赦しの温度と孤独の深さ
人は、
理屈だけでは変われない。
誰かの言葉。
誰かの涙。
そして、
誰かの温もり。
心を閉ざしてきた者ほど、
その一つ一つが、
人生を変えるきっかけになる。
ナイトシェイドの屋敷へと向かう道は、まるで空気自体が息を潜めているかのように、静かで張り詰めていた。
春花の数歩後ろを歩きながら、その肩の強張りを観察していた。コートの端を指先で強く掴んでいる様子が、まるで何かにしがみつかなければ消えてしまいそうな人間の仕草そのものだった。
アザエルが春花の隣を歩いていた――穏やかで、一定で、何も言わないのにすべてを語っている影のような存在。ふしぎなものね。あんなに内側で壊れながら、それでも立っていられるなんて……かしら。春花は、今にも崩れ落ちそうなトランプの城に見えた。それでも歩いている。それでも前に進んでいる。
あの力は、どこから来るのかしら。
アザエルから?それとも自分自身から?
ナイトシェイドの屋敷の敷居を越えたとき、内部はその外観と同様、気品と陰鬱が等分に混じり合った場所だった。暗い石壁には古い刺繍の壁掛けが垂れ下がり、狩猟の場面と魔術の儀式が描かれていた。乳香と古い木材の香りが隅々まで染み込んでいる。以前にも来たことがある場所だった。でもあのときとは違う。あのときは傍観者として足を踏み入れた。今日は……証人として、ここにいる。何かを見届けるために。何かを学ぶために。
何のために?理解するため?感じるため?
……自分でもわからない。なぜここにいるのか。何を期待しているのか。ただ、見なければならないと思った。壊れたものが再び組み上がっていく様を、この目で見届けなければならないと。
エレベーターで地下の研究室へ降りていく。扉が開くなり、硫黄と古い羊皮紙、そして冷たい金属の匂いが鼻を突いた。記録に残されていた匂いとまったく同じだった。完全な無関心の薄衣に身を包み、気配を限界まで消して、部屋でいちばん暗い隅に立った。幽霊のように、誰にも気づかれることなく。
扉が開いた。
現れた人物を見て、内心で整理する。ファウスティーヌ・ナイトシェイド。中年の女性で、銀色の髪を完璧なシニョンに結い上げていた。その目は、あまりにも多くのものを見てきたがゆえにどんなことにも驚かなくなった目だった。シンプルだが気品のある暗色の法衣をまとい、細長いピアニストのような手が、稽古のように落ち着いた動作で椅子の背もたれの上で組まれている。その存在感は体格によるものではなく、何の努力もなく空間を満たしてしまう、あの種の重力によるものだった。
……これが、ファウスティーヌなのね。
同じ強度でこちらを観察しているのを感じた。師であり、創造者であり、春花を捨てた女。
「春花さん」
ファウスティーヌが言った。その声は冷たく、測られたように正確で、まるで予め用意してあった台詞を読み上げているかのようだった。
「戻ってきたと聞きましたわ。しかも、連れを引き連れて」
「社交的な訪問ではありませんわ、ファウスティーヌ」
春花が答えた。その名を口にしたとき、声がかすかに震えたのを聞き逃さなかった。
「あなたと話しに来たんです。……整理をするために」
「相変わらず、あの頼りなくだらしない姿勢ね、春花さん」
ファウスティーヌの声が響いた。貴族的な優雅さが傲慢と紙一重のところにある声だった。拘禁から解放されたばかりの彼女は自分の爪を無表情に確認しながら、手の届かない優越感のオーラを発散させていた。
「一族が本当にあなたを私の後継者として育てるために解放したのか、それとも私に、私なしでは現世代の研究者たちがいかに笑えない冗談であるかを証明するためだけに解放したのか……気になるものだわ。あなたは私が置いていった、あのおびえた助手のままね」
ファウスティーヌは俗な意味で言うならば、非常に傲慢で高慢な女性だった。誤解された天才という己のファサードにひとつの亀裂すら認めるくらいなら、世界を焼き払うことを選ぶ人間。
「壊れたものを整理できると思って?これだけの年月が経ってから?私があなたをいちばん必要としていたときに離れていったのに?」
ファウスティーヌは微笑んだが、その笑みは目まで届かなかった。
春花が一歩前に出た。その両手が脇で静かに握り締められていくのが見えた。
「私はあなたを捨てていませんわ、ファウスティーヌ。あなたが自分自身を捨てたんです。あなたは自分の強迫観念に迷い込んだ。世界が『変革する』という考えに。何度も警告しました。何度も言い続けた。でも聞いてもらえなかった」
ファウスティーヌが短く、苦い笑いを漏らした。
「警告?あなたが?いつも私の影でいた子が。私の助手、私の……模倣品。あなたが私に警告するというの?」
……隅から、内側で小さく頷いた。
一族の誇りという観点から見れば、最適な返答ね。ファウスティーヌは自分の地位を使って、春花の最近のトラウマを脅しの材料にしている。論理的に考えれば、春花はここで崩れるか、後退するかのどちらかのはず。
でも、春花は後退しなかった。
もう一歩、前へ出た。石の床に、ブーツの音が確かな響きを刻んだ。
「私はもうあなたの助手ではありません、ファウスティーヌ」
傷から来る疲れの影はありながらも、揺るぎない声で言った。
「そして、謁見を請いに来たわけでもない。友人と話しに来たんです」
ファウスティーヌの手の動きが止まった。その目が細くなり、冷たい驚きが漏れ出た。それを即座に受動的攻撃的な嫌悪の表情で覆い隠す。
「友人?なんと卑俗で、学術的成熟を欠いた言葉。私たちの間にそんな感傷は存在しませんでしたわ、春花さん。あったのは師弟契約と、技術的知識の移転。私が示した配慮を、情緒的な絆と混同しないでちょうだい」
直撃だった。春花が蒼白になるのを、肩がさらに強張るのを、見ていた。
それでも、退かなかった。諦めなかった。
「嘘をついてる!」
春花の叫びが空気を断ち切り、研究室の厳格な礼儀作法を砕いた。
「認めるのが怖いから嘘をついているんです。私のことが気になっていたくせに!」
「馬鹿馬鹿しい。あなたに、私の何がわかるというの?」
ファウスティーヌは春花の言葉に流されなかった。
「あなたと違って、私は本当に重要なことを見失ったことがなかった。あなたはプロジェクトを見ていた。結果を、栄光を。私は人々を見ていた。あなたの実験が引き起こす痛みを見ていた。あなたが自分でもわからない誰かに変わっていくのを、見ていた」
ファウスティーヌは自分の場所から春花を憎悪の視線で見続けていた――存在そのものを視線だけで消し去ってしまいたいかのように。しかし、何も言わない。
「魔力の重力軸について、この場所で徹夜で議論し続けたあの夜を覚えていて?一族のためにやっていたんじゃなかった、ファウスティーヌ。一緒にやっていたから、やっていたんです。私たちは友人だった。あなたがあの呪われた“変身”に囚われる前は」
そのとき、首の付け根に微かな悪寒が走った。
……何をしようとしているのかしら?春花は技術的な階層を無視している。魔術論理でも拘禁の脅しでもなく……記憶で攻めている。過去の情緒的な残骸で、ファウスティーヌのファサードを崩そうとしている。非常に非効率な戦術ね。イデオロギーの乖離によって壊れた関係は、行動モデル上は修復不可能とされる。一族の誇りが優位に立った瞬間、絆は死ぬ。なぜ昨日のゴミを掘り返し続けるの……?
ファウスティーヌが乾いた哄笑を上げ、春花に背を向けて埃まみれのバイアル瓶が並ぶ棚へと歩いていった。
「なんと哀れで地方的な演説でしょう。私の『強迫観念』とあなたが呼ぶものは、魔術師を時代遅れから救う唯一の道だったわ。老長老たちが言うように道を踏み外したとすれば、それはここで私に付いてこられるだけの視野を持つ者が誰もいなかったからよ。あなたを含めてね。止めようとして、衛兵を呼んで……裏切ったのよ、あなたは。恐怖から、春花さん」
「止めようとしたのは、あなたが自分を壊していたからです!」
春花が追いかけ、その腕を強く掴んで振り向かせた。
「自分の魔力を核に注ぎ込んでいた。一つの理論のために、干乾びた屍になろうとしていた。一族のために裏切ったんじゃない、ファウスティーヌ……あなたを失いたくなかったから、止めたんです。あなたが私を自分の影に閉じ込めていたのに、あなたの研究の重荷を背負わされていたのに……それでも、変身のプロジェクトを続けていた。あなたの夢だったから、生かし続けた!」
ファウスティーヌは彼女をまともに見た。その顔には、古い憤慨と、屈することを拒む傲慢さが混じり合っていた。
「それが何の役に立ったの?」
ファウスティーヌが吐き捨てた。掴んだ腕を侮蔑とともに振りほどきながら。
「報告を聞いたわ。三流の陰陽師に攻撃されて、基本的な回路さえ安定させられないほど心が折れたそうじゃない。信念がないのよ、春花さん。才能はある、でもあなたの精神は軟弱。アカデミーの規則の影に隠れる者たちと同じ。あなたは壊れている。そんな震える手で、私の生み出したものを最終段階まで導けると思っているの?笑わせないで。哀れだわ」
――侮辱は、春花のトラウマの核心に直接突き刺さった。
春花が目を見開くのを見た。その目に痛みが広がり、古い師の毒を身体で受け止めていくのを。論理的には、これが崩壊の臨界点だった。完全な屈辱。交渉の終わり。
でも春花は、泣かなかった。退かなかった。
代わりに目を閉じた。深く息を吸って、そしてファウスティーヌを見つめた。そこにあったのは、今まで春花のどんな記録にも予測できなかった成熟さだった。
「そうね、怖い」
春花がかすかな声で認めた。それはどんな叫びよりも痛々しく聞こえた。
「毎朝、手が震えています。その陰陽師は、ほとんど私の精神を壊した。でも今、私はここに立っている。一族でいちばん我慢できなくて、自己中心的で、傲慢な女性の前に。それでも残っている唯一の本物を救いに来た。師として承認なんて必要ない、ファウスティーヌ。必要なのは、あなたがその愚かな孤高の天才という仮面の後ろに隠れるのをやめて、私を見てくれること。それだけ。研究者としての私じゃなく。あなたの友人を」
ファウスティーヌが一歩近づいた。部屋の温度が数度下がったような気がした。
「自分が私より優れていると思っているの?ここ数年、実験室に閉じこもって、私がすでに作り上げたものを複製しようとしていた人間が?」
「私はあなたより優れていません」
春花が答えた。その声は今やほとんど囁きだった。
「競争しに来たんでもない。……あなたが恋しいから来たんです、ファウスティーヌ。友人として。プロジェクトが飲み込む前の、あなただった頃のあなたが」
続く沈黙は、重さを持っていた。耳に感じるほどの重さ。
ファウスティーヌはすぐには答えなかった。冷たく計算するような目が、春花へと向けられ、並の人間なら後退させるだけの圧力で彼女を見つめた。でも春花は後退しなかった。痛みと決意の両方を持って、古い師を見返していた。
……これが……これが何かのために戦うということなのね。
力の戦いでも戦略でもない。脆弱性の戦いだわ。春花は胸を開いたまま差し出していて、ファウスティーヌはそれを踏みにじるか、受け取るかを決めている。
心臓が、制御を超えた速さで脈打つのを感じていた。目が離せなかった。
「何を言っているのかわからないわ」
ファウスティーヌがやっと言った。その声から、何かが少しだけ削り取られていた。
「友人?そんなものは存在しなかった。あなたは弟子で、私は師。それだけよ」
「それは違う」
春花は言い張った。その目がかすかに潤むのを見た。
「……お願い、ファウスティーヌ。目を開けて……あの頃に戻りましょう」
ファウスティーヌが視線を逸らした。
そして――ほんの一瞬だけ――今まで見たことのない何かがその目に浮かんだ。脆弱性?後悔?確かではなかった。
絶対的な沈黙が落ちた。ファウスティーヌは口を開いた。また別の刺す言葉を。また完璧な一文を。難攻不落の優越感のオーラを守るために設計された台詞を。しかし、言葉が喉に詰まった。春花の懇願するような、それでいて揺るぎない目を見た。長年、それぞれが別々に背負い続けてきた重荷の痕を見た……そして、ファサードがついに、ひびを入れた。
「……随分昔のことよ」
ファウスティーヌがやっと言った。その声は今や、かすかに柔らかくなっていた。
「人は変わる。夢も変わる」
「私は変わっていません。まだ世界を変えたいと思っている。あなたと一緒に。でも、その過程でもうあなたを失いたくない。プロジェクトが私たちより大切であってほしくない」
ファウスティーヌの肩が、わずかに落ちた。高慢な表情が崩れ、現れたのは、己のプライドという孤絶の中で年月を費やしてきた一人の女の、疲れた、やりきれない、そして深く後悔したような顔だった。
「……あなたは……ほんとうに馬鹿ね、春花……」
ファウスティーヌが俯きながら呟いた。貴族的な硬さが声から完全に溶けていた。
「どうして腐ったまま亡命させておいてくれなかった。そのほうが、二人とも楽だったのに」
「馬鹿は、友人を一人にしないから」
春花が小さく、壊れた笑みで答えながら、手を伸ばした。
ファウスティーヌは沈黙した。
空気が、名前をつけられない緊張感で満ちていくのを感じた。
ファウスティーヌが春花の視線を避ける仕草に、指先が椅子の背もたれに食い込む様子に、あの見た目ほど冷たくないという事実が透けて見えた。
プライドじゃない。これは恐怖だわ。脆弱性への恐怖。誤りを認めることへの恐怖。権威のオーラを失うことへの恐怖。
「ファウスティーヌ」
春花の声が、懇願に限りなく近い何かになった。
「謝罪は求めていません。あなたが間違っていたと認めることも求めていない。ただ聞いてほしい。見てほしい。私を、ずっとそうであった私を。あなたが思い込んでいた助手じゃなく」
ファウスティーヌが顔を上げた。そしてその目が春花の目と出会った。時間が止まったように感じた。
「あなたには、私がどう見えているの、春花?」
ファウスティーヌが問いかけた。その声はもはや囁きに近かった。
「私を捨てた冷酷な師?それとも……怖かった人間?失敗することが。すべてを失うことが。間違えたと認めたら、これまで積み上げたすべてが崩れると思っていた……そんな人間?」
春花が一歩踏み出した。その腕がゆっくりと広がっていくのを見た――抱きしめたいのに、受け入れてもらえるかわからなくて。
「間違いを犯した誰かが見えます」
春花の声は羽根が肌に触れるような柔らかさだった。
「怖かった誰かが見えます。道に迷った誰かが見えます。私たちが皆、どこかの時点で迷うように。でも、道を取り戻すことができる誰かも見えます」
続く沈黙に、胸の中で何かがきつく絞られていくのを感じた。
完全には理解できていなかった。でも、大切なものを目にしているとわかった。今まで見たことのない何かを目にしていると。壊れた絆が再び組み上がっていく瞬間を。
一度も、こんなものを持ったことがない……。
一度も、こんな形で誰かに戦ってもらったことがない。間違いを越えて、それでも側にいたいと思ってくれる誰かを、一度も持ったことがなかった。
指先が、ほとんど反射的に脇で張り詰めていくのを感じた。
「春花……」
ファウスティーヌが一歩近づいた。その手がかすかに震えていた。
「私は……できるかどうかわからないわ。あなたが求めている人間に、なれるかどうか」
「違う誰かになってとは言っていない。ただ、あなたでいてほしい。プロジェクトに飲み込まれる前の、あなたの理想に迷い込む前の、本当のあなたで」
ファウスティーヌが沈黙し、その目が潤むのを見た。悲しみの涙ではなかった。もっと深いものだった。解放?安堵?確かではなかった。
「一つだけ約束して」
ファウスティーヌがついに言った。その声はほとんど囁きだった。
「もう一人にしないと。また道を見失いそうになったとき、私が誰なのかを思い出させてくれると」
春花が微笑んだ。その目が、今まで見たことのない温かさで輝いた。
「約束します」
春花は言った。
「約束する、ファウスティーヌ。ずっとここにいます」
もう一度、手を伸ばした。ファウスティーヌは永遠のように感じられる数秒間、自分自身の悪魔と闘いながらそれを見つめた。そして最後に、震える溜息とともに、その手を取った。
職業上の契約ではなかった。嵐の中で互いを失っていた二つの魂の、和解だった。
ファウスティーヌが最後の一歩を踏み出した。その腕が春花の周りで閉じた。何年もの痛みと、後悔と、切望が込められた抱擁。
その光景を、部屋の隅から眺めながら、胸の中で何かがねじれていくのを感じた。
……これが……赦しということなのね……。
起きたことを消すのではない。受け入れて、先へ進むことだわ。誰かを、過ちより上位に選ぶこと。
瞳が、じわりと滲んでくる感覚があった。ずっと沈黙していたアザエルが一歩前に出て、二人の肩にそれぞれ手を置いた。
「見られてよかった」
その声は穏やかで、温かかった。
「今日は、どちらも非常に勇敢だったよ」
春花がファウスティーヌから離れ、袖で涙を拭いながら泣き笑いをした。
「楽ではありませんでしたわ。でも、必要なことだったと思います」
ファウスティーヌが頷いた。その冷たさの仮面が、完全に剥がれ落ちた。
「そうね、必要なことだったわ。ありがとう、春花。諦めないでいてくれて」
春花が笑い、ファウスティーヌの両手を自分の手で包んだ。
「いつでも、ファウスティーヌ。いつでも」
そして春花が、こちらを振り返った。
「あなたにもお礼を言わなければならないわ、楓。ここまで連れてきてくれて。大切なことを思い出させてくれて」
……瞬いた。
頬に、熱が上がってくるのを感じた。あの瞬間に含まれると思っていなかった。感謝されるとは思っていなかった。見られるとは思っていなかった。
何も特別なことはしていない。ただ、ここにいただけ。ただ、見ていただけ。感謝されるようなことは何もしていないのに。
でも春花とファウスティーヌが再び抱き合うのを見ながら、自分の内側で、何かが静かに罅割れていくのを感じた。ずっとそこにあったのに気づかなかった何かが。何層もの制御と効率の奥に、ずっと守られていたもの。
……これは何かしら……?なぜ痛いの……?なぜ目が離せないの……?
そう問いながら、目が潤んでいくのを、どうすることもできなかった。
* * *
エンバーストロムの屋敷への帰り道は、静かだった。
一人で廊下を歩きながら、その日の重さが肩に積み重なっていくのを感じた。春花とファウスティーヌの再会の場面が、繰り返し脳裏に映し出された。抱擁、涙、赦しの言葉。二人が互いに微笑み合う様子が――契約でも血の契約でもない、目に見えない力によって結ばれた姿が――頭の中に鈍器のように打ち込まれてきた。
必然的に、一つの記憶が責める影のように横切った。
ヴィクター。
私は……ヴィクターを……。
彼に力を与えた。でも、彼の絶望に乗じて、強制的に私との契約を結ばせた。大切なものを失うと警告した上で。まるで駒のように扱った。盤上の一つの資源として、己の利益のために。
もし私が……ヴィクターに対して、春花がファウスティーヌに話しかけたように話しかけたなら……再構築できるものが何かあるかしら?
……いいえ。ヴィクターと私の間には何もない。ただの契約。ただの魔力の交換。
友人なんていない。あんな絆は、誰とも持っていない……。
そう思いながら、ベッドに倒れ込んだ。スプリングが呻くのを遠くに聞きながら、天井を見上げた。胸の中の空白が広がっていくのを感じた。新しい感覚ではなかった。でも今日は、今までになく鮮明だった。春花とファウスティーヌの再会が、ずっと閉じていた扉を開けてしまったかのようだった。
ずっと、一人だった……。
その言葉の真実が、予想を超えた痛さで刺してきた。小さい頃から、ずっと一人だった。兄たちには自由があった、それぞれの人生があった。私には一族しかなかった。責任しかなかった。重荷しかなかった。何も求めずに抱きしめてくれた誰かは、一度もいなかった。「十分だ」と言ってくれた誰かも、一度もいなかった。
拳を握った。爪が掌に食い込む感覚があった。泣きたくなかった。泣くことを許せなかった。
継承者は泣かない。
でも、涙はそこにあった。溢れ出そうとしていた。
その真実の重さが、奇妙なほどふらふらとした感覚をもたらした。
夜の真っ只中に、その事実が破壊的な力で打ちのめしてきた。この人生のすべてを通じて……完全に、孤独だったのだと。
目の端に、奇妙な熱い感覚が積み上がり始めた。瞳を大きく見開いた。自分の身体の物理反応に、内心でぎょっとした。
……涙?いいえ……エンバーストロムは、非効率な情緒変数で泣いたりしない。これは……これはただ、冬の寒さのせいよ。
強く歯を食いしばった。喉を締め付ける塊を飲み込んで、一滴も流すことを全力で拒んだ。脇に向かって体を転がし、この広大なベッドの上で丸くなりながら、絹のクッションを不相応な強さで抱き締めた。
……明日は……明日も盤は動き続ける。ヴィクターは魔力を使う……ナイトシェイドは工造物を完成させる……そして私は、変わらず高所から駒を動かし続ける。すべて問題ない。すべて、私の制御下にある。
自分に眠ることを命じた。答えのない問いを遮断して、痛みを誇りの重さの下に埋めながら、孤独を意識の外へ追いやりながら。
* * *
翌朝は冷たく、灰色に明けた。まるで気候自体が心の状態に感染したかのように。
目覚めると、正体のわからない不快感があった。疲労と悲しみと、それ以外の名前のつかない何かが混ざり合った感覚。
今日はエレノア・ウィンターフォールに会わなければならない、と着替えながら思い出した。盤上の最後の駒を動かさなければならない。
ウィンターフォールの屋敷への移動はほとんど自動的だった。朝の冷気がコートを透り抜けていくのを感じながら、正面の入口へと確固たる足取りで歩いていった。
彼女に何を期待すべきかわからない、と敷居を越えながら思った。でも話す必要がある。理解する必要がある。
使用人が近づいてきた。すぐに見知った顔として認識してくれたようだった。
「楓様、いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」
「エレノアに用がある」
と答えた。その声が意図より冷たく出てしまったことに気づいた。
「エレノア様は庭園にいらっしゃいます。ご案内しましょうか?」
「要りませんわ。自分で行けます」
使用人が頷いて下がった。ウィンターフォールの屋敷の廊下を歩きながら、その日の重さが肩に乗ってくるのを感じた。
なぜここにいるのかわからない。何を期待しているのかもわからない。ただ、会わなければならないと思った。理解しなければならないと思った。
屋内庭園の扉に近づくにつれて、胃がかすかにかき乱されてくる感覚があった。
扉を押し開けた。
屋内植物園は閉じてはいるが広大で、見慣れない植物と色とりどりの花々で満ちていた。光がガラスの天井から差し込み、外の寒さとは対照的な温かな輝きで空間を包んでいた。湿った土と花の香りが空気を満たし、一瞬、別の世界に踏み込んだような気になった。
……綺麗ね。ウィンターフォールの屋敷にこんな場所があるとは知らなかったわ。
そして、目に入った。
エレノアは花と植物に囲まれた小さなティーテーブルに座っていた。シンプルだが上品なドレスをまとい、髪が柔らかな波を描いて肩に落ちていた。その隣には、まるでそこにもう一人の人間が座っているかのように、磁器の人形が置かれていた。
あの話す人形。意識を持つ人形、とものの本に書いてあったわ……かしら。好奇心が目を覚ますのを感じた。
私がエレノアに歩み寄ると、その気配に気づいた彼女が顔を上げた。
その目は――温かく、穏やかで、まるで母親のようなまなざしが――好奇心と、すぐには言葉にできない何かを混ぜながら、私を見つめていた。
「楓・エンバーストロム」
エレノアが言った。その声は柔らかく、迎え入れるようだった。
「なんて思いがけない来訪でしょうか。どのようなご用件かしら?」
軽く頭を下げた。
「エレノアさん。石について、あとその他のことについて、お話ししたいことがありまして」
エレノアが微笑んだ。その微笑みが、なぜか無防備にさせるようだった。計算されたものではなかった。私がいつも使うものとは違う。本物の、温かい笑みだった。本当に会えて嬉しいと思っているかのような。
「座ってちょうだいな」
エレノアは向かいの椅子を示しながら言った。
「話すことは、たくさんありそうだわ」
少し迷ったが、座った。椅子の布地が指先に柔らかかった。お茶と花の香りが抱擁のように周囲を包んだ。
「私のお兄様と話されましたわね?カイトお兄様と」
平静なトーンを保ちながら問うた。
エレノアが頷いて、磁器のカップにお茶を注いだ。
「ええ、少し前に。石のことと、あなたの仮説について話してくれたわよ」
「……それについて、どうお思いかしら?」
エレノアがこちらを見た。その目が、裸になったような明晰さで見透かしてくる感覚があった。
「あなたの仮説には根拠があると思うわ。完全に正しいかどうかはわからないけれど、良い出発点だと思っているのよ」
満足の刺しがあった。
「では、あの石は容器だと思っていらっしゃる?一種の牢獄と?」
エレノアはお茶を一口飲んでから答えた。
「あの石は単純な物体以上のものだと思っているわ。感情と、触れた者の魂との繋がりがあると思うのよ」
眉を僅かに寄せた。
「感情?石と感情に何の関係があるかしら?」
エレノアが微笑んだ。その笑みが、また何かを崩すような感覚をもたらした。
「感情は私たちを構成するものの一部よ、楓。魔法と魔術から、アイデンティティから、切り離せないわ。あの石は……感情に反応するの。恐れや、好奇心や、欲望を持って触れた者に反応するのよ」
胸の中で何かがねじれた。
「感情が重要だと思っていらっしゃる、の?本当に実質的な価値があると?」
エレノアが見た。その目がこちらを貫くような強さで見つめ、ひどく無防備な気持ちにさせた。
「感情は私たちを人間にするものよ、楓。それなしでは、私たちはただの機械。ただの道具に過ぎないわ」
ティーカップを持つ指先が張り詰めていくのを感じた。
「私は道具ではない。機械でもない」
エレノアが頭を少し傾けた。何かを考慮しているかのように。
「そうではないの?それなら、なぜ機械のように振る舞っているかしら?」
直撃だった。頬に熱が上がるのを感じた。
「機械のようには振る舞っていません。ただ……効率的でいるだけです。必要なことをしているだけ」
エレノアが少し黙った。その視線が柔らかくなった。
「効率的であることと、冷たいことは同じではないのよ、楓。効率的というのは、物事を可能な限りうまくやるということ。冷たいというのは、やりながら何も感じないということよ」
口を開きかけた。でも言葉が来なかった。エレノアを見つめたまま、その目が自分を奇妙な明晰さで見ているのを感じた。
……正しいかしら……?冷たいの……?何も感じないの……?
「……あなたの言っていることはわからないと思います」
やっと言った。その声が意図より脆く聞こえた。
「感じるとはどういうことか、わからない。それを学ぶ機会を、一度も持てなかったから」
エレノアがゆっくりと立ち上がった。心臓が速くなるのを感じた。彼女が近づいてくる。
「学ぶ機会を持てなかった?」
エレノアが問いかけた。その声は柔らかく、ほとんど優しかった。
「それとも、感じる機会を?」
「何を言っているのかわかりません」
「わかっていると思うわ」
エレノアが言った。今やもう側に立っていた。温かさが伝わってくるほどの距離で。
「ずっと前から感じてきていると思っているの。ただ、それの呼び方を知らないだけ。どう表現するかを知らないだけよ」
手が震え始めているのを感じた。
「あなたが言おうとしていることが理解できません」
エレノアが身を傾けた。
「感じていいのよ、楓、ということよ」
その声は穏やかで、温かかった。
「怖くていい。悲しくていい。誰かに抱きしめてほしいと思っていい、という意味なのよ」
涙が溢れそうになっているのを感じた。
「……できない……」
「できるわよ」
エレノアが言った。その腕が温かく、安全に、無条件に閉じてきた。
「できる。自分と戦うのをやめるだけでいいのよ」
そして、崩れた。
涙が堰を切ったように流れ出し、長年溜め込んできたすべての痛みが一気に解き放たれていくのを感じた。身体が嗚咽で震え、まるで嵐の中の錨のようにエレノアにしがみついた。
「わからないんです」
声は震えて、かすれていた。
「なぜこんなに痛いのか。なぜ他の人のようになれないのか。なぜいつも一人なのか」
エレノアがもっと強く抱き締めた。その手が、一度も経験したことのない優しさで髪を撫でた。
「一人じゃないのよ、楓。そうでなくていい。ただ、感じることを自分に許さなければならないわ。脆くなることを、自分に許さなければならないのよ」
泣いた。泣いて、泣いて、涙が尽きるまで泣いた。そして落ち着いたとき、エレノアの腕の中にそのまま留まっていた。何かが内側で解き放たれたような感覚があった。
ずっと一人だった……でも、もしかすれば……もしかすれば、ずっとそうでなくてもいいかもしれない。
エレノアが黙って抱き締め続けていた。その抱擁の温かさが、毛布のように包んでくれた。
「ありがとう……」
やっと囁いた。その言葉の味が、今まで違うものだった。戦略的な感謝ではなかった。計算でもなかった。もっと深い何かだった。名前をつけられない何かが。
エレノアが微笑んだ。その笑みが本物だとわかった。
「どういたしまして、楓」
春花とファウスティーヌの再会の場面、エレノアの抱擁、アザエルが無条件の愛について語った言葉――すべてが思考の中で渦巻き、処理しきれない感情の旋風になっていた。
何かがおかしかった。ずっと最初から、何かがおかしかった。
……別の生き方があるとは、知らなかった。でも今は……わかった。これを、どうすればいいかはわからないけれど。
目を閉じた。重い毛布のように疲労が包んでくるのを感じた。これ以上考えたくなかった。これ以上感じたくなかった。ただ、エレノアの腕の中で眠って、すべてを忘れてしまいたかった。
でも、眠りに落ちていきながら、最後に一つの映像が心に浮かんだ。春花とファウスティーヌが抱き合う姿。エレノアに抱きしめられる自分の姿。アザエルが春花に、どんな選択であっても支えると告げる姿。
……こんなふうになれるとは、知らなかった。それは単純で、それゆえ壊滅的なほどの啓示だった。誰かのぬくもりが、こんなふうに感じられるとは知らなかった。取引としてではなく、義務としてでもなく、約束としてでもなく。ただ……ただ生きているように。
……これが、お母さんを持つということかしら。誰かに、条件なく愛されるということかしら。
母親を、一度も知らなかった。本当の意味で。肖像画にその顔を見て、その優雅さと力について話を聞いた。でも、一度も感じたことがなかった。抱擁の温かさを一度も感じたことがなかった。すべてが大丈夫だと語りかける声を、一度も聞いたことがなかった。
親たちは一族をくれた。義務をくれた。責任をくれた。重荷をくれた。でも、これをくれなかった。温かさをくれなかった。安心をくれなかった。愛をくれなかった。
カイトの言葉が頭に響いた。
『君は彼らが望んだとおりの人間に、ちゃんとなっているよ』
そして初めて、あの言葉が本当に意味することを理解した。
冷たさへの批判だけではなかった。警告だった。同じ循環を繰り返しているという警告。ずっと憎んできたものに、なっているという警告。
……あんなふうにはなりたくない……。
今回は、自分に言い聞かせる嘘ではなかった。ついに受け入れられた真実だった。
冷たくいたくない。計算高くいたくない。空虚でいたくない。
彼女たちのようになりたい。自分の友情のために戦った春花のように。見返りを求めずに見知らぬ人を抱きしめたエレノアのように。
感じることを学びたい。愛することを学びたい。
どうすればいいかはわからない。どうすれば違う自分になれるかはわからない。でも、やってみたい。学んでみたい。
そして、長い時間の中で初めて、違う未来を夢見ることを許した。
一人ではない未来を。結果を計算せずに誰かを抱きしめられる未来を。仮面なしに、重荷なしに、恐れなしに、自分でいられる未来を。
……もしかすれば……もしかすれば、学べるかもしれない。もしかすれば、変われるかもしれない。もしかすれば、継承者以上の何かになれるかもしれない。
もしかすれば……私自身になれるかもしれない、と。
――涙を流した先に、
待っているものとは。
初めて手にした温もり。
初めて知った後悔。
そして、
逃げることのできない新たな戦い。
一人の少女は、
もう「観測者」ではいられない。
次回――
継承者、戦場へ
運命は、
彼女に選ぶことを許さない。




