を読める人だ。なのに、なぜ……。そこまで考えて、自分が何をしているのか分かって、胃が沈んだ。こんなことを思っている場合じゃない。でも、リディアへの恐怖がまともな思考を溶かしていた。
「楓様は現在アカデミーへ護送中だ。より詳細な状況の証言を取る」
演台の声が続く。
「後継者たちが拘束されている屋敷の周囲はすでに観察員が包囲しているが、建物内に動きはない。落ち着いて聞け。敵のケイル・ヴェイルは逃亡中の魔法使い、レオ・アシュフォードと直接協力関係にある疑いが強い。マーカス・ワイルドソウルの見解では、レオが周辺に潜伏している可能性がある。これは壊滅級の作戦だ。杖を握れる魔術師、全員を動員する!」
そのとき、複数のエンジン音が夜を切り裂いた。
装甲車両が何台も、アカデミーの鉄門前で急ブレーキを踏んで止まる。門が開き、武装した護衛が素早く降りて、一つの小さな人影を囲んだ。
楓だ。
見た瞬間、身体が固まった。
彼女は、打ちひしがれていた。完全に。あの完璧に整えられているはずの髪は乱れて枯れ葉が絡まり、夜会服は裂けて泥だらけで、裸足のまま、濡れた土と乾いた血で足の裏を汚しながら歩いていた。視線は地面に落ちたまま、見物する何百という魔術師たちの目を向く力もないように見えた。護衛たちはすぐに彼女をアカデミー内へ連れていく。
追いかけようとは思わなかった。まだ、そのときじゃない。
「魔力を戦闘前に無駄にするな!各部隊は地上輸送で屋敷へ向かう。後継者たち救出作戦、今すぐ開始だ!」
「「「はい!」」」
何百という声が重なって、夜の木の葉を揺らした。人の波が輸送車両へと動き出す。あのハンターたちは、リディアのいる場所へ向かう。でも当然、僕は連れていってもらえない。ただの生徒に、ランクなんてない。
こっそり後を追うことはできる。
一歩、踏み出そうとした。
――足が動かなかった。
地面に縫い付けられたみたいに、そのまま止まる。恐怖だ。腹の底から這い上がってくる、何もかもを凍らせる類の恐怖だ。戦闘型の魔術師じゃない。レイナみたいに鍛え上げられてもいない。しかも今さっき、相手が魔法使いだと聞いた。後継者全員を同時に無力化した怪物に、どうやって向かっていくんだ。
頭の中で、楓が護衛に連れていかれた廊下が見える。
……まず、あの子に話を聞くべきだ。あの屋敷の中を、実際に知っているのは彼女だけだから。廊下を全速力で走り出す。あの状態なら、たぶん医務室に連れていかれているはずだ。確かめるまでもなく、突き当たりの医務室の前に、魔術医療班とガードが群がっているのが見えた。人をかき分けながら入ろうとしたとき、後ろから重くて確かな手が肩を掴んだ。
振り返る。
カイト先生だった。
「放してください、先生!」
思わず声が出る。
「今すぐ楓さんに話を聞かないといけない!」
カイト先生の手は鉄の挟み具みたいに、びくともしない。
「それで、なんで君が彼女と話す必要があるのかな」
と彼は、妙に穏やかな声で聞いてくる。
「テロ被害者に飛び込もうとする理由が、君にはあるのかい?」
「あります!」
声が裏返りそうになる。
「十分すぎるくらい!リディアさんがあそこにいるのに、何もしないで座っていられない!」
カイト先生は少しの間だけ黙った。それから、軽くため息をついた。
「……分かるよ、アキラくん。最近君がやってきたことも、ちゃんと聞いていた。でも、それでもまだ分からないんだよなあ。なんでここまで大きなことに、君が首を突っ込もうとするのかが」
その言葉で、僕の中の何かが抜けた。腕の力が消えて、両手がだらりと落ちる。奥歯を噛んで、拳を握る。爪が手のひらに食い込む痛みが、かろうじて踏みとどまらせてくれた。
また、これか……。
小春の顔が浮かんだ。冷たくなった、遠い目が。
もう、誰も失いたくない。
カイト先生の方に向き直る。胸が痛くて、呼吸が苦しい。目の奥が熱くなって、言葉を出すのが難しくなる。
「リディアさんを助けたいから、です」
声が震えた。
「約束しました。何かあったらそこにいるって。今まさに彼女が危ない、それなのに何もできなくて……。また失いたくない。また誰かを失いたくない。それに耐えられない……っ」
泣いていた。
手で顔を覆う。先生の前で、こんな姿を見せている自分が情けなかった。なんでリディアが、こんなに短い時間でこれほど大事な人になったんだろう。あの約束のせいだけじゃないと分かっていた。やっと誰かと本当のつながりを作り始めていたのに、またそれを運命に奪われようとしている――そんな恐怖が、全部重なって溢れ出た。
カイト先生の手の力が、少しずつ緩んでいく。
顔を上げると、先生がゆっくりとしゃがんで、目線を合わせてくれていた。驚いた。いつも外さないサングラスが、ない。先生の素顔の目と、初めて正面から向き合った。白い十字の紋様がはっきりと瞳に浮かんでいた。楓の目で見たのと同じ。不思議と、怖いとは思わなかった。
「アキラくん、勇気は本物だと思う」
先生の声は、今まで聞いたことのない、乾いた真剣さを帯びていた。
「正直、驚いている。でも、今回の敵は本当に容赦がない。もし本気でこの深みに入るなら……もう、戻る道はなくなる。それでも、入るかい?」
廊下は静かだった。僕たちだけがそこに残っているみたいな、不思議な時間だった。
「深み」の意味は、ちゃんと分かった。これを選ぶということは、普通の人間の日常とは完全に別れを告げることだ。魔術師の社会、その秘密の戦争、その暗闇の中に、ただ一人で踏み込んでいくことだ。でも、あの世界に戻れるものがもう残っているかと言えば――残っていない。過去は変えられないし、変えようともしていない。前を見るしかなかった。この先にあるものが、たとえどれほど危険でも。リディアがいる。大切な人たちがここにいる。
頷いた。声は、この夜で一番、ちゃんとしていた気がした。
「はい。入ります」
カイト先生は、ほんの少しだけ口元を緩めた。それから長い息を、ゆっくりと吐き出す。立ち上がって、サングラスをかけ直しながら医務室のドアを見た。
「背筋を伸ばして。迷わないで。それと、折れないように」
「はい」
カイト先生が前を歩く。医務室の前に立っていたハンターが道を塞ごうとして、カイト先生の顔を見た瞬間、静かに脇へよけた。
「彼も一緒だ」
カイト先生は一言だけそう言って、ガードは何も聞かずに僕たちを通した。
消毒薬と魔術薬品の匂いが漂う室内に入る。カイト先生は迷わずに奥へ進んで、メインの寝台の前で足を止めた。
楓がそこにいた。
医療班の二人が、彼女の裸足の足の裏に軟膏を塗っている。カイト先生の姿を視界に捉えた瞬間、楓の顔が、ゆっくりと崩れていった。あの高慢で整った表情が、雨に濡れた花びらみたいに、音もなく溶けていく。目から涙が次々と零れて、震えた声が漏れた。
「……お兄様……」
カイト先生は静かに近づいた。医療班が自然と間を空ける。何も言わずに、カイト先生は楓の肩を両腕で包んだ。楓は彼の肩に顔を押しつけて、小さな子どもみたいに声を上げて泣き始めた。カイト先生はただ、そこにいて彼女を支えていた。
視線を足元に落とした。こんなに近くで、こんなふうに見てしまうのが申し訳なかった。
「怖かった……」
楓の声が、嗚咽の合間に聞こえてくる。
「どうすれば良いか、分からなくて……エレノアさんが助けてくれなかったら、私の独自の能力がなかったら、きっともういなかった……」
「もう終わった、楓。よかった、無事でいてくれて。それだけで十分だ」
カイト先生の声は穏やかで低くて、まるで何年も前からそうして守ってきた人の声だった。
その言葉が耳に入った瞬間、胸に氷の刃が突き刺さるような痛みが走った。さっき庭で、どうして楓だけが助かったのかと怒りを覚えた自分が、頭の中に蘇る。リディアが囚われたままなのに、楓が生き延びたことを妬んでいたのだ。だが今、怯え切った彼女の姿を目にして、その感情の卑しさが鮮明に突きつけられた。楓には楓の、誰にも見せていなかった恐怖があった。それを無視して、ただ憎んでいた。謝らなければと思ったが、今の彼女には伝わらないだろうと分かっていた。だから心の中で誓った。二度と理由もなく誰かを憎まない、と。
楓が少し落ち着いてから、屋敷の中で何が起きたかを話し始めた。捜査官のハンターが二人、手帳に一言も漏らさないよう書き留めている。カイト先生は腕を組んで無言で聞いている。でも僕には、ケイル・ヴェイルが使ったのが大規模な精神支配の魔法だったという事実が、胸に重くのしかかってきた。魂への干渉は、評議会が明確に禁じている類の術だ。使用者が力を押し付ければ、被害者の心に取り返しのつかない傷が残る。
カイト先生が捜査官に向き直る。顎に力が入っているのが見えた。
「私もあの魔法使いへの突入部隊に加わる」
「お兄様、だめよ!」
楓がカイト先生の袖を掴む。
「あいつは……あいつは化け物だった。魔力の流れが、普通じゃなかった……!」
カイト先生はそっと楓の頭に手を置いて、軽く乱した。笑みが、静かに顔に浮かぶ。
「自分の兄を過小評価しすぎだよ、楓ちゃん。あいつには、僕の妹に何をしたか、直接返してくる」
楓の頬が一気に赤くなった。ぷいと横を向いて腕を組む。何か小さくぶつぶつ言っているのが聞こえたが、口元は確かに、ほんの少し緩んでいた。カイト先生が僕の方に目を向けた。
「準備しているから、アキラくん。楓に用があるなら今のうちにどうぞ」
カイト先生は捜査官二人を連れて医務室を出ていった。
楓と二人きりになった。彼女が赤みの引いていない目で僕を見る。どこかに、あの気丈さが戻ってきていた。
「……少し、落ち着きましたか」
「……落ち着いていないわ」
彼女はぼそりと言う。
「でも、ここにいれば安心できる気がする。あの場所と遠いから」
「よかった」
息を一つ吐いて、腹に力を入れた。
「実は……僕も、あの屋敷に向かうつもりです」
楓の目が丸くなった。それからすぐに眉が寄る。
「……救いようのない阿呆ね、アキラくん。死にに行くつもり?」
「たぶんそう思われても仕方ない」
少しだけ笑った。
「でも、行く理由があります」
彼女はしばらく僕の目を見ていた。それから小さくため息をついた。
「……それで。何を聞きに来たの。泣いているところを見に来ただけじゃないでしょう、どうせ」
「丘の上の屋敷の場所を教えてください。正確な住所と、道順を」
楓は断らなかった。あっさりと、方角と森の目印を教えてくれた。それが意外で、思わず少し驚いた。止めようとするか、もっと抵抗するかと思っていた。でも彼女には、もう人と言い争う気力が残っていないのかもしれない。
「もういいわ、行って」
寝台の上で向き直りながら、医療班に続きを促す。
踵を返して、扉の方へ向かう。
枠に手をかけたとき、背中に彼女の声が届いた。
「……どうして?」
楓が、こちらを見ずに聞いた。
「どうして、碌に戦えもしない人が、命の懸かった危険に飛び込むの。何があなたをそこまで動かすのか、気になるわ」
足を止めた。
何も考えなかった。答えは最初から、ずっとそこにあった。
「信じてもらえないかもしれないし……たぶん理解しにくいと思うけれど」
低い声で言う。
「リディアさんのためです」
その言葉を口に出した瞬間、顔が熱くなって、居ても立っても居られなくなった。振り返らずに廊下へ飛び出す。恥ずかしさに背中が焼けるみたいだったけれど、それと同時に、どこかが軽くなっていた。
自分の道が、もうはっきりと見えていた。
廊下を全力で駆けながら、気づいた。アカデミーの中が、さっきとは比べ物にならないほどざわついている。こんなに人が溢れているのを見たことがなかった。夜中なのに、昼間みたいな喧騒だ。全生徒の生徒が魔導書を抱えて走り回り、先生たちが怒鳴りながら指示を出して、事務方の職員が魔力水晶の詰まった箱を運んでいる。先月の陰陽師たちとの争いとは、規模が全然違う。今夜、魔術師の社会の行方が決まろうとしている。
でも、立ち止まる時間はない。寮へ戻らなければ。
走って、走って、自分の部屋のドアが見えた瞬間、立ち止まった。
ドアの前に、誰かが立っていた。
アリズだ。
胸が、鈍くうずいた。腕を体の横にぴったりとつけたまま、彼女は僕の方を見て、そして走ってきた。避けられない。部屋に入るには、彼女の前を通るしかない。
「アキラ!」
手を両方から握られた。
「もう知ってる?外で大規模なハンターと魔術師の展開があって、後継者たちを誰かが……」
「分かってる、アリズ」
先を遮って、できるだけ落ち着いた声で言う。
「それで、救出作戦に参加することに決めた。あそこへ行く」
アリズは驚かなかった。それが奇妙だった。いつもなら声を張り上げて、無謀だと怒鳴るはずなのに。今夜の彼女は、ただ静かに、震えた目で僕を見ていた。
「……アキラ」
少し間があった。
「変なことが、最近の私に起きてる。魔力が、変わっている気がして。うまく言えないけど……だから、一緒に行きたい。あなたを助けたい」
「だめだ、アリズ」
即答した。
アリズの顔が止まった。声が出ない、という顔だった。少しして、囁くような声が漏れる。
「……どうして」
「傷ついてほしくない」
まっすぐ見つめて言う。
「もう十分すぎるくらい、この石のことで苦しんできた。これ以上、危険な目に遭わせたくない」
彼女の前を通ろうとしたとき、腕を強く掴まれた。
「離してくれ、アリズ」
「嫌!」
声が大きくなる。
「離さない!なんで!?なんで助けさせてくれないの!?いつも一緒にやってきたのに!」
「言ったじゃないか!」
振り返って言い返す。
「傷ついてほしくないから!お前に何かあったら、嫌なんだ!」
アリズの目に、涙が溜まってくる。声が震えだす。そしてありったけの声で、叫んだ。
「じゃああんたが傷ついても良いの!?!」
何も言えなかった。言葉が、全部引っ込んでしまった。
彼女は正しい。彼女が感じている怖さは、僕が彼女に感じているものと同じだ。死にに行くように見える僕を、止められなくて、それが怖いんだ。分かった。分かっていたけれど、それでもアリズをあの戦場には連れて行けなかった。今まで何度も、この石のせいで傷ついてきた。これ以上は、させたくなかった。
「アリズ……失敗しない」
できるだけ静かに言う。
「必ず戻る。約束する」
「そんな約束いらない!」
涙が頬を流れていく。
「一緒に行かせて!あなたを帰してあげたいの!」
「連れて行けない」
目を逸らしながら言う。
「二人とも、正面から戦える力は持っていない。魔法使いを相手にして、二人で行ったら二人とも死ぬ。そんなことをするわけにいかない」
「じゃあ一人で行ったらどうやって戦うの!?何で戦うの、アキラ!?」
黙った。
コデックスから刻みつけられたあの知識は確かにある。でも実戦でどう使うか、分からない部分が多い。それでも行くしかなかった。誰かのために立っていなければならなかった。
「……ごめん、アリズ」
それだけ言うのがやっとだった。
「本当に、ごめん」
それを聞いた瞬間、アリズが爆発した。腕を揺さぶって、胸を叩いて、嗚咽混じりの息を繰り返した。最後に僕を突き飛ばして、廊下を駆け出していく。声が裂けそうなくらいの勢いで、叫びながら。
「この大馬鹿者ッ、アキラ!!」
一人残された廊下で、壁に頭を預けた。
自分が正しいとは思えない。アリズも正しいとは言い切れない。でも、どちらも全部間違いじゃなかった。アリズはずっと隣にいてくれた。彼女の助けと知識がなければ、ここまで来られなかった。それを知っていて、こんな形で引き離している。
「……くそ」
低く漏らして、目を閉じた。
そのとき、廊下の奥の階段の方から、重くて大きな足音が近づいてきた。振り向くと、息を切らせて走ってくる男の人影が光の中に入ってきた。
ヴィクターだ。
「アキラ!」
膝に手を突いて、大きく肩を上下させている。
「……見つけた。よかった。間に合った」
「ヴィクターさん……なんで寮まで?」
「……研究、完成したんだよ」
ゆっくりと、だるそうに言いながら呼吸を整えていく。
「海さんを救うための理論触媒。やっと完成した」
その言葉に、素直な喜びが一瞬だけ胸を満たした。
「本当に?それはすごい、ヴィクターさん……」
でもすぐに現実に引き戻される。
「でも今は、外がこんな状況で……」
「知ってるよ、だから来たんだ」
彼はやっと背筋を伸ばした。
「ハンターの総動員通知を見た瞬間、お前がそっちに向かうって分かった。だから走ってきた。渡したいものがある」
時間がないのは分かっていた。でも、ここまで来てくれた人の話を無視できるわけがなかった。
「聞きます。手短にお願いします」
「魔法使いを相手にするには、普通じゃない手段が要る」
白衣の内側から、細長いものを取り出しながら言う。
「だから持ってきた。試作品だ。俺の将来の魔術兵装ラインのプロトタイプ。お前に使ってほしい」
手を出すと、その杖が置かれた。
木製ではなかった。暗い色の合金製で、先端に深い赤のクリスタルが金属のルーン金具に抑えられて浮いており、指で持つだけで低い振動が伝わってくる。普通の杖より、重い。
「これは……どんな杖ですか」
「魔力直接増幅型の触媒、試作型だ」
彼は眠そうな声で続ける。
「説明するのも面倒くさいけど……まあ、普通の触媒と同じように使えばいい。魔力を流し込めば、内部のクリスタルが安定してくれる。変な癖はない……たぶん」
「ありがとう、ヴィクターさん。でも、実は杖が必要かどうか……」
「もらった石のかけらのためにやってるんだ」
と彼は遮った。
「でも持っておいて損はない。念のためだ。それより一個だけ覚えておけ」
杖を指で示す。
「使うときは展開するのを忘れるな。見た目より長い。圧力をかけると伸びる構造になってる」
「展開する、了解です」
「それと」
と彼は付け加えた。顔に、珍しく何か面白そうな光が宿っていた。
「俺も丘に行くつもりだ」
「……え?」
「マーカスと、古い話をつけてくる予定がある」
彼は欠伸混じりに言う。
「丁度いい機会じゃないか。現場で会おう、アキラ。……死ぬなよ、お前」
それだけ言って、来た道を戻っていった。
思わず苦笑した。ヴィクターという人は、本当に掴みどころがない。でも確かに、助けてくれていた。部屋に入って鍵を閉める。リュックを引き寄せて、底の隠し部屋に確かに二つの石の欠片があるのを確認した。肩に掛けて、床に膝をつく。ベッドの下へ手を差し込んで、転移の紙に触れる。
一瞬、空白があった。
次に気づいたときは、A.S.の部屋の中だった。最近、アカデミーで見かけていない。一族と組織が動いているこの状況なら、彼女なりの動きをしているはずだ。そのことを頭の隅に留めながら、窓から外へ出た。
夜の空気が、冷たく顔に当たった。
都市の外へ出ると、より深い闇と静寂がある。大きく息を吸い込んで、コデックスが刻んでくれた古代魔術の文字を、指先で空中に書いていく。微かな紫の光が、足元を包んだ。風の制御の術式。光も最小限に、静かに速く。楓から聞いた方向へ、丘へ向けて身体が押し出されていく。
走りながら、空を見上げた。
星が多い夜だった。なんとなく、その中にリディアの顔が見えた気がした。自分でも可笑しくて、小さく息を吐いた。疲れと緊張で、頭がおかしくなり始めているのかもしれない。でも、それで良かった。そういう、馬鹿みたいな理由で動いていい。
数分後、丘の上に屋敷の輪郭が浮かんだ。
予想通り、正面からは入れなかった。道路は完全に封鎖されていて、地元の警察に偽装した魔術師たちが検問を張っている。学生証を出すと、懐中電灯で照らされた。厳しい目が細くなる。
「通れ。でも邪魔するなよ。捜査中だ」
「……分かりました」
首を一つ下げて、通過した。心臓が早かった。この先に上位ハンターか精鋭の魔術師がいたら、それだけで終わりだ。でも今は、一歩でも前へ行くしかない。
屋敷に近づくにつれて、正面からのルートは消えた。重装備のハンターと魔術師が周囲を緊密に囲んでいる。公式部隊の目を、正面から掻い潜る方法はない。
森だ。
隙を見て、道路の縁を踏み、木々の暗がりへと滑り込んだ。草と腐葉土の匂いが鼻に入る。道なんてない。茨と古い枝と、湿った急斜面を手と足で上っていく。乾いた枝が折れる音がするたびに、身体が固まった。草が顔を打つ。何かが暗がりの向こうで動いた気がして、息を飲む。でも足を止めない。方向を見失わないように、コデックスから学んだ感知の術式を目に通す。魔力の痕跡が、水色の細い光の筋として見えてくる。丘の頂上から、強い揺らぎが流れ込んでくる。
それが、案内だった。
その光を、目で追い続ける。足を、一歩ずつ前へ出す。
リディアは、あの光の先にいる。
敵の本拠地。
囚われた六人の後継者。
そして、
待ち受ける一人の魔術師。
救出作戦は、
静かに始まった。
しかし――
その屋敷は、
もう普通の屋敷ではなかった。
次回――
「迷宮」




