起き上がる理由
失ったものは、簡単には戻らない。
だからこそ、人は立ち止まり、迷い、自分の進むべき道を見失ってしまう。
大切な人との約束。
信じていた家族。
揺らぎ始めた真実。
少年の心は、今にも折れそうなほど深い闇の中にあった。
それでも、一人では歩けなくなった時、差し伸べられる手があるのなら――。
新たな一歩は、きっとそこから始まる。
石の天井が、そこにある。
灰色で、湿っていて、どれだけ見ても動かない。どれだけ見つめても、何も変わらない。いつから見ていたのかも、なぜ見始めたのかも、もう覚えていない。ただ、そこにある。ベッドに横たわったまま、背中にマットレスの感触も、首の下にある枕の感触も、どこかに消えていた。あるのはただ、胸の中のあの空洞だけ。痛みでも、安らぎでもない。両方の不在。言葉にならない、鈍い反響。
……小春は、もう僕のことを覚えていない。
その考えが、また来た。波のように。引いたと思えば、また戻ってくる。強く打ちつけることもあれば、ただ囁くだけのこともある。でも、いつだってそこにいる。そしてその後には、必ず他のものが連なってくる。鎖のように、止められない。――裁判。七賢者。判決を告げられたときの、両親の目。アッシュフォード一族の長の、あの冷たさ。クラスでの紹介の、あの屈辱。まるで伝染病患者でも見るように距離を置いてくる同级生たちの沈黙。そして、アリズ。いつだって苛立っていて、いつだって押しつけてきて、なぜ気にかけているのか自分でも分かっていないくせに、それでも現れる彼女。
……そして、ダミラ。
その名前を思い出すたびに、胃が重くなる。ダミラ・アッシュフォード。密告した女。父を監視していた女。血が凍るような静けさで、あのことを告げた女。カズキ・アッシュフォード――ずっと僕に規則を叩き込んでいたあの父が、密かにその規則を破っていた、と。
嘘だ、ともう一度だけ思う。何度繰り返せば真実に変えられるのかも分からないまま、また思う。嘘であるはずだ。
でも、あのとき杖を向けても、ダミラは逃げなかった。謝りもしなかった。ただ、確信に満ちた表情でそこに立っていた。真実だけが自分の味方だと知っている者の顔で。嘘なら、あんな顔はできない。
ゆっくりと身を起こす。骨が鉛でできているみたいに重かった。泣いていない。叫んでもいない。ただ、ここにいる。空っぽのまま、朝ごとに起き上がることに何の意味があるのかを問い続けながら。
……何もない。
自分の心が、静かに答える。慣れ親しんだ冷たさで。絶対的な無意味として。
小春は覚えていない。両親は屋敷に縛られている。そして父は――僕が信じていた父は、もしかしたら僕が思っていた人間じゃないかもしれない。同级生は避けていく。アカデミー・エンディミオンの外に、何かを待っているものなんてない。中にも、何もない。
じゃあ、なぜここにいるんだろう。
答えは来なかった。ただ問いだけが、石の壁に当たって跳ね返ってくる。
――バンッ!!
ドアが開いた。ノックもなく。予告もなく。まるでその蝶番がこの扱いに慣れきっているみたいに。
驚きすら湧かなかった。誰かはもう分かっていたから。
「またベッドに寝てるわけ。恥ずかしくないの、あんた」
アリズが入ってきた。確固たる足取りで、腕を組んで、眉をひそめて。肩に落ちる二本の赤い三つ編みが、動きに合わせて揺れる。緑の目が部屋の中を見回して、僕の上で止まった瞬間、その表情が嫌悪に歪む。
「何日こうしてるの? 一日? 二日? 生きてる死体ってどういう見た目か分かる? 今のあんたがそれよ。見事なくらいにね」
答えなかった。答える力がなかった。彼女の声が遠くから届く。鬱陶しいけれど、遠い。追い払う気にもなれない虫のように。
「ねえ、聞いてるの? 話しかけてるんだけど!」
「……」
「あーもう! 我慢の限界! さっさと起きなさいってば!」
布団を引き剥がされた。冷たい空気が胸に当たる。その瞬間だけ、何か感じた。
冷たさ。それだけ。
「立つのよ。ここで腐らせておくつもりなんてないんだから。あんたに悩まされてきたのに、そのうえ死体の説明まで背負わされるなんて御免だわ」
「……なんのために」
声が出た。かすれていて、ほとんど音にならないような声が。問いというよりは、ここ何日も繰り返してきた問いの残滓だった。
「なんのためにって! 生きるためよ! 何かするためよ! そこでボロ布みたいに転がってないためよ!」
「――生きて、何になるのかな」
アリズが、止まった。
一瞬だけ、彼女の表情が変わった。苛立ちでも、焦りでもない。戸惑い。まるで、その問いが予想外の場所を打ったかのように。
「……何その質問」
「正直な問いだよ。小春は覚えていない。両親は閉じ込められてる。父は……僕の思っていた人じゃないかもしれない。クラスメートは避けていく。君は怒鳴りに来るだけ。それで、なんのために起き上がるの」
沈黙が、二人の間に広がった。重く、粘りつくような沈黙。アリズが唇を結んでいるのが見えた。一瞬、帰るんだと思った。もう一言だけ吐き捨てて、出て行くんだと。
でも、行かなかった。
「あんたの父親のことなんて、私には関係ないわよ」
低い声だった。さっきまでとは違う、何か鋭いものを含んだ声。
「あんたの友達のことも、クラスメートのことも。そんなこと私には関係ない。私がここにいるのは、あんたのためよ!」
「……僕のために?」
「そうよ! あんたのために! 誰でもいいなら時間を割かないわよ、私は! 忙しいんだから! やることもあるんだから! でも、あんたのことは……あんたのことだけは、放っておけないの!」
言葉が止まらなかった。アリズの声が、いつもより早く、いつもより切れ切れだった。
「分からないわよ。なんであんたのことがそんなに気になるのか。うっとうしいし、面倒くさいし、見てると苛々するし。でも、いないと……何か変なの。なんか嫌な感じがするのよ」
最後の一言は、ほとんど呟きに近かった。顔を逸らしながら言っていた。
「あんたって、私にとっても必要なのよ!!」
その言葉が、部屋に響いた。
何かが、胸の中で割れた。痛みではない。長い間ひびの入ったまま放っておかれた壁の、その一部が崩れたような感覚。
「……君に必要?」
「そうよ。何度言わせるつもり。エンディミオンに来たのは来なければならなかったから。これが自分に課されたものだから。そう思っていたわ。そしたらあんたが現れて……あんたの面倒事が現れて……なぜか無視できなくなってたのよ」
アリズが唇を噛んだ。言い過ぎたと思っているのかもしれない。
「……力が出ないとしたら? 立てないとしたら」
「――貸してあげるわよ」
迷いがなかった。
「私の方があんたより強いんだから。立てないなら突き飛ばす。動けないなら引きずる。倒れたなら起こす。気が向かなくても。嫌でも。分かった?」
目を見た。緑の目に、いつもの侮りがなかった。そこにあったのは、もっと別の何かだった。
「……うざいな、君は」
「それが目的なの、馬鹿」
小さく笑っていた。ほとんど気づかないほど小さく。でも、確かにそこにあった。アリズもそれを見ていた。彼女の表情が、わずかに緩む。
それから、ベッドの端に腰かけた。声のトーンが落ちた。
「……話しておきたいことがあるわ。なぜここにいるか。なぜあんたの力が必要なのか」
「力が? 僕の?」
「そう、あんたの。そんなに驚かなくていい。見た目ほど役立たずじゃないでしょ」
アリズが話し始めた、声のトーンが変わった。
「話したいことって?」
「なんでここにいるか。なんであんたに頼まないといけないか。話せなかったこと」
アリズがそこに普通に座っているのを見るのは、初めてだった。喧嘩腰でも、命令しているわけでもない。……秘密を打ち明けようとしている人間の座り方だった。
「全部、私たちの祖父ザイルのことから始まるの」
その名前が、部屋の空気を変えた。
ザイル。会ったことはない。でも父の話の中で何度か出てきた名前。強くて、偏執的で、容赦ない魔術師。
「去年、別の大陸に遠征したの。東の方。そこで何かを見つけた。石よ」
「……石?」
「普通の石じゃない。魔力じゃない何かが染み込んでいた。魔法使いたちでも説明できない何か。祖父は何なのか分からなくて、でも取り憑かれたみたいに調べ続けてる」
……空洞だった胸に、少しずつ別の何かが入ってきた。好奇心、というより――引力。
「調べるために、ウィンターフォール一族に協力を求めた。霊的な魔術の専門家。魂とか、手で触れられないものとか。そのウィンターフォールが言ったの。器が必要だって。十分な魔力を持っていて、若くて、石に"共鳴"できる誰かが」
「……その誰かが」
「私よ」
その一言が、石のように落ちた。
アリズが視線を逸らした。その目に、初めて見るものがあった。
……恐怖だった。
「ある日、うっかり石に触れてしまって。共鳴した。なんて表現したらいいか分からない。自分の中の何かが、石の中の何かに応えた感じ。祖父がそれを見ていた。それから、父親に圧力をかけ続けてる。私を実験に使えって。石を開けたい、その力を解き明かしたい、私がその鍵だって」
「なぜまだ……」
「半分は父親のおかげ。もう半分はここにいるから。エンディミオンには、祖父もそう簡単に手が出せない。でも卒業したら、あるいは先に追い出されたら……どうなるか分からない」
……パズルのピースが、音を立てながら嵌まっていった。強くなりたいという執着。誰にも頼らないという意地。その全部の下に、恐怖があった。
「その石が何なのかを知りたい」
アリズがまた僕を見た。その眼差しが、一瞬だけ鋭くなって、何かを考えた様子だった。
「なぜ共鳴したのかを知りたい。祖父に使われないための方法を探したい。だから助けが必要なの。で、あんたは……似たような立場にいる。唯一、分かってくれるかもしれない人間」
「助けられなかったら?」
「少なくとも試したと言える。そしてあんたは、その間にベッドから起き上がる理由ができる」
……長い間、アリズを見ていた。
いつも罵倒していた、いつも文句を言っていた、いつも厄介者扱いしていた僕の従姉が、助けを求めている。同情からじゃない。本当に、僕が役に立つと思っているから。
「……分かった」
何かが胸の奥で育ち始めた感じがした。安堵、というのとは少し違う。安堵から、何かが解けたような感覚。
「手伝う。でも、君も手伝ってくれ」
「何を?」
「全部。小春のこと。父のこと。ダミラのこと。どうすればいいか分からない。でも、君はこの世界のことを僕より知っている。だから……助けてくれ。そうしたら、僕も助ける」
アリズはじっと見てから、息を吐いて、手を差し出した。
「いいわよ。でも楽だと思わないで。最後まで使い倒してあげるから、覚悟しておきなさいってば」
「……覚悟する」
手を握り返した。
胸の空洞が、何かで満たされる感じはしなかった。でも、方向が生まれた。進む理由が生まれた。今は、それで十分だと思った。
それから数日が経った。
ダミラを見つけるのは、簡単ではなかった。アカデミー・エンディミオンの生徒であるはずなのに、廊下でほとんど姿を見かけない。気配の端に引っかかる感じはするのに、目を向けたときには消えている。影のような人だと思った。ようやく見つけたのは二週間後の午後、中庭を横切る彼女の姿を偶然目にしたときだった。
アリズと目を合わせた。言葉はいらなかった。
二手に分かれて近づき、人のいない廊下で前後を塞いだ。午後の光が斜めに差し込んで、石床の上に長い影を作っていた。
「まあ。二人一緒に来るとは」
ダミラは止まった。動揺の色ひとつなく。まるで予定していたかのように。
「一度に二羽とは光栄ですわ。何のご用かしら」
「分かってるだろ」
声を作って言った。内側では脚が震えていた。でも、ここで怯んではいけない気がした。
「話がしたい」
「ここでは話せませんわ。付いてきてくださいな」
ダミラが先を歩いた。ためらう理由が見つからないまま、二人でついていく。
辿り着いたのは、キャンパスの端にある庭だった。古い木が何本も立ち並んで、午後の影を落としている。噴水の音だけが聞こえる。誰もいない。
「どうぞ」
ダミラが木の幹に背を預けて、こちらを見た。
「父のことを教えてほしい。全部。何を調べていたのか。なぜ監視していたのか」
一歩前に出て、言った。弱さを見せるつもりはなかった。この人は弱さを嗅ぎ取る。
「一度にたくさん要求されますのね」
ダミラは、目の端だけで微笑んだ。目には何も浮かんでいない。
「でも……お話しする義務はありますわね。わたくしが引き起こした部分もありますもの」
ダミラが体を起こして、腕を組んだ。
「わたくしはアッシュフォード一族の内部調査員ですわ。便宜上、探偵と呼ぶ方が分かりやすいかもしれませんけれど。特定の問題を解決するために一時的に任命された立場です。数か月前、ある民間人が魔力の過剰注入で倒れるという事案が起きましたの。誰かが魔術師でなければ出せない量の魔力を、強制的に注入していた。奇跡的に一命を取り留めましたが、問題は被害者の証言でした。犯人の記憶は断片的でしたけれど、一つだけはっきり覚えていたことがあった」
「……何を?」
「紋章ですわ。アッシュフォードの術式に使われるパターン。ウィルドソウル一族が族長に連絡し、内部調査が組まれた。わたくしが選ばれたのは、過去に似たような案件を解決したことがあるからです。観察眼と、言うなれば"勘"に近い何かを持っていると言われていますの」
「……何が見えたの?」
アリズが、緊張した声で訊いた。
「術式のパターンは一族ごとに異なりますのよ。その証言がどこまで信頼できるかについては聞かないでいただけるかしら」
聞けなかった。魔術の細部については、まだほとんど何も知らない。今は先を聞く方がいい。
「単独犯ではないということ。少なくとも五人が関わっている組織的な動きですわ。貴方のお父様は、アキラ、その一人。でも主犯じゃない。彼らがしていることは情報の漏洩だけじゃないの。人間社会に影響を持つ人物たちへ、組織的に情報を流している。政治家。警察官。力のある人間たち。何の情報を、何の目的で流しているのかはまだ分かっていませんけれど、計画的よ。長年にわたって続いている」
足元が揺れた気がした。
「……なんで今まで拘束しなかったの?」
声が、自分でも分かるほど掠れていた。証拠があるなら、なぜ。
「証拠が不十分ですから。それに、頭だけ切り落としても胴体は残りますわ。わたくしたちが必要なのは、駒を取ることではなく、盤上の王を倒すことですの」
「……父は?」
「最も弱い繋がりでしたわ。だから最初に検出できた。でも首謀者ではない。ただの駒。でも……よく報酬をもらっていた駒でしたけれど」
胃が裏返りそうな感覚があった。罰則を犯したらどんな小さな違反でも叱責していた父。規則を宗教の教義のように叩き込んでいた父。その父が、犯罪者だった。そして息子の僕が、その罪を背負わされた。
でも、もう一つ何かが浮かんだ。問いかけが。まだ声に出せない問いが。
「一つ付け加えますわ」
ダミラが言う前に、アリズが口を開いた。
「……別の話があるの」
ダミラが少し驚いた目でアリズを見た。
「おっしゃって」
アリズが全部話した。石のことを。祖父のことを。東の大陸で見つけた、魔力でも魔法でもない何かの話を。触れたときの共鳴を。実験の器として狙われていることを。ダミラはひと言も挟まず、聞いていた。
しばらく沈黙してから、その目が新しい光を持った。
「……それは」
ダミラが、静かに言った。
「深刻ですわ。その石のことは知りませんでしたの。でも、もしおっしゃる通りなら……魔術師の性質そのものを変えうる何かが関わっているとしたら、これは私が思っていたより大きな問題かもしれませんわ」
「父のことと、繋がってると思う?」
あらゆる手がかりを掴みたかった。この問題の全体像が。
「分かりませんわ。でも、排除もできない。正体不明の力を持つ石。民間人へ情報を流す魔術師たちのネットワーク。実験に取り憑かれた祖父ザイル――カズキの父であり、アキラとアリズの祖父。散らばったピースが多すぎる。でも、もしかしたら全部、同じ盤の上に乗っているかもしれない」
ダミラが少し遠くを見てから、こちらを向いた。
「提案がありますわ。協力関係を結びましょう。貴方がたはわたくしには近づけない場所へ入れる。わたくしには貴方がたが持っていない情報と手段がありますわ。互いに必要なものを持っている」
「なんであんたを信じるべきなの?」
アリズが静かに訊いた。不信感を隠そうともせずに。
「あんたが信用できる理由を一つ教えてくれないと」
「……なぜ信用してくれないのかしら」
ダミラが、初めて少しだけ違うトーンで言った。
「嘘をついたことがありますか、わたくし。傷つけようと思ったなら、もう済んでいたはずよ。そして正直に言って……家族全体が秘密によって壊されていくのを、楽しんでいる人間だとは思わないでいただきたいの」
沈黙。アリズを見た。アリズが僕を見た。それから、二人とも頷いた。
「……分かった。協力する」
「結構ですわ。でも一つだけ。裏切りを心配されているのなら」
ダミラが向きを変え、歩き始めた。最初の一歩を踏み出してから、止まった。
「調べるべき人物のことを教えておきますわ。魔術師のことを理解したいなら、普通の規則の外にいる誰かを探した方がいいかもしれない。名前はない。コードネームだけ。でも探す気があるなら、そう難しくないはずよ」
「……教えてくれないの?」
「壁には耳がありますわ。自分の影さえ信用していませんの。見つけることも、試練の一部よ。本当に答えが欲しいなら、自分で手に入れることになりますわ」
それだけを残して、ダミラは行ってしまった。
二人で、彼女が立っていた場所を見ていた。
「……コードネームだけの、異端者」
アリズが呟いた。
「どうやって探すの、そんな人を」
「分からない。でも、探し出す。他に選択肢がないから」
翌日。
廊下を歩いていた。教室に向かいながら、頭の中はまだ昨日の話で占められていた。
見えた。
白。エンディミオンの黒い制服じゃない。白だった。純白で、軍服に似た仕立ての、光を吸い込むような白。
ウィルドソウル一族の、ハンターの制服。
心臓が止まる感覚があった。
こちらへ歩いてくる男は、背が高く、肩幅が広く、アリズと同じ赤い髪を持っていたが、それよりも深く、燃えるような赤だった。ハンターに対して抱くはずの、冷たさや緊張感はなかった。その男が目と目が合うと、笑った。
温かい、広い笑顔だった。まるで太陽が人の形を取ってみせたように。
……動けなかった。話せなかった。ただ見ていた。
男が近づいてきて、僕の真横で、何かに導かれたかのように立ち止まった。真っ直ぐに目を見てきた。事件として見ていない。厄介者として見ていない。邪魔者として見ていない。
一人の人間として、見ていた。
「何も失われちゃいねぇぞ」
低くて穏やかな声だった。
「まだ息してる。朝に起き上がれる力がある。それがある限り、希望はある。俺も同じ場所にいたことがあったからな。俺が出られたなら、お前も出られる」
「……えっ?」
「諦めんな。歩き始めたばかりのときに、諦めんな」
男は肩を軽く叩いた。ほとんど感じないくらい軽く。そのまま、何事もなかったかのように歩き続けた。
名乗らなかった。何も言わなかった。ただそれだけを残して、消えた。
廊下の真ん中に立ったまま、心臓が強く鳴っていた。頭の中で問いが響き続けた。
……あの人は、何者だろう。
「――アキラ!!」
アリズの声がした。走ってきた。髪が乱れていた。頬が赤い。
「やっと!見つけたわ!!」
「……見つけた?」
「ダミラが言ってた人。コードネームだけの人。見つけた!!」
「誰?」
「春花・ナイトシェイドよ。生徒じゃない。魔術具の設計者。異端の力を持ってるって言われてる。普通じゃあり得ない何かを持ってる人間。今、ここにいる。エンディミオンの中に!!」
……アリズを見た。それから、白いハンターが消えた廊下の先を見た。
「話しに行かないと。早いほうがいい」
「そうね。でも……なんでそんな顔してるの?何かあった?」
「……分からない、かな」
正直に答えた。
「たぶん……ウィルドソウルのハンターに会った。諦めるなって言われた」
「はぁ?ハンターに?なんで捕まらなかったの?」
「捕まらなかった。笑って、去っていった」
「……変ね。まあいいわ、そんなこと考えてる時間はないわよ。行くの?行かないの?」
「……行く」
一緒に歩いた。本館の方へ向かって。午後の光が窓から差し込んで、石畳の上に長い影を作っていた。
足に、方向があった。
何が待っているか分からない。春花・ナイトシェイドが、何かを教えてくれるかどうかも分からない。探している答えが、手の届く場所にあるかどうかも。
でも、一人じゃなかった。
……それだけが、今はそれで、十分だった。
――すべての謎には、必ず答えがある。
名を持たない人物。
誰にも知られていない存在。
そして、静かに広がり始めるアカデミーの異変。
闇は、人知れずその姿を現そうとしていた。
少年たちが目にするのは、新たな真実か。
それとも、さらなる絶望か。
次回――
夜に潜む影。
静寂に包まれたエンディミオンで、事件は動き始める。




