観測者が戦場に立つ日
人は、
変わろうと決めた瞬間から、
新しい試練と出会う。
過去を受け入れ、
誰かを信じ、
前へ進もうとしたその先で、
運命はまた、
新たな問いを突きつける。
……目が覚めた瞬間、何かがおかしいと気づいた。
エンバーストロム邸の絹のシーツでもなく、いつも私を守ってくれる冷たく計算された魔力でもない。生きているような温かさが、全身を包んでいた。規則正しく、穏やかに。鼓動の音が、耳のすぐそばで聞こえる。
ゆっくりと目を開けると、庭の薄暗さが少しずつ晴れていって――そして、頭が一瞬だけ完全に白くなった。
一人じゃない、のね。
体は地に伏したまま、力が抜けきっていた。頭が直接エレノアの膝の上に乗っていることに気づいた瞬間、止めきれなかった涙の跡が頬に張りついて、乾いていることも同時に知った。
反射的に体を起こしていた。数メートル後ずさりながら、床の上をチュニックの裾を引きずって下がっていた。呼吸が乱れる。目がエレノアの姿を、端から端まで走った。
……私は、何をしていたのかしら。
あの人の膝で眠っていた。防壁を下ろして。別の一族の魔術師の前で、完全に無防備になって。これは戦術的な失態なんかじゃない――致命的な脆弱性よ。なぜ遠ざけてくれなかったの?なぜここに残っていたの?
姿勢を整えようとしたけれど、手が目に見えて震えていた。いつもなら鈴を転がすように滑らかなはずの声が、出てこない。欠けたような、割れたような音しか出なかった。貴族の優越感など、どこにも残っていなかった。
「これは……これはとても重大な礼儀の欠如ですわ、エレノアさん」
拳をスカートの上で握りしめながら、絞り出すように言った。
「エンバーストロムがこれほど……非効率な感情の暴露を、あなたの前で許してしまうなんて。どんな精神的な操作を、あるいはどんな魔力の周波数を使ったのかしら?私が……こんなふうに反応するはずがないのに」
エレノアは動かなかった。ただ、長い時間ここで起きていたことで痺れた足を伸ばしながら、私を見ていた。その目には裁くものが何もなかった。ただ、静かに、包み込むような何かがある。柔らかい微笑みが、その唇に浮かんだ。
「仕掛けなんて何もなかったわよ、楓」
冷えた夜気を撫でるような、柔らかい声だった。
「ただ、疲れていたの。あなたの年齢で、一人で背負うには重すぎるものを、ずっと一人で抱えてきたのよ。泣くことに、礼儀の欠如なんてないわ。心がもうこれ以上、その冬を耐えられないって言ったときに涙が流れるのは、当たり前のことなのよ」
「エンバーストロムに冬なんてありませんわ!」
気づいたら叫んでいた。子供みたいな、必死な声だった。唯一残った鎧に、爪でしがみつくような。
「私たちは盤面を支配する。変数を解析する。情愛も、感情も――それは判断を曇らせる弱点のはずよ。でも……なぜ、痛いの?なぜ、何もかも持っているはずなのに、ここにこんなに空洞があるの?他のみんなが持っているもので、私が生まれた瞬間から与えられなかったものって、なんなのかしら?」
かつて相手を動揺させるために使っていた修辞的な問いかけが、今は自分の胸に向かって飛んできて、答えを求めながら突き刺さっていた。どんな情報報告も、この問いには答えてくれない。自分でも気づかないまま言葉にしていた、深い孤独の亀裂が、今、声になって出てきていた。
エレノアはゆっくりと床を滑るように近づいてきた。触れることを強制せず、一メートルのところで止まって、じっと目を見てくる。指が自然な動きで、私の顔にかかった髪を払った。あまりにも当たり前の、母親みたいな仕草だった。胸の奥で、何かがきつく絞られる感覚がした。
「泣いたのよ、楓」
エレノアの声に、断罪はなかった。ただ、事実だった。
「たくさん泣いて。それから眠ったの」
……私が?
エンバーストロム一族の跡取りが。冷静な観察者が。隙のない戦略家が――泣いた?
でも、記憶がじわじわと戻ってくる。エレノアの腕。無条件の愛という言葉。自分の鎧が完全に砕けていく感覚。……本当だった。泣いた。迷子の子供みたいに泣いて、エレノアがずっと抱えていてくれた。
「あなたの一族で何を教えられたかは知らないけれど、情愛は計算できる変数じゃないわ、楓」
エレノアが言って、手のひらを上に向けて差し出した。穏やかな、招くような仕草だった。
「戸惑っているのはわかる。カイトがあなたのことを心配しているのも。世界がひどく敵意に満ちた場所に見えていることも。今日は何も決めなくていいのよ」
言葉が来なかった。
「なぜ……なぜ気にかけるの?」
やっと出た言葉は、それだった。声が微かに揺れた。
「なぜこんなことをしてくれたのかしら」
エレノアは少し頭を傾けた。深く、温かく、見すぎたものを知っているような目で、私を見ていた。
「あなたに必要だったから、楓。あなたを見て――本当の抱擁を一度も受けたことのない子を見て。どうしても、いられなかったのよ」
胸の中で何かが、じわりと温かくなった。感謝、とは違う。少なくとも、知っている戦略的な感謝ではない。もっと深くて、もっと根源的な何か。ずっと探していたものをやっと見つけた子供が感じるような、あの渇望に近い何か。
「でも……なぜ?」
繰り返してしまった。声がもう、ほとんど囁きになっていた。
「あなたにとって、私は何でもないわ。何も渡していない。何も、これを受け取る資格を証明していない」
エレノアは柔らかく笑って、指が引き続き私の髪を撫でた。
「愛される資格を証明するために、何かをする必要はないのよ、楓。それが、あなたにはわかっていないことなの。愛は取引じゃない。勝ち取るものでも、失うものでもない。ただ、与えるの。理由なんてなくて」
その言葉が、どこか深いところに刺さった。鍵みたいに。ずっと閉まっていた扉を開ける、鍵みたいに。愛は取引だと、ずっと信じていた。忠誠と恩恵の交換だと。対価なしに存在する愛など、考えたこともなかった。
「どうすればいいか、わからないわ」
認めていた。震える囁きで。
「どうやってそうなればいいか、わからない。どうやって……計算せずに感じればいいのか」
エレノアは無限の忍耐で私を見ていた。今すぐ答えを出すことを求めていない目で。
「今わかっていなくていいのよ。全部の答えを持っていなくていい。ただ、学ぼうとする気持ちがあれば。試してみようとする気持ちがあれば」
目を閉じた。また涙が来そうだったけれど、今度は痛みの涙じゃなかった。何と名付けていいかわからない何かで――希望に似た何かで、目の奥が熱くなっていた。
「だから……あなたに、一つ提案があるの。仮面なしで話せる友達が必要なら、私がなれるわ。そして、あなたの心が母親のような安らぎを求めているなら……それも、なれる。あなたが望む何でも、楓。もう一人でいなくていいのよ」
エレノアが禁断の方言で話しているみたいだった。契約と相互利益の取引しか知らない頭が、すぐに罠を探した。ヴィクターとのものみたいな協定。
「なぜ……?あなたは技術的に何の利益を期待しているの?私に何をしてほしいのかしら、そんな申し出の対価として」
「何も望んでいないわよ、楓」
エレノアが小さく、温かく笑った。
「どうしてもそうなってしまうの。誰かが自分の迷宮に閉じ込められて、静かに苦しんで、暗闇の中で迷っているのを見ると――心が、背を向けることを許してくれないの。ただ、あなたに元気でいてほしいだけよ」
「……もしできなかったら?」
声が、糸一本くらいに細くなっていた。
「もし冷たすぎたら?壊れすぎていたら?」
エレノアが強く抱きしめた。体の温かさが、約束みたいに包んでくる。
「なら、一緒に作り直していくわ。一欠片ずつ。一粒の涙ずつ。一人でしなくていいのよ、楓。もう二度と」
何かが、ほどけた。ずっとずっと縛られていた何かが。見られている、という感覚――本当の意味で見られている、エンバーストロム一族の跡取りとしてでも、いずれ長になる者としてでもなく、ただ楓として。それが一体どんな感覚なのかを、今初めて知った気がした。
しばらくして、静寂の中で小さな音がした。陶器が床に触れるような、鈴を転がすような音。
目を上げると、小さな磁器の人形が、生き物にはあり得ないしなやかさで動いているのが見えた。
「私はリリウム」
「えっ、あっ、えっと……楓です」
リリウムがゆっくり近づいてきた。磁器の足が、ほとんど床に触れないくらい優雅に。私の前で止まって、その目――ほとんど人間みたいな目――が私を見た。胸の奥で、また何かがきゅっとする。
……動く人形。話す人形。何をしようとしているの?何を望んでいるの?
小さな手が上がって、私の指の上にそっと置かれた。磁器は冷たかった。でもその仕草は、あまりにも意図的で、あまりにも意識的で――世界が、その周りだけ止まったみたいだった。
「楓」
リリウムの声は鈴のようで、でもどこか別の時代から来た知恵を帯びていた。
「悲しんでいるわ。でも、ずっとそうでいる必要はないの」
その言葉の刺さり方に、瞬きをした。
「楓の魔力はとても美しくて、輝いているわ。でも、ひどく張り詰めている。今にも切れそうな糸みたいに。エレノアは嘘をつかない。エレノアが私に心の話をしてくれたとき、命は分かち合うほど美しくなると教えてくれたの。盤上の女王でいる必要は、いつもはないのよ、楓。時には、お菓子をもらうただの子供でいることが、それだけで十分なのかしら。受け取ることを、許してほしいの」
見透かされていた。仮面の向こうを、制御の層の向こうを。これほど澄んだ目で、見られたことがなかった。
「どうして……どうして悲しいとわかるの?」
自分の声が、変に聞こえた。存在してはいけないものと話しているみたいで。
リリウムが頭を傾けた。ガラスの目が、磁器の奥から来るような光で輝いた。
「なぜなら、私もかつて悲しんでいたから。エレノアが見つけてくれる前に。感じることを教えてくれる前に。最初はみんな、悲しいのよ。でも痛みは終わりじゃないと、やがて知る。始まりに過ぎないのかしら」
波みたいに、言葉が打ち寄せてきた。何年もかけて積み上げてきた防壁を、根こそぎ持っていくみたいに。磁器でできた、魔法の魂を持つ存在が、これほど単純に深いことを言える理屈が、私の頭には処理できなかった。
「あなたがそんなふうに感じられるなんて、理解できないわ」
リリウムが微笑んだ。あまりにも本物の微笑みで、世界の輪郭がぼやけた。
「感じることが、私たちを本物にするのよ、楓。涙は弱さじゃない。あなたが生きているという、数多くの証の一つなのかしら」
涙がまた流れてきた。今度は止めなかった。押し寄せる感情の波に任せた。流れる一粒ずつが、鎧の一枚ずつを剥がしていくみたいで、その跡に何か新しいものが入る余地ができていく。
「ありがとう、リリウム」
囁いていた。
……もう、バルコニーから世界を眺めているだけはいやよ。歩く情報報告書にはなりたくない。誰かに見てほしい。楓として。エンバーストロム一族の未来の長としてではなく。これを受け取りたい。意味はまだわからなくても。
リリウムが静かに離れていった。磁器の足が、ほとんど音を立てずに。その後ろ姿を見ていたら、自分の中で何かが変わったとわかった。名付けられないけれど、確かにそこにある何かが。
エレノアがまた強く抱きしめてくれた。体の温かさが、離れないという約束みたいに包んでくる。
長い、厳かな沈黙が降りた。
鼓動はまだ少し乱れていたけれど、もう誇りからではなく、自分自身の自由から来る決意で、青白い手をゆっくりと伸ばして、エレノアの手の上に重ねた。結びつきを、受け取った。
「私……今、何をすれば良いのか、わからないわ、エレノア」
頭を下げながら、打ち明けた。髪が自由に落ちて、肩の力が完全に抜けた。
エレノアが指を絡めて、私の手をしっかりと守るように握った。体をほんの少し傾けながら、また腕の中に包んでくれた。今度は穏やかな、成熟した委ね方で。
「今決めなくていいのよ、楓」
エレノアが無限の優しさで言った。
「期待も、要求も、何もないわ。ただ扉を開けようとしてくれた、それだけで十分なの。残りは……一緒に、一歩ずつ見つけていきましょ」
抵抗しなかった。腕が私を包んだ瞬間、初めてエンバーストロム一族の跡取りのふりをしなくていいと思えた。目を閉じて、額をエレノアの肩に預けた。ずっとそうなるように作られてきた、その形を、少しでも消せるみたいに。
その瞬間、世界にずっと見せてきた、硬く計算された姿が消えた。残ったのは「楓」だけ。ルールに疲れた、沈黙に疲れた、孤独に疲れた、子供。
戦争の最中に。私に分不相応な運命を求めてくる、そのただ中に。仮面なしで存在できると、知った。この腕の中に、何も求めない家を見つけた。完璧さも、指導者であることも、ただ存在することだけを求める家を。
その啓示は、解放と同じくらい深く痛かった――これまで一度も自分自身でいることを許してこなかったのだから。そして今それができたとき、目を開けたら消えてしまう夢みたいに、その瞬間が壊れるのが怖かった。
* * *
街を歩くうちに、午後はいつの間にか夜になっていた。冬の冷気がコートを透かして染み込んでくる。エレノアとリリウムの言葉が、頭の中でまだ鳴り響いていた。もう一人でいなくていい……その感覚が、あまりにも不思議で、ほとんど処理できなかった。もう二度と、一人じゃない。
でも、そう考えながら、頭は別の場所へ向かっていた。別の一人ぼっちの人のところへ。自分が作った契約に縛られて、動けなくなっている人のところへ。
ヴィクター。
あの顔が、頭に浮かんだ。疲れて、打ちのめされて、私が無理やり結ばせた契約に縛られているヴィクターの顔が。
……会いに行かなければ。これを、直さなければ。
ヴィクターとの契約が胸の中で脈打っていた。第二の存在みたいに、距離を超えて二人を繋ぐ、目に見えない糸みたいに。目を閉じて、その糸を辿った。ヴィクターのいる方向が、確かめなくてもわかった。
家にいる。そしてその確信は、揺らがなかった。一人でいる。
早かった。ほとんど自動みたいに、気づいたらヴィクターの家の前に立っていた。夜の冷気が髪とコートに絡みついている。ドアを叩こうと手を上げて――止まった。
何を言うの?こんな形で縛ったことを悔いているって?契約を解きたいって?……何を、したいのかもわからないって?
決める前に、ドアが開いた。
ヴィクターがそこにいた。驚きの表情が、すぐに微笑みに変わった。皮肉でも、意地悪でもない笑みだった。何かが変わろうとしているのを、予感しているような笑みだった。
「カァエデェ……」
いつもより少し柔らかい声だったけれど、どこか変な感じがした。
「来たんだな」
……言おうとしていた言葉が、全部霧散した。こんな笑みで迎えられると思っていなかった。本当の笑みで。
「ヴィクター……」
言いかけたところで、ヴィクターが遮った。
「君の力が必要だ」
声に緊張が走っていた。いつもの疲れた諦めじゃない、聞いたことのない種類の緊張感だった。
「契約のこと。約束を果たしてほしい」
胸の中で何かがきゅっとした。想定していなかった。来ようとしていた会話じゃなかった。でもヴィクターの目を見て――その目に初めて見るものを見た。絶望。本物の、剥き出しの絶望。冷水みたいに打ちつけてきた。
「……何が必要なの?」
声が、思ったより小さかった。
ヴィクターが私を見て、その視線が真っ直ぐに刺さってくる感じがした。
「海を助けてほしい」
声が、ほとんど囁きになっていた。
「蓮次郎の妹。カプセルに……閉じ込められている。どうやって解放すればいいか、わからないんだ」
言葉が、深いところに刺さった。蓮次郎の妹については、報告書で読んだことがあった。でも記録によると、蓮次郎と一緒に失踪しているはずだった。
「蓮次郎の妹と、どうやって知り合ったの?全部話して」
ヴィクターは私に先に彼の家に入るよう頼みました。居間に落ち着いてから、ヴィクターはずっと隠してきたことを打ち明けた。プロジェクト・ハートクライと呼ばれるものと、海とモルガナという純粋な精霊との融合のことを。
……あり得ない。そんな融合を解く方法はない。水と油を分けようとするみたいなもの。
「ヴィクター……私は……」
言いかけたところで、また遮られた。
「会ってほしい」
声が、請うものになっていた。
「何が起きたか、見てほしい。わかってほしい」
胸の奥で何かが抵抗した。見たくなかった。蓮次郎がしたことの現実を、直視したくなかった。でもヴィクターの目を見たら、断れなかった。
* * *
蓮次郎の屋敷まで、黙ったまま歩いた。張り詰めた道のりだった。ヴィクターの後ろをついていきながら、契約の重さが荷物みたいに肩に乗っているのを感じていた。
海をどうやって助ければいいの。わからない。でも、やってみなければ。
屋敷は静まり返っていた。生の気配が、どこにもなかった。ヴィクターが暗い廊下と閉まった扉の間を案内してくれて、やがて、どの報告書にも載っていない地下の実験室に辿り着いた。空気は冷たく、湿っていて、電気が帯びているようだった。部屋の中心、台座の上に、クリスタルのカプセルが浮いていた。緑色の液体で満ちていて、奇妙な光を放っていた。
その中に、海が浮かんでいた。
世界が、止まった。
液体の中に浮かぶ少女は、幼かった。ほとんど子供だった。髪が後光みたいに広がって、目は閉じていた。その顔は穏やかで――降りかかったことの暴力と、あまりにもかけ離れた安らぎの表情だった。
「海……」
ヴィクターが囁いた。
「この子が、海だ」
一歩踏み出した。足が、震えていた。何を言えばいいかわからなかった。何をすべきかわからなかった。ただ、あってはならないものを見ているとわかった。
そのとき、声がした。
「あなたは誰?」
どこからでもなかった。頭の中から聞こえた。背中に、冷気が走った。
「……誰が話しているの?」
声が揺れた。
「海よ」
ヴィクターが、驚かせないように静かに言った。
「それか……モルガナ。どちらかははっきりしない。でも話せる。感じることもできる」
その言葉が、深いところに刺さった。カプセルの中に閉じ込められた少女が、直接頭の中に話しかけてくる仕組みが、理解できなかった。
「私のことは気にしないで」
海の声は柔らかく、なぜか慰めるようだった。
「苦しんではいない。……待っているの。誰かに見つけてもらえるのを。誰かに助けてもらえるのを」
言葉が、深いところに刺さった。どうすればいいかわからなかった。クリスタルのカプセルに閉じ込められた少女を、どうやって助ければいいかわからなかった。ただ、手をこまねいていることだけは、できないとわかった。
「ヴィクター……」
声が揺れた。
「どうすればいいか、わからないわ。彼女を助ける方法が」
ヴィクターが私を見た。その目が、絶望で満ちていた。答えを期待している目じゃなかった。一人じゃないと言ってほしい目だった。
「全部の答えを持ってなくていい」
ヴィクターが言って、声がほとんど聞こえないくらい小さかった。
「ここにいてくれるだけでいい。行かないでいてくれるだけで」
胸の奥で何かが絡まった。エレノアの言葉の反響だった。ここにいる。行かない。それだけで十分。
「行かないわ」
自分の声が、思ったより強かった。
「一人にしない、ヴィクター」
ヴィクターが私を見た。その目に、感謝が滲んだ。でも何かが言えるより前に、表情が変わった。張り詰めて、目が、見たことのない怒りで燃えた。
「足りない!」
叫び声が、地下室に響いた。
「ここにいるだけじゃ足りないんだ!何かしなければならない!助けてくれ!」
ヴィクターが一歩踏み出した。手がコートを掴んで、信じられない力で持ち上げてくる。
「助けなければならない!できないなんて言うな!何かしろ!」
ヴィクターは信じられない力で私を空中に揺さぶった。その手はコートを掴み、私をまるで人形のように振り回していた。
視界が歪んだ。体が揺さぶられる。肺から空気が逃げていく。世界がぐらついた。
「ヴ、ヴっィクターっ……」
絞り出した。
「ヴ、ヴィクターっ、正気に戻って!」
揺さぶりが続いた。その顔が、怒りで崩れていた。さっきまで感謝で満ちていた目が、見知らぬ何かで、狂気みたいな何かで、染まっていた。
これはヴィクターじゃない。契約だ。私が結ばせた契約が、彼を飲み込んでいる。
「ヴィクター!」
叫んだ。喉が裂けるみたいな叫び声だった。
「聞こえているの!?」
止まった。
手がゆるんで、体が床に落ちた。膝が冷たい石に打つ。咳き込みながら、顔を上げた。
ヴィクターは膝をついていた。両手で頭を抱えて、震えていた。顔が痛みで歪んで、目が、私を見られないまま床に落ちていた。
「すまない……」
囁いた。糸みたいに細い声だった。
「すまない、楓。俺は……何が起きたか、わからない」
涙が出た。恐怖じゃなかった。痛みじゃなかった。もっと深い何かだった。
私がこうした。利用した。こんな契約に縛った。そして今、それが彼を壊している。
後悔が、波みたいに打ちつけてきた。
「ヴィクター……ごめんなさい」
ヴィクターが顔を上げた。その目に、怒りはなかった。狂気もなかった。ただ、痛みだけがあった。あまりにも深くて、本物の痛みが、こちらまで溺れさせるみたいだった。
「楓のせいじゃない……」
その言葉が、深いところに刺さった。慰めじゃなかった。自分が責任者だという事実の、ただの確認だった。行動には結果がある。他者を制御しようとする欲望が、人を壊す。
ずっと一人だった。そしてそのために、他者を使って空白を埋めようとしてきた。でも、それは機能しない。人で空白を埋めることはできない。壊すだけ。
涙が流れた。今度も、止めなかった。押し寄せる感情に任せた。鎧の一枚ずつが剥がれていく感覚があった。
ゆっくりと立ち上がった。足が震えていた。ここにはいられない。ヴィクターを見て、自分の過ちの鏡を見続けることは、できなかった。
「行かなければ」声が、ほとんど聞こえなかった。
ヴィクターが私を見た。その目が、見たことのない哀しみで満ちた。
「行くな」囁いた。「一人にしないでくれ」
その言葉が、深いところに刺さった。残りたかった。助けたかった。でも方法がわからなかった。自分が傷つけた人を、どうやって癒すかわからなかった。
背を向けてドアへ歩いた。決断の重さが、降ろし方もわからない荷物みたいに、肩に乗っていた。
……自分がしたことを見て、そこにいることはできない。
* * *
翌朝は、冷たく、灰色だった。雪が、街に静かに積もっていた。窓辺に座って、何も見えないまま外を見ていた。昨夜のことの重さが、まだ乗ったままだった。
ヴィクター。その顔が浮かぶ。痛みで崩れて、私が作った契約に縛られて、壊されていくヴィクターの顔が。
こうした。利用した。縛った。そして今……苦しんでいる。
後悔は、新しい感覚だった。ずっと、後悔は弱さだと思っていた。効率のために押し込めるべき感情だと。でも今、胸の中にずっしりと居座って、無視できないこの感覚が、後悔は弱さじゃないとわかった。目を逸らせない真実だった。
傷つけたくなかった。傷つけたくなかった。ただ……手に入れたかった。でもそれこそが問題だった。手に入れたかった。制御したかった。盤上の駒にしようとした。そして今、その結果が、最も残酷な形で現れている。
ずっと一人だった。そのために他者を使って空白を埋めようとしてきた。でも機能しない。人で空白を埋めることはできない。壊すだけ。
涙が流れてきた。今度も止めなかった。押し寄せる波に任せた。流れる一粒ずつが、鎧の一枚ずつを剥がして、その跡に何か新しいものが入る余地を作っていく。
ノックの音で、飛び上がった。
素早く立ち上がって、袖で涙を拭いた。こんな姿を見られたくなかった。エンバーストロム一族の跡取りが泣いているところを、誰にも知られたくなかった。
「どうぞ」
声は、気持ちより落ち着いて聞こえた。
ドアが開いて、守護魔術師が入ってきた。動揺していた。息が乱れて、目に緊迫感が満ちていた。
「楓様」
声がほとんど囁きだった。
「今すぐ大広間においでください。お父上が緊急の知らせを持っておられます」
胸の奥で何かがきゅっとした。父が知らせを告げることはない。常に人任せだった。父が直々に、全員を呼び集めているなら……何かが、ひどく間違っている。
「参ります」
声は、気持ちより穏やかに聞こえた。
大広間は魔術師たちで満ちていた。父の堂々とした姿を囲んで、円を作っていた。その間を進みながら、全ての視線の重さを感じた。父は見てきたけれど、何も言わなかった。
「会議を始める」
心臓が、強く打ち始めた。父が何を言うかわからなかった。でもその声の響きが、良い知らせじゃないと告げていた。
「三十分前、アカデミー・エンディミオンが攻撃を受けた」
世界が、止まった。
「正体不明の男が攻撃している。長い杖を持ち、詠唱なしで魔法を使う。何者かわからない。どこから来たかもわからない。ただ、アカデミーを破壊しているとだけわかっている」
父の言葉が、深いところに刺さった。あり得ない。あり得ない。アカデミー・エンディミオンは魔術社会で最も守られた場所の一つのはずだった。
「増援を送る」
戦争の中に引き込まれていくのを感じた。引きずり込まれた戦争の中に。
「特別魔術師たちに『あれ』を使う許可を与える」
周りを見渡した。困惑した顔を探した。でも誰も、自分以外は戸惑っていなかった。
……『あれ』って、何?誰も疑問に思っていないみたいだけれど、私には父が何を言っているのかわからなかった。
「散れ。捕らえよ、排除せよ、何であれ、この脅威を止めるためにすべきことをせよ!」
「はっ!」
全員の声が一斉に響いた。大広間に反響して、それから散り散りになっていった。
一人、その場に残っていた。父を見上げたまま、一ミリも動けなかった。
「楓……来なさい、近くに」
ゆっくりと近づいた。最後に父のそばに立ったのが、いつのことか思い出せなかった。
「楓、お前も戦場に行く。一族の未来の長として、歴史に名を刻む偉業を見せなければならない」
「でも……お父様」
「黙れ!あの男を排除せよ。滅せよ。次元の牢獄に閉じ込めよ。何でもいい。だが、未来の地位に値する者と示してみせよ。わかったな」
「……はい……お父様」
足元の床が、崩れていくみたいだった。
……行けというの?私が?理解もできていない戦場へ、知りもしない敵に対して?
父の言葉が、深いところに刺さった。機会じゃなかった。宣告だった。理解できていない戦場へ、知りもしない敵に、己の価値を証明するために送り出される宣告。
できない。できない。詠唱なしで魔法を使える相手に、どう立ち向かえばいいのかわからない。
恐怖が、全身を満たした。
でも父の目を見て、断れないとわかった。弱さを見せることはできなかった。長の座を拒む跡取りには、なれなかった。
何をしてしまったの……ドアへ向かいながら、思った。
何をしてしまったの。
* * *
アカデミー・エンディミオンが、燃えていた。
その只中に降り立って、熱と煙が毛布みたいに――でも窒息させるような毛布として――全身を包んでくるのを感じた。術式が飛び交い、壁と床に激突して、悪夢から切り取ってきたみたいなクレーターと瓦礫を作っていた。魔術師たちが空を飛びながら、戦場の中心にいる一つの人影に向かって術式を放っていた。
その人影は、背が高く細かった。別の時代から来たみたいな古い服を着て、長い杖を持っていた。杖が動くたびに、降り注ぐ術式が逸らされ、あるいは吸い込まれていった。
……あの人だ。レオ・アシュフォードを救った男。詠唱なしで魔法を使える男。
恐怖が、全身を満たした。足が震えた。心臓が、耳の中で聞こえるくらい激しく打っていた。体の全部が、逃げろと、隠れろと、観察者の役に戻れと叫んでいた。
……できない。あれとは戦えない。戦士じゃない。観察しか知らない。ただ、見ているだけ。
でもパニックが頂点に達したとき、後ろで音がした。急ぎ足。乱れた息。誰かが走って来ていた。
振り返った。
銀髪の若者が駆けてくるのが見えた。暗い外套が、動揺を辛うじて覆い隠していた。前方の混乱を見つめる目に、恐怖と後悔が滲んでいた。
「僕のせいだ……」
囁いた。ほとんど聞こえないくらい細い声だった。
「全部これが起きているのは、僕のせいだ」
誰かはわからなかった。でもその後悔の深さが、あまりにも本物で、肌でも感じられるくらいだった。
「どういう意味?」
声が、気持ちより落ち着いて出た。
「あなたは誰なの?なぜそんなことを言うの?」
若者が私を見た。その目が――見すぎたものを知っている目が――私の目と交わった。
「僕は龍牙・ドラゴンズベインだ」
声がほとんど囁きだった。
「僕が……あの男を呼び出した」
世界が、止まった。
ドラゴンズベイン一族。ずっと外縁に立っていた一族。秘密と謎に包まれた一族。
「呼び出した?」
繰り返した。声が揺れた。
「それはどういう意味なの?」
龍牙が私を見た。その目が、見たことのない痛みで満ちた。
「それだけしか言えない」
声がほとんど囁きだった。
「すまない。それ以上は言えない」
何が起きているのかわからなかった。ドラゴンズベイン一族の一員が、どうやってこれ全部に関わっているのかわからなかった。でも目の前の混乱を見ながら――炎と術式と、全てに立ち向かう一人の人影を見ながら――手をこまねいていることだけはできないとわかった。
……もう、ただ見ているだけはいやよ。手をこまねいて、全部が崩れるのを見ているだけは。
龍牙を見た。胸の中で、何かが形になっていくのを感じた。恐怖じゃなかった。もっと深い何かだった。
何かしなければ。何かはわからない。でも、やってみなければ。
戦場が轟いていた。でも一歩、踏み出した。決断の重さが、肩に乗るのを感じた。
今回は、見ているだけじゃない。
今回は……動く。
――すべては、
十か月前から始まっていた。
禁じられた魔術。
届かない願い。
そして、
世界の理を揺るがす一度きりの召喚。
一人の少年が犯した過ちは、
やがて世界全体を巻き込む運命へと繋がっていく。
次回――
禁忌を呼んだ少年
その日、
歴史は静かに動き始めた。




