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束の間の自由と永遠の鎖

誰にも見つからないこと。


それは時に、


孤独であることと同じ意味を持つ。


誰にも気づかれず、


誰にも知られず、


ただ静かに世界を見続ける。


その瞳は、


何を見てきたのだろうか。

戦場の風がまだ頬を撫でていた。


くるり、と踵を返した。優雅に。まるで、はじめから結末が分かっていた会話を締めくくるように――ええ、実際そうだったのだけれど。指先にはまだ、たった今結んだ契約の残滓が微かに絡みついている。その指でそっと空中に円を描いた。呼吸と変わらないほど自然な、たった一つの仕草で、現実は私の意志に従って折り畳まれていく。崩れ落ちた神社、横たわる骸、そして……ヴィクターの眼差しの重さ。それら全てが、紫の光の囁きの中に溶けて消えた。


目を開ければ、そこは自分の部屋だった。


エンバーストロム邸が、いつも通りの静寂で私を迎えてくれる。足音を吸い込む絹の絨毯。青みがかった色調でほのかに瞬く魔力の照明。幼い頃からずっとそばにあった、お香と古い木の薫り。私はベッドへと身を沈めた――普段であれば、自分の立場には似つかわしくないと思ったであろう、そんな崩れた仕草で。疲労感が温かな水のように骨の中を流れていくのを、ただ感じていた。


そして、微笑んだ。


広い笑みでも、勝ち誇ったものでもない。小さな、ほとんど秘密めいた笑み。何ヶ月もかけて、音もなく組み上げてきたパズルの、最後の一ピースを置いた者だけが浮かべられる笑みだ。


……ヴィクター、かしら。


金色の髪の一房を指先でくるくると弄びながら、思う。


やっと……やっと、捕まえたわね。


契約は今、目には見えない一本の糸として私たちを繋いでいる。胸の奥でそれを振動として感じることができた。奏者が弓を離した後も、空気の中に音が漂い続けるように。これは縛鎖でも、鎖でもない。どちらかといえば……灯台のね。約束よ。彼は受け入れ、私は与えた。今、二人は互いに、どちらもまだ完全には理解し切れていない何かへと繋がれている。


――でも、私は理解することになる。


目を閉じながら、過去が私を包み込んでいくのに任せた。だって、そのためにずっと、観てきたんだもの。


♢ ♢ ♢


エンバーストロム一族の跡継ぎとして生まれたのは、いつだって変わらない事実だった。ただ……そのことを、ずっと知っていたわけじゃなかった。


物心ついた頃から、家庭教師と本と規範に囲まれていた。「将来の一族の頭領として、こうあるべき」という言葉が、毎日毎日繰り返された。仕草の一つひとつ、言葉の一言ひとこと、頭の下げ方の角度に至るまで、全て矯正され、磨き上げられ、完璧に仕上げられていく。笑い方を覚える前に、微笑み方を学んだ。歩き方を覚える前に、礼の取り方を覚えた。


……どうして私だけ?


遠くから兄妹たちの様子を眺めながら、よくそう問いかけた。どうして、あの子たちは自由でいられるの?


答えは、年を重ねるうちに自然とやってきた。私が「選ばれた」からだ。知性でも、力でもない。一族の誰も持ち得なかった資質を持って、生まれてきたからだった。長老たちでさえ、言葉で説明できないほど希少な、不思議な能力。


それは、自分の「気配」を消すことができる、というものだった。


透明化でも、擬態でもない。もっと繊細で、もっと深いもの。人で溢れた部屋の中にいても、誰も私の存在に気がつかない。二人の人間が話し合っていても、その間を歩けば、言葉が空気を通り抜けるように私を素通りしていく。見て、聞いて、学ぶことができる――誰にも知られることなく。


「才能よ」と家庭教師たちは言った。「御先祖様からの賜物」だと。


でも、私には分かっていた。これは呪いでもあるのだと。


誰にも見られることなく全てを見ることができるということは、誰も見せたくないものまで見えてしまうということだから。制度の中の亀裂も、癒えない傷も、影の中で紡がれる嘘も、全部ね。


そうして、アカデミー・エンディミオンで生徒たちの間を誰にも気づかれないまま歩き回っていた、あの日。ヴィクターに出会った。


ヴィクター・グリムストーンは、他の誰とも違った。近づきがたいわけでも、強いわけでも、格好いいわけでもない。ただ、どこか遠い世界に属しているように見えた。ただ彼は……何者かになろうとしていなかった。他の生徒たちが成績や家柄や魔力を誇示し合う中で、ヴィクターは肩を落として歩き、その視線は倦怠と疲労の間、どこか中間点に向けられていた。授業に興味を持つふりもしない。誰かを感心させようとしない。ただ、そこに……いた。


自由ね、と最初に見た瞬間に思った。あの子は、自由だ。


全ての身振り、全ての言葉、全ての呼吸までもを稽古してきた私にとって、そのような重荷なしに動く人間を目にするのは、新しい色を発見するようなものだった。目が離せなかった。観察せずにはいられなかった。


だから、そうした。


日々、週を重ねて。ヴィクターを、気づかれないまま追いかけた。彼の日課、仕草、小さな癖を覚えていった。苛立ちを感じた時に手で髪を掻き上げる仕草。工学の話をする時だけ、目の中に光が灯る瞬間。誰かに侮辱された時、まるで何も感じていないかのように肩をすくめるあの仕草。


――でも、本当は気にしているのよ。


やがて気がついた。気にしすぎているから、気にしていないふりをしなければならないの。


それから、ヴィクターの親友も観察した。蓮次郎を。


最初から、蓮次郎・アッシュフォードは危険な人間だと分かっていた。力のせいではない、その眼差しのせいで。人を見ていない眼だ。人が解決してくれる問題を、見ている眼。他者を歯車のパーツとして、より大きな機構の部品として眺める眼。


ヴィクターには見えていない、と思った。ヴィクターの傍らで蓮次郎が彼を操るのを、当たり前に息をするように行うのを眺めながら。見たくないのかしら。それとも、見られないのかしら。


だから、蓮次郎の実験についての噂が流れ始めた時も、驚かなかった。ワイルドソウルの一族のハンターたちが調査を開始した時も、もうとっくに知っていた。陰陽師との戦争が勃発した時も、既にそれを予期していた。


でも、何もしなかった。したくなかったからではなく、ヴィクターには自分自身で真実にたどり着く必要があると分かっていたから。蓮次郎が何者になったかを、自分の目で見なければならない。壊れなければ、再び立ち上がれない。


――だから、そこにいてあげる。


準備ができた時に。倒れた時に。助ける手を必要とする時に、と自分に誓った。


エンバーストロム一族は七つの一族の中で最も強力なだけでなく、最も多くの情報を握っていた。マジクスの世界と地球の「境界の門番」として果たす役割が、他の一族が想像すらしないような秘密へのアクセスを与えてくれる。だから、こんなにも知っているのよ。アイリス・ワイルドソウルの行動を何時間も尾行していた頃のことを思い出しながら。


アイリスはワイルドソウル一族のハンター総司令官。眼光の鋭い女性で、車椅子の上でも、他の魔術師たちが戦場で動き回るのと変わらない威厳を放って動いていた。麻痺は彼女を弱めなかった。むしろ、より危険にした。身体の制約を頭脳で補うことを覚え、他者が見えないものを見て、他者が予測できないことを予測する。


……なかなかの好敵手ね。


アイリスのオフィスに、気配を消して忍び込み、書類を読んだ時のことを思い出す。情報は広大で、詳細に満ちていた。文書は、ワイルドソウル一族がアッシュフォード一族とウィンターフォール一族と協力して反逆者を追跡していることを明かしていた。陰謀者の大半を捕らえ、秘密の拠点を発見したこと。黒木、蓮次郎、レオ、モニカが主要な首謀者であること。でも、まだ誰も突き止めていない誰かが、影から糸を引いていること。


……真の黒幕ね。この全ての背後にいる者。


蓮次郎の無限魔力生成機械が今は黒木の手にあること。陰陽師が盗んだ謎の石のこと。春花・ナイトシェイドやエレノア・ウィンターフォールへの攻撃のこともね。


……手がかりが多すぎる。ほつれた糸が多すぎるわ。誰かが網を編んでいて、他の全員はただその中に捕らわれた虫に過ぎない、かしら。


神社への襲撃の日、私はその最初から、そこにいた。観察しながら。待ちながら。ヴィクターが最前線に立つことも、黒木が現れることも分かっていた。でも、レオが黒木を引き込むとは……それだけは予測できなかった。そして全てが、引き返せない一点へと加速していくことも。


ヴィクターが戦うのを見た。迷うのを見た。混乱が周囲で渦巻く中、絶望へと落ちていくのを見た。人狼へと変貌した両手が震えるのを。その眼の光が、どこか遠い虚空に消えていくのを。そして、息が乱れていくのを。


……今よ。今しかない。


気配を消したまま、彼に近づいた。体の温もり、早鐘を打つ心臓、汗と土の匂いが伝わってくる。ヴィクターが誰にでもなく、助けを求めるように呟いた、その瞬間。


微笑んだ。


――ずっと待っていたわよ、ヴィクターくん。


契約は、シンプルだった。耳元へと囁いた言葉。短い抱擁、まるで母のような温もりの。魔力と意志で封じた約束。ヴィクターの魔力が上昇するのを感じた時――身体が張り詰め、その眼差しがレオへと新たな決意をもって向けられた時――確信した。


勝った、と。


その後で何を失うかなど、関係ない。大切なのは、今、あなたが私のものになったということ。


♢ ♢ ♢


目を開けると、天井がそこにあった。静かに、黙したまま、私の思考を見届ける証人のように。


ゆっくりと起き上がる。契約の魔力が、もう一つの心臓のように内側で脈打っているのを感じながら。


……動かなければ。


陰陽師との戦争は終わった。でも、本当の戦いはここから始まる。頭の中では既に、道筋が描かれていた。


まず、黒木。収集した複数の情報によれば、黒木はかつてマーカス・ワイルドソウル――一族最高クラスのハンターの一人――の仲間だったらしい。黒木が捕らえられた今、そのハンターこそが彼を語らせる鍵になる。次に、春花。変身プロジェクト。レオ、そしてその後に続く者たちへ対抗するための、鍵になり得るかもしれない。問題は、春花の状態がまだ謎に包まれていること。最後の報告では、陰陽師に攻撃されて、ファウスティーヌ・ナイトシェイドが代わりにプロジェクトを引き継ぐことになったと……三つ目は、エレノアと、その生きた人形ね。あの造物には、どこか嵌まらないものがある。理解する必要がある。報告によれば、陰陽師たちがウィンターフォールの屋敷を攻撃した目的は、エレノアただ一人のためだった。それだけで、何かがおかしい。


すべての駒が、脚本通りの方向へと動き始めている。


両手を膝の上で重ね、指を優雅に絡み合わせる。鋭く研ぎ澄まされた頭脳の中で、細部まで記憶した情報報告書を、ページをめくるように展開していった。他の一族が厳重に鍵をかけていると思い込んでいる情報書類も、私にとっては眠る前に読むお伽噺と変わらない程度のものだもの。


……可哀そうな、マーカス・ワイルドソウル。


首をかしげながら、心の中で嘘くさい同情を浮かべ、それが口元の意地悪な笑みへと変わっていく。エンディミオンでの魔力略奪事件を怒り狂った子犬のように追いかけ回して、ダミラ・アッシュフォードと組んで、それが黒木の手に落ちるのを見届けるだけとは。なんて予測可能な悲劇。屋敷を調査して、魔力を枯らされた魔術師たちの骸を見つけた……ああ、そうね。黒木には陰陽師たちの野望を支えるための魔力が必要だったから。ボロボロになったハンターが、かつての親友への正義を求めて走り続けている。


それに、ナイトシェイドの可愛らしい影たちも負けてはいなかったわよね?


春花。あんなに愛らしく、自分の変身プロジェクトに夢中で。必死に魔術師を変容させる方法を探していた……陰陽師に攻撃されて、心に傷を負って、今では一族が仕方なくファウスティーヌ・ナイトシェイドを追放先から呼び戻すことになった。全てが、こんなにも……美しく連鎖している。一人の痛みが別の一人の行動を押し動かすのは、なんて素晴らしいのかしら。


くすっ、と笑いが漏れそうになって、手の甲で口元を押さえた。


エレノア・ウィンターフォールだって、この交響曲に自分の音符を加えてくれたわよね。ベアトリクス・クロスの――人間の魂を使って人工的な生命を作るという、あのおぞましいアイデアを暴いて。そして、あの人形……リリウム。意識を芽生えさせ、独自の魔術まで発現させていく、異常な造物。喋る人形……なんて楽しいコンセプト! いつか、一緒に遊ばせてもらおうかしら。


慣れない目には、マーカスの話も、春花の調査も、エレノアの葛藤も、ヴィクターの受難も、それぞれ無関係の、偶然から生まれた出来事に映るでしょうね。


でも、私には見える。それぞれの点を結ぶ、目には見えない魔力の線が。みんな自分だけのトンネルを掘っていると思っている……でも、掘り進んだ先で気づくはず。全ての根が、同じ一本の枯れた木から伸びていることを。


マーカスが発見した枯れた骸、春花が探し求めているもの、ベアトリクスが関わっていたエレノアにまつわる魂の実験……そして、レオ・アッシュフォードとモニカが持ち込んだ独自の思惑。全てが、ここへ収束してくる。自分こそが策士だと信じながら、みんな糸を引いていた。でも実際には、同じ一つの舞台で踊るだけの操り人形に過ぎなかったの。正しい欠片を正しいタイミングで与えて、この戦争を解き放った者が、どこかにいる……その賢い影は、一体誰かしら。


――でも、それより先に。


いたずらっぽい笑みが口元に浮かんだ。


お兄様に、会いに行かなければ。


* * *


アカデミー・エンディミオンは、静けさに包まれていた。


戦争は終わり、生徒たちは日常へと戻りつつある。世界が崩壊しかけていたことも知らないまま、何事もなかったかのように。廊下を気配を消して歩きながら、自分の置かれた状況の皮肉さをひそかに楽しんでいた。彼らの横を通り、顔を見て、会話を聞いて……でも、エンバーストロム一族の次期長が、すぐそばにいるとは誰一人知らない。


軽やかに、ぴょんと弾むような足取りで、廊下を進む。両腕を背中で組んで。周囲では何十人もの生徒が行き交い、視線を向ける者は一人もいない。透明になったわけじゃない――身体はちゃんとここに存在して、光を反射し、空間を占めている。ただ、「気配」を消しているだけ。あらゆる生き物の頭の中で、私は壁や埃と同じ存在になる――完全にどうでもいい何か、として。


……なんて素敵な技能なのかしら、かしら。


内心で、貴族的な優越感をたっぷり帯びた笑みを浮かべた。自分の存在を感じさせずにいられるのは、私のような人間にとって本当に都合がいい。世間の不幸を観察するのに、一般の人たちとかかわる必要がないんだもの。ただ一つだけ気をつけなければならないのは、誰かにぶつかってはいけないこと。そうしたら魔術が解けて、どうしてここにいるのかを説明しなければならなくなる。本当はお茶でも飲んでいるはずなのに、って。


目標はシンプル――お兄様の教室か、事務室を見つけること。問題は、エンディミオンが迷宮のようであること。それと、自分を誰も見ていないと思っている魔術師の学生たちは、品位という概念をどこかに置いてきてしまっている。


最初の角を曲がったところで、最初の奇妙な光景に出くわして、足を止めた。


二年生の男子生徒が一人、目の下にどす黒いクマを作りながら、ジュースの自動販売機の前に膝まずいていた。両手は神秘的な祈りの形に合わせられている。販売機のスリットに向かって、細い魔力の糸を流し込みながら、血走った目で囁いていた。


「いにしえの契約の偉大なる霊よ、この訴えを聞き届け賜え!」

……と。

「神秘の啓示も、変容の秘法も求めてはいない……ただ、バネに引っかかったリンゴジュースを落とし賜え! 三時間の睡眠を捧げたのだから、頼む!」


販売機がパチッと火花を散らし、エラー音を一つ鳴らして、硬貨を飲み込んだ。男子生徒は頭をガラスに打ちつけて、声を殺して泣き崩れた。


……なるほど。魔術の進化の頂点が、砂糖の密輸に使われているのね。


首をかしげながら、心の中でしみじみと哀れみを浮かべた。やっぱり、この学校の教育水準は申し分ないわね。


先へ進むと、今度はロッカーの近くに戦闘系魔術師の男子三人組が集まっていた。円を作り、開いた魔導書を真剣に覗き込んでいる。禁断の変容魔術陣か、戦術地図かと思って肩越しにそっと覗いた。


魔導書は、薬草学の女性教師の脚がクラップダンスを踊る場面を、立体魔術映像で超高解像度に映し出していた。


「本当に言うだろ、このグリモワールの魔力レンダリング・アルゴリズム、完璧すぎる」

と一人が研究者みたいな口調で囁く。

「スカートの裾の物理演算を見ろよ。これは純粋な工学だ。ヴィクターなんて目じゃない」

「風紀委員会に見つかったら記憶消去されるぞ」

ともう一人が汗をかきながらも目を離せずにいた。

「でも完全にリスクに見合う価値がある。これは一般教養だ」


……一般教養。自分たちの低俗な本能に、なんと詩的で優雅な言葉を使うのかしら。


心の中でくすりとしながらも、ちゃんと歩き続けた。それにしても、私のヴィクターくんならもっと上手いものを作るでしょうに。


調合実験室の近くへ差し掛かった時、廊下は不思議なことにがらんとしていた……ただ一人の生徒を除いて。その生徒は全速力で走りながら、床から半メートルほど浮いた状態で、うつ伏せに漂っていた。足が天井に向かって真っ直ぐ突き上がっている。


「助けてください! 浮力魔術の効果が重力軸で逆転した!」

と男子生徒が空気抵抗を受けながら叫んでいた。

「対抗魔術をかけてください! 酔ってきたし、お昼ごはんが出てこようとしてる!」


誰も助けなかった。なぜかといえば、エンディミオンでは火曜日の午後に誰かがうつ伏せで浮いているのは「普通のこと」として認識されているから。


しゃがんで、頭上を素早く通り過ぎた暴走箒を避けた。誰も乗っていなかった。代わりに、モップとバケツが養生テープで括りつけられていて、まるで意思を持ったかのように、逃げ惑う生徒を追いかけながら石鹸水を浴びせていた。


「ごめん! お前の空気抵抗を馬鹿にしたのは謝る!」

生徒が叫んだ。

「ニンバスブランドの方が上だとか、そんなこと思ってない! 本当に!」


箒は怒りを増したようで、モップの一撃で生徒をロッカーに叩きつけた。


……これはもはや学術機関ではなく、政府の予算がついた精神病院ね。


心の底から楽しみながら思った。一族の顔を維持する必要性から解放された魔術師たちは、生きたジョークになり果てる。


やっと静かな区画を求めて、上級理論の教室がある方へ向かおうとした時、中庭の内側へと向いた窓を通り過ぎた。その隅の隠れた小さな空間に目が留まった途端、ある光景が両の目に飛び込んできた。白い詰め襟の制服を着た男子生徒が、女子生徒に告白していた。炎の魔術で宙に文字を作るという、ロマンチックな演出まで用意して。「付き合ってください」と光る炎の文字が浮かび上がって……その瞬間、冬の風が向きを変えた。


燃える文字は装飾用の低木へと吹き飛んで、植え込みが即座に燃え上がった。


「ああ! 君への愛が燃え上がって、自然界まで焼いてしまうよ!」

と男子生徒は完全にパニックになりながら、靴で植え込みを踏み消そうとしていた。

「ロムアルドくん、あんたって本当に馬鹿ね」

と女子生徒が杖でひとつ叩いてから背を向けた。


向かい側の壁にもたれて、頬に手を当てながら、魔術の思春期のコントを心ゆくまで楽しんだ。でも、ぼんやりしてはいられない。お兄様を探しに来たのだから、全員が通るメインの中庭へ繋がる廊下で待つことにしよう。


そこに見た。


木の下に座っている男子生徒。膝の上に魔術陣の参考書を広げて。髪は手入れされておらず、目の下にクマがある。その表情には、集中と疲労が奇妙に混じり合っていた。


何かが、ヴィクターを連想させた。何がそうさせるのかは、うまく言えないけれど。


……囚われているわね、あの子。


気配を消したまま近づいた。男子生徒は顔を上げない。ほとんど執念に近い集中力で読み進めていて、余白に書き込みをしている。しばらくそのそばに立ち、彼の思考の囁きを聞くように、ただ観ていた。どれくらいの時間が過ぎたか。そこへ、一つの声が静寂を破った。


「アキラ! 帰ってきたよ!」


視線を走らせた。赤い髪の女子生徒が走り寄ってくる。その顔は、男子生徒の真剣さとは対照的な、眩しい笑顔で輝いていた。


……アキラ。それがあの子の名前ね。


「アキラ、何か分かった? 青いエネルギーのこと?」


胸が、わずかに速く打った。


――青いエネルギー。あの石。陰陽師が盗んだ石、アッシュフォード一族が失くした石と同じもの。まさか、この二人が……?


「まだ」


とアキラは顔を上げないまま答えた。


「魔術陣の参考書には、何も書いてない」


「じゃあどうするの? ずっとこのままでいられないじゃない」


「もしかしたら……他を探した方がいいかもしれない。中央図書館か、もっと詳しい人に聞くか」


「誰に?」


アキラは答えなかった。本を見つめたまま、言葉が自分で現れてくれるのを待つように。女子生徒が隣に腰を下ろして、苛立ちとも疲れともつかない表情を浮かべた。


「できることは全部やった」


と彼女は言った。


「これ以上、何ができるの?」


「分からない」


とアキラは認めて、その声は少し小さくなった。


「でも、たとえどんな代償を払っても、解明するつもりだよ」


「そんなこと言わないで」


「え?」


「代償を払う覚悟があるなんて言わないで。どうなるか分からないでしょ。何が失われるか分からないじゃない」


アキラが彼女を見た。その眼差しが、柔らかくなるのが分かった。


「アリズ……心配してくれてるの、かな?」


女子生徒が赤くなった。


「うるさい!」


――思わず、笑みが漏れた。


止められなかった。あの二人の間にある何かは、ヴィクターと蓮次郎の間にあったものとは根本的に違う。操作もなく、力の歪みもない。ただ二人が、下手くそなりに互いを大切にしていて、支え合いながら……そのやり方も分からないまま。


なんて興味深いのかしら。人と人との繋がりは、こんなにも違うのね。


そこで、姿を現すことにした。


気配を戻す。二人の前に、どこからとも知れず現れたように見えたはず。アキラが後ろへ飛び退いた。女子生徒が短い悲鳴を上げた。


その二人の顔のあまりの驚きに、笑いを抑えられなかった。


「あなたは……誰?」


とアキラが震える声で聞いた。


優雅に、礼を取った。半分は礼儀、半分は皮肉として。


「楓・エンバーストロムよ」


言って、一番謎めいた笑みを向けた。


「アキラくん、それにアリズさんかしら? はじめまして」


女子生徒がまばたきをした。


「なんで私たちの名前を? ちょっと待って……楓・エンバーストロムって言った……?」


「ええ、そう言ったわ」


アリズが固まった。幽霊でも見たかのように、私を見つめている。


「楓・エンバーストロム……?」


「アキラ、あんたって馬鹿なんだからもっとちゃんと勉強しなさいってば!」


「ごめん、時間がなくて……」


「いいわ、教えてあげる。あんたが全然学んでないみたいだから……楓・エンバーストロムは、エンバーストロム一族の後継者よ」


アキラの目が見開かれた。ゆっくりと顔を向けて、視線が合った瞬間。私は、小さく、意地悪く、ほんの少しだけ笑みを返してやった。何者が目の前に現れたのか分かっていなかった、可哀そうな彼に。


「失礼を、申し訳ありませんでした。僕はアキラ・アッシュフォードといいます」


「わ、わ、わ、私はアリズ・アッシュフォードです……!」


二人が一瞬にして緊張し始めた。揶揄いたい気持ちは山ほどあったけれど、今回は少し、礼儀正しくあるべき場面ね。


「お二人とも、もう聞こえていたわ」


言って、それから口調をわずかに変えた。


「そして……とても興味深いものについても、聞こえていたのよね。もしかして……石かしら。青いエネルギーの」


二人が同時に固まった。互いに視線を交わして、疑いと不安を目で語り合っている。


「……その通りです。変な光を出す石があって。でも、僕たちが盗んだわけじゃ……」


「ふふ……裁くためにここへ来たわけじゃないもの」


と遮った。


「むしろ、こんなに幸運なタイミングで出会えるなんて、運命って信じてもいいかしら」


沈黙が、雄弁に続いた。


「何が目的なの?」


とアキラが慎重に聞いた。


「見せてほしいのよ」


と、珍しく素直に答えた。


「それが何なのか、理解したい。あなたが気づいたことなら何でも知りたいの」


アキラが躊躇った。それから、ゆっくりと、リュックサックの中から石の欠片を取り出した。割れたように見えた。石は淡い青い光を放っていた。まるで、鼓動しているかのように。


手を伸ばして触れようとした途端、エネルギーが私の手を弾き返した。石が、触れることを拒んでいる。


……面白い。とても面白いわね。


手のひらに防護の魔力の層を巻きつけて、もう一度試みた。今度は、石が弾き返さなかった。指先が冷たく滑らかな表面に触れて。


そして。


電気の痙攣が、背骨を駆け上がった。全身の筋肉が、限界まで引き攣った。肌が粟立ち、そこから先に来たのは苦痛ではなく、それよりもずっと手に負えないもの――矛盾した刺激の奔流が、体を内側から揺さぶって、よろめかせた。不思議な、深い痺れの感覚が後頭部の根元から這い上がり、頭蓋全体へと広がっていく。思考が麻痺するほどの快感じみたうなりで、息が乱れる。魔力の凄まじい放流が血管に染み込んでくるのに意識が引き込まれて、胸が激しく上下する。肉体の快感と神秘的な恐怖が、容赦なく衝突している。


自分の魔力が……勝手に反応している。切り離せない……! 離せない……!


そして、現実の感触が消えた。


途方もない幻視に、飲み込まれた。


目の前に広がった空は、銅色に染まっていた。青白い太陽が、広大な平原を照らしている。もう、エンディミオンにはいない。この地は、歴史書が完全に忘れ去ってしまった、人類のある時代に属する、極めて古い都市だった。泥と石と乾いた藁で作られた小さな住居たち。粗い麻布と使い古した毛皮をまとった人々の影が、亡霊の行列のように、その集落の中心へと引き寄せられている。


その中心に、魔術の汚涜に捧げられた記念碑のように、黒い石の階段状ピラミッドが天に向かって聳え立っていた。


その頂に、人間の比率を外れた、異常に長身の影が立っていた。冠も、杖も持っていない。でも、その存在感の密度だけで、周囲の空間をそっと押し潰していた。


そして、その影が、頭を下げた。


まっすぐに、下を、見た。


幾世紀の隔たりがあるというのに、私の目はその顔を恐ろしいほど鮮明に捉えていた。蒼白く、のっぺりとした、その顔に、四つの巨大で暗い目が完全に同時に開いた。その瞳が、まっすぐに、この魂へと突き刺さってくる。この時空には属さない眼差し。


……私を見ている。私のことを、知っている。


胸の中の興奮の熱が、凍えるような原始的な寒さに取って代わられた。


思考が浮かんでくる。名家の優越感という薄膜が、音を立てて砕け散った。頭が浮いている。青いエネルギーが、酔わせながら同時に壊していく。胸が激しく上下する。


ここはどこ……? どうして……エンバーストロムの血が、あれを前にして震えているの……? こ、こわい……! これは……間違えた……! 離して……!


離して!!


恐怖が、理論として知っているだけだった感覚が、今は雷のような勢いで打ち込んできた。理性を持ってしても御しきれない恐怖が、根拠なく、純粋に、窒息させてくる。あれは単なる石ではなかった。それは、自分の頭がどれほど優秀であっても、理解するように作られていない深淵への窓だった。


かろうじて喉から絞り出した、押し殺した叫び声が沈黙を破った。自分の意志の最後の一滴まで使い果たして、体に命じた。手を、引き抜く。


接触が、断ち切れた。


両膝が芝の上についていた。崩れ落ちないよう、両手で体を支える。金色の髪が乱れて顔の前に垂れて、まだ明滅し続ける白十字の目を隠した。冷たい汗が上着を濡らし、両手はまだ細かく震えていた。頭の中の快楽だった、しかし危険なその振動は、ゆっくりと引いていく。後には、酷い神秘的な二日酔いだけが残された。手を胸に当てる。心臓が暴走している。


石に目を向けた。何事もなかったかのように、静かに鎮座している。


「楓様、大丈夫ですか?」


アキラの声が、耳に心地よい音楽のように届いた。


「ええ、大丈夫……少し、想定外のことがあっただけ」


口の中に鉄の味がした。唾液が口元から流れていた――素早く拭ってから、立ち上がった。


頭がくらくらして、方向感覚がない。あれは何だったの? 一体何だったの……? あの石の中の何かは、私よりも大きかった。あの幻視の中の何かは、七つの一族よりも古く、マジクスよりも古く、何もかよりも古かった。


「気をつけて」


言った。声が、意図したより真剣な響きを帯びた。


「あの石……その中にあるものは……魔術師が理解できる範囲を、遥かに超えている。遥かにね」


アキラが青ざめた顔で見ている。


「じゃあ、どうすればいいんですか?」


その目を見た。ヴィクターの中に見たものと、同じものがそこにあった。恐怖があっても、諦めを拒む意志。もしかしたら、欠けていたピースはこの子なのかしら、と思った。もしかしたら……アキラくんが、鍵になる。


「ある場所があるの」


意図的にゆっくりと言った。


「エンバーストロム邸の中の図書館。私でさえまだ読んでいない禁じられた知識が眠っているの。その門を守る番人がいる。その試練を突破できれば……答えが見つかるかもしれない」


アキラが唾を飲んだ。


「もし……失敗したら?」


微笑んだ。親切でも、残酷でもない笑み。ただ、純粋に……好奇心の。


「それなら、もう二度と試みることはできない、わよね」


前もって用意してあったパスを一枚渡した。まるで、このやり取りが来ることを予め知っていたように。実際、そうだったのだけれど。


「準備ができたら、エンバーストロム邸へいらっしゃい。待っているわ」


背を向けて歩き出した。でも、何かが足を止めた。ある思考が、これまで結びついていなかった接続を作り出した。


「ところで」


振り返った。


「カイト先生がどこにいるか、知っているかしら?」


アキラがまばたきをした。


「僕の担任教師です」


笑みが、今度こそ目まで届いた。


さあ、次の幕の始まりね。


心の中で締めくくりながら、冬の風が最後の痕跡を消し去っていくのを感じた。過去を埋め、まだ明かされていない謎の深淵を開いていく、その風を。

――青い石は、


新たな出会いを導いていく。


交わるはずのなかった人々。


語られる新たな仮説。


そして、


兄妹だからこそ交わせる言葉がある。


次回――


「兄妹」


静かに動き始めた運命は、


まだ誰にも答えを見せない。

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