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魔法が複雑すぎる世界で、俺だけAIを使える件 〜圏外なのにAIが動くので、呪文をプログラム化して無双します〜  作者: 月の位相
術負け病編

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第97話 全部を見ない勇気

 触れ札の試験導入は、王都役所の一部部署と学校関係者に絞られた。

 いきなり王都じゅうに配る案も出たらしい。

 だが、それは止めた。

 新しい札は、仕組みより先に不安が広がる。

 不安は、たいてい札より速い。


 朝の役所には、触れ札を受け取るための小さな机が置かれていた。

 人は少ない。

 間隔は広い。

 それでも、空気はざわついている。


「これ、監視の札じゃないのか」


「持っていないと怒られるのか」


「知らせ印を出したら、病持ちだと知られるんじゃないのか」


 声は小さい。

 だが、確かにある。

 当然だ。

 人は、自分に関する情報がどこへ行くか分からない時、正しく不安になる。


———

 私は机の横で説明を繰り返した。

 派手な実演ではない。

 ほとんど同じ言葉を、相手ごとに何度も言う。

 こういう仕事は地味だ。

 だが、地味な説明を省くと、あとで大きく燃える。


「これは犯人探しの札ではありません」


 役人が眉をひそめる。


「誰が誰と会ったかを王都に教える札でもありません」


「本当に王都は見られないのですか」


「触れ札の手元記録は、持ち主の札の中にだけ残ります」


「知らせ印は」


「感染が確認された人が、最近の自分の移ろい印だけを出します。名前や行き先を出すものではありません」


「それで十分なのですか」


「十分ではないこともあります」


 そこは曖昧にしない。


「持っていなければ記録できません。近くにいたことしか分かりません。壁越しや一瞬のすれ違いには限界があります。知らせは可能性であって、確定ではありません」


 役人が少し驚いた顔をした。


「万能ではないのですね」


「万能ではありません」


 私は言った。


「ただ、『全員止めるしかない』を減らすための札です。早く気づいて、必要な人だけ動けるようにする」


 役人は触れ札を見た。

 小さな木札だ。

 王都の未来を全部背負うには、ずいぶん軽い。

 それでいい。


———

 学校でも、試験導入が始まった。

 講堂の入口に、小さな受け渡し台が置かれている。

 学生たちは順番に触れ札を受け取り、首紐に下げたり、腰袋へ入れたりした。


 当然、忘れる者もいる。


「触れ札は」


「寮に置いてきました」


 ルドーが短く言った。


「取りに行け」


「今からですか」


「今からだ」


 短い。

 遠話鏡越しでなくても逃げ道がない。


 リゼは自分の触れ札を指で弾いた。


「鍵と同じね。持っていなければ、仕組みがあっても家に入れない」


「記録も残らない」


「面倒」


「面倒だ」


「でも、持つ意味は分かる」


「それが大事だ」


 別の学生が不安そうに言った。


「これで接触の可能性が出たら、みんなに知られるのですか」


「知られません」


 私は答えた。


「触れ札が持ち主に知らせます。必要なら休む、相談する、近い者に気をつける。それだけです」


「でも、休んだら分かるのでは」


「完全に隠せるわけではありません」


 そこも正直に言う。


「だから、知らせを恥にしない運用が要ります。注意が出た人を責めない。休むことを罰にしない」


 ルドーが頷いた。


「責めるな」


 短いが、重い。


———

 最初の知らせ印が出たのは、その翌日だった。

 王都役所の文書係の一人に術負け病が確認された。

 本人はひどく気にしていたらしい。

 自分の知らせ印を出せば、周りに迷惑をかけたことになるのではないか。

 そう思ったのだ。


 私は王城術務室で、その話を聞いた。


「迷惑ではありません」


 技術者に言う。


「知らせ印を出すことで、必要な人が早く動けます」


「ですが、本人が恥だと」


「恥にしない制度にしてください」


 私は言った。


「病にかかったことではなく、知らせずに広げる方が困る。そう扱うべきです」


 技術者は深く頷いた。


 知らせ印が公開された。

 名前ではない。

 最近の移ろい印の束だけだ。

 役所の触れ札が、それぞれ手元で照らし合わせる。


 一致した者が三人出た。

 文書係二人と、別部署へ書類を運んだ若い役人一人。

 三人は早めに休み、遠話鏡で最低限の引き継ぎをした。


 文書係全体を止めずに済んだ。

 役所全停止にもならなかった。


 それは派手な勝利ではない。

 だが、社会が倒れないための勝利は、だいたい派手ではない。


———

 学校でも、同じことが起きた。

 ある学生の触れ札に注意が出た。

 前日に、感染が確認された役所の若い役人と配給所で近くにいた可能性があった。

 学生は慌てた。

 講義に出ていいのか。

 寮へ戻るべきか。

 自分は悪いことをしたのか。


 私は遠話鏡で話した。


「悪いことではありません」


「でも、札が光りました」


「危うさの可能性を教えただけです」


「病ですか」


「確定ではありません」


「どうすれば」


「今日は講義へ来ず、離れ講義にしてください。寮の担当に相談し、必要なら休む」


 学生は何度も頷いた。

 画面の向こうで、顔が少し落ち着いた。


 その講義は、予定通り続いた。

 講堂全体を閉じずに済んだ。

 学校全閉鎖にもならなかった。


 リゼが隣で小さく息を吐いた。


「全部止めるしかなかったところを、少し分けられたのね」


「そう」


「危なそうな人だけ早く休める」


「それが目的だ」


「札で病を治してるわけじゃない」


「治してはいない」


「でも、暮らしを全部止めない役には立つ」


「かなり立つ」


———

 もちろん、限界も見えた。

 触れ札を忘れた者の記録は残らない。

 札を袋の奥に入れたままだと、近くの札を拾い損ねることがある。

 壁一枚を挟んだ近さを、札がどう扱うかで揉めた。

 一瞬のすれ違いで光った札に、怯えすぎる者もいた。


 万能ではない。

 厳密でもない。

 知らせはあくまで可能性だ。


 私は、そのたびに同じ説明をした。


「これは確定を出す札ではありません。早く気づく札です」


 王都の役人は疲れた顔で頷いた。


「それでも、全員を止めるよりはましです」


「はい」


 人を責める札にしてはいけない。

 往来を暴く札にしてはいけない。

 危うさに早く気づく札にする。

 その線を守ることが、技術より難しい。


———

 夕方、市場の端で、小さな噂が流れていた。

 新しい治癒術式の報せだ。

 魔法医学者の一団が、術負け病に効くらしい型を報告したという。


 これまでの治癒術は、人体の抵抗を押し上げて病をしのぐものが多かった。

 体の側を強める。

 熱を散らす。

 傷をふさぐ。


 だが、今回の報せは違うらしい。

 病の元そのものへ直接働きかける。

 まだ試しは始まったばかり。

 数も足りない。

 効き目も確かめきれていない。

 それでも、街の空気が少し変わった。


「本当なら、ようやくこの地獄にも終わりが見えるかもね」


 リゼが市場の灯りを見ながら言った。


「本当に効くなら、大きい」


「慎重ね」


「断言できない」


「でも、少し明るい」


「そうだな」


 久しぶりに、王都の夕方が少しだけ柔らかく見えた。

 病が去ったわけではない。

 明日から急に元通りになるわけでもない。

 だが、人は出口の気配だけで、少し呼吸が楽になる。


———

 夜、リゼの家の台所で、私は触れ札を机に置いた。

 小さな木札。

 そこには、誰の名前もない。

 誰の行き先もない。

 ただ、必要な時だけ危うさを知らせるための印がある。


「全部を知らなくても守れることがある」


 リゼが言った。


「ある」


「逆に、全部を知ろうとすると壊れるものもある」


「ある」


「信頼とか」


「かなり壊れる」


 リゼは椀を片づけながら、小さく笑った。


「恋人同士でも、全部見せろって言われたら嫌だものね」


「またその方向へ持っていくのか」


「分かりやすいでしょ」


「分かりやすい」


 私は触れ札を指で押した。

 薄い光が一度だけ灯り、消えた。


 情報を扱う術は病を直接治さない。

 熱を下げるわけでも、咳を止めるわけでもない。

 だが、誰を休ませ、誰を動かし、何を止めずに済ませるかを助けることはできる。


 医学は病の元へ向かう。

 情報の術は、暮らしを止めすぎないために働く。

 別々の方向から、同じ社会を支える。


 ルドーが昼に言った言葉を思い出す。


「見すぎぬ仕組みもまた、知恵だ」


 たぶん、その通りだ。

 全部を知る必要はない。

 足りるだけ知れれば、守れることもある。

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