裏切りの果てに咲く花
選ぶことは、
時に、
誰かを裏切ることでもある。
信じた道が、
正しかったのか。
その答えは、
歩き続けた先でしか見つからない。
グレインと組んで脱出経路を組み立てたのは、アカデミー・エンディミオンが新しい監禁プロトコルを施行してから三日後のことだった。
もちろん、高所恐怖症の僕には壁を飛び越える選択肢なんて最初から存在しない。論理的に排除して残ったのは完全な隠密行動、唯一の実行可能な変数だ。現代の魔術書にも不可視化の術式は幾つか収録されているし、光の屈折を歪めて姿を消す隠蔽の詠唱アルゴリズムが存在することは知識として把握していた。だけど、グレインが古代の術式の一つを保有していると知った時、正直、僕の計算式は完全に狂った。魔力円なしで同じ結果を実現する、その古い技術を見た時の衝撃は今でも整理が追いつかない。
方針は単純だった。陰陽師の派閥に潜入して、裏切り者の魔術師である黒木・ワイルドソウルの正確な位置を特定し、グレインに始末させて反乱の首を叩く。それだけだ。
機会はその夜に訪れた。
上位魔術師の一団が正門の敷居を渡るちょうどその瞬間に、グレインが術式を起動して僕を包んだ。彼らの間に紛れ込んで、アカデミーの境界を抜けてから、社寺の方向に向かって走り出した。
肺が軋み始めた頃、背後からグレインの平坦な声が響いた。
「……この歩行速度のままでは、汝が聖域の境界に達する前に、時間変数は尽きることになろう。召喚者よ」
反論しようとした瞬間、グレインが何かを実行した。
白く濃密な霧が――まるで圧縮された積乱雲の切れ端が――靴底の直下に突然実体化した。地面の摩擦が消えて、僕は地上スレスレを一定の風圧ベクトルで推進されるように、驚異的な速度で滑り始めた。ほんの数分で、石段が視界に現れた。
到着した途端、不可視化が解けた。
広場には、伝統的な装束を纏った男たちが何十人も集まって、低い声で議論していた。その中に源次の顔を見つけた瞬間、彼もこちらを視認した。それまでの静かな表情が即座に懸念の色に染まって、人群れをかき分けて近づいてくる。
「……若者よ?こんな刻限に社寺の周辺を徘徊するとは。すぐに帰宅なされ」
肩を掴まれながら囁かれたその言葉に、あらかじめ用意しておいた演技の引き金を引いた。移動中に何度も脳内でリハーサルした窮迫の表情を装い、拳を見えるように握りしめた。
「参加させてほしい」
目を逸らさずに言った。
「状況は把握している。戦争があることも知っている。手をこまねいていられない。戦いたい」
源次は深い憐憫の目で僕を見た。自殺者を見るような視線だった。
「貴殿の申されることは……分かりかねる。これは貴殿の場所に非ず、若者よ。この手を汚すは、貴殿の定めに非ず」
「断固、拒否する!」
語気を少しだけ強めた。劇的な効果を演出するための計算された昂揚だった。
「帰らない」
源次は一つ、深い溜息を零した。
「……分かり申した。まず現実の境界線を直視なされ。そして、全ての算盤が明らかになったその後に、この身の進退を改めてお考えなさるがよい」
頷いて、彼の後を追った。
一団の核心部に近づいた時、隅に一つの人影があった。陰陽師たちの動向を、静かな傲慢さで観察していた。黒一色の装束に、腰に杖が一本、提げられていた。
「あれは?」
源次に訊いた、目を細めながら。
「……黒木・ワイルドソウル、でございます。魔術師の御仁にして……我らのもとへと参られた御方。己が族の脅威を排するための指針と知識を、申し出てくださいました」
純粋な怒りが顎の筋肉を強張らせた。人間たちに自分の血族の秘密を売るためにそこに立っている男を、ただ黙って見ていると、吐き気がした。魔術師が成し得る最も低劣で不潔な行為だと思った。
「信用しているのか?」
刃の立った声で訊いた。
「土御門さん、あなた自身は本当に何を思っている?」
「……誠に皮肉なことに、と申し上げる他ございません」
源次はゆっくりと目を伏せた。
「私の伝統が説くところでは、陰陽師の本分は地の理を乱す異常の排除に他なりません。魔術師とは、その定義において、まさに異常なる存在。されど……真の魔術師と相まみえた陰陽師は、近現代に一人とておられない。私は戦いを望んでいない。ここにいる誰も、望んではおらぬのです。ただ……選択の余地がないのでございます」
沈黙した。その理論の脆弱性を噛み砕きながら、全員への軽蔑が自分の中で沸き上がるのを感じていた。自発性がない。強固な理論的枠組みがない。一人の裏切り者の魔術師の指令に、恐怖から盲目的に従っている。確信を持っていない人々だった。自分たちが理解していない盤上の、ただの傀儡だった。
その時、黒木が一歩前に出た。
「皆、聞いてほしい」
男の声が整然とした権威で広場を貫いた。
「準備は最終段階に到達した。蓮次郎は魔力機械を組み上げ終えた。すぐに、諸君ら全員が恒久的な魔力源へのアクセスを得るだろう。しかし、今後の戦略的な展開においては、現場を統一するリーダーが必要だ。私は諸君の王ではない。策士に過ぎない。諸君らの信念を束ねる者を選んでほしい」
陰陽師たちが互いを見渡しながら逡巡した。重い囁き声が広場を満たした。しばらくして、後方から一人が声を挙げた。
「土御門源次! 深い知識を持つ御方だ。指導者となるべきだ!」
「源次さんに!」
別の男が続けて、ほんの数秒で広場全体が一つの承認の声に統一された。
源次が目に見えて青褪めた。気が重そうにしばらく目を伏せて、それから重い足取りで前に出た。群衆の前に立って、正式に指導者の役を受け入れた。拍手と喝采が沸き上がったが、その歓声の中に隠された目の光の完全な消失を、確かに捉えた。英雄になりたくない人間が、流れの中に捕まっているのが見えた。
黒木はその場面を冷たい笑顔で眺め、集会を締めた。
「完璧だ。レオとモニカが作戦基地で戦術接続デバイスを準備し終えている。蓮次郎の機械が移送されれば、彼らが諸君らに新しい戦闘兵器を供給する。明日、作戦基地で待つ」
一言も加えず、男は踵を返して社寺の内廊に消えた。陰陽師たちがすぐに源次を囲んで称賛し始めたが、僕は距離を置いて、全ての瞬間を記録していた。
* * *
二日後、夜の帳に紛れて再び学園を抜け出した。
社寺の隠された検問所に到着すると、夜番をしている陰陽師が立っていた。予想通りだった。
「通れないぞ、少年。来た道を戻れ」
「参加する」
鋭い目を作って前に出た。
「何に直面しているか、把握している。これは何の冗談でもない、そんなことは分かっている。でも、ここにいることが自分の義務だと感じている。通してくれ」
「……申し訳ないが、通すわけにはいかない」
「源次さんなら僕を知っている! 源次さんに確認を取れば、嘘をついていないことが分かる!」
男は、「揺るぎない決意」と解釈したものに対して、黙ったまま値踏みするように僕を観察してから、頷いた。
「ついてこい。ただし、あの中で死んでも、それはお前自身の責任だ」
彼は本祭壇の背後にある隠し扉を通り抜けて先を進んだ。僕は後に続いて、巨大な地下空間へと続く螺旋状の石階段を下りた。
底に到達した時、脳内の計算式が衝撃を受けた。
そこは高圧ケーブルと発電機、そして見慣れない魔術機械の部品が散乱し、足の踏み場もないほどに埋め尽くされていた。陰陽師たちが中央のテーブルに群がっていたが、全ての注意が場の美学を完全に破壊している一人の人物に引き寄せられた。
ひどく小柄な男だった。派手なスカーレット色のスーツを纏っていた――場違いなほど完璧で、清潔で、コンテキストから完全に浮いていた。おおげさな身振りで、一人ひとりの陰陽師に奇妙なルーン文字の刻まれたガントレットを手渡していた。
「あの手袋は?」
隣にいた陰陽師に囁いた。
男は上から下まで僕を見渡した。
「お前は誰だ? 社寺では見なかったぞ」
「源次さんを知っている」
無表情に返した。
「隊列に加わりに来た。あの手袋は何だ?」
陰陽師は指導者の名を聞いて迷いながらも、折れた。
「戦闘の新しい兵器だ。魔術師だけが理解できるシステムに接続されたトランスデューサーで……魔力と呼ばれるものを供給してくれる。式札を最大の破壊出力で消耗なしに使えるようにする、人工的な代替エネルギー源だ」
奥の機械に視線をずらして、その源を特定した。そこには巨大で奇妙な魔力機械が不規則な振動で唸りを上げていた。構成部品とエネルギー流のベクトルを分析しようとしたが、不可能だった。重魔術機械工学は僕の学術的な専門外で、正確な機能が理解できなかった。
その瞬間、首筋に警告の痛みが走った。
スカーレットのスーツの小男が作業の手を止めて、頭をこちらに向けた。真っ直ぐに視線を向けてから、奇妙で歪んだ不快な笑みを向けてきた。背後の影の中に立っていた女に、一本指でさりげなく合図した。彼女が僕の方へと歩き始めた。
女は悲惨な見た目だった。皮膚に刻み込まれた濃い隈。何ヶ月も個人衛生の概念が頭から抜け落ちたような、手入れのされていない乱れた髪。長くくすんだグレーのドレスを纏い、異常に長い黒檀の杖を握っていた。僕の前に立ち止まって、生命の輝きが一切欠如した目で分析するように見てきた。
「貴方様も……レオ様の……おもちゃが……欲しいのかしら……」
力のない引きずるような声で、文章を空中に未完のまま漂わせた。
「今は必要ない」
表面を保ちながら答えた。
女は何も言わなかった。一歩前に出て、冷たく白い手を肩に乗せた。振り払いたい衝動が筋肉を走ったが、全力で抑えた。陰陽師の注意を引く混乱は起こせない。そして彼女は耳元に顔を近づけて、凍るような吐息で囁いた。
「レオ様が……貴方様とお話したいとおっしゃっています……隣の部屋に……来られますか……もし……まだ力が残っているならば……」
静かだが鋭い恐慌が双こめかみを締め付けた。この敵地で断ることが全ての生存変数を書き換えることは分かっていた。だから唾を飲んで、表情を保ったまま、彼女の後を追って重い鉄扉を抜けた。
隣の部屋の空気は重くて不快だった。錆びた金属の臭い・焦げたような金属の臭い・喉を刺す刺激的な湿気。女は隅に移動して、死体のように静止した。観察しながら分析した。外見だけで魔術師の専門を識別する能力は持っていないし、名門の出なのか、どこかの一族の落伍者なのかも分からなかった。しかし、ここで禁断の機械を操作しているという事実が、黒木やレオと同じ、血への裏切り者であることを証明していた。
扉が開いた。
小男が規則的なリズム、ほぼダンスのような足取りで入ってきた。その存在感だけで不快感と危機感が入り混じった何かが生まれた。さらに極め付けは、今は黒いサングラスをかけていた。……地下の湿った地下室でなぜサングラスをかけているんだ、と心の中で苛立ちを覚えた。
レオは腕を開いて、芝居がかったポーズで近づいてきた。
「あーあ、なんという素晴らしい視覚刺激! 我らの小さな救済の劇場に、新しい招待客だねぇ!」
声の抑揚が不規則に上下した。囁き調から滑稽なほど高い音域まで、同じ息の中で行き来した。
「一つ言わせてくれよぉ……私は正しい視野を持っているんじゃないですか! この世界の唯一で絶対の楽譜を! 黒木の過ちが見える……ああ、そうとも! あいつは蓮次郎を始末する際にまるごと計算を間違えたよぉ……現実の構造の不協和音が見える……世界は書き方が間違っているんだよねぇ? 実行が雑すぎる! そして私だけが……私だけが!……修正のための台本を持っている。でも誰も理解しない……誰も幕の後ろの壮大な作品が見えないんじゃないですか! なんと貧しい二次元の精神たちだろう!」
聞いていると、腸が煮えくり返るような不快感が広がった。
そしてもっと不快だったのは、その言葉の一部が、自分の中の何かに触れたことだった。魔術社会は腐敗していると思っているし、誰も僕を理解していないとも感じている。しかし、その同じ見解が地下室でサングラスをかけた統合失調症的な気狂いの口から出てきた瞬間、恐ろしい嫌悪感が全身を覆った。
レオは突然演技を止め、顔を傾けて母音を毒のように引き伸ばした。
「でもお前さんは……僕を理解してくれるよねぇえ? 感じ取れるんだよぉ……お前さんはまぎれもなく魔術師なんだってねぇ」
内部警報が最大レベルに達した。体が戦闘姿勢を取り、魔力の回路が開いた。もし攻撃されたら即座に魔法の獣を召喚できるように備えた。
見破られた。
レオはコンクリートの壁に響く大きな笑い声を上げて、頭を後ろにのけぞらせた。
「頼むから、その大げさな鎧を下ろしてくれよぉ! 一線級の決闘に精力を浪費する気はさらさらないんじゃないですか、こんな生徒相手に。むしろ……偉大な作品には同盟者が必要なんだよねぇ! キャストはまだ完成していないんだから!」
「同盟者?」
声を保ちながら問い返した。
「黒木と陰陽師が、この戦争でのお前の同盟者ではないのか?」
レオは何度も首を横に振りながら、遊び心のある軽蔑の表情を作った。
「ああ、違うんですよぉ! 陰陽師は黒木のおもちゃに過ぎないんじゃないですか。つまらない副次的な筋書き。私には私自身の動機があって、その安っぽいお人好しの流れに乗ることにしたのには、私自身のソロシーンの理由があるんでねぇ」
変数がすぐに解けた。レオは黒木の部下ではなく、利用していた。インフラと反乱を自分の方法論的な目的のために活用している。
レオは突然、喉を鳴らすように息を吸い込んで、作ったような真剣さを取り戻した。
「私の最終目的は……魔術師社会の完全な解体と絶対的な統一なんじゃないですか! うんざりしているんだよぉ! 忌々しい構造に、純血の血統に、七つの一族の馬鹿げた官僚的なルールに!」
「詳しく説明しろ」
眉を寄せながら要求した。
「"統一"で何を意味しているか、理解できない」
「魔術師が境界を越えることを望んでいるんじゃないですか」
レオの笑みが広がった。
「魔術師と人間社会を分断する壁を崩壊させたい。現実が融合する。秘匿の幕が落ちる」
これほどの愚かさを前に、全ての自信が崩れ落ちた。この計画は、僕の目から見れば異常以外の何ものでもなかった。
「それは論理的に不可能な計画だ」
軽蔑を隠さずに言った。
「現代の人間社会は、魔術の存在を受け入れるための精神的基盤も技術的準備も持っていない。制御システムは二十四時間以内に崩壊する。お前の計画は長期的視野を欠いている。人間の世界に僕たちの世界を暴露して、何を得る気だ?」
レオは反論を無視した。慇懃な見下しの笑みで、部屋の隅に向かって手を伸ばした。
「長期的な答えについては、共同主役に答えてもらうとしようじゃないですか……モニカ・ウィンターフォールを紹介するよぉ。根本的理論の真の芸術家。評議会の恐竜たち――七賢人――には誰一人、禁断の魔術に関する彼女のヴィジョンを理解するだけの視野がなかったから、自らアカデミーを離れたんじゃないですか!」
「禁断の魔術」という言葉を耳にした瞬間、アドレナリンと深い罪悪感が胸の中で入り混じった。自分自身の召喚術の実験と、自分の理論を構築するために参照した禁断の書籍のことを、即座に思い起こした。僕も、あの線を越えていた。
「その壮大な役の説明を……モニカ」
レオが一歩引きながら促した。
女が鉛のような遅さで一歩前に出た。虚ろな目が僕を捉えた。
「わたくしは……ただ、未知と繋がりたかっただけですわ……」
モニカが、哀愁に満ちた諦念を帯びた声で紡いだ。
「この世界には……もっと何かがありますわ……ヴェールの向こうに存在する気配が……でも、誰にも見えないかしら……傲慢な魔術師にも、不毛な人間にも……何年もの実践と孤立の末に……この存在面を引き裂いて、その次元に辿り着くための……独自の魔術の術式を……ゼロから組み立てましたの……でも、学術の方々が……不正行為だと……異端だと言ったのよ……エンディミオンの独房から逃げ出さなければ……ノートを破壊されていたかしらねぇ……人生を焼かれていたかしら……もう、何も関係ないですわ……」
レオが大きな拍手で彼女の言葉を遮った。
「そういうことなんじゃないですか! 誤解された精神の古典的ドラマ! もちろん私も独自の術式をゼロから設計しましたよぉ――ただし私のは、戦闘のための火工術と系統的な破壊の方に重きを置いていますがねぇ」
まるで冷水を頭からかけられたようだった。
自分よりも上の次元で遊んでいる二人の、均衡の取れた狂気の前に立っていた。術式を何もない状態から創り出すことは、現代においてほぼ誰にも成し遂げられない偉業だ。ずっと天才と信じてきた自分が、突然、小さく、取るに足らない存在に感じられた。しかも狂人二人に自分が超えられたという事実が、苦い怒りを燃やした――腸を焼くようなルサンチマンだった。
一方で、モニカの話は長期的な疑問に何も答えていなかった。むしろレオは、自分を勧誘しようとしているのが見え見えだった。
レオがゆっくりと近づいた。低い身長にもかかわらず、その存在感と圧力が空気に物理的な緊張を生み始めた。
「お前さんの貧弱な防御など、全部お見通しなんだよねぇ……お前さんは私の舞台経験と比べたら、まだ幼くて無防備な赤ちゃんに過ぎないんじゃないですか。隠すのはやめたらどうだい。みっともないよぉ」
反射的に一歩後退した。冷たい汗が首を伝うのを感じた。
「一体何が言いたい?」
声の震えを隠しながら問い返した。
「ドラゴンズベイン一族の古臭い匂いなんて、何キロ先でも分かるんじゃないですか!」
レオは衣の中から飾り紋章の入った杖を取り出した。
「お前さんが召喚術の魔術について普通ではない知識を持っていることは分かっている……その知識を私の偉大な作品のために要求するよぉ」
「何のことか分からない。普通の生徒だ」
否定した。
「下手な役者め! 最悪の演技だ!」
レオが忍耐を失った。素早い動きで杖を持ち上げ、銀の穂先を――僕に向けてではなく、真後ろの虚空に向けて――ピタリと合わせた。
「その背後に宿るあの巨大で怪物的な異常存在を、今すぐ姿を現せ!」
心臓が暴力的に跳ね上がった。血が凍り付いた。
……まさか……グレインが見えるはずがない……!
グレインの不可視化の術式はまだ起動中のはずだった。
「……なぜ、そこに何かいると分かる?」
完全に表情の制御を失いながら言った。
レオは奇妙な小さな笑い声を零して、サングラスを直した。
「古い文書で学んだ単純なトリックなんじゃないですか。物質界に絶対的に不可視の存在など存在しない。身体が質量を持ち、この次元に物理的に実在する以上、その分子的なシグナチャーは常に抵抗を生む。術式でその顔は見えなくてもいいんだよぉ。あの存在が立っている場所の、幾何学的な空気の歪みは完全にはっきり見えるんじゃないですか。暴かれているよぉ!」
反論と逃走経路を構築しようとした瞬間、グレインが先手を打った。
室温が極寒レベルまで降下した。そして大理石のように白い、統治者の威容が徐々に僕の背後に実体化して、隠密の術式を破った。その存在が現れただけで、部屋の照明が明滅した。
レオは一瞬硬直した。しかし即座に、本物の歓喜に顔が輝いた。
「素晴らしい! 崇高だ! 真の閾値の生命体!」
ほとんど涎を垂らさんばかりの興奮でレオが叫んだ。
「教えてくれよぉ、少年……この子の紋章称号は? どんな存在なんだい? この変数を私のシステムにインデックスしなければいけないんじゃないですか!」
その狂気の発作を利用して、状況の技術的な制御を取り戻そうとした。前に一歩踏み出して、優越の笑みを作り、腕を組んだ。
「これは僕が召喚した。主体的な指示に従う。その気になれば、今すぐこの地下室から消すことができる。だから言葉を選べ、レオ」
レオは称賛を止めた。グレインを見て、僕を見て、また晴れ晴れとした気狂いの笑い声を上げて、モニカの方へと歩き戻った。
「なんて可愛いんだよぉ! 少年は紐をしっかり握っていると思っているんじゃないですか! ドラゴンズベイン、召喚術の魔術の真の本質について少し解説させてもらうよぉ……背後のあの巨人は、忠誠心からでも真の共生契約からでもなく、お前さんに従っているわけではない。あなた方の間のエネルギーの流れは見えるんだよぉ……お前さんが使った正確な術式は分からないし、それについて推測するつもりもない。でも技術的なラインははっきり見えるんじゃないですか:それはただの魔力の引き綱だ! 召喚の術式による基本的な拘束に過ぎない。魂の契約はない。今すぐ私を攻撃しろと命令したとして……本当にその子が指一本動かすと思うかい? 試してみたらいいんじゃないですか! さあ、命令してみて!」
レオの挑発が、自分のプライドの中心に直撃した。
グレインとの繋がりの生々しい現実が、こんな形で晒された屈辱が全身を焼いた。結局のところ、ただの強制的な技術的繋ぎだった、嘘だった。焦りと、こんな二人の気狂いに劣った存在として見られることへの絶望に突き動かされて、グレインの方を向いた。
「グレイン! レオを攻撃しろ! 今すぐ消せ!」
グレインは動かなかった。腕を胸の前で組んだまま静止して、完全な無関心で場面を観察していた。魔力を通わせることなく、手を持ち上げることなく、ただ指示を完全に無視した。
「……何をしている?」
パニックと羞恥で頬が熱くなりながら言った。
「攻撃しろと命令した!」
グレインは深遠な沈黙を保った。
レオが嘲弄の拍手を鳴らして、屈辱の一秒一秒を味わいつくした。
「偉大な召喚士に幕を! この社寺での子供じみたゲームと秘密の任務はここまでにしたらどうだよぉ、ドラゴンズベイン。私の派閥に加わりなさいなんじゃないですか。お前さんの知識に潜む技術的な可能性は見えている。私の指揮の下では、お前さんの召喚術の魔術は無価値なゴミじゃなくなる。同盟者になれ」
レオが白い手袋を嵌めた手を差し伸べて、その気狂いじみた不快な笑顔で返答を待っていた。
手を見た。床を見ているモニカの無気力な瞳を見た。背を向けているグレインを見た。
その瞬間、これまでの人生で最も深い屈辱を経験した。完全に劣った存在だった。自分が届きすらしないレベルで遊んでいる優れた精神たちの前に、剥き出しにされたゴミのように感じた。論理が崩れた。何も意味をなさなかった、何も計算式に当てはまらなかった。罠の中にいた。
その時、グレインの深く荘厳な声が部屋の沈黙を破った。意識の内側と室内の空気の両方に同時に共鳴した。
「召喚者よ。汝の生存変数に最も適う選択を取られよ。我は汝の理性の冷静さを信ずるなり」
グレインの言葉が、意識を完全に白紙に返した。
思考が行動に追いつく前に、身体が純粋な生存本能で動いた。前に踏み出して、腕を伸ばして、レオの手をしっかりと握った。
「素晴らしい! 正主演への格調高い採用だよぉ!」
レオは熱狂的に手を振り回した。
「正しい決断をしたことを称えるよ、新しく尊重すべき同盟者よ……ええっと……お前さんの名前は?」
「龍牙だ……」
抑揚を殺して言った。
「ああ! 龍牙、覚えたよぉ」
何も感じなかった。精神的な麻酔が全体を包んだ。自分の手とレオの手が絡み合っているのを眺めながら、地下室の騒音も、魔力機械の唸りも、全ての声も、遠い残響に退いていくのを感じた。
なぜ今、アカデミーの敵を助けているのか、なぜ世界の境界を破壊しようとする狂人と手を組んでいるのか、整理できなかった。憎悪、恐怖、野望、そして彼らが持つ知識を得たいという純粋な必要性が、全部が一度に混乱して渦を巻いていた。
突然、重い手の圧力が現実に引き戻した。
顔を上げると、レオがサングラスの縁越しに真剣な軍人のような表情で僕を見ていた。笑顔は消えていた。
「よし……契約を結んだ以上、幕を上げる時だよ。初の技術的任務を準備してある、龍牙。よく聞いてくれ」
機械的に頷いた。反論を形成できないまま、レオが最初の作戦指令の詳細を説明し始めた。
数分後、彼とモニカは作戦室を後にして、湿った地下室の薄闇の中に僕を完全に一人残していった。頭は爆発寸前で、自分がまだ把握しきれていない裏切りの重さが、肩の上に静かに、確実に乗っていた。
* * *
日々が過ぎるにつれ、現実はまるで嘘と裏切りの迷路へと変貌した――そして、その迷路を自分の手で設計しているのは、ほかでもない僕自身だった。
レオの指示に従い、黒木と源次の両者に対して二重スパイとして動いていた。表向きは交差破壊工作の遂行者。陰陽師の部隊に向けて偽の手がかりを流し込み、連中の包囲網へ誘き寄せる。夜になれば今度は逆に、人間の位置情報を魔術師たちへ漏洩させ、奴らを間引かせる。どの決断を下すたびに、どの報告書を改竄するたびに、口の奥で重たい苦みが広がっていった。
……自分に言い聞かせていた、ね。これは必要な変数だって。レオを踏み台にして自分の凡庸さを超え、エンディミオンに己の価値を証明するための布石だって。
でも本当のことは、頭の中でいくら取り繕っても塗り潰せなかった。
みじめな裏切り者だ、と。
人間の命を駒として扱い、自分自身の種族をも欺き、自分で張り巡らせた嘘の網の中で身動きが取れなくなっている。それが今の僕だった。
ある午後、堪えきれなくなって部屋に鍵をかけた。唯一、手の届く場所に「制御」という感覚を残してくれるものに縋りたくて――僕の手稿だ。召喚理論の幾何学体系を組み直そうと試みた。術式の構造に完全な連結点を与える「失われた鎖」を探し求めて、ペンを走らせようとした。だが数式も魔方陣の紋様も、視界の中でただ意味もなく踊るだけで、指先まで届いてこない。心底、疲れていた。
そのとき。
扉を叩く音が、乾いた急迫感を帯びて響いた。
返事をしなかった。誰かを相手にするだけの精神的な余力が、もう残っていなかった。
だが音は止まらなかった。やがてそれは激しく苛立たしい連打に変わり、僕の忍耐の最後の糸を断ち切った。
「――誰だよ!? うるさいな、放っておけ!!」
立ち上がって怒鳴った。両の拳が自然と握り締まっていた。
返事はなかった。
代わりに、紙が擦れる音が静寂を裂いた。
扉の隙間から、一通の封筒が滑り込んできた。
近づいて、床から拾い上げた瞬間――心拍数が跳ね上がった。
それは公式の意匠が施された封筒だった。封蝋には紋章が押されている。アカデミーの使い魔が極めて重大な事案においてのみ手配する、緊急通達だった。あのクラスの使い魔が、生徒の居室にわざわざ届けに来たということは、つまり――システム全体が何らかの崩壊を起こしたということだ。
指先が、冷たい汗でじっとりと濡れた。
蝋を割り、紙を広げて、硬い筆致の文字列を目で追った。
――世界が、止まった。
『北部市街区における事件報告……春花・ナイトシェイドが陰陽師工作員による奇襲を受け、魔力切断による重篤な損傷を確認。現在、魔術師中央病院にて予断を許さない状況……』
肺の中で、空気が凍り付いた。
胸の中心に、何か固く鈍い塊が叩き込まれたような感覚があった。現実そのものに、暴力的に突き返されたみたいに。
――春花。
記憶が溢れ出てきた。図書館で向き合った彼女の眼差し。あの挑むような声。まるで、子供の頃に父さんが手を繋いでくれていたときのような、世界がまだ安全な場所だと信じられた頃のような、説明のつかない温かさが彼女の存在にはあった。
この荒廃した空間の中で、たった一人だけ僕を対等に見てくれた人間だった。目を逸らさずに、僕の執念に真正面から向き合ってくれた人間。
その人が今、重傷を負っている。
死の淵にいる。
理解した瞬間、胃の底に途方もなく重い何かが沈殿していった。
……僕だ。
僕がやった。
報告書を改竄したのは僕だ。レオの覚えを良くしようとして、あの駒を動かしたのは僕だ。自分の惨めな自尊心に目を眩まされて、自分の手で彼女へ続く道を切り開いてしまった。あの魔力切断の手甲が彼女に届いたのは、僕のせいだ。
罪悪感が、酸のように内臓を焼いた。
傷つけたのは僕だ。
自分の唯一の場所を、自分の手で壊したのは僕だ。
部屋の陰でじっとしていたグレインが、僕の完全な崩壊を察して近づいてきた。普段の紋章的な荘厳さを、はじめて静かに脱ぎ捨てて。
「龍牙よ……。汝の魔力流が崩壊しつつある。感情の揺らぎが魔力の経路を損傷させておる。中枢を安定させよ。彼の女がまだ息吹を持つならば、その死という変数はまだ封じられてはおらぬ。破滅を選ぶにしても、時を誤るなかれ」
答えられなかった。
膝が折れた。
床板に崩れ落ちて、通達書を胸に掻き抱いたまま、視界が歪んでいくのを止められなかった。涙がこぼれ落ちた――どうしようもない無力さから来る、惨めな、惨めな涙が。
戦略家でも何でもなかった。天才でも何でもなかった。
自分が唯一「どこかに属している」と感じさせてくれた人を、自分の手で刺した化け物だった。
そのとき、僕の内側で何かが暗く芽吹いた。重くて黒い思考の塊が、痛みの底から静かに育ち始めた。
――もう、世界は理論を試す盤面じゃない。
自分だけの地獄だ。
* * *
それからの日々は、完全な自己放棄の中に沈んでいった。
部屋に鍵をかけた。授業には出なかった。食べなかった。陽の光を見るのを拒んだ。天井を眺めながら何時間も横になり、自分が触れたものはすべて壊れると繰り返し呟いた。
やがてグレインが、しびれを切らしてベッドの端に立った。
「その女の技術的な状況がそれほど汝を苦しめるのであれば、中央病院に侵入する能力を行使すべきであろう。汝はこの都市の地形を把握しておる。直接確認せよ。この消耗的な自壊のループを閉じるために」
「……無理だよ」
掠れた声だった。視線はグレインに向けなかった。
「権利がない、さ。僕があの子のデータを売った張本人なんだ。その僕が、のこのこと顔を出すなんて……ね。相応しくない。資格もない。全部台無しにする天才だから、僕は。最初から」
グレインは盛大な舌打ちを、古語の中に上品に封じ込めた。
「……それは感情的な非論理の塊に過ぎぬ、龍牙。誰かの存在を強く欲するとき、"権利"などという変数はすでに意味を失っておる。生命体は許可によってではなく、意志によって動くものだ。自己憐憫に溺れることをやめよ」
聞きたくなかった。
寝返りを打って、背中を向けた。グレインの顔も、その論理も、すべてを遮断した。
それでも鬱は深まり続けた。時間が過ぎるほどに。息をするのも億劫になってきた頃、グレインの忍耐がついに限界に達した。
唐突に、衣服を鷲掴みにされた。
ぼろきれの人形みたいに、ベッドから引き剥がされた。窓が轟音とともに開け放たれ、次の瞬間には外の虚空に投げ出されていた――宿舎の屋根よりも高い場所へ、再び。
でも、今度は何も感じなかった。
眼下に広がる虚空を見下ろしても、かつて理性を砕いていた眩暈が来なかった。ただ、平坦な無関心があるだけだった。
その無反応が、グレインの怒りを爆発させた。
銀色の双眸が軽蔑の光を帯び、その声が空気を震わせた。
「――我を失望させるな、龍牙!! 汝の存在の原子一粒に至るまで、失望させるな! 汝は詐欺師に成り下がったのか!? 境界を書き換えると豪語した召喚術士はどこへ消えた!? 試練の前で膝を折る臆病者が、何が"理論の再構築"だ! 意志のない廃棄物めが!!」
罵倒が降り注いでも、痛くなかった。
むしろ、言葉の一粒一粒がどこか正確で、反論する気も起きなかった。
ゆっくりと頭を上げた。彼の目を正面から見た。腕を持ち上げて、力のない手でその腕を掴んだ。
「……ごめん、グレイン」
声が、風に溶けていった。
「本当は……お前を目標にして召喚したわけじゃなかったんだ、さ。証明したかっただけだよ。自分の理論が完璧だって。ドラゴンズベインが何者かだって。でも……これだけ勉強して、これだけ積み上げて……近づく人間を片っ端から壊してきて……もう、これは叶わないって分かった。手の届かないところにある、さ、ずっと。だから……せめて、ね。お前に一つだけ正しいことをしてあげたくて。ずっと付き合わせた。僕の惨めな駄々に、ずっと」
グレインの目が、微かに細まった。
「……何を企んでおる、龍牙。愚かな真似をするな」
聞かなかった。
学術的な記憶を引き出し、数週間前に発見した禁断の術式を呼び起こした。
「絆の切断方法を見つけた」
宣言した。静かに、はっきりと。
「お前をもとの位置に戻せるほどの技量は僕にはない……でも、レオが言っていた魔力の綱を断ち切る方法なら知ってる。もうお前の自由を縛らなくていい」
「――止めよ! 龍牙、止まれ!!」
グレインの声が、初めて揺れた。
無視した。
呪文の解呪詞を、一息で唱え始めた。残り少ない魔力を自壊シーケンスへと解き放ちながら。
グレインは一瞬の判断で、手を開いた。
落下した。
それでも詠唱を止めなかった。高度が削れていく感覚の中で、言葉を積み重ねた。
――衝撃の直前、何かが轟音とともに降下して、僕を両腕で受け止めた。芝の直前で、速度が殺された。
「この狂気を止めよ、少年!!」
グレインの声が、震えていた。肩を掴む手が、僅かに。
「聴けい! 汝は敗れたのではない、ただ方位を見失っただけだ! 汝の存在にはまだ幾多の変数が残っておる!! このような愚行は必要ない!!」
もう遅かった。
最後の音節を口にした。
淡い青の魔方陣が足元に広がり、無音の衝撃波となって空間を押し広げた。
その瞬間、胸の中心で何かが割れた。
魔力の綱が、ではなく――もっと深いところにある何か。現実と自分をつなぎとめていた最後の構造が、鈍い確定的な痛みとともに、ぷつりと切れた。
グレインが、僕をゆっくりと芝の上に下ろした。
魔力の摩擦が全身を焼いていた。でも、気にならなかった。
仰向けのまま視線を上げた。
石の巨人が、眼前に立っていた。僕を見下ろしている。その表情に、初めて見るものがあった。
深い、苦い――哀れみ。
本物の、哀れみだった。
「……そんな目で見るな」
喉が詰まった。腕を額に押し当てて、その視線を遮断した。
「見るな、さ……もうお前には関係ない。行けよ。自由だろ。僕の惨めさに付き合う義務は、もうどこにもない。さっさと行け」
沈黙が落ちた。
しばらくの間、腕を目の上に置いたまま、重い足音が遠ざかっていくのを待った。
やがて、それは来た。重く、荘重な足音が、少しずつ、少しずつ遠ざかっていった。感覚の届く範囲から、グレインの気配が消えた。
一人になった。
本当に、完全に、一人になった。
どれだけそうしていたか分からない。時間が計量的な意味を失った暗がりの中で、芝の湿気だけが背中から伝わってきた。
草が軋む音が耳に届いたのは、そのときだった。
軽い足音が、こちらに近づいてくる。
「まあまあ……」
声だった。
女の声だった。澄んでいて、明るくて、旋律みたいに滑らかで――今の僕の聴覚神経には刺激が強すぎた。
「なんて光景かしら。こんなに晴れた夜に、こんなに悲劇的な絵を見るなんてね」
顔を出さなかった。腕を額の上に置いたまま、遮断した。
「関係ない話だ」
吐き捨てた。
「用がないなら消えろ。攻撃してほしくなければ、ね」
「まあ、随分な口の利き方」
くすりと笑った。高くて澄んだ音で。こめかみの奥が疼いた。
「礼儀という概念、どこかに置き忘れてきたのかしら、あなた」
「礼儀なんてものに価値は感じない、さ」
返した。
「消えてくれ」
「ふうん……助けの手を差し伸べましょうか、とも言えるのだけれど」
「誰の手も要らない。そんなもの必要としていない」
「嘘ついてる」
一言だった。
「あなたの目、矛盾してるもの。誰かに割り込んでほしくて堪らないくせに、その全部を自尊心で塗り潰してる。そういう人、私は見分けられるのよ、ね」
口を開こうとした。返す言葉を探した。
でも声が出てこなかった。
静寂が続いた。足音が遠ざかる気配もない。そのまま何分か待って、僕の筋肉がじんじんと痺れてきた頃、とうとう腕を動かした。
顔を出した瞬間、視界に飛び込んできたものに体が跳ねた。
至近距離に、顔があった。
一人の少女が僕の顔を覗き込んでいた――それも、鼻先が触れそうなほど近くで。
「っ……!!」
慌てて後退した。芝の上を転がるように距離を取りながら、袖で目元を拭った。
「誰だ、お前!?」
防御の仮面を急いで引っ張り出しながら叫んだ。
「何のつもりだ!? 放っておけと言っただろう!!」
僕はゆっくりと体を起こした。
「放っておけない、ね。私の観測眼が言ってるもの――あなたは今、非常に面白い変数だって。放置するには惜しい異常値よ」
「面白い変数……?」
「そう。だから、助ける」
「いらないと言った」
「嘘だって言ったでしょう、さっき」
歯を噛んだ。
それから彼女が立ち上がった。その瞬間に気づいた。
木製の杖が、一本。
左足が、地面を踏む動作をしていない。
視線がそこに固定した。彼女はすぐに察した――でも怯まなかった。むしろ、にこりと微笑んだ。
「一年前、魔法の獣――いえ、魔獣だったかしら――と戦ったときに、生体的な機能を失ったのよ」
歩行杖で床を軽く叩きながら、涼しい顔で言った。わざと曖昧に、半分冗談のように。
「……それは嘘だ」
即座に返した。
「魔法の獣はマジクスの世界にしか存在しない。熟練の魔術師が召喚しない限り、この場所に出現することはありえない。矛盾してる」
そこで一瞬、言葉を切った。
「……もし本当に魔獣だったなら話は別だ。魔法の獣は、召喚者が熟練した調教師なら制御できる。だが魔獣は違う。あれはただの獣ではない。存在そのものが異質で、制御も共存もできない。魔法の獣が「飼える」ものだとすれば、魔獣は「災厄」だ。出現そのものが恐怖であり、世界の秩序を揺るがす」
彼女は笑った。
声を上げて、腹の底から、楽しそうに笑った。
「随分と速い結論ね。データを全部集める前から断言するなんて……あなた、せっかちなのかしら」
……言葉が止まった。
鋭かった。論理の構造として、正しかった。
本当に僕は、ずっとそうだったのか。「聴く」前に「断定する」だけの、傲慢な子どもだったのか。
「私の名前は、セシリア・エンバーストロム」
軽く頭を下げた。
エンバーストロム。脳内の参照データベースを走らせた。
「エンバーストロム一族は、両目の周囲に先天的な刻印を持つ。お前の顔にはそれがない、ね」
「右目が義眼だからよ」
にこっと笑った。
「それと左目には、刻印を隠すために自作のカモフラージュ用コンタクトを使ってるの。追跡を避けるための自衛措置ね。だから技術的には、身元は今もシークレット」
判断を保留した。今の僕には、資格証明を精査するだけのエネルギーが残っていなかった。
「……話は終わりだ。失礼する」
振り向いて、建物の陰へ向かおうとした。
「全部見てたんだけどね、私」
足が、止まった。
ゆっくりと振り返った。偏執的な警戒心が再起動した。
「……"全部"とは、どの範囲の話だ。明確に言え」
「あの巨大な存在と一緒に、芝の上にいたところ。あなたが宙に浮かされたところ。複雑な術式を行使して、繋縛の線を断ち切ったところ。解除の瞬間まで、全部ね」
知らず、息を吐いた。
変数の危険度は低い。レオや陰陽師との裏工作まで見ていたわけではない、さ。グレインとの最後の場面だけだ。作戦上の機密は守られている。脅威ランクは現状、低い。
「……片目しかないくせに、よく見てる、ね」
皮肉を込めた。鋭く、意識的に。
「一対の目で見えないものを、残った一つで見ることがあるのよ」
と彼女は言い、それから声を上げて笑った。
「あ、そういう意味じゃなくて? 嫌なやつ」
腹が立つ。腹が立つのに、彼女の論理は一ミリも乱れない。
そして彼女は杖を頼りに、こちらへ近づいてきた。
正面に立って、一つしかない本物の目で、僕を見た。
「あなたの中に……何かある。今の理論では説明できない何かが。でも私の直感が言ってる――ここで一番面白い変数は、あなただって。だから目を離せない」
「……何が目的だ、セシリアさん」
直接的に聞いた。
「回り道は嫌いだ。言いたいことがあるなら言え」
「私には最後の扉の鍵がある」
彼女の声のトーンが、少しだけ変わった。
「全体の最終局面を開ける、要の一手ね」
「詩的な表現は要らない。具体的に話せ」
「分かったわ」
すんなりと折れた。
「ある人物を紹介したいの。ここの外にいる人間よ。その人の記録を辿ることでしか、この戦争の本質と……あなたの理論が目指している場所の正体が、見えてこないから」
「誰かに会う気はない」
彼女は、退かなかった。
ただ、真っ直ぐに僕を見続けた。
その距離で、その一つの目で。
気づいたら視覚情報が自動的に処理されていた。顔の輪郭が、柔らかな円弧を描いていること。構造が、均整として美しいこと。
……美しい。
非科学的な、馬鹿げた語彙だと思っていた言葉が、なぜか今夜に限って精度の高い表現として浮かんできた。
長い息を吐いた。
「……分かった。提案を受け入れる、さ」
ぶっきらぼうに言った。
「ただし条件がある、ね。その人物は技術的かつ論理的な回答を用意していること。これ以上の謎めかしたやり取りには付き合わない」
「保証するわ」
セシリアは微笑んだ。
杖を突いて、先を歩き始めた。
夜の庭の闇の中、セシリアの後を追いながら――気づかないまま、世界の変数が次の再配置を始めていた。
――失ったものは、
もう戻らない。
それでも、
人は前を向かなければならない。
裏切り。
赦し。
そして、
最後の決意。
次回――
決別
少年は、
自らの運命と向き合う。




