交差点の結節点
人は、
誰かと出会うことで、
少しずつ変わっていく。
その変化は、
大きな奇跡ではなく、
ほんの小さな一歩なのかもしれない。
四方を見回した。スパイ映画の、低予算版に出てくる人質みたいな気分だった。
左にはレイナ・アシュフォード、右にはアイリ・ウィンターフォール——二人はクッキーと小さなケーキを、恐ろしいほどゆったりとした所作で口に運んでいた。お茶を飲む姿もまるで優雅な作法の授業のようで、目の前で一人の人間が精神崩壊しかけていることなど、まったく気にしていない様子だった。部屋の奥では、リディアが世界に背を向けたまま、大きな窓の外をじっと見つめて立っていた。この部屋の緊張感は、バターナイフで切り取れそうなくらいに濃かった。逃げ道が欲しかった。脱出口でも、地震でも、なんでもいい——とにかく何か。
やがてリディアが劇的なポーズを崩し、整然とした足取りで机へ戻ってきた。腰を下ろした彼女は、アイリのほうを見ることなく、空になったカップをすっと差し出した。
「もう少しお茶をいただけるかしら」
その声には、女王に相応しいほどの厳粛さがあった。アイリは機械仕掛けのような完璧な動きでティーポットを取り、一滴もこぼさず注いだ。リディアはカップを受け取り、申し分ない優雅さで息を吹きかけ——そうして、ようやくその目がこちらへ向いた。
重い沈黙が落ちた。
「緊張していますわね、アキラさん」
あまりに自然な口調だった。その言葉が引き金を引いたように、身体が最悪の反応をした——背筋が滑稽なほど固まり、勢いよく椅子の背もたれに当たって乾いた音を立てた。両手がテーブルにしがみついた。まるで自分が飛んでいってしまわないように。リディアが小さく笑った。作られたものではない、素直な音——あの威圧的な雰囲気とはまるで対照的な響きだった。
「リラックスしてください。毒など入っていませんわ。お茶をどうぞ」
喉を鳴らして、できるだけ情けなく見えないように努めながら、両手でカップを取った。歯が磁器にかすかに当たって、恥ずかしいほどチリンと音がした。ひと口、長く飲んだ。意外なことに、味は悪くなかった。ハーブを合わせたもので、思いのほか落ち着く味だった。肩が数センチ下がった。
少し気持ちが落ち着いたものの、まだ心臓は喉のあたりで脈を打っていた。本題に切り込むことにした。
「……あの、仮に協力するとして……僕に何ができるんでしょうか。監視下に置かれている生徒が、どうやって"黒幕"を探せるのか……そもそも黒幕がどんな顔をしているのかさえ、見当もつきません」
リディアはカップをソーサーにコツンと置き、量子力学の基礎を教えてほしいとでも言われたような目で、こちらを見た。
「わたくしには、あなたの目には映らない全体の景色が見えますの、アキラさん。今この場で詳しく説明するのは……複雑で、退屈になりますわ」
「それでも、聞かせてください」
腕を組んで、少しだけ作りもののような自信を身にまとって言い返した。
「こっちを巻き込もうとしているなら、なぜ僕なのかを知りたいんです」
リディアが小さく息をついた。手のかかる生徒を相手にする教師のような音だった。
「では簡単に噛み砕いて差し上げますわ。あなたのお祖父様とお父様は、最初は無関係に見えた二本の糸に、それぞれ関わっていました。ところがその糸は、最終的に同じ一点で交差しているのです。あなたが、その交点にいる結節点というわけですわ」
目をしばたかせた。言葉を頭の中で転がした。"交点の結節点"。何一つわからなかった。それ以上に、リディアが真の黒幕に辿り着くためなら何でもしかねないという確信が、じわじわと恐怖になって腹の底から這い上がってきた。虎の口の中に、自分から入っていくような気分だった。
自分の中の一番深いところから——あるいは純粋な絶望から——勇気を絞り出して、真っ直ぐ彼女の目を見た。
「……嫌です」
はっきり言った。
「協力したくありません。意味もわからないままに、命がかかっている陰謀に巻き込まれたくない。今でさえ、処分のことだけで手一杯です」
リディアは眉一つ動かさなかった。笑った——ただし嘲笑ではなく、チェスで次の手を読んでいる者の、静かな満足感のような笑みだった。お茶をひと口含み、椅子にゆっくりと背を預けた。
「何でも言ってくださいな、アキラさん。わたくしは、あなたを納得させるためなら何でもいたしますわ。あなたのご要望を、ほぼどんなものでも叶えられる手段を持っています——ただし一点を除いて。黄金の鉄則違反による処分の取り消しは、制度上不可能ですから、それだけはできかねますわ。でもそれ以外でしたら、わたくしにはその手段がございます」
その言葉を聞いた瞬間、小春の名前が頭を稲妻のように横切った。自分がこの場所に流れ着いた、一番根本にある理由。すべての努力の原動力——彼女に、自分との記憶を取り戻してほしいというその願い。リディアが、あの力を使えばそれが叶うかもしれないという考えが、抗いがたい誘惑として胸に浮かんだ。言葉が出なかった。口が半開きのまま、何も続かなかった。
リディアは長引く沈黙を迷いと読んだのか、小首を傾けた。
「迷っているのかしら。ご安心ください——わたくしは、若い方々の心を動かす提案を、いくつか持っていますわよ」
そう言ってリディアが顎でわずかに合図すると、レイナとアイリが即座に頷いた。お茶のカップを置いて、気づいた時には二人がすぐそばに立っていた。両側から腕を抱えるように寄ってきた。
「っ――何をするんですか!?」
突然の接触に、体が完全に混乱した。レイナが左肩にぴったりと寄り添い、危険なほど近くから目を合わせてきた。
「ねえ、アキラく〜ん☆ あたし、本家の血筋ではないけど、同じアッシュフォードだよ? もしそれで協力してくれるなら……あたしがアキラの彼女になってもいーかなって。ちょっと考えてみてよね」
あまりにも真剣な顔で言われた。現実感が完全に崩壊した。顔に血が上るのを感じた。心臓が暴れた。これは何の交渉なのか。でもレイナに何か言う間もなく、今度は右耳のすぐそばで、かすかな息の気配があって、思わず椅子ごと飛び上がりそうになった。アイリが、練習したような控えめさで、こちらを見ていた。
「……真実を言えば、君のような立場の者が孤立している姿は、星の配列で言えば……軌道から外れた衛星に似ている。もし君がリディアの申し出を受け入れるなら、僕もまた……君の傍に在ることを、受け入れようかと思う。それは、十分な対価だと思わないかな」
二人に囲まれながら、パニックが一周して怒りに変わった。
「もういい加減にしてください! どちらもお断りです!」
椅子に座ったまま、できる限り体を離した。
「こんなことは冗談にもなりません! レイナさんも、アイリさんも、取引の景品みたいに扱われていいはずがない!」
リディアが目を丸くした。本当に意外そうに見えた。カップを机に置き、こちらを観察するような目で見つめてきた。
「まあ……意外ですわね。あなたの年頃の男性は、もっと簡単にこの手の誘いに乗るものだと思っていたのですけれど」
「彼女なんて探していません! それに、二人はリワードでも交渉材料でもない!」
リディアは数秒間、じっと見つめてきた。それから深く、純粋な諦めのような息をついた。軽く手を振ると、レイナとアイリはすぐに離れ、何事もなかったように席へ戻ってお菓子を取り出した。
「面倒な人ですわね……」
リディアが呟いたかと思った次の瞬間、机の上に身を乗り出してきた。そして、制服のネクタイをがっしりと掴み、こちらへぐっと引き寄せた。驚くほどの力だった。顔が、目と鼻の先に迫った。冷たく澄んだ瞳の光が、間近にあった。
「……もしどちらも嫌だというなら、アキラさん。わたくし自身は、どうかしら」
低く、引き延ばすような声だった。息が詰まった。
「このアカデミーにおいて、わたくしほど価値ある"報酬"は存在しませんわ。ナイトシェイド一族の次期長の伴侶となる栄誉——七つの一族の社会において、これ以上の特権はございません。それに、異なる一族間の関係が禁じられているなどという規則は、わたくしたちの規約には存在しませんわよ」
頭を後ろへ引こうとしたが、ネクタイの締め付けが許さなかった。完全に捕らわれた気分だった。どうしていいかわからなくて、ただ視線を横へ逸らした。向き合うことができなかった。
――見てしまえば、何かが揺らぐ気がした。
冷たいはずの瞳に、なぜか熱を感じてしまった。近すぎる距離が、ただの圧力ではなく、妙に心を乱すものに思えた。逃げるように視線を逸らしたのは、拒絶ではなく、怖さだった。もし見続けてしまえば、自分の中で説明できない感情が形を持ってしまう気がしたから。
その反応を見て、リディアがネクタイをぱっと放した。椅子へ倒れ込むように座り直した。リディアは制服を整え、こちらへ向かって軽く舌打ちをした。
「失望しましたわ。あなたは本当に意気地なしですわね、アキラさん」
そこからが本番だった。リディアの言葉は、精巧な刃のように次々と飛んできた。
「決断力の欠如は、精神的な脆弱さの証拠です。プレッシャーの下で行動できないことは、あなたの知性そのものへの疑問を呼びますわ。これほどまでに情けない様子では……」
一言一言が、誇りの部分に刺さった。金のフルーレで刺されているようだった。
「……まあいいでしょう」
リディアは締めくくった。
「素直に協力しないというなら、別の方法を取るまでですわ。この件は、アリズさんに任せることにいたします。あの方のほうが、扱いやすそうですもの」
アリズの名前を聞いた瞬間、恐怖が一瞬で怒りに塗り替わられた。今朝、自分の部屋で必死な顔をしていた彼女の姿が脳裏を横切った。
「駄目です!」
両手で机を叩き、立ち上がった。
「アリズを巻き込まないでください! 彼女には何も関係ない!」
リディアは動じなかった。それどころか、満ち足りた笑みを浮かべた。目が輝いていた。
「そうでなくては」
リディアが静かに言った。
「弱いふりをして戦う前に諦める人が、わたくしは嫌いですわ。行動すると決めた人間は、誰も弱くはありません」
気づいた時には、まんまと罠にはまっていた。もう断れない。彼女が主導権を握っていた。途方もないリスクを背負うことになる——でもそれでも、うまく手札を使えばまだ選択肢はある。長く息を吐いて、鼓動を落ち着かせた。椅子に座り直して、頭を下げた。
「……わかりました。協力します」
リディアは、その答えに満足した様子を隠さなかった。カップの残りを飲み干し、ソーサーの上に澄んだ音で置いた。立ち上がって、扉へ向かう。
出口の敷居で足を止め、肩越しにこちらを振り返った。
「ご協力に感謝いたしますわ、アキラさん。それと……報酬の話は、まだ有効ですわよ。終わった時に、何が欲しいかを考えておいてくださいな」
断ったのに、まだその条件を提示してくることが意外だった。
「……まだ、報酬をくれるんですか」
「当然ですわ。わたくしは、役に立ってくれた方には相応の対価を払う主義なのです。効率の問題ですもの」
それだけ言って、リディアは扉を開けて出ていった。
後に残された静寂は、重かった。ようやく自分の肺が自分のものに戻った気がした。鞄の肩紐を両腕で抱き込むようにして胸に引き寄せ、ゆっくりと腰を浮かせた。この場から、静かに逃げ出すつもりだった。
「ちょっと待って、アキラくん」
レイナの声。手を上げて引き止められた。溜め息をついて、腰を落とした。二人を交互に見た。
「リディアちゃんのこと、恨まないであげてよ」
レイナが、キャンディを噛みながら続けた。
「あの子は……スペシャルなんだよね。何よりも効率を優先する人。方法がちょっと変わっていても、いつも一番いい結果を出そうとしてるの」
「その通りです」
とアイリが、耳の後ろで髪を一本整えながら言った。
「さきほどの……彼女の提案でわたしたちが君の傍に寄ったことも、すべてリディアが設計した試練だった。君がプレッシャーの下で、どれほどの意志を持つかを測るために」
「……」
それが言葉になるまで、少し時間がかかった。これほど優秀で誇り高い二人が、あの人の策略に黙って従っているという事実が、どうしても飲み込めなかった。
「わからない……」
正直に言った。
「あんな人の友達でいられる理由が」
レイナが小さく笑って、天井を見上げた。
「あたしも、正直よくわかんないんだよね〜。でもさ、リディアちゃんって、すごく小さい頃から自分の周りに壁を作ってた子で。誰もそこには入れないの」
「彼女が今のようになったのは、育ちの影響が大きい」
とアイリが続けた。声が、静かな諦念を帯びていた。
「ナイトシェイドの次期長として、彼女に課せられてきたものは、常軌を逸していた」
好奇心が、遠慮よりも先に動いた。少し机に身を乗り出した。
「兄弟はいないんですか。継承は生まれ順が基本じゃないのかな、と思って」
レイナが少し笑いを含んだ息を吐いた。
「いるよ。一族の長は子供をたくさん作るのが普通だし。リディアちゃんも五人兄弟」
「そして彼女は、長子ではない」
とアイリが加えた。
それは意外だった。カイト先生の話を思い出した——彼も似たような立場だったかもしれない。
「長子じゃないのに、なぜ彼女が選ばれたんでしょう」
レイナがキャンディを飲み込んで、肩をすくめた。
「リディアちゃんの兄弟たちは、お父さんに選ばれなかったんだ。彼らには求められる素質が見えなかったからね。お父さんは彼女の分析力と、感情に左右されない判断を見抜いて、生まれ順よりもその資質を優先した」
頷いた。彼女が背負ってきたものが、少しだけ見えた気がした。知性だけを基準に選ばれ、幼い頃から精密機械のように扱われてきた人間の輪郭が。
不思議な静けさに包まれた空気に乗じて、レイナへ視線を向けた。彼女とは同じ一族の姓を共有しているだけで、個人的な面識はない。それでも、身分の隔たりを意識させられるその繋がりは、いつもどこか居心地の悪さを伴っていた。
「レイナさん……君もアッシュフォードですよね。一族の中で、どんな立場にいるんでしょうか」
レイナはお茶をひと口飲んでから、ゆっくり答えた。
「あたしはね〜、ほとんど何者でもないよ、一族の中では。もともとは人間社会に溶け込んで暮らしてる、周縁部の家の出身。でもここに来たくて、親に頼んでこのアカデミーに入れてもらったの。そしたら先生たちが才能を見つけてくれて、戦闘魔術師として認められた。出自はすごくシンプル」
口が少し開いた。レイナと自分は、まったく同じ出発点にいた。人間社会に生きる、隠れた魔術師の家。大きな違いは、彼女が自分の意志でここへ来たことと、こちらは罰として引っ張り込まれたことだけだった。
今度はアイリへ目を向けた。アイリはこちらの視線に気づくと、小首を傾け、自分を指さした。
「……君は、僕の話も聞きたいのかな」
緊張を感じながら、小さく頷いた。
アイリは静かに息をついて、カップを置いた。
「ウィンターフォールには……人間社会へは一切出ない一族がある。屋敷の中で、代々、さまざまな役割を担い続ける者たちだ。維持、実験、儀礼——そういったものを支える人間たち。僕はその中の、霊魂魔術の研究班の家の生まれだ」
「霊魂魔術……」
と繰り返した。
「ただ、僕はそこには惹かれなかった」
と、アイリが続けた。今度はその声に、初めて感じる温度があった。目が、かすかに輝いた。
「ほとんど誰にも顧みられない領域に、ずっと魅かれていた。占星術魔術という、忘れられた道に」
それは本当に意外だった。エンディミオンの廊下では、誰も占星術の話などしない。時代遅れか、純粋に空論か——そう思われている分野だった。
アイリは、こちらの表情の変化を正確に読んだらしく、口元に薄い笑みを浮かべた。
「みんな、同じ顔をするね」
と言った。
「でも、子供の頃からずっと星が好きだった。夜空に広がる惑星も、恒星も、その無限の奥行きも。魔術師にも、魔法使いにも、天体にまつわる古い記録が存在することを知った時、これ以上に嬉しかったことはなかった。占星術の流れを変えられなくても、一生かけても使いこなせなくても……それでも学びたい。それが、僕の夢だから」
アイリが夢を語るその声を聞きながら、胸の中に何か奇妙な感覚が生まれた。
エンディミオンに来てからずっと、自分はこう思っていた——ここの魔術師たちは、傲慢で、冷淡で、危険な人間たちだと。だから目立たないように、小さくなって、何かあればすぐ頭を下げて、関わらないようにしてきた。でも今、こうして話してみると、全然違った。完璧に見えるユニフォームの内側に、重い夢や、不合理な怒りや、隠された悩みがあった。本当の人間がいた。
気づいたら、笑っていた。お腹の底から、自然に出てきた笑いだった。レイナとアイリが顔を見合わせた。
「大丈夫、アキラくん?」
とレイナが尋ねた。
「すみません……本当に、悪い意味じゃなくて」
目の端に浮かんだものを、軽く拭った。でも笑顔のままだった。
「ずっと、大事なことを見落としてたんだと気づいて」
アイリがカップを途中まで持ち上げたまま止まった。
「何を見落としていたの?」
手元のお茶を見つめた。液体がわずかに揺れていた。
「……周りの人を、ちゃんと見ていなかった」
小さく、でもはっきり言った。
立ち上がって、鞄の紐を肩にかけた。二人へ向かって、丁寧にお辞儀をした。
「お茶と、お話を、ありがとうございました。失礼します」
振り返って、部屋を出た。
廊下の絨毯の上を歩きながら、足が前よりも少し軽くなっていることに気づいた。何かが変わった。うまく言葉にはできないけれど——次に床を見る時、きっと以前とは違う目で見ているだろうと思った。
* * *
夜になっていた。
机の前に座り、魔術陣の構造理論についての分厚い本を繰っていた。でも頭には何も入ってこなかった。午後に起きたあの出来事が、ずっと頭の中を回り続けていた。
リディアに、チェス盤の上へ引っ張り込まれた。望んでいなかったのに。でも——冷静に考えれば、完全に手ぶらというわけでもなかった。
楓が「禁書庫」について言っていたことを思い出した。もしあそこへの入口を開けてもらえるなら、そこで得られる知識がこの世界での最大の武器になる。それに、カイト先生もいる——明日の朝一番で話に行かなければ。エレノアも、石の調査で力を貸してくれた。アリズは……アリズは、遠いところで支えとして存在していてほしい。傷つけるわけにはいかない。
一人じゃなかった。頼れる人間がいた。
明日の計画は決まっていた。カイト先生に話し、リディアに次の動きを確認し、楓への連絡方法を探す。あの禁書庫が必要だった。隠された戦闘の術式があるかもしれない。石の真の起源があるかもしれない。小春の記憶を取り戻す手がかりが——あそこに、あるかもしれない。
天井を見上げて、そんなことを考えていた時だった。
コツ、コツ、コツ。
窓ガラスを叩く音で、思考が断ち切られた。
飛び上がるように立ち、時計を見た。夜中だった。窓を見た。三階だった。窓の外を叩く存在として、深夜に効率よく外壁を清掃する超人的な曲芸師でも雇っていない限り、論理的な説明がつかなかった。いったい何が、三階の窓を、この時間に叩くというのか。
手が震えるのを感じながら、窓に近づいてカーテンを引いた。
ガラスの向こうに、A.S.がいた。
普通に。宙に浮いて。まるでバスを待つような顔で。
箒もない。浮遊の魔術陣が輝いているわけでもない。風の術式で服が揺れているわけでもない。ただそこに、何の物理的根拠もなく、漂っていた。「こんばんは、今日はお話があって参りました」とでも言いそうな、完全に無関心な表情だった。
叫んで部屋から逃げ出す原始的な衝動をかろうじて抑え、窓を開けた。A.S.は音もなく室内へ滑り込み、木の床を踏んだ。振り向いた顔は、いつも通り無表情だった。まるで陶磁器の人形が、感情モードの起動を忘れたような顔。
「……調査の第一段階を、終えました」
と言った。
「状況全体の概要は、把握しました。ただし……あなたを具体的にどう助けられるかについては、まだわかっていません。確認すべき事項が残っています」
そのそっけない言葉が、意外なほど大きな安心感をもたらした。
それから一気に話した——茶会で起きたこと、リディアに巻き込まれた経緯、謎の黒幕を探す役割を押しつけられたこと。花嫁を差し出す提案の件だけは、恥ずかしすぎて完全に省いた。
A.S.は途中で一言も挟まなかった。顔は無のままだった。でも、その目が時折ゆっくりとまばたきをするのは——処理しているのか、部屋の埃を数えているのか、彼女に限っては判断がつかなかった。
「この件について調べた結果からすると」
とA.S.が始めた。
「リディア・ナイトシェイドの判断は、理解できます」
「本当に彼女と同じ結論に辿り着いたんですか」
「ええ。あなたは、大きな権力の糸から完全に切り離されているように見えて、この場所に縛り付けられている唯一の個体だからです」
と彼女は言った。
「アキラさん、外部から見れば、あなたは処分によって動けない存在です。誰も、あなたが影から動くとは思わない。だからこそ、リディアの計画においてあなたが調査することは機能する。誰も気づかない」
現実が、冷たい水のように降ってきた。リディアの論理が、ようやくきれいに見えた。完璧な隠れ蓑として選ばれたのだ——目立たなすぎる、動けなすぎる、誰も脅威と思わない人間として。鮮やかで、同時に少しだけ自尊心を傷つける策だった。
A.S.がいつの間にか部屋の中を視線で巡っていた。壁、床、家具の位置——何かを計算している目だった。
「……何を見ているんですか」
彼女は軽く首を振った。部屋の隅から目を離さないまま。
「特に何も。空間的な可能性を分析しているだけです」
「空間的な可能性って」
A.S.が口を開く前に、自分の中の直感が「何か変なことが起きる」と告げていた。
「リディアの協力のために、学園の外への移動が必要になるでしょう。そのための手段を用意しました」
一瞬、言葉が出なかった。自分の逃走ルートまで設計してきたとは思っていなかった。
A.S.は懐から厚い紙を一枚取り出した。そして次の瞬間、何の予告もなく——身体を折り曲げ、四つん這いになって、ベッドの下へ進んでいった。
凍りついた。
神秘的な魔術師が、ついさっき宙を浮いていたその人物が、今まさにベッドの下を這っていた。生徒の寮の、木の床を。まるでなくした靴下を探しているように。
「な……何をしてるんですか!?」
と声を潜めたまま叫んだ。扉をちらりと見た。アリズが来たら、どう説明するのか。無理だった。完全に無理だった。
「この紙をベッドの下に置きます……これがあなたの脱出口になります……」
とくぐもった声がした。
意味がわからなかった。
やがてA.S.がベッドの下から這い出てきた。立ち上がり、何事もなかったように袖を軽く払った。それから右手の平を床へ向け、ベッドの底のほうへ狙いを定めた。腕に走る複雑な符の紋様が、青白く光り始めた。
その光が、皮膚から剥がれ始めた。
文字が。腕に刻まれた魔術の文字が、実際に、物理的に、腕から浮き上がり、部屋の空気の中で旋回した。青白い光の渦が顔に当たり、瞬きするのを忘れた。文字たちはしばらく舞い続け、やがて一斉に降下して、ベッドの下の紙の上に吸い込まれるように貼りついた。光が消え、部屋が元の暗さに戻った。
「"扉"の設置が完了しました」
とA.S.が言い、腕を下ろした。まるでスイッチを切ったように。
「A.S.さん、頼むから、小生徒に教えるつもりで説明してください。今、何をしたのか、全然わかりません」
「あなたの部屋から、私の拠点への直通転移回路を作りました。セキュリティシステムに感知されることなく、必要な時にアカデミーの外へ出入りできます」
頭が真っ白になった。今この人は、僕の部屋の生徒用ベッドの下に、非公認の転移回路を設置したということなのか。
「……どうやって使えばいいんですか」
「回路へ向けて手を差し出し、一定量の魔力を流すだけです。それで起動します」
「触媒なしで魔力を制御する方法が、わかりません」
と正直に言った。
「わかっているはずです」
と彼女は言った。一切の迷いがなかった。
「杖を使う時と同じ原理です。やってみてください」
ベッドの下を見た。A.S.を見た。ベッドの下を見た。
膝をついて、右手をそちらへ向けた。目を閉じた。杖で魔力を流す時のイメージ——それを、腕の先、指の先まで伸ばした。指先に、薄い温もりを感じた。
気づいた時には、自分の部屋の木の床が消えていた。
空気が変わった。冷たく、密度が違った。目を開けた。
全く別の場所だった。窓がなかった。装飾がなかった。壁は素っ気なく、薄暗く、何もない部屋だった。
「転移が完了しました」
耳のすぐそばで声がした。
「――うわあああっ!!」
前に飛び出し、振り返った。心臓が口から出そうだった。A.S.が、数センチ後ろに立っていた。人の気配を消すことへの罪悪感が、彼女には存在しないらしかった。
「……お願いですから、それだけはやめてください」
胸を押さえながら頼んだ。
「ここは……どこですか」
目が暗さに慣れてきた。見回した。コンピューターもない。地図もない。魔術の武器も吊るされていない。どこをどう見ても、「拠点」という言葉とは縁遠い、至ってシンプルな寝室だった。
「A.S.さん」
とゆっくり言った。
「これ、君の部屋ですよね」
「……はい」
信じられなかった。この人は今、自分の生徒寮の部屋と、彼女の個人的な寝室を、双方向の転移回路で接続したということだった。ちなみに特に何の感慨もない顔で。
とはいえ、これがあれば移動が格段に楽になる。それは確かだった。
――アリズにも伝えておいたほうがいいかな――と頭の中で考えていた、ちょうどその時。
A.S.が一歩近づいた。声の調子は変わらなかった。温度もなかった。でもその言葉には、確かな重みがあった。
「この拠点の存在を、誰にも話してはいけません。誰にも、アキラさん」
怒鳴りもしなかった。脅しの口調でもなかった。ただ、その無機質な断言が——もし話せば、自分が時空間に散らばるのかもしれないと本能的に感じさせた。
「……言いません。絶対に言いません。約束します」
両手を上げた。
この妙な緊張感から早く逃げたくて、自分の部屋へ戻る前に一つだけ頼むことにした。
「A.S.さん……楓・エンバーストロムに会わせてもらうことはできますか。彼女の一族が持つ禁書庫への入口を、以前約束してもらっていて。今一番必要な情報が、あそこにあると思うんです」
「禁書庫」という言葉が空気に出た瞬間——ほんの一瞬、ほとんど誰も気づかないような速さで、A.S.の目が変わった。瞳孔がわずかに広がった。驚いた、という反応だった。それはすぐに消えて、無表情が戻ってきた。まばたき一つ分の、かすかな揺れ。でもこちらは確かに見ていた。
「……接触を試みます」
とA.S.が言い、静かに袖を整えた。
「ただし、現在のセキュリティ体制下で、彼女との正式かつ非公式な会合を設定するのは容易ではありません。確約はできません。それでも、楓さんと話す必要があるなら、できる限り手配します」
その言葉を聞いた瞬間——何日かぶりに、自分が自分の人生を少しだけ動かせているような気がした。動かされているだけじゃなく、動かしている側に回れているような。
* * *
翌朝、手持ちの乏しい同盟網を維持するために動き回った。まるで資金もないのに事業を回そうとしている詐欺師のような気分だった。
まずカイト先生を訪ねた。あのサングラスを外さない視線で迎えられ、半分だけの情報を投げつけられた——エレノアと話し合い、石についての行動計画を練ったという。問題は、詳細を一切教えてくれなかったことだ。どうやら自分の人生における情報開示レベルは、引き続き「一般公開」止まりらしかった。来る前と同じ、ただし焦燥感だけが増した状態で部屋を出た。
次はリディアの番だった。彼女が手渡してきたのは、触るのが怖くなるほど上質な紙に印刷された特別通行証だった。
「これがあれば、必要な時にアカデミーの外へ出られます」
と彼女は説明した。
「ただし、厳重な秘密です。正門の衛兵以外、誰にも見せてはなりませんわ。万が一流出すれば、公式に否定した上で、スパイ行為として独房送りにせざるを得ません。手続き上の問題として」
「……ありがとうございます」
とだけ答えた。証拠物件を隠すように通行証を仕舞い込んだ。
リディアは調査の詳細を説明した。複数の候補地を絞り込んだ末、自分が単独で当たるべき場所は二つだと言った。
一つ目は、陰陽師たちが拠点としていた神社。
「そこで求めるのは、単純な事です。精鋭の魔術師たちや公式の調査員が見落とした痕跡、魔力の残滓、手がかりを探してくださいな。あなたの目は、学術的な先入観に汚染されていない。だからこそ、彼らが見えなかったものが見える可能性があります、アキラさん」
笑いを堪えるのに少し時間がかかった。つまり、専門家が見落としたものを、素人の自分が見つけられるという理屈だ。「指紋が何かも知らないから、かえって証拠を見つけられる」と言っているようなものだった。でもリディアに異論を唱える気力はなかった。
二つ目で、本当に息が詰まった。蓮次郎の屋敷の廃墟。彼女によれば、反乱派についての答えが残っている可能性が最も高い場所だという。二つで一セットの自爆ミッションだった。
それから、アリズのところへ行った。できるだけ優しく、でもはっきり告げた——もうこの調査への協力は必要ない、距離を置いていてほしいと。
案の定だった。彼女は怒った。信頼していないのかと、廊下が揺れそうな勢いで言った。ドスンという踵の音を残して去っていった。胸が痛かった。でも、リディアの視野の中に彼女を入れるくらいなら、嫌われるほうを選ぶ。
夜になって部屋へ戻った。鍵を二重に閉め、倒れ込むようにベッドに横になった。天井を見上げながら、やることのリストを頭の中で整理していた。残った最後の一手は、楓に会うことだった。A.S.がどうやって連絡をつけるつもりなのかは、まだわからなかった。
コン、コン、コン。
窓ガラスを叩く音で、体が跳ね上がった。頭が床板に当たりそうになった。ガラスを見た、目を丸くした。
A.S.だと即座に思った。
布団から抜け出して溜め息をつきながら窓へ向かい、カーテンを引いた。
A.S.だった。
ただし、一人ではなかった。
A.S.が夜の空中に浮きながら、楓を抱えていた。鷹が獲物を運ぶように——正確には、楓のスカートの上端を鉄の指でがっしり掴み、彼女の体を縦向きにそのまま空中輸送していた。重力と、A.S.がスカートの頂点を持ちあげているという物理的事実によって、その裾は容赦なく捲れ上がり——白いレースの縁取りが、月明かりの下でくっきりと見えていた。
「放せ、この狂った怪物!!」
楓が空中で両腕を振り回していた。顔が怒りで真っ赤だった。A.S.の外套を殴ろうとしていたが、届かなかった。
「七つの一族の総代を、誰だと思ってるの!? 地に足がついたら、あなたを焼き尽くしてあげるから!!」
脳が処理を止めた。
エンバーストロム一族次期長の白いレースから、A.S.の無表情へ、また白いレースへ——目が勝手に往復した。顔が急速に熱を持ちはじめた。
「!? な、何を……何やってるんですか!?」
叫びながら、慌てて窓を全開にした。衛兵が空を見上げて、この悪夢のような光景を目撃したら終わりだと、ただ恐怖に突き動かされて。
A.S.は言葉で答えることはなかった。窓がわずかに開いた瞬間、距離を測り、まるでバスケットボールをゴールへ投げ入れるかのような落ち着きで楓の体を揺らし——そのまま室内へと放り込んだ。
「えっ――!?」
それだけ言う時間があった。楓の体が胸へ直撃した。そのまま後ろへ倒れ、床に背中を打ちつけた。肺の空気が全部抜けた。楓が両手を床についた格好で上になっていた。互いの顔が、数センチの距離にあった。
沈黙が一秒続いた。
楓の目が、こちらの顔を認識した。
「きゃあああっ!!」
バネ仕掛けのように離れた。床を転がり、立ち上がり、スカートを両手で押さえながら猛烈に整えた。頬が真っ赤だった。目は怒りと羞恥で揺れていた。
A.S.が窓から音もなく入ってきて、着地した。フードを整えた。
「対象物の搬送が完了しました」
「"対象物の搬送"!?」
A.S.に向き直りながら、声を荒げた。
「連絡を取ってほしいと頼んだんです! スカートを掴んで空輸してほしいとは、一言も言ってません! ……見えました。楓さんの……その、ほぼ全部」
楓がこちらへ指を突きつけた。指先が震えていた。というか、チリチリと火花が散っているような気さえした。
「アキラくん……七つの一族に誓って、もし余計なものを見ていたら、あなたの灰を原子以下に還してあげるわ」
「見てません! 視野の端を意識的に封鎖して天井を見てました、誓います!」
嘘をついた。しかも堂々と。両手を降参の印のように上げながら、冷や汗が首筋を伝うのを感じた。助けを求めるように、A.S.へ視線を向けた。
「何か言ってください! なぜこうなったのか説明してほしい!」
「通常の接触方法では、所要時間が四〇〇パーセント増加すると試算しました」
とA.S.は言った。
「直接空路輸送の移動時間は、三分でした。効率的です、どういたしまして」
「感謝していません!」
「知っています」
楓がこめかみを抑えた。深く息をついた。さっきまでの怒りが、じわじわと別のものに変わっているのが、顔の赤さの引き方でわかった。こちらとA.S.のやり取りを見て、初めの激情が少しだけ失速したらしかった。
上着を整え直した。一族の次期長としての姿勢を取り戻していた。頬はまだ薄紅色だったけれど。
「もういい、二人とも静かにしなさい」
と落ち着いた声で言った。
「……この子が、あなたが禁書庫の件で覚悟を決めたと言っていたわ。だから来た。自分の意志で」
唖然とした。A.S.がどんな"説得"をしたのかは——聞かないほうがいい。精神衛生上の問題として。
楓が一歩踏み出してきた。腕を組んだまま、真剣な光を目に宿してこちらを見た。
「約束は守る。禁書庫へのアクセスを与えるわ、アキラくん。あなたが答えを探して危険の中に飛び込む覚悟があるなら、最低限の武器を持って挑んでほしいから。でも——あの場所に立つ時、あなたは一人よ。それだけは頭に入れておいて」
胸の中で何かが固まった。さっきまでの混乱が、静かに引いていった。
真っ直ぐ楓の目を見て、頷いた。
「……無駄にしません。ありがとう、楓」
禁書庫の扉が開く見通しができた。リディアの二つのミッション。ベッドの下の転移回路。ようやく、ピースが自分の手で動き始めている気がした。
もう暗闇の中で手探りしているだけじゃない。味方がいた。計画があった。そして初めて——自分から動き出せるような気がしていた。
――恐れていたものは、
ずっと外にはなかった。
向き合うべき相手は、
いつだって、
自分自身。
次回――
試練
楓は、
初めて自分の名前で立ち上がる。




