その日、空は止まった
高校入学の日。
それは、多くの人にとって新しい生活の始まりに過ぎない。
しかし、ある少年にとっては、長年守り続けてきた「秘密」が揺らぎ始める一日でもあった。
魔術が存在することを誰にも知られてはならない世界。
七つの魔術一族が築き上げた絶対の掟。
そして、その掟の中で平穏な日常を守ろうとする一人の少年。
運命は静かに動き出し、小さな選択が、やがて取り返しのつかない未来へと繋がっていく。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
金色の線が木の床に幾筋も描かれて、どこか夢の続きみたいで――目を開けたのか、まだ閉じているのか、しばらくの間、自分でもわからなかった。意識と眠りの境界線、そのぼんやりとした場所に浮かんでいると、時間というものが止まったように感じる。世界から切り離された、静かで柔らかい瞬間。
でもそれは、長くは続かなかった。
ピピピピッ――!
電子音が、耳の奥まで容赦なく響いてきた。現実に引き戻される感覚は、毎朝同じなのに、毎朝少し痛い。手を伸ばしてアラームを止めると、布団の中で少しの間動かずにいた。
……今日から、高校だ。
その事実が、ゆっくりと胸の中に落ちてきた。また新しい場所。また新しい顔ぶれ。また一から、始めなければならない。形が変わるのは、いつもこうだ。突然に、そして否応なく。けれど、どれだけ環境が変わっても、どれだけ時間が経っても、変わらないものがある。ずっと前から、物心ついたときから、ずっと一緒にいるもの。
僕は、魔術師だ。
声に出したわけじゃない。ただ、胸の中でそう確かめた。それだけで十分だった。
裸足のまま床に足をついた。冷たい木の感触が、足の裏から伝わってくる。部屋はまだ薄暗くて、でも耳はもう家の音を拾っていた。台所から食器の触れ合う音。居間から流れるテレビの低いざわめき。ドアの隙間をすり抜けてくる、淹れたてのコーヒーの匂い。
いつもの朝だ。
何も特別なことはない。何も変わっていない。そのはずなのに、バスルームへ歩き始めながら、気づけば心は、いつもの場所へ向かっていた。ずっと閉じておこうとしている、あの暗い部屋。自分の本当の姿をしまっている場所。恐れが積もり、規則が並び、警告が刻まれているところ。
親父と母さんが、ずっとそう言い続けてきた。何があっても、絶対に正体を明かすな。『一度でも間違えれば、僕たちが積み上げてきたものが全部崩れる。お前だけじゃない。私たちも一緒に』
その言葉は、とっくに血の一部になっていた。迷いそうになるたびに頭の中で繰り返して、全部話してしまいたい衝動が抑えきれなくなるときの盾にしてきた。そして十六年間、一度も破らなかった。誰にも、何も、気づかれなかった。
洗面台の蛇口をひねって、冷たい水で顔を洗う。体が一気に覚醒する。水が顎から滴り落ちるのを感じながら、鏡を見た。
……誰だろう、と一瞬思った。
映っているのは、よく見知った顔のはずなのに。少し乱れた黒い髪。どこかまだ子供っぽさの残った目。輪郭が少しずつ大人のものになっていく顎のライン。見慣れているのに、他人みたいに見える瞬間がある。
でも、その奥に。
他の誰にも見えない何かが、ある。世界から自分を遠ざけているもの。もし知られたら、何もかも変わってしまうもの。それは鏡には映らない。だからこそ、余計に気になる。
歯を磨きながら、頭は自然と先のことを考えていた。
年数を重ねるごとに、それは近づいてくる。できれば考えたくないことが。アシュフォードの儀式。一族の中での役割。将来。運命。好きで選んだわけでもないのに、ただ生まれたというだけで、もう決まっていること。
七つの一族が、陰から社会を動かしている。アシュフォードもその一つ。魔導と技術の融合を担う一族。親父は資金を集める役目を持ち、母さんは元々普通の人間だったのに、無数の「手続き」を経て、ようやく家族になれた。この世界では、愛さえも規則の中にある。
そして――黄金の鉄則。全ての規則の中で、最も絶対的なもの。違反した者に待つ結果は、考えたくない。
『魔術師は、決して発覚してはならない。僕たちの存在を、世界に知らせてはならない』
制服を着た。神聖高校の紺色のブレザー。少し大きめだけど、別に気にならない。鏡の前で、ネクタイを締めようとして……うん、大丈夫。ちゃんと整えた。
階段を下りると、炒り卵の匂いが波のように押し寄せてきた。
腹が鳴った。どれだけ頭が複雑なことを考えていても、体はちゃんと正直だ。……まあ、それだけは確かに人間らしい。
「おはよう」
声に出したのは、それだけだった。
母さんはフライパンを動かす手を止めず、親父はテーブルで新聞を広げたまま、視線だけこちらに向けた。
「おはよう、アキラ。緊張しているか?」
「……別に」
嘘をついた。炒り卵を皿に取りながら、そう思った。高校だ。中学とそう変わらない。そう言い聞かせている。
「嘘をつかないでよ」
母さんが、お茶を僕の前に置いた。声が少し弾んでいた。
「大人への最初の一歩だもの。新しいお友達ができて、仲良くなって、もしかしたら素敵な人も……」
「ケイコ」
親父の声は短く、でもそれだけで十分だった。母さんが静かになる。
視線を皿に落とした。
言葉にしなくていい。親父が言いたいことはわかってる。忘れるな。近づきすぎるな。信用しすぎるな。魔術師にとって、距離は安全で、親しみは罠だ。それが、僕たちの世界の常識。
黙ったまま食べ終えて、軽く頭を下げて、家を出た。
外の空気は、冷たさの中に春の気配があった。冬を手放しきれないまま、それでも少しずつ温かくなろうとしている、そんな朝。歩き慣れた歩道を、いつものリズムで歩きながら、七つの一族の名前が頭の中を流れていった。
グリムストーン。ナイトシェイド。ウィンターフォール。ドラゴンズベイン。ワイルドソウル。エンバーストロム。
そして、アシュフォード。
各一族にはそれぞれの専門領域がある。アッシュフォードが担うのは、魔術的・技術的な発展。魔術と現代技術の融合。だから親父は資金調達を担い、一族が存続できるよう人脈を維持している。だから僕は、コンピュータと教科書と、基礎的な魔術の間で育ってきた。どれも、中途半端なままで。好きじゃなかった、というよりも……使ってはいけないと繰り返されすぎて、いつの間にか遠ざけるようになっていたのかもしれない。
まぁ……正直に言えば、魔術にはあまり興味がない。興味を持てないようにされてきた、と言った方が正確かもしれないけれど。使うな、見せるな、存在を隠せ——そればかり繰り返されていたら、自然と遠ざかる。今の僕が使えるのは、最低限の簡単な術式がいくつか。天才でも、学者でもない。たまたま非凡な家に生まれた、ごく普通の男子だ。
一族の中にも階層がある。親父は「コレクター」――魔術師社会の身分制度でいえば、かなり下の方だ。「監視者」は社会に潜んで脅威を探り、「守護者」は何かあれば介入する許可を持つ。そしてその上には、もっと高位の役職が続く――僕には想像することしかできない、影響力を持つ者たちが。
一族は何世代にもわたって存続し、繁栄し、人間社会の全ての層に浸透している。弁護士、裁判官、警察、消防、政治家、俳優――全て支配のため。全て、発覚しないため。
コツン――肩を軽く叩かれた。
「アキラくん! おはよう!」
声を聞いた瞬間、思考が止まった。
振り返ると、小春がいた。鈴の音みたいな声だと、いつも思う。小春が笑っていた――そう、いつも通りに。幼い頃から知っている、あの笑顔で。艶のある栗色の髪が、朝の光の中で緩やかに揺れていた。アーモンド型の瞳は、光の加減でヘーゼルにも茶色にも見えて。その柔らかな顔の、薔薇色の頬を――なんとなく、触れたくなってしまう感覚を、毎回どこかに押しやっている。細くて、でも脆くはなくて。一緒にいるだけで何か温かいものが胸に満ちる、そういうふうにできている人だ。
「……小春さん」
自分の頬が少し熱くなっているのがわかった。
「あれ〜、会えて嬉しくないの?」
小春が首を傾けた。髪が一筋、額の前にこぼれた。
「もう何年も一緒に登校してるのに、まだ緊張するんだね、アキラくんは」
「緊張なんてしてない」
「じゃあ何を考えてたの?」
「……学校のこと」
くすっと笑う声が聞こえた。子供の頃から変わらないその笑い声が、一瞬だけ頭の中の全部をきれいにしてしまう。
「本当に嘘つくの下手だよね、アキラくんって」
小春が並んで歩き始めた。
「まあ、無理に言わなくていいよ。ただね、わたし……今日、緊張してないかなって、気になっちゃって」
「さっきから言ってるけど、してない」
「ふふ……そのわりには、ネクタイ曲がってるし、シャツもちゃんと入ってないよ?」
下を向いた。
……本当だった。
ちゃんと整えたと思っていたのに。盛大に間違えていた。思わず内心で自分に毒づいた。
立ち止まって直そうとすると、「貸して」と小春が近づいてきた。
細い指が、首元に触れた。
心臓が、跳ねた。
ただ、ネクタイを直しているだけだ。ただの、日常の一こまだ。でも僕にとっては、誰かにこんなに近くにいてもらうこと自体が、もう久しく慣れないことだった。距離を置くことを覚えすぎて、このくらいの近さでさえ、体が反応してしまう。
「はい、できた」
小春が離れた。
「これで神聖高校の一年生らしくなったよ」
「……ありがとう」
視線を逸らして、また歩き始めた。
電停まで二人で歩きながら、他愛のない話をした。夏休みのこと。担当の先生がどんな人か。クラスメートが良い人たちかどうか。小春はこういう話をするのがうまい。どんなに平凡な話題でも、彼女が話すと特別な時間みたいに感じさせてくれる。彼女がいると、秘密のことも、規則のことも、しばらく頭から消えていく。
「本当は、緊張してるんじゃない?」
小春が、ふと真顔になった。
「最近、どこか遠くにいるみたいなことが多いよね、アキラくん」
胸の奥で、何かがひっかかった。
遠くにいる。そうだ。そうしなければならないから、そうしているんだ。近づきすぎたら、何かを感じ取られるかもしれないから。もしも魔術が制御できなくなったら、その瞬間に全てが終わるから。
「大丈夫だよ」
笑顔を作った。
「ただ少し緊張してる。中学から三年ぶりに新しい場所に行くんだから」
小春はしばらく僕の目を見ていた。何かを探しているみたいに。でも、やがて小さく頷いて、また前を向いた。
「また嘘ついてる。目を見ればわかるよ」
「……どこで分かるんだよ」
「心配そうな顔してるの、数学の難問見てるときと一緒なんだもん」
喉の奥に、何かが詰まった。小春はもう一度だけ視線を合わせて、何かを探すように見てから――うん、と頷いて歩き出した。
電停に着いた頃には、いつもより人が多かった。初日だからか、学生がひしめいていた。無意識に、小春の前に出ていた。人波が来る方に、体を向けて。
「また、そうしてる」
小春が小さく笑った。
「わたしの盾みたい、いつも」
答えなかった。
説明できない。なぜそうするのか、自分でも上手く言葉にできない。ただ、彼女には何も当たってほしくないと思う。物理的な意味だけじゃなくて。ただし、守っているのは目に見える何かからだけじゃない。僕自身の真実から、守っている。あの子が知るべきでないものから。
神聖高校の駅で降りると、胃の中でまた緊張が動いた。全てが新しい。また初めからやり直しだ。言葉を選んで、距離を測って、笑顔を管理して――誰にも、何も、気づかせないように。
掲示板でクラスを確認した。小春の名前が、隣に並んでいた。
……少し、息が楽になった気がした。
入学式は、いつも通り長く、いつも通り形式的だった。言葉が耳を通り抜けていった。あの訓示も、あの歌も、全部どこか遠くで鳴っているみたいだった。気持ちはずっと別の場所にあった。
これから始まる自己紹介。新しい人間関係。また距離を測り直す日々。どこまで近づいていいか。どこで壁を作るべきか。笑顔を向けながら、頭の中では常に計算している。自己紹介は何を言う、趣味を聞かれたら何と答える、家族のことを聞かれたら――全部、嘘になる。それが、僕の生き方だ。
教室に入ると、窓際の席を選んだ。空が見えた。雲ひとつない、明るい青。
……悪くないな。
ここは、普通だ。普通の人たちが、普通の話をしている。その中にいられる。ここでは、誰も何も期待していない。それだけで、十分だった。
そう思いながら、クラスメートたちが一人ずつ自己紹介をするのを眺めた。夢を語る声。笑い声。緊張した沈黙。みんな、それぞれの物語を抱えてここに来ている。
昔、親父に聞かれたことがある。普通の学校がいいか、魔術師だけが通う学校がいいか――迷わず前者を選んだ。アカデミー・エンディミオンが怖かったから、というのが正直なところだ。
外の世界では、招待制の私立校だと思われている。でも、魔術師の間では、それが全てを意味する場所だ。運命が形作られる場所。役割が刻み込まれる場所。未来が選択ではなく、課されるものになる場所。一度調べたことがあった。ネットで。出てきたのは陰謀論と憶測ばかりで、真実に近いものは何もなかった。
当然だ。本当のことなど、表には出ない。
ここにいられることが、ありがたかった。普通の場所で、普通でいられる振りができる。それだけでいい。
放課後のチャイムが鳴った。
教室を見渡した。
クラスメートたちは、すでにグループを作り始めていた。笑い声が飛び交い、連絡先を交換する声が聞こえた。初日から、もうそれぞれの場所を見つけようとしている。
小春を目で探した。
……一人だった。
誰とも交わらず、椅子に座ったまま、少し下を向いて。鞄のストラップを指で触っていた。その横顔に、薄く影が差していた。
……胸が、痛かった。
彼女のせいじゃない。ただ、うまくいかなかっただけだ。でも、あの影が小春の顔にあるのは、見たくない。それだけ、はっきりとわかった。
「帰ろうか」
隣に立って、声をかけた。
小春が顔を上げた。一瞬だけ目が揺れて、それから柔らかく笑った。
「……うん、帰ろう」
電停へ向かう道は、どこかぎこちなかった。小春は視線を下に向けたまま、鞄のへりを指でいじっていた。何か言おうと思ったけれど、言葉が出てこない。言いたいことと、言えないことの間に、透明な壁がある。
着いた電停は、不思議なほど人が少なかった。夕陽が建物の向こうに沈みかけていて、空が橙色に染まっていた。静けさが重くて、自分の心臓の音が聞こえそうなくらいだった。
――その瞬間、うなじに鳥肌が立った。
久しぶりの感覚だった。何年も、眠っていた感覚。魔術師としての第六感が、突然目を覚ましたみたいに、警報を鳴らしている。
気のせいじゃない。
空気が、変だ。
何かが、おかしい。
線路の方に目を向けた。
遠くから金属音が近づいてくる。次第に大きく、次第に異常に。ただの走行音じゃない――きしみながら、制御を失いながら、こちらへ向かってくる音。
視線を向けると、カーブの向こうに路面電車が現れた。
速すぎる。
ブレーキの火花が散っている。軋む音が鼓膜を刺す。制御を失っている。あのまま来たら、ホームに、小春に――
「小春……」
振り返ろうとした彼女の目が、まだ疑問符のままだった。
「えっ!?」
時間が、遅くなった。
小春の目が見開かれる映像。彼女の口が形づくる言葉。でも音は、もうその轟音に飲まれている。
考えていなかった。迷っていなかった。結果も、計算していなかった。
手がポケットに入っていた。いつも持ち歩いているその小さな木の触媒を、指が勝手に掴んでいた。ほとんど使わない。でも手放せなくて、いつも持っている。
考えていなかった。規則を思い出す余裕もなかった。
「『土よ、立ち上がれ。壁になれ。守れ』」
魔術が、何年もの間押し込められていた場所から、堰を切ったように流れ出た。
ずっと閉じ込めていたものが、堰を切ったみたいに流れ出た。地面が揺れた。土が盛り上がって、固まって、壁になった。
ドォォォンッ――!!
衝突音が全てを飲み込んだ。ガラスが砕け散り、金属が潰れた。白い煙が立ち上る。
でも、壁は崩れなかった。路面電車が、止まった。
電気ケーブルがほつれて、パチパチと弾ける音だけが残った。風が、焦げた金属の匂いを連れてきた。
触媒を持った手を、ゆっくり下ろした。
手が、震えていた。背中を、冷たい汗が流れていた。
……視線を、横に向けた。
小春が、こちらを見ていた。
目が、大きく開いている。口が少し開いたまま、閉じられない。体が、固まっている。
全部、見ていた。
手の動き。杖。言葉。土が空中に持ち上がる様子。
全部。
魔術を――見ていた。
世界が、音を失った気がした。
頭の中で、カウントダウンが始まっていた気がした。記憶消去の術式。発動から六十秒以内でなければ、効力を失う。やらなければならない。プロトコル通りに動かなければならない。
……やれなかった。
触媒を握る指が、白くなるほど強く握り締めていた。
どれだけ時間が経った? 三十秒? 四十秒? 頭の中で、何かが叫んでいる。記憶消去の術式を使え。六十秒以内に使わなければ効力を失う。規則だ。一族の決まりだ。当然のことだ。
でも。
小春の目が、僕を見ていた。恐怖じゃなかった。拒絶でもなかった。混乱と、驚きと——でも奥に、ずっと変わらないものがあった。
幼い頃から変わらない、あの温かさが、消えていなかった。
「アキラくん……」
小春の声が、細く震えた。
「あれ、は……何?」
時間が、流れ続けている。
規則は知っている。答えは出ている。でも、指が動かなかった。
「……ごめん。ごめん、小春」
声が、割れた。
小春が一歩近づいた。おそるおそる、でも確かに。その手が、僕の手の上に重なった。杖ごと、包み込むように。
「触るな、小春……僕は……化け物だ……」
声が出なかった。囁くのがやっとだった。この瞬間を、受け取ることが怖かった。
「違う」
迷いなく、言い返された。
「でも……」
「違うよ、アキラくん」
小春の指が、ぎゅっと力を込めた。
「ずっと何かを隠してるって思ってた。何年も一緒にいて、気づかないわけないよ。でも……こんなに凄いことだったなんて、思わなかった」
目の奥が、熱くなった。
六十秒は、とっくに過ぎていた。
もう遅い。術式は使えない。でも、それよりも。
「……全部話す」
話した。全部じゃなかったかもしれない――路面電車の壊れたプラットフォームで、煙がまだ立ち昇る中で、魔術師の歴史を全て語る時間はなかった。でも、話した。魔術師であること。ずっと隠してきたこと。発覚を恐れ続けてきたこと。父も母も、全部この世界の一部であること。
小春は口を挟まなかった。視線を外さなかった。ただ聞いていた。
言葉が尽きた後、静寂があった。その沈黙の中で、小春が笑った。
幸せそうな笑顔じゃない。でも――全てを包み込む笑顔だった。
「このばか」
柔らかい声で言った。
「ずっとひとりで抱えてたの? 教えてくれたらよかったのに」
「そんなわけにはいかない。規則が――」
「規則はどうでもいい」
小春がもう一度だけ手を握って、それから、そっと放した。
「わたしは誰にも言わない。約束する」
肩にのしかかっていた何かが、少し、消えた気がした。
遠くでサイレンが鳴り始めた。救急車、消防車、警察。もうすぐ来る。
「逃げよう」
小春の手を取った。
「ここにいたらまずい」
走った。路地に入り、大通りを避け、知っている道を使って距離を置いた。サイレンの音が後ろで大きくなっていく。でも小春は手を離さなかった。僕も、離さなかった。
長い時間、黙って歩いた。いつもの別れ道まで来た時、小春が立ち止まった。
「アキラくん」
振り返って、目を見てきた。
「わたしにも約束して」
「……何を?」
「消えないって。逃げないって。何があっても、友達でいてくれるって」
……胸が痛かった。
約束したかった。本当に、そう信じたかった。でも……魔術師の世界は、そんなに単純じゃない。
「約束する」
嘘だった。分かっていて、言った。
小春が頷いた。欲しい言葉を聞いたように、静かに笑って——角を曲がって、消えた。
一人になった。
重い足で、家に向かった。夕陽が建物の向こうに沈んで、影が長く伸びていた。どこを見ても、何事もない夜が広がっていた。灯りのついた家々。テレビの音。犬の鳴き声。
誰も知らない。誰も、気づいていない。
……そうであればいいと思った。
家に入った。母さんが台所を片付けていた。親父は後から帰ってきて、テレビのニュースを見た。路面電車の事故は報道されなかった。魔術については何もなかった。自分についても何もなかった。
部屋に上がって、ベッドに倒れ込んで、天井を見た。
暗い部屋で、暗いまま、静かにしていた。
……初めて、誰かに知られた。
知られて――拒絶されなかった。
もしかしたら、大丈夫かもしれない、とぼんやり思った。誰にもバレないかもしれない。このままでいられるかもしれない。
目を閉じた。意識が遠くなっていった。
* * *
翌朝、目が覚めたのは遅かった。アラームが鳴っていなかったのか、止めたのか、覚えていない。時計を見た瞬間、舌打ちが出た。着替えて、立ったまま朝食をかき込んで、ほとんど挨拶もせずに家を飛び出した。
路面電車はまだ動いていなかった。昨日の事故のせいだ。
走るしかなかった。
知っている道を、息を切らしながら走った。冷たい空気が肺に刺さった。水溜まりを跳び越えた。足が重くても、止まれなかった。
学校の門が見えた時――足が、止まった。
……黒い、コートの人たちがいた。
何人もいた。正門の両脇に、校舎の屋根に、中庭にも。
長い黒のコート。胸元に、開いた本と炎を組み合わせた紋章が刺繍されていた。
――アカデミー・エンディミオンの制服だ。
心臓が、凍った。
たった一日で。たった一晩で――どうして?
何人かの視線がこちらに向いた。小声で何かを交わして、道を開けた。まるで最初から、僕が来るのを待っていたかのように。
ふらふらと足が進んだ。門をくぐると、視線が集まるのが分かった。屋根にも、廊下にも、あちこちに黒い影がある。
もう囲まれている。
後ずさりしようとした。
――背中が、誰かに当たった。
振り向いた。
白い制服の男が立っていた。黒の中で一人だけ白。軍服のように仕立てのよい、清潔な白。胸元の紋章は一本の松――
ワイルドソウル一族の印。
ハンターたちの氏族。魔術師社会に正義を執行する者たちの、紋章。
男は無表情だった。背が高くて、目が鋭くて、何も語らない顔をしていた。
でも――その手が肩に置かれた瞬間、逃げ場がなくなった。
低い声が、耳のすぐ傍で言った。
「アキラ・アッシュフォード。黄金の鉄則に違反した。同行しろ。今日から、審判が始まる」
世界が、遠くなった。
目の前が霞んでいく中で――
その瞬間、頭に浮かんだのは、規則でも一族でも、僕の家族でも、自分のことでもなかった。
小春の目だった。
あの目のことを。あの笑顔のことを。
あの約束を、守れなかったことを。
……ごめん、小春。
本当に、ごめん。
――秘密は守られたはずだった。
だが、一度動き始めた運命は止まらない。
魔術師たちのアカデミー・エンディミオンが姿を現し、逃れられない裁きの時が訪れる。
失われるもの、突きつけられる現実。
そして、少年は魔術世界の中心へと足を踏み入れることになる。
次回――
終わりではなく、始まり。
その先で待つ新たな出会いが、止まった時間を再び動かし始める。




