七組の囚人
世界が変われば、見える景色も変わる。
昨日まで当たり前だった日常は遠く離れ、
少年の前には、魔術師たちだけが知る世界が広がっていた。
そこには長い歴史があり、
受け継がれてきた知識があり、
そして、それぞれの想いを抱えた者たちがいる。
新しい出会いは希望となるのか。
それとも、新たな試練の始まりとなるのか。
エンディミオンでの最初の一日が、静かに幕を開ける。
目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか、わからなかった。
天井を見上げたとき、最初に感じたのは違和感だった。いつもと違う。なにかが、おかしい。その「おかしさ」の正体が、岩だった。石でできた天井。湿り気が染みついたような、冷たくて重い灰色の岩。記憶が戻ってきたのは、その瞬間だった。……そうか。ここだ。あの学校だ。忘れていたかった。一瞬でいいから、何も知らない朝に戻りたかった。でも、そんな甘さを岩の天井は許してくれなかった。
家じゃない。ここはまだ、家とは呼べない場所だ。
小春……。
名前が浮かぶ。毎朝、必ず浮かぶ。それだけが、ここにいる理由だから。
アリズが言っていたことは、今でも胸の奥で燻ぶっている。小春の記憶を取り戻せるかもしれない、と彼女は言った。確信があって言ったわけじゃないと思う。むしろ、揺さぶるために投げた言葉だったかもしれない。コインを井戸に放り込むみたいに、軽く。でも、その言葉はちゃんと沈んでいった。今もそこに、沈んだまま光っている。消えない。消してくれない。だからこそ、溺れずにいられる。それだけで十分だと、言い聞かせながら起き上がった。
ギシ――
体が痛かった。石でも運んでいたのかというくらい、全身が重い。ベッドの横の木製のハンガーに、制服がかかっていた。
手に取って、眺めた。
黒い。光を吸い込むみたいに深い黒の、長い上着。白いシャツ。赤いネクタイ。暗い色のズボン。黒い靴。シンプルだと思った。何百年もの歴史を持つ場所にしては、驚くほど飾り気がない。でも、アリズが昨夜、説明してくれた。文句を言いながら、ぶっきらぼうに。制服には魔術が込められている、と。集中力、体力、反射神経、そういった受動的な能力を底上げするための術式が。地味な効果だけど、着ているのと着ていないのでは、差が出るらしい。それに、カスタマイズもできるとも言っていた。詳しくは教えてくれなかったけれど、たぶん、力のある魔術師ほど自分流に変えられるんだろう。
……この世界でも、なんでも、上下があるんだな。
ネクタイを結ぼうとして、手が止まった。鏡を見た。
小さな鏡。長年の湿気で曇った、古い鏡。そこに映っていたのは、青白い顔の、目の落ちくぼんだ、髪が乱れたままの、よくわからない表情をした男子だった。
諦め、だろうか。それとも、ただの空虚か。
……自分でも、よくわからない。
「もう起きてるじゃない。奇跡ね」
ドアが開いた。開いた、というより、叩きつけるように開かれた。蝶番がいつもそういう扱いを受けているかのような、迷いのない開け方だった。
アリズが立っていた。
腕を組んで、眉をひそめて。肩に落ちる赤い二つ結びが、廊下の気流にかすかに揺れていた。その目が、上から下まで、素早く走った。品定めするような、というより、欠陥を探すような視線だった。
「……おはよう、アリズさん」
「おはよう、じゃないわよ。どこがおはようなの、あんた。ぼーっとしてその顔は何?なんか文句でもあるの?」
……文句は、ない。ただ眠かっただけだ。それを言うのも面倒だったから、黙って待った。
沈黙が、アリズをさらに苛立たせた。
「何よその顔、急に黙って。プライドでもついに目覚めたの?遅すぎるわよ、全然間に合ってないわ」
……返答しなかった。
「……はぁ、もういいわ!ついてきなさい。案内してあげるから、耳くらいちゃんと開けておきなさいよ。二度は言わないから」
アリズが背を向けた。僕はうなずいて、その後ろをついて歩き始めた。
廊下は石でできていた。足音がよく響く。油ランプが壁に並んでいて、その光が不規則に揺れていた。中世と現代の間のどこかで時間が止まったような、そんな場所。歩くたびに、自分が誰かの夢の中にいるような感覚になった。頼まれてもいないのに、入り込んでしまった夢の中に。
中庭に出ると、暖かい風が来た。湿った土と、まだ開ききっていない花の匂い。朝の日差しが、古い木々の間から差し込んで、砂利道の上に細長い影を落としていた。
学生たちがいた。
本を抱えて歩く者。小さな輪になって話す者。庭の端で、手に持った杖を光らせながら何かを練習している者。日常だった。普通の朝だった。なのに、すれ違うたびに視線が来た。ちらり、と。流し目で、でも確実に、こちらを見ていた。
気のせいかもしれない。でも、気のせいじゃないかもしれない。自分のことは、もう知られているんだろうか。あのことを。……かな。
「エンディミオンに来る魔術師は、試験を合格したいわけじゃないの。魔術を極めたいのよ」
アリズが、前を向いたまま早足で歩きながら話し始めた。
「全一族の子弟がここに集まる。仲良くなんかなれないわよ、家同士の確執は部屋が変わっても消えないから。覚えておきなさい」
聞きながら、言葉を頭に流し込む。全部を掴もうとはしなかった。掴もうとすると、逆に何も残らない気がして。
「知識は個人の能力によって違う。でも、歴史に名を残した魔術師の名前は今でも授業で語られているわ。まるで伝説みたいにね」
少し速度が落ちた。アリズが横目でこちらを見た。
「ねえ、あんた。私たちの歴史くらいは知ってるわよね?基礎の基礎くらいは」
「……うん」
少し間があった。答えた。
「魔術師は、もともとこの星の生き物じゃない。マジクスという種族で、母星から逃げてきた。一部は、メルリンと共に彼らのための世界へ去って、残りは人間と混ざり合ってここで生きてきた」
アリズの眉が、わずかに上がった。
「……まあ、及第点ね。続けましょう」
覆われた廊下に入ると、外の光が薄れた。アリズの声が、少し抑えられた。
「メルリンと去ったマジクスたちは、『マジクスの世界』に住んでいる。純粋な血を保ったまま。あちらが使うのは魔法。私たちマジクス・テラが使う魔術とは、根本的に違う。その差は大きい。でも、埋められない差でもない。過去には、その壁を越えた魔術師もいる」
「……つまり、純粋マジクスの方が、強い」
「上位、という表現の方が正確ね。でも上位が絶対ということはない。テラの魔術師たちも、何世代もかけて近づこうとしてきた。差は挑戦のためにある、という考え方もある」
「……そうですか」
それ以上は何も言わなかった。ただ、なんとなく頭の中に収まっていく感じがした。テラと純粋。魔術と魔法。近いようで、遠い。
廊下の壁際に、二人の人物がいた。
一人は、疲れた男だった。白衣を制服の上に羽織って、割れた杖の欠片を二本、両手に持っていた。髪は乱れて、顎には剃り忘れた無精髭。目はどこか遠くを見ていて、今この場所にいるのかどうか、あやしいくらいだった。
「あれがヴィクター・グリムストーン」
アリズが、顎の動きだけで示した。声を下げていた。
「グリムストーン一族で今一番優れた魔道具師の一人よ」
「えー〜……魔道具師?」
「魔術師が使う触媒を作る人たち。杖でも、指輪でも、何でも。グリムストーン一族がいなければ、魔術師の大半は魔力をまともに扱えない。私たちの社会の屋台骨ね。で、その中でも彼は現時点でトップクラス」
もう一度、その男を見た。眠そうで、立っているのもやっとというような佇まいだった。……正直に言えば、あの外見のどこに「最高峰」を見出せばいいのか、まったくわからない。今にも壁にもたれたまま寝てしまいそうな雰囲気だ。この人が、そんなに重要な人なのかな……と思ったけれど、それを言葉にするのはやめておいた。
「……重要なんだ、かな」
「触媒がなければ、マジクスたちの魔力はまともに扱えない。グリムストーンがいなければ、今の魔術師社会は成り立たない。つまりそういうことよ。わかった?」
「……あー〜」
「何その返事!もう少しましなリアクションができないの、あんたは!」
その声に被さるように、ヴィクター・グリムストーンが動いた。白衣のポケットに杖の欠片を二本ともしまい込み、ゆっくりと廊下の奥へ歩き去った。振り向きもしなかった。
彼がいた場所に、まだもう一人いた。
さっきまでヴィクター・グリムストーンと話していたらしい人物。その人は、こちらを見ていた。笑っていた。
若い。二十五歳、いや、もっと下かもしれない。銀色の髪が、廊下の薄明かりを受けてかすかに光っていた。室内なのに、丸い黒いサングラスをかけていた。不思議なことに、浮いて見えなかった。似合っていた。制服の上に先生用のジャケットを羽織っていて、足取りは軽く、笑顔が先に歩いているみたいな人だった。
「君がアキラ・アッシュフォード?」
もう答えを知っていて聞いているような、そんな言い方だった。
「――はい」
アリズが先に答えた。
「そう。これが問題児よ」
「まあまあ、そんな紹介の仕方しないであげなよ、アリズさん」
男は軽く肩をすくめて、僕に視線を戻した。
男が少し前に傾いた。サングラスの奥が見えない。でも、笑っているのはわかった。
「僕はカイト・エンバーストロム。エンバーストロム家の三男。さーて……リーダーの座は争えたけど、こっちの方が楽しいと思ったから、先生になったよ。冗談だよ。半分ね」
三男。争えた地位を手放して、教師に。
……なんというか、要素をどう組み合わせても、想像がつかない人だ。
ただ……なんだろう、この感覚。軽い、というより、浮いているような。この人は、何かに本当の意味で重心を置いていないような気がした。何に対しても。何もかもを、少し遠いところから眺めているような。
「……アキラ・アッシュフォードです。よろしくお願いします、カイト・エンバーストロム先生」
深く頭を下げた。少し硬すぎる礼だったかもしれない。
「あははっ! そんな堅くしなくていいよ。エンバーストロムって呼び分けるだけでも大変でしょ、みんな同じ名字なんだから。冗談じゃなくて本当に大変なのそれ」
屈託なく笑って、くるりと背を向けて歩き出す。手をひらひらと振りながら、当然ついてくるものだと思っているような動きで。
アリズは短く息を吐いて、歩き出した。僕も後を追った。
……なんだろう。すごく、どこか遠くにいるような人だ。悪い意味じゃなくて。ただ……この場所のことも、周りのことも、あまり重くは受け取っていないみたいな。軽いというより、どこか透き通っているみたいな印象。
うまく言えないけれど、それが気になった。
食堂。時間割は厳格で、守らないと夕食が消える、とアリズが補足した。寮棟。男女の区別なく同じ建物に集められているのを聞いて、少し驚いたけれど、アリズが「そんな暇はここにはない」と切り捨てたので黙った。普通の教室は七クラス。一年の七組、それが自分のクラスだと知ったのはここで初めてだった。
「……一番最後の組、かな」
「最後が劣ってるわけじゃないよ」
カイト先生が、こちらを見ずに言った。
「多様なんだ、七組は。それが力になることもある」
……そうなのかな。
特別教室も見た。研究室、実験室、開発室。
そして、錬金術の教室の前で、足が止まった。
「錬金術……?」
思わず口から出ていた。
「……古い、よな、かな」
カイト先生が立ち止まって振り返った。サングラス越しでも、意外そうな感じが伝わってきた。
「知ってるの?錬金術のこと」
「……子供の頃、父の本で読んだことがあって」
「へえ」
少し間があった。先生は錬金術室のドアを見つめた。
「ふーん。一年生でそれを知ってるのは珍しい。さーて、ちゃんと答えるとね……錬金術はマジクスが発明したものじゃない。かつてマジクスたちと同じ星に住んでいた種族――マギスが作り出したものだよ。僕たちはそれを受け継いだ。詳しくは……歴史の授業で学ぶといい」
笑顔のまま言った。でも、その最後の一言には、何か含みがあった。今以上は聞くな、という空気が、笑顔の裏に薄く張り付いていた。
だから聞かなかった。
最後に連れてこられたのは、図書館だった。
建物に入った瞬間、息が止まった。
高い天井。アーチ状の石の天井が、ずっと上の方に続いている。棚が立ち並んで、二階まで届いて、その先は薄暗さの中に消えている。古い木の机が整然と並んで、足元式のランプが丸い光を落としている。紙と、乾いたインクの匂い。
誰かのページをめくる音だけが、静寂の中に溶けていた。
「マジクス・テラが積み上げてきたすべての知識がある。記録、研究、理論、忘れられた術式。魔術師が知りたいことがあれば、まずここへ来る。それでも見つからなければ、まだ誰も書いていないということだ」
カイト先生の声が、低く、静かだった。
棚を目で追った。終わりが見えない。それだけの本が、それだけの紙が、ここにある。
――この中のどこかに、あるかもしれない。
小春の記憶を戻す方法が。記憶の術式を解除する手がかりが。あるいは、そのための手がかりへの、さらに手がかりが。
どこかに。この迷路の中に。
「すごい、ね」
アリズが、わずかに声を落として言った。努めて平静を装っているのはわかった。それでも隠しきれていなかった。
「……うん」
視線を動かさずに答えた。
「……すごい、な」
本館に戻ったとき、カイト先生が一枚のドアの前で足を止めた。
「アキラくん、ちょっといい?」
アリズが少し離れた位置で壁に背を預けて待つ中、先生が黒い木の扉の前で向き直った。
「アキラくん。今日から、君の担当教官は僕だよ」
……え。……今、何と言った?
「担当……教官?」
「そう。君の指導も、適応も、今後の方針も、一応は全部僕が担当する」
こちらを見て、にこりと笑う。そのサングラスが、相変わらず光を遮っていて、表情の細部が読めない。
思わずアリズの方を見てしまった。
「……知らなかった。初耳よ」
「まあまあ、そういうこともある」
カイト先生が軽やかに割って入る。
「そういうわけだから、ね。クラスはアリズが一年三組で、君が一年七組。一緒にはならない。一人でやっていくことになるけれど、まあ、大丈夫でしょ。きっと」
……一人。
アリズがいない。顔見知りもいない。状況を知っている人間もいない。その中に、一人で入っていく。
「不安そうな顔してるね」先生が言った。
「……いえ」
「していいんだよ、別に。不安な顔。隠さなくていい場所くらい、あってもいいから」
アリズが先に教室へ向かった。廊下の角を曲がる前に一度だけ振り返って、何も言わずに消えた。その背中が、いつもより小さく見えた気がした。
一人になった、という感覚が来た。
カイト先生が歩き出した。隣を歩きながら、低い声で話した。
「君の事情は知ってるよ。なぜここにいるか。何をしたか。その結果どうなったか」
黙って聞いた。
驚かなかった。この世界では、重要な立場にいる人間には情報が流れる。むしろ知らない方が不自然だ。
「正直に言う。簡単じゃない。見られるし、囁かれるし、裁かれる。でも……僕が学んできたことの一つは、隠すと余計にひどくなるということだ。だから、自分を偽るな。何をしたか、なぜここにいるか、それを抱えたまま立ってろ。クラスで自己紹介をするとき、嘘をつくな」
嘘をつくな。その言葉が、胸に落ちた。
年七組の教室は、広かった。半円形に並んだ机。石の黒板。庭に面した窓。
三十人前後はいるだろうか。座っている生徒たちが視線を寄こしてくる。好奇心。無関心。それから、はっきりとした嫌悪。いくつかの目が、あからさまに値踏みする色をしていた。
カイト先生が演台に上がった。笑顔のまま言った。
「さーて、新しい仲間が来たよ。少し遅れたけど、今日から一緒にやっていく。アキラくん、自己紹介してみて」
一歩、前に出た。全員の視線が、一点に集まる。重い。肩が、首が、その重さを受けている。
……嘘をつくな。
飲み込んだ。息を吸った。
「……アキラ・アッシュフォードです。エンディミオンに来たのは、黄金の鉄則を破りました。民間人に自分の正体を明かして、その記憶を消しませんでした。それがここにいる理由です。それが、この教室にいる理由です。……よろしくお願いします」
静寂が落ちた。
ざわ、と波が来た。小さく、でも確実に。いくつかの顔が歪んだ。数人が隣に向かって何かを囁いた。二、三人だけ、何か別のものが目に浮かんだ気がした。でもすぐに消えた。
カイト先生が、長く息を吐いた。
「……あー、やらかしたね」
生徒たちの声がさらに広がる前に、先生が小声で、僕だけに届くように言った。
「アキラくん。嘘をつくなと言ったけど、全部をここで言えとは言ってないよ。……加減ってものが、ね」
床が抜けた気がした。
胃が落ちていく感覚がした。
わかった。わかってしまった。解釈を、間違えた。
あの言葉の意味は、そうじゃなかった。もっと繊細な、もっと緩やかな「正直さ」だったはずで、それを僕は全部まとめて投げてしまった。
正直であることと、全部を最初から晒すことは、違った。
……やってしまった。
授業が始まった。魔力の理論。詠唱の基礎。集中の構造。頭に言葉は入ってきたけれど、何も残らなかった。隣の席は空いていた。一時間目も、二時間目も、三時間目も、誰もそこに座らなかった。視線を向けてくる者はいた。ただ、その中で、ふと気づくことがあった。
三人だけ、ときどきこちらを見る生徒がいた。目が合うと、すぐに逸らした。まるで見ていないふりをするように。
好奇心かな、と思った。でも確かめる方法はなかった。
終わりのチャイムが鳴った。
荷物をまとめた。ノートに書いた文字が、自分でも読めないくらい乱れていた。足が自然と出口へ向いた。
廊下に出ると、夕方の光が石畳に長い影を引いていた。
壁際に、腕を組んで立っている人がいた。
「カイト先生に聞いた。何やったか、ね」
アリズだった。
「……うん」
「恥ずかしくないの?」
「……うん」
「あんたって本当に……!言い返しなさいよ、それくらい!嘘をつくなって言ったのはわかるけど、加減ってものがあるでしょ!TPOってあんた!」
「……うん」
「……もういいわ!何よその顔!ちゃんと息してる?」
返事をしなかった。
少しの間があって、アリズがまた口を開いた。今度は早口で、声のトーンが変わっていた。
「別に心配してたわけじゃないから。ただ、自殺でもしてたら困るから確認しに来ただけよ。生きてるみたいだから帰る」
「……アリズさん」
「何よ」
「……ありがとう。来てくれて」
口が半開きになった。閉じた。また開いて、また閉じた。
「……っ、感謝なんていらない。ほんとに……ほんとに、あんたって……!」
最後まで言い切れなかった。それでも、足は僕と並んで歩き始めた。
「……まあ、帰るから、ついてきなさい。道くらい教えてあげるわ。感謝しなくていいから」
夕暮れの中を、二人で歩く。言葉なく、でも同じ方向に。石畳の先は、寮棟へ続いている。
喋らなかった。砂利を踏む音だけが続いた。夕暮れが橙色に滲んで、花の匂いが風に混ざってきた。
……もう少しだけ、息ができる気がした。
全部が嘘みたいに、静かだった。
そのとき、前から誰かが来た。
女子だった。背は高くない。でも、その存在感が廊下全体をわずかに押しのけているような感覚があった。波打つ金色の髪。暗紫色の目。光を吸うのではなく、光を見透かすような目。制服を着ているのに、その着こなし方が、他の生徒と違った。それは贅沢さではなく、まとっているものの密度が違う、というような感覚だった。
その唇に、笑みがあった。でも目は笑っていなかった。
「あら、あら」
声は、低く滑らかだった。
「正直な囚人さんですこと。アキラ・アッシュフォード」
僕の名前を口にしたとき、何かが背骨を沿って冷えていくような感覚があった。
「……あんた、誰よ」
アリズが前に半歩出た。
「わたくし?」
女子が、わずかに頭を傾けた。
「ダミラ・アッシュフォード、ですわ。アッシュフォード一族の内部調査部門に所属しております。……そして、あの日、貴方を見ていた者でもありますの」
……あの日?
あの日。
「ワイルドソウルに報告したのも、わたくしですわよ。貴方の規則違反を。わたくし。もともとは別の対象を監視しておりましたのよ。貴方のお父様、カズキ・アッシュフォードを、ね」
父の名前が出た瞬間、頭の中で何かが弾けた。
頭の中で何かが燃え上がった。手が震えていた。気づいたら、ポケットの中の杖を握っていた。
「……オマエが――!!」
声が、自分でも気づかないほど低くなっていた。
「ええ、そうですわ。監視対象は、貴方のお父様、カズキ・アッシュフォードでしたの。あの方は長い間、疑わしい行動を続けていらっしゃいましたもの。民間人との接触、情報の流出、水面下での取引……わたくしはその調査をしていたのですわ。ただ、邪魔をしたのは貴方だった、というだけのことですの」
「……何を、言っているんですか」
「真実を述べました」
「……嘘だ」
「嘘?」
ダミラの目が、微かに細くなった。笑みのまま。
「貴方は本当に、お父様のことを知っていたのかしら?その人が貴方に見せていた顔が、全部だったとでも?」
「―――嘘だ!!!親父はそんなことを、しない……!!!」
手が動いていた。杖を構えていた。
術式が頭の中に浮かんでいた。詠唱する言葉がのどまで上がってきていた。
でも。
指が、止まった。
ダミラは動かなかった。表情も変えなかった。ただ静かにこちらを見ていた。その落ち着きが、何よりも恐ろしかった。
「……頭が冷えたら、また話しましょう」
それだけ言って、向きを変えた。足音も立てずに、遠ざかっていった。
その背中が、曲がって消えた。
ガタン――
杖が、床に落ちた。
膝が折れた。石畳の上に座り込んだ。息が、うまくできなかった。
「……アリズさん。知っていましたか」
声を出すのがやっとだった。顔を上げる力もなくて、ただ石畳を見つめたまま聞いた。
「……知らない。初めて聞いた話よ」
嘘のないトーンだった。今日聞いた中で、一番澄んだ声だった。
親父が……。
父が、そんなことを。
全部が崩れていく気がした。自分の名前も、生まれてきた理由も、ここにいる意味も。どこを掴んでも、手ごたえがない。
そんなはずはない。
そんなはず、は……
何かが、ぱきりと割れた。それはもしかしたら、ずっと保っていたものだったかもしれない。
「……あるはずない」
誰に向けた言葉かも、わからなかった。
アリズが隣にしゃがんだ。何も言わなかった。ただ、背中に手が置かれた。温かくも冷たくもない、ただそこにある感触。
それだけで、少しだけ、呼吸が戻ってきた。
太陽が建物の影に沈んでいって、辺りが薄く暗くなった。
初日が、終わった。
――でも、本当のことはまだ始まってもいなかった。
――すべてを失ったと思っていた。
だが、立ち止まることすら許されない。
差し伸べられる手。
語られる新たな秘密。
そして、過去へと繋がる真実の欠片。
敵か、味方か。
信じるべき相手は、まだ誰にも分からない。
次回――
交わされる約束。
少年たちは、それぞれの願いを胸に、新たな一歩を踏み出す。




