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凍りつく少女と燃える少年

強くなることは、


力を得ることだけではない。


自分が何のために、


強くなりたいのか。


その答えと、


向き合うことでもある。


失ったものを追い続ける少年は、


戦いの中で、


自分自身の心を知っていく。

重い金属の扉が軋みながら開く音が、肩を一瞬で強ばらせた。


冷たい取調室の椅子に座ったまま、手首にはまだ見えない重さが纏わりついていた——容疑者という烙印の重さが。次に入ってくるのも、また氷のような目をしたやつだと思っていた。僕を数字か、排除すべき脅威としか見ない法律の番人。でも、扉を潜ってきた男は、そんな予想を根こそぎ覆した。


ハンターだった、確かに。正式な制服を着ていた。でも、その佇まいには——荒々しいのに、どこか妙に温かみのある動き方には——まったく違う印象があった。他の連中みたいな切れ味の鋭い敵意がなかった。どこか……奇妙なくらい人間らしかった。少なくとも、このくそったれな地下施設では一度も見かけなかった人間味の欠片が、あいつにはあった。


「よし、坊主、今日からお前のことと、お前の件は俺が担当することになった!」


部屋の四隅に轟いたその声は、どっしりとして力強かった。椅子を引きずる音が響いて、男は正面に座ると、まっすぐ僕を見据えた。


「自己紹介しとくぜ。マーカス・ワイルドソウルだ」


黙ったまま、唾を飲み込んだ。経験が刻み込まれたその顔を、静かに分析した。男——マーカスは両腕をテーブルに乗せ、続けた。


「俺の総司令官がお前に唯一無二のチャンスをくれてやるつもりだ、龍牙。反逆の罪を完全に免れるチャンスだぞ。お前がすることは一つだけ——俺たちに協力することだ。きちんとやれば、必ず自由になれる」


……自由。


その言葉が、頭の中で反響した。希望のこだまみたいに。可能性を瞬時に計算した。監禁房の中で一生腐っていくなんて、嫌だ。自分では制御できないところまで転がり落ちてしまったミスのせいで。マーカスの目をまっすぐ見て、きっぱり頷いた。


「協力する」


震えを悟られないように声を絞り出した。


マーカスは満面の笑みを浮かべた。返答が嬉しかったのか、豪快に肩を叩いてきて、もう少しで息が詰まるかと思った。


「ハハッ! 協力してくれるとは大いに喜ばしい、坊主!」


「あとはシンプルだ——俺の命令を一字一句守れ。そのグレインとかいう奴は、俺自身が見つけて、一度でぶっ叩いてやる!」


その名を聞いた瞬間、胃が激しくひっくり返った。


あいつが——グレインを倒す? 嫌だ。絶対に嫌だ。ハンターがグレインを排除して、僕は何もできずに見ているだけ——その光景を想像するだけで、何かが胸の奥で叫び声を上げた。前のめりになって、拳を握りしめた。


「嫌だ……待ってくれ!」


思わず声が出た。息が乱れていた。


「僕が戦いたい! 僕がやらないといけないんだ!」


マーカスの笑顔が、ぴたりと消えた。上から下まで見渡してから、信じられないという色が混じった懐疑の眼差しで僕を見た。一秒で頭のおかしい奴の烙印を押すような目だった。


「何をぬかしてるんだ、龍牙? この牢屋でイカれたか? お前はアカデミーのただの生徒だぞ。あんな化け物の最初の攻撃すら耐えられる見込みがないんだ!」


「それでも……僕が正面に立ちたい!」


歯を食い縛って、視線を逸らさなかった。


「だって……グレインは本当にレオの味方じゃないと思うから。完全にはさ」


マーカスは両腕を組んで、不動の視線で見つめてきた。その存在感が部屋全体を圧していた。


「どうしてそう思うんだ?」


「……ただ、そう思うんだよね」


少し声を落としながらも、信念は曲げなかった。


「グレインがあんな危険な狂人みたいなレオのためだけに裏切ったとは信じられない。何か、もっと別の理由があるはずだ。分かるから」


「そいつはお前の友達か?」


マーカスが目を細めた。


視線を金属のテーブルに落とした。その問いは、一番痛いところを突いてきた。


「……分からない」と囁いた。


「聞けよ、坊主——感傷に流されるな」


マーカスが完全に真顔で言った。


「グレインは自分の意思を持つ召喚体だ。たとえお前が友達だと思っていても……グレインは今のお前のことをどう思ってると思う? お前を気にかけていると思うか?」


その言葉が、鈍い刃のように沁み込んだ。


グレインとは本当に何だったんだろう。仲間? 庇護者? 背中を向けた友人? 答えは出なかった。頭の中は疑念の嵐だった。でもその混乱の中で、激しくて必死な衝動が胸の中に生まれた——グレインが間違っているということを、あいつに思い知らせたいという燃えるような欲求が。あいつに自分を見つめさせ、自分の行動に責任を取らせなければならない。


「協力しない」


と言い切った。マーカスの目を、絶対的な頑固さで見据えた。


「グレインと戦わせてくれないなら、計画には乗らない。あいつと対峙するのは僕でないといけない。それが唯一の条件だ」


マーカスは苛立ちの溜め息を吐いて、荒っぽい手で髪をくしゃくしゃにした。僕の要求が規律上の大馬鹿であることは顔に書いてあったけど、一ミリも退かなかった。背筋を伸ばして、真っ向から向き合った。沈黙が続いて、最終的にハンターは長い諦めの息を漏らした。


「坊主……技術的に考えて、お前みたいに弱い魔術師がグレインみたいな奴の最初の直撃攻撃一発に耐えられるわけがないんだ。一秒でお前を吹き飛ばすぞ」


その言葉でプライドが傷ついた。叫ぼうとした瞬間、マーカスが荒っぽい手を上げて制した。


「だがな……」


と続けた。目に危険な火花が宿っていた。


「そこまで言い張るなら、俺自身がお前を鍛えてやろう。ただし、今から言っておく——野蛮で、過酷で、容赦の欠片もないトレーニングになるぞ。時間もない、せいぜい数時間だ。お前を確実にひれ伏させると分かった上で……それでもやってみるか?」


恐怖が一気に吹き飛んで、純粋な希望の波が押し寄せた。あいつの言葉の中に、本物の可能性を見た。


「やる」


ほとんど即答だった。考える間もなかった。


「よし! なら動け、別の場所に移動しないとこれはできないぞ!」


マーカスは勢いよく立ち上がり、書類を片づけ始めた。


完全に困惑して、手首を見てから扉を見た。


「別の場所……? でも、ここに閉じ込められてるんじゃないの。囚人でしょ、勝手には出られないよ」


マーカスは笑い声を轟かせた。部屋に響き渡った。


「ハハッ! 坊主、お前はハンターの前に立ってることを忘れてたか? 上からの直接命令を携えてきた猟人だぞ。歩け!」


半分しか理解できなかった。マーカスの身振りに従って取調室を出ると、地下通路を通って連れて行かれた。驚いたのは——高リスク囚人であるにも関わらず、すれ違う警備員や役人が一言も言わずにただ道を開けていったことだ。誰も止めなかった。こんな非現実的な形で出られることが、奇妙な特権なのか、巻き込まれた作戦の規模に対する深い恐れなのか、判断できなかった。


「車に乗れ、ここを出るぞ!」


駐車場に着いたマーカスが、黒い四ドア車を指差して言った。


助手席に乗り込んで、旅が始まった。窓の外に流れていく景色を眺めながら、一族の政府施設が遠ざかるのを見た。深部の街の心臓部を通り過ぎた。大型商業施設、ガラス張りの記念碑的なビル群、夕方の黄金色の光が建物の隙間から差し込んでくる。景色は少しずつ変わっていき、徐々に郊外へと進んで、最終的に静かな住宅地へと入った。


「この辺に俺の個人の家がある」


と、片手でハンドルを握りながらバックミラーを確認するマーカスが言った。


「周りにも、俺が直接連絡を取れるベテラン魔術師が何人か住んでいる。もう話はついてる——ロジスティックな面でいくつかサポートしてくれる。練習中に強力な呪文を使っても、奴らが広域の封じ込め呪文を張ってくれるから、近くの民間人には何も気づかれないぞ」


……いつ連絡を取ったんだろ。まあいいか。


マーカスが状況の細部を完璧に掌握している冷静さと精確さに、完全に圧倒された。そして……奇妙で苦い嫉妬の棘が胸の中で育ち始めた。横目でハンドルを握る姿を盗み見た。


マーカスは完璧な男の理想像そのものだった。揺るぎない自己確信。驚異的な人脈。プロレベルの魔術の習熟度。見るからに鍛え上げられた体、荒削りなのに圧倒的な存在感——絶対的な守護者のオーラ。おまけに……あいつは腹立たしいほど、あいつなりの優しさを持っていた。


一方、僕は……ひょろひょろの弱っちい奴だ。何も持っていなくて、人に頼るしかない子どもで、二、三日で全てを失った。嫉妬が静かに、じっくりと僕を蝕んだ。


「家に着いたら、すぐに戦術訓練を始める」


マーカスが、思考の渦から引き戻すように言った。


「一秒たりとも無駄にできない。作戦前に訓練できるのは、せいぜい今日の残り時間と明日一日だけだ」


「……え?!」


体ごと反応した。目が開いた。


「今日と明日だけ?! それは無理だよ!」


「泣き言を言うな、龍牙!」


マーカスに遮られた。荒々しい声と、満足げな笑みと一緒に。


「お前が自分の条件で引き受けたんだろうが。今さら耐えろ」


言葉を失った。口を開けたまま、状況の残酷さを飲み込もうとした。今日の残り時間と明日丸一日、休みなしで訓練……マーカスは一体どんな地獄を考えているんだろう。その体格と態度を見れば、理論を暗記したり複雑な呪文を書物から学ぶ学術的な訓練じゃないことは明らかだった。確実に、肉体的な地獄が待っている。


車は普通の住宅の前に停まった。外見は住宅地の一般家屋そのもので、ファサードも目立たない。当然だ——あのレベルのハンターは、民間人の中で完璧に擬態しないといけない。マーカスは鍵束で玄関を開けた。


「入れ、坊主。ここが俺の家だぞ」


中に入ると、ごく普通の家だった。シンプルな家具、標準的なインテリア、本当に何もかもが普通で……でも、どこか不思議に空虚でもあった。本物の家族の温かさが、そこには存在しなかった。マーカスは廊下を進みながら、猟人の重い外套をソファに投げ捨てた。そのまま、庭に続く大きなガラス戸へと歩いていった。


「訓練はあの外でやる」と、敷地を指差した。


ただ機械的に頷いた。唾を飲み込んだ。心臓が肋骨を打つ音が、これから起きることへの純粋な予感と恐怖で加速していた。


マーカスは庭の中央にどっしりと立った。高い塀で囲まれた、緑の芝生の空間だ。公式の携帯端末を取り出し、素早く番号を叩いた。


「こちらマーカス、ポジションについた。今すぐ封じ込めの魔術障壁を起動しろ!」


ほぼ即座に、空を見上げた。青みがかった巨大な魔術陣が上空に形成されていくのを、呆気に取られながら見つめた。半透明の障壁が、周囲の数ブロックを完全に包み込むように広がっていく。世界から隔離されていく。


「よし、準備は整った」


マーカスが携帯を仕舞い、目をまっすぐ向けてきた。始める態勢だった。


「まず最初に、龍牙、これを頭に刻んでおけ——魔術師の伝統的な役割は常に遠距離戦闘だ。近距離戦闘を真に効率よくこなせる魔術師は、歴史上ほとんど存在しない。お前の体は一目見て極めて貧弱だし、一日でそこに奇跡は起きない。だが少なくとも……体を限界まで酷使する感覚は覚えておかないといけない。だから、純粋な体力的持久力の訓練も取り入れる」


最悪の予感が的中した。肉体的にぶっ壊れるまでやらされる。


「エリートの魔術師は多くの戦闘スタイルを習得しているが、全てを同時に極められる人間はこの世に存在しない」


とマーカスが僕の周りをゆっくり歩きながら続けた。


「最大で二つのスタイルが、肉体と精神が効率よく処理できる限界だ」


混乱して眉をひそめた。こんな理論的な説明が何に繋がるのか分からなかった。マーカスは僕の困惑した顔に気づいて、小さく笑った。


「お前を近距離戦闘の攻撃型魔術師に鍛えるつもりはない」


と目の前に立ちながら説明した。


「遠距離戦闘の魔術師になることは、アカデミーの生徒なら誰もが習うデフォルトだ。だから俺が教えるのは、ほとんどの者が習得しようとしなかった戦闘スタイルだ」


どんなスタイルだろう。近距離は時間的に無理、遠距離は誰もが知ってる基本……じゃあ一体何が残ってるんだ?


マーカスはジャケットの内ポケットに手を入れ、木製の補強された普通の杖を取り出した。


「現場では杖をほとんど使わない——ハンターとして、俺はその機能を代替する特殊な拳銃を携帯してる。でも、いつも元の杖は持ち歩いてる」


焦りと絶望が押し寄せてきた。時間的なプレッシャーが頭を蝕んでいた。


「早く教えてよ! もったいぶるのをやめてくれ!」


思わず声を荒げた。


マーカスは僕の焦りに笑い飛ばした。


「焦るな、坊主!」


たっぷり見つめてから、何かを見抜いたような結論を出した。


「……まあ見てたら分かるが、お前は感情が激しすぎて、全然制御できてない。それだと行動が読まれる。だから精神的な自己制御の訓練も追加するな」


腕を組んで、怒りをぶつけようとしたけど、あいつは完全に無視した。杖を庭の中心に向けて構え、その口調が完全に厳粛なものに変わった。


「俺がお前に教える戦闘スタイルは……あらゆる武器を制することだ」


その言葉を聞いた瞬間、不思議な電流が腹の底から走り、脊椎を伝って降りていくような感覚があった。


あらゆる武器を制する?


「龍牙、魔術師の体の中で魔力がどう機能するか、基本は知ってるか?」


杖を構えたまま聞いてきた。


「当然知ってるよ、馬鹿にしないでくれ!」


「ハハッ! 知ってるとは大いに喜ばしい。じゃあ手短におさらいだ——よく知っての通り、魔術師の魔力は自然のエネルギーで、俺たち全員が生まれた時から体の中を流れている。でもその魔力自体は、魔術師が外に向けて集中させて放出する方法を知らなければ、何の役にも立たない。だからこそ触媒が存在するんだ。触媒とは、魔術師が集中した魔力を効率よく解放するための媒体となる物理的な物体だ……そしてまさにその原理から、武器制御の戦闘スタイルが生まれた」


頭の中でカチリと音がした。


言いたいことが分かってきた。その意味の大きさを理解した瞬間、胃がひっくり返るような興奮が走った。手の届くあらゆる物体を魔力の触媒として使える……!


マーカスが狼のような笑みを向けてきた。圧倒的な自信に満ちた笑みだった。


「手に持ったものなら何でも、魔力の触媒として扱えるように鍛えてやる。それがお前の新しい戦闘スタイルだ、龍牙」


そしてカウントダウンが始まった。


マーカスは一秒も無駄にせず、正真正銘の地獄とも呼ぶべきものをスタートさせた。肉体的な訓練が即座に始まった。慣れない筋肉がきしむような延々と続く消耗運動をやらされた。走り、跳び、腕立て伏せを芝生の上でこなして、腕がゼリーみたいに震えるまで続けた。でも最悪なのはそれだけじゃなかった——脚がふらついて肺の空気が切れかかった瞬間に、マーカスが命令口調で杖を持ち上げろと怒鳴りつけ、空中に展開される標的に向かって魔力を放出させた。


完全な地獄だった。


体が痛みで叫び声を上げ、息が乱れ切っている中で、魔力を集中させ、エネルギーを精確に制御し、呪文の安定を保つのは、超人的な作業だった。疲労で集中が切れるか、狙いを外す度に、マーカスの荒々しい声が背後で轟き、もっと出せと追い立てた。何度も立ち上がらせられて、呼吸する間も与えてくれなかった。午後の時間は、汗と転倒と疲弊しながら叫ぶ呪文の中で、残酷に過ぎていった。積み重なった疲労が動きをぎこちなくさせたけど、マーカスの執拗な要求が本能的な生存意欲だけで体を動かし続けさせた。


やがて、黄金色の夕方の光が住宅地のビルの間から完全に消えて、閉ざされた夜が空いっぱいに広がった。それでもマーカスは一分たりとも止まらせなかった。青みがかった輝きの下、汗で目が霞む中、庭を引きずるように動き続けた。弱々しい呪文の火花を放ちながら、筋肉の繊維が切れそうな酷さの中で、それでも奥底に、純粋な意志の炎が灯っていた。


「今日はここまでだ。休め、坊主」


マーカスの声が、自分の心音の轟きに遮られて遠くから聞こえた。返事もできなかった。もはや震える肉の塊と化した脚が完全に折れた。そのまま、湿った庭の芝生に仰向けで倒れた。首筋に草の冷たい感触が触れた。肉体的な痛みは肩から指の先まで広がる固く圧し潰すような重さだったけど、何日かぶりに、頭の中が少しだけ澄んでいく気がした。


動けないまま、夜の空をまっすぐ見上げた。


上には封じ込め障壁が、青みがかった繊細な輝きで広がっていた。不自然な天蓋が街の喧噪から惨状を隠していた。


マーカスが近づいてくる気配を感じた。踏み込む足音は重く、均等だった。隣の芝生に腰を下ろして、数時間の地獄の間ずっと保っていた硬い距離感を破った。滑らかな動作で腕を伸ばし、水の入ったグラスを差し出してきた。


横目で見た。手があまりにも痺れていて、あまりにも力が抜けていて、腕を上げてグラスを掴むことすら不可能に感じた。軽く首を横に振った。背中を地面に押しつけたまま、大地の冷たさが熱っぽい体の熱を少し吸い取ってくれるのに任せた。


マーカスは押しつけなかった。グラスを横の草の上に置いて、後ろに寄りかかり、地面に手をついた。夜風が庭の塀を鳴らす音だけが続く、長い沈黙があった。


奇妙な雰囲気だった。数時間前は魔力の烈風が飛び交っていた場所が、今は重く、密で、静寂が息を詰まらせそうだった。見られていると分かっていた。あいつの視線は折れる点を探すスキャナーみたいだった。


「正直、まだ立ってることに驚いてるぞ、龍牙」


ようやくマーカスが口を開いた。いつもの賑やかな口調が剥がれた、奇妙に静かなトーンだった。


「普通の生徒なら二時間目には泣きを入れてた。お前には変な精神的な耐久力がある。だから聞く——なぜそこまで頑張れる? 本当の動機は何だ?」


問いが空中に浮かんで、僕を剥き出しにした。頭の中で答えを探す必要もなかった。すぐに、くっきりと、執念の中心に刻み付けられたように浮かんだ。


誰もが僕を見るような嫌悪感なしに見つめてきた、あの目を思い出した。本気で挑んでくれた、まるで自分の存在に価値があるかのように話しかけてくれた、唯一の人間を思い出した。


「春花・ナイトシェイドのためだよ」


唇の上でその名前が重さを持った気がして、囁くように言った。


「春花のためにやってる」


その名を聞いた瞬間、隣でマーカスが微かに固まるのを感じた。一瞬、エネルギッシュで険しいその顔が、本物の驚きを見せた。すぐに表情を固めようとしていたけど、それは確かに認識の火花だった。


「春花? あの天才か?」


マーカスが小さく声を上げ、目を細めた。


「……じゃあ、この自滅的な意地っ張り全部、このグレインに死ぬために突っ込もうとしてる理由は全部、女のためか? まさか"愛"とか言い出すんじゃないだろうな、坊主」


「愛」という言葉がその懐疑的な声音で出てきた時、胃が逆転した。傷ついたプライドが刺さった。視線を星に向け続けた。心の中で春花の姿を作り上げて、あいつの批判から自分を守った。


春花は僕にとって完璧だった。届かない目標で、疎外感しかなかった人生で唯一の帰属の灯台だった。


「お前には何も分からない」


返した。声が防衛的で傲慢だと分かっていたけど、脆さを見せることができなかった。


「彼女は本当に僕を見てくれた唯一の人間だよ。ゴミか役立たずの子どもみたいに扱わなかった。あいつのために強くなって、同じ高さに立てることを証明しなきゃいけない。それだけが今、僕を生かしてるんだ」


マーカスは長い溜め息を吐いた。疲労じゃなく、年月が染み込んだ重さのある音だった。怒らなかった。代わりに自分の手を見つめて、深い苦みを帯びた表情を浮かべた。


「お前が描いてるのは愛じゃない、龍牙」


氷のような戦術的な冷たさで断言した。血が止まりそうだった。


「最悪な意味での執着だ。お前はその女を自分の空虚さを見ないための盾に使ってる。高過ぎる台座に乗せたせいで、もう本物の人間として見ていない——賞として、自分の存在価値を証明するための承認として見てる」


言葉が魔術の直撃みたいに叩きつけた。内側で怒りが膨れ上がった。命令に従うことしか知らないこの男に、ハンターに、感情を分析する権利が何だ? 帰属への必要性を、あいつが何を知っている?


歪んだ見方に違いない。あいつには分からないのだ。春花と感じたあの閃きも、セシリアとのあの束の間の奇妙な近さも——受け入れてもらえるあらゆる兆しは僕の命綱で、それを「執着」と呼んで奪おうとしている。


「黙れよ! お前に何が分かるの!」


食い縛って言ったが、体は地面から動かなかった。


「まるで何でも知ってるみたいに喋るね。なぜ? ハンターだから、自分に自信があって、何でも持ってるから? あの忌々しい制服と義務の裏に隠れて他人を裁く! お前には誰もいない! この空っぽな家に完全に一人でいる! 大切な誰かのために命を賭けるとはどういうことか、何も知らないんだよ!」


反発されることを予想した。怒鳴り返されるか、首根っこを掴まれるかと思っていた。でも、そうはならなかった。僕の怒鳴り声の後に続いた沈黙は、絶対的で、圧し潰すようだった。マーカスは完全に動きを止めた。視線が庭の暗闇の中に消えて、初めて、無敵の戦士が揺らいだのを見た。何か深いものを漏らしていた。


そうやって静寂の中に佇む姿を見て、何かがぞわりとした。


言葉は的中したのだ——でも、思っていた形とは違う形で。愛を知らないんじゃない。かつて知っていたことを思い出すのが恐ろしいのだ。


「一つだけ、お前は正しいぞ、坊主」


永遠のような間の後にマーカスが口を開いた。声は低く、感情が剥ぎ取られて、制御された告白のように冷たかった。


「この家で一人でいる。でもそれは、大切な誰かを愛することを知らないからじゃない。お前が今犯してるのと、全く同じ間違いを犯したからだ」


何も言えなかった。思考が止まった。エネルギーが劇的に変わったことに捕らわれた。


「俺にも、いた」


マーカスは続けた。こちらを見ずに、虚空に目を向けたまま。


「ダミラ。魔術師の陰謀事件での相棒だった。俺にとって彼女はミッションの一部で、ハンターになった理由を正当化する完璧さの基準だった。義務に、最高の自分になることに、一族に"十分"であることに没頭しすぎて、本物の女として見ようとしなかった。感じていたものを認める可能性を全て意識的に遮断した。愛は注意散漫だ、戦場で弱点を晒す罠だと思っていたから」


一度止まった。唾を飲み込む音がした。封じ込めた痛みが、二人の間に亡霊みたいに漂った。


「そして、失った」


マーカスが言った。腸が揺れるような生々しさだった。


「あのミッションで、何もできないまま死んだ。馬鹿馬鹿しかったことは、彼女が俺を想ってたことも、俺が彼女を愛してたことも、取り返しのつかなくなるまで分からなかったし、認めようともしなかったことだ。ハンターでいるより、壊れていることを認める方が難しい」


その話を聞いて、奇妙で厄介な共感が生まれた。未来の歪んだ鏡に映る自分を見るような感覚だった。マーカスは義務では成熟した大人なのに、愛情においては完全な文盲だった。損失の重さを感じないために禁欲主義の檻に閉じ込められている。あいつは愛を壊滅的な弱さとして抑圧した。僕は価値を得るために勝ち取らなければいけない取引として理想化した。両方が愛を生存のメカニズムとして使っていた。そして両方が、深く間違っていた。


「春花に目標を見てる、父親が残した空白を埋める何かを見てる」


マーカスが僕の方に顔を向け、厳しい目が僕の混乱を射抜いた。


「でも現実は厳しいぞ、龍牙。あの女はお前に何も負っていない。愛は、お前が強さを提供すれば相手が義務で愛してくれる契約じゃない。ヒーローになれば彼女を手に入れる資格があると思い続けるなら、俺みたいになる——空の記録を積み上げながら、内側から凍えて死んでいく」


マーカスの言葉が、痛苦の幻滅を次々と崩していった。もし彼が正しかったら? 春花への必死な追求が、どこかに属したいという子どもじみた幻想だったら?


救済のシンボルとしてじゃなく、本物の限界と決断を持つ人間として彼女を考えたら——巨大な空虚を感じた。でも同時に……奇妙で、微かな軽さも。完璧でなければ愛される価値がないという必要性は、肩には重過ぎた。


マーカスを見た。あいつもまた、ハンターの仕事と義務の下に埋め込もうとして久しかった傷を開いた余波を処理していた。


「たぶんさ……」


低い声で、初めて叫ばずに「自分」を見せて言った。


「お前も自分を責めるのをやめた方がいいんじゃないの、マーカス。僕を青二才扱いして語ってるけど、お前は生きることを選ぶよりオートマトンで生きる方がマシな臆病者だよ。ダミラはもういない。この空っぽな庭に籠もってたって、あいつは戻ってこない」


マーカスは答えなかった。目を閉じて、言葉の余波を受け止めた。


静寂が庭に戻った。でもそれはもう、緊張した静寂でも、敵意のある静寂でもなかった。意図せず互いの悲劇の鏡を見てしまった二人の静寂だった。


マーカスはゆっくりと立ち上がり、ズボンから芝生を払った。顔には厳しい表情が戻っていたけど、目の奥には深い悲しみの跡と、奇妙に抑えられた誇りが残っていた。


「一晩では十分だ、坊主」


もとの重い口調に戻りながら言った。


「明日の訓練は二倍厳しくなる。本当に何かを証明したいなら、愛の理屈より先に生きることが必要だ。家に入って休め」


ガラス戸へ向かう背中を見送った。肩は落ちていたけど、姿勢は真っ直ぐだった。もう少しだけ、地面に横たわったまま夜の空を見た。


心臓はまだ速く打っていたが、もはや疲労のためじゃなかった。次に来るものへの予感のせいだった。筋肉の痛みはあった。でも胸の重さが、違う種類の決意——鋭く削られた火花に変わっていた。


強くならなければいけない。シンボルになるためじゃない、賞を手に入れるためじゃない……自分の運命から生き延びるために。


* * *


夜明けじゃなく、夜明け前の五時の凍えるような厳しさで朝が始まった。マーカスに容赦はなかった。前夜の壊滅的な訓練をようやく吸収し終えた筋肉が、最初の庭への接触で悲鳴を上げた。でも訓練の内容は大きく変わった。純粋な肉体的消耗から、新しいスタイルの実践的な応用へ。


「複数触媒の理論はシンプルだ、龍牙」


マーカスが日用品のつまった箱を手に持ちながら説明した。


「杖や古い魔導書に依存するんじゃない。お前の魔力は物質を通って流れる。問題は対象の分子抵抗だ。魔力を一気に流し込みすぎたら壊れる。少なすぎたらただのガラクタだ。均衡を見つけろ」


そして爆撃が始まった。マーカスは手の届く物なら何でも投げつけてきた。触媒として使えと言いながら。


「一個目!」


古いぬいぐるみが飛んできた。


おもちゃを苛立ちと共に掴み、縫い目に魔力を集中させようとした。何も起きなかった。ぬいぐるみは魔力の流れを吸収するだけで放出せず、焦げた。


「動け! 次はリュックだ!」


重いキャンバス地を持ち、力ずくで魔術の盾を展開しようとしたが、制御を失った魔力の圧力で布が裂けた。


午前中はその拷問の繰り返しだった。石ころ、壊れた電話、プラスチックのおもちゃ……周りの芝生は役に立たなかった物体の残骸で埋まっていった。焦りは膨れ上がる一方だった。物の形ではなく、存在の構造を無視した形で設計されていない物体に魔力を固定できなかった。


昼近く、疲弊して汗が視界を滲ませていた時、マーカスが普通の木鉛筆を投げてきた。空中で反射的に掴んだ。目を閉じた。木の脆さを無視して、ただ先端を杖の頂点として想像した。


体の中で魔力の流れにカチリという感触があった。


集中した完璧な火炎が鉛筆の先から生まれ、呼び起こされた炎の呪文みたいに天に向かって放出された。呆気に取られて、損傷一つない木片を眺めた。純粋な達成感の波が胸を満たして、何日かぶりに笑みが浮かんだ。


やった!


でもマーカスは喜ばせてくれなかった。


「喜ぶな、坊主。今度は十種類の違う物で十回連続でやれ。失敗なしで」


三時間の激しく反復的な訓練が必要だった。でも最終的に、技術は僕のものになった。魔力があらゆる道具の密度に適応する感覚が掴めた。積み重ねた努力と痛みと疲労が、ようやく報われた。


マーカスが近づいて、無言の承認を帯びた目で点検してきた。ベストに手を入れて、輝くような濃い青の液体が入った小さなガラス瓶を取り出した。


「これを持っておけ」


と差し出した。


「濃縮した魔力回復の霊薬だ。戦闘中の魔力上限を一時的に大幅に引き上げてくれる。生死を分ける局面で使え。大切にしまっておけ」


頷いて、フラスコをポケットに丁寧にしまった。マーカスは向き直り、手袋を整えながら言った。


「よし、次は戦闘特化の呪文に移る。お前に必要なのは――」


言葉が突然止まった。


大気圧が急変して、魔術障壁が激しく震えた。顔が上がった。胃が床まで落ちた感覚と共に。


空の彼方に、雲を貫くように、精緻なデザインの巨大な魔術陣が形成され始めていた。金色で、不気味な光を放って。


「一体何だあれは……」


マーカスが呟き、武器を抜いた。


「あの魔術陣のパターンは尋常じゃない……」


「あいつだ……」


思わず囁いた。拳が震えていた。


「マーカス、あの魔術陣……グレインが使ってたものと同じだ。グレインが近くにいる!」


「何だとっ!!」


マーカスが完全に動揺した。素早く戦術的な通信端末を取り出し、緊急コードを叩き込んだ。


「こちらマーカス、住宅地区で最優先の異常を確認――」


「マーカス、上を見て!」


遮りながら指差した。


金色の輝きから直接的な攻撃は降ってこなかった。代わりに、屋根に向かって隕石みたいに墜落してくる、醜い黒い毛皮と剥き出しの牙を持つ数十の怪物の影が。


信じられなかった。声を失って、目の前の光景が含む意味に凍りついた。


グレインが召喚呪文を使っている。あいつは独自の呪文、独自の古代魔術を操るはずなのに……どうやって僕たち魔術師の構造化された術式を複製することを学んだんだ?


「住宅地の周辺に降下してる!」


叫んだ。魔法の獣たちが近隣の路地に落ちていくのを見ながら。


「畜生め!!」


マーカスが毒づいて、電話を仕舞った。


「周囲を抑えに行く。龍牙、ここにいろ。どんな理由があっても出るな!!」


マーカスは拳銃を地面に向けて発砲した。圧縮された風の魔術が足元で炸裂し、アクロバティックな跳躍で空中に舞い上がった。向かいの家の屋根に着地するや、振り返りもせず混乱の震源地に向かって走り去った。


でも待つつもりはなかった。


これが機会だった。この数時間の訓練が血管の中で燃えていた。自分を試さないといけない。マーカスに叩き込まれた全てを、汗と泥の対価を、本物の場で証明しないといけない。


杖を庭の地面に向けて構えた。学術書で見た風の呪文の構造に集中した。実践したことは一度もなかったけど、切迫感が集中を研ぎ澄ませた。旋風が想像以上の強さで応えた。その勢いが芝生から体を持ち上げ、マーカスが数秒前にいた向かいの家の屋根まで、きれいに飛ばしてくれた。


高所からの眺めは混沌だった。住宅地の路上に獣が満ち始め、午後の陽光の下で咆哮していた。


明確な目標もなく動き始めた。物音と獣の唸り声だけを頼りに。屋根から屋根へと跳び移りながら、煙突、ゆるんだ瓦、金属管を瞬間的な触媒として使い、炎の奔流を解放した。一跳びごとに、住宅の庭に侵入しようとする獣を焼き払った。


進みながら、隣の路地に魔術の閃光が見えた。マーカスが前の晩に言っていた通り、この近隣には魔術師が住んでいた。属性の障壁を展開して、各自の家を守っていた。この町内に、思ったほど孤独じゃなかったみたいだ。


戦闘の激しさの中で続けていたら、二階建ての住宅の屋根に辿り着いて、急停止した。アドレナリンが胸の中で凍りついた。


眼下の石畳の通りに、一人きりの少女魔術師がいた。完全に動きを止めていた。距離があって目ははっきり見えなかったけど、肩が激しく震えていて、杖を胸に押しつける両手の形が、絶対的な恐怖を告げていた。岩で覆われた牙を持つ特大のイノシシの獣が、信じ難い速度で直線に向かって突進してきていた。少女は一ミリも動かなかった。衝撃を待つ像みたいだった。


叫ぼうとして、獣を遮断する炎の呪文を充填しながら、路地の奥から人物が飛び出してきた。少女の背後から、非常に特異で洗練された外見の女性が駆け寄ってきた。その存在感だけで空気が氷のように重くなった。深紅のドレスを纏い、銀の装飾が施された閉じた扇を手に持っていた。顔には深い苛立ちが滲んでいた。


「またか!!」


女性が少女に向かって怒鳴った。明らかに怒っていて、権威的な声色だった。


「いい加減に反応しなさい!!」


獣が激突する寸前に、ドレスの女性は確固たる足取りで前に出た。閉じた扇で、驚く速さで少女の臀部を鳴り響く一撃で叩いた。


その物理的衝撃が、見えない殻を砕いたようだった。少女が瞬時に反応した。深い眠りから目覚めたみたいに。目が見開かれて、空いた手を素早く差し伸べ、反射速度が驚異的で、地面に水晶のような青い魔術陣を召喚した。大きな無垢の氷の槍が大地から生まれ、巨大イノシシの胸を貫通して、数トンの重量を停止させた。獣は一瞬で魔力の粒子となって霧散した。


屋根の上で、何度も瞬きした。目の前で起きたことが全く理解できなかった。


魔術を起動するためにお尻を叩く……?


ドレスの女性は少女の力の顕現を完全に無視した。最新型の戦術通信装置らしきものを取り出し、向こう側の誰かと苛立った声で話し始めた。


「北象限にはさらにいくつ出た? ここは制圧した、でも展開が馬鹿馬鹿しい……」


女性は少女を横目で見た。少女はまた肩を縮ませていた。


「ここで待ってなさい。中央路地を確保しないといけない」


それ以上一言も発さず、女性は踵を返して通りの角へと大股に消えていった。少女は通りのど真ん中に完全に突っ立ったまま、自分の靴を見つめて硬直していた。


情報が必要だった。状況を分析した。今まで屋根の上で手当たり次第に獣を倒し続けていたが、グレインの攻撃の実際の発生源を理解できていなかった。あの子は周囲の様子を聞き出すには格好の相手に見えた。連れの女性が去ってしまったことで、非常に弱く、無防備に見えた。尋問しやすいだろう。


一跳びで屋根から降りて、通りの石畳に着地した。少女に警戒を与えないよう、数歩の距離を保って止まった。でも着地の衝撃に彼女が飛び上がった。


「おい!」 


声に力を込めた。


少女はさらに視線を床に向け、ほとんど哀れなくらい身を縮めた。答えが返ってきたが、風に紛れてかろうじて聞き取れる囁き声だった。


「あ、あの……は、はい……?」


「この周辺に集まってる主な獣がどこにいるか、分かる?」


腕を組んで、単刀直入に訊いた。


「何か怪しい奴を見かけたか? 変な外套を着た男とか?」


少女は口を開こうとしたが、言葉が喉に詰まったらしかった。脈絡のない消え入りそうな呻きが唇から出て、ぎこちない手振りが伴った。


「え、えーと、それは、あの、その……」


一言も繋げられない様を見て、焦れた。最終的に少女は歯を食い縛り、床をまっすぐ見つめ、顔が恥ずかしさで真っ赤に染まり、完全な沈黙に落ちた。


長い息を吐いて、髪に手をやった。獣の侵攻の最中に、こんなにも社会的機能が低下している人間が存在するとは信じ難かった。


そこでふと、ドレスの女性がさっき彼女を反応させるために使った奇妙な方法を思い出した。


「なあ、さっきの女……誰? あいつがお前に何をしたから反応できたんだ?」


と眉を上げて訊いた。


その問いを聞いた瞬間、少女のパニックが一段と増した。目が白目になるくらい見開かれて、あちこちを見回し、何の意味もない音を垂れ流しながら杖を胸に押しつけた。


「え、ええ、それはっ! え、うーん……」


こいつは赤の他人を前にした生物学的に不治の羞恥心を持ってるな。諦めた。通りの先を確認して、時間を無駄にできないと判断した。マーカスを探しに別の路を行くのが最善だ。踵を返した。


でも突然、凍るような軋みが空気を貫いて、動きを止めた。


素早く肩越しに振り返ると、少女が杖を真っ直ぐ僕に向けて構えていた。顔は青白いが視線は固定されていた。防御本能が即座に起動して反撃の態勢を取ろうとしたが——あいつの反射速度は僕より遥かに速かった。指一本動かす前に、氷の旋風が頭の真横をかすめた。完璧な氷の槍が、背後の屋根から音もなく跳んできた猫のような獣の頭蓋を正確に貫通して、壁に縫い付けた。獣は魔力の灰に崩れた。


声が出なかった。目が開き切った。


僕を狙っていたんじゃない。背後から奇襲してきた脅威を排除していたのだ。


単純な一言さえも口ごもる少女が、本物の戦闘の脅威を前にすると完全に動きの速さが変わる様は、驚異的だった。


周囲に敵性エネルギーの痕跡がないことを確認すると、少女はすぐに縮こまった。視線を地面に落とし、杖を背中に隠してブルブル震えた。まるで羞恥心そのものが肉体に宿ったかのように。


早足で近づいた。一人として知らない奴に命を救われた事実に、プライドが疼いた。権威ある声で、殻から出させようと叫んだ。


「おい!」


至近距離の存在に少女が飛び上がり、抑えた悲鳴を漏らしながら、ようやく真正面から目が合った。


「は、はいっ!?」


「そんなに青くなって震えてるのはなぜ? 瞬き一つで獣を凍らせられるのに?」


と苛立ちを隠さず言った。


「もう一度聞く――この辺に獣がもっとよって来てる場所とか、不審な者の目撃はないか?」


少女は、微かに目を合わせようとしてから自分の指先に視線を落とした。大きく吃音が乗った、ためらいがちな声で言った。


「え、えーと、その、実は……体が勝手に動くだけで、止められないんです、はい……でも、獣の姿は見えなくても、その、気配なら……感じられます、あの……」


眉をひそめた。


獣の魔力の気配を感じ取れる……? 特異な能力だ。でも詳しく聞いている時間はなかった。


少女はその辺を見回して、また真っ直ぐ視線を向けてきた。今度は恥ずかしそうながら、不思議に真剣な表情で。


「えーと……不審な方は、ここでは見ていません……でも今、目の前にいる方が、あの、一番不審かもしれないです……」


「……は? 不審者って、僕のことかよ!」


素直に傷ついた声が出た。


「僕も魔術師だよ、お前と同じ!」


少女は声のトーンに飛び上がり、素早く顔を背けて、できるだけ背を縮めようとした。謝罪が信じ難い速さで雪崩れ出した。


「す、すみません! ごめんなさい! あの、その、変なこと言って……ぐっ!」


「もういい」


遮った。踵を返した。


「動く。残りの獣を処理してグレインの痕跡を見つけないといけない。お前の相手してる時間はない」


石畳を歩き始めたら、十歩も進まないうちに震えながらも奇妙な切迫感を帯びた声が引き止めた。


「え……その方向には行かない方がいいと思います……はい」


止まった。苛立ちと共に振り向いた。


「なんで?」


少女は唇を噛んで、明らかに動揺しながら辺りを見てから、小さな声で返した。


「え……その先に……この区域の獣を指揮してるリーダーがいます。とても強くて、危ない……」


群れの頭。散発的な小物の召喚じゃなく、住宅地区の攻撃を統括する制御の核だ。軽く考えるものじゃなかった。でも引き返す代わりに、決意の波が押し寄せた。これが僕の見せ場だ。独力で群れのリーダーと対峙して倒せたら、マーカスとの訓練の成果が証明される。本番への準備が整っているということになる。


警告を完全に無視して、交差点に向かって足を踏み出した。


「え、あの、待ってください……ぐっ!」


荒っぽい足音が後ろでついてきた。


「後ろにいろって言ったろ! 安全な場所に行け!」


一瞬立ち止まった。


「で、でも……目の前で誰かが自殺するのを見てるわけにいきませんから、はい……!」


頬を赤くして声を上げようと精一杯の彼女が言った。


「自殺じゃない」


と杖を見せた。


「あの獣を踏み潰しにいく」


「そんな……だったら、もし行くって決めてるなら、せめて……手伝わせてください、お願いします!」


と、視線を落としたまま横に立った。


意志の固さを見て、興味なさそうに鼻を鳴らして、また歩き始めた。


「好きにしろよ。ただ、やばくなっても僕はお前の面倒見ないからな」


廃れた石畳の通りを、二人で重い沈黙の中を歩いた。足音だけが響いた。空気の緊張が肌に触れるほどだった。少女が沈黙を破った。いつものためらいがちな声で、それでも最低限の礼儀を保とうとしていた。


「え……挨拶が遅れてすみません、その……ひより・ウィンターフォール、です、はい」


戦闘中にきっちり自己紹介してくる光景が馬鹿馬鹿しかった。でもそのトーンと様子を見て、礼儀だけは返した。


「龍牙・ドラゴンズベインだ」


苗字を聞いた瞬間に、ひよりの反応が劇的に変わった。目が本物の興奮で開いて、無意識のうちに一歩踏み出した。いつもの臆病さを一瞬忘れたように。


「ドラゴンズベイン……っ!? 召喚魔術の一族じゃないですか!? 信じられない……召喚呪文の術式の構造をずっと観察してみたくて……!」


「簡単に学べる流派じゃないよ」


厳しく遮った。


「学術的な好奇心以上のものが必要だ」


「はい、分かってます……でも、ずっと興味があって……」


会話が唐突に途絶えた。大通りの突き当たりに着いた。普段の公園の面影は消えていた。黒く濃い霧が、腐食したような魔術エネルギーを帯びて、樹木と小道を天蓋のような闇で覆っていた。


「え……霧の中に、リーダーがいます……はい」


とひよりが囁き、震える手で杖を構えた。


杖を強く握り、魔力を流れを次のために整えた。黒霧の門をくぐると、視界が数メートルに縮んだ。公園の中心から、地面を揺らす轟音が迸った。リーダーの獣の影が顕現した——あのイノシシの獣の特大変異体で、肉体に不気味な開口部が走り、暴走した激しい魔法エネルギーが溢れ出していた。


獣が信じ難い速度で突進してきた。


ここで、新しい戦闘スタイルが真価を発揮した。


一つの武器に縛られない自由を地の利に変えた。公園を自在に動き回り、鉄のベンチ、木の枝、金属の手すりに触れながら、全く予測不能な角度から連続した炎の奔流を放出した。瞬間的な熱の罠を仕掛け、獣の軌道を逸らした。その間、ひよりが距離を保って氷の弾丸でサポートしようとしていた。


でも激しい応酬の最中、獣が装甲した尾を激しく回転させた。路面が砕け、破片の雨がひよりの方向に真っ直ぐ飛んだ。圧力に追い詰められた彼女は、攻撃の速さにまた凍りつき、石礫が向かってくるのに反応できなかった。


くそっ!


考える間もなく、足元で風の推進力を起こして跳んだ。ひよりの体を衝撃の軌道から突き飛ばした。二人そろって霧の掛かった芝生に倒れ込んだ。破片が立っていた場所を粉砕した。


「注意しろって言っただろ!」


立ち上がって埃を払いながら怒鳴った。


「さっき助けてもらった分のお返しをしただけだ。これで貸し借りなし」


ひよりは答えなかった。ただ目を見開いて見上げてきた。感謝を超えた、深い驚きと好奇心が入り混じった表情で。言葉にならない何かが、その無防備な顔に宿っていた。


獣の注意が逸れた瞬間を使い、残った全魔力を木鉛筆に集中させた。あのイノシシの巨体の背中に露出した核に向かって、限界まで圧縮した炎の呪文を叩き込んだ。獣は窒息したような最後の咆哮を上げて、黒霧を公園から一掃する衝撃波となって爆散した。静けさが戻った。


ひよりに近寄り、少し不器用に手を伸ばした。彼女は遠慮がちに受け取り、すぐにまた視線を落とした。


「え、えー……ありがとう、ございます、龍牙さん……」


返事をしようとしたら、公園の入り口に重く急ぎ足な足音が響いた。振り向くと、ドレスの赤い女性が走ってくるのが見えた。近隣の魔術師たちのグループを連れて、そして驚いたことに、すすに覆われた顔のマーカス本人も一緒だった。


赤いドレスの女性は真っ直ぐ近づいてきて、露骨に抑えた激しい怒りを帯びていた。一言もなく、ひよりの腕をぐっと掴んで僕の傍から引き離しながら、大声で叱り始めた。


「中央路地で待ってなさいって言ったはずよ! 侵攻の核まで来て何を考えてるの!! まったく、あなたは無責任すぎる!!」


あの権威的で見下した扱い方に胃が逆立った。前に出て、声を上げた。


「ちょっと待ってよ! そんな言い方しなくてもいいだろ! 彼女はここの群れのリーダーを食い止めるのを手伝ってくれたんだぞ!!」


赤いドレスの女性がぴたりと止まった。こちらに振り向いた。血が凍るような冷たい眼差しが喉に言葉を縫いつけた。


「この子のことは好きにやらせてもらうわ、少年」


切って落とすように言った。


「私が母親だから」


衝撃を受けたまま、言葉が消えた。ひよりの母親。立ちはだかる決意が一瞬で崩れた。奇妙な不快感が議論を続けることを止めさせた。


ひよりは視線を靴に縫いつけたまま、肩を丸め、一度もこちらを振り返らず、母親に引きずられるように公園を去っていった。


マーカスがゆっくり近づいてきた。小さな皮肉な笑みが顔に浮かんでいた。


「おいおい……公園のヒーローになったか、坊主」


とからかいながら、肩に重い手を叩きつけた。


「じゃあ俺も引っ張ってやろうか、家にいろという直接命令に背いたんだからな?」


「うるさい」


手をはたいて言った。


「今はそんな冗談いらない」


ひよりが消えた小道を見つめながら、深い疑問が思考に根を張った。あの子の行動の分裂した奇妙さが理解できなかった。マーカスが顔色の変化に気づいたようだった。茶化した口調が、いつもの戦術的な重さに戻った。


「歩くぞ、龍牙。家に戻ったら説明する。周囲の制圧は完了した」


家への道中、完全に無言でマーカスの後を歩いた。住宅のリビングに入ると、マーカスはハンターの上着を脱いで、ソファに腰を下ろし、重く息を吐いた。


「ひよりの母親のことは知ってる」


と話し始めた。腕を組んだ。


「ヒマリ・ウィンターフォールは高位の属性魔術に優れた傑出した魔術師で、この住宅地区で非常に尊敬されている。あの子、ひよりの戦闘中の行動は見ただろう? あの奇妙な凍りつきを」


「ああ」


目の前の木のテーブルを見ながら答えた。


「完全に固まる。反応する前に、まるで極度のパニック状態に入ったみたいに。あの力量の持ち主には、あり得ないほど馬鹿げてる」


マーカスが頷いた。テーブルに目を向けたまま。


「あの反応は、幼い頃に受けた深刻なトラウマから来ている。ひよりは以前の家で起きた悲劇を目撃した。高位の魔法の獣が突然現れた。誰も守りをかいくぐって来た経路を解明できなかったが、真っ直ぐ父親を狙った。彼女は父親が目の前で引き裂かれるのを、何もできないまま見た」


喉に何かが詰まった感覚があった。その話が刺さった場所は、よく知っていた。父親を失う痛みは、身近な領域だった。


「その日以来、ヒマリは言っていた、ひよりはその凍りつきの発作を起こすようになったと」


マーカスが目を向けながら続けた。


「圧力が高まりすぎると、または差し迫った危険に直面すると、神経系が完全にシャットダウンする状態に入る。年を経るうちにヒマリが発見したのは、その凍りつきのループから瞬時に引き出す唯一の方法は、突然の物理的な刺激を与えることだと——怒鳴り声、揺さぶり、あるいはまあ……一打ちだ。それだけが無理やり頭を動かす方法だった」


あの子の震え、怯えた声、杖を胸に押しつける両手の形を思い出した。どう思えばいいか、何を言えばいいか分からなかった。過去に壊れて、自分の牢の中に閉じ込められた子が、僕の命を救い、僕は同じ方法で返した。奇妙な動揺があった。今しがた出会っただけの魔術師のことを、これ以上気にすべきじゃなかった。


マーカスが表情の変化と固くなった姿勢に気づいた。


「準備は整ったか、龍牙?」


と目を細めた。


新たな覚悟を持って頷いた。ひよりのことは脇に置いた。


「ああ。早く動こう」


「よし」


マーカスが立ち上がった。


「グレインがここにいたのは確かだ。区域の制圧の後、住宅地区一帯で魔力の痕跡を追ったが、何も見つからなかった。それが最初の仮説を裏付ける——純粋な人間だ。それに……今より遥かに近い場所にいる可能性が高い」


「近くにいるって?」


と眉をひそめた。


「お前にはまだその感度がないが、俺は遠距離の魔術的気配の変動を知覚できる」


マーカスが戦術ベルトを締め直しながら明かした。


「公園の戦闘のクライマックスで、ちょうどその時、街の外縁部で著しく異常で不安定な魔力的な反応を感知した。百パーセントとは言えないが、そのエネルギーの性質はレオの魔術の記録と一致する。グレインの展開の後、どこに潜伏したかの見当がついた」


「どこに?」


マーカスが窓の外の地平線を見た。


「この住宅地区の封じ込め障壁と閉鎖された路地の状況を考えると、あの気配が追跡を逃れて退いた場所は一つしかない。東の山だ。それが次の行き先だ、龍牙。そこでレオを見つける……そしておそらく、グレインも」


拳を握りしめた。体の中の魔力が、冷たい決意と共に安定した。次に来るものへの準備は整っていた。

――あなたが生まれた理由を、


誰かに決められる必要なんてない。


そこに、


どんな始まりがあったとしても。


大切なのは、


今ここにいること。


次回――



一人の母親が、


娘の「魂」の意味を知る。

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