契約の刻、十字の瞳
知識だけでは、未来は変えられない。
どれほど優れた理論も、
どれほど正しい答えも、
行動へ移さなければ世界は何一つ変わらない。
静かに思考を巡らせていた者たちは、
ついに自ら動き始める。
その選択は、やがて新たな波紋を生み、
止まっていた運命を再び動かしていく。
アカデミー・エンディミオンへ向かう車の中で、広いつばのある帽子が朝の陽光から顔の半分を隠してくれていた。膝の上で指を絡め、背筋を伸ばして座っていた――まるで取締役会議に向かうかのような姿勢で。けれど、内側ではすでに思考が目的地に到着していた。論理的な経路を辿り、確率を評価し、不要な変数を排除しながら。
車窓から見える都市の景色が、アカデミーの敷地を囲む古木の並木へと変わっていくのを眺めながら、頭の中では静かに結論が固まっていた。
――まず、内部の問題を解決しなければならない。
蓮次郎の陰謀は、まだ開いたままの傷だ。首謀者は死んだ。しかし組織は生きている。メンバーたちは今も動いている――魔力を奪い、魔術師を消し、沈黙の中で存在し続けている。石へのアクセスを確保するためには、その謎の解明にすべてのリソースを集中させる必要がある。そのためにも、この網を完全に解体しなければならない。
そして、そのためには――カイト・エンバーストロムが必要だった。
カイト先生はすでに共謀者の一人を捕らえている。それは、他の誰も持っていない情報へのアクセスを意味する。残りのメンバーを特定し、居場所を突き止め、罠を仕掛けることができる。実際問題として、散り散りになったあの魔術師たちを効率的に狩ることができる唯一の人物だ。ワイルドソウル一族のハンターたちがいくら優秀でも、カイト先生が動く次元は、彼らがかろうじて見渡せる水平線の、はるか先にある。
――まず、内部の脅威を排除する。次に、外部へ。
陰陽師と黒木は二番目の標的だが、重要性は変わらない。黒木を除けば、陰陽師は魔術師の世界への接続を失う。盲目になり、方向を失う。そうなって初めて、本当に重要なことに集中できる。
石。
それが最後だ。障害をすべて取り除いた後、残された時間のすべてを注ぎ込むべき対象。
論理は完璧だった。
車がエンディミオンの正門前に停まった。いつもと変わらぬ静かな所作で降りた。アカデミーの本館が目の前にそびえている。灰色の石壁は朝の陽光を無関心に吸収していて、その無感動な佇まいが、不思議と落ち着きを与えてくれた。
中庭を横切ると、視線を感じた。学生たちの囁きが波紋のように広がっていく。それらに耳を傾けなかった――軽蔑からではなく、純粋に、その会話の中に有益な情報が一切含まれていないからだ。先生室は二階、古い理事長たちの肖像画が並ぶ廊下の突き当たりにある。
ノックはしなかった。
扉を開けると、数名の教師たちが一斉にこちらを見た。最も近い位置にいた中年の魔術師がモニターから顔を上げ、驚きと迷惑が混在した表情を浮かべた。
「カイト・エンバーストロム先生にお会いしたいのですが」
前置きは必要ない。
「カイト先生は今、授業中です。ご予約をご希望でしたら――」
「予約は必要ありません。今すぐ会いたいのです。教室はどちらですか」
教師は口を開きかけたが、何かが――私の視線か、あるいは私に先行する評判か――彼を沈黙させた。右手を示した。
「1-7教室です。ただし、授業を中断されるのは――」
すでに歩き始めていた。
一年生の棟へ向かう廊下は静かだった。1―7の扉はわずかに開いていた。押し開けると、蝶番の軋む音がカイト先生の声を遮った――魔力の運用理論についての説明の、ちょうど中ほどで。
三十対の目が一斉にこちらを向いた。認識が走った学生たちから、さざ波のように囁きが広がる。
「春花・ナイトシェイドだ……」
「なぜここに……」
「授業を教えに来たのかな……」
聞こえていたが、耳には届かなかった。視線は黒板の脇に立つ人物に向いていた。両手をポケットに突っ込み、いつものサングラスをかけたカイト先生。目は見えない。それでも、こちらを見ているのがわかった――周囲の空気が密になる、その微かな変化で。
「やあやあ」
とカイト先生は言った。声のトーンが、おかしさと大げさな驚きの間で揺れていた。
「春花・ナイトシェイドが僕の謙虚な教室に。光栄だね。個人授業を受けに来た? それともお昼ご飯を持ってきてくれた?」
答えなかった。
「違う? じゃあ……愛の告白? あいにく僕はとっても忙しい男でね、デートは数週間前から予約制なんだよ」
腕を組んだ。表情は動かさなかった。学生たちが息を詰めた。
カイト先生はチョークを手に、わざとらしく声を張り上げた。
「さーて! 有名人がいらっしゃいました! みなさん、拍手して差し上げて」
まばらな笑いと拍手が起きた。誰かが後ろの方で「さすが春花様……」と呟いた。
……この人は今、何を言っているの。
黙ったまま、教壇に向かって歩いた。笑みも返答もない。ただ沈黙だけを纏って歩いた。私が反応しないほど、カイト先生はますます楽しそうになった。
「おっと、リアクションなし! 先生のジョークが通じない子だよこれは!」
また笑い声が上がった。
……本当に、馬鹿なのかもしれない、この人。
「カイト先生、二人で話す必要があります。個別に」
カイト先生はわずかに首を傾けた――その仕草に、一瞬だけ何かが宿った。計算、かもしれない。
「個別に、ね。春花さん、それは誤解を招くよ」
「先生には重要な用件があります」と答えた。退かなかった。
沈黙が伸びた。サングラスの奥で、何かが変わった気がした。カイト先生は小さくため息をついた。それから振り返り、教室全体に言った。
「はい、みんな教科書出して。第四章読んどくこと。戻ったら質問するから。ちゃんと成績に入れるよ」
不満そうなざわめきが広がる中、カイト先生は扉の方へ歩いてきた。私の傍を通り過ぎる瞬間、声を落として言った。
「三分。外で待ってて」
頷いた。廊下に出て、中庭が見える窓の脇に立った。
一秒、二秒、三秒――
ちょうど百八十秒後、背後に気配を感じた。
「図書館にしよう。今の時間、誰もいない」とカイト先生は言った。返事も待たずに歩き出した。
二人並んで歩いた。沈黙は不快ではなかった。図書館は石材とステンドグラスで構成された重厚な建物で、何世紀分もの魔法的知識を内側に宿している。カイト先生が案内したのは古代史のコーナー――棚が埃をまとった衛兵のように立ち並び、光が斜めの角度から差し込む、人気のない一角だった。
誰もいない。それでいい。
カイト先生は棚に背を預け、腕を組んだ。授業中の笑みは、完全に消えていた。
「で、春花さん。なんで来た?」
遠回しにする理由はなかった。
「共謀者の網を完全に解体したいのです。一人残らず。そのためにはあなたの協力が必要です、カイト先生。すでに一人を捕らえたということは、他の者たちへの糸口を持っているということ。あなたが鍵になります」
カイト先生はすぐには答えなかった。眉がわずかに寄っているのが、サングラスの上から見てとれた。
「春花さん」
と、やがて彼は言った。
「僕がやったのは軽いひと押しだよ。駒が動き始めるための、ちょっとした揺さぶり。組織的な狩りの軸になりたかったわけじゃない」
「でも、今はそうなっています」
「……なりたいとは思ってないけど」
「では、何故なりたくないのですか」
カイト先生はしばらく黙った。指が腕の上を、不規則なリズムで叩いた。彼のあの完全な落ち着きとは少し違う動きだった。
「動かないことも、一つの選択です」と続けた。
「そして、動けるのに動かないことは、ある意味共犯になります。カイト先生は、この魔術師の社会の一員です。その存在から、その沈黙から、その隠蔽から恩恵を受けている。もし共謀者たちが目的を達成したら――マジクス・テラの強制進化であれ、陰陽師の手による絶滅であれ――すべてが崩れます。あなたの日常も含めて」
彼の言葉に反論せずにはいられなかった。
「僕が日常を気にしてると思う?」
「あなたが気にしているのは、退屈しないことだと思います。そして今、この混乱は、もう楽しくないはずです。危険になってきた。どう終わるかわからなくなってきた」
「……いつから正義の味方になったの、君は」
「正義の味方ではありません。高貴な目的のためではなく、効率のために動いています。その先にある可能性のために」
「じゃあ、僕には何のメリットが?」
「均衡です。あなたが動かなければ、天秤は混沌へ傾き続けます。共謀者は動き続け、陰陽師は力をつけ、そしてすべてが爆発したとき、あなたも巻き込まれます」
「巻き込まれてもいいけど」
「本当に? 巻き込まれたら、もう観客ではいられなくなります。そして、あなたは観客であることを楽しんでいる」
カイト先生はまた黙った。指の動きが止まった。
「断ったら?」と、しばらくしてから聞いた。
「ここまで来た時間が無駄になります。私は時間を無駄にしません」
重い沈黙が降りた。魔力ではなく、人間的な緊張感がそこに満ちていた。カイト先生の視線を感じた――サングラスで見えなくても、それは確かに存在していた。
一秒。二秒。一分。二分。
それから、カイト先生が棚から離れた。ゆっくりと、儀式的な歩みで近づいてきた。退かなかった。彼が十分に近くなり、そのサングラスに窓の反射が見えるほどの距離になったとき、内側で何かが張り詰めた。恐怖ではなかった。別の何かだった。
「本当に確かなの?」
とカイト先生は囁いた。
「そのプランが何かを均衡させると? 君の介入が、防ごうとしているものをまさに引き起こしてしまわないと?」
「確かです」
「もし違ったら? もしただ、じっとしていることが怖くて駒を動かしているだけだとしたら?」
血流が速くなるのを感じた。怒りからではなかった。その問いが、自分でも踏み込まなかった場所に触れたからだ。必要以上の間を置いてしまったと、後で思った。
「恐れていません。誰も、何も」
カイト先生はゆっくりと首を振った。
「わかってないよ、春花さん。何を頼んでいるか。エンバーストロム一族は、他とは違う。マジクス・テラでも、血の中にマジクス純粋の残滓がある。それが僕たちを……違うものにする」
ゆっくりと、サングラスのフレームに指を添えた。
「なぜいつもサングラスをかけているか知ってる? なぜめったに人間社会に出ないか?」
「エンバーストロム一族の全員の目に紋様がある。瞳の中に十字が刻まれている。それは秘密でも何でもありません、カイト先生」
カイト先生がサングラスを外した。
思わず息が止まった。
その瞳は深い青だった――ほとんど吸い込まれるような色。そして瞳孔の中心に、白い十字が、ガラスに刻んだかのような鮮明さで浮かんでいた。美しく、そして恐ろしかった。
「秘密じゃないのは、この紋様が存在することだよ。でも、何を意味するかは秘密だ。マジクス純粋との繋がりの残像。それが僕たちに与えてくれるのは……他の者には見えないものが見える力だ」
カイト先生がさらに近づいた。気が付いたとき、体が反射的に数センチ後ろへ引いていた。それに気づいたのが、少し後になってからだったのが癪だった。
「何が見えるのですか」
答えられなかった。どんな言葉も、不十分に思えた。
「先生として教えてあげよう、知らないことを。僕たちが見えるものは、文字通りの視覚ではない。未来でも思考でも嘘でもない。でも……繋がりが見える。因果が見える。他の者が偶然と呼ぶもの同士を結ぶ糸が。君が共謀者の解体を決め、僕を必要だと判断したとき、その糸が動いた。ここに来ることが見えた。僕に話しかけることが見えた。そして……」
一拍置いた。
「……ファウスティーヌを思い出すところが見えた」
その名が、水面に落ちた石のように、二人の間に沈んでいった。
全身の筋肉が、意思に反して固まった。長い時間をかけて閉ざし、鍵をかけ、海の底に沈めてきた扉が、今、蝶番ごと引き剥がされたような感覚だった。恐怖ではない。もっと根源的で、もっと原初的な何かだった。誰かに、剥き出しにされた感覚。
「その名前を口にしないでください……」
と言った。自分の声だと思えなかった。
「なぜ? 痛いから? かつて同じ夢を共有していた人を失ったことを、思い出させるから?」
「黙ってください……」
カイト先生は黙らなかった。
「ファウスティーヌ・ナイトシェイド。君の先輩。君の友人。ナイトシェイド一族で唯一、君の変身への執念を理解していた人。一緒に首輪を研究し、変異の魔導具を作り、マジクス・テラとマジクス純粋と人間を一つの社会に統合する構想を描いた。そうだろう?」
怒りが喉を昇ってくるのを感じた。指が、何かを掴もうとするように曲がった。それでも動かなかった。彼に制御を渡すつもりはなかった。
「ファウスティーヌは七賢者に裁かれた。追放された。研究は没収された。そして君は一人残された――夢と、その夢に誰も二度と協力しないだろうという確信と共に」
「……終わりましたか」と聞いた。可能な限りの冷たさで。
「まだだよ。一番大事なことが残ってる」
カイト先生がもう一歩近づいた。顔が触れそうなほどの距離になった。
「なぜ春花さん、僕があの時、君に話したと思う? 君のプランが無謀で、封じようとしているよりも多くの混乱を引き起こすかもしれないと知りながら、それでも協力しようと思ったか。君の論理のためじゃなかった。君の合理性のためでもなかった。ファウスティーヌを思い出したときの、君の目に見えたものためだ」
足元が揺れるような感覚があった。
「永遠に癒えない傷が見えた。消えていない野心が見えた。そして……狂気と紙一重の、決意が見えた。君は危険だ、春花・ナイトシェイド。自分が思っている以上に。だから味方に置いた方がいい。敵に回したら――」
言葉を続けなかった。続ける必要もなかった。
カイト先生が距離を取り、サングラスを戻した。その笑みが戻った――でも、今回は目まで届いていなかった。
「わかった。手伝う。でも僕のやり方で。文句は受け付けないよ」
頷いた。何も言わなかった。
悪魔と契約した、と思った。
でも、その悪魔が夢への道を切り拓いてくれるなら――それでいい。
その夜、執務室で報告書を精査していると、紙で作られたフクロウが窓から入ってきて、文机の上に何かを落として行った。
カイト先生からだった。
『明日は慌ただしい一日になる。ゆっくり休んでおくこと』
……意図が読めなかった。けれど珍しく、その言葉に従うことにした。早めに就寝した。
* * *
翌朝、扉を叩く音で眠りから引き上げられた。入室を許可すると、現れたのは使用人の一人だった。緊急の知らせがある、と言った。一族の長からの指示で、すべての魔術師に送られたメッセージを確認するようにとのことだった。
視線を向けると、重要な知らせを運ぶ役割を担う空間の使い魔――梟 が、棚の上でくちばしに文を載せて待っていた。取り上げた。
ワイルドソウル一族が、共謀の一件を魔術師社会全体に公表したらしかった。
内容は明快だった。
蓮次郎・アッシュフォードが複数の一族に対して謀を巡らせていた。魔力を奪い、魔術師を拉致し、魔力を任意に生成・注入できる機械を構築していた。彼は死亡した。機械は行方不明。元ハンターの黒木ワイルドソウルがその消失に関わっており、さらに何世紀もの間、秘密裏に生き延びてきた人間の魔術師の組織――陰陽師と結託している、と。
外出の準備を整えながら、その報告書を読んだ。
文体は乾いていた。効率的で、不必要な感情を排した、情報のみを伝える文章。けれど含意は膨大だった。各一族は警戒態勢に入っている。ワイルドソウルのハンターたちは全国に展開している。そして蓮次郎の網に属していた魔術師たちは今、自分たちが狩られていることを知っている。
――良い。
服を広げながら、心の中で考えた。
逃げ場がないと知れ。焦りを感じろ。焦りはミスを生む。
スマートフォンが振動した。カイト先生からだった。
『餌は用意できた。今会おう』
返信しなかった。必要なかった。
着替えを済ませてカイト先生に会いに向かおうとしたとき、使用人が扉を叩いた。客がある、と言った。
今は時間がない、と答えようとした。
「訪問はカイト・エンバーストロム様です」
……予想していなかった。
カイト先生を茶室へ通した。二人きりで、邪魔が入らない空間。
「なぜ魔術師社会全体にこれほど突然公表したのですか」
カイト先生は肩をすくめた。その笑みは、相変わらず、すべてを軽く扱っているように見えた。
「さあねえ。でも遅かれ早かれそうなる話だったよ。それより、これを利用しよう。餌を撒く」
「何を企んでいるのですか」
「まあまあ、これほど頭の切れる人がそれくらいわからないかな」
……挑発だった。そして、実際にわかった。
今頃、共謀者たちは動揺しているはずだ。カイト先生はその混乱に乗じて、偽の情報を流し込み、一点に集めようとしている。
「その通り」
とカイト先生が言った。
「偽の伝達を共謀者たちの間に流す。全員が同じ場所に集まるように誘導して、一網打尽にする。それが計画だよ」
「どうやってそのメッセージを広めるのですか。共謀者が誰かを把握しているのですか」
「半分はそう、半分は違う。五分五分ってところかな」
「……わかりにくいです」
「僕は先生だよ。説明は理解してもらわないと」
詳細な方法論を追うことは、もはや必要ではないと判断した。重要なのは効率だ。カイト先生の手法がどうであれ、機能するかどうかだけが問題だった。
その日の夕方、スマートフォンにメッセージが届いた。
偽の伝達は共謀者たちの間に流した。港近くの廃倉庫に集まるよう誘導した。ワイルドソウル一族のハンターたちにも連絡を入れ、捕獲作戦を調整した。
実行は翌夜。
* * *
夜が喪服のように街に降りた頃、杖を手に、港近くの廃倉庫の外周に立っていた。両脇には純白の装束を着たワイルドソウルのハンターが十二名。彼らの触媒――銃の外観を持つ空間魔術の道具が、まだ機能している街灯の下でかすかに光を反射していた。カイト先生は隣にいた。ポケットに手を入れ、サングラスをかけたまま、何かを楽しんでいるような、いや、楽しむほどでもないような、奇妙に凪いだ表情だった。
「春花・ナイトシェイド様、ご協力感謝します」
と、指揮官が軽く頭を下げた。
「作戦準備完了。カイト先生が特定した裏切り者たちは全員、内部に集結しています」
「何名ですか」
「十四名。カイト先生が識別したすべてです」
頷いた。それ以上は言わなかった。
倉庫への突入は特殊作戦のように整然としていた。ハンターたちが楔形の陣形を組み、死角を潰しながら、コンクリートの床を音もなく進んでいった。私はその後方に控えていた。杖は手に握っている。唇は閉じている。
共謀者たちは倉庫の中心で、折り畳みテーブルを囲んでいた。地図と書類が散乱していた。見張りもなかった。罠もなかった。カイト先生の餌は、あまりにも効きすぎた。
「止まれ! ワイルドソウル一族の名において、全員拘束する!」
混乱が爆発した。杖が持ち上がり、魔術が飛び交い、倉庫が光と音で満ちた。入り口から全体を観察しながら、動かずに状況を評価した。共謀者たちは熟練していた。しかし準備が足りていなかった。数と訓練においてハンターたちが優っていた。
背後にカイト先生の気配がした――気づいたときにはもう、彼の息が耳の傍にあった。
「今すぐ終わらせようか。それとも、このまま観てる?」
振り返り、眉を寄せた。
「なぜ今、私の許可を求めるのですか」
カイト先生は肩をすくめた。
「さあ。楽しいから、かな。君の反応を見るのが面白いから、かもしれない。それに」
――その笑みがわずかに変わった、鋭さが混じって。
「君が僕を巻き込んだんだ。今度は僕が君を巻き込む番だよ」
それから一息置いて、言った。
「君の過去を見た、春花さん。ファウスティーヌを見た。何を成し遂げようとしているかも見た。どこまで行く気なのか、知る権利があると思うけどね」
背筋に走るものがあった。寒さではなかった。
カイト先生はジャケットから杖を取り出した。暗い木材に銀の象嵌が施された杖。倉庫の中心へ向かって歩き始めた。走らなかった。急がなかった。ただ歩いた――夕暮れの窓辺へ向かうような、ゆったりとした歩みで。
共謀者たちが気づいた。武器を向けた。しかし何かが、彼らを止めた。言葉ではなかった。訓練でもなかった。ただその存在に、光が退いているような気がする、その何かが、彼らの体を縫い止めた。
カイト先生が杖を上げた。詠唱はなかった。身振りもなかった。ただ杖を向けた。
透明で、静かで、ほとんど見えない、エネルギーの波紋が倉庫全体に広がった。
共謀者たちが崩れ落ちた。人形のように。何人かは意識を失い、何人かは全身を拘束する術式に絡め取られて床でもがいていた。
十秒かかっていなかった。
カイト先生が振り返り、入り口に立っていた私を見た。初めて、その笑みが嘲弄に聞こえなかった。
「契約は契約だよ」
と言いながら、杖をしまった。
「悪魔に署名したんだ、春花さん。後悔しないといいね」
返答しなかった。
ハンターたちが共謀者たちを拘束し、装甲車に乗せていくのを見ながら、何かが内側で動いた。
後悔はしない、と思った。できない。
* * *
翌朝、エンディミオンの廊下を歩いていた。目的はカイト先生との打ち合わせ、次の段階の調整。しかし教員棟の近くに差し掛かったとき、足が止まった。
物理的な障害ではなかった。魔術的な結界でもなかった。
気配だった。
一度も感じたことのない種類の気配だった。しかし、何なのかは、即座にわかった。
密度があった。暖かかった。全体的に。まるで空気そのものが重くなったような。
廊下の向こうから、一人の男が歩いてきた。
背が高かった。カイト先生より高い。肩幅があり、その姿勢は自己証明を必要としない種類の自信を漂わせていた。暗い色の衣服を纏っていた――現代的でも古風でもなく、時代を超えた何かを感じさせる裁断で。太いフレームの眼鏡。唇には、穏やかで、ほとんど父性的な笑みが浮かんでいた。
心臓が、いつもとは異なる力で脈を打ち始めた。
――魔法使い。
本物の。
マジクスの世界に住む者。
なぜ、ここに?
男が目の前で止まった。最初から待っていたかのように。ゆっくりと頭を下げた。
「君が、春花・ナイトシェイドですか」
その声は絹のように柔らかかった。しかしその柔らかさの下に、声を荒げなくてもあらゆる場を制することができる何かが、確かに在った。
「私はアザエルと申します。この危機の解決を支援するために、マジクスの世界から遣わされました。君のことは、多く聞き及んでいる。君の変身への志も、その研究も」
何と答えるべきか、言葉が見つからなかった。言葉がないからではなかった。言葉が多すぎて、どれも不十分に感じられた。
アザエルは微笑んだ。沈黙を理解しているかのように。
「ご心配なく。カイト・エンバーストロムとはすでに話しました。改めてゆっくりお話しする機会があるでしょう。あなたのプロジェクトを知っています、春花・ナイトシェイド。変身への執念を。そして、互いに手を貸し合える部分があると、私は思っています」
返答を形成しようとしたとき、肩に手が置かれた。
体が反応した。振り返った。
カイト先生がいた。サングラスをかけて、笑みを浮かべて。しかし今回の笑みは、何かを含んでいた。警告かもしれない。あるいは興味か。
「考え事に迷子になってた、春花さん? らしくないよ」
「……何故ここに?」
「探してたから。昨夜の件、ひと段落じゃないよ。続きの話がある」
アザエルを見た。カイト先生を見た。それから再びアザエルを見た。
状況が、予測していたより複雑になっていた。
けれど何も言わなかった。ただ頷いた。カイト先生の後に続いて、空き教室の一つへ向かった。
思考が動き始めていた。新たな経路。新たな変数。新たな可能性。
この世界は待ってくれない。
私が動かなければ、別の誰かが動く。
その余裕は、持てない。
――一つの謎が解けても、物語は終わらない。
真実へ近づくたび、
新たな疑問が姿を現す。
敵の正体。
受け継がれてきた想い。
そして、未来へ託された夢。
次回――
継承される意志。
過去と未来が交わるとき、
新たな可能性への扉が開かれる。




