影を越えて、名を叫ぶ
人は、
誰かに決められた道を、
歩き続けることができる。
けれど、
その道の先に、
本当の自分がいるとは限らない。
怖くても、
迷っても、
自分で選ぶ。
その瞬間、
人は初めて、
自分自身になるのかもしれない。
アキラとあの……あの生き物が話し合っているのを、横目で眺め続けた。表情筋のひとつも動かさない。まるで磁器で作られた死体に、誰かが無理やり運動を与えたみたいだった。
――気持ち悪い。
いや、正確に言えば、それだけでは収まらなかった。その不快感には、崇高な恐怖と灼けるような憎悪が混じっていた。かしら。特に、あのみっともなく、グロテスクで、断じて由緒正しい家門の者が体験すべきではない方法で――スカートを掴まれてここまで引きずられてきた事実を思い返せば、内なる怒りはますます燃え盛るばかりだった。
おまけに、よりによってアキラの前でだなんて。
あの情けない羞恥心から逃げようとしたのか、私の心は一時間前の出来事へと引き戻されていった。
♢ ♢ ♢
エンバーストロムの屋敷で穏やかな夜を過ごすはずだった。鏡台の前に座り、髪を丁寧にとかしながら、苦い思索の海に沈んでいた。ヴィクターの状況はもう限界に近い。今まで何事もなかったのは、運命の温情か、あの人の鉄の精神のお陰だけかしら。急がなければ。あの契約を解くことが、今の私の最優先事項。
――コン、コン、コン。
窓ガラスに、乾いた音が響いた。
手が止まった。
こんな時刻に? しかもここは屋敷の二階。認可を受けた使い魔以外は出入りできないよう、結界が幾重にも張り巡らされている場所。火術の感知網を起動させずに、魔術師がよじ登ってこられる道理など、数学的に存在しないはずだった。
身の程を知らぬ恐怖――我が家名にはおよそ似つかわしくない恐怖――に駆られて、私はベッドに飛び込み、布団で顔ごと覆い隠した。
それでも、コン、コン、は止まらなかった。一定のリズムで。冷淡に。容赦なく。
……もう。
ようやく覚悟を決め、杖を抜いた。バレエダンサーが処刑台へ向かうような足取りで窓に近づいて、震える手でカーテンをそっと引く。
固まった。
外の空中に、女性の影が浮いていた。足元に魔術陣はない。風系統の標準的な呪文が放つ、あの緑がかった魔力の輝きもない。ただ、浮いていた。物理法則を知らない幽霊みたいに。
悲鳴を上げる間もなく、その子は軽く手を振った。それだけで、窓のかんぬきがひとりでに動き、木製の窓扉が左右に開いて、夜の冷気が部屋に流れ込んできた。
「な――な、何者ですの?!」
ようやく声が出た。杖を相手の胸に向けたが、恥ずかしいことに杖先は震えて空気を切り裂いていた。
「エンバーストロム一族の次期長の前に、すぐに正体を明かしなさい、不法侵入者め!」
影は窓枠を踏み、部屋の中へ一歩踏み込んだ。その視線が私に向いた瞬間、人間らしい感情のかけらひとつ存在しない瞳と目が合った。それだけで、部屋の温度が数度下がったような気がした。
「コードネーム……A.S.だ。あんたを迎えに来た」
単調な声だった。自動化された古い魔導具みたいに。
「……A.S.?!」
思わず鼻にしわを寄せた。
「なんとまあ、野卑で不完全な呼称なのかしら。本名と、所属機関の証明書を提示なさい。さもなければ、あなたを装飾的な灰にする義務が生じてしまいますわ」
「名前の登録は存在しない。コードのみ……A.S.」
動かない。彼女に敵対的な空気は皆無だった。攻撃する気があれば、とっくにそうしていたはずだろう。
「こんな真夜中に、こんなに奇妙な人が、私の窓を煩わせに来た目的は何かしら?」
腕を組んで、優雅に尋ねた。
「エンバーストロム一族の正規チャンネルを通じて面会を申請した場合、プロトコル分析の結果、所要時間は約三週間と算出された。よって、直接訪問の方が効率的だと判断した」
まばたきひとつしない。
……この子の声帯は、感情を乗せる機能が欠けているのかしら? 見ているだけで寒気がするわ。
「文明人として、管理者チャンネルを通じて明日以降に出直しなさいな――」
「必要な時間的余裕が存在しない」
ばっさりと遮られた。
「第三者からの依頼で、あんたに頼みがある」
「な……っ! 私の話を遮るとは何事ですの?!」
頭に血が上った。と同時に、ふとした疑問が浮かんだ。
「……そもそも、あなた、魔術師ですの?」
A.S.は一ミリだけ首を傾けた。
「技術的には、その分類に該当する」
彼女はゆっくりとマントの袖をまくり上げた。
私は声を失った。
両腕の肌が、古代のマジクス語の文字で構成された複雑な術式の刻印で、びっしりと覆われていた。理論的知識が即座に反応する。禁書の歴史書で読んだことがある――魔法回路を直接表皮に刻む技法。今日では時代遅れ、危険、痛苦を伴う古代魔法の遺物とされているもの。
「なぜ好き好んで、そのような野蛮なタトゥーを……?」
「自ら選んだわけではない。埋め込まれた」
「誰が行ったのかしら?」
思わず一歩前へ出た。
A.S.は黙った。深い目がまっすぐ私を見据える。さっき不思議な石に触れたときの幻覚より、このくらいの目の方がよほど不快だった。答えない。礼儀を知らない。しかも表情という表情がまったくない。
「あなたは一流の失礼者ですわね」
言わずにはいられなかった。
「その表情のなさは心配なレベルだし、服装はまるで古いカーテンを体に巻いたみたいで悪趣味だし、その手法は学術的な洗練さのかけらもなくて――」
「アキラさんがあんたの同席を必要としている。時間がない」
また遮られた。まるで私の言葉が背景雑音であるかのように。
「アキラだって?!」
兄……カイトの生徒の名前が出てきて、心拍が跳ね上がった。
「あの子が今時分、私に何の用があるの?」
「エンバーストロムの禁書庫への入室を決断した」
聞いた瞬間、誇りが跳ね上がった。とうとう、あの子は以前私が持ちかけた話を受け入れたのね。けれど、あの頃の私の動機はまるで違うものだった。今は――妙な罪悪感が胸を締め付けた。禁書庫は子供の遊び場じゃない。初心者の魔力など、あの場所は数秒で飲み干してしまうかもしれない。
「……気が変わりましたの」
腕を組んで宣言した。
「アキラくんをそのような無分別な行為に走らせるわけにはいきません。おやすみなさい」
窓の羽根を掴んで閉めようとしたが、A.S.の手がフレームを押さえた。
全力で押した。
びくともしない。
……人間の体格でこんな力……?!
「窓から手をどけなさいな」
冷静を保とうとしたが、声が上ずった。
「同席は不可欠だ。自分の目でその覚悟を確かめるべきだ」
「いやだと言っているでしょう! 放しなさい、味のないぞうきんみたいな人!」
育ちの良さの裏に隠していた子供っぽい部分が、純粋な苛立ちとして噴き出した。
「本当に耐えがたい! 見てください、あの巨大でひどい外套を! まるで古いカーテンで全身を覆ったみたいではないの! あなたは古くさくてろくでもない怪物で、その格好は……」
重い沈黙が落ちた。
A.S.が視線をわずかに落とした。
一瞬、残酷な言葉が彼女の存在しない自尊心に刺さって、退散するかもしれないと思ってしまった。
なんと浅はかだったかしら。
次の瞬間、A.S.が目に見えない速さで動いた。手が来るのが分からなかった。突然の引力に、杖が指から滑り落ちて絨毯の上に音を立てた。彼女の手は私のスカートの裾を確かに掴んでいた。そのまま、窓の外へ引き出された。まるで獲物みたいに。
「アアアアアッ!! な、何をするのよ!! 今すぐ下ろしなさい、無礼千万な下賤者め!!」
空中で叫びながら脚をばたつかせた。屋敷の庭園の上を漂う中、スカートが完全にめくれ上がり、レースの下着が夜風の中にさらされていた。屈辱の極みだった。杖はない。方向も分からない。彼女の墓場みたいな沈黙だけが、説明のつかない恐怖を増幅させる。
崖に連れていかれて落とされるかもしれない……
頭の中でそんな最悪の考えがよぎった。唯一できる防衛手段は、全道のりで侮辱を続けることだけだった。彼女には朝露ほどの影響もなかったようだけど。
♢ ♢ ♢
――そういう経緯で、アキラの部屋に放り込まれたわけだった。
三度目になる上着の襟もとを整え、かき集めた全ての品位を込めてため息をついた。
それでも、アキラをじっくり観察してみると、何か違うものが見えた。姿勢、瞳の奥の輝き。以前の怯えた、迷いがちな少年ではなかった。その表情に、芽生えたばかりの成熟が宿っていた。
一方でA.S.は……依然として解読不能な謎だった。あの子のことは、できれば数キロは離れた場所に置いておきたかった。あらゆるセンサーを欺いてアカデミーと私室に侵入し、神話的時代の刻印を身に宿す存在。これが片付いたら、誰かに調べてもらわないといけないかしら。
でも、それより先に――ヴィクターに会いに行かなければ。
* * *
アキラの正面に立って、じっとその姿を見つめた。
重く古びた禁書庫の扉の前に立ち、彼は一人でいた。肩が断続的に緊張して、ほぐれる。普段の落ち着きを内側から蝕む緊張を、あの肩が正直に語っていた。石畳の上をしのぶように歩み寄り、彼の隣に並んだ。
「アキラくん」
最後の一度、腕を組んで告げた。
「ここに入るとは、古びた書物を一冊めくるような話ではないと、どうかご理解ください。あの扉を越えるということは、正気の最後のひとかけらまで試される存在の意志に、みずから身を委ねることですわ。決意が一ミリでも揺らいだ瞬間、あの場所はあなたを飲み込みます」
アキラは視線を重厚な木材に固定したまま、しばしの沈黙を置いてから息を吐き、横目で私を見た。
「大丈夫だよ」
今度は、怯える生徒の口調じゃなかった。
「もう立ち止まっていたくない。これが一番大切な一歩だって、はっきり分かってる。きっと通れるよ」
その瞳の中に宿る確かさを見た瞬間、胸の中で奇妙なものが混ざり合った。賛美と、苦さが。
彼は、前へ進んでいた。
見えない罪悪感を引きずって立ち尽くしている私と違って、アキラは危険に向かって真っすぐ歩いていた。私もそうしたい、と思った。自分の鎖を断ち切って、ただの傍観者であることをやめたいと。
「技術的な注意点を補足しておきますわ」
心の揺れを隠すように付け加えた。
「中では、時間の流れが歪む可能性がありますの」
「どういう意味で?」
片眉を上げた。
「あなたには、何時間も、あるいは何日も閉じ込められているような感覚が訪れるかもしれない。けれど外の時間は普通に流れ続けます。あまりにも長く感じても、焦らないようになさってね」
アキラは言葉を咀嚼して、静かにうなずいた。
目を閉じて、心を整えるように。
その静けさの中で、私は、彼のことをもっと知りたいという衝動に抗えなかった。最初にアカデミーで見たときの情けない印象とはかけ離れている。これほどの苦しみと困難を越えてきたからこそ、こんなにも短い時間の中で、これほど揺るぎない覚悟が生まれたのかしら。
「アキラくん」
問わずにはいられなかった。
「あなたを、そこまで突き動かすものは、いったい何なの?」
数秒の間があった。それからアキラは振り向いて、私に真っすぐ視線を向けた。嘘のかけらもない目だった。
「自分自身を理解したい、っていうのが動機かな」
抽象的すぎる答えに、目をしばたたかせた。
「それは……どういう意味かしら?」
「ここ数日、ずっと考えてた」
と彼は言い、自分の両手を見つめた。
「周りのせい、状況のせい、あるいは自分が欠陥品なのかって、ずっとそう思ってた。でも違う。周りは複雑だけど、それはただ、自分が正しく見れていなかったからなんだって気づいた。だから、自分が本当は何者で、何ができるのかを理解する必要がある」
思わず視線を逸らした。
ひとつの目標を追いかけるだけで、こんなにも人が変われるということが、衝撃的だった。アキラには、本物の目的があった。私には……エンバーストロムという姓が命じるもの以外の、自分だけの望みが果たしてあるのかしら?
アキラは拳を握り、最後の疑いを吐き出すように息を吐いた。
「準備できた。扉を開けてほしい」
重い鍵を取り出し、錠前に差し込んで回した。金属のかみ合う音が廊下に響く。
脇へ退いた。
アキラは確かな足取りで進み、真鍮の把手を掴み、木製の扉を押した。長い抗議の声のような軋みを立てながら、扉が開く。振り返らず、決意に覆われた表情のまま、彼は暗闇へと踏み込んで、背後で扉を閉じた。
あとは彼だけが決めることだった。
最低でも五時間はかかるだろうと見当をつけた。ここで張り番をしている理由はない。踵を返して部屋へ戻ろうとした――ヴィクターに会いに行く準備をしなければ。
でも、三歩も進まないうちに、本館のほうからやって来た使用人が急いで礼をした。
「楓様、瞑想の間にてお父様がすぐにお越しになるよう求めておいでです」
胃の中で嫌な予感が渦を巻いた。
理由は分かっていた。数日前、アカデミーへの襲撃における制圧任務で失敗していた。あの謎の攻撃者に出し抜かれ、見知らぬ生徒の介入だけが、大惨事を防ぐことになってしまった。その後の騒ぎの中で、魔術師たちが何かを囁き合っていたのを覚えている。その少年が侵入者と話したあと、相手は立ち去ったのだと。
そして彼はすぐに連行された。
……アカデミーの当局があれほど素早く動いたことが、どこか引っかかった。あの子は本当に、魔術師社会を揺るがそうとする陰謀の一部なの?
混沌とした疑問の渦の中にいても、差し迫った問題は変わらなかった。お父様は、私が何もしなかったことへの説明を求めるだろう。
謁見の間のような古風な応接室へ向かった。引き戸を開ければ、白檀の香が顔を打った。長年の厳格な礼儀が刻み込んだ単調な動作で部屋に入り、お父様の威圧的な姿の前で畳に膝をついた。彼は公式文書に走らせていた万年筆の先を止めた。顔を上げ、いつも私を小さくさせる冷たさで私を見た。
「期待していたものより、かなり劣る出来だったな、楓」
抑えた雷鳴のような声で告げた。
「評議会の前でお前の実力を示す機会を与えたというのに、お前は何もしなかった」
「深くお詫び申し上げます、お父様」
頭を下げながら答えた。
「侵入者を迎撃しようとしましたが、一人の生徒が展開を妨害いたしました。その生徒が攻撃者の意図を知っているようで、私の攻撃の隙を消してしまいました」
「上層部の報告書は既に確認済みだ」
と、お父様は書類の束を低い卓に滑らせた。
「問題の少年は龍牙・ドラゴンズベインと特定されている。尋問の下、加害者との繋がりをすべて白状した」
「……何を明かしたのかしら?」
好奇心を隠せず、訊いた。
「侵入者はグレインと名乗る。そして、さらに憂慮すべきことに――龍牙・ドラゴンズベインは、グレインを召喚魔術で呼び出したと認めた。魔術師、それも純粋に人間的性質を持つ魔術師として、だ」
呆然とした。
「……じ、人間が……正式な魔術能力を……? お父様、それは魔力の遺伝法則に反しますわ。普通の人間がそのようなことは、生物学的に……」
「口調を慎み、取り乱しを抑えろ!!」
厳しく叱責された。
「事実は目の前の記録に書かれている。その犯罪者の判決は、その出自による法的な空白のために審議中だが、状況を鑑みて、評議会は追跡者として彼をハンター隊に配属することにした。召喚されたグレインを見つけることが、レオ・アシュフォードを探し出す唯一の手がかりとなる」
強張った指で書類を受け取り、一行ずつ記憶に焼き付けた。普通の生徒があそこまでの魔術的偉業を成し遂げたということも、あれほどの力を持つ人間の幻を追いかけているということも、信じがたかった。
思考の海に沈みかけたそのとき、お父様の声が再び空気を割った。
「お前は相変わらず、エンバーストロムの地位に具体的な恩恵をもたらしていないな、楓。カイトは才能を役に立たずな者に費やし、お前は方向性もなく彷徨っている。カウストとケメートのことは言うまでもない」
兄たちと比較された瞬間、怒りと嫉妬が入り混じった嫌な感覚が腹の底でうごめいた。
「深くお詫び申し上げます、お父様」
誇りを飲み込んでうつむいた。
お父様は長い失望のため息を吐いた。しかし次の瞬間、その表情に変化が生まれた。私が見たことのない種類の、欲と抑えた熱のようなものが、その眼差しにのぞいた。懐から、見覚えのない家紋の封蝋で封じられた書状を取り出した。
「最近の不足を補う機会が、この時代には稀なほど訪れた」
と、書状を卓の上に置いた。
「これは、上流社会の晩餐会への専属招待状だ」
「晩餐会、お父様? 危機のこの時代に、宴席に政治的意義があるとは思えませんが……」
「普通の宴席ではない。地上に降りてきた複数の魔法使いたちの集まりだ。理由はまだ公に明かされていない。マジクス純粋、楓。我が一族が直接の交信を持てていない種族だ。もう何世紀もの間。しかも席は極めて限られている」
会話の核心がどこにあるのか、まだ掴めなかった。マジクス純粋の存在は知っている。でも、なぜ私が関係するのかしら。
「この書状は、私の名前宛てに届いたものではない」
お父様は私の目を真っすぐ見た。
「お前宛だ」
「……私に?」
「使者は明確に述べた。この舞踏会には、各一族の正当な次期継承者のみが入場を許される、と。次期エンバーストロムの長となるお前に、その責務がある」
わずかに震える手で書状を受け取り、封を破って文面を読んだ。格調ある貴族的な文体で記されているにもかかわらず、内容は著しく曖昧だった。高位の魔法使いが七つの一族の次期長たちと、「私たちにしかできないこと」に関わる重要事項について話し合いたいと記されていた。魔術師社会を揺るがす最近の騒乱と直接関係するとも。
公式な召集だった。拒否することは、政治的自殺に等しかった。
お父様の次の要求を、肌で先読みした。
「我がエンバーストロムは、魔法使いとの強固な同盟を一度として結べていない」
と、お父様は前に乗り出した。
「その晩餐会でお前に課せられた唯一の使命は、彼らの一人を感銘させること。お前の地位を使い、どんな手を使ってでも、その者を我が屋敷への来訪へと誘導しろ。そうすれば私が正式な交渉を行う」
足元が崩れていくような感覚だった。不可能を要求されていた。魔法使いは、一族の内輪の政治などに付き合わない。
「お父様、失礼ながら、魔法使いたちは一族の内輪政治を蔑んでいます。どんな対等な条件も提示せずに、このような存在を説得するなど、いったいどうやって……交渉の条件はどのように――」
「指示に口を出すな!!」
その怒声が、叩きつけるように落ちてきた。
「お前の使命を果たせ! その存在の一人をこの屋敷へ連れてこい、そうすれば私が取り決めを行う。それがお前の知性で処理すべき全てだ。この一族の血がお前にわずかでも宿っているなら、我が姓への絶対的な恥でないことを証明してみせろ!」
氷の短刀を心の芯に突き立てるような言葉だった。
その場で泣き崩れたい衝動が一瞬込み上げてきた。しかし、何があっても取り乱しを見せるわけにはなかった。硬く立ち上がり、招待状を胸に押し当てた。
「承知いたしました、お父様。今度こそ失望させません」
「そう願う」
乾いた一言だけが返ってきた。
廊下へ出てから、書状を再度眺めた。舞踏会は六日後。時間が容赦なく刻まれていた。つまり、ヴィクターの問題は今日中に片付けなければ、頭を空にする余裕がなかった。
部屋へ駆け戻り、杖を手に取った。空間転移の複雑な術式に魔力を注ぎ込む。瞬きの間に、屋敷の風景は消え、街の外郭の住宅地に置き換わっていた。ヴィクターの住居の前。内部から、彼の混沌とした存在感が滲み出ていた。
一秒も無駄にせず、扉を力強くノックした。
数瞬後、扉が開いた。やつれたヴィクターの輪郭が現れた。その目は虚ろで、深い隈が精神の不安定さを正直に告げていた。
「楓……」
歪んだ笑みと共に、呟いた。
「なんの用だ? 海の知らせでも持ってきたか?」
敷居に両足を踏みしめ、覚悟を決めた。
「ヴィクター、私たちを繋ぐ契約を解く必要がありますわ。今すぐに」
ヴィクターの表情が瞬時に変わった。その目が狂気に近い光を帯び、扉の枠を宝物を守るように掴みながら後退した。
「契約を破るだと?! お前は頭がおかしくなったか、楓!」
神経質な笑いが、狂気の縁をかすっていた。
「契約があるからこそ、お前が助けてくれると分かるんだ。破ったら、他の全員みたいに俺を捨てるだろ。約束を解放してなんてやらないぞ! 海が俺を必要としているんだ!」
「一度でいいから聞いてくださいな、ヴィクター!」
彼の妄想を押しのけるように声を張った。
「鏡を見てください! あの絆は、共鳴的にあなたの精神的安定を蝕んでいます。海さんを救う手段を与えるどころか、私の魔力の定常流があなた自身の魔力核を不安定にさせているのです。助けているのではなく、壊しているのですわ!」
「嘘だ! 責任から逃げる上品な言い訳を探してるだけだろ!」
両手を頭に押し当て、妄想に囚われたまま叫んだ。
「あの絆なしじゃ、俺は何でもない! 海を連れ戻す力がなくなる!」
彼の両肩を掴み、真っすぐ私の目を見させた。声から、すべての高慢を取り除いた。
「ヴィクター、私を見てください。エンバーストロムとしてではなく、楓として、名誉にかけて約束します――契約を解くことは、助けをやめるということではありません。あなたの存在を清めて、本当に戦えるようにするということです。海さんを救うために、あなたに正気を取り戻してほしい。だから……信じてくれませんか?」
言葉が、彼の執着の厚い霧を穿ったようだった。
ヴィクターの震えが、ふとやんだ。私の手を見て、私の顔を見た。それから長い苦悩の沈黙の末、その肩が降参のように落ちた。
「……分かった」
かすれた声だった。
「解こう。でも一人にしないと誓え」
「誓います」
魔術事故を避けるため、裏庭へ移動した。向かい合い、右の手のひらを重ね合わせた。逆呪文を唱え始めると、その手の繋ぎ目から黄金と紫の輝きが滲み出した。ガラスの割れる音のような響きと共に、光の糸が亀裂を入れ始める。蓄積されたエネルギーの解放が衝撃波となって、二人を押し返した。
契約が、解けた。
ヴィクターは完全に力尽き、裏庭の芝の上へ仰向けに倒れ込んだ。夕暮れ色に染まり始めた空を、ただ眺めた。私は立ったまま手首をさすり、何ヶ月かぶりに感じる魔力の流れの軽さに目を閉じた。
その後に続いた静寂は、奇妙なほど穏やかだった。いつもの緊張はどこにもなかった。
「なあ、楓……」
地面のヴィクターが、久しく聞いたことのない落ち着きで言った。
「もう繋ぐ魔術的な絆がないのに……なんで最初に俺と盟約を結んだんだ? 高貴な育ちの娘が俺みたいな奴と絡むのは、ずっとおかしいと思ってたんだけどな」
彼の隣で踵を折り、地平線を眺めながら、物悲しい笑みを浮かべた。
「あなたを見ていると、私がずっと持てなかったものが見えたからかしら、ヴィクター……自由、というものが」
ヴィクターは乾いた笑い声を上げた。皮肉に満ちた笑いだったが、空から目を逸らさなかった。
「自由? 俺が? 馬鹿なことを言うな、楓。俺は自分の化け物、自分の失敗、海を取り戻すことへの執着に縛られてる。この星で一番不自由な人間だよ」
「違いますわ」
細い声で答えた。
「あなたは自分で鎖を選んでいる。法律も、評議会も、社会の期待も気にせず、自分の心が命じるものために戦っている。私は……黄金の籠の中に生まれましたの。発する言葉も、行使する術式も、下す判断も、すべて姓の重みとお父様の野望によって定められています。失敗すれば恥。成功しても、ただ義務を果たしただけ。エンバーストロムの外で、私が何者なのか分かりません」
ヴィクターが頭を傾け、私を見た。
目の狂気が、深い明晰さと淡い共感に変わっていた。
「それは相当阿呆なことだな、楓」
まったく遠慮なく言った。
「籠は金色に塗っても籠だが、扉はずっと開いてたはずだ。問題は、父親にどう思われるか怖くて、中に留まって馬鹿げた命令を聞いてる方を選んでることだ。本当に自由になりたいなら、馬鹿な家系の巻物じゃなく、自分で決断し始めなきゃいけない。存在することを謝り続けるのをやめろ」
私は彼をじっと見つめていました。
「自由を説くなら、まず自分が実践しなければ」
言葉が、私の不安の核心に直接刺さった。
――生まれて初めて、私は無防備でいることを自分に許した。いつも息を詰まらせていた私から外れる、ほんのひとときの解放だった。互いにとって本物の瞬間だった。彼は正気を取り戻し、私は荒れ狂う苦しみの中に、ほんの少しだけ自分らしいものを見つけた。
立ち上がり、服の埃を払って姿勢を整えた。今度は、胸の中に本物の軽さがあった。時間は流れ続けていた。アキラはまだ禁書庫の中にいる。
「失礼しますわ、ヴィクター。屋敷で確認しなければならないことがありますので」
杖をしまいながら告げた。
ヴィクターは芝の上に座り直し、真剣な目で私を見た。
「約束を忘れるなよ、楓。海を救うの、本気で待ってる」
「必ず果たします、ご安心なさいな」
躊躇なく答えた。
再び転移魔術を発動し、一閃の光と共に屋敷の隠し廊下へ戻った。上着を整え、あの重い扉へ向かって歩き出した。アキラが禁書庫の試練を生き延びられたかどうか、確かめる時が来た。
アキラの姿が見えた。
扉の外に出ており、冷たい石壁に背をもたれ、床に座っていた。丸まった背中と重い息だけを見て、最悪の事態を恐れた。敗れた戦士のように見えた。
けれど、私の気配に気づいて顔を上げた瞬間、視線が交わった。
アキラは笑った。
自己満足の笑みじゃなかった。希望と安堵が溢れ出る、あまりにも真っすぐな笑みだった。それが、深く心に触れた。
「やり遂げたよ、楓さん」
ゆっくりとだが確かな足取りで立ち上がった。
「もう、次に向かう準備ができてる」
「心よりお喜び申し上げますわ、アキラくん」
腕を組んで答えた。
「……差し支えなければ、そこで何を得られたか教えていただけるかしら?」
「言えない」
彼は苦笑しながら、少し申し訳なさそうに後ろ頭をかいた。
「あそこで見たことは何も明かさないって、破れない約束をしたから」
「あの場所に、そのような守秘を求めるほどの秘密がある……?」
眉をそっとひそめ、好奇心に飲み込まれそうになった。
「本当に知りたいなら……」
アキラは一歩踏み出し、あの重厚な入口を手振りで示した。
「自分で入って確かめてみたら?」
その言葉に、一瞬息を飲んだ。
直接の挑戦だった。私の誇りへの。
何も付け加えず、アキラは背を向けて廊下を歩き始めた。もう重さを持たない歩みだった。見えない荷を下ろし、自分だけの目が読み解いた確信に押されているようだった。
完全に一人になった。
禁書庫の巨大な扉をただ眺めた。
生まれてから一度も、この敷居を越えようとしたことはなかった。一族の厳格な定めによれば、入室には一族の長の明確かつ疑いのない許可が必要なのだ。
でも――ヴィクターの言葉が力強く響いた。
『自由を説くなら、まず自分が実践しなければ……』
内側でそう呟いた。
これが、出発点でなければならない。誰かの承認を待たず、他人の期待の重みを胸に抱かずに。
迷わず踏み出した。真鍮の把手を掴み、扉を押した。
恐怖、反逆、期待――それら全てが入り混じって、胃の中で渦を巻いた。
最初に受けた印象は、拍子抜けするほど平凡なものだった。薄暗がりの中、立派な木製の棚に古い書物が無数に並ぶ、ごく普通の書庫のような空間が広がっていた。
「うふふ……」
幼い声の忍び笑いが静寂を破り、高い天井に反響した。
「笑うとは無礼なこと! 姿を現しなさい!」
声に向かって歩みながら、杖をそっと構えた。
「すぐに名乗りなさいな!」
「あなたが誰か、ちゃんと分かっているよ、小さな継承者」
声が答えた。女の子の声、童女のような響き。しかし、どこか古代から来たような共鳴があった。
「あなたの心の糸が、わたしにはくっきり見えるの」
肌に沿って悪寒が走った。
「私の思考を読めるなどと、よくもそのような大それたことを!」
「この書庫を踏み入る者は、誰でもわたしの目に映る」
声は楽しむように言った。
「だから、あなたの精神はわたしには開かれた書物だよ」
唾を飲んで、平静を保つことに努めた。直球で行こうと決めた。
「そのような能力があるなら、あなたの知識を借り受けることができるか伺いたいのですわ。二つの精神の間に魂が閉じ込められた状態から救い出す、特別な手法を早急に求めています」
幼い笑い声が再び響いた。今度は、哀れみのような色を帯びて。
「閉じ込められた魂? うふふ……それがあなたが必要だと思っていることであって、本当に望んでいることではないよ」
「私の意図に反論するなどと!」
熱く言い返した。
「それこそが今この瞬間、私に必要なものです。過ちを正すために」
「そう、過ちを清算するためには必要なもの。でも、あなたの心の奥が本当に求めているものとは違う」
声は断言した。
言葉を返せなかった。
するとやがて、書棚の間の深い薄暗がりの奥から、小さな影が現れた。ゆっくりと近づいてくるにつれ、悪戯っぽく笑う幼い少女の姿が明らかになった。しかしその存在が放つ魔力の圧はあまりにも濃密で、足が震えそうになった。何より目を引いたのは、額の中央に刻まれた複雑な神秘的な刻印だった。その意味は、私の知識では解読できなかった。
「わたしはコデックス」
少女は完璧だが揶揄うような礼を取った。
「この禁断の聖域の守護者であり、その体現者だよ」
「あなたは……上位の守護霊ですの?」
好奇心が抑えきれず訊いた。
「ちがう」
コデックスはきっぱりと答えた。
「今はわたしの性質について話す時ではない」
少女は小さな腕を伸ばし、真っすぐ私に人差し指を向けた。
「もし本当にわたしの助けを望むなら、あの豪奢な姓を外したあなたが何者なのか、測る時が来たよ。わたしの審問を超えられたなら、必要な答えを与える」
その生き物を見つめた。
これが、決定的な瞬間だと分かった。今か、それとも永遠に今でないか。引き返せば、お父様の言いなりの人形のままだ。
「条件を受け入れますわ」
顎を上げて、はっきりと宣言した。
「試練を与えなさいな」
コデックスは満面の笑みを見せた。
「よし。では審問を今すぐ始めよう」
突然、現実が醜く歪んだ。
書棚が目もくらむ速さで浮き上がり始め、無限を目指すバベルの塔のように伸び上がった。空間が天文学的な規模に膨張する一方で、自分の体が縮んでいく感覚があった。その神殿の広大さの前で、どこまでも小さくなっていく。
「わたしにとって、この試練は子供の遊び」
コデックスの声が今や頭上から、雷鳴のように響き渡った。
「あなたにとっては、自分自身の精神の牢獄の鏡となる」
足元の床が、磨き上げられた黒曜石の鏡に変わった。見下ろすと、そこに映る自分の姿は今の私ではなかった。小さな子供の私が、瞑想の間の畳の上に鎖で縛られてうずくまっていた。
周囲の闇から、お父様の形をした巨大な影の群れが浮かび上がった。顔はなかったが、その声が一斉に轟き、耳の奥まで刺さってきた。
『お前は家門の恥だ』
『姓がなければ何でもない』
『命令だけを聞いていろ』
『役立たずめ』
幼い頃から根付いた恐怖――完璧でなければ捨てられる恐怖、弱さや個性を少しでも見せれば家族から切り捨てられる恐怖――が、嵐のような勢いで私を殴り倒した。
息が詰まった。
父の影たちが迫ってきた。鏡の奥へ引き戻そうとする爪を伸ばして。
「この試練の名は、囚われた自己との対峙」
コデックスの声が空間に漂った。
「不承認の恐怖と、課せられた義務の重みに縛られている。前へ進み進化するためには、父による審判の幻影を打ち砕かなければならない。影があなたを定義することを許せば、あなたの存在はこの書庫に吸収され、わたしの書棚のまた一冊になる。許可を乞わず存在することを始めたとき、あなたが何者かを証明してみせて」
自分の手を見た。震えていた。お父様の前で震えるのと同じように。
影に向かって跪き、謝り、嵐を沈めるために服従を受け入れたい衝動が凄まじかった。それが楽な道だった。自分を安全な籠の中に留めてきた、子供じみた防衛機制。
でも――この同じ扉を越えたアキラの、あの決然とした眼差しが脳裏に浮かんだ。裏庭でヴィクターが突きつけた、剥き出しの真実が蘇った。
……もう嫌だった。
胸の中で、本物の怒りの火が燃え始めた。
怯えた子供がいつまでも、愛することを知らない男の承認を物乞いし続けるつもりはない。
拳を握りしめた。掌に血が滲むほど。
頭上から覆い被さる巨大な影の群れを見上げ――生まれて初めて、頭を垂れる衝動を感じなかった。
いつもなら厳密な術式がなければ形を成さない私の魔力が、体の内部から野性的に、純粋に、本能的に溢れ出した。深紅の輝きが、深淵を染め上げていった。
「私は楓!!」
もう従順な娘の声ではなかった。自分の運命を取り戻す魔術師の咆哮だった。
「私の価値は、一族の掟でも、一人の男の承認でも計られない! 私は家門の恥でも、傀儡でもない! 今この瞬間から、自分の道を自分で選ぶ!!」
中央の父の影に向けて、杖を真っすぐ構えた。
私の決意の炎が、礼節の鎖から解き放たれ、自分自身の恐怖の根を焼き尽くす赤い火球へと凝縮されていった。
試練を、どんな代償を払っても超える覚悟ができていた。
――止まっていた時間が、
再び動き始める。
一人では、
届かなかった答え。
一人では、
越えられなかった壁。
それでも、
手を差し伸べる者がいる。
次回――
再起動
眠っていた魔導技師が、
再び立ち上がる。




