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戦いの朝、静けさのうちに

変わるということは、

昨日までの自分を否定することではない。


見えなかったものに気づき、

届かなかった想いに手を伸ばし、

少しずつ前へ進んでいくこと。


その一歩は小さくても、

未来を変えるには十分なのかもしれない。

ナイトシェイド屋敷はいつも、どこか息が詰まるような気がする場所だった。暗い石造りの柱、戦の記憶を封じ込めたステンドグラスの窓、そして静寂。ただの静寂じゃない、何かを待ちわびた、緊張を孕んだ沈黙だ。砂利道を歩きながら、両手をポケットに突っ込んで、影の中から視線が刺さってくるのを感じた。何度も来たことある場所なのに……なぜか今日は、足元の砂利一粒一粒が重くてたまらなかった。


前庭に出ると、もう何人か集まっていた。首輪の刻印、身のこなし、あの動き方、全部でわかる。人狼の首輪を使う連中だ。体の中の獣を押さえつけながら、それでもいつ解き放つかわかっている奴らに特有の、あの張り詰めた気配。何人かが頷いてきた。無言の礼みたいなもの。でも何人かは目を逸らして、さりげなく距離を取った……まあ、別に構わない。俺自身、あいつらの名前を覚えようとしてこなかったんだから。「縮れ毛の奴」とか「いつも遅刻してくる奴」とかで十分だと思ってた。悪意じゃない、ただの……効率、だ。少なくとも、そう自分に言い聞かせてきた。


でも、もうそれじゃ足りない気がしてる。蓮次郎の屋敷で書類を見て、椅子を叩き壊して、声が出なくなるまで吼えた後から……そういう割り切り方が、すごく空虚に感じる。


――もしあいつらを率いるつもりなら、せめて名前くらい覚えるべきか。


そう思いながら屋敷に入った。


大広間は人でぎっしりだった。各一族の兵術師、策士、現場指揮官、そして壇上の中央に三人の人影。レイナ・アッシュフォードは、不動の戦士みたいな姿勢で立っていた。アイリ・ウィンターフォールは、何か視えているとしか思えない目で虚空を見ていた。そしてリディア・ナイトシェイド。三人の中で一番若くて、たぶん一番危険な。あの女の言葉は、火口に放り込んだ火花みたいなものだ。


リディアが演壇に上がった。静粛にしろとは言わなかった。その必要もなかった。ただそこに立つだけで、空気が変わった。


「皆さん」


その声は、金管楽器みたいに広間に響いた。


「わたくしたちは長い間、影と戦ってまいりましたわ。黒木・ワイルドソウルは殴ってきては隠れ、また殴ってきては引き下がる……まるで相手を、倒すべき敵としてではなく、暇つぶしの対象として扱っているかのようですわね。でも、それも今日で終わりですわ」


手を動かすと、背後の空間に魔法の投影が広がった。地図だ。街の東側にある神殿。


「居場所を突き止めましたわ。陰陽師たちが拠点として使っている社。今まで一度も先手を打ってこなかったわたくしたちが、今回は仕掛ける側に回ります。奇襲ですわ」


広間にざわめきが走った。アドレナリンが、それとは別の何か重いものと混ざり合うのを感じた。


「黒木のパターンは研究済みですわ」


リディアは続けた。迷いの微塵もない口調で。


「どう動くか、どう逃げるか、仲間を転移で逃がそうとすることも想定の内ですわ。だから、封じ込めの術式を用意いたしました。転移を断ち切る魔法陣を展開します」


そして、視線を横にずらした。広間の全員が、そこに気づいた。


ずっと暗がりに立っていた人影が、光の中に出てきた。


……重い。


見ただけでわかった。厚縁の眼鏡をかけた、背の高い男。ただ立っているだけなのに、その存在感が冷えた広間の温度を上げているような気がした。マジクス純粋。見ただけでわかる。こんなものがここにいるということの意味を、ゆっくりと飲み込もうとした。


その男はゆっくりと光の中に歩み出た。帝国の盛衰を見届けてきたような、ゆるぎない足取りで。


「初めまして、戦士たる魔術師の皆さん。私はアザエルといいます」


……緊張、した。正直に言えば。あいつがここにいるということは、マジクスの世界の宮廷が直接介入を承認したということだ。これはもう局所的な戦争じゃない。完全に、次の段階に入った。


「マジクスの世界の宮廷より、直接介入の許可を得てきましたよ」


彼は言った。低く、穏やかな声で。


「観察者としてではなく、戦闘員としてね。黒木が転移魔法を使おうとするなら、私が無効化します。それ以外の何かを試みるなら……私が対応しましょう」


静寂が降りた。本当の、礼拝みたいな静寂。


皮膚が粟立つのを感じた。真の魔法使い……魔法使いが戦場にいる。これは優位性なんかじゃない。確約だ。


リディアが再び口を開いた。今度は声のトーンが変わった。


「はっきり申し上げておきますわ。これから行うことは、美しくありませんわ。陰陽師たちは人間を標的にすると脅しています。魔術師でも混血でもない、ただの人間を。もしそうなれば、わたくしたちの最も神聖な掟が砕けてしまいますわ。でも、それを砕くのはわたくしたちではありません。砕くのは、彼らですわ」


広間を見渡す間、視線が一瞬俺のところで止まった気がした。


「戦争は、選択を迫りますわ。陰陽師が罪なき人々を虐殺するのを見過ごすか、それとも先に動くか。わたくしは選びましたわ。皆さんにも、同じことを願っておりますわ」


自分のいる隅で、黙ったまま考えていた。


……残酷だ。でも必要だ。陰陽師が人間に手を出したら、混乱は想像もつかない規模になる。黄金の鉄則は俺たちを守ってもいるが、縛ってもいる。守るために、別のものを壊さなければならないこともある。


深く息を吸った。もう頭の中でエンジニアとしての分析が始まっていた。転移の封じ込めは堅い。奇襲の成功率は高い。アザエルは……完全に読めない切り札だ。でも。


――黒木はここまで、予測できる動きをしたことが一度もない。どこかに隠し玉がある。必ず。


顔を上げると、リディアがまっすぐこちらを見ていた。まるで思考を読んだみたいなタイミングで、彼女が言った。


「そして、もし黒木に切り札があったとしても」


リディアは続けた。


「わたくしたちにもございますわ。戦争は力で勝つのではなく、情報で勝つものですわ。そして今、情報ではわたくしたちが上回っておりますわ」


それ以上は言わなかった。言う必要もなかった。


* * *


翌朝、夜明けよりずっと早い時間、蓮次郎の屋敷の前に立っていた。冬の冷気が骨まで染みた。でも、気にならなかった。頭の中は、あの巨大な鉄の躯体のことでいっぱいだった。


マーカスが少し遅れてやってきた。顔は強張っていたが、目は覚めていた。


「本当にやるのか? 戦が終わるまで待てばいいじゃねえかよ」


「待てない」


言いながら、ラボの入り口に向かった。


「蓮次郎が何を作ったのか理解する必要がある。修復するためにも、まずその規模を知らなければ話にならない」


二人で降りた。エレベーターは古くて、崩れる直前みたいな音を立てながら、深部へと運んでいった。そして、暗闇が開けた。


……思わず息を止めた。


黒い巨大な鉄の躯体は、でかかった。黒い鉄が人工的な洞窟の中に立っていた、眠れる神みたいに。肩が天井に届いていた。腕は、何百年も育った大木みたいに太く、重力に逆らうような重さで垂れ下がっていた。高さを測ろうとした。四十メートルくらい、かもしれない。それ以上かも。


ロボットじゃない。鋼と魔法でできた大聖堂だ。


「……なんてもんを」マーカスが隣で呟いた。


答えなかった。制御パネルに近づいて、蓮次郎のノートを広げた。大半が判読できないメモで、途中で終わった方程式に、矛盾したダイアグラムがぐちゃぐちゃに重なっている。


――自分が何を作っているかわかっていなかったんだ。いや、わかりすぎていたのかもしれない。どちらにせよ最悪だ。


海の声が、二人の頭の中に静かに届いた。


「……小さな、試しをしてみたの。私たちが。この巨人を、少し動かしてみた」


カプセルの方を見た。ラボの片隅に据え付けられた、ケーブルの束で巨人と繋がったカプセル。


「動かし方を、見せてもらえるか? ほんの少しでいい。どう動くのか理解したい」


「危くない。腕のパイプは土と繋がってるけど、全部封じてあるから。何も伝わらないの、外には」


マーカスが肩に手を置いてきた。


「やめとけよ」


「頼む」


だけ言った。懇願ではなく、必要として。


「一度だけでいい」


マーカスは長い間、目を細めてこちらを見ていた。それから、手を外した。


「……一度だけだぞ」


巨人の上のチューブが光り始めた。緑の光、強くて液体みたいで、あの鉄の躯体の血管みたいに走った。目が点灯した。暗闇を貫く二つの緑の灯台。


そして、動いた。


暴力的な動きじゃなかった。長い眠りから覚めた巨人が伸びをするような、ゆっくりとした、どこか荘厳な動きだった。歯車が軋んだ。天井が震えた。そして、止まった。


しばらくの間、目を離せなかった。喉の奥で心臓が打っているような気がした。


……これが蓮次郎の作ったものか。俺が想像すら及ばなかったもの。


制御パネルに近づいて、データと設計図を何度も照らし合わせた。


「自律系統だ」


やがて呟いた。


「海が動力源なのは間違いない。でも操縦士がいなくても基本的には動ける。ただ……腕のパイプ。これは次元の壁を破るために設計されている。蓮次郎が言ってた『地球の核』に届くための機構だ」


「操縦士がいないなら、どう制御するんだ」


マーカスが言った。


「それがわからない。そこがわからないんだ」


何時間も費やした。調べて、議論して、仮説を立てて。最後に海のカプセルの前に戻った。知っていることを聞いた。


「蓮次郎お兄ちゃんの説明は……技術的なことは、わからなかった。でも感じることはわかった。私……私たちが心臓で、巨人が体で、そしていつか、誰かが頭になるって言ってた」


「……誰かが、頭に? 操縦士のことか?」


「たぶん。でも入口がないの。扉も、ハッチも。もしかしたら……私みたいな、完全に人間じゃない誰かじゃないと。体と、融合できる誰か」


足元が揺れた気がした。


――融合。その一言が、嫌な重さで頭の中に落ちた。

* * *


その後の数日間は、戦いに備えることに使った。体でじゃなく、頭で。陰陽師の基地の見取り図を頭に叩き込み、攻撃ルートを解析し、弱点を洗い出した。それだけが、俺に戦争への参加を許される方法だった。


ある夜、書類を広げている途中で、玄関に気づいた。郵便受けに、封筒が入っていた。


リディアからじゃない。どの一族の封蝋もない。使い魔の印もない。ただの、どこでも売っている普通の紙。宛名は俺の名前だけ。


開けた。


「明日、助けが必要になる。受け取るのを望むなら、心から望め」


署名はなかった。四角い四芒星の印だけが、押されていた。


じっと見つめた。冗談だとは思えなかった。こいつは俺のポストまで来た。誰かが、わざわざ。


――誰だ。味方か、敵か。それとも別の何かか。


ポケットに押し込んだ。どうすればいいかわからなかった。でも無視もできなかった。


* * *


決戦の朝、ナイトシェイド屋敷には早めに着いた。空気は電気を帯びていた、文字通り、肌で感じられるほどの緊張が充満していた。魔術師たちが中庭に集まっていた。小声で話している者、無言で装備を確認している者。


その中を歩いて行きながら……初めて、立ち止まった。見た。道具としてじゃなく、人間として。


「ルシアン」


声をかけた。黒い髪と引き締まった顎の男に。


「補強の術式、得意だろ」


ルシアンが目を丸くした。


「はい……どうしてご存じで?」


「見てたから、訓練のとき。丁寧なんだよ、お前は。詰めが甘いことがない」


ルシアンがかすかに、本当にかすかに、笑った。頷いた。


別の男に向いた。


「アラリック。いつも遅刻するくせに、肝心なときに必ず決める。なんでそれができるのか知らんが、今日もやれ」


アラリックが片眉を上げた。


「お加減でも悪いので、ボス?」


「俺の名前で呼んだのって初めてじゃないか」


赤毛の男が言った。鋭い目をした奴で、名前はイツキだ。


「もしかしてほだされてる?」


見た。疲れた目に、何か笑みに近いものが混じるのを自分でも感じた。


「大げさなことを言うな、イツキ。名前で管理する方が効率的だってだけだ」


全員がわかっていた。それだけじゃないことを。


そのとき、ザック・エンバーストロムが来た。覚えているのは、名前を覚えようとしてきたからだ。赤い髪、陸上選手みたいな体格、そして常に一割増しに上から目線な目。数歩手前で止まって、値踏みするようにこちらを見た。


「へえ、あの天才ヴィクターが今更人付き合いか。誰かが悪夢みたいな帝国を築いてる間、ずっと引きこもってた凡才にしては上等じゃねえか」


静かになった。ルシアンが動こうとした。手を上げて止めた。


「で、ザック」


言った。いつもの疲れた声で。


「それだけか?」


「もう一つあるぜ。社交的になってる暇があんなら覚えとけ。魔術工学のトップの座、俺がいつか取りにいくからな、凡才」


しばらく、黙って見た。返すべき怒りが……どこにもなかった。ただ、重さだけがあった。


「お前の言う通りだ」


やがて言った。


「俺は才能を無駄にしてきた。工房に引きこもって、アーティファクトを作って、それをどう使うかは他人任せにして、それを才能で正当化してた。蓋の裏に隠れながら、友人は怪物になっていた」


ザックが話し始めた。しかし、彼が話す前に俺は遮った。


「でも今はそういう話じゃない。誰が一番のエンジニアかも関係ない。戦いで、帰ってこない奴が出る。ポジションが欲しいならくれてやる、ザック。ただし、まず生きて帰ってこい。それから話しよう」


……ザックは何も言わなかった。反論を用意していたのに、受け皿がなくなったみたいな顔だった。


集団の前に向き直った。


やがて、リディアがアザエルを伴って壇上に現れた。立つだけで沈黙が生まれた。


「戦闘が始まりますわ」


彼女は言った。声を張る必要もなかった。


「神殿に向かいます。風を使って飛びますわ。維持できない方は、隣の方に掴まってくださいな」


リディアが浮き上がった。皆が続いた。


風が体を包んだ。地面が遠くなっていった。街がモザイクになった、光と影が入り交じった。


飛びながら、手がポケットの封筒に触れた。四芒星。差出人不明の手紙。


――お前は何者だ。俺に何が欲しいんだ。


答えは来なかった。朝の冷たい風だけが吹いていた。視界の先に、陰陽師の神殿のシルエットが見え始めていた。


戦争の頂点が、近づいてきていた。戦いたかったわけでもないのに戦場へ向かう俺――エンジニアである自分は、重い心臓と疑問だらけの頭を抱えながら、それでも飛んでいた。

――決戦の時は、静かに幕を開ける。


積み重ねられた策。


交差する信念。


そして、

誰も予想しなかった裏切り。


勝者と敗者を分けるのは、

力だけではない。


次回――


終焉の戦場


世界を揺るがす戦いの中で、

それぞれの運命が大きく動き始める。

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