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囚われの子と歪んだ赦し

世界には、


知らないことがあるのではない。


知らされていないことがある。


常識だと思っていたもの。


歴史だと信じていたもの。


そのすべてが、


ある日突然、


覆されることもある。

その名が石造りの壁に反響し、まるで振動が止まることを拒む鐘の音のように地下室へと響き渡った。


「……サロモン?」


思わず、その名を呟いた。空気が一瞬、肺から消えたような気がした。本当に一秒だけ、胸の内側が真空になった感覚。記憶の書庫を猛スピードで漁り始める。当然、知っている。人類の初歩的な歴史書でも、普遍的な神話体系でも、扉を一枚開けさえすれば辿り着ける名だ。賢明な王。伝説の男。指輪とアルス・ゴエティア悪魔のあの御仁さ。けれどそれはまさに、そういう話だ。人間の神話、有限な存在たちが自分自身の無知を慰めるために捏ね上げたロマンティックな幻想。一族の記録にも、どの魔術書にも証拠は存在しない。魔力という才覚において生物学的に不毛な生き物である人間が、どうやって歴史上初の魔術使いになれるというんだ? 技術的に意味をなさない。美学的に、不条理だね。


二度、瞬いた。


脳が情報の処理を拒んでいた。耳から入ったその言葉が奇妙すぎて、意識の内側で噛み砕かれることを拒絶しているような感覚。なのに現実は動かない。グレインは今ここにいて、その銀の目が薄闇の中で静かに光っていて、冗談を言っている顔ではまるでなかった。


「汝の混乱は、誤りに満ちた歴史の反映に過ぎぬ、少年よ」


グレインは長い杖の握り頭に両手を重ねながら、そう声に出した。その声には一切の起伏がない。盛り上がりもなく、くぼみもない、平坦な岩盤のような声だ。


「汝が立つこの世界の実相を汝の小さき脳髄が受け入れられるよう、我は必要な欠片を与えよう。よく聴くがよい。人間とは、汝らの種族が持つような生来の魔術を持たぬ……しかし彼らはその内に、別の何かを宿している。だがその何かもまた、我が持つ魔術とは異なるものなり」


「ああ、なんと素晴らしい!」


つい苦い笑いが零れた。額の血管がそのままはち切れるんじゃないかと思った。


「何一つ言っていないに等しい詩的なお言葉! 謎かけで話すのが楽しいのかい? 説明しろよ、グレイン! 『持っているが持っていない』とは何事だ、馬鹿げている!」


グレインは動揺の欠片も見せなかった。ただ、銀の双眸が微かに細くなった。


「黙れ」


声量は一デシベルも上がらなかった。それでも、その絶対的な静けさと言葉の重さが足に直接来て、膝が震えた。純粋な身体反応として、一歩、後ずさっていた。恐怖が口を閉じさせた。


「我が時代の人間の魔力は、血脈から生じるものではなかった。それは生物学的な属性ではない。道具から生まれるのだ。神器から。我が手にするこの杖があってこそ、我は現在の次元を歪め、操る力を持つ。これなくば、汝の目の前にあるのはただの空の器に過ぎぬ」


視線が吸い込まれた。彫刻が施された木材、見覚えのないルーン群。……ふうん。そういうことか。人間の魔力は生来のものではない。持って生まれるものではなく、物質的な媒介者に依存している。母さんの術式を無効化した、あの圧倒的な力。それはひとえに、グレインが手に持つそれのおかげというわけだ。


しかし一つの技術的疑問が解けた途端、頭の内側に遥かに深い亀裂が走った。人間たちが自力で魔力を生み出せないというなら……その原始的でありながら馬鹿げて強力な神器は、一体どこから来た? 誰が作ったんだ? 間抜けにしている暇はない。


「では、その道具はどこから来た? 魔力の先行源なしに魔術の道具などゼロから作れるはずがない。誰が造ったのか教えろ」


グレインは長い息を一つ吐いた。目を一瞬伏せた。まるで理解の遅い幼子を教えることに忍耐を試されているような、そういう顔だった。


「汝は些末な細部への固執が著しいな、少年よ」


それだけ言って、少し沈黙した後、銀の目で見えない何かを見通すようにじっと見つめてから続けた。


「我が杖の如く、それを持つ者へ術の恩恵を与える神器は、かつて幾つも存在した。しかしながら、それら遺物の現在における所在は、我にとって完全なる謎なり。時間の澱の中に沈んでしまったのだろう。故に、息を無駄にするな。その点については問うな」


腕を組み、思考を走らせた。頭の中に魔術師一族が広がる。

アッシュフォードも、グリムストーンも、ナイトシェイドでさえも……紋章工芸、秘儀鍛冶、特定の用途のために魔力を蓄積・増幅させる宝飾の専門家たちだ。グレインの神器も、おそらく原理的には似たような工学の産物のはずだ。ただし、それが原初的で純粋な極限にまで押し進められた形で。それでも依然として、エネルギーの出所が説明されていない。杖は確かにチャンネルだ。しかしそのチャンネルを流れる魔術の源泉は何だ? 一次エネルギー源はどこにある?


「それはチャンネルの話だね。源の話ではない。その杖はどこから力を引き出している? エネルギーの種類は?」


グレインはゆっくりと首を横に振った。その顔には、荘厳で冷たい静けさが張り付いていて……本当に、静かな恐怖が胸の奥から這い上がってくる感じだった。


「汝は我が行使する術の真実を知る準備がまだ整っておらぬ、少年よ。強要するな。本質的に言えば、汝の血脈に漲る力と我が道具を養う力は、根源からして異なるものなり。我が境界の起源を汝の現代的な理論で理解しようとすれば、汝自身の精神が先に砕けるだろう」


唇を噛んだ。誇りを飲み込んだ。彼から滲み出る、揺るぎない優越のオーラ。それが物理的な障壁のように、実際に足をすくませる感覚を生んでいる。引き下がるしかなかった。その忌々しい疑問が脳内でずっとかゆくなりながら。あの銀の杖に、一体どんな種類の魔術が潜んでいるんだ?


沈黙は、母さんの方へ視線が落ちた瞬間に終わった。


まだ床に倒れたまま、意識を失っている。最初の焦りが少し戻ってくる。手当てしなければならないが……正直なところ、体育の授業を毎回サボってきたツケがここで回ってきた。一人でどこかに運ぶ体力は、ない。グレインをちらりと見た。誇りをほんの少し吞み込んだ。


「おい……動かせ。一人じゃ無理だ。ソファにちゃんと横にするの、手伝え」


意外にも、グレインは反論しなかった。その細身のシルエットからは想像できない鮮やかな力で、母さんを持ち上げ、サロンへ運び、クッションの上に丁寧に横たえた。


それが終わった後、壁に背を預けた。重い混乱が体全体にのしかかってくる。これからどうすればいい? 学校の未来を自分で潰した。母さんにとってはほぼ犯罪者扱いだ。そしておまけに、サロモンの時代の歴史的異常存在を召喚することに成功してしまい、その存在はただその場に立っているだけで脅威になっている。なんと美しい状況だろうね、本当に。自分への拍手を忘れずに。


グレインが振り向いた。まるで僕の思考の散乱具合を表情から読み取ったかのように、あの抑揚のない声で提案を投げてきた。


「一つ取引を提案しよう、召喚者よ。外に出ることを望む。我が目でこの世界が幾千年のうちにいかに変容したか、直接見届けたいのだ」


「……外に? 今?」


思わず眉間に皺が寄った。


「夜の散歩に連れていく気は、さらさらないね。外にあるのは人間の道路と安っぽい街灯だけだ。出るつもりはない」


「汝にとって益のあることなり、少年よ」


グレインが少し視線を傾けてこちらを見た。


「外を探索する間、情報を収集することを意図している。そして、その情報は……もし汝が手札を上手く切るならば、汝が寝室であれほど切望しているものへの道を切り開くことになるやもしれぬ」


こちらを極端に疑惑の目で見た。夜の住宅地の散歩で「情報収集」? どんな神秘的な論理だ? 即座にグレインの意図を疑った。このゴシックな外套の下に何かを隠している。


グレインはその不信感を察知したようで、数歩こちらに寄ってきた。距離が詰まり、背中が壁に押しつけられる形になった。声が一段低くなった。


「もし共に探索するならば……我の魔術の性質についてもう少し示すことができるやもしれぬ。さらには……この付近に古い神器の振動が眠っている可能性も、我の感知はある。汝の渇望しているものは、それではないか?」


冷笑が出た。目を細めた。


「ふざけるな、グレイン。『可能性』とか、『あるいは何かを見つけるかもしれない』なんて空虚な約束一枚で一歩も動かないね。そこまで馬鹿じゃない」


グレインが止まった。初めて、魔力ではなく構造を評価するように、こちらを見た。若さと明らかな不安定さの奥に、相当な精神的な柱があることを読んだのだろう。幻惑的な誘惑では動かない相手だと理解した顔だ。


何も言わず、ゆっくりと背を向けてサロンの大きな窓の方へ歩いた。夜の外、公道の街灯がアスファルトを照らしているのを見つめながら。


「理解した。汝は確率には動かぬ。具体的な行動と有形の結果を求める存在なり」


……ぞくっとした。こちらの存在様式をこれほど正確に定義されると、奇妙な感覚に陥る。見透かされている感覚。嫌いだ。


「今この都市を探索することを求める本当の理由は」


グレインは窓から視線を離さずに続けた。


「単なる好奇心の充足ではない。現在の流れのデータを収集する必要があるのだ。我は汝の意識が処理できぬ知識と知覚を持っている。外を歩くだけで、我にはこの時代の構造が解読できる。だから歩きたいのだ」


一息置いて、僅かに頭を回してこちらを見た。


「しかしながら……現在の我は汝に縛られている。汝の術式と魔力によって呼び寄せられた。境界における絶対の魔術則が我を汝の近傍に縛り付けている。故に……汝が隣を歩いてくれることを要するのだ」


――ようやく分かった。


グレインが真に意図することが、剥き出しになった。あの曖昧な申し出も、間接的な提案も、全部、召喚術の縛りという純粋に技術的な制限から来ていたのだ。魔力の紐で繋がれた犬のように、僕の傍を離れられない。未解決のままなのは、なぜそんなに急いで情報を集めたいのか、ということだ。この現代都市の構造を理解することに、何の目的があるんだ?


……でも、疑問と危険を天秤にかけてみれば。一緒に出れば、サロモンについてもっと引き出せるかもしれない。あの術式を間近で観察できるかもしれない。科学的に許容できるリスクだ。


「……分かった。勝ちだよ、お前の」


わざとらしいため息をついて、上着の襟を整えた。


「出る。でも大前提として。この辺りの一周だけだ。家と母さんから遠ざかる気はない。もし妙なことをしたら、召喚術の縛りを使って止める。分かったか?」


グレインは一ミリだけ頭を傾けた。冷たい礼の身振りだった。


「それは受け入れ可能な条件なり、召喚者よ。感謝する」


ポケットに両手を突っ込んで、玄関の扉へと歩き出した。盤面は今、家の外まで広がった。そして盤上で最も危険な駒の隣を歩くことになった。


* * *


真っ暗な、まるで棺の中のような夜の下を歩いていた。


都市の音はほとんど消え、虫のざわめきと街灯の低い電気音だけが残っていた。グレインは隣で緩やかに歩き、銀の目で空気を走査するように周囲を見回していた。まるで歩くだけで情報を収集しているかのようだった。だが僕の目に映るのは、退屈な住宅地——同じ外観、並んだ車、安い街灯ばかりだった。


――こいつは一体何を見ている?


自分が見えないものを彼が捉えているという事実に、ちょっとした知的な屈辱感があった。


突然、グレインが足を止めた。長い杖が地面から一ミリの空中で静止した。


「遥か先に、何かの存在を感知する」


視線は大通りの闇に固定されたまま、そう言い放った。


「そこへ向かい、確認せねばならぬ、召喚者よ」


「ちょっと待て」


すかさず腕を組んだ。


「一周だけと言っただろ。家の範囲から出るつもりはない」


「そこへ向かうことは極めて重要なり」


グレインは主張した。その厳かなトーンには反論の余地を与えない何かがある。


「そこに何かが待っている」


「だったら先に説明しろ!」


我慢の糸が細くなる。


「気配なり。我が完全に認識できる振動がある。この時代においてその何が残るか確認したい」


……また例の感染症が血管に入り込んできた。好奇心という名のウイルス。グレインが――サロモンの時代の存在が――その魔力のサインを識別できるというなら、技術的含意は計り知れない。歴史の切れ端かもしれない。禁断の知識の断片かもしれない。


そのまま、グレインの沈黙に導かれる形で前に進み続けた。歩いた。歩いた。永遠のように歩いた。幹線道路を渡り、住宅街を後にして、丘の麓の森の中に入り込んでいた。道が傾斜し始めた辺りで、脚が燃えるように熱くなった。肺から空気が逃げ始めた。身体が完全に限界を訴えていた。


「汝の肉体的耐久は嘆かわしいな、少年よ」


グレインが横目でこちらを一瞥しながら言った。疲労のカケラも、その堂々たる立ち姿のどこにも存在しない。


「その魔力は騒がしいが、汝の肉体的容器は最も基礎的な鍛錬すら欠いている」


「黙ってくれないか!!」


膝に手を突いて、息を荒げながら言い返した。歯を食いしばった。


「どれだけ歩くか分かっていたら別の心構えできてたね! 家から半県分歩くなんて聞いてないから! こっちをバカにするな!」


グレインはただ鷹揚な身振りで黙れという意味の手を上げた。そして杖の先で前方を指した。


ようやく、目的地に着いた。


木々の合間に隠れるようにして、一つの伝統的な社の構造が立っていた。入口には朱色の大きな鳥居が立ち、そこから長い石段が暗闇の中の主殿へと続いていた。


「ここなり」


グレインがつぶやいた。目は頂上に固定されている。


「ここに、その奇妙な脈動が集中している」


体を起こして上着を整えた。一歩踏み出して確認しようとした。ところが、足の靴が最初の石段に触れたその気持ちの良い瞬間、社の暗闇の奥から、落ち着いた成熟した声が響いてきた。


「誰ぞ? この深更に訪ねる客人は珍しい」


戦闘本能が即座に体を緊張させた。一歩下がり、警戒態勢を取りながら、階段を静かに降りてくるシルエットを観察した。男だ。非常に特異な古風で儀礼的な衣装を着ている。広い肩の着物に、時代劇から抜け出したような冠に似た頭飾り。


すぐにグレインを見た。統治者が状況を掌握するか、あるいは構えるかと期待したが……彼は飾り物のように完全に静止したままだった。男に向き直り、技術的な一点に気づく。この男の目の向き。こいつにはグレインが見えていない。統治者は視覚的な存在感と霊的なサインを隠蔽し、召喚者である僕の目にだけ存在している。


唾を飲んだ。上着を整えて、驚きを内側に閉じ込め、男の方に一歩踏み出し、完璧な冷静さで嘘をついた。


「夜分に失礼します。不眠がひどい時に外を歩く癖がありまして……ここなら少し手を合わせていけると思ったんですよ。夜の静けさが頭を整理してくれる気がして」


男はこちらの作り話をすんなり飲み込んだようだった。険しかった表情が和らぎ、温かく穏やかな微笑みが顔に広がった。石段を降り切って、数メートル先に止まった。


「なるほど。暗闇の中に平静を求める内省的な魂でございますな」


広い袖の中で手を合わせながら言った。


「自己紹介を。私は土御門 源次と申します」


そこから、源次は穏やかな抑揚で話し始めた。そのリズムはまるでお経を詠んでいるようだった。社の創建について、稲荷神について、神使の狐たちについて、信仰がいかに迷える現代人の心に秩序と守護と浄化をもたらすことができるか……全て、神秘的で救済的に聞こえるように選ばれた言葉で紡がれていた。どこかの宗教団体の勧誘員の話し方に段々似てきた。


「失礼ですが、土御門さん」


遮った。目を細めながら、その衣装を指さした。


「その服装は……社の管理に必要なものなんですか?」


「これはねえ」


源次は穏やかな誇りを持って着物の前を撫でながら微笑んだ。


「単に社だけのためではございません。私は陰陽師、陰と陽の術を収める者でございます」


……深い、凄まじく深い憐憫と見下しの感情が全身を走り抜けた。陰陽師の伝統については人間の歴史書で読んだことがある。ただの迷信的な人間たちに過ぎない。紙切れと空虚な儀式にしがみつき、現実を変える本当の魔力を持たないために霊的エネルギーの歪んだ幻想を舞台として演じる、凡庸な死すべき者たちの集まり。無知な大衆のための美学的な欺瞞だ。


でも今は、何か使えるものが引き出せないか確かめるために付き合う。


「陰陽師が2099年に?」


思わず皮肉な笑みを漏らした。


「今の技術文明の中で何をする人なんですか?」


「私どものみちを世界へ広めることでございます」


源次は忍耐を失わずに答えた。


「現代はさまざまな文化に開かれております。この都市も、その土地本来の伝統を持ちながら、私どものような他国の流れを受け入れ融合してくださいました。だからこそ、この社の建立が許されたのです。魂の流れというものは、地理的な境界を理解しませぬゆえ」


……眉間に皺が寄った。それで何を言いたいのかよく分からなかった。源次は鳥居の奥を見つめながら続けた。


「今日の陰陽師は、主として道標であり語り部でございます。古の教えを伝え、見えないものに意味を求める者たちへの橋渡しをすることが、私どもの使命なのでございます」


「……それで満足しているんですか?」


声から、意図せず棘が出た。


「それだけのために、そこにいることに満足を? ただ、その神話語りの集団の一員であることに?」


源次は真っ直ぐこちらを見た。再び、あの絶望的に落ち着いた微笑みを浮かべながら。視線を夜空へ逃がし、木々の隙間から差す星々を眺めて、満足のいく息を一つ吐いた。


「はい。このみちを歩み、この知の系譜を帯びていることに、後悔はございません。もちろん、人の生は常に穏やかなものではございませぬ……生活も維持せねばなりません。昼間は市内でありふれた事務仕事もしております。陰陽師としてこの教えに携わるのは、余暇の時間でございます」


目が一ミリだけ開いた。固まった。


このただの人間が、昼間はグレーの事務所で働いて、休み時間に古い伝承の衣をまとって……それでも、こんなにも完全に、深く、何かの一部として自分を感じている。ひとつの伝統を。アイデンティティを。誇りを持って抱えている。


僕は一族に拒絶されたマジクス・テラだ。母さんには理解されない。どちらの世界にも居場所がない、完全な宙吊り状態で浮いている存在。それなのに、この単純な人間の事務員は、宇宙における自分の場所を持っている?


怒りと、嫉妬と、もっと深いところからくる痛みが、急速に何かを変質させた。


「なるほど。感動的な二重生活のお話でした」


切り捨てるように言いながら、くるりと背を向けた。


「家に帰らないと。夜も遅すぎる。おやすみなさい、土御門さん」


「若人の帰路を精霊たちが照らしてくださいますよう」


その変わらない穏やかさで言う声が背後から届いた。


歩幅を速めた。丘を下り始めた。ポケットに拳を埋めた。顎が固まっていた。胸の中で燃え上がる、形のない鈍い怒り。グレインは一言も喋らなかった。ただ後ろから数歩の距離で、沈黙のまま夜の深闇の中を追ってきた。まるで怒りの番人のように。


* * *


玄関を開けた瞬間、家の沈黙が破れた。


母さんが起きていた。起きているどころではなかった。顔は青白く、目は赤く腫れていた。廊下を行き来して……そして僕の姿が見えた瞬間、叫びも怒鳴りも来なかった。ただ走ってきて、腕を回して、力ずくで抱きしめてきた。


体が固まった。両腕がだらりと下がったまま。


こういう種類の温かさへの対処法が、理論に入っていない。頭の中が一秒、白くなった。でもその瞬間は、処理が終わる前に消えた。肩越しに、母さんの目がドアの外から入ってくるシルエットに固定された。体が弓弦のように張りつめた。母さんがこちらを押しやって、背中に隠す形で前に出て、杖を抜いた。グレインの胸に、真っ直ぐ照準を合わせた。


グレインは瞬きすらしなかった。


「!!あれは何!?」


母さんの声は恐怖で割れていた。杖の魔力がスパークしている。


「名乗れ! 息子から離れろと言ったはずだ! 何をした! 答えろ!!」


グレインは完全な沈黙を保った。その要求を言葉一つで受け取ることを、ただ拒んでいた。


「母さん、杖を下ろして!」


前に出ようとした。


「こいつの力のスケールが分かっていない、話を――」


「黙りなさい、龍牙!!」


母さんの怒鳴り声が、こちらを完全に遮断した。グレインから目を離さないまま。


グレインが喋った。その目はこちらを見ていた。


「望むならば、召喚者よ……この状況は我には極めて容易に変えることができるなり」


あの淡々とした声が、血を凍らせた。


杖が母さんの首元に向いた光景が。あいつは今、母さんを消すつもりなのかと思った。根本的に問題を解決するために。


「!!駄目だ! 何もするな!」


グレインに向かって叫んだ。焦りが声に滲んだ。


「傷つけることは禁止する! 触れるな!!」


グレインは少しだけ視線を逸らし、退屈そうに言った。


「この時限的な縛りを個人的な欲求で断ち切る意思は我にはなかったなり。この人間が試みる攻撃が、我に懸念をもたらすこともない」


その言葉が母さんの怒りに火をつけた。自分の家で見くびられる屈辱がパニックに変わった。


「出ていけ!!」


激しいトレースで、杖から魔術の炎が放たれた。グレインを包み込んだが……炎は彼の皮膚に触れた瞬間、無意味な火花へと溶け崩れた。その衣装にさえ、一本の繊維も焦がさなかった。母さんは次々と術式を重ねた。光の閃光、魔力の乱打がグレインの体を何度も叩いた。全てが水滴が岩に触れて砕けるように消えた。


グレインは一ミリも動かなかった。杖を地面に立てたまま、嵐の中の灯台のように静止していた。その目がこちらを向いた。


「もう一度だけ告げる、龍牙よ……我の望む通りにするか? この女を落ち着かせることは、我には容易なことなり」


胃の中で何かが裏返った。グレインに過剰な力を使わせたくなかった。でも母さんはもう聞いていない。今まで一度も聞いてくれなかった。いつも母さんのルール、母さんの恐怖、母さんの検閲。年月をかけて積み上げてきた憤りと絶望が、一点に集まって決壊した。


「やれ!!」


術式の爆音の中でグレインに叫んだ。


「何でもいいから落ち着かせろ! 話を聞かせてくれ!!」


グレインが頷いた。一回。杖を数センチ持ち上げて、床に一度打ち付けた。透明な静かなエネルギーの波が部屋を横断した。


母さんの動きが凍りついた。杖が手から落ちて、床でチリンと音を立てた。グレインがゆっくり近づいた。右手の人差し指の先を、母さんの額に当てた。


「汝の子孫の言葉を聴け」


催眠的な振動を帯びたその声が響いた。


「真に望むことを。心を覆う恐怖を脱ぎ捨て、その言葉が汝の判断を変えることを許せ」


指を離し、二歩下がった。一切の疲労がその顔に存在しない。


「成った。汝の看守は、今や話を聴く準備ができたなり」


完全に固まった。その光景を見て。


母さんは動かない。両腕が下がったまま。視線は虚空。目が、僅かに見開かれ、焦点が合っていない。壁を見ている顔だ。まるでマネキンのように、まるで意志を抜き取られた器のように。


「……何をした?」


グレインに向かって、声が震えていた。


「生物的損傷はない。意識の抑制と変容の術式なり。その意思は一時的に休眠し、汝の命令を受容できる状態となった。鎖を断ちたかったのなら、今が好機なり、召喚者よ。言いたかったことを言え」


内側で戦争が始まっていた。


目の前に黄金の機会が転がっている。アカデミー・エンディミオンの許可書。父さんの魂に近づくための鍵。ずっと求めてきたものが、一言で手に入る。でもその値段は……自分の手で、自分の母さんの意識を侵食した見知らぬ暗い術式だ。技術的に理解すらできないそれで。


吐き気がした。自分に対して。


でも振り返れば、失敗したら明日、魔術師がここに来る。選択肢がない。これを使わなければ、どのみち終わりだ。近づいた。喉のつかえを飲み込んだ。強制的に声を安定させた。


「母さん……行かせてくれ。アカデミー・エンディミオンに入る許可書にサインしてくれ。寮に移りたい」


「……そう……してあげる。許可を……あなたに……」


「僕のことに、口出しするのを止めてくれ」


続けた。握りしめた拳が震えた。


「研究を邪魔しないでくれ。ノートに触れないで」


「……そう……しない……」


「グレインは……敵じゃない。攻撃しないでくれ。誰かを呼ばないでくれ」


「……攻撃しない……誰も……呼ばない……」


言い終わった時、肩の力が一気に抜け落ちた。頭が下がった。床の木目を見た。


頬が、温かかった。


いつの間にか、泣いていた。なぜ泣いているのか技術的に説明できなかった。望んでいたものを手に入れた。のに。床が濡れていた。勝利と自己嫌悪と吐き気が、分解できない形で混ざっていた。


「術式の流れが終わった」


グレインが横で告げた。


「指示は彼女の精神の深層に刻まれた。以降、その意識は新たな変数の下で機能する」


その瞬間、母さんの目から空白が消えた。数回瞬きして、頭を揺らした。夢から覚めたように。焦点が合ってきた目が最初に捉えたのは、床に向かって泣いている僕の姿だった。


何も言わなかった。また近づいてきて、抱きしめた。


今度は振り払わなかった。


* * *


翌朝、重い体と飽和した頭で階段を降りた。サロンの入口で足が止まった。


母さんがいた。でも一人ではなかった。一人用のソファに、黒いフォーマルスーツを着た二人の男が座っていた。完璧に仕立てられた外套、銀のバッジには紋章学的なエンディミオンの徽章。エンディミオンの魔術師だ。


母さんが立ち上がった。その顔は奇妙に静かだった。昨晩の術式の余波が張り付いている。


「龍牙、ちょうど良かった。このお二方と話していたのよ。実は、あなたへの申請書類を私が手元に留め置いていたことを打ち明けたの。私自身の恐怖のせいで、あなたがアカデミーに行きたいという気持ちをずっと阻んでいた。身勝手だったと思う」


センターテーブルに歩み寄り、紙を一枚取り上げた。こちらに差し出した。


公式の入学許可書。消えないインクで書かれた、彼女の筆跡のサイン。エンディミオン行きの切符だ。


二人の男が同時に立ち上がった。洗練された礼をした。


「お会いできて光栄です、龍牙さん」


先頭の男が口を開いた。


「私どもはアカデミー・エンディミオンの採用・入学セクターの担当者でございます。学期の導入期間が始まったばかりのこの段階でも、あなたの技術プロファイルは即時編入の条件を完全に満たしております――お気持ちが変わっていなければ、の話ですが」


内側で引き裂かれていた。目標は達成された。書類は手の中にある。担当者が目の前にいる。道は開いている。でも何一つ、美しくなかった。全部、母さんの意識を操作することで買ったものだ。灰の味がした。


それでも、担当者に向き直って、冷たい視線を保った。


「行きます。いつでも」


「では直ちに転入手続きに移らせていただきます」


二人はもう一度礼をして、書類手続きのため退室した。


夢が叶った。でも完全に空だった。これ以上考えて自分の知性を壊してもしょうがないと判断し、部屋に戻った。本棚から召喚魔術の本を取り、着替えを数枚、まっさらなノートを数冊、大きなトランクに詰め込んだ。


部屋の空気が突然冷えた。グレインが戸棚の横に現れた。上着を機械的に畳む作業を黙って観察している。しばらく、布の擦れる音だけが流れた。


「その面持ちは一体何故なのだ、少年よ?」


グレインがついに言った。


「汝は駒を操り、手形を手に入れ、答えへの道を開いた。誇らしく見せればよかろう、いつもの如く」


「お前に関係ない、グレイン」


上着をトランクに放り込みながら、切り捨てた。


グレインは軽く鼻から息を漏らした。でも追及は止めた。窓へ移動して、地平線を眺めた。


「左様か、召喚者よ。いずれにせよ、汝の嘆きの背景に、我は関心を持たぬ。真に関心があることは一つ……汝の同時代人たちが築いたという、あの有名なアカデミーを実際に見てみたいということだ。この時代の魔術がどれほど強固か、見届けてやろう」


* * *


午後、アカデミーへの移動は灰色で無音の遷移だった。


電車の中、母さんはずっと視線を床に落として、両手をしっかりと膝の上で組み合わせていた。昨晩植え付けた精神的な指令が今も深層で動いていて、反論を窒息させていた。周辺駅で降りて、アカデミーまで数分の徒歩になったところで、母さんは目の前の建物の前で足を止めた。ファストフード店だった。


「龍牙……少し待って。何か持たせてあげる」


頷いた。店内に入っていく背中を見送りながら、欄干に寄りかかった。周囲を人間の波が流れていく。全員、平凡な一般人だ。生物学的に魔力に不毛で、日常の引力に引かれた魂たち。誰一人として、隣の人物が魔術師だと看破できる能力を持っていない。


その無知を眺めながら、別のことが頭の中を這い回り始めた。自分はここに属しているのか? 一族のエスタブリッシュされたセクターに入れるのか? それとも、人間の凡庸さと純血の魔術的な卓越さとの間の虚空を、永遠に漂い続けるのか?


思考が強制的に中断された。


遠くで、何かが生物的な警報を鳴らした。


一人の老人が、歩道の真ん中で動かずに立ちながら、こちらを見ていた。段々と近づいてくるにつれて、その奇妙さが都市環境の中で際立って増した。擦り切れた麦わら帽子が顔の上に深い影を作っている。白くて長い、でも整えられた顎髭。ひどく薄い、ほとんど霊的に見える白い麻の着物。木のサンダル。肩から粗いキャンバス地の鞄。


数メートルまで近づいた時、空気の質が変わった。右目は白く濁り、完全に見えていない。しかし左目は異常なほどの鋭い明晰さを放っていた。


「何かご用ですか?」


警戒を表に出さないよう、緩い態度を装って尋ねた。


老人はすぐに答えなかった。複雑な機構を解読するような遅さで、こちらを分析した後、口を開いた。


「見える……」


ぞくりとした。


「何が見えると? 時間がないんで、奇抜な話は結構ですよ」


「お前の魂が……」


老人は一歩前に出た。背中に一筋の冷たいものが走った。一歩、距離を取った。


「見える……」


精神が壊れた人間だ。


「一分だけ」


老人は節くれた手を伸ばしながら言った。


「お前の中にあるものを、話す時間を。一分だけ」


「結構です。放っておいてください」


背を向けた。


「悪いものを抱えている」


老人が声を上げた。足が止まった。


「古く、寄生する力がお前の肩に張り付いている、若者よ。核から食われている。影の中にそれが振動するのが見える」


振り返った。怒りが戸惑いを押しつぶした。


「狂っていますか? よそで迷惑かけてください」


「狂っている、そうだ……そのものを取り除かねば手遅れになる前に、という狂いならばな」


老人は白い目を固定した。グレインがいないはずの場所を。でもグレインは今、ここにいないはずだ……それなら何を見ている?


ただのスピリチュアル系の老浮浪者だ。


「財布は持っていないんで、他を当たってください、お爺さん」


「報酬など要らぬ。ただあれをお前から剥ぎ取ることを許してくれ」


老人がもう一歩前に来た。それ以上、この奇妙さに付き合う理由がなかった。全力で背を向けて、ファストフード店の出口へ向かった。


ちょうど母さんが出てくるところだった。クラフト紙の袋を持っていて、揚げ物の匂いが漂っていた。


「……今持ってあげられるのは、これだけ」


震える手で袋を差し出しながらつぶやいた。


「十分。行こう」


重く、暗い沈黙の中を歩いて、アカデミー・エンディミオンの入口が視野に入ってきた。守衛の詰め所、かつての生活との技術的な境界線。母さんはそこで足を止めた。最後のの抱擁。今度は昨晩のような衝動的なものではなかった。冷たく、決定的な別れの感触だった。


「……ごめんね」


耳元でつぶやいた。


「前に、もっとあなたの話を聞いてあげればよかった」


固まったまま。目はまっすぐ鉄の門を見ていた。


その言葉は、本物の後悔なのか。それとも、精神の深層に刻み込んだ合成の反響なのか。その問いが、温かさの欠片全てを無効化した。


腕の中から抜け出した。顔を見なかった。詰め所に歩いて、封印された入学証明書を当番の守衛に渡した。彼が端末でデータを確認し、装置を動かした。重い鉄の門が、紋章的な軋み音と共に開いた。


振り向かなかった。


くぐり抜けた。


中に入った瞬間、エンディミオンの壮大さが拳のように打ってきた。コロッサルなキャンパス。時間の中に意図的に閉じ込められた建築群。ゴシック様式の石造りの構造、天に向かって伸びる紋章的な幾何学の塔、大気安定化のルーン文字が彫り込まれた外回廊。ここのあらゆるものが一つの過去の時代を漂わせていた。現代世界の美学に対して断固として屈服を拒む、絶対的な知識の砦。


自分の目的地として完璧な場所だ。


入学事務係が正面玄関ホールで受け入れ、樫材の事務室を案内し、所属書類、機密保持契約書、魔力登録を次々と処理した。終わったら寮の鍵を渡されて、まず担任に挨拶に行かなければならないと告げられた。


「龍牙さん、こちらが担任のセイラス・ナイトシェイドでございます」


私室のドアが開いた瞬間に視界に入ってきた男。異常に背が高く、貴族的な佇まい。後ろへ完璧に撫でつけた黒髪。一分の隙もない儀礼的な外套。一秒で査定する目線がこちらに来た。


即座に分析した。こいつは「魔術師の掟」の原理主義者だ。系譜と礼節が力量を決めると信じている旧来の教義の信奉者で、祖先の教えに盲目的に従う人間だ。


初日から技術的ミスを犯したら速攻で敵になる。


……でも皮肉を嚙み殺した。入学初日に担任を敵に回すことは方法論的に不合理だ。一礼した。時間割についての一連の訓話を聴き、練習された礼で受け流した。


寮への帰り道、廊下を観察しながら歩いた。制服組の生徒たちが低い声で談笑しながら通り過ぎる。中央の中庭では上級生たちが素子ベクトルを描いて、制御された炎と風が練習用の柱に炸裂していた。


廊下の空気温度が急降下した。グレインが隣に現れた。一般生徒の目には透明なまま、銀の息のように滑らかに。


「認めざるを得ぬ、召喚者よ」


丸天井を検分しながら言った。


「この集落の防衛構造は設計として受け入れられる水準にある。石のほぼ全域に潜在した魔力の波動を感知する。うまく流れを誘導したのだ」


「そう?」


ほぼ聞こえないほど小声で返した。


「何が一番印象に残った?」


「人間だ」


グレインが平然と言い切った。一秒、足が止まった。建築の魔術的構造の話をしていたはずが、生物学的変数に飛んだ。


解読する価値がない気がして、直すことはしなかった。


突然、廊下の空気が変わった。流れが乱れた。遠くから何か、存在そのものが空間を再定義するような気配が近づいてきた。周囲の生徒たちの視線が一方向に向いた。


女子が一人、歩いてくる。


その存在感だけで、空間に貫録が広がっていく感じがした。冷たく、成熟し、精密で。近くにいた二人の生徒が声をひそめて話していた。


「……彼女だよ。アッシュフォード一族の天才、ダミラ。現在、外部の高難度犯罪事件を自ら主導して調査中だって話だ」


「知ってる。幼少期に上位階級の二人の魔術師の間で起きた魔術的殺人を、純粋な紋章的演繹だけで解決したらしい。怪物だよ」


胃の中が酸っぱくなった。胸に、鋭く腐食性の嫉妬が刺さった。ダミラが通り過ぎる際、こちらには視線を向けなかった。角を曲がって消えた。


……エンディミオンはあういう連中で埋め尽くされているのだ。各一族の頂点から派遣された先天的な天才たちが、自分たちの生来の優越と才能を廊下に展示して歩き回っている。残りは背景装飾。吐き気がする美学だ。


部屋に入った。トランクをベッドに投げた。嘆くために時間を消費する気はない。荷物を一気に整理した。


セイラス先生が触れていた――エンディミオンの中央図書館は社会全体の最重要知識の目録を持っている。失われた理論の登録、創始者の魔導書たち。それが今日の本当の目的だ。


北翼へ向かった。図書館のアーチをくぐった瞬間、予想外の静けさに迎えられた。コロッサルで、驚くほど人のいない空間。重くて耳が鳴るような沈黙。完璧だった。雑多な生徒たちの静電気的ノイズがない空間での集中力は絶対的になる。


召喚魔術と霊的絡み合いのセクションまで黒い樫材の棚の回廊を歩いた。特定の一冊を探しているわけではない。三冊の分厚い一般理論の本を手に取り、索引を走査し始めれば十分だ。


隅の席に座った。しかしページを開こうとした瞬間、視覚的な乱れが視野の端に走った。


顔を上げた。


北壁のステンドグラスの光を受けた席に、一人の女性が座っていた。


冷たく、成熟し、精密な品格が空間に張り付いている。どうしても視線が向いてしまう。もう一度テキストに戻ろうとした。でも何かの固定の力が、繰り返しそちらへ目を引き戻した。


彼女は読書に完全に没入していて、左手の掌に顎を乗せて、髪が完璧な対称で肩に落ちていた。


集中力の欠如への苛立ちが、決意に変わった。不明変数は解消するのが方法論的に正しい。立ち上がった。彼女の席まで真っ直ぐ歩いた。目の前で止まった。


「こんにちは。龍牙・ドラゴンズベインと申します。本日、編入しました」


女性は動かなかった。まつ毛すら上がらなかった。グリモワールのページを読み続けていた。まるで空気と話しているようだった。


頭に血が上り始めた。手の中の召喚術のテキストをシールドのように握り直した。


「召喚術の体系の有効性について、このセクターで教えられているものに対して、技術的な見解はありますか?」


より鋭いトーンで切り込んだ。


ようやく。ゆっくりと、女性が紙から目を上げた。顔を持ち上げた。


目が合った瞬間、内臓に物理的な衝撃が走った。大気圧がマイクロ秒で二倍になったような感覚。その視線が持っていた分析的な密度が、ただごとではなかった。


「いつからそこに立っていたの?」


声は冷静で旋律的だった。


「……約三分、だと思います」


咳払いで不快感を隠した。


「失礼しました」


女性は突然、本をぱたんと閉じた。乾いた残響が図書館の静寂に響いた。


「読書中は外部からの刺激が、システムから消滅してしまう傾向があります。集中力の欠点です」


椅子の中で少し伸びをして、細い指を机の上で組み合わせた。


「春花・ナイトシェイドです」


自己紹介と同時に、視線が手元の本のタイトルに落ちた。


「……ドラゴンズベイン一族……召喚系の文献を持っている。まさか召喚純魔術の研究に時間を費やすつもりではないでしょうね?」


「時間を費やす?」


血が即座に沸いた。アパシーの膜が剥がれ落ちた。


「基礎的な芸術の一つだね。数学的複雑性を軽視しないよう勧める」


「複雑さは十分承知しています」


春花は肘を机に突きながら、あの見下した微笑みで答えた。


「だからこそ、無駄だと言っています。現代の召喚魔術は実用的なセクターをカバーするには十分に標準化されている――使い魔の契約、運搬の獣、低ランクの精霊など。その限界を超えて進もうとするのは、学術的な自殺です」


「できる!」


「何のために? 魔力チャンネルを破壊した状態で老い、不完全なノートを棚に残して、次の誰かにその失敗の後始末をさせるため? 不毛な分野です」


「祖先が定めた限界に臆して引き下がる凡庸な頭の人間の結論だね」


本を机に強く叩きつけた。重低音が返ってきた。知的な優越感を感じた。


春花は感情のない乾いた笑いを出した。まるで妄想を抱いた虫を眺めるような目で。


「何という予測可能な傲慢さ。現代の一族の歴史において、精神が崩壊することなく一つの平面に膨大な変数と詳細を同時に取り込める者など、誰もいません、ドラゴンズベインさん」


「境界の法則は理解に到達できない者たちにのみ適用される」


身を乗り出した。目を燃やした。自信が傲慢と紙一重のところにあった。


「残差を隔離すれば、召喚された存在は次元的なアンカーを失い、環境……あるいはあなた自身を食い尽くすことになる。それが考慮外?」


「コンテナが平面の法則を上回る契約を強制できる精神力を持てば、実行可能です」


応じた。自信が絶対確信に近いところで言い切った。


春花が立ち上がった。グリモワールを荒々しい動作で閉じて、腕に抱えた。図書館の静寂が一瞬揺れた。その顔が、完璧な論理に屈服を拒む者への冷たい憤怒に変わっていた。


「あなたは傲慢で分別のない人物です、ドラゴンズベインさん」


宣言して、背を向けた。


「系譜的実践の欠如を慰める幻想に浸っていればいい。その自信がいつ現実によって砕かれるか、見届けましょう」


中央の回廊を速い足取りで去っていった。


一人になった。


立ったまま。呼吸が少し乱れていた。拳が握られていた。


腹が立っていた。あの女の傲慢さに対して。しかし怒りの層の下に、新しい技術的な疑問群がゆっくりとかゆみを持ち始めていた。


壁の影をちらりと見た。グレインが沈黙の中で待っているのが分かった。誇りを飲み込んだ。


このくそみたいな場所に、証明すべきことがある。

――知識だけでは、


人は前へ進めない。


理解したいもの。


追いかけたい真実。


そして、


初めて見つけた居場所。


次回――


居場所


その出会いは、


少年の運命を大きく変えていく。

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