契約の星、光る夜明け
勝利とは、
力だけで掴み取るものではない。
積み重ねた覚悟。
譲れない信念。
そして、
最後の一歩を踏み出す勇気。
すべてが重なった時、
運命は静かに答えを示す。
風が耳の中で吠えた。
……やれやれ。本当に、やれやれだ。
俺たちは翼のない影の群れみたいに、夜明けの灰色の空を突き切って飛んでいた。集団で。馬鹿みたいな速度で。靴底に流し込んだ魔力が風の流れを無理やり捻じ曲げて、体を前に押し出す。効率的だとは思う……思うんだが、その「効率的」って言葉が全部吹っ飛ぶくらいに不快だ。
風が顔に叩きつけてくる。
首元の項輪が、胸の上でくぐもった拍動を繰り返す。心臓の隣に、もう一つ別の心臓を縫い付けられたみたいな重さだ。人狼の項輪。俺がこれを「慣れた」と感じた日が来るとしたら、その日に俺はもう俺じゃないと思う。
……ポケットの中の手紙が、太腿を焼く。
焼く、っていうのは比喩じゃない。実際に熱い。物理的に。皮膚を通してじりじりと。まるでその紙切れ自体が「お前はまだこれを理解していないだろう」とでも言いたげに、静かに、しかし確実に存在を主張し続けている。理解できないものが、すでに俺の運命を決めようとしている。そういう構造が、俺は昔から一番嫌いだ。
……全く、もって不愉快だ。
目を細めながら前方を見ると、霧の向こうにそれが現れ始めた。陰陽師の神社。山の靄に半分飲まれた石の塔。曲線を描く反り屋根。冬枯れの木々の間に立つ黒ずんだ木の柱。古い。非常に古い。そして……嫌な予感が腺から染み出すみたいに、全身に広がってくる。
やれやれ……急いだところで何が変わる。
―― でも、俺が今ここで風の流れを開通させなかったら、入り口で全滅する。それは理解している。感情とは別に、頭は動く。
着地した瞬間に敵と目が合った。
向こうの物見台にいた陰陽師が俺たちに気づいた。同じ瞬間に、俺たちも奴らに気づいた。時間差、ゼロ。
……体が動いていた。頭で考えるより先に。
首の項輪が光った。温かい光が脊椎を走り、そこから四肢に向かって溶岩みたいに広がっていく。骨が形を変える感覚は、何回経験しても慣れない。関節が外れて、別の位置に固定し直される感じ。皮膚の下から灰色の毛並みが押し出されてくる感触。嗅覚が爆発的に開いた。
……陰陽師の、恐怖の匂いがした。
奴らの唇が呪文を形成するより、確かに早く。
ルシアン、アラリック、イツキ……と、それから名前を思い出す努力をしている顔ぶれたち。ザックも。あいつの変身には、任務とは別の、何か個人的なものが混じっているような激しさがあった。獣の群れが、神社の上に雪崩れ落ちた。
外庭の敷居を踏んだ瞬間、後方の同盟魔術師部隊が魔力の射撃を解き放った。警告なし。降伏勧告なし。最初の陰陽師たちは反応できないまま倒れた。
護符が破れる音。魔力の障壁が砕ける音。石柱が粉塵に変わる音。
……神社の中庭が、一瞬にして戦場に変わった。
浄化の炎の一条が魔力シールドで真っ二つに割れて、焦げた肉と空気の焦電臭が混じり合って漂う。石畳の上に降り立つと、すぐ頭を下げた。数センチ先で爆符が爆発して、石の破片と土が顔に直撃した。
耳が鳴っている。胃が一瞬、きゅっと縮んだ。
……動け。
体が答える前に、頭が指令を出していた。この体は今、人と獣が溶け合った状態にある。驚くことに、頭は静かだった。混乱の中に、奇妙な明晰さがある。ルシアンの爪が護符を引き裂くのが視界の端で見えた。アラリックが柱を素手で倒して、屋根から狙撃しようとしていた一団をまとめて潰した。
……俺は、パターンを処理していた。
奴らは三人一組で動いている。一人が射撃、一人が充填、一人がカバー。中間の充填役を潰せば、残り二人の連携が崩れる。
試した。
中央の陰陽師に向かって跳んだ。両脇からの攻撃を無視して。顎がその腕を捕えて、放した時点で、残り二人が一瞬ぶれた。ルシアンとアラリックがその隙に入った。
……機能した。
だからって、喜んでいる余裕はない。
視界の向こうで、ルシアンが紙の護符を爪で引き剥がしてから、その陰陽師の喉を一撃で。俺は反射的に目を逸らした。
……吐き気がした。
でもアラリックが柱を引き倒す轟音が、視界を強制的に現実に戻す。
こいつらは……ただの盾じゃない。俺はその事実を今、頭に焼き付けながら戦っていた。名前がある。顔がある。もし俺がここで死んだら、こいつらの死が無駄になる。そういう論理が、恐怖に勝った。
陰陽師が霊力を込めた刀を振りかざして突っ込んできた。
……一瞬だった。
右手を伸ばした。獣の口の中に魔力を圧縮して、照準した。
光線が、奴の胸を抜いた。
奴は倒れた。目の光が消えた。俺の目の前で。
……頭が、真っ白になった。
俺は……今、俺は……――
「ぼーっとしてんじゃねぇ、このぐうたら野郎!足を動かせよ!」
ザックの怒鳴り声が、意識を引き戻した。あいつは俺の横を風みたいに駆け抜けながら、最適化された魔力のバーストを精密射撃で連発して、俺の死角をきれいに塞いでいた。
「実存主義的な危機は、お前がマップ上のお荷物じゃなくなってからにしろよ!」
……やれやれ。言ってることは正しい、完全に。
陰陽師たちが後退しはじめた。内陣の奥へ、奥へ。白い袈裟が緋色に染まりながら引いていく。イツキが魔術師部隊を連携させて外廊を制圧していく。同盟軍は優位を保っていた。
俺は変身した状態で、巨大な腕の甲で額の血と汗を拭った。
……頭が動き続けている。恐怖は、データに変換できた。処理できた。吐き気は……消えていない。消えないと思う。でも、もう足は止まらない。
「ザックが正しい……嘆く時間は、後だ」
その思考が固まりきらないうちに、空が変わった。
神社の上空が、一瞬で紫黒に染まった。自然光を飲み込むような、密度の異常な暗さだ。腹の底に響く重低音が山ごと揺らして、俺を含めた全員が膝をついた。重力が一時的に乱れた。空気が変質した。触れるだけで血が冷える種類の、邪悪な魔力の密度。
中庭の影が、中央に向かって収束しはじめた。
そして、それは現れた。
……黒木。
空中に立つその男の視線が戦場を舐めた。蔑みの視線だ。人間が蟻の巣を眺めるときと同じ質の、静かで完璧な軽蔑。その存在感だけで、戦場全体の音が消えた。
「呪われた犬どもが」
黒木は言った。声は叫んでいない。囁きだ。それなのに、谷全体で聴こえた。
「安物の変身で私を止められると思ったか?」
杖を持ち上げた。
黒い魔力の波が広がった。
前列にいた人狼たちが吹き飛んだ。数人は着地で意識を保っていたが、何人かはそのまま動かなくなった。
俺は爪を地面に刺して、引きずられることなく踏み止まった。
「降伏なさい、黒木」
リディアの声が、神社の屋根の上から響いた。
……あの女は、この状況でも完璧な姿勢で立っている。手袋をした手が前で重なって、まるで茶会に出席しているみたいに。
「あなたと私は知っているはずです、リディア。これは戦略で勝敗を決める種類の戦争ではない。これは舞踏ですよ。そして……舞踏はまだ続いている」
「……随分と詩的ですのね」
リディアは目を少し細めた。
「お茶の代わりに哲学をお持ちになったようで。ですが、わたくしの手帳には"長期化する戦争に美学を見出す余裕"などという項目はございませんの。お付き合いする時間も」
「では踊ってみせなさい、リディア」
「黒木――あなたが負けましたわよ。陰陽師たちは制圧され、拠点は廃墟となり……あなたの転移術は、真なる魔法使いによって完全に封じられてしまいましたわ。潔く、降伏なさってくださいな」
黒木は動じなかった。
「降伏……か」
口の端が僅かに動いた。
「あなたも私も、知っているはずでしょう。これは戦略で勝てる戦争などではない。これは踊りですよ、リディア。そして踊りは……まだ始まったばかりです」
踊り、ね。俺は目を細めながら黒木の言葉を反芻した。大げさな言い回しだとは思う。でも……あの男の声には、虚勢の色がない。それが一番厄介だった。
「そうお思いなら」
リディアが返した。
「一緒に踊りましょうかしら」
微塵も動じていない。
それどころか、リディアには旅の疲れも、この奇襲戦の混乱も、何一つ痕跡として残っていなかった。……まるで真冬の格式高い晩餐会に出席した貴婦人そのものだった。
うわ、化け物じゃん。
「リディア・ナイトシェイド」
黒木が低く、しかし穏やかに言った。先ほどまで一般の兵士たちに向けていた怒気のようなものが、綺麗に消えている。これは……対等な相手への声だ。チェスで言えば、盤面の反対側の対戦相手を認識したときの目。
「現世代随一の頭脳……あなた自身がここへ来るとは。予想外でしたよ」
「優れた庭師は、雑草を根から引き抜くとき、必ず自ら足を運ぶものですわ、黒木」
リディアは凍てついた笑みを浮かべた。
「……特に、その雑草が土壌全体を枯らしかねない場合は」
黒木は黙った。
俺の位置からでも分かった。あの男の視線が、廃墟と化した中庭を静かに走った。倒れた陰陽師の数を数え、同盟の戦士たちの配置を確認した。そして……わずかに。本当にわずかに、その姿勢が変わった。
肩の角度が、ほんの少しだけ下がった。
交渉しようとしている。
「このような衝突は……双方にとって不必要な消耗を強いますね、リディア」
黒木は腕を組みながら、慎重な距離を保ったまま言った。
「両陣の損耗は、魔術師社会の構造そのものを弱体化させる。同盟が学術の枠を超えた視野を持てるのなら……この包囲に固執することが、ただの焦土を残すだけだと理解できるはずでしょう。有能な戦略家は、局面の再評価が必要なとき……多少の余地を許容するものです」
余地。
俺は眉をひそめた。
翻訳すると……逃がせ、だ。
黒木の誇りを思えば、直接には言えない。でも今のは明らかに不可侵協定の提案だ。この神社から出る道を求めている。包囲されてるのが分かってる。追い詰められてるのが分かってる。それでも直接「逃がしてくれ」とは言えない男。なるほど、面倒くさいタイプだ。
でも、リディアはまばたきすら変えなかった。
あの受動攻撃的な微笑みは、吹雪の中の氷の彫刻みたいに、欠片も崩れない。
「リソースの効率についてのご懸念、誠に深く受け止めてありますわ、黒木。感動的なほど配慮が行き届いていますこと」
一拍、置いて。
「ただ……わたくしの一族のプロトコルでは、屋敷に侵入し、銀食器を盗み、使用人を殺めた客人に対してはお茶を出して交渉の席を設けることはございませんの。直ちに退去させるのみ。あなたが自分でひっくり返した盤面に、余地など存在しませんわ」
黒木が静かに息を吐いた。
その周囲の闇の霧が、ぶわりと振動した。
「……予想通りの失望ですね」
声のトーンが、初めて微かに変わった。超然とした余裕が、鉄の芯を帯びた。
「魔術師たちはいつも、自分たちの小さな縄張りに、地位に固執する。私の視野は……そのような次元にはありません」
黒木はゆっくりと両腕を横に広げた。
「私が求めるのは絶対的な平和だ。この世界は……魔術師が引き起こす混沌から、休息に値する。我々は異常なのです。自然の秩序を歪める、悪性の腫瘍。私の最終的な目標は……我々の種族の完全な消滅。当然、それには私自身も含まれる。最後の魔術師が息絶えたとき、初めてこの地球は救われる」
……は?
俺は思わず内心でそう呟いた。今……何て言った?
虐殺してみんな消えようぜ、自分含めて?それが「平和」?
リディアは小首を傾げた。まるで会計士が帳簿の間違いを指摘するときみたいな、感情を完全に切り離した目で、その主張を精査している。
「過激な診断ですわね、黒木。ただ……戦術的な優雅さには欠けてますわ。統治する術を知らないからといって、システム全体を破壊しようとするのは……かなり高コストな癇癪ではなくて?」
「癇癪ではない!」
黒木の声が、初めて上がった。
狂信的な確信に満ちた声だった。これまでの超然とした冷静さとは、全く別のものだった。
「陰陽師たちこそ……人間の意志の真の純粋さを体現しているのだ!彼らの力は、我々が使うような自己中心的な魔力の変異ではない。私はアッシュフォード一族から回収した遺物を数ヶ月研究した……あの石を。あの核から放出される青い輝きは、その根本的な周波数において……陰陽師たちが何世紀も磨いてきた霊力と同一なのだ。これが鍵なのだ!あと一歩で、彼らが我々と何が違うのか、そしてなぜ我々の腐敗した存在にとって危険なのか……解読できる!」
「黒木」
リディアが、静かに、しかし鋭く遮った。
「アカデミー・エンディミオンでは、戦略は確固たる証拠に基づくよう教わりますわ。泥棒の神秘的な妄想ではなく。あの石はアッシュフォード一族の財産です。今すぐ返還なさい。わたくしが用意した降伏協定書には、盗品の保持など含まれていませんわよ」
黒木は乾いた笑い声を上げた。
ユーモアの欠片もない笑いだった。
「降伏?本気でわたしが、将軍ごっこをしている少女に……世界の未来を渡すと思っているのですか?遠くまで来すぎた。陰陽師を誰よりも理解している。彼らの血に何が潜んでいるかを知っている」
リディアが一瞬、目を閉じた。
冬の空気に溶ける小さな吐息が、白い霧になった。
それが……変わった。
目を開けたとき、貴婦人の受動的攻撃性が剥がれ落ちて、その奥から別のものが顔を出した。穏やかで、静かで、それでいて……底が見えない、恐ろしい断固たる意志。
「もはや対話は生産的ではありませんわ、黒木。お茶の時間は終わりました。今すぐ降伏なさい。あなたの血で雪を染めることに格別の欲求はございませんが……わたくしの予定を遅らせ続けるようであれば、ためらいはしてよ」
俺は……背筋が凍った。寒さとは全然、関係なく。
今のリディアを見ているのは、氷の怪物を見ているのに等しかった。あの若さで……あれほど容赦のない、迷いなき、余地すら存在しない目。疑念の粒子が一つもない。交渉の余白が、分子レベルで存在しない。
黒木も……気づいた。
その顎が、静かに固まった。あの女の思考の鎧に亀裂を探したが、何もなかった。絶望的なほど何もなかった。
黒木の闇のオーラが、突然膨張した。神社の屋根瓦が揺れた。
「では、もはや語る言葉はない、リディア・ナイトシェイド。その政治的な傲慢さとやら……戦闘能力がそれに見合っているかどうか、見せてもらおうか!屋根から降りてきなさい!お前の一族の力というものを見せてみろ!」
リディアは、動かなかった。
表情が、また戻った。完璧な社交界の淑女の顔に。
「まあ、残念ながら誤解されているようですわ、黒木。わたくしの得意分野は、戦場での粗野な打ち合いではございませんの。そういうことは、いつもプロに任せるのが適切なプロトコルですわ」
リディアが、半歩だけ後ろに引いた。そして隣に立つ少女に向かって、手を差し伸べた。
「ご紹介させていただきますわ。こちらはレイナ・アッシュフォード。現在、アカデミー・エンディミオンで最も強い魔術師。わたくしたちの世代の真の逸材ですわ」
黒木がレイナを見た。
その目が……僅かに歪んだ。
確かに見た目だけなら、どこにでもいる少女だった。若い娘だ。清楚というか、戦士に見えないというか……美しすぎて、逆に違和感を覚えるくらいの外見。黒木の顔に侮蔑が浮かんだ。
「少女だと?ナイトシェイドの名門が、アッシュフォードの残りカスの陰に隠れているのか?笑わせるな、これは侮辱――!」
黒木は最後まで言えなかった。
詠唱がなかった。
呪文の言葉が一つもなかった。高位術式が必要とする伝統的な魔力の言葉の羅列が、存在しなかった。レイナ・アッシュフォードはまばたきすら変えず、ただ……杖を持ち上げた。知覚の法則を無視するほどの速度で白い純粋な光が、冬の空気を裂いた。
黒木はかろうじて、生存本能だけで身体を傾けた。
光は黒木の身体をかすり……マントを清潔に裂き、左肩に切り傷を刻んだ。
赤い血が空に散って、地面に落下する前に凍りついた。
――俺の心臓が、一瞬止まった。
詠唱なしで……あの速度で、あの威力で?!
何も言わなかった。ただ、狙った。
やれやれ……化け物じゃないか、あの子。
黒木が数メートル後退した。右手で左肩の傷を押さえた。その指が、自分の血で染まっていくのを見た。
超然とした顔の上に浮かんでいた侮蔑が……一学生に最初の一秒で超えられ、傷を負った怒りに、瞬時に変わった。狂ったプライドが退くことを許さなかったが、あの目には……本物の恐怖の影がよぎっていた。
「この……忌まわしき!」
黒木が叫んだ。声が、暗黒の魔力で歪んでいた。
「この世界から消し去ってやる……全員!」
黒木が雄叫びを上げ、黒い嵐に包まれながら神社の屋根へと急降下した。レイナが再び杖を構え、迎え撃つ体勢を取った。
本物の決闘が始まった。
それは……俺が今まで見たことのない次元のものだった。
レイナは無闇に術を飛ばさなかった。光の矢も、電撃の連射も、爆発する魔力塊も、全てが精密に計算されていた。ミリ単位で。黒木は人狼たちを前に無敵だったのに……今や防戦一方だった。呪文が発動前に霧散する。闇の障壁がひびを入れられる。そして……かつて表情を持たなかった顔に、初めて本物のパニックの色が見えた。
強すぎる。あのレイナって子は。
変身した身体の緊張を保ったまま、距離を取って観察しながら、俺は内心でそう呟いた。
あの情報書類に書いてあった数字より……ずっと強い。あんな年齢で、どうしてあれだけの魔力が……。
黒木が距離を作った。肩から血を流し、制服が無残にほつれていた。荒い息が空気に白く散る。
「くそ……くそっ……お前みたいな小娘が……どうして……!」
「力は年齢を選びませんよ」
レイナが進んだ。急がず、でも止まらず。その声は軽くて、リズミカルで……でも恐ろしいほど冷静だった。
「恨みも選ばない。あたしの目的はクリアなの~。あなたのは……復讐で濁ってるよね?」
「復讐……?」
黒木が、その言葉を毒のように吐き出した。
「これは復讐などではない。これは精算だ。お前たちは自分たちを優れていると思っている、魔法の主人、真実の所有者……わたしは証明してやる、お前たちはただの詐欺師に過ぎないと!」
黒木の声が初めて割れた。
「これは精算だ。だが私はアッシュフォードの遺物から回収した石を研究した……あの青い光は、陰陽師の霊力と根源的な周波数が一致している。一致しているんだ!あれが鍵だ。あれを解読できれば、我々の存在がいかに歪んだ異常かを証明できる……!」
「まあ、興味深い仮説ですわね」
リディアが割り込んだ。刃物みたいに。
「但しそれはあくまで「仮説」に過ぎませんわ。アカデミー・エンディミオンでは、証拠なき主張を根拠に戦略を立てることを"致命的な素人仕事"と呼んでおりますの」
黒木が乾いた笑いを絞り出した。
「……本気でそれを言えるのか」
神社の屋根の上が、静かになった。
俺も見上げた。
……リディアの顔に、何かが通り過ぎるのを見た。でも壊れなかった。揺れなかった。
黒木は黙った。
舌打ちみたいな沈黙だった。
その暗黒のオーラが膨張した。屋根瓦が浮いた。風が逆流した。
「話し合いは終わりだ」
黒木は言った。今度こそ、声が冷え切っていた。
「リディア・ナイトシェイド。お前の言葉の刃は認めよう。だが政治で私は止まらない。降りてきなさい。コンバットの実力が、その政治的な傲慢さに見合うかどうか確かめたい」
黒木が追い詰められていくのが分かった。レイナの光線が増す。障壁にひびが増える。
その顔が、最終的に歪んだ。
狂気。信念。区別がつかないほど混ざった何か。
追い詰められた黒木が、深淵へと落ちた。
超然とした神性の顔が、狂信の歪みに崩れた。冬の空へとさらに浮上しながら、血に染まった両腕を広げ……詠唱が始まった。それは呪文ではなかった。詩のような、葬送歌のような、ものだった。
「『聴け、原初の虚無の嘆きを……光が窒息し、時間が消えゆく場所で。来たれ、星を喰らう者よ……肉を喰らい、魂を溶かし、この世界を生まれ出でた美しき無へと還せ……』」
絶対的な闇の渦が。黒木の頭上に開きはじめた。
重力を歪めるほど密度のある、暗黒の渦が。神社の瓦が引き剥がされ、積もった雪が吸い込まれ、空気そのものが歪んだ。
禁呪だ……。
俺の思考が、真っ白になった。狼の爪で岩をつかみ、吸い込まれないようにしながら、冷や汗が毛皮を流れた。
あの魔力の構造は……異常だ。空間ごと折り畳んでいる。
「レイナ、今すぐ止めなさい!」
リディアの声が、初めてその平静を失った。
レイナが連続して光の乱射を打ち込んだ。しかし絶対的な闇の障壁が、全ての衝撃を飲み込んで渦を養っているかのように、ただ膨張した。
「アザエル!こっちに助けがいるわ!」
レイナが上空に向かって叫んだ。
はるか上に浮かんでいたアザエルが、巨大な魔法陣を厳かな表情で眺めた。
「禁呪の相殺を零から行うことは……私にとっても容易ではないが。できる限りのことをしよう。盾を展開してくれ」
黄金の巨大な魔法陣が、黒木の渦に重なった。二つの圧力が激突し、山全体がみしりと鳴いた。
そして地上の俺は……。
……俺は地面で足をかろうじて保っていた。
思考が、滑り始めた。
……俺は何をしている。
俺は何者だ。
エンジニアだ。ただのエンジニアだ。こんな場所にいるべき人間じゃない。あの禁術が解放されたら、俺は消える。残骸も残らない。このヴォルテックスの引力の中じゃ、俺の魔力なんか光に照らされた塵みたいなものだ。蓮次郎……あんたが言った通りだったのか。世界は広すぎた。怯懦な俺には、広すぎた……――
ただ見ていた。見ていることしかできなかった。
その時だった。
赤い光が、空を引き裂いた。
血で作った槍みたいな、鋭くて速い赤い閃光が、黒木の結界を笑うように貫通して――その脇腹に、深く刺さった。
「――ッ、ぐああああ……!!」
黒木の悲鳴と同時に、あの禁術が霧散した。渦が爆発的な衝撃波になって弾け、それだけで足元の雪が吹き飛んだ。
……なんだ、今のは。
灰色の空から、二つの影が降りてきた。
一人は小柄な男だった。全身真っ赤なスーツ、赤いシルクハット、円形のサングラス。そのサングラスが鈍い光を反射するたびに、何か底知れない嫌な感じがした。
レオ・アシュフォード。
その隣に、女が一人。髪は乱れ、目はうつろで、顔色は生き物とは思えないほど蒼白だった。立っているだけで、空間が汚染されていくような、そういう圧があった。
「ジャァ……!! じゃはははは!!」
レオが大声で笑いながら、芝居がかった仕草でシルクハットを直した。地面から数メートル浮きながら、まるで舞台に立つ俳優みたいに両手を広げた。
「いやあ、いやあよぉ……なんとも締まらない幕切れじゃないですかぁ、黒木くんよぉ。こんな見苦しい見せ物のために時間を割かせてしまったことが、私には非常に、心苦しいねぇ〜」
黒木は、脇腹を押さえながらレオを睨んだ。その眼は憎悪で真っ赤に染まっていた。
「レオ……お前、私を……裏切ったのか?」
「裏切り?」
レオは少し間を置いてから、くつくつと笑った。心底、つまらなそうに。
「お前さん、裏切りっていう言葉の定義を、もう一度辞書で調べてきた方がいいよぉ〜。私はね、最初からお前さんの味方なんかじゃなかったんですよぉ。一度もね。ついぞ一度も。だから、裏切ることなんか、物理的に不可能じゃないですかぁ〜。そんなこともわからなかったのかしら、君はぁ」
バトンのように細い杖をくるくると回しながら、レオは続けた。その声は、笑いで滲んでいた。
「魔術師を絶滅させようとか、そんな下品な夢想に私が乗ると思ったんですかぁ? 笑わせないでほしいよぉ〜。このバラバラに壊れた世界をひとつにまとめられるのはね、私だけなんですよ。私だけにその眼がある。お前さんの……ちっちゃなゲームは、お終いですよぉ」
「……呪われろ……っ!!」
黒木が這い上がろうとした、その時。
「レオ・アシュフォード」
屋根の上から、声が降ってきた。
冷たい。水より冷たくて、それでいてどこか静かな怒りを含んだ声。リディアだった。
「このような場にわたくしどもの集いを乱してくださるご趣向、まこと恐れ入りますわ……ですが、あなたはひとつ、とても重要なことをお忘れのようですわね」
リディアは一歩、屋根の縁へと踏み出した。
「七つの一族の眼から見れば、貴方は裏切り者。それも最悪の。裁かれるべき罪人ですわ」
レオは深々とため息をついた。まるで生徒に基礎を教え直すことに疲れた教師みたいな顔で。
「あぁ〜、リディアさまよぉ……そんな若さで視野が狭いのは、もったいないよぉ〜。一族の連中にはわからないんですかねぇ。私の大きなデザインってものが。お話しする機会があれば、きっとわかってくれるんですがねぇ〜」
「あなたのおっしゃる『大きなデザイン』とは」
リディアは言った。あまりにも静かに。
「不正な実験の資金を提供し、無辜の命を奪った事実を飾る、安い言い訳に過ぎませんわ。その手は、もう血で汚れておりますのよ」
「必要なことだった!!」
一瞬、レオの笑顔が崩れた。
珍しかった。あの男が、そんな顔をするのが。
「全部、全部必要なことだったんですよ……っ! 魔術師と人間社会を統合するために、進歩には犠牲が伴うんです。進化、なんですよ……っ!!」
「その犠牲を正当化できる道徳など、この世には存在しませんわ」
リディアの声は、揺れなかった。
「いかなる理想も、罪のない者の亡骸の上には築けません。それが、わたくしの答えですわ」
レオは、歪んだ笑みを取り戻した。
その笑みの質が、さっきとは違った。もっと、毒々しかった。
「……道徳ですかぁ。面白いことをおっしゃいますねぇ、リディアさま。では聞きますがよぉ〜……あなたが今朝下した命令、ここに広がる真っ赤な雪景色、倒れていく陰陽師たちの体、それは全部、あなたのご決断の結果じゃないですかぁ〜。そのお綺麗な手が……死ぬまで汚れたままであることを、自覚していらっしゃるのかしらぁ?」
重い沈黙が落ちた。
思わずリディアの顔を見た。氷の鎧に、ひびが入るかと思った。
でも……入らなかった。
リディアは、ただ静かに、その言葉を受け取った。
「……存じておりますわ」
その声には、自責も開き直りも、どちらもなかった。
「今朝、最初の命令を下す前から、すでに考えておりましたの。陰陽師の方々は、人間ですわ。魔術師が最も傷つけたくない存在。だからこそ、わたくしたちの祖先はあれほどの規則を作ったのですわ――人間社会と魔術師の社会が、互いに壊し合わずに共存できるように。けれど……貴方や蓮次郎のような方々が、その均衡を壊す。だからこそ、わたくしは止めなければなりませんの」
……やれやれ。
すごいな、この子は、と思った。正直に。
レオは、鼻の奥でため息をついた。そして、隣の女に、ほんのわずか、首を傾けた。
目で合図をするように。
リディアの眼が、わずかに鋭くなった。
「……モニカ・ウィンターフォール」
リディアがその名を呼んだ時、声のトーンが、ほんの少しだけ沈んだ。それだけで、どれほどその名前が厄介なものかがわかった。
「禁術の実験で身を滅ぼし、落ちぶれてしまった魔術使いが……レオの犬として終わることになるとは、ね」
モニカは何も言わなかった。
何も言わずに、虚ろな目で杖を上げて、汚染された魔術の奔流をリディアに向けて解き放った。
リディアが咄嗟に展開した障壁が、その魔術を横に逸らした。激突した壁が轟音と共に崩れ落ち、瓦礫が雪の上に散らばった。
……駄目だ。
また、俺の中で何かが萎んでいく感覚があった。
雑兵の戦いは終わった。降伏した陰陽師たちが人狼に押さえられている。黒木は宙に浮いたまま、意思の力だけで何とか落ちずにいる。レイナが杖を向けているが、その視線は揺れていた。黒木を見るべきか、リディアに加勢すべきか、明らかに迷っていた。
そして、アザエルは……ただ、遠くから眺めていた。どういうつもりなのかも、さっぱりわからなかった。
俺は……駄目だな。
本当に、何もできない。
この規格外の連中の中じゃ、俺の魔術なんかジョークにもならない。蓮次郎、お前が言ってた通りだったよ。この世界は、俺みたいな臆病者には広すぎる。
「じゅじゅじゅ……」
止まった。
笑い声?
いや、笑い声だ。子供みたいな、柔らかい、くすくすという笑い声が……頭の中に、直接響いた。
辺りを見渡した。人狼たちは捕虜に集中している。誰もこちらを見ていない。聞こえていない。
……そういえば。
変身した体の下、服の中に隠れている、あの手紙のことが頭に浮かんだ。今は取り出せないけれど、あの紙の感触は、指が覚えていた。
「……そこにいるか?」
誰もいない空気に向かって、ぼそっと呟いた。
「手紙を送ってきた奴……本当にここにいるか?」
「もちろんいますよ、ヴィクターくん」
また、響いた。女の声。子供みたいなのに、やたらと礼儀正しい。
「ずっと、見ていましたよ」
「……助けに来たのか。実在するのか、それとも俺がパニックで幻覚を見てるのか」
レオとモニカの魔術がリディアの防御に激突するたびに、地面が揺れた。考えながら、半ば心の中で問い続けた。
「ふふ、実在しますよ。そして、そうですね……力を貸すことはできます。本当にそれを望んでいるなら、ですけれど」
「頼む」
気づいたら、言っていた。
「頼むから、助けてくれ……っ。見てるだけは、もう嫌だ。止めたい、これを。こんな……こんな場所で、黙って立ってるだけの俺には、なりたくない」
声の主は、小さく笑った。
怖くはなかった。悪意のある笑い声じゃなかった。むしろ、全部が面白くて仕方ないとでも言いたそうな、純粋な楽しさが滲んでいた。
「力は渡せます。でも、その代わりに……契約を結ぶ必要がありますよ。その覚悟は、ありますか?」
一瞬だけ、考えた。
本当に一瞬。
レイナが揺れている。リディアが削られている。
「……どこにいる? いつから見てた?」
「ずっと、あなたの隣にいましたよ。ただ、誰も気づかなかっただけで」
その瞬間。
背中に、重みを感じた。
軽い。細い腕が、後ろから首に回された。抱きつくような、そういうやわらかい感触だった。狼の姿の視界の端に、ちらりと明るい金色の髪が見えた。でも、顔は見えなかった。俺の後頭部に隠れるように、その子は顔を埋めていた。
「では……契約を、結びましょう」
耳元で囁かれた。息が、不思議なほど冷たかった。
「でも、ヴィクターくん。一度受け入れたら、いつか……あなたにとってとても大切な何かを、失うことになりますよ。それでも、続けますか?」
……大切なもの。
失う。
「……ああ」
思ったより、声は落ち着いていた。
「やる。必要なら、失う。魔術師たちの均衡を取り戻せるなら……それでいい」
全身が、燃えた。
変身した体の隅々まで、電流みたいなものが走った。視界が歪んで、見たことのない場所の光景が、知らない顔が、濁流みたいに流れ込んできた。意識が持っていかれそうになった。気を失いかけた。
でも、消えなかった。
体の中の魔力が、沸騰し始めた。重くなった。密度が違った。どんな学術的な記録にも存在しないような、底のない、際限のないエネルギーが、内側から溢れ出してきた。
「……契約、完了です」
声が囁いた。腕の感触が、消えた。
「無限の源が、あなたのものになりましたよ。さあ……限界を、壊してきてください。小さな狼さん」
待たなかった。
足元の石畳が、ひびを入れた。
狼の後ろ足で地面を蹴り飛ばして、流星みたいに空へと跳んだ。
レオがリディアに照準を合わせていた。集中していた。視野に、俺は入っていなかった。
モニカが、反応した。人間離れした反射で、俺の拳の軌道に割り込んで、緊急の障壁を展開した。
間に合わなかった。
拳が叩き込まれた瞬間、障壁が音もなく粉砕された。そのままモニカごと、力が叩き落とした。地面に激突して、石畳にクレーターが刻まれた。砂埃と雪が舞い上がって、モニカはその中に沈んで、動かなくなった。
「――なんだ今のは……!!」
レオの声が、初めて裏返った。
空中で振り返ったレオが、野生の魔力を纏って浮いている狼を見て、明らかに混乱していた。
「お前さん……一体誰ですかぁ?!」
答えなかった。
レオが赤い魔術の槍を連射してきた。
ぶつかった。全部。
でも、散った。火花になって、消えた。体に届く前に、全部無力化された。
……なんだ、これ。
わかった。もう、通じないんだ。通じない次元に、今の俺はいる。
舌打ちして、レオは空の高みへ退いた。眼を細めて、杖を構えて、呪文を唱え始めた。速かった。ものすごく速かった。でも途中で、止まった。
詠唱が、止まったのに。
魔術陣が、消えなかった。
……詠唱短縮どころか、無詠唱で起動しかけている。こいつ、この呪文を完全に自分の中に刷り込んでいる。
「遊びは終わりですよぉ〜……っ!! 邪魔をする者は全員、ここで排除する……っ!! これは私の創造、私のオリジナル……天才の頂点と言っても過言じゃない呪文だよぉ……!! 見てなさい……『最後の審判』……!!」
地面に転がっていた陰陽師たちの体が、光り始めた。モニカの体も。
死者と瀕死者の魔力を燃料にしようとしている……っ?
考えている時間はなかった。
「……できるか? あれを止められるか?」
心の中で、声に問いかけた。
「あなたが望むなら、何でもできますよ、ヴィクターくん。わたしたちの契約に、限界はありません――あなた自身の意思以外は」
突っ込んだ。
風をまとった狼の拳が、空気を圧縮して硬化させながら、レオの障壁に叩き込まれた。
「無駄ですよぉ!」
レオが叫んだ。初めて、焦りが声に滲んでいた。
「イチから作り上げた私の呪文ですよぉ……! 純粋な魔法使いでも破れないんだよぉ……っ!!」
――パキッ。
二撃目。
ひびが、走った。
完璧な障壁に、ひびが走った。
レオの顔から、血の気が引いた。
三撃目。
砕けた。
拳がレオの顔に直撃して、小さな体が砲弾みたいに地面に向かって飛んでいった。廃墟の玄関口に激突して、土と雪の柱が立ち上がって、その中にレオが沈んだ。
『最後の審判』が、消えた。
静かになった。
風だけが残った。
同盟の魔術師たちとレイナが降りようとしていた、その時。
現実が、裂けた。
中央の空間に、乾いた音が走って……黒い、古代のルーンで縁取られた次元の扉が開いた。
誰も、それが何なのかわかっていなかった。
衝撃波が吹き荒れた。全員が弾き飛ばされた。俺も、数メートル後退した。
扉から、男が出てきた。
……時代が、違う。
見た瞬間に、そう思った。纏っている衣装が、まるで歴史の教科書から抜け出てきたようだった。マジクスの世界が形成された頃の、そういう時代の。
男は誰も見なかった。何も言わなかった。
ただ、まっすぐクレーターへ歩いていって、レオを肩に担ぎ上げて、そのまま扉に戻った。
扉が、閉じた。
消えた。
何も残らなかった。
膝から落ちた。狼の体が、ゆっくりと人間に戻っていった。息が荒かった。頭の中が、真っ白だった。
……誰だ、あれは。何が起きた。何が起きてる。
変数が、多すぎる。多すぎて、処理が追いつかない。
やれやれ……。
風が、後ろから来た。
振り返った。
瓦礫の間を、跳ねるように歩いてくる人影があった。歌を口ずさんでいた。子供の歌みたいなメロディで、でも俺には知らない曲だった。
少女は数メートル手前で止まって、首を傾げながら顔を上げた。
……心臓が、止まりかけた。
冬の弱い朝日の下で、その子の瞳が輝いていた。
普通じゃない。
虹彩に、白い十字の紋様があった。完璧な形の十字架。七つの一族の中で最も謎めいた、最も恐れられている一族の……瞳の紋章。
エンバーストロムの目だ。
「まあ、ずいぶんと賑やかなことになりましたわね」
少女は、楽しそうに微笑んだ。
甘い笑顔だった。でも、その甘さの奥に、何が隠れているのかは、全くわからなかった。
「はじめまして、ヴィクターくん。私の名前は……楓・エンバーストロム、と申しますのね。このゲームの盤面を少し、変えに参りましたのよ。そして……そのために、あなたのことに、深く興味を持ちましたの、かしら」
俺は、ぼんやりと立っていた。
拳は血だらけで、体の中には見知らぬ魔力が渦を巻いていて、頭は全く機能していなかった。
答えられなかった。
冬の風が、寺の灰を舐めるように流れていった。
でも、骨まで刺さる寒さは、もう気候のせいじゃないとわかっていた。
名前も知らない声との契約。アシュフォードの遺物と陰陽師の力の混在。過去から来たような男。そして今、目の前で微笑んでいるエンバーストロムの少女。
やれやれ……。
この世界の設計は腐っていると思っていたが。
どうやら盤面ごと、今日リセットされたらしい。
そして、俺はもう……ただ見ている側じゃなくなった。
――戦いが終わっても、
物語は終わらない。
誰にも知られず、
誰にも気づかれず。
静かに世界を見つめ続けてきた少女がいる。
彼女だけが知る秘密。
彼女だけが見た景色。
そして、
誰にも語らなかった願い。
次回――
静かなる観測者
見えない糸は、
すでに運命を結び始めている。




