直感の導き手、磁器の言葉
孤独は、誰にも見えない。
笑顔の奥にも、
沈黙の中にも、
助けを求められない心は静かに沈んでいく。
それでも、
誰かがそっと手を差し伸べるだけで、
凍りついた心は少しずつ溶け始める。
優しさは、
時に最も静かな奇跡となる。
森は夜に包まれていた――まるで深い闇のビロードが木々の一本一本を丁寧に覆っているようで、その静寂を破るのは、冷たい風に揺れる枝の軋む音だけだった。陰陽師の影が木々の間に溶けていくのを見ていた。その輪郭は少しずつ、少しずつ小さくなり、やがて暗闇が完全にそれを飲み込んだ。あの男が逃げたのは、興味を失ったからではない。不利だったからだ――それだけは確信していた。
笑う気にはなれなかった。
祝うべきものは何もない。
背後で、冷たいアスファルトの上に、春花・ナイトシェイドが横たわっていた。あの人がこんな姿でいるなんて、想像したこともなかった。いつも完璧に整っていて、氷のように冷たくて、どこか手の届かない場所にいるような人が……。
時間を無駄にする余裕はなかった。
手を上げ、ほとんど聞こえないほどの囁きとともに、使い魔を呼んだ。銀白の光でできた小さな鳥が指の間に現れ、柔らかなさえずりを一声上げてから、肩に止まった。場所を伝えた。状況を伝えた。急いで、と。小さな頭がこくりと頷き、鳥は夜空へと舞い上がり――まるで流れ星が逆向きに飛ぶように――星々の中へと消えていった。
それから、春花のそばに膝をついた。
体が震えていた。月明かりの下で、その肌は冷たく、服は……ほとんど残っていなかった。ボロ布のような布切れが体にかかっているだけで、まるで難破船の残骸みたいだった。迷わず上着を脱ぎ、そっと彼女の上に広げた。実用的な行動だと自分に言い聞かせながら、でも違う、それだけじゃない、と心のどこかで気づいていた。それから杖を持つ手を円を描くようにゆっくりと動かして、温めの呪文を囁いた。温かい空気の泡が春花をそっと包んでいくのを見ていた。
高度な魔術じゃない。母親が子どもに教えるような、冬の夜に寒くないようにするための、ごく当たり前の呪文。
……自分も、そう教わったのだ。どこかの過去に、もうほとんど輪郭しか残っていない記憶の中で。顔を覚えていない。でも、その手の温かさだけは覚えている。
「大丈夫よ」
呟いた。聞こえているかどうかわからなかった。
「もうすぐ来てくれるわ。もう少しだけ待っていてね」
立ち上がり、地平線を見つめたまま待った。でも、心は静かではいられなかった。気づけば記憶の中を遡っていた――すべてが始まったあの日へ、何か恐ろしいことが近づいてくると直感が叫び始めたあの瞬間へ。
♢ ♢ ♢
それはマーカス・ワイルドソウルとダミラ・アッシュフォードが訪ねてきた日から始まった。
あの午後のことは今でも鮮明に覚えている。執務室で、二人が椅子に座っていた。その顔には、疲労と緊張が刻まれていた。乾き果てた遺体のこと、郊外の屋敷のこと、失敗に終わった実験のことを話してくれた。報告書を見せてくれた。写真も。断片的な情報が、まだ意味をなさないパズルのように並んでいた。
正直に言えば、あのとき何も言えなかった。
天才じゃない。大した戦略家でもない。ダミラみたいな探偵でも、マーカスみたいなハンターでも何でもない。自分はただ……自分でしかない。直感で動いて、理解する前に感じて、どうしてかわからないまま知っていることがある、そういう人間。
あの日、直感が囁いたのはひとつの言葉だけだった。
危険、と。
具体的な何かではない。明確な脅威でもない。ただ、何かが振動するような感覚。かすかな残響。認識の縁にある、暗い影。何かが奈落の縁に立っていて、もう戻れない場所へ落ちようとしている。それが何で、どうすれば防げるのか、何もわからないまま――調べ始めた。
いや、「調べた」というより、「訊いて回った」と言うべきかもしれない。アカデミー・エンディミオンの図書館へ行き、魔力に関する古い文書を手繰り、その乱用にまつわる記録を、エネルギーを奇妙な方法で扱おうとして失敗した魔術師たちの記録を調べた。
何も見つからなかった。
前例はなかった。記録もなかった。
でも、直感は黙らなかった。何かが呼んでいた。何かが、探し続けろと囁いていた。それが何かわからなくても。
♢ ♢ ♢
足音が聞こえた途端、意識が現実へと引き戻された。
闇の中からウィンターフォール一族の魔術師たちが装甲車両を降りてきた。濃い色の制服、抜き身の杖。事情を手短に説明した。春花には今すぐ医療が必要なこと、車に乗せるまではここを離れないこと。
魔術師たちは何も訊かずに従った。
直接の上司というわけでもない。でも、この「地位」というものが――求めたことも、完全には理解できたこともない、この地位が――どんな階級よりも重く作用するらしかった。彼らは丁寧に春花を運び、即席の担架に乗せ、数分後には車が夜の中へ消えていった。
一人になった。
手を上げ、風の呪文を囁くと、地面からゆっくりと浮き上がった。そのまま、柔らかな推力で飛び始めた。冷たい風が頬を撫でる。上昇しながら、また心が旅に出た。
♢ ♢ ♢
直感が二度目に燃え上がったのは、春花・ナイトシェイドの噂を耳にしたときだった。
エンディミオンの廊下で。一族たちの会議で。開発研究室から漏れ聞こえてくる会話で。誰もが彼女のことを話していた。卓越した研究者。天才的な頭脳。マジクス・テラの歴史を変えうるプロジェクト――しかし何年も滞り、保留され、忘れ去られていたもの。
そして、陰陽師との戦争が始まった。
一族の長たちは、追い詰められて、埃をかぶっていたそのプロジェクトを引っ張り出した。春花が、再び、すべての中心に立たされることになった。
直接会ったのは一度だけだった。大きな屋敷での会合のとき、偶然、洗面所で鉢合わせた。言葉は交わさなかった。ほんの一瞬、目が合っただけだった。
でも、それで十分だった。
感じたのは、憧れでも嫉妬でもなかった。もっと深いところにある、もっと内臓に近いところにある何かだった。
春花は……壊れていた。
その立ち姿に、肩の固さに、視線を逃がす仕草に、全身から滲み出る冷たさに、それが見えた。鎧のように冷たい。ひどく、ひどく孤独な人だった。
その孤独が、誰かを思い出させた。誰なのかわからなかったけれど。
必要、と思った。
理屈じゃない、衝動的な必要性。近づきたい、孤独じゃないと伝えたい、抱きしめたい、守りたい、という気持ち。娘に対するような。失った妹をやっと見つけたときのような。
馬鹿馬鹿しい。ほとんど同じ年齢なのに。
でも直感は年齢を気にしない。論理も、社会通念も、気にしない。
あの日から、見ていた。積極的に追いかけるとか、監視するとか、そういうことじゃない。ただ、意識の一部が常に彼女の動きを捉えていた。春花はほとんどの時間をナイトシェイドの屋敷か研究室に閉じこもっていること。外に出るときは義務のためだけであること。
そして、あの夜。春花が大屋敷に向かうとわかったとき、内側の何かが、「ついていけ」と言った。
♢ ♢ ♢
ウィンターフォールの屋敷の屋根に、羽のように音もなく着地した。
夜はまだ終わっていなかったけれど、疲れが瞼に重くなってきていた。横窓から入り、空っぽの廊下を歩いて、大きな居間にたどり着いた。ワインレッドのベルベットのソファに体を沈めて、深く息を吐いた。
まわりには暗い木の家具と魔力の灯りが、温かくて、どこか家庭的な雰囲気を作り出していた。
テーブルの上の本を取った。何日も前から読もうとして、なかなか先に進めていない本。しおりを挟んだページを開いた。目は文字を追っていたけれど、頭はまったく別の場所にいた。
♢ ♢ ♢
ウィンターフォール一族はさまざまな魔術の系統を専門としているけれど、最もよく知られているのは霊的魔術だ。「命」を作ること――正確には、人工的な命を。人間が言うような命とは違う。完全な意識を持つ存在ではない。特別な人形に「人工の魂」を宿らせ、その魂によって動き、単純な仕事をこなし、命令に従う。考えない。感じない。
……少なくとも、マニュアルにはそう書いてある。
でも、マニュアルが常に正しいとは限らない。
ずっと昔のこと。まだ若くて、今よりずっと垢抜けていなかった頃。誰も成し遂げたことのないことをやってしまった。人形を、喋らせた。
複雑な言葉じゃない。たどたどしい、言葉の形をした音。「ま」か「ぱ」か、そんなもの。でも、それだけで十分だった。上の人たちはすぐに「天才」と呼んだ。特別な階級に昇格させてくれた。畏敬の目で見るようになった。
ただ、どうやってやったのか、自分でもわかっていなかった。
何を違うふうにしたのか、思い出せなかった。ただ、その人形のことを玩具みたいに、小さな子どもみたいに、大事に世話していた。そしてある日、何の前触れもなく、人形が喋った。
それがリリウムだった。
♢ ♢ ♢
本から目を上げて、息をついた。
立ち上がって、まっすぐ自分の部屋へ向かった。リリウムに会いたかった。言いようのない、抑えられない気持ちだった。
部屋に入ると、すぐに見えた。
磁器の人形が棚に座っていた。ビクトリア朝風の優雅な衣装――深い青に銀の細工、袖と襟に黒いレース。プラチナブロンドの長い髪が緩やかな波を描き、青いリボンで低い位置に結ばれた二本の束に分かれていた。ガラスのすみれ色の瞳が、薄暗い灯りの下で輝いていて……まるで、マニュアルが「不可能」と断言した知性をたたえているみたいに見えた。
「やれやれ」
呟きながら、本をテーブルに置いた。
「どうやったかわからない天才ねえ。なんて皮肉かしら」
リリウムは答えなかった。どう答えればいいかわからないときは、いつもそうする。
浴室へ歩いた。自分の足音が壁にこだまする。中に入り、扉を閉めて、鏡の前で足を止めた。
映っていた顔が、見知らぬ人みたいに思えることがある。灰色の目は深くて、自分でも「どこかの誰か」の目みたいに感じる。腰まで届く暗い栗色の髪、少し癖のある柔らかなウェーブ。笑えば全然違う顔になるのに、ふだんは……厳しく見えるらしい。近寄りがたいとも。
「どうしてみんな、そんな目で見るのかしら」
自分に言った、頬に手を当てながら。
「別に怖くないのに。別に大したことでもないのに。ただの私なのに」
鏡に向かって笑みを作ってみた。悪くないと思う。温かく見える、もっと話しかけやすそうな顔になる。でも、同時に偽物みたいな気もする。お面をつけているみたいな。誤解されないように、ずっと笑っていなきゃいけないの?
いくつか表情を試してみた。真面目な顔。考え込む顔。明るい顔。また真面目な顔。最終的に諦めてため息をついた。
わかってはいる。自分と関わる人たちは、いつも緊張しているか、圧倒されているかのどちらかに見える。でも、そんなつもりは全然ない。本当はもっとおしゃべりで、もっとたくさん友だちが欲しくて、でも何故か……うまくいかない。顔のせいかもしれない。あるいは纏っている何かのせいかもしれない。何かを話しかけると、ぎこちなく返ってきて、二、三の言葉を交わした後には、みんな遠ざかっていく。
問題はそれだけじゃないのかもしれない。顔じゃなくて、自分自身が問題なのかもしれない。
エンディミオンの生徒だった頃は、もっと明るかった。あのとき何かが変わった。あの称号をもらった日から、変わっていったのかもしれない。リリウムが喋った、あの日から……。
ため息をついた。
「もう、馬鹿ね」
呟きながら浴室を出た。
「私は私よ。みんなが勘違いするなら、それは向こうの問題であって、私の問題じゃないわ」
でも、本当にそう思っているわけじゃなかった。
誰も本当の私を知らないということが、地位だけで見られるということが、この厳かな霧みたいなオーラで何もかも覆われてしまうということが――心の奥のどこかで、ずっと痛かった。
ベッドに目をやると、小さな影が待っていた。
リリウムが腕を広げていた。抱きしめを待っているみたいに。
今度の笑みは本物だった。そばに座って、磁器の頬をそっと撫でた。
リリウムの唇が動いた。子どもが言葉を覚えるときの、あの一生懸命な拙さで、一言、発した。
「……かな、し、い?」
「ちょっと悲しいわ」
認めた。リリウムをそっと胸に抱きながら、ベッドに横になった。
「春花さんのことが心配で。なんでこんなに心配なのか、自分でもよくわからないのよ。よく知っている人でもないのに。でも、あのとき彼女の目を見たら……何かを思い出した気がして」
「……だれ……を?」
「わからないの。若かった頃の私かもしれない。なれなかった私かもしれないわ」
息をついた。
「それに……みんなの見方も気になって。偉大な魔術師だとか、天才だとか、重要な人物だとか、そう扱ってくれるけれど。でも私は何でもないわよ、リリウム。ただ直感に従っているだけ。するべきことをしているだけ。それがどうして特別なことになるの、わからないのよ」
リリウムは小さく首を傾けた。それから、また拙い一言を。
「……エレノア……は……エレノア」
くすっと笑った。「それ、あんまり深くないわよ、リリウム」
「でも……ほん……とう」
「ほんとう、か」
笑いが柔らかくなった。
「そうね。ただの私、かもしれないわね。そしてそれで……十分なのかもしれない」
しばらく沈黙の中で、リリウムの銀の髪を撫でていた。それから、新たな決意とともに言った。
「明日、春花さんのお見舞いに行くわ。彼女のために何かしてあげたい。何かはわからないけれど、何かを。いい?」
リリウムが元気よく頷いた。
* * *
翌朝、太陽が完全に昇り切る前に、扉がノックされた。
リリウムはもう何時間も起きていた――人形なりの眠り方があるとしても。ベッドの上でぱたぱたと足を動かしてこちらを呼び、私が目を開けたとき、リリウムはもう小さな磁器の両手で封筒を持って待っていた。
「……何それ?」ごしごしと目を擦りながら訊いた。
「つかい……まが……もって……きた……たいせつ」
リリウムが手を伸ばして差し出した。
受け取って読んだ。
ウィンターフォールの長からだった。昨夜の一件についての報告という形の通知。
春花の容態は極めて深刻であり、物理的な負傷と精神的な摩耗により、これ以上の研究続行は不可能であるとの判断が下された。プロジェクトの停滞を何よりも恐れた各氏族の長たちは、禁忌とも言える決断を下した。
ファウスティーヌ・ナイトシェイドが監視付き追放から解放されてプロジェクトを引き継ぐこと。そして、正午にはナイトシェイドの主研究室へ移送されること。そして、私は、大屋敷での緊急会議へと召集された。
「……あの会議で何も貢献できないわ」
呟きながら、封筒をベッドサイドテーブルに置いた。
「天才たちと大魔術師たちばかりじゃない。私がいるのは……偶然か、手違いか、どちらかよ」
リリウムが近づいてきて、磁器の小さな拳でこちらの手を、こつん、と叩いた。
「……何?」思わず目を丸くした。
「……あきら……め……ない」
長い間、リリウムを見つめた。それから、笑った。
「そうね。じゃあまず春花さんに会いに行くわ。会議は後でいい」
立ち上がり、深い紺色のローブを身に纏い、リリウムを腕に抱いて、屋敷を出た。
魔術師専用の病院は、いつもより混んでいた。戦争が負傷者を運んでいた。廊下は消毒液の匂いと消耗した魔力の残滓と疲労が混ざり合っていた。しっかりとした足取りで歩いていくと、まわりの魔術師たちがまるで見えない何かに押されるように道を開けていく。
意図していない。こうしてほしいわけじゃない。
でも、あの地位が、影みたいに先を歩いていく。
「なんでみんな道を開けるのかしら……」
誰にともなく、低い声で呟いた。
腕の中のリリウムが、まわりの魔術師たちをぐるりと見渡して、ほとんど聞き取れないくらい小さな声で言った。
「リリウム……へんな……め……で……みない!!」
魔術師たちは、人形が喋ったことに仰天した。何人かはさらに後退した。別の数人が「死者の魔女」と何か囁き合いながら、足早に去っていった。
「リリウム、よかったと思ってしたの? 道を開けてほしいわけじゃなかった。もっと怖がらせたかったわけでもないのよ」
「……ごめん……なさい」
「いいわ。行きましょう。春花さんが待っているわ」
案内を求めながら、春花さんの病室のある廊下へたどり着いた。
そのとき、部屋から人が出てきた。
男性だった。背が高い。厚い縁のメガネ。レンズの輝きが目を隠していた。でも、その存在感だけで――わかった。
考えるまでもなかった。マジクス純粋だ、と直感が言った。
男はこちらをほとんど見ることもなく通り過ぎた。でも、彼のオーラが触れた。濃厚で、温かく、圧倒されそうなほど。
「あれ……だれ?」
とリリウムが訊いた。
「わからないわ」
と答えた。
「でも……きっと、ただ者じゃないわね」
それ以上気にせず、部屋に入った。
春花はベッドに座り、窓の外を見ていた。顔は青白く、目は落ち窪み、その姿勢は……深淵を覗いて、忘れることができなくなった人のものだった。
扉が閉まる音がした。春花がこちらを向いた。
目が合った。
春花の表情が、変わっていくのを見た。虚ろさから恐怖へ。恐怖からパニックへ。体が縮こまり、シーツで自分を覆い、目があちこちに泳いだ。追い詰められた動物みたいに。
「来ないで!!」
春花が叫んだ。自分のものじゃないみたいな声で。
動けなかった。
どうして……? 何をしたというの?
「春花さん、私よ。エレノア・ウィンターフォールよ。昨夜、あなたを助けたの。覚えていない?」
「来ないで!! 出て行って!! 出て行ってったら!!」
リリウムは許可を求めることもなく、私の腕の中からするりと滑り出して、ベッドの上に着地した。ぽてぽてと春花の脚のそばまで歩き、その手を自分の小さな両手で包んだ。
「しんぱい……しなくて……いい」
リリウムが言った、たどたどしく。
「エレノアは……いい……ひと」
春花がリリウムを見つめた。荒かった呼吸が、ゆっくりと落ち着いていった。恐怖に満ちていた目が、リリウムのすみれ色のガラスの瞳に吸い込まれていった。
「……何なの、あなた」と春花が囁いた。
「リリウム。ともだち」
一歩、前に進んだ。ゆっくりと、気をつけながら。
「私の小さな友だちよ」
できるだけ柔らかな声で言った。
「リリウムは喋ることを覚えた磁器の人形よ。あなたを傷つけないわ。私も、傷つけない。昨夜あなたを助けに来たのと同じように、今日も来たの。ただそれだけ」
春花はこちらを見て、またリリウムを見た。少しずつ、体の力が抜けていった。笑いもしない。何も言わない。でも、震えは止まった。
それで十分だった。始まりとして。
「また来るわ」
リリウムを腕に抱えながら言った。
「ゆっくり休んでね。きっと大丈夫よ」
部屋を出た。出口まで歩いて、曇り空を見上げた。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
虚ろな目をした男が、ワイルドソウルのハンターたちに付き添われながら一台の車へ向かっていた。
マーカス・ワイルドソウルだった。
以前、ダミラと一緒にこちらを訪ねてきたときの顔は覚えていた。でも、今気になったのは外見じゃなかった。オーラだった。
炎。押し込められた炎。今にも爆発して、広がって、触れるものをすべて燃やしてしまいそうな炎。
マーカスは他の魔術師たちと共に車に乗り込み、去っていった。
彼がいた場所をじっと見つめた。直感がまた燃え始めていた。
何かが起きている。まだ見えていない何かが。
肩に手が触れた。振り返った。
プラチナの髪。青い目。ウィンターフォールのような品格をまとった女性が、シルクのような声で微笑んでいた。マジクス純粋にしか持てない品格だった。
「エレノア・ウィンターフォール、でしょう?」
とその人が言った。
「わたくしはベアトリクス・クロス。お会いできて光栄ですわ」
瞬きした。
クロスという名前は、マジクス・テラの間でも知られていた。でも、ベアトリクスがここで何をしているのかも、自分に何を求めているのかも、わからなかった。
「何かご用でしょうか?」
と、状況にふさわしい丁寧さで訊いた。
「霊的魔術の専門家とお聞きしましたわ。マジクス・テラの中で最も卓越した方と。お力をお借りしたいのですの、あるプロジェクトのために」
「プロジェクト……ですか」
「病院の改善ですわ。魔術師たちが死んでいきますのよ、エレノアさん。この戦争がわたくしたちを蝕んでいる。より効率的な施設、より迅速な回復、より高度な治療法が必要ですの。そして、人工の魂に関するあなたの知識が……鍵になるかもしれないと思ってよ」
期待の重さが、肩に乗ってきた感じがした。天才じゃないこと、数式はわからないこと、ただ直感に従っているだけだということ、言いたかった。でも、ベアトリクスの目が言い訳を受け付けない輝きをしていた。
「ご心配なく」
ベアトリクスが名刺を差し出しながら言った。
「今すぐお返事をいただかなくてよくてよ。エンディミオンにしばらく滞在しますの。準備ができたら、いつでも」
立ち去ろうとして、最初の一歩の前に付け加えた。
「ああ、それともう一つ。一緒にお仕事できることを楽しみにしていましてよ、エレノアさん。どうかご自愛を。戦争の世ですもの。命は、とても大切なものですから……どうなってしまうのかしらねぇ」
そして、消えた。
名刺を見下ろした。ベアトリクス・クロスという名前が金の文字で刻まれていた。
ウィンターフォールの屋敷へ戻り、部屋の椅子にリリウムと一緒に座った。処理しなければならないことが多すぎた。春花。ベアトリクス。戦争。静まらない直感。
「リリウム、私にできると思う?」
プラチナブロンドの髪を撫でながら訊いた。
「……でき、る」
リリウムが答えた、いつもの拙さで。
「エレノアは……でき、る」
「あなたの自信が羨ましいわ」
しばらく黙って座っていた。それから、ある記憶が戻ってきた。大屋敷で春花を初めて見たあの日に、廊下で聞いた会話。二人の魔術師が石のことを話していた。奇妙な力を持つ石。ザイルという人物が調べているという、何か。エネルギーを抽出して、戦争を終わらせようとしているという、何か。
戦争を終わらせることができれば……と思った。試してみる価値はあるかもしれない。
「明日、エンディミオンへ行くわ。ベアトリクスさんと話す。ついでに、あの石についての情報を探してみる」
リリウムが頷いた。
リリウムを腕に抱えて、落ち着かない夢の中へと沈み込んでいった。影と囁きに満ちた夢の中へ。
* * *
翌朝、決意を固めてエンディミオンへ飛んだ。
でも、到着して告げられたのは、ベアトリクスは外出中で、数時間は戻らないということだった。
「じゃあ待つわ」
言い、あてもなく廊下を歩き始めた。
生徒だった頃の記憶が戻ってくる。あの頃はこんなに楽しかった、こんなに気楽だった、今はどこにいるかもわからない友人たちに囲まれていた。まだ生きているだろうか。まだ魔術師でいるだろうか。私のことを覚えているだろうか。
思いに沈んでいたせいで、前から来た人を見ていなかった。
ぶつかった。床に転んだ。横には、疲れた目をした男の子と赤い髪の女の子が同じように転んでいた。
「ごめんなさい」
と立ち上がりながら言った。
「前を見ていなかったわ」
「い、いえ、こちらこそ……こちらが悪いんです」
と男子が、緊張した声で答えた。
女子は呆れた目で男の子を見た。
「アキラ!! ちゃんと謝りなさいってば!! エリートの魔術師を床に転ばせておいて!!」
「でも本人が……」
「謝りなさいってば!!」
アキラと呼ばれた男子が、ぎこちなくお辞儀をした。
「大変失礼しました。本当にすみません。もう二度と……」
何でもないと言いたかった。大したことじゃないと。自分はエリートじゃなく、ただの私だと。でも、二人の固まった姿勢を見て、恐れと敬意が混ざった視線を感じて、何か別のことをしなければ、この壁は崩れないとわかった。
「怒っていないわ」
いつもより少し強めに言った。
「本当に。何でもないの。聞こえてる? 怒っていないわよ」
二人が見つめてくる。言葉が処理されていないみたいに。
ため息をついた。それから、笑った。昔の自分、誰にでも臆せず話しかけていた頃の自分を思い出しながら。
「名前を教えてくれる? 私はエレノア・ウィンターフォールよ」
「アキラ・アッシュフォードです」と男子が答えた。
「私はアリズ・アッシュフォードよ」
と女子がお辞儀しながら言った、どこかおかしみのある礼儀正しさで。
「コイツの従姉よ」
「よろしくね」
そして、二人の目に宿る悲しみに気づいた。
「何かあった?」
アキラとアリズが顔を見合わせた。それから、決意したように話し始めた。
すべてを話してくれた。陰謀のこと。戦争のこと。陰陽師のこと。黒木という人物に殺されたダミラという友人のこと。そして、彼女が遺した使命――エンディミオンの中にいる、名前のない誰かを見つけること。
黙って聞いた。聞きながら、直感が再び燃え上がるのを感じた。灯りじゃなかった。炎だった。
何かしなきゃ。直感が叫んでいる、囁くんじゃなく。
「手伝うわ」
言っていた。どこからその言葉が出てきたのか、自分でも半分よくわからないまま。
アキラとアリズが、月まで飛んで行くとでも言ったかのような目でこちらを見た。
「本当に?」アリズが訊いた。
「どうやってかはわからないけれど。何か計画はある?」
「えっと……二つほど考えてます」アキラが答えた。
「まず、その名前のない人を見つけること。それから、アッシュフォードの本家屋敷に忍び込んで、ある石を盗み出すこと」
「石?」
訊いて、心臓がどきりとした。
「奇妙な力を持つ石のことを言っているの?」
アキラとアリズがはっとした。
「どうして知っているんですか!?」アリズが言った。
答えなかった。ただ微笑んだ。ようやくずっと探していた道を見つけた人の顔で。
「その石……話に聞いたことがあるわ。手に入れる手助けができるかもしれない」
…………たぶんねぇ。
その夜、私の部屋で落ち合うことを提案した。もっと詳しく話し合いましょう、と。
「問題があって」
とアキラが言った。
「監視されているんです。出て行ったら気づかれる」
考えた。「じゃあまず二人のどちらかの部屋で話しましょう」
アリズがすかさず指をアキラへ向けた。
「なんで僕の部屋になるの?」
「あんたを私の部屋に入れるわけないでしょ! 年頃の従姉妹の部屋に入りたがるなんて、何かよからぬことでも考えてるんじゃないの? 不潔。最低」
「わかった、わかった。僕の部屋でいい……」
二人を眺めながら、思った。仲がいいじゃない。ああ、若さというのはいいものね。
その夜、アキラの部屋でアキラとアリズと落ち合った。監視をかいくぐってアカデミーを抜け出す方法は、もう頭にあった。生徒だった頃、魔術陣のすべての監視封印の場所を地図に記してくれた友人がいたことを覚えていた。風魔術で飛べばいい、それがコツだった。ただし、飛ぶときに特定のパターンに沿う必要があった。
「でも、それでも僕の問題は解決しない……。監視の呪文がかかってる」
アキラが沈んだ顔で言った。
その顔を見た。なぜこんなに若い子が監視されているのか、理由まではわからなかった。でも、助けたかった。何をするべきかは、はっきりわかっていた。
「ぬいぐるみか何か持ってる? おもちゃ、囮になれそうなもの、何でもいい」
「持ってないです……」
アリズが手を上げた。
「私が持ってる。すぐ戻る」
走って行った。戻ってきたとき、クマのぬいぐるみを持っていた。受け取り、アキラの頭から髪の毛を一本抜き、ぬいぐるみの上に置いた。宙に向かって杖の先で魔術陣を描き、呪文の言葉を囁いた。
「『無より形を得よ、命を宿せ。
魂の糸は髪より紡がれ――
リブ・アウェイクン、ソウル・バインド!』」
ぬいぐるみが動き始めた。
「ここにいてね」
小さな布の生き物に言った。
「アキラを探す呪文を受け止めていてね」
ぬいぐるみは綿の頭でこくりと頷き、ベッドに座って、何か目に見えないものを押しとどめるように力を込め始めた。
アキラとアリズが固まっていた。
「……本当に、エリート魔術師だ」
「……うん」
首を横に振った。これ、ウィンターフォール一族では基礎中の基礎なのよ。でも、説明している時間はなかった。
「本当にあれで囮になるんですか?」
とアキラが半信半疑で訊いた。
「わからないわ」
と正直に答えた。
「でも理論上は、なるはずよ」
迷っている暇はなかった。
その夜、私を先頭に、アキラとアリズはエンディミオンの監視封印をかいくぐり、風魔術で壁を越え、星の下の夜空へと舞い上がった。三人分の手をつないで、風が頬を撫でるなか、飛んでいた。直感が、初めて静かになっていた。
行ける、と思った。真実を、掘り起こせる。
……あっ、と……。
そういえば、何かしなければいけないことがあった気がする。何か。まぁ……別の何か。
まあいいか。また思い出すかもしれない。
遠くに、ウィンターフォールの屋敷が見えた。扉は開いていて、その向こうには、もうすぐ明かされようとしている秘密が待っていた。
――真実は、一つとは限らない。
隠された秘密を追う者たちは、
やがて新たな謎へと辿り着く。
眠り続ける石。
命を宿した人形。
そして、
決して触れてはならない研究。
次回――
眠る石と、小さな命。
新たな発見は、
世界の常識を静かに揺るがしていく。




