七つの椅子と一つの空席
逃げることは、
弱さではない。
生きるために、
逃げなければならない時もある。
そして、
逃げた者にしか、
見えないものもある。
大きな鏡の前で、手が震えていた。
認めたくなかったのに……どうしても認めてしまう。完全に緊張している。生まれて初めて、お父様の姿なしに公式な会合へ出席するのだから、当然かもしれないかしら。幼いころ、お父様はよくこういった上流社会の催しに連れて行ってくれた。でも私は、いつも部屋の隅に置かれた飾り物に過ぎなかった――大人たちが世界の運命を議論するのを、黙って眺めているだけの子供。今夜は違う。今夜は、一族の代表として此処に立っている。
ベッドの上に、今日のために選んだドレスが広げられていた。深い紺青の色、高級な仕立て、光に当たるとほのかに輝く生地が夜空の星をまるで閉じ込めているみたい。
「……まったく、面倒なこと」
呟きながら、丁寧に布地を伸ばした。
「こんな窮屈な服、慣れるはずないのにねえ」
年相応に、もっと楽で可愛らしいものを選びたかった。でも一族の礼儀作法は完璧な優雅さを求める――生まれたときから課せられた、お嬢様という仮面を。着付けると、生地が身体に寄り添うように締まって、この場に臨む重みをもう一度思い知らされた。
それに今夜は初めて、他の一族の後継者たちと直接顔を合わせることにもなる。噂は何度も耳にしてきたけれど、一言も交わしたことはなかった。中でも最も気後れさせるのは、疑いなく――リディア・ナイトシェイド。彼女はただの学生ではない。最近の陰陽師との戦争で主席策士を務め、「同盟」と呼ばれる派閥まで組み上げた人物。あれほどの経歴と、押しつぶされそうなほどの頭脳を持つ子と数メートルの距離に立つことを想像するだけで、膝が笑いそうになる。
髪を整えながら、ほかの後継者のことを考えて、なんとか気持ちを落ち着かせようとした。リディアさんは別格として、ほかの子たちはあれほど突出した実績があるわけじゃない。理屈の上では、みんな同じ新人の立場。それが少しだけ救いだった。
……ようやく準備が整った。会合の開始は午後七時。まだ少し余裕はあるけれど、こんな状況でのんびり本を読んだりする気にはとてもなれない。階段を下りて、応接間へ向かった。
そこにはお父様がいた。
予想外なことに、とても機嫌がよさそうだった。満足げな笑みが口元に浮かんでいて――なぜかその笑顔が、胃をひっくり返しそうな不快感を呼び起こした。私が降りてくるのを見ると、お父様は背筋をすっと伸ばし、商談のときに使うあの貴族的で静かな口調で言った。
「今宵の席で大いに期待しているぞ、楓。魔法使い方の前で私を失望させるな」
胸の奥で、怒りの棘が一本刺さったみたいだった。ドレスの折り目の裏に拳をそっと隠して、完璧な笑顔を貼り付けた。
「もちろんですわ、お父様。しかるべきことをいたします」
静かに一礼した。
でも――心の中は、まったく別の話。
ふん……待っていてくださいな。あなたの操り人形にはなりませんわよ。
もうとっくに、その支配に抗うための計画を立てていた。
家族の運転手が黒い濃色ガラスの車へと案内してくれた。無言でそれに従って、評議会と魔法使いたちが用意したという屋敷へ向かう旅が始まった。都市の景色が消えて、木々の多い区域へと入り込んでいくにつれ、神経が信じられないほど締め付けてくる。
あちらへ着いたら、いったい何が待っているのかしら。頭の中で可能性を整理しようとしても、思考がうまくまとまらなかった。もしこの会合が本物だとして……魔法使いたちが、まだリーダーとしての歩みを始めたばかりの後継者に何を求めているの? 辻褄が合わない。
それに――ヴィクターと海のことも気になっていた。海の状態を何とかしてあげると約束したのに、まだ何も手がかりがない。禁書庫でコデックスに会ったけれど、明確な答えは何一つもらえなかった。代わりに、奇妙な魔法の公式のような知識が頭に流れ込んできただけ――どう使えばいいかも、何のためのものかもわからないまま。
「……それでも、諦めたりしないわ」
ガラスに映った自分の顔に向かって、静かに呟いた。
禁書庫が教えてくれなくても、別の方法を見つける。海にもヴィクターにも、約束したのだもの。
夕暮れの空を背に、丘の上に屋敷の影が浮かんだ。車が坂道を上り始めると、吐き気に似た感覚が腹の底から込み上げてきた。両手が膝の上でまた震えている。意識して深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
しっかりして、私。強いでしょう。怖がっている子供じゃないのよ。
車が正面の大階段の前に停まった。周囲を見渡すと――奇妙なほど静かだった。ほかの車は一台も止まっていない。大きなロータリーに、警備の人影も見当たらない。
「この辺りで待機していただけますか?」
運転手に尋ねたのは、少しでも安心したかったから。
「いいえ、楓様」
と彼は丁寧に答えた。
「主催者側から、お送りした後は直ちに立ち去るよう厳命を受けております。完全なプライバシーを求めるとのことで」
……それで、ほかの車が見えないわけね。みんな客を降ろしてすぐに去っていったのかしら。石段を上りかけて、ふと足が止まった。振り返って、車が砂利道を遠ざかり、橙と紫の夕焼けの光の中へ消えていくのを見つめた。その後ろ姿が——どうしようもなく、ぞくりとした。言葉にならない、見捨てられたような感覚。
首を振って、その感情を追い払った。歩みを再開して、彫刻の施された重い正面扉の前に立った。深く息を吸い、吐き出し、手を上げてノックしようとした瞬間——分厚い錠前が独りでに軋んで、扉が両側に開いた。
向こう側には、誰もいない。
「……近接感知の防護術式、かしら」
自分に言い聞かせるように呟いて、敷居を越えた。
中に足を踏み入れると、最初に出迎えてきたのは音のない静けさだった。ヒールが大理石のホールに反響して、その音がひどく耳障りだった。ゆっくりと歩みを進め、奥の大広間へたどり着いた瞬間、思わず立ち止まった。
……これは。
部屋は確かに広い。でも、目に映る光景がどこかおかしかった。壁にはそれなりに品のある装飾が飾られていたけれど、全体の雰囲気は――準備を急ぎすぎた、というより、最初から誰も本気で整える気がなかったとしか思えない。奥には長方形のビュッフェテーブルが置かれていたけれど、そこに並んでいる椅子はきっかり七脚。誰のためかは一目瞭然。高い壁には、どう考えても思いつきで貼り付けたとしか見えない色とりどりの風船がぶら下がっていた。
そして部屋の縁という縁には――段ボール箱の山。遺物、書類、魔法道具、果ては衣類まで。
……歓迎の場、ではないわね。倉庫の片隅に、急いで空間を作っただけ。
背筋がぴんと張った。何かがおかしい。何かが決定的にずれている。奥の部屋を調べに踏み出そうとしたとき、正面扉が再び開く音が響いて、足が止まった。
ホールのアーチをくぐって姿を現した人物を見て——安堵と、また別の緊張が同時に走った。
リディア・ナイトシェイドだった。
向こうも私に気づいて、すっと姿勢を正し、こちらへ近づいてきた。その所作に、生まれながらの品があった。
「ごきげんよう。はじめてお目にかかれて光栄ですわ、楓さん」
完璧な一礼が添えられていた。
「ごきげんよう、リディアさん。こちらこそ、光栄ですわ」
すぐに同じ礼儀で返した。
リディアはすぐに視線を部屋中に走らせた。その眉がほとんど間を置かずにわずかに寄る。
「これほどの格式を持つ会合にしては……このような場所は、あまりにも体裁が整っておりませんわね。箱が散乱し、私たちのために設けられた空間は、各一族の重みに対して、まるで侮辱のようですわ」
「まったく同感ですわ」
思わず腕を組んでしまった。
「……とはいえ、この規模の屋敷を私たちの到着前に整えるには、時間が足りなかったのかもしれませんわね」
何か合理的な説明があるはずだと、言葉を探した。
リディアは短く、ユーモアのない笑みを浮かべた。
「それはないと思いますわ。招待状はずいぶん前に届いておりましたもの。時間が足りなかったという言い訳は成立しませんわね。別の理由があるはずですわ」
じっとその顔を眺めてしまった。こんなに近くで見ると――本当に、ため息が出るほど美しかった。今日は長い髪を後頭部で複雑に編み上げ、細くしなやかな首を露わにしている。光沢のある黒のイブニングドレスが白磁のような肌に映えて、肘まで届く長い手袋が手を包んでいた。これほど落ち着いて、これほど自信に満ちた佇まいを、私は今まで近くで見たことがなかった。
政治の舞台で彼女と渡り合うことを想像したら、まるで勝負にならない気がした。彼女はまったく異なる次元で戦っている。
「ほかのお部屋は確認されましたか?」
突然のリディアの問いかけに、物思いから引き戻された。
「いいえ、全然。たった今着いたところですわ」
リディアは横の廊下に目をやった。
「周辺を確認したいと思いますわ。この状況は非常に不審でございますもの。何もせずただ待つつもりはありませんわ。楓さん、ご一緒いただけますかしら?」
リディアも同じ疑念を持っていると知って、少しだけ気持ちが楽になった。
「もちろん、ご一緒いたしますわ」
二人で、まず大広間に直接繋がる台所へと向かった。中には一人もいなかった。料理は銀のトレイに整然と並んでいたけれど、料理人も使用人も、気配すらない。分厚い沈黙が漂っていた。
「変ですわね……」
並んだ料理に目をやりながら呟いた。
「こんなに人の気配がないと、食べ物に何か仕掛けてあるんじゃないかって、思ってしまいますわね」
リディアは素早く料理を一瞥してから、静かにこちらを見た。
「それは少し過剰な見立てかと思いますわ、楓さん。魔法使いたちが今この瞬間に私たちを死なせたいとは考えにくいですわ。目的はもっと複雑なはずですもの。ですから、お料理が直接的な危険を示すとは思えませんわ」
……どうしてそれほどあっさりと答えが出てくるのかしら。一人だったら、リスクを整理するだけで三倍は時間がかかっていた。リディアは一瞬で切り捨ててしまった。論理の根拠を尋ねたかったけれど、無能に見られそうで怖くて、結局口をつぐんで台所の棚を確認した。特に何もなかった。標準的な、ただ広くて無人の台所。
「別の場所を調べますわ」
リディアが台所を出ながら言った。
後に続いて大広間へ戻り、奥の木製の階段に向かった。
「二階も確認してみましょうか」
リディアが階段上部を示した。
段を上り始めると、古い木が体重を受けてきしむ音が耳に刺さった。上の廊下は左右に長く伸びていて、重そうな扉がいくつも並んでいた。
「廊下を手分けして調べましょう。あちらの部屋をお願いできますかしら」
「承りましたわ」
形式を保って一礼し、右側の廊下へ進んだ。最初の扉はすぐに開いた――ゲスト用の洗面所。白いタイル、清潔な鏡。何もない。次の扉はノブを回しても微動だにしなかった。鍵がかかっている。廊下の奥でリディアがどうしているか、横目で確かめた――彼女は一回試して開かなければ迷わず次へ進んでいた。そのやり方を真似ることにした。残りの扉はどれも開かなかった。廊下の突き当りまで行って、引き返した。
合流したリディアが告げた。
「こちら側の扉はすべて、魔法か複雑な錠で封じられておりましたわ」
「私のほうも同様ですわ。洗面所が一室開いていただけで、ほかはどれも入れませんでしたわ」
リディアは静かに頷き、階段を下り始めた。足音に気を配りながら後に続いていると――階段の途中で、大広間が二人だけでなくなっていることに気がついた。
床の中央に、一人の男子が立っていた。
黒髪は完全に乱れていた――こんな重要な席だというのに、まったく整えた気配がない。でも礼式通りの黒いフォーマルスーツを着ていて、袖口とシャツの衿元、ベストに目立つほど華美な装飾があしらわれていた。顔には、はっきりとした不機嫌の色。
リディアが先に降りて、完璧な礼で声をかけた。
「ごきげんよう。リディア・ナイトシェイドと申しますわ。はじめまして」
すぐ隣に立って、一族の礼を崩さないよう気を張った。
「ごきげんよう。楓・エンバーストロムですわ」
男子はこちらを頭から足まで眺めて、大きく鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「カイ・ドラゴンズベインだ」
渋々といった口ぶりで、それでも上流階級のあの高慢な響きを引きずった声だった。
「さっきまで上で何をしていた?」
「施設内を確認しておりましたわ、カイさん」
リディアが穏やかに答えた。
カイは眉を片方上げ、あからさまに軽蔑した笑みを浮かべた。
「確認? 公式な歓迎の席で嗅ぎ回るとは、時間の無駄だろう」
リディアは一歩踏み出した。
「この場所の状態を、不審とはお感じになりませんかしら、カイさん? 箱の山、人のいなさ、招待の曖昧さ……」
「名誉ある魔法使い方を疑う理由など、何一つない」
カイはぴしゃりと言い切った。
「あなたがたも上位者を疑う余裕など持つべきではない。無礼だ」
「状況を見誤っているようですわね。少々、お人好しでいらっしゃるかもしれませんわ」
リディアが静かに返すと、カイはじりと距離を詰め、目を細めた。
「この部屋で本当に怪しいのは、あなただよ、リディア・ナイトシェイド」
リディアが一瞬止まった。意表をつかれたような、かすかな動揺。
カイは腕を組み直して、勝ち誇ったような笑みを口端に浮かべた――私にはひどく気に食わない笑い方だった。
「この十一か月に起きたことの公式報告書を精読した。あなたの行動は非常に不審だ、リディア・ナイトシェイド」
「どのような結論にお至りになりましたの?」
リディアは拳をわずかに握りながら問い返した。
「なぜナイトシェイドの一族だけが、私の家族の手に届くまで何週間もかかった情報に、真っ先に接触できた? なぜ陰陽師との戦争で最も重要な情報を一手に握っていた? あなたを信頼することも、あなたのやり方を信頼することも、私にはできない」
「それは私が主席策士を担っていたからですわ」
リディアは怒りを押し殺した声で答えた。
「情報をまず私に集約し、対策を立案した上で各一族に提供することで、より正確な状況把握を可能にするためですわ。戦術的な誤りを修正し、皆さまのために資源を管理することが私の役目でしたわ」
カイは乾いた大きな笑い声を立てた。
「ふざけるな! そのリーダーの地位はナイトシェイドの一族が押し付けたわけでも、ほかの一族が合意して与えたわけでもない。あなたが自分で前に出て、自分で名乗り上げたんだろう。所詮は肥大したプライドが、世間に自分の力を見せつけたかっただけだ。虚構だよ」
リディアの頬にうっすらと赤みが差した。表情は保っていても、返す言葉を見つけられずにいるのがわかった――あのプライドを直接傷つけられた。
様子を脇で見ながら、腹の底から怒りが湧いてきた。なんて無礼で視野の狭い人なの。
介入する場面じゃないと思っていたのに、カイの目がこちらに向いた。
「楓・エンバーストロム、あなたはどう思う? 一族の現状くらい知っているだろう。あの女に乗っかるつもりか?」
一瞬、神経が張り詰めた。でも自分の立場と、この人の的外れな態度を思い出したら、踏み出す力が出てきた。
背筋を伸ばして、はっきり答えた。
「リディアさんのご意見と、まったく同じ考えを持っておりますわ」
カイは舌打ちして顔をそむけ、歯の間から何かを呟いた――十分に聞こえた。
「くそっ……あの女がまた一人、うぶな信者をつくったか」
――それで我慢の糸が切れた。
「ちょっと、何なのその態度!!」
思わず一歩踏み出していた。
「公式な報告書をしっかり読んだとおっしゃっているのに、本当にちゃんと読めていらっしゃるのかしら!? それとも読めないの!? 周りに何が起きているか見えていないのはあなただけよ!!」
カイはリディアのほうに視線を戻して、意地の悪い笑みを見せた。
「ほら、新しいファンが守ってくれてるぞ、リディア・ナイトシェイド。よかったね」
リディアの表情に、明らかな疲弊と苛立ちが滲んだ。でも彼の水準には降りなかった。
その険悪な空気が張り詰めたとき――ホールの奥から、低くて穏やかで、音楽的とさえ言えそうな声が響いた。
「……ずいぶん活気のある歓迎ですね」
全員が振り返った。
正面扉から、完璧な姿勢の男子がゆっくりと歩いてきた。その足取りは計算されたように緩やかで、顔には柔らかで穏やかな笑みが浮かんでいた。私たちの前で止まり、格式に満ちた深い一礼をした。
「はじめまして。ソラ・グリムストーンと申します。お二人のご婦人、そしてカイにもお目にかかれて光栄です」
次の瞬間、ソラはカイの肩に気さくに手を置いた。その顔はまだ緊張で固まっていた。
「そんなに張り詰めなくていいよ、カイ。今はその時間じゃない」
「張り詰めてなどいない!」
カイは手を払いのけた。
ソラは気にした様子もなく、柔らかに笑った。
「今夜ここにいる全員が、程度の差こそあれ緊張しているのは当然のことだと思う。私たちはお互いの一族の代表でありながら、今まで公式に言葉を交わす機会がなかった。それぞれが異なる役割と期待を背負っていて、魔術師社会が今置かれている状況は、全員が同じ見方をできるほど単純じゃない。少しの寛容さがあるといいと思いますよ」
カイはもう一度舌打ちして黙った。腕を組んで顔を背けたけれど、それ以上は何も言わなかった。
……信じられなかった。声を荒げることも、脅すこともなく、ただ言葉だけで、あのカイを黙らせてしまった。
「それから」
ソラはリディアに視線を向けた。
「私の見方では、このイベントの設営には重大な問題があると思っている。あなたの疑いはもっともだと、リディア様」
リディアの目に、ほんの少しだけ光が戻った。
「魔法使いたちが地球の魔術師の問題に直接介入することは、本来あまりない」
ソラは分析するような口調で続けた。
「それは私たちの世界の安定そのものが脅かされる場合に限られる。そして今まさに、その状況にいる――行方不明の裏切り者、レオ・アシュフォードの問題として。当初は黒木・ワイルドソウルが主要な脅威と見られていたが、最新のデータはそれがレオの巧みな偽装に過ぎなかったことを示している」
「私にとっては!」
カイが割り込んで、リディアを指差した。
「最大の脅威は今も彼女だ! あの女が情報を独り占めにして指揮権を自分で握ったせいで、状況はここまで悪化した!」
ソラは静かに首を振った。
「それは正確ではないよ、カイ。リディア様を主席策士として任命したのは彼女自身でも、彼女の一族でもない――七賢者の方々が命令を下されたんだ」
カイの目が開いた。反射的に、リディアのほうを見た。
彼女はゆっくりと、落ち着いた所作で頷いた。
「リディア様は魔術師社会において広く知られた方だよ」
ソラは淡々と続けた。
「アカデミーでの首席は言うまでもなく、歴代の優秀な生徒たちの記録と比較しても、ずば抜けていると評されている。賢者たちがその能力を最適と判断されたのは、純粋に実績に基づいた決定だ」
「なぜ私の一族の報告書にそれが一言も書かれていなかった!!」
カイは悔しそうに声を上げた。
「軍事報告書は戦術の動きと戦況を記録するものだから」
ソラが静かに答えた。
「幹部の任命理由や個人の経緯まで収録するものではないよ」
「なぜ家族の誰一人として、それを教えてくれなかったんだ……!」
カイは苦く吐き出した。
ソラは一歩引いて、不思議なほど静かな目でカイを見た。
「カイのもとに届く情報を、意図的に操作したり隠したりしている者が、カイ自身の一族の中にいる可能性を、考えたことはありますか?」
カイの顔から色が消えた。
何も言わなかった。ただ全員に背を向けて、沈黙の中に落ちていった――ソラの言葉が、何か深いところを抉ったのがわかった。
ソラは気にした様子も見せず、リディアに向き直って軽く頭を下げた。
「あなたのご功績は本当に素晴らしいと思っています、リディア。でも私は負けるつもりもないし、いずれ証明してみせるつもりです」
リディアは完全に姿勢を取り戻して、丁重に一礼した。
「ありがとうございます、ソラさん。楽しみにしておりますわ」
ソラは私の脇を抜けて、ビュッフェテーブルへ歩いていった。そして並んだ肉料理を見た瞬間、場の雰囲気をきれいさっぱり忘れたかのように、子供みたいに声を上げて食べ始めた。
……そのギャップが頭から離れなかった。あれほど冷静で鮮やかに、あのカイという分厚い壁を言葉だけで動かしておきながら――今は頬を膨らませて肉を食べている。
視線を室内に戻した。
この場所には、本当に並外れた人たちが集まっていた。これほど鋭い思考を持ち、それぞれの信念をはっきりと持っている。リディアのような政治の化物、ソラのような外交の天才――そういう人たちと、私は同じ卓に座っている。
じゃあ私には何がある?
気づいたら、また手が震えていた。視線が床に落ちた。
そのとき、頭の中に暗い声がすっと滑り込んできた。
――もしかしてお父様が私にあれほど高い期待をかけ、失望させるなと言い続けるのは……私に生まれ持った才能が何もないと、わかっているからじゃないかしら。才能を持たない子に、無理やり形を与えようとしている。そう見ると、お父様の冷たい態度が初めて辻褄が合う気がした。
……胸が締め付けられた。目が床に釘付けになった。
そっと、肩に手が触れた。
跳び上がりそうになって横を見ると――リディアが、心配そうな目でこちらを見ていた。琥珀色の目に、本物の気遣いがあった。
「楓さん、大丈夫ですかしら? 急に血の気が引いてしまわれたようで……」
「大丈夫ですわ、ご心配なく。少し疲れているだけです」
嘘をついた。笑顔で押し隠した。
その静けさに割り込んできたのは、正面扉が乱暴に開く音と、廊下を走ってくる足音だった。
次の瞬間、大広間の入り口に人影が飛び込んできて、叫んだ。
「動くな!!全員その場を動くな!!」
全員が一斉に振り返った。カイは腕を組んだまま、眉を片方上げるだけだった。リディアは何が起きたのか掴みかねているようだった。ソラは口の中の肉を丸ごと驚きで落として――それからすぐに両手をゆっくりと空中に持ち上げ、逮捕されるのを受け入れる人みたいに笑った。
見ると――真っ白な、野の花の刺繍が施されたドレスを着た、目を引くほど愛らしい少女だった。室内を見渡して、危険がないとわかったのか、ドレスの折り目から杖をしまった。そう、あの子は叫びながら入ってきただけでなく、全員に杖を向けていたのだ。
咳払いを一つ。軽い一礼。
「先ほどの振る舞い、大変失礼いたしました。ミドリ・ワイルドソウルと申します。はじめまして。どうかご容赦を。ずっと一度やってみたかったんです、その……警備隊みたいな入場」
ソラは口元をほころばせながら手を振った。頬はまだわずかに膨れていた。
「いいよ、気にしないで。とても新鮮な登場でしたよ、ミドリさん」
でもリディアは眉を寄せた。
「公式な歓迎の場で、なぜあのような行動をとられたのか、お聞きしてもよろしいかしら、ミドリさん?」
ミドリは首の後ろをかきながら、ほほえんだ。頬が赤い。そしてとにかく正直だった。
「えっと……私、ワイルドソウルの一族の後継者でして、一族は魔法反逆者を追跡・無力化する精鋭部隊、ハンターの指揮を担っているのですが……実のところ、私自身は野外での実戦経験がまったくなくて。知識のほとんどは人間世界の刑事ドラマから学びました。ハンターの仕事って、探偵や警察のエリートみたいなものだと思っていて、つい熱くなってしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
あそこまで自然体に、自分のことを話せる子を見たのは久しぶりかもしれないわ――そう思って、少しだけ胸が解けた。
でもミドリの表情が、次の瞬間に変わった。
室内の縁に積み上がった箱の山を見渡して、目が真剣になる。
「冗談抜きで……皆さん、この場所、かなりおかしいと思いませんか?」
「思いますわ」
とリディアがすぐに答えた。
「私も」
と続けた。
ソラはビュッフェから串焼きを持ち上げて、無言で頷いた。カイは何も言わなかったが、黙って耳を傾けていた。
「用心のため、独断ではありますが」
とミドリは声のトーンを落とした。
「一族のハンター部隊に丘の外周全体を確保し警戒させています。今、高位の専門家がレオ・アシュフォードの現在地の特定を試みています」
リディアが一歩前に出た。
「あなたの一族は、この会合の本質についてどのような仮説を持っておりますか、ミドリさん? レオ・アシュフォードの動向と直接関係があるとお考えですかしら?」
ミドリはゆっくりと首を振った。
「はっきりした答えは、私にも出せていません、リディア様。ただ、魔法使いたちの招集手続きが評議会の正式な規定をすべて満たしていたので、代表として出席しないわけにはいかなかった。でも……それとは別に、今夜ここで皆さんに打ち明けなければならないことがあります。ワイルドソウルの一族は、最近の戦争に関連するいくつかの調査結果と進展を、意図的に保留し制限してきました」
リディアの眉が、はっきりとひそめられた。
「それはなぜですかしら? 魔術師社会全体に影響する犯罪捜査の進展を隠すなど、私たちの対策の足を引っ張ることになりますわ」
「七賢者からの直接の命令があったためです」
とミドリはかに言った。
「あり得ない!!」
カイが声を上げた。
「名誉ある七賢者が、なぜ安全保障の調査を妨害するような命令を出すんだ!? 嘘をついているんじゃないのか、ミドリ・ワイルドソウル!!」
「本当のことですわ、カイ様」
ミドリはその視線を受け止めた。
「賢者たちは正式に、戦争関連の重要な発見を厳重機密として分類し制限するよう求められた。まるで……意図的に情報の流れを阻害しようとしているかのように。理由は私にもわかりません」
その言葉が広間に落ちた。そのまま誰も口を開かなかった。疑念が、もう一族の外ではなく、私たちの世界の最上位へと向いていた。
重い沈黙が続いていたとき――また正面扉が開く音がした。
今度は静かで、緩やかで、制御された足音だった。
部屋に入ってきたのは、背の高い、細身の少女だった。銀色に近い長い髪が礼装の上に流れていた。私たちが中央に集まっているのに気づくと、小さく、丁寧な一礼をした。
「皆様、こんばんは。ユキナ・ウィンターフォールと申します。こうして皆様にお目にかかれて、光栄です」
一人ずつ名乗り返して、礼儀を尽くした。
ユキナは澄んだ目で室内を見渡して、首を少し傾けた。
「どうして皆さん、そちらの隅に集まって、こそこそとお話されているのですか? まるで国家機密を共有されているみたいですわ」
ソラはビュッフェから小さく笑い声を上げた。
「まさにそういうことをしてるんです、ユキナさん。絶妙なタイミングでいらした。どうぞご参加を」
ユキナはびくっとした。少し傷ついた様子だった。リディアがすぐに間に入った。
「ソラさんが申し上げているのは、今夜の会合の本質を確認しようとしているという意味ですわ、ユキナさん。この場の状況が通常とはかなり異なりますもの」
リディアの短い説明を聞いて、ユキナは状況を理解したようだった——でも次の瞬間、その顔が苦しそうにくずれた。自分の手に視線が落ちる。ドレスの布地をきゅっと握りしめていた。
「そうですか……とても複雑そうで……実は私……戦争の件も、魔術師社会を脅かす裏切り者のことも、公式文書をちゃんと読めていなくて。全体像を理解するのが、なかなかできなくて……」
ソラが水の入ったグラスを持ちながら眉を上げた。
「なぜ読んでいないのですか、ユキナさん? 一族の後継者として、それらの報告書を把握することは基本的な義務のはずですよ」
ユキナは肩をすぼめて、視線がまた下に落ちた。
「それは……わかっているのですが、でも……後継者なんて、私は本当はなりたくないのです」
その声がかすかに震えた。
「こんなこと、望んだ覚えもないのに……」
カイはその場で乾いた笑い声を上げた。
「情けない。泣いても嫌だと言っても、あなたは今夜ここに立っている。それだけで十分に、魔術師社会における立場は確定している。現実を受け入れろ、ユキナ・ウィンターフォール」
ユキナの目がみるみるうちに潤んだ。
ミドリがすぐに隣へ寄り添い、そっと包むようにその肩を抱いた。リディアがカイに振り向いた。
「ご自身の言葉をお控えください、カイさん!! ほかの後継者方に対してそのような無礼な態度をとる権利は、どこにもありませんわ!!」
カイは面倒そうに手を振り、背を向けた。
ソラは少しだけユキナに近づき、穏やかに尋ねた。
「そんなに後継者であることが辛いのは、なぜですか、ユキナさん?」
ユキナはミドリの肩口に顔を埋めながら、途切れ途切れに話し始めた。
「だって……毎日、膨大な書類を読んで、細かい政治や商業の話を全部頭に入れなきゃいけないのに、やっと少し覚えたと思ったら、また評議会の更新が来て、全部やり直しで……何度やっても意味がないって感じてしまって……」
声がさらに震えた。
「それに、通行許可の書類に署名して、一族の構成員の記録を管理して、緊急事態に対応して、最新ニュースをチェックして、安全証明書の整理、人員配置、家計と財務、反逆者の疑いがある魔術師の監視……魔術師社会で起きることが、全部私の手を通るんです!! 全部が重くて……苦しくて。子供のころは、もっと楽で幸せだったのに……」
ソラは薄く微笑んで、少しだけ自嘲的な息をついた。
「まあ……子供のころのほうがずっと楽だったというのは、たぶんここにいる全員が同意すると思いますよ。三歳から勉強を強制させられていたような家の出身でなければ、ですが。それはそれで地獄でしたよ」
リディアはユキナに向き直って、分析的ながらも静かな口調で問いかけた。
「ご兄弟や、お父様と、この件について真剣にお話しになったことはありますかしら、ユキナさん? もしご自身よりも適性のある別の方へ、後継の権利を正式に譲ることをご検討されることもできますわ」
ユキナは何度も首を振りながら、手袋をした指で涙を拭った。
「無理です……無理なんです。父の目を見ると、兄弟の目を見ると……みんな私にとても期待してくれているんです。あんなに誇りに思ってくれているのに……その顔を悲しませたくない。がっかりさせたくない。みんなのことが大切で……」
動けなかった。
自分でも気づかないうちに、その場で固まっていた。
私は一族の後継を望んだことなど一度もない――ただ課せられただけだ。ユキナも似たような状況なのに、その質がまったく違う。彼女は、愛している人たちを傷つけたくないから苦しんでいる。純粋な愛からくる苦しみ。
私の場合は――押しつけられた義務と、商業的な期待と、愛情の気配すらない眼差し。
自分の手を見た。また震えていた。大理石の床に目を落として、この部屋の誰と比べても、自分が埋没してしまうような感覚がじわりと広がっていた。
「ねえユキナさん、泣いた後ってお腹が空かない? 少し食べたら、元気が出ると思うよ」
ソラがビュッフェを示しながら、さらりと言った。
ユキナは奥のテーブルを見た。そして――ものすごくコミカルなことに、お腹が盛大にぐうと鳴った。
場の空気が一瞬、柔らかく崩れた。ユキナは小さく笑いながら頷いた。
「はい……少し頂きます、ありがとうございます」
ミドリに寄り添われながら、テーブルへ向かっていった。
リディアがこちらに近づいてきた。
「食事はとられませんか、楓さん? 正式な会合の前に、少し召し上がっておいたほうがよろしいかと思いますわ」
首を振った。
「ありがとうございます。でも今は、まったく食欲がありませんわ」
リディアはしばらく私の顔を見つめていた。
「……そうですか。でも、食欲がないときほど、少量でも摂っておくほうがよろしいかと思いますわ。では、私はお茶を頂いてまいりますわ」
静かに踵を返して、優雅にテーブルへ歩いていった。
一人で広間の中央に残された。
視線がカイに向いた。壁にもたれかかったまま、腕を組んで、近づくなと全身で語っている。
……それでも、なぜかあの人の考えが気になった。あれほど攻撃的で頑固なのに、あれほど揺るぎない。後継者という立場についてどう思っているのかしら。
気づいたら、足が動いていた。
「失礼ですわ、カイさん。一つお伺いしてもよろしいかしら。一族の状況について……」
カイは振り返りすらせず、鬱陶しそうに手を振った。その仕草は、まるで煩わしい獣を追い払うかのような、露骨に無礼な動きだった。
「邪魔をするな、楓・エンバーストロム。来た道へ戻れ」
そして怒りが頬に上ってきた。
「なぜそんなに態度が悪いの!? どうしてほかの後継者と話すことも、意見を交わすことも、頑として拒否するの!? みんな同じ側にいるのに!!」
カイは冷え切った目をこちらに向けた。
「ほかの一族が全員嫌いだから。それだけだ。だからあなたがたと話す気もない。去れ」
……言葉は刺さったけれど、根っこにあるものは理解できた。あの一族の悲劇的な過去――ほかの一族への深い憎しみは、そこから来ている。
踵を返そうとした、その瞬間。
焦っていたせいで、ちょうどホールへ入ってきた誰かの胸に、まともにぶつかった。
一歩よろめいた。
「あっ! 申し訳ありません、わざとではなくて……」
「いいえ、お気になさらず。わたしのほうこそ、前方への注意が足りませんでした」
落ち着いた、穏やかな男の声だった。顔を上げると――貴族的な雰囲気を持ちながら、どこか奇妙に疲れた目をした少年が立っていた。まるで何日も眠れていないような、あるいは途方もない倦怠感を抱えているような目。でも一礼は完璧だった。
「はじめまして。ショウ・アシュフォードと申します」
ショウは疲れた目で室内を見渡した。ソラが楽しそうに食べていて、ミドリがユキナに寄り添っていて、リディアが静かにお茶を注いでいる——その光景を一巡りして、彼の眉がわずかにひそめられた。
「なぜ皆さん、あれほど落ち着いているのですか……?」
「実際には誰も落ち着いていませんわよ」
静かに答えた。
「見た目を保っているだけです」
ショウは少し間を置いて、かすかに息を吐いた。
「……それを聞いて、安心しました。この場で本当に気を緩めている者が誰一人いないのなら、好ましい状況です」
「どういう意味かしら?」
ショウはまっすぐこちらを見た。その目が、ぞくりとするほど鋭かった。
「あなたのお立場であれば、それはすでに明白なことではないでしょうか、楓さん」
冷水をかぶせられたみたいだった。
そうだ――私はずっと自分の感情に引きずられていた。自分の至らなさへの劣等感、お父様への怒り、ユキナへの共感――そういうものに飲み込まれて、本当に大切なことを忘れていた。
ショウは正しい。この屋敷は祝宴の場じゃない。全員が自分の意志でここへ来た、金の鳥籠。だからこそ、揺らいではいけない。
ショウは広間の中央へ歩いていき、残りの後継者たちと正式に挨拶を交わした。礼儀は保たれた。
それからしばらく、空気はどことなく落ち着いた。七つの一族の後継者たちが同じ空間に揃っていた――異なる傷を持ち、異なる信念を持ち、世界をまったく異なる目で見ている七人。他愛のない言葉も少し交わされた。唯一、カイだけは壁から一歩も動かなかった。
その静けさが破られたのは——
パーン!
正面近くの何かがはじける音が、室内に鋭く響いた。
全員が反射的にそちらへ向いた。
階段の脇の側扉から、ひどく背の高い人物が姿を現した。身に纏った衣装は、地上のものとは明らかに異質な豪奢さと複雑さを持っていた――これが魔術師ではなく、本物の魔法使いだとわかった。
その右手に、子供の誕生日パーティーで使うような紙製のクラッカーを持っていた。それが先ほどの音の正体だった。色とりどりの紙テープと紙吹雪がひらりと落ちて、広間の床に散らばった――この場の重さとあまりにもそぐわない、ひどく間の抜けた光景。
男はゆっくりと私たちに歩み寄ってきた。
近づいてくるにつれて――息が少し詰まった。
目が合わせられない、という感覚は久しぶりだった。以前、あの表情のない少女と対面したときに覚えた感覚に似ていた――人間とは異なる何か、格違いの存在に触れたときの、肌が粟立つような恐怖。この男は常に笑っていた。口角が上がっていて、目元まで笑っているように見えた。でもその笑みの内側には、何もなかった。生き物の温度がなかった。
男は私たちの前で止まり、軽く頭を下げた。
「ごきげんよう、地球の若き才能たちよ。ケイル・ヴェイルと申します。『魔力の建築家』という肩書で知られております。後継者の皆様をお迎えできて、光栄の至りです」
その空虚な視線がゆっくりと全員の顔を流れた。
「本日の会合を、これより正式に開始いたします。まもなくホストがお越しになります。そうなれば、皆様も私たちの協力が生み出した素晴らしい成果を、じかにご覧いただけることでしょう」
リディアが一歩踏み出した。
「具体的にどのような成果のことですかしら、ケイル・ヴェイル様? 明確にお答えいただけますか」
ケイルは小さく笑い声を立てた――楽しんでいるような、でも私たちの存在を子供の遊びほどにしか見ていない響きだった。
「まもなく、すべてお分かりになりますよ、ナイトシェイド様。急がれる必要はありません」
「これ以上の曖昧な言葉はお断りしますわ」
リディアの声はそれでも揺るがなかった。
「この場の状態も、この建物の状態も、あなた様の言葉の曖昧さも、すべてが不審です。今この場で、しかるべき説明をいただく必要がありますわ」
ケイルは少し首を傾けて、感心したように頭をかいた。
「……実に素晴らしい胆力ですね。アカデミーにおいてその知性が並外れていると称されているのも、頷けます。ですが……この場所では、あなたのタイトルも知性も、私たちにとって何ら意味を持ちません」
その笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「この段階では、正式な手順と構造に従って進めることが絶対に必要なのです。すべては然るべき時に明かされます」
ケイルは細長い手を伸べて、奥の長方形のテーブルを示した。
「どうか、ご用意した席へお座りください。そこでより和やかな形で会話を続けることができます」
ほかに選択肢がなかった。礼を崩してここで見せ場をつくるよりも、見て聞いて動く方が賢い。
全員が無言でテーブルに向かい、それぞれの椅子に座った。
青いドレスの布地を整えながら席に着いた。手がまだかすかに震えていた。
ケイルはテーブルの端に立ち、長い指を組み合わせて、静かに行き来を始めた。会合の目的について、その穏やかで抑揚のある声が広間の高い壁に反響し始めた。
でも――少し経って、気づいた。
空気が重い。肺に入る空気が、どこかいつもより濃い気がする。何かが胸の奥で警鐘を鳴らし始めた。横を見ると――リディア様の目蓋がわずかに落ちていた。肩が少し下がっている。
……なぜ?
前を見た。ソラがケイルの動きを目で追っていたけれど、その顎が緩んで、目がひどくゆっくりと瞬きしていた。眠そうに――ではなく、眠りかけている。あのカイでさえ、壁側の椅子で身体の重心が崩れかけていた。
おかしい……
ケイルの声に意識を向けようとした。でも言葉の内容が頭に入ってこない。霧のようなものが思考に絡みついてくる感じ。彼の声は荒々しくない――整っていて、波のように繰り返される。同じ構造の言葉が、何度も何度も重ねられていた。
「……時に言葉は川のように流れ、岸辺を優しく撫でるように……」
リディアが最後の意志で声を絞り出した。
「……あなたは何かを隠しているような、口ぶりが……おかしい……」
ケイルはリディアの椅子の真後ろに歩み寄った。上半身をわずかに傾けて、その耳元に近づく。
「私の声は波となって、あなたの心を揺らす……そして身を委ねれば、その波の中に静けさを見つけられます。私の声は波となってあなたの心を揺らす」
「あなたの……口調は……変……」
「それは、目に見えない鎖を誰もが持っているからかもしれません、ナイトシェイド様」
ケイルはゆっくりと背筋を伸ばし、天井の高い空間へ片手を持ち上げた。
「その鎖が解けるとき……開け、夢の扉よ。解けよ、記憶の鎖」
リディアは何度も瞬きをした。
「鎖……? 目が……重く……」
ケイルはその隣に立った。儀式のような緩慢さで、細長い手を彼女の顔の数センチ手前まで伸ばす。その声が、さらに深く、包み込むように変わった。
「自然なことです。あなたの目は深い泉に沈んでいく……意識は柔らかな霞に包まれていく……でも恐れることはない。あなたの目は深い泉に沈み、意識は柔らかな霞に包まれていく」
リディアの両手が、力なく膝の上に落ちた。
「あなたの声が……歌のように……離れられない……」
「私が紡ぐ言葉は、あなたの魂に囁かれる旋律です、ナイトシェイド様。抵抗は夢の中で溶けて、残るのは真実だけです。抵抗の力は夢の中で溶け、残るのは真実だけです」
リディアの目が完全に閉じた。頭が力を失って、ゆっくりと横へ傾いていった。
「真実……何が……真実……」
「今は夢の深みで、私の導きに従って……夢の中に答えを見つけるでしょう」
ケイルが指を打った。
それを合図にしたように――次々と、倒れていった。
ソラの頭が前へ落ちた。ミドリが机に崩れかかった。ユキナが深い眠りに飲み込まれた。ショウがの上に顔を沈めた。カイでさえ机に倒れ込んだ――あれほど頑固に保っていた姿勢ごと。
後継者の全員が、言葉だけで――純粋な言葉の術式で、意識を奪われた。
心臓が肋骨を叩いていた。
なんてこと……! リディア!! ソラ!! 起きて……!!
喉が締まって、声が出なかった。その瞬間――
頭の中で、ものすごい振動が走った。
リリウムが施してくれた守護の術式が、私の頭上で起動し、小さな魔法陣を呼び出した。
白い光が一瞬瞬いて――鮮明な、ガラスが砕ける音が頭上で響いた。
意識に絡みついていた霧が、粉々に吹き飛んだ。
明晰さが戻ってきた。完全に。
……守護の術式が機能した。だから眠らなかった。論理的には、そういうことだわ。
でも砕ける音は、静まり返った室内に十分に聞こえていた。
ケイルがぴたりと動きを止めた。首がこちらへ向いた。
その空虚な目が、私の顔に——完全に目覚めている私の顔に、貼り付いた。
恐怖が全身を貫いた。
椅子を蹴って立ち上がり、一歩後ろに引いた。全身の筋肉を張って、いつでも走れるようにした。
「あなたに何をしたの!!」
声が震えた。倒れた仲間たちを指さした。
「何をしたのかと聞いているわ!!」
ケイルの笑みが、もっとゆっくりと、もっと歪に広がった。それがひどく不自然で、血が冷えた。
「……これは予想外でしたよ」
衣装を整える仕草は、いつまでも変わらず落ち着いていた。
「精神的な侵入に対する守護を持ってきていたとは」
「どうして催眠魔法を使うと?」
何も答えられなかった。そもそも答えられる状態じゃなかった。
なぜ魔法使いが、後継者たちに催眠の術式をかけるの? 何が目的で? 何一つ、論理が繋がらない。
ケイルが歩き始めた。
長い足で、私との距離を縮めてくる。本能が逃げろと叫んだ。下がりながら、部屋の縁の箱の山を背中で感じた。
「抵抗することはありません、楓様。座席へ戻ってください」
その声が、初めて温度を失った。広間の壁が微かに震えた。貼り付けられた風船がいくつか、その振動でぽんと音を立てた。
「さもなくば、従わせるために、傷つけることも辞しません」
「嫌ですわ!!」
叫んで、ドレスの折り目から杖を引き抜いた。ケイルの顔に向けた。
「なぜこんなことをするの!? 後継者たちを眠らせて、魔法使いたちに何の得があるの!?」
ケイルはわずかに頭を傾けた――私が虫でも見るような、その眼差し。
「人間というものは、実に興味深い存在です。その構造、感情の仕組み、地球のエネルギーをどう形成するか……。そして私は、最も優れた混血の魔術師たちを、自らの指導のもとに置きたいと考えています。各一族の後継者ほど完璧な存在が、ほかにありますか?」
これ以上聞く必要はなかった。
この人は狂っている。後継者を収集品か道具のように扱おうとしている。
「席へ戻られることをお勧めします」
ケイルの声がまた響いた。
「従わないのであれば、強制的に従わせます」
「待ち続けてくださいな!!」
言い返して、杖に魔力を込めた。
「『イグニス・フレア』――!!」
でも最後の音節を発する前に、ケイルは動いた。
声もなく、詠唱もなく――ただ長い手を前に出した。
水の奔流が迸った。
正面から胸を直撃した。まるで城壁に吹き飛ばされたような衝撃――空気が全部肺から出ていって、体が宙を舞い、石の壁に背中をぶつけた。
「……っ!!」
痛みに声が出た。膝が床についた。杖が滑りそうになった。
ケイルが走ってくる。捕まったら終わりだ。
今!!
思考より先に、身体が動いた。
固有能力を発動した。
魔力の流れを一点に絞って――現実から、この身体の存在を消した。
ケイルが止まった。
私がいた場所の、ちょうど二メートル手前で。
その空虚な目が見開かれた。私の姿が目の前から消えたことに、本物の驚きを見せていた。彼は視線を激しく動かし、周囲を確認した。
今のうちに――立ち上がった。痛みを嚙みつぶして、悲鳴を飲み込んだ。正面玄関へ向かって走った。
扉に肩を叩きつけた。
動かなかった。
外側から、魔法で封じられている――錠前がまったく動かない。
……閉じ込められている。
舌打ちしたい気持ちを飲み込んで、すぐさま引き返した。息を殺して。
ケイルはまだ部屋の中央にいた。首を左右に振りながら、自分の「お客様」がどこへ消えたのか必死に探している。その姿のすぐ隣を、衣服に触れないよう細心の注意を払いながら駆け抜けて、迷わず木製の階段へ向かった。
段を一気に駆け上がる。
二階で開いている扉は一箇所だけ――来客用のバスルームだということは分かっていた。扉をゆっくりと、音を立てないように開けて滑り込み、背後で静かに閉めた。窓に近づきながら、自分の息の荒さが少し恨めしかった。
ガラスの向こうに外の夜が広がっていた。
のぞき込んで、すぐに現実を思い知らされた。ここは二階、しかも随分と高い位置にある。着地を誤れば足を骨折する高さだ。でも―― 私は魔術師なのだから。魔力はある。使わなくてはならない。
窓枠をゆっくりと押し開けた。
分かっている。どんな術式を発動させても、魔力の揺らぎが生じる。その波動は奴に私の位置を正確に知らせることになる。でも今更どうしようもないでしょう、かしら。ケイルはもうこの扉の向こうに来るはず。迷っている時間は、一秒もない。
窓枠を乗り越えて、躊躇なく飛び降りた。
落下しながら、杖を地面へ向けた。
「『ヴェントゥス・リーフ』」
囁くような声で詠唱すると、身体の下から上昇気流が生まれて、落下を柔らかく受け止めてくれた。湿った草の上に、まるで枯れ葉が舞い落ちるみたいに、静かに着地した。
その直後――ガシャンッ!!
二階の窓が割れる音が、夜の空気を裂いた。
もう気づかれた。
走った。ひたすら走った。坂の麓を取り囲む、深い木々の群れを目指して。あの暗がりの中なら、カムフラージュをもっとうまく活かせる。逃げながら、ミドリが言っていたことを思い出していた――この屋敷の外周には、ワイルドソウルの一族のハンターが配置されているはず、と。
木々の影に目を凝らした。どこにいるの、かしら。
助けを呼びたかった。声を限りに叫びたかった。でもケイルの感知圏内で声を上げれば、一瞬で位置がばれる。だから口を閉じたまま、もっと深く、もっと深く、木の奥へ逃げ込んだ。
走って、走って、走り続けた。
気づいたら、ハイヒールは泥の中に消えていた。素足のまま走っていた。冷たい土と濡れた腐葉土が足の裏に容赦なく食い込んで、下草の枝がドレスの裾を何度も引き裂いていった。肺が燃えるように痛かった。それでも走った。
やがて――足の裏に、アスファルトの固い感触が戻ってきた。
道路に出た。
振り返った。誰もいない。森は静まり返っている。
……生きてる、のね。
深呼吸する余裕もないまま、おおよその方角だけを頭の中で確認した。アカデミーか、あるいは屋敷か――どちらにせよ、みんなに知らせなければならない。体はもうとっくに限界を超えていたけれど、止まるわけにはいかない。
決めた。
道路の真ん中に立って、あらんかぎりの声で叫ぶことにした。これが勇気なのか、それとも純粋な絶望なのか、自分でもよく分からなかったけれど――ワイルドソウルのハンターたちが本当に周囲にいるなら、気づいてくれるはず。
杖を空に向けて、声を絞り出した。
「『フルグル』!!」
電光のような閃光が夜空を引き裂いて、木々の梢を白く照らし出した。
「助けてください!!お願いです、助けてください!!」
叫んだ後、膝に両手をついて荒い息を繰り返した。ドレスはもう見る影もない。足の裏が痛い。肺が悲鳴を上げている。
……一分が、永遠みたいに長かった。
そして――木々の間から、白い影が現れた。
真っ白な戦闘制服。ハンターの制服、間違いない。でもその隣に……アカデミーの制服を着た男の子がいた。目を細めて、暗がりの中でその顔を確認しようとした。
記憶が追いついた瞬間、思わず眉を上げてしまった。
あら……あの子じゃない、のね。
以前、アカデミーへの襲撃の最中、敵の前に飛び出した生徒。ハンターたちに厳重な監視下で連行されたと、各一族の報告書で読んだ子だ。どうして今、ハンターと並んで歩いているの、かしら?
……でも今はそれどころじゃない。
よろめきながらハンターへ駆け寄って、その腕を両手で掴んだ。
「お願いします!」
言葉が口から溢れ出た。
「丘の屋敷に、すぐ行ってください!ケイル・ヴェイルが……魔法使いが、催眠術を使ったんです!リディアさんも、ソラさんも、全員の継承者が眠らされて――あの中に閉じ込められています!全員を力づくで留め置こうとしているんです!」
ハンターの目が、暗がりの中でかっと見開かれた。
彼はゆっくりと私の手を外すと、即座に隣の生徒の方へ向き直った。その声は、静かなのに妙に威圧感があった。
「龍牙、今すぐ荷物を取ってこい。予定は全部変わった」
「……了解」
龍牙と呼ばれた少年は短く頷いて、すぐに車両の方へ向かって行った。
私はそのハンターをまじまじと見つめた。
見覚えがある。ガラの夜に見かける肖像画や武勲の記録、お父様が「覚えておくように」と言って見せてくれた戦術記録の顔写真―― そのどれかと、目の前の人物が一致した。
……マーカス・ワイルドソウル、かしら。
現役最強のハンター。生きた伝説と称される人物。
彼が私の方へ視線を戻してきた。その眼差しは、こちらの震えを静めようとするかのように、努めて落ち着いていた。
「今は大丈夫だ、楓様。まず息をしろ」
声は低く、まっすぐで、余計な言葉が一切ない。
「今すぐ本部に連絡して大規模な増援を要請する。外周部隊も動かす。お前は俺の後ろにいろ」
……それでも、胸の締め付けは消えなかった。
仲間たちが人形みたいに倒れていくあの光景が、まぶたの裏にこびりついていた。ケイルは、レオ・アッシュフォードの謎の共犯者だというのかしら――? そう考えれば辻褄が合う部分もある。でも今の私の頭には、パズルのピースを並べる余裕なんてなかった。
ただ、マーカス・ワイルドソウルがコミュニケーターを取り出し、道路の周囲を確認している姿を見ていたら―― ほんの少しだけ、胸の中の何かが緩んだ。
一人じゃない、のね。
今だけはそれで、十分だった。
大切な人が、
危険の中にいる。
だから、
怖くても進む。
一人で行くと決めた少年は、
暗闇の中へ踏み込んでいく。
次回――
「救出」
その先に、
待っているものとは。




