見えない鎖と見える温もり
人は、
誰かとの出会いによって変わる。
強い言葉ではなく、
優しさによって。
正しさではなく、
理解によって。
閉ざされた心ほど、
その変化は静かに訪れる。
お兄様との再会は……奇妙だった。一言一言を、一つひとつの仕草を、声のトーンのすべてを、振り返って、見逃したものを探した。見せすぎた? 見せるべきでなかった何かを暴露した? 冷たすぎた? 計算高すぎた? ……あまりにも自分自身だった?
嫉妬。それが感じたものね。彼の自由への嫉妬。重荷を背負わずに世界を動き回れる、その能力への。
……なぜ彼だけが逃げられたの? なぜ彼だけが自分の道を選べて、私は物心ついたときから屋敷に縛られていたの?
不公平、と思った。その言葉が毒のような味がした。彼が望む者になれて、私が彼らの望む者にならなければいけない、それが不公平。
でも考えながら、それが本当ではないと分かった。カイトも一族の重みを背負った。カイトも訓練され、型にはめられ、家族が彼のために作った鋳型に合わせて折り曲げられた。違いは、彼が逃げる方法を見つけたことだ。
私には逃げられない。私は跡継ぎ。残らなければいけない者。
その考えはあまりにも慣れ親しんだもので、もはやほとんど痛みさえなかった。
でも……彼らのようになりたくない。冷たくも、計算高くも、空洞にも、なりたくない。
カイトが私を見て、そこに「両親と同じだ」と見たときの――あの苛立ちと悲しみの混じった表情が、忘れられなかった。
本当にそう? 本当に彼らに似ているの?
その問いが空中に漂ったまま、答えが来なかった。目を閉じると、疲れが覆いのように降りてきた。長い一日だった。啓示と向き合いと、答えられない問いに満ちた。
明日。明日、すべて考える。
でも眠りに落ちながら、ある映像がしつこく残った。床の上で震えるアリズの姿。そしてお兄様が、失望と、それでもまだ残る希望を混ぜた眼差しで私を見ている姿。
……彼らのようになりたくない。冷たくなんかなりたくない。計算高くなんかなりたくない。空洞になんかなりたくない。
* * *
冷たくて灰色の夜明けだった。気候まで私の気分に感染したかのような。目が覚めると、説明のつかない切迫感があった――何かが押し出してくる感じ、動けという感じ、何かをしろという感じ、じっとしていてはいけないという感じ。
今日はマーカス・ワイルドソウルに会いに行く、と服を着ながら思い出した。動かさなければ。行動させなければ。
ワイルドソウル一族の屋敷への道のりは、速く、ほとんど自動的だった。庭に姿を現して、いつものように存在を薄く溶かして、待った。朝の冷気が外套を通り抜けてきて、指先がかじかむのを感じた。でも動かなかった。動けなかった。会わなければいけない。話さなければいけない。動かさなければいけない。
ようやくマーカスが屋敷から出てきた。白い制服は隙のなく整えられていて、マントが風にわずかに揺れ、その存在感は噂に聞いていたとおりに圧倒的だった。胸の中に感嘆がちくりと刺さるのを感じた。
失ったもの、苦しんできたものがあっても、あのハンターは変わらずにいる。理念の人。すべてが崩れても、理想に縋り続ける人。
マーカスが車へと歩いていった。確かで揺るぎない足取りで。私は静かに動いて、彼が前のドアを開けた隙に――こちらへは目を向けていない、その隙に――後部座席のドアを開けて、滑り込んだ。
エンジンがかかって、しばらく静寂だった。
マーカスの後頸部を観察した。運転しながら肩がかすかに緊張している様子、ハンドルを握る指の力。緊張して、集中して――胸の中で何かが捩れた。
……何を考えているのかしら? どこへ行くの?
計画はシンプルだった。黒木の件の責任者になるよう、マーカスを説得する。それだけ。
走り続けていた。静かなままで。
ふと、ルームミラーを見た。
マーカスの視線があった。まっすぐ――私が座っているあたりに向けて。
心臓が跳ね上がった。胃にしこりができた。
あり得ない。ここに座っているのが分かるはずがない。あり得ないことだった。でも確かにマーカスの視線は、私がいる方向に向いていた。
……見られている気がした。汗が滲み始めた。
それからマーカスが口を開いた。
「……で」
穏やかで、制御された声で。
「あんたは誰で、俺に何の用だ?」
世界が止まった気がした。目が開いた。心臓が跳んで、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ――足元の地面が開いていく感覚がした。
どうして……どうして分かるの? 音を立てなかった。跡も残さなかった。存在は隠してあった、いつものように完璧に。なのに彼には分かった。
なぜ? 私の能力に盲点があるの? ミスを犯した? 慢心しすぎていた?
ようやく、能力を解いた。存在がまた見えるようになった。
「どうして分かったの?」
私は聞いた。声が意図したより鋭く出た。
マーカスが短く笑った。喜びのない笑いで。
「最初は分からなかった。でも俺には、ほとんどの魔術師が忘れた能力がある」
「魔術師が忘れた能力?」
「魔力の気配を感じる能力だ」
シンプルで短い説明が、胃にパンチを食らわせるように刺さった。ハンターたちとその特殊な能力に関する授業を、ぼんやりと思い出した。周囲の魔力を第六感のように感じ取ることができる者たちがいる――他の魔術師が技術に頼ることで退化させた能力。
……なんで忘れていたの? なんでこんなに舐めていたの?
「最初は分からなかったけどな」
マーカスが続けて、言葉の強調が自尊心に釘を打ちつけるように感じた。
「乗り込んできたとき、何も感じなかった。でも、あんたがここにいる時間が長くなるほど、存在が明らかになってきた」
顔に熱が上がってきた。自分の能力にあんなに自信があって、誰かに見透かされる可能性を考えてもいなかった。傲慢だった。
「私の能力は存在を完全に隠すもののはずよ。それでも分かったということは……」
「簡単なことだ。俺たち魔術師はみんな『痕跡』を持っている――あれが俺たちの生物的な性質だ。魔力がある以上、存在を隠しても、この『痕跡』だけは消せない。魔力の気配を感知する能力は、まさにそこを捉えるためのもの。気配がどれほど薄くても、『痕跡』がある以上、感じ取れる」
……完全に理解した。馬鹿じゃないから。マーカスなりの言い方と苛立ちを交えた説明だったけど、彼は正しかった。
完璧だと思っていた能力に、永久に埋まらない亀裂があった。それが今日、明らかになった。
屈辱だった。それが正確な言葉。
マーカスがルームミラー越しに私を見た。その目が、好奇心と、ほんの少しの満足の混じった眼差しで。
「でもまあ、エンバーストロム一族の未来の長か。思いがけない乗客だな」
自尊心が揺れるのを感じた。
「からかうのはやめて」
言った。声が意図したより冷たく出た。
「じゃあ、分かったなら直接話しましょう。黒木を尋問してほしいの」
その名前が石のように二人の間に落ちた。マーカスの指がハンドルに食い込む様子、肩が固まる様子、呼吸が浅くなる様子――すべてを見ていた。
「……できない」
マーカスが言い、かすれた囁きだった。
「それはできない」
「なぜ?」
と私は聞き、声がまた刃を取り戻した。
「あなたはそのケースに配属されたハンターよ。あなたの責任でしょう」
「……あいつは俺にとって重すぎる存在だったから」
マーカスが一度止まった。その手がハンドルをさらに強く握りしめて、指の関節が白くなった。
「友人だった。仲間だった。戦友だった。そして今は……今は憎しみしかない」
目を瞬かせた。その答えを予想していなかった。
「憎しみ」
と私は繰り返した。言葉が舌の上で奇妙に感じた。
「黒木を憎んでいるの?」
「憎んでる」
マーカスの声はほとんど囁きだった。
「あいつがしたこと、あいつが壊したもの、あいつが奪った命に対して。でも……」
間があった。指がわずかに緩んだ。
「かつての兄弟のことも愛している。それが一番痛いんだ」
胸の中で何かが捩れた。分からなかった。同じ人間を憎みながら愛することが、どういうことなのか。愛と憎しみが同じ心の中に共存できるということが。感情というのはなんて……乱雑なのかしら。なんて予測できないの。制御できる方が、ずっといい。
「……感傷的にならないで」
と私は言った。声が意図したより冷たく出た。
「仕事をして。黒木を尋問して。それが優秀なハンターのすることよ」
マーカスが笑った。楽しい笑いじゃなかった。苦くて、切れるような、嵐の中で折れる枝の音みたいな。
「一族の長になるお方は、効率の機械だということを忘れていたぜ」
その言葉が鞭のように打ちつけた。胸の中で何かが熱くなるのを感じた。指が緊張して、顎が引き締まった。
「機械じゃない」
と私は言い、最後の言葉がわずかに震えた。
「そうじゃないなら」
マーカスがルームミラー越しに私を見て、その目が見透かすような明瞭さで私を捉えた。
「跡継ぎとしてじゃなく、戦略家としてじゃなく、人間として行動しろ。ただの人間として」
口を開けたけど、言葉が来なかった。ミラーを見つめながら、頬に熱が集まるのを感じた。
私は人間よ。もちろん人間。けれど、ただの人間じゃない。マジクスの血も混じっている。どちらだと名乗るべきか──人間か、マジクスか。結局は両方なのに。
跡継ぎとしてじゃなく、人間として行動しろ、と彼は言った。けれど私は、人間としての感情を認めるわけにはいかない。そう育てられたから。効率的で、冷静で、感情を抑え込む存在として。
だからこれは言い訳なのよ。人間でもあり、マジクスでもある。どちらにせよ、感情をさらけ出す理由にはならない。私は未来の長。感情に縛られるわけにはいかないの。
……本当に?
その問いが空中に漂ったまま、答えが来なかった。
「……やる」
マーカスがついに言った。声が今度は柔らかかった。
「黒木を尋問する」
「……えっ?」
「やると言った」
マーカスが肩を竦めた。
「なぜこうしてくれと言ってくるのか分からないし、お前の動機も分からない。でも……」
間があった。指がハンドルからわずかに離れた。
「背中を押してくれた」
……胸の中で何かが捩れた。それをどう受け取ればいいか、分からなかった。その感謝をどう処理すればいいか、効率と制御のどこに収めればいいか、分からなかった。
必要なことをしてもらえる。それが大切なこと。それだけが大切なこと。
でも……その言葉が、心の中でさえ、本当に聞こえなかった。
マーカスが人気のない通りで車を止めて、こちらを向いた。
「ここで降りろ。俺には仕事がある」
機械的に頷いて、ドアを開けた。朝の冷たい空気が顔に当たった。風が髪に絡みついた。
「感謝する」
マーカスがそう言った。あまりにも小さくて、ほとんど聞こえないくらいの囁きで。
そこに立ち尽くした。人気のない通りのど真ん中で。車が遠ざかって、視界から消えていくのを眺めながら。
……感謝された。ありがとうと言われた。
その言葉が頭の中で響いた。胸の中で何かが温かくなるのを感じた。なぜか分からなかった。どう処理すればいいか分からなかった。ただ、奇妙で、居心地が悪くて、予想外だということだけが分かった。
……私は別にたいしたことをしたわけじゃない。
でも温かさは消えなかった。そこにあり続けた。頑固に。説明を拒みながら。
なぜ感謝されたの? 特別なことは何もしていないのに。
でも……その言葉と、その瞬間が、彼の中の何かに触れたことは確かだった。彼自身が触れたくなかった場所に。
そしてそれが何だったか、私には分からない。
通りを歩きながら、朝の冷気を顔に感じながら、思考がその言葉の周りをぐるぐると回り続けているのを感じた。
これに気を取られていられない。気散じをしている場合じゃない。もっと大切なことがある。
でも言葉はそこにあり続けた。頭の中で響き続けて、初めて長い間、それを黙らせる方法が、私には分からなかった。
* * *
魔術師のための病院は、知っている場所だった。患者としてではなく―――いつも観察者として、外側から見ていた場所。人間の目には映らない、無味乾燥なビルたちの隙間にひっそりと溶け込んだその建物は、幾重もの秘匿の術式に守られていた。壊れた者たちを治す場所。戦争と狂気に打ち砕かれたものを繋ぎ直す場所。入口をくぐりながら、そんなことを考えた。
受付カウンターの奥に、年配の女性が座っていた。穏やかな顔立ちをしているのに、その目だけが妙に疲れていた。こういった場所に長く居る人間というのは、どうしてみんな同じような目をするのかしら――そんな考えが頭の隅をかすめた。
「いらっしゃいませ。ご用件はいかがでしょうか?」
その声は、おそろしいほど穏やかだった。感情が削ぎ落とされた、職業的な柔らかさ。
「春花・ナイトシェイドに会いに来たわ」
言葉を発した瞬間に感じた。エンバーストロムの名を継ぐ者としての声が、喉の奥から自然に出てきたことを。揺れなかった。迷わなかった。それが少しだけ、滑稽に感じた。
受付の女性は登録簿に視線を落とし、何千回と繰り返してきたであろう動作で指を走らせた。
「春花・ナイトシェイド様は本日退院予定でございます。二〇四号室にいらっしゃいますので、面会なさるか、共有室でお待ちいただくことも可能ですが」
「部屋へ行くわ」
返答を待たずに歩き出した。足元は迷わなかった。目的地が明確であれば、体はいつも正直だ。
廊下は静かだった。閉じられた扉がいくつも並び、その一枚一枚の向こうに、誰かの傷が眠っていた。あるいは秘密が。あるいはその両方が。革底の靴の音だけが、しんと静まったフロアに刻まれていく。
春花・ナイトシェイド――変身プロジェクトの天才。魔術師たちの流れを変えうる者。そう聞いていた。
二〇四号室の扉の前で立ち止まり、ノックした。
「どうぞ」
中から声がした。静かで、少しくたびれていて、それでも芯のようなものがわずかに混じっていた。その一言だけで、少し意外だったかしら、と思った。もっと疲れ果てた声を想像していたから。
扉を押し開けて、中へ入った。
春花は窓際に立っていた。私服に着替えていて、柔らかな波を描く髪が肩に落ちていた。朝の陽光が窓から差し込んで、その横顔を照らしていた。一瞬、人間を見ているのか、絵画を見ているのか分からなくなった。
――ずいぶん、整った人ね。
抑制が利いていて、余計な動きがなく、感情が外に漏れない。まるで……私みたいだと思った。
「エンバーストロム一族の次期長、楓・エンバーストロム 」
春花の声に、微かな驚きが滲んでいた。不快ではない種類の驚きだった。
「なにかご用でしょうか?」
微笑んだ。口の端を、計算された角度で上げる。心を映さない、いつもの笑顔。
「提案があって来たのよ。でもその前に……」
一歩、前へ出た。
「ファウスティーヌ・ナイトシェイドが釈放されて、変身プロジェクトを主導しているって、知ってるかしら?」
春花の表情が、ごくわずかに翳った。翳った、というより――内側に沈んだ、と言った方が正確かもしれない。
「……はい」
その声は、さっきより一段、柔らかかった。
「聞きました。あの方の方が、私より詳しい。私にできなかったことを、あの人ならできる」
何か、胸の中でぐ、と締まるような感覚があった。
期待していなかったわけじゃない。この反応が来るかもしれないと、頭の中でとっくにシミュレーションしていた。でも、こんなにすんなりと言われると――なんだか予想通りすぎて、かえって胸の奥が重くなった。戦わずに退いている。恐れが、この人の背中を押している。
そんなことは、させてたまるものですか。
「本当にそう思っているの?」
声色が変わった。柔らかさを削ぎ落として、直接的になった。
「ファウスティーヌがあなたより優れているって?」
春花がこちらを見た。その目の奥で、痛みか怒りかわからないものが揺れた。
「信じるかどうかの問題ではありません。事実です。あの方が変身プロジェクトの創始者。私はその補佐に過ぎない 」
「でも、あなた自身の解釈を加えた。あなた自身のビジョンを注いだ。あなただからこそ、プロジェクトを前進させることができた」
春花は首を振り、窓枠を握る指が、微かに白くなった。
「理解していただけないようです。ファウスティーヌは私の師です。私が知っていることは、すべてあの方から学んだ」
「では――その師があなたを対等に見ていないことも、学んだのかしら?」
声を、もう一段低く落とした。
春花の目が、わずかに見開かれた。驚きと、何かもっと深いところにある、認識のようなもの。
「……どうしてそれを」
「一族がどう動くか、知っているから」
一歩、近づいた。もうすぐそこに彼女の息遣いがある距離まで。
「才能を利用して、使い終わったら脇に置く。そのやり方を、よく知っているわ。ファウスティーヌは、なぜここへ来ないの? なぜ電話一本もないの?」
声を、意識的に柔らかくした。
「春花さん。あなたはここに一人で置かれている。それが、弟子を大切にする師の行動に見える?」
春花は黙った。視線が窓の外へと流れていった。
「変身プロジェクトに戻ってほしいの」
囁くような声になっていた。
「ファウスティーヌのためでも、一族のためでもない。あなた自身のために、あなたの価値を証明してほしい」
春花がこちらを見た。その瞳の中に、希望と恐怖が混在していた。
「……なぜ、そこまで? あなたは何を得るの?」
その問いが、静かに胸に刺さった。
開いた口に、言葉が来なかった。
なぜ。何を得る。
この問いに、きれいな答えは持っていなかった。複雑に絡まっていて、声にできないものが、胸の底に沈んでいた。
「あなたにはできると思っているから」
やがて、そう言っていた。言ってから、その言葉の重さに自分で少し驚いた。
「才能がある。ビジョンがある。意志がある。あなたなら世界を変えられると、本気でそう思っているわ」
春花の目が、かすかに滲んだ。
「……自信がないんです」
声は、ほとんど囁きだった。
「私には、できないかもしれない」
「私には、できると思っているわよ」
沈黙が下りた。
その静寂を、扉のノック音が破った。
振り返ると、扉がゆっくりと開いた。
長身で細身の人物が、入ってきた。アザエル――マジクスの世界から来た魔法使いだと聞いていた。その存在感は、部屋に入った瞬間から感じた。空気の密度が変わったような、魔力の質が変わったような。マジクス純粋。それが何を意味するか、頭では理解していたが、実際に同じ空間にいると、肌がそれを先に感じた。
「春花」
その声は低く、穏やかで、本物の温度があった。
「迎えに来たよ。ナイトシェイドの屋敷へ向かおう」
春花の変化は、隠せなかった。目が明るくなった。体から緊張が溶け出した。窓枠を握っていた指が、ゆっくりとほどけた。
「アザエル」
その声は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
「来てくれたのですね。……あちらはどうでしたか?」
「もう終わったよ。ただ、問題はまだ増えるばかりだけれどね」
アザエルが春花へ一歩近づいた。
「それより……君は、どんな具合だい?」
……この二人、どういう関係なのかしら?
師と弟子にしては、近すぎる。友人にしては、何か違う。もっと深いところに根ざした、名前のついていない何か。
「楓・エンバーストロム」
声をかけられて、思考が途切れた。
アザエルがこちらを見ていた。その目は穏やかなのに、どこかを貫いてくるような鋭さがあった。
「ここで何をしている?」
「春花さんに、変身プロジェクトへ戻ってほしいとお願いしに来たのよ」
我ながら、思ったより冷たい声が出た。
「あの方ならできると思っているから」
アザエルはしばらく、黙ってこちらを見ていた。
「……なぜ、彼女がそれをすべきだと思う?」
また同じ問いだ。
口を開いた。言葉が、来なかった。
アザエルの目が、こちらを静かに読んでいた。表面だけでなく、もっと奥を。
「信じているから」
最終的に、そう言った。
「春花さんの才能を信じているから。彼女が魔術師たちに、真の変革をもたらすと、信じているから」
アザエルは長い間、こちらを見つめてから、ゆっくりと笑った。
「それで十分だよ」
胸の中で、何かが、ほんの少しだけ緩んだ。何が緩んだのか、名前はわからなかったけれど。
「実を言えば、春花がプロジェクトへ戻ることを、私も支持しているんだ」
……えっ。
「それは……意外だったかしら」
思わず、素直な言葉が出た。
「この視点を共有してくれる方がいらっしゃるとは、嬉しいわね。春花さんのポテンシャルを見てくれている方が」
アザエルは春花の隣に立ち、その大きな手をゆっくりと彼女の肩へ乗せた。
重くて、でも穏やかな動作だった。
「君は、間違えているよ、楓さん」
その言葉は、静かだった。静かなのに、全部の空気を変えた。
「……は?」
「私たちは、視点を共有していない。私は彼女に、君が言うような『ポテンシャル』を見ていない」
まばたきをした。ほとんど気づかれない程度の、ごく小さなまばたきを。
でも自分では感じた。
「……では、何を見ていらっしゃるのかしら、アザエル様。あれほどの魔術的知性を持つ方が、彼女の中に魔術工学的価値を見出せないと? 一体何が見えているというの?」
「生まれた時から、一族全体の期待をその背中に背負ってきた子を見ているんだよ」
アザエルの声は、変わらず穏やかだった。穏やかなのに、重かった。
「眠れない夜を知っている。式が噛み合わない時の焦りを知っている。死の縁に立ってもなお、まだ恐怖を抱えたまま今ここに立っている、その目を知っている。……私には計画などどうでもいい。彼女の価値は、その有用性ではなく、彼女自身にある。彼女が無事でいること。それだけが重要だ」
なんだ……これは。
頭の中で、何かが、ごつりと音を立てた。
頭の中に広がる静けさが、不快だった。
計算ができなかった。
アザエルの言葉に、変換できる数式がなかった。感情的利益でも、戦略的価値でも、血統的優位でも、何もなかった。
あるのは――ただ、春花という個人を見ているという、それだけだった。
……魔力の流れとも関係ない。プロジェクトの進捗とも無関係。彼女の生産性も、一族への貢献も、何も求めていない?
エンバーストロムの屋敷の中で、誰かに肩を触れられるとしたら、それは命令の前か、叱責の前か、そのどちらかだった。穏やかに、ただ傍にいるための接触など―――記憶の中に、一度も存在しなかった。
それは、社会学の教科書の中の言葉だった。
それが、今、すぐ目の前で起きている。
二人の間にある空気は――血の繋がりなど、どこにもないのに――まるで父と娘のようだった。
……なんなの、これ。
ぐ、と手が握られた。自分の手が。右の手が。掌に爪が食い込んでいた。
目の奥が、変だった。何か異物が入ったような、ひりりとした感覚。
でも異物など、何もないことはわかっていた。
春花が、アザエルを見上げた。
「アザエル……」
その声は震えていた。でも以前とは違う種類の震えだった。
「ファウスティーヌに会いに行くべきでしょうか。プロジェクトは、私がいなければ……同盟も、私を必要としている。戻るべきなのでしょうか?」
息を止めた。
当然、戻ると言うだろうと思った。強力な味方として命じるだろうと思った。
「春花」
アザエルは、ただそれだけ言った。
肩へ置いた手に、ほんの少し力を込めた。
「君の心が、そうしたいと言うなら行きなさい。もし研究室へ戻って、あのプロジェクトを終わらせたいなら、私が護衛として付く。誰にも二度と、指一本触れさせない。でも――もし君が、あのプロジェクトを捨てて二度と魔術円に触れないと決めたとしても……私は同じように、君の傍にいる。君がどちらを選んでも。どんな決断をしても。私はここにいるよ」
静寂。
何も、言えなかった。
何かを言おうとした。でも言葉というものが、頭の中から完全に消えていた。
『どちらを選んでも』。
何も要求しない。何の条件もない。ただそこにいる、という。
……それは、どういう概念なの。
論理構造が崩れた。
『どちらを選んでも、私はここにいる』――その言葉が、頭の中で反響した。何度も、何度も。
エンバーストロムに、そういう人間はいなかった。どんな選択にも、常に条件があった。常に評価が伴った。血統の価値を証明しつづけない限り、そこに立つ権利はなかった。
それが当たり前だと、思っていた。
目の奥の、異物感が強くなった。
勝手に動いた手を、背中へ回して、隠した。掌の爪痕が、じくりとした。
なんとか。
なんとか、笑顔を作った。
作った笑顔は、いつものそれとは違った。自分でわかった。軽さがなかった。あの愉快な弧が、どこかへ行ってしまっていた。
「……まあ、まあ」
声が、少し低かった。
「随分と胸に響く家族的なお時間ですわね、お二人とも」
できるだけ、いつものトーンに近づけようとした。届かなかった気がした。
「これ以上、門外漢が立ち入るのは無粋というものかしら。失礼させていただくわ」
踵を返した。スカートが、音もなく翻った。
「楓様、待ってください」
春花の声が、背中に届いた。
思わず、止まった。
振り返ると、春花が一歩前に出ていた。
「何かしら?」
「ファウスティーヌのところへ、今すぐ行きます。……一緒に来ていただけますか?」
……えっ。
「一緒に、とは?」
「ここまで来てくださった。それだけで、あなたの言葉を信じる理由としては十分です」
春花の目が、まっすぐだった。
その真っ直ぐさに、胸の奥で何かが音を立てた。
「……なぜ私に同席を? 何を求めているの?」
「証人になってほしいんです。ファウスティーヌとの、再会の」
「証人……再会……なんだかとても仰々しいのね、春花さん」
思ったより素直な口調になっていた。
「まるで儀式みたいに言うのね」
「私にとっては、そうだから」
春花の声は、揺れていた。でも折れなかった。
「……重要なことなんです。私にとっては。そして、私を信じてくれた人に、それを見ていてほしい」
何も言えなかった。
言えるはずだった。いつもなら、すぐに言葉が出た。
でも春花の顔を見た瞬間、言葉が全部、どこかへ行ってしまった。あんなに恐怖に揺れていた目が、今は前だけを見ていた。
……こういう顔ができる人間が、いるんだ。
……私も、こういう風に前を向けるのかしら。いつか。
「……わかったわ。行くわよ」
扉に手をかけた。振り返らなかった。
「何を選ぼうとも、春花さん……盤面は動き続けるから。せめて――見ていて損のない選択をしてちょうだいな」
それだけ言って、扉を開けた。
「では駐車場でお待ちしているわ」
扉が、かちりと閉まった。
廊下に出た。
一人になった。
歩かなかった。しばらく、壁に背を預けて、そこにいた。
天井の白い蛍光灯が、静かに輝いていた。誰もいない廊下が、細長く伸びていた。
磨き上げられた床に、革靴の爪先だけが映っていた。
『どちらを選んでも、私はここにいる』。
……まだ、頭の中にあった。
押し流せなかった。
右の手が、まだじくじくしていた。
人間の繋がりというものが、今日ほど、複雑に感じられたことはなかった。計算できなかった。変数が多すぎた。いや、そもそも―――この方程式には、私が知っている数式が、存在しなかった。
どんな上質な茶でも、この感覚は溶かせない、と静かに思った。
どんな計算も、あの光には届かない。
……でも、それが何なのかを、今日少し、知った気がした。
――凍りついた心は、
本当に溶けるのだろうか。
長い間、
感情を押し殺してきた少女。
そんな彼女を待っていたのは、
思いもよらない再会だった。
優しさは、
時にどんな魔法よりも強い。
次回――
凍てつく心に咲く花
涙は、
弱さではなく、
新しい一歩の始まりとなる。




