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地の底の約束

失われたものは、いつも突然その姿を消してしまう。


守りたかったもの。

信じていた日常。

当たり前だと思っていた未来。


ほんのわずかな選択が、すべてを変えてしまうこともある。


少年が立たされるのは、決して優しくない現実。

そして、その先には魔術師たちの世界が待っている。


これは終わりの物語ではない。

何かを失ったその瞬間から始まる、新たな物語である。

世界が、崩れた。


ドサッ――


そんな音がしたような気がした。肩の上に全てが乗ってきたような、そんな感覚。なのに、支えるものが何もなかった。


どうして、こんなに早く……どうして魔術師たちはもう知っているんだ?僕の体に何か術式でも仕込まれていたのか?それとも、ワイルドソウル一族には黄金の鉄則を破った瞬間を感知する方法があって――でも、考えても考えても答えは出てこなかった。理由なんてもう、どうでもよかった。


現実はただ一つ。


逃げ場は、ない。


丁寧に、時間をかけて積み上げてきた嘘の生活が、二十四時間も経たないうちに粉々になった。でも、僕が一番恐れていたのは自分自身のことじゃなかった。


小春のことだった。


アカデミー・エンディミオンの魔術師たちが校舎を包囲している。その意味を、僕はよくわかっていた。「清掃」のプロトコル。彼らは小春だけを狙っているわけじゃない。目撃者全員を対象に、記憶を消す。クラス全員。教師全員。誰一人例外なく、予防的に、機械的に、冷酷なまでに効率よく。


小春が、僕のことを忘れる。


その考えが、頭を離れなかった。どんな罰より、どんな制裁より、その一言の方が――血が凍るような感覚がした。


気づいたら、右足が動いていた。走ろうとした。


ガシッ――


肩に手が落ちた。鋼鉄の爪みたいな力だった。ワイルドソウルのハンターの手。言葉はなかった。でも意味は十分すぎるほど伝わった。――動くな。


でも、もう頭が働いていなかった。


絶望が視界を塗りつぶしていた。このまま捕まるなら、捕まればいい。消されるなら消されればいい。でも、小春だけは――小春だけは、駄目だ。


ポケットに手を突っ込んだ。触媒が指に触れた瞬間、言葉より先に体が動いた。


「『――起きろ、光よ。フラッシュ』」


バッ――


触媒の先端から白い閃光が炸裂した。ワイルドソウルのハンターが手を離し、顔を覆って後退した。それだけで十分だった。


走った。


校舎への道が、一瞬で戦場に変わった。アカデミー・エンディミオンの魔術師たちが一斉に反応した。背後から詠唱の声が聞こえた。空気が、魔力で重くなった。赤い光の筋が頭のすぐ横をかすめていった。熱が首の後ろを焼いた。風が束になって後ろから迫ってきた――渦巻いて、引き戻そうとする暴風。


もう止まれない。でも、逃げるだけじゃ追いつかない。


考えるより先に、唇が動いていた。


「『――現れろ、立ち上がれ、砕け。グラウンド』」


ゴゴゴゴ――


地面が隆起した。土の壁が風の渦を遮断した。そのまま土が頭上に弧を描いて、即席の防護カプセルを作った。上から降り注ぐ攻撃を弾きながら、その中を走り続けた。


校舎の入口を、駆け抜けた。


でも、中にも待ち伏せがあった。


玄関ホールに三人。アカデミーの制服。触媒がまっすぐ、こちらを向いていた。


彼らは何も言わなかった。警告もなかった。ただ口が動き始めた。単調で繰り返しのある詠唱。その音の質を聞いた瞬間、背筋が冷えた。


状態異常の術式だ。


元素魔術じゃ防げない。直接体に干渉してくる。


指先が淡い緑色に光った。


ズゥゥン――


足が、重くなった。泥の中を歩いているみたいに。膝が折れそうで――


でも、気づいた。


詠唱が終わった直後、彼らは次の術式に移れない。一瞬の隙がある。


今だ。


触媒を足元に向けた。


「『――溢れろ、満たせ、ウミデス』」


ザバァァァ!!――


床から水が噴き出した。一秒もしないうちに、ホール全体が完全に水没した。三人の魔術師が足を取られて体勢を崩した。バタつく姿が見えた。泳ぎ方を知らないらしかった。


でも、小さい頃から泳いでいた。呪文は弱まっていた。


息を吸って、潜った。水の中で腕を伸ばして、二階へ続く階段を目指した。肺が燃えるように痛くなったとき、ようやく水面から顔を出して、段を駆け上がった。


二階の廊下は静かだった。


でも、空っぽじゃなかった。


廊下の奥に、人影が立っていた。修道服みたいな黒いローブ。顔を隠す頭巾。触媒は細長い燭台で、自分の背丈と同じくらいの高さがあった。


彼らは、僕を見なかった。


視線を向けることも、足を止めることも、何もなかった。


その無関心が、何より怖かった。


彼らの目的は僕じゃない。廊下を走りながら、教室の窓を覗いた。


胸の奥が、締め付けられた。


どの教室でも、同じことが起きていた。黒いローブの魔術師が燭台を翳して、銀色の霧みたいな光が生徒たちの上に降り注いでいた。生徒たちは座ったまま、立ったまま、目を開けたまま、ただそこにいた。表情がなかった。何も感じていない人形みたいに。教師も同じだった。


誰も抵抗していなかった。


誰も、できなかった。


自分の教室の前で止まった。


扉越しに、見えた。


頭巾の魔術師が一人。燭台から青白い光が溢れていた。その光に包まれていたのは――


小春だった。


自分の席に座っていた。目が開いていた。口が少し開いていた。


その瞬間、小春がこちらを見た。


たった一瞬だった。


でも確かに、目が合った。


焦点が合っていた。怖がっていた。そして――頬を、一筋の涙が落ちた。


青白い光が強くなった。


小春の目から、光が消えた。


っ…… …… …… 。


気づいたら、膝をついていた。


触媒の感触が消えていた。息をしているのかもわからなかった。周りの音が、遠ざかっていった。


ただ、胸の中央に、穴が開いていた。


底のない穴。どんな夜よりも冷たい穴。


涙が出ていた。止め方がわからなかった。嗚咽が喉から出てきた。獣みたいな声だと思った。でも止められなかった。床に拳を打ち付けた。一度。もう一度。痛みより、胸の中の空洞の方が大きくて、何も感じなかった。


全部、僕のせいだ。


規則を守らなかったから。わがままだったから。自分の気持ちを優先したから。


小春との生活が終わった。普通の生活も終わった。魔術師としての未来も。


全部。


全部終わった。


どれだけそこにいたかわからない。気づいたら、電撃が走った。足の裏から頭のてっぺんまで。全ての筋肉が一瞬で固まった。神経が燃えるみたいで、意識が溶けていくのがわかった。


白いローブのハンターが、ゆっくり近づいてくるのが見えた。


手を伸ばしていた。


その姿が、白く滲んで――


消えた。


* * *


目が覚めたとき、手首が重かった。


視線を落とした。捻じれた光でできた枷が、両手を前で繋いでいた。物理的な質感はないのに、外せる気がしなかった。拘束の術式。親父の本で読んだことがあったけど、まさか自分がかけられるとは思っていなかった。


横を見た。親父と母さんも同じように拘束されていた。


親父は虚空を見ていた。唇が一本の線になっていた。


母さんは震えていた。目が暗い部屋の中を泳いでいた。出口を探しているみたいに。


窓はなかった。どこかの暗い木造の部屋。そこしかわからなかった。


突然、照明がついた。


目が眩んだ。まばたきして、視界が戻ったとき――正面に壇上があった。そこに、正装の魔術師が何人も並んで座っていた。その表情は、失望から純粋な軽蔑まで、様々だった。でも一つだけ、中央に空席があった。


玉座みたいな椅子。


引き戸が開いた。


入ってきた人物は、静かだった。仕立てのよい、現代と古典が混ざったようなスーツ。銀灰色の髪が後ろに撫でつけられていた。その目が、僕と同じ色をしていた。


足を止めることなく、空いた席へ向かって歩いた。他の誰も存在しないみたいに。


アッシュフォードの長。


実在していたんだ、と思った。そして、会いたくなかった。


部下の男性が書類を持って前に出た。


「アキラ・アッシュフォード。カズキ・アッシュフォードとケイコ・ハートウッドの息子。2099年四月二日、黄金の鉄則に違反した罪で告発された。魔術師の身分を民間人に開示し、接触プロトコルも記憶消去プロトコルも行使せず、放置した」


知っていることを、知らない人の言葉で読み上げられると、妙に遠かった。まるで他の誰かの話みたいに聞こえた。


長が手を上げた。声は低く、冷たかった。


「判決を下す前に、何か言いたいことはあるか?」


親父が体を前に傾けた。枷が鳴った。


「お、お聞き届けください!息子はまだ若く、過ちを犯しましたが……今からでも取り返せるはずです!あの娘の記憶を今すぐ――!」


「黙れ」


一言だった。でもそれで十分だった。親父の声が、消えた。


「記憶の消去はすでに執行済みだ……カズキ、君の息子が犯した罪は、容易に消せるものではない」


長の声に、割り込む余地はなかった。親父は唇が震えていたが、もう声が出なかった。


眼鏡の部下が書類を閉じて顔を上げた。場を支配する静寂があった。


親父が再び口を開いた。声は掠れていた。


「私は……何も知らなかった。息子が……若くて……もし交渉の余地があるなら……」


「黙れ」


二度目は、さらに静かだった。でも圧力が倍になっていた。親父が縮こまった。それを見るのが辛かった。


「カズキ、君はもう十分話した。君の息子は最も神聖な規則を犯した。交渉の余地はない。七賢者が明朝、君たちの運命を決める」


長は立ち上がった。誰も見ずに退室した。代表者たちが一人ずつ続いた。


やがて、部屋には僕たちと、影の中の見張りだけが残った。


深い地下の牢に連れていかれた。湿った石の壁。踏み固められた土の床。小窓すらなかった。鉄の扉が閉まる音が廊下に響いた。


親父が爆発した。


「何てことをしたんだ!?」


親父が向き直って、枷が軋む音を立てながら指を突きつけた。


「何度言い聞かせた!?いかなる状況でも、身分を明かすな、と!それなのに、お前は……バカで、身勝手で、言うことを聞かない……っ!俺たちの人生を壊したんだぞ!あんな些細なことで、たかがあの女の子一人の記憶を消せなかったくせに!」


反論はできなかった。する気も起きなかった。全部、本当のことだったから。


母が泣き崩れた。


ヒステリーに近いものだった。止まらなかった。未来のこと、罰のこと、先のことを途切れ途切れに呟きながら、震えていた。父は怒りを忘れて、母のそばに寄った。


隅で、見ていた。


僕のせいで、こうなった。


わがままだったから。規則に従えなかったから。あの子が目を消える前に一度だけこちらを見た。あの涙が頭から離れなかった。


もし魔術を使っていなければ。もし消去の術式を使っていたら。もし父の期待に応えていたら。


でも、「もし」は何も変えない。


隅に座った。壁を見た。


石の色が目に入ったけれど、見ていなかった。


「……父」


声が思っていたより小さかった。父は振り向かなかった。顔が地面に向いていた。


「七賢者って……何をする人たちなの。僕たちに、何が起きるの」


少しの間、沈黙があった。


父が顔を上げた。虚ろな目だった。何かを言いかけた。


その目に、火が戻った。


「わかってないのか?七賢者が何者かって……?」


父がこちらを向いた。今度は怒鳴り声ではなかった。もっと疲弊した声だった。でも、やはり矛先はこちらだった。


「運命を決める人たちだ!一族全員の運命を!そしてお前のせいで今、うちの三人の運命が奴らの手の中にある!そんなことも……そんなことも理解できないのか、お前は……!」


言葉が途切れた。


父は壁に崩れ落ちた。両手で顔を覆った。


「お前のせいだ……」


声がくぐもった。「全部、お前のせいだ」


……うん。


そうだね、親父。


本当のことだから。


何も言えなかった。体が動かなかった。枷はもうなかったけれど、それより重いものが胸の上に乗っていた。


小春の涙。母の嗚咽。父の「お前のせいだ」。


全部が、ぐるぐると回り続けた。


現実は石みたいに重くて、持ち上げる気力がなかった。


世界から色が消えた。音が遠のいた。石の壁を見つめていたけど、何も見えていなかった。


ただ一つの言葉が頭の中で回り続けた。


――全部、僕のせいだ。


いつのまにか目が閉じていた。母の泣き声と父の嘆きが子守唄みたいになって、意識が沈んでいった。眠ったのか、気絶したのか、もうわからなかった。


* * *


夜明けに起こされた。


ワイルドソウルの一族の魔術師たちが、何も言わずに連れ出した。黒い窓の車に乗せられた。乗った瞬間、術式が頭を包んだ。視界が閉じた。音が消えた。


振動だけがあった。カーブのたびに体が揺れた。信号で止まる感覚があった。時間の感覚がなくなった。


術式が解けたとき、石造りの大きな部屋だった。奥に高い壇があった。七つの椅子が並んでいた。七つとも、黒い修道服の人物が座っていた。顔が見えなかった。でも視線は感じた。頭巾の奥から、真っ直ぐにこちらを見ていた。魂を測るみたいな視線だった。


これが七賢者か。


両親が両脇に立った。母はもう泣いていなかった。ただ震えていた。父は青白くて、唇を一文字に閉じていた。


「裁判を始める」


声がどこかから降ってきた。


賢者が書類を読んだ。


「カズキ・アッシュフォード。自らの意志でエンディミオンに入学、並びに卒業。若き日の遠征にてケイコ・ハートウッドなる民間人を救出し、接触プロトコルを適用。正式な届け出を経て家族を形成。コレクターの職を得ることで人間社会へと同化し、その活動を以て一族へと多大なる貢献を果たす。前歴なし。瑕疵なし。問題なし」


次のページ。


「ケイコ・アッシュフォード、旧姓ハートウッド。民間人。入会の儀式を問題なく完了。長年にわたり魔術師の秘密を守り通した。前歴なし。問題なし」


また次のページ。


「アキラ・アッシュフォード。カズキとケイコの一人息子。基礎的な魔術の訓練は受けているが、人間社会に留まることを選んだ。一族への顕著な貢献はなし。しかし2099年四月二日、黄金の鉄則を破った。魔術を民間人の前で使用。記憶消去プロトコルの不行使。身分の開示。匿名の通報者からの情報提供。対応として、関係する教育施設にて清掃プロトコルを執行」


匿名?誰かがその瞬間に僕たちを見た……でも……誰だ?


全部知っていることだった。でも無機質な言葉で並べられると、どこか他人の話みたいに聞こえた。


中央の賢者が口を開いた。声が遠くから来るみたいだった。


「アキラ・アッシュフォード、判決の前に、そなたには発言の権利がある。何か申し述べることはあるか?」


喉が詰まった。


でも、小春の目が浮かんだ。涙が頬を伝う一瞬が浮かんだ。あの後、消えていった光が。


口を開いた。最初は声が震えていた。でも言葉を出すうちに、少しずつ固まっていった。


「傷つけたくなかったから……です」


最初の声は頼りなかった。


「小春は……幼馴染で。彼女が全部見てしまったとき……記憶を消す方法を知らなかったわけじゃなかった。できなかったんです。それは……失いたくなかったから。忘れられたくなかった。それが間違いだったのはわかっています。黄金の鉄則を破ったのも、家族に迷惑をかけたのも、全部わかっています。でも……ありのままの僕を受け入れてくれた。それだけは、後悔していません。結果は後悔しています。でも、本当のことを話したことは、後悔していない」


静寂があった。


七人の賢者が視線を交わした。何人かが、かすかに頷いたような気がした。


でも確信はなかった。ただ待った。


中央の賢者が手を上げた。


「一分で判決を下す」


一分。


小春の記憶を消すための時間が、ちょうど一分だった。


その一分を使わなかったから、今ここにいる。


時間が引き伸ばされた。父が目を閉じていた。母が静かに泣いていた。


「判決を下す」


「カズキ・アッシュフォード。ケイコ・アッシュフォード。コレクターの職を解く。アッシュフォードの屋敷にて、期限未定の奉仕活動に従事すること。案件は年次で再審査される」


父が目を閉じた。母が声を飲み込んだ。


「アキラ・アッシュフォード。未成年であることを考慮し、再教育の判決を下す。アカデミー・エンディミオンに入学し、寮生として規定の課程を修了すること。卒業時の評価をもって、そなたの将来とそなたの両親の処遇が決定される」


賢者が少し間を置いた。頭巾の奥の目が、真っ直ぐ向いているような気がした。


「この機会を無駄にするな。次はない」


術式が再びかかった。世界が暗くなった。


* * *


目が覚めると、知らない部屋にいた。


古い石の壁。雨上がりの土みたいな色。年季の入った木の机と椅子。装飾のない油ランプが揺れていた。唯一の近代的なものは、壁の細い窓だった。出られる大きさじゃない。でも外は見えた。


ゆっくり起き上がった。拘束の術式は消えていた。でも骨に石を詰め込まれたみたいに重かった。


窓の外に目を向けた。


広い庭があった。整いすぎていて、どこか残酷に感じた。中央に石の噴水。蓮の葉が浮かぶ池。白砂利の小道が、丁寧に刈り込まれた生垣の間を縫っていた。アカデミーの制服を着た生徒たちが歩いていた。低い声で話していた。何事もないみたいに。


アカデミー・エンディミオン。


その名前が、口の中で苦くなった。来たくなかった場所。これからの三年間が詰まっている場所。


ベッドに倒れ込んだ。天井の古い木の梁を見つめた。


何も感じなかった。怒りも、悲しみも、恐怖も。ただ、空っぽだった。


魔術師になりたかったわけじゃない。ずっとそうだった。それなのに、魔術の知識が集まる場所で、選んでここに来た人たちに囲まれて生活することになった。


頑張る理由が、思いつかなかった。卒業して何になる?父と母はもう奉仕者だ。小春は僕を覚えていない。外に待っているものは何もない。


虚無が毛布みたいにまとわりついてきた。しばらく、そのままにしておいた。


……空っぽだった。胸の中に、色がなかった。


――バンッ!!


扉が勢いよく開いた。


埃が舞い上がった。思わず顔を向けた。


入口に、女の子が立っていた。片手を扉の枠についていた。退屈と苛立ちが混ざったような表情。赤い髪が肩の両側に下がっていた。目が緑色で、磨いたエメラルドみたいに光っていた。アカデミーの制服を着ていたけど、そこにいるだけで格が違うみたいな雰囲気があった。


彼女は指を差した。まるで物を指すみたいに。


「あんたが黄金の鉄則を破ったどうしようもない人でしょ?」


何を言えばいいか、わからなかった。


「同じことを二回言わせないで」


彼女は許可なく部屋に入ってきた。


「魔術師として最低。一族の恥。私がどれだけ時間を無駄にしたかわかる?全部あんたのせいよってば」


ずっと言われてきた言葉に似ていた。父の言葉に。胸の奥で何かが熱くなりかけた。


「……失礼ですが、あなたは?」


女の子が目を回した。そして近づいてきた。不満の目がまっすぐ向けられていた。


「はあ、がっかり。でも、まあ、仕方ないわね。会ったことないんだから」


少しずつ苛立ちが積み上がってきた。


「私はアリズ・アッシュフォード。あんたの従姉よ。同じ親戚だなんて、正直思いたくないけれど」


アリズ・アッシュフォード。


初めて聞く名前だった。


「従姉がいるとは……知らなかった」


「じゃあ、今知ったね。当然でしょ」


アリズが肩をすくめた。


「あんたの父親は昔から私の父親と距離を置いていた。仲のいい家族ごっこなんてしてないわよ。まあ、それはどうでもいいの。大事なのはね、あんたのせいで、私に面倒くさい仕事が回ってきたってこと」


「……どんな仕事ですか」


アリズが大げさなため息をついた。


「あんたの案内役。ここに慣れるまでのね。理解できないんだけど、なんで私がこんなことしなきゃいけないの」


「じゃあ……しなくていいですよ」


視線を窓に戻した。


「頼んでいないし。一人にしておいてください」


静寂があった。


それから、声の質が変わった。


「……これが遊びだと思ってるの?」


同じ声なのに、違う刃が入っていた。アリズがゆっくり近づいてきた。


「自分を可哀想だと思ってる。その顔でわかる。でも、世界はあんたが泣いている間も動いているわよ」


「そんなことは……」


「わかってないくせに言わないで」


アリズが肩を掴んで、こちらを向かせた。


「あんたの両親が今何をしているか、わかる?本邸で、使用人みたいに働かされてるの。あんたが守りたかった女の子はあんたのことを覚えていない。それでも、あんたがここで腐っていれば何かが変わると思う?」


「……なんで、そんなことまで知っているんだ」


「……それは関係ない話です」


「関係あるんだよ、全部!」


手が離れた。


「あんたには機会があるの。わかる?アカデミー・エンディミオンには何世代にもわたる魔術の記録がある。研究がある。知識がある。もし本当に取り戻したいものがあるなら、探せる場所がここしかないのよ」


何かが引っかかった。


「……取り戻す?」


「記憶消去は、絶対に元に戻せないわけじゃないの」


アリズはそっぽを向いた。


「ケースによるけれど。研究している魔術師もいるし、資料もある。もしあんたが本気で……あの女の子の記憶を戻したいと思っているなら、ここ以外に答えのある場所はない」


鼓動が、一回だけ大きく跳ねた。


「……本当に、そんなことが可能なんですか?」


「さあね」


アリズが歩き出した。


「やってみなければわからないでしょ。でも何もしなければ絶対に無理。だから、腐ってる場合じゃないの、このバカ。ちゃんと卒業して、自分で確かめなさい。それだけ」


扉の前で止まった。振り返りはしなかった。


「夕食は七時。遅れないで。探しに来るのは御免よ」


そのまま出ていった。


開いたままの扉の向こうで、足音が廊下を遠ざかっていった。


しばらく、動けなかった。


窓の外では、庭の噴水がまだ水を吐いていた。学生たちがまだ歩いていた。何も変わっていなかった。


でも、さっきとは少し違った。


……小春の記憶を、取り戻せるかもしれない。


微かだった。今にも消えそうな炎みたいに小さかった。でも確かにあった。


拳を、ゆっくり握った。


待っていて、小春。時間がかかっても……絶対に見つける。取り戻してみせる。約束する。


そう思った瞬間、


グゥゥ〜〜〜


……。


…………。


そういえば、アリズは食堂がどこにあるか教えてくれなかった。


はあ、とため息をついた。

――エンディミオン。


それは、世界中の魔術師たちが集う学び舎。

数え切れない知識と歴史が眠る場所。


新たな環境。

新たな出会い。

そして明かされる魔術世界の真実。


だが、少年を待っていたのは歓迎ではなかった。


次回――

孤立する者。


一つの告白が、教室の空気を大きく変えていく。

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